読   書   日   記

私が日々目を通す書物に対して、私の今の視点と、了解できない観点を書き抜き、それをどのように理解すると、私の了解になるかを目的に日記風に綴っていきたいと思います。

−−−−−−−−2002年07月07日−−−−−−−−

「は」と「が」! 野田尚史 くろしお出版 新日本語文法選書1

「私は、会長です」と「私が、会長です」はどう違うかといった「は」と「が」の使い分けは、日本の文法の中で、最も難しい問題として、これまで多くの研究が行われてきたが、「定説」はまだ確立されていない。
−−「は」と「が」について、主語を表すという、一つの考え方は、そのような使い方が在ると言う事を証拠に提出されたが、しかし別の使い方に対しては、主語では説明つかないと言う事なのです。

第1部 「は」と「が」の基本的な性質 

 第一章 「は」の基本的性質


(1)子供達が、カレーを作っています。
名詞の表す人やものが、動詞のあらわす動作の主体であるか、対象であるのかと言った言った関係を「格」と言う。「は」や「が」は、このように格をあらわす助詞である。
(2)子供達は、カレーを作っています。
(3)カレーは、子供達がつくっています。
この場合の「は」は、助詞はのつく名詞を、動作の主体になつたり、動作の対象になったりするのです。
(4)河原では、子供達がカレーを作っています。
(4−1)河原で、子供達がカレーを作っています。
動作をおこなわれる場所を表しているが、動作の場所の格を表しているのは「で」であり、「は」は格を表していない。「は」は、「が」や「を」や「で」などと違い、格を表す助詞ではない。

(5)子供達は、カレーを作っています。
(6)カレーは子供達が作っています。
二つの文は、事実としては全く同じ事をあらわしている。
−−二つの文があり、それが対象とするものは、或いは指し示すモノは、同じ一つのモノであるが、その同一のモノに対する捕らえ方の違いが、二つのぶんとして表現されている。どちらの文も対象に対する捕らえ方を表現しているのであり、対象を<子供達><カレー><作る>と言う語彙として表し、その対象の関係をどの様に捕らえたかは、助詞といわれる<で><を><が>で表すのです。この時、(5)も(6)も、対象の捕らえ方を表しているのであり、さらに相互に比較することで、捕らえ方の違いが理解出来るのです。作るという動作とその動作の主体と、動作の目的物と言う関係に対して、普通は動作の主体の観点から捕らえられたものが、(5)のような文として表現されるので、あたかも対象は動作の主体中心に出来上がっているかの様に考えられてしまっているのです。対象の捕らえ方とは以下のようになる。
(5)は聞手が子供達について知りたがっている様な状況ではなされ、(6)は聞手がカレーについて知りたがっている様な状況でなされる。そこで、「は」は聞手にとって関心が在りそうな名詞の後について、その名詞がその文の「主題」である事を示す働きをするのだと、とりあえず、言う事ができる。
−−「主題」と言う考え方:対象に対する捕らえ方が何を中心になされているのかによって、表現する時の方法が規定される事。<主体><動作、状態><目的>の関係において、それらのどれが中心になって関係付けられるかが、認識なのでリ、科学とはその関係の本質から、各関係を現象として把握する過程をいうのである。
日本語において、言葉の特性の探究は、和歌の作成時に、どの様な言葉の使い方が、和歌表現として適切かと言う問から生まれて来た。そこから現代助詞と言われている<て、に、を、は>が、名詞等の語彙を連結する紐のように比喩的に語られているのです。それに対して、明治に入ってから外国語の文法研究が入って来ると、言葉は<主語、目的語、補語等>として分析されている事を土台にして日本語の文法が研究されたのです。そこから生まれて来たのが、<は、が>が、主語を表すと言う説明なのです。しかしこの説明だけでは、説明きれない<は、が>の使い方があり、それを含めて新しい説明を考えたのです。それが<主題>と言う事なのです。<は>は、主題を表すのだと言う事なのです。この主題と言う考え方は英語の文法における<格>と言う考え方から手を切ってしまっているのです。つまり、日本語には<格>と言う考え方では説明出来ないものがあると言う事なのです。

(5)の「子供達は」は、子供達と言う動作の主体を表す格の名詞が主題になったものであり、(6)の「カレーは」は、カレーと言う動作の対象を表す格の名詞が主題になったものである。

