読   書   日   記

私が日々目を通す書物に対して、私の今の視点と、了解できない観点を書き抜き、それをどのように理解すると、私の了解になるかを目的に日記風に綴っていきたいと思います。

−−−−−−−−2002年07月22日−−−−−−−−

金田一春彦・日本語セミナー 日本語のしくみ 筑摩書房

助詞の本質
助詞は虫みたいなものだと言ったひとがいる。助詞いずれも小形である。大体ニ音節以下であり、しかも一音節のものが多い。そうして、きわめて雑多な種類のものが含まれている。語は、自立語と付属語に分類出来る。
自立語:名詞・副詞・連体詞・接続詞・感動詞の五品詞に分類出来る。
付属語:単独では文節を構成しないと言う事の為に、助詞と言う名で一括されている。
付属語が助詞と言う一つに括られるのは、意味が一般に稀薄で、中には取り外してもセンテンスが全体の意味のほとんど変わらないものがあったりするからだ。
電報の助詞の省略:「六ジ(ニ)ナゴヤ(へ)ツク」ムカエ(ヲ)タノム
助詞を無視しても意味が通じると言う訳です。
−−「A」<私、学校へ行く>、「B」<私、学校へ行く> この二つの文は、「は」と「が」が省略されているが、それぞれ意味が違って居るのに、省略した文は同じになってしまうのです。ただ、この二つの文は、このページに書かれている限り、同じ文字になってしまうが、しかしこれらがある具体的な場面で話されているのであれば、その場面に付いての認識が、話者と聞手の両者にあるので、その認識を介して、話された言葉の思いを、理解するのである。その理解が、省略した助詞が「は」か「が」なのかを示す事になる。言葉の出て来る状況には、その言葉を発する人や、聞く人を取り巻く環境があると言う事が忘れられているのであり、その環境についての認識の中で始めて言葉が発声されるのであると言う事なのです。言葉に表現される認識は、他の認識と重なったりしているのであり、その重なりの認識が共有されている事が諒解されれば、言葉の一部が表現されずにも伝達ができると言う事にのです。
「六時、なごや つく」と言う文章に対して、なごや=名古屋駅と言う諒解と、なごや=個人名であるかによって省略された助詞がきまるのである。もし個人名であれば、「六時に、なごやが着く」と言う文なのか、「六時に、なごやは着く」と言う事であり、場所名であれば、「六時に名古屋に着く」と言う事になるのです。この時、社会的な諒解としては、電報は、駅に着くと言ったレベルで使われているということであるから、それからすれば、なごや=名古屋駅 ということで、電報文は、<「六時に名古屋につく」向かえたのむ>と言う事になるのであり、そのレベルを知りながら、なごや=個人名 とすれば電報文は<「六時に、なごやが着く」向かえたのむ>となり、親が息子の迎えを、親戚に依頼した電報文になるのです。つまり、助詞は省略され得るが、しかしその省略の裏には、どの助詞を省略したのかが理解される認識が成立しているのであると言う、言語が過程的構造としてある言う理解が無ければ、理解できないのです。

英語には助詞に当たるものが無いと言う。−−日本語を他の言語と比較する事で、日本語の特性を浮かびたたせるのです。「が」に当たる助詞、「を」に当たる助詞はない。
「猫が、鼠を捕まえる」「猫を、鼠が捕まえる」鼠も猫も、その位置を変えられるが、位置を変えても、それにつく助詞によって、主格か目的格かを表すのです。
     A cat catches a rat。
英語の場合、猫の位置、鼠のいちは、動詞の前後に釘付けられている。
日本語では、どんな名詞でも「が」をつければ主格になるが、一体、名詞の主格を表す言方と言うものが日本語以外の何処にあるだろうか。「何々が」と「何々は」の区別が可能なのである。「が」は次に述べる動詞が表す動作・作用の主体を表し、「は」は、その発話の主題を表す。英米人にとって、いかにこの二つの助詞の使い分けが難しいかがわかる。難しいのも道理、主体も主題も、英語では、subjectと言う、一つでしか無いが、日本語では、論理的に区別されているのです。
日本語のセンテンスは、最後に来る語によって全体の意味が決定するが、助詞はしばしばセンテンスの種類をよていする性格を持っている。疑問詞の