(7)子供達は、カレーを作っています。主題をたてた文
(8)子供達が、カレーを作っています。主題を立てない文
−−両方ともカレーと言う目的物を作ると言う動作の主体として、子供達が捕らえられているが、前者が主題としての子供達であるとして、後者はどんな規定を与えられているかと言う事になる。<子供達とカレー作りの>間の関係であり、前者は子供達と言う対象について、カレー作りと言う側面が表現され、後者はカレー作りと言う対象について、それを実施しているのが、子供達であると言う事になります。<カレーを作る>と言う事に対して、その作る主体を示すのが、<が>に依る表現なのであり、話題や主題と言う事であれば、<作る>ということであり、作る主体が、対等に在る個別的な人々のうち、子供達としてとりあげられているのです。
<動作の主体と動作と目的物>と言う対象の関係がとわれている。動作の主体が複数確認され、その複数の主体の内、ある一つの人やある集団と、多数の動作、多数の目的物、を前提にして考えられている。まず(7)の場合、<カレーを>と言う事で、多数あってもそれらは無視されあくまでもその一個のモノが目的にされている。また作る主体としての<子供達>について、そこには大人達もいるのであり、そう言う人達の中にとして子供達がいるのが、客観的なあり方です。子供、大人、女、男等のあり方としているのが私達の存在です。その様な存在に対して、子供と言う他のものから区別された存在の特性として<作る>と言う活動が取り上げられている。
それに対して(8)の場合、多数ある動作の内のうち<カレー作り>と言う動作の主体として子供が捕らえられている。<子供、カレー作り>と言う事実に対して、子供と言う存在の特性として<カレーを作る>と言う事がとりあげられている。つまり、<カレーを作る>のであれば、他者でもいいのであり、たまたま作っているのが、子供であると言う事です。
<主体と動作と目的>と言う関係は、<主体が、目的を動作する>と言う事であり、その選び方は6通りが成立している。
(1)一般的主体−特定の目的−特定の動作・・子供が、カレーは、作っては、いる。
(2)一般的主体−特定の目的−一般的動作・・子供が、かれーは、作って、 いる。
(3)一般的主体−一般的目的−一般的動作・・子供が、カレーを、作って、 いる。
(4)一般的主体−一般的目的−特定の動作・・子供が、かれーを、作っては、いる。
(5)特定の主体−特定の目的−特定の動作・・子供は、カレーは、作っては、いる。
(6)特定の主体−一般的目的−特定の動作・・子供は、カレーを、作っては、いる。
(7)特定の主体−特定の目的−一般的動作・・子供は、かれーを、作って、 いる。
(8)特定の主体−一般的目的−一般的動作・・子供は、かれーを、作って、 いる。
と言う区別が成立する。
(1)(2)(3)(4)の一般的主体とは、人々の集まりの中で、子供や大人毎に個別化されたグループや個人を表している。その個別化は、カレー作りと言う観点からなされるのであり、人間の姿形から生ずる物体的な固体であるから、個別化が生じたと言う事では、けっして無いのです。と言う事は、<作る>と言う観点であるなら、他の大人なり、祖母なり、祖父でもいいのであり、だから、「子供」と言う主体を個別として表現する「が」が使用されるのです。<祖母が、カレーを作る>と言う表現に成るのです。さらに<作る>と言う観点から、作るものが個別化されると、<カレー、サラダ、カツ丼等>となり、カレーがその中の一つであることを<かれーを>と言う様に「を」で表す。それに対して、その個別的な<カレー>を、単に個別性だけで無く、特殊性として規定される事を、<カレーは>と言う様に「は」で表すのです。その個別化されたもの特殊性とは何でしょうか。この場合、<作る>と言う観点から見られているのである。カレーの材質とかの特殊性では無い。少しばかり甘いとか、ニンジンが入っていないと言うような事では無い。<作る>と言う観点からの特殊性とは、まず他のモノは作らなかったが、カレーは作ったと言う様になる。<作るもの−−カレー><作らないもの−−その他>と言う区別として成立している。 そこで、<子供が、カレーは、作っている>と言う文章は、<カレーは作っているが、サラダは作っていない>と言う内容を含んでいるので、「<は>に排他性がある」と言う文法的な説明に成るのです。ただ、今の場合<は>に排他性があると言うだけでは駄目なのであり、排他性の構造を明らかにしなければならない。<作る>と言う観点から見られた<カレー>であり、その観点は<作っていない>と言う区別から捕らえられた目的物の事を言うのである。テーブルの上に並べた料理が多数有り、その多数の料理のうちサラダや焼肉やハンバーグは、親がつくり、子供がカレーは、作ったと言う事なのです。このとき、<親>を取り上げれば、<親が、ハンバーグをつくり、子供が、カレーをつくる>となり、<作る>と言う観点では、誰も対等なモノである事を、個別性をしめす事を、<が>で表すのです。
さらに、<カレーは>の「は」は、食べ物と言う、それぞれ個別的であるものに対して、作ると言う観点から取り上げるとは、表現時に<作る−作っていない>と言う区別からの視点と言う事なのです。現に食卓の上に有るのは、カレーであり、他の食べ物も作る予定であったが、現に作ってあるのは<カレー>だよと言う事なのです。<カレーを>の「を」は、食べ物と言う、各々個別的なモノに対して、一個一個と言う個別性だけが、<作る>と言う事に関わる事を表している。<この>個別Aと<あの>個別Bの違いは<あれ、これ>と言う話者からの距離の違いです。A、Bは個別として全く区別が出来ないのだが、しかし区別を話者からの距離として<あれ、これ>でつけるのです。つまり、<あれ、これ>がなければ個別はそれだけであり、他者は無いのであり、皆Aと呼ばれていいし、Bとも呼ばれていいのです。しかしこその言葉以前に<カレー、カツ丼、サラダ、ハンバーグ等>が、食べ物として区別できていて、何時も食べる大好きなものとしてハンバーグがあると言う様になつているのです。それは、日常的な活動としての区別であり、その上に言葉の成立があると言う事となのです。つまり、匂いとか味とか色等で、その食べ物がカレーである事を知っているのであり、だから目の前のそれを<カレー>と言う言葉で発言できているのです。そのカレーと言う言葉で呼ばれるモノに対して、<子供が、カレーを、作る>と言う文章を作ったとしたら、そのカレーは、作る事によって成立する個別性と言う事なのです。このカレーと言う個別性と言う事なのです。さらに、<子供が、カレーは、作る>と言う文章のカレーについて、作られるモノはカレーなのだが、そのカレーのあり方が、前者と違うのです。そのあり方とは、他の食材は作らないが、作るのはカレーであると言う事なのです。つまり、前者が単に<作る>と言う事だけだが、後者は<作ると言う活動>に対する別の活動として<作らない><働かない>等が、対比されているのです。

(5)(6)(7)(8)の特定の主体とは、<作る>と言う観点から、<作る>事が、主体の属性としてある事を示している。つまり、<作る>事を、属性として持つ子供を、6人家族の中の一員として考えていても、単に一員と言うレベルでは無く、<彼自身の事柄として>作ると言う事なのです。だから、「お腹が空いたので、子供は、カレーを作る」と言えるが、「お腹が空いたので、子供がカレーを作った」と言う時には、お腹空いたのは母親かもしれないし、子供本人かもしれないのであり、誰のお腹が空いているのかは特定出来ない表現なのです。何故なら「が」が、個別性だけを表していて、子供自身の内面と言う事が表されていないから、そしてあえて言えば、子供=作る人 となるのであり、<作る>事の実体として子供が規定されているのです。<子供=実体=作る人>と言うことになり、子供はそま形態のまま<作る人>なのであり、子供には、それ以外のお腹がすくと言った規定は表現されないのです。「は」の様に子供の属性として<作る>ことが考えられていれば、例えばお腹が空くと言う事も子供の属性として考えられるのです。
(5)の場合、<カレーは><作ってはいる>と言う様に<は>との結合が出来ている。<カレーは>は、サラダやスパゲッティはどうかは知れないけれど<カレーは>と言う事なのです。さらに<作ってはいる>の「は」は、<作る事>の特性が表現されようとしているのです。つまり、<作っている>事に対してその作り方の気持ちの入れ方とか、両親に言われた事をいやいや実行しているだけとかの、否定的な扱いなのです。<作って「は」いる>は、あたかも<作って>が主語で<いる>が述語の様にも見えるのです。<作る>につく「は」は、<子供><カレー>につく「は」と同じに、その前に付いている語彙がしめす内容の<特殊性>の問題だと言う事なのです。

(19)この店のカレーは美味しい事は、皆しっている。
(20)この店のカレーが美味しい事は、皆しっている。
−−この文を、意味の観点から捕らえてみる。<皆>が、<知る>と言う動作の主体であり、知る内容が<カレーの味>である。A店に居て、カレーを食べるのであり、その食べたカレーの味が、味覚として知覚されていると言う超越論的観点が在る。(19)は、<この店のカレー>と言う対象について、町の沢山ある店の内の一つとして<この店>が捕らえられ、さらに食べ物の内、味の観点から取り上げられると、他の観点である色合いとか量とか匂いに対立するモノと言う区別を表すのに<は>が使われている。この店のカレーには、<美味しさ>と言う属性があり、当然<見た目がキレイ>と言う属性もあり、いまの場合、<美味しい>と言う属性が、取り上げられている。だから「は」には、それが付く語彙の内容を、<話題>として表すと言う言い方は、<この店のカレー>について、そのカレーの多様な属性が前提になり、その属性の一つ一つが取り上げられている事で、<この店のカレー>と言う存在がまず提示されルと言う事を示しているのです。その存在の属性が次に提示されると言う事なのです。(20)は<この店のカレー>と言う対象について、町の沢山ある店のなかで、この店にあるカレーについて、美味しい食べ物の一つとして捕らえられている。当然ケーキも美味しいのであり、美味しいもの=カレー、=サラダ、=ケーキ、と言う事であり、皆全て<美味しいもの>と言う事なのです。つまり、多数のものが、「が」によって、=美味しいもの、と言う個別的なあり方とされているのです。美味しいものカレー、美味しいものサラダ、美味しいものケーキ と言う事であり、<美味しいさ>の現実形態が、ケーキと言う姿であり、カレーと言う姿であり、ケーキと言う姿と言う事なのです。その形態がどんな姿であっても、食べるものと言う事で皆同じと言う事なのだが、モノとしては、客観的に色や形や質として違ったものと言う事なのです。
<皆しっている>とは、<皆が、しっている>と言う事であり、<皆が、「・・事を」しっている>と言う事と、<皆が、「・・事は」しっている>と言う事です。

1):格を表す「が」や「を」などと違い、文の主題を表す。
−−助詞と言う集まりの中にありながら、格を表す「が」助詞は、「が」に付く名詞と述語との関係を表す様に、個々の語の関係が、助詞として表されているのに対して、「は」助詞は文と言う全体の観点からみた主題と言うモノを表すと言う言方になっている。「は」助詞は、個々の語の関係では無く、「は」の付く語が、文の全体から規定されていると言う事になる。「は」が「が」助詞の様に<主語−述語>の関係として規定できない為に、個々の語のつながり以外の何かを見つけなければ成らず、それが主題と言う、文が表現したいものと言う事なのでしょう。つまり、「私は学校へ行く」と「私は、カレーはつくれない」とが、「は」助詞を使用していながら、別々のあり方をしている為に、「私は学校へ行く」の場合には<私・主語−行く・述語>と理解できるが、「カレーは作らない」を<カレー・主語−−作る・述語>と出来ないなで、両方の「は」にかなった説明として生み出されて来たのです。<格>では説明出来ない助詞のあり方を、格を離れて説明する事なのです。

 第2章「が」の基本的な性質


「が」は格を表す。
「は」は特定の格を表す助詞ではなく、文の主題を表す助詞である。それに対して、「が」は、「を」や「に」や「で」などと同じく、格を表す。
−−英語の<I Have a Book.>と言う文に対して、述語=Haveを中心に<I>を主格と言い、<a Book>を目的格と規定する。そして、述語に対する主格を特に主語と規定するのです。英語の格と言う規定は、語彙の配置の位置の特定性を指示し、例えば<自分自身>を表すのに、主格の場合=<I>であり、所有格=<My>、目的格=<Me>、一人称単数の所有代名詞=<Mine>と言う形態で示す。この表現形態は、<自身>の表し方であり、自身の捕らえ方が表されていると言う事なのです。日本語の場合、自身を表すのに、<私は、><私が、><私に><私を><私で>と言う形態を作るのです。日本語では、<私>と言う客体的表現と<が、は、に・・>と言う主体的表現との統一として表され、英語の場合、それが一つの形態で表されているのです。ただ英語の場合直接的統一であるのだか、日本語の主体的表現と客体的表現の二つに分離さる事で、始めて英語の直接的統一と日本語の媒介的統一と言う論理の整合性が出て来たのです。つまり、英語の<My>を<M=主体的表現><y=客体的表現>と言う様に分離デキルのでは無く、直接的に一つの統一なのです。日本語では、<私=客体的表現><は、が、に・・=主体的表現>と言う様に二つの語彙として分離出来るのであり、その分離が<表現形態>の違いに依ると言う論理的な区別によって成立しているのです。

(1)八木が、ホームランを打った。「が」は、その前の名詞「八木」が、「打つ」と言う動作を行う主体である事を表し、助詞の「を」は、その前の名詞「ホームラン」が「打つ」と言う動作の対象である事を表している。「が」「を」は、名詞の表す人やモノが、動作述語の表す動作主体であるか、対象であるかと言った関係を表す「格助詞」である。動作述語と名詞、形容詞述語と名詞、名詞述語と名詞との関係を表す。「が」は、述語と名詞との格関係を表す格助詞であると言う事である。
−−<私は、学校へ行かない。><私は、学校は行かない。>
「行かない」と言う述語に対して、その動作の主体として<私>が示されるのであり、前者の場合<へ>に依って目的が示されるのであり、後者の場合の<は>も目的が示されるが、<へ>との違いが表されているのです。それは、<行かない>と言う動作とその動作の主体たる私は、目的地である学校に対して、単に目的地を示す<へ>と、特定性を伴った目的地を<は>で表すのです。とすると、<は>助詞は、他の助詞と違って、<主題><話題>を表すと言うような結論をせずに、つまり、他の助詞と全く別の説明をするのではなく、他の助詞との整合性を持たせる事なのでしょう。<私は、学校へ行く>と<私が、学校へ行く>と言う二つの文は、同じ主語を表す助詞として成立しているが、その主語のあり方が<は><が>に依って表されているのです。<学校へ行く>動作の主体としての<私>に対して<が>は、個別としての私を規定する。例えば何人かいる人々の中で、<私がいく>のであり、<学校へ行く>と言う面のみから主体が取り上げられている。対象の把握の仕方とは、認識と言う事であり、認識の違いが<は><が>の違いとして表現されているのです。トするとその認識の違いとは何かと言う事になり、それは認識論の本質論を踏まえた問に他ならないのです。と言う事は、<が>が主語を表す格助詞である事に対して<は>を「主題」とか「話題」を表すと言う時、対象の把握の仕方を認識として規定する事なければ、一つの判断経験を述べているだけに終わってしまうのです。

       「が」格   「を」格   「に」格   「で」格
    主題  〜は     〜は     〜には    〜では
   非主題  〜が     〜を     〜に     〜で 
表の左右の対立は格の対立、上下の対立は主題・非主題の対立である。
(11)その時八木がホームランを打った。
この文は、八木について知りたい聞手に八木がどうしたかを知らせるとか、ホームランに付いて知りたい聞手にホームランを打ったのは誰かを知らせるものではない。聞手が知らない、出来事の発生そのものを伝える文である。この種の文では、述語は一回だけの動作や一時的な状態を表すものであるのが普通である。
−−<八木について>と言う事で、八木と言う存在そのものが捕らえられ、自身について考えると言う事であルのに対して、<その時>と言う言葉で、野球のある場面が成立してい手いる事を示し、バッターがホームランを打てば、阪神の勝ちが決まると言う場面なのでしょう。その場面の中で、その場面を成立させる個々の要員の内の一つと言う考え方が成立している。個々の人々が、個々として規定されるのは、代打と言う面が、或いは守備と言う面が、数学の集合の要素を作るものとして成立している。
それに対して、<その時、八木はホームランを打った>と言う文は、やはりある回の阪神の攻撃の時、阪神のバッター陣の内、代打で出て来た八木選手に視点を移すと、その八木選手自身の働きを考える事で始めて成立する事になる。<個々の要員のひとり>と言う観点からではなく、八木自身全体に対して、打つと言う面、或いは守備と言う面が、取り上げられている。
前者の「が」の場合、八木選手は<打つもの>に過ぎず、打つ者であるなら、岡田選手でも誰でも良いのであり、選手達は、<打つもの>と言う共通の性質を持つに過ぎなくなって居る。登録選手のうち、守備の人もいれば、代打の人もいるのに対して、一つの性質によって打者、守備、走者等の集合として区分けされて来ているのです。その打つと言う面は、個別の者の性質、属性として成立し、その打つと言う性質が、個別の者、皆に共通するものということになる。
後者の「は」の場合、八木選手全体に対して、その一つの性質、属性として<打つ>と言う面がとらえられるが、この時点では、属性を持っていると言う事であり、その中で岡田選手も打つと言う属性を持っていれば、その打つと言う属性を、共通性とすると言う判断が成立する事で、八木選手、岡田選手が、打つと言う共通性をもつ、個々の者と成るのです。八木選手も岡田選手も個々の人では無いのかと言う疑問があるとしたら、それは日常的な意識のなかにすでに、人々が共通の属性をもつと判断されているからであり、共通性とは同時に個別が一つの集まりに中に成立したと言う事になる。これは「が」の成立なのです。
私達にとって、人々は個々のものとしてあるが、その認識は同時に、属性が共通性としてと捕らえられているのであり、<同じ人間である>とか<男同志>とか言う規定に他成らない。
日本語の助詞である「は」や「が」等は、対象の論理概念を表現している。さしあたって、対象の個別的あり方と、特殊的、普遍的あり方を表している。

(14)「主題は、伝えたいことである。」格成分である「主題」が、主題になって居る。
(15)「伝えたい事が、主題である。」 「が」が使われる文は、述語である主題がしゅだいである。
「が」が使われる文には、出来事の発生を伝える、主題を持たない文と、述語が主題になっていて、その主格が何であるのかを伝える文のニ種類がある。
−−私が、学校へいく。----主題を持たない文であり、述語<行く>の主格としての<私>の<述語−主語>と言う関係が成立しているだけである。つまり、これは出来事の発生を伝えるだけと言う事になるのです。ある事実を伝えるだけで、それ以外の主題とか話題とが無いと言う事になる。
私が、学生です。----<学生>が述語であり、その述語が主題となって、その主格である「私」が何であるかを伝える文である。

 第10部 「は」と「が」の理論


第28章 機能からみた「は」と「が」
伝統的国語学の世界では、「は」の本義は何かといった議論が行われて来た。本義の議論として<機能>と言う観点から考えてみる。
−−本義の議論に於ける機能と言うあり方を明らかにしておかなければ成らないと言う事。
<私は、学生です>と言う文章の中で、「は」が使われている事に対して、「私」と「学生」と「です」と「は」との四っの語彙が連結して、一つの文として成立していると考えると、一つの語彙である「は」の働きは何かと言う問いが生まれて来る。「私」と「学生」と言う語彙は、ある特定の対象が指示されるし、「です」は、判断と言う事を指示するのです。そこで「は」に対してその正体を問う時、対象に当たるものががなければ、<私と学生>とに対してどんな働きをするのかと言う事になる。<私>と言う語彙は、対象との関係を考える事ができるが、「は」には、対象に当たるものが見えないので、その関係を考える事が出来ない。だからどうしても、「は」だけで考えるのであり、その場合に<働き>とか、機能とかになるのです。「は」は、「私」や「学生」に対し働きかけをする事で、両者に特定の関係が生ずると言う事なのです。この特定の関係を明確にする事で、「は」の働きを一々提示するのです。

・機能から見た「は」と「が」
1)「は」と「が」の二面性
                 「は」の二面性     「が」の二面性
「は」と「が」----主 題 の対立  主題 <----------------------->非主題
 の対立                    「は」<---->  「が」
 二 面 性  ----取り立ての対立        対比<---------->排他
2)主題に二面性
ア)判断の主題−−−文のレベルで、判断の対象を表す
   蘭島海岸は、日本海に面した海水浴場である。
イ)関連の主題−−−文章・談話のレベルで、文脈や場面との関連を表す
   姉と二人でパンを食べていた。姉は「真夏も終わりね」と言った。
第29章 構造からみた「は」と「が」
生成文法の世界では、「は」や「が」を持つ文の構造をどう表すのがようかと言う議論が行われてきた。「文の階層構造」のモデルの中で、考えてみる。
    どうも   お客さんが 来 なかっ  た  みたいだ ね。
  実質的意味の階層−−−−−−−
           肯定否定の階層−−−
                 テンスの階層−−−
             事態に対するムードの階層−−−−
                聞き手に対するムードの階層−−
第30章 色々な言語の「は」と「が」
「は」と「が」の区別は、文の中で何が主題で、何が伝えたい事を表すものであり、日本語以外の言語でも何らかの形で表されるものである。
日本語では、主題を表す為の最も一般的な手段は、次のようである。
(1)語順−−主題の成分を他の成分よりも前におく。
(2)音声−−主題の部分と他の部分を区切るポーズをおく。
(3)形態−−主題に主題を表すマーカー(「は」)をつける。
(3)を主題明示型の言語といい、それ以外を「主題暗示型の言語」と言う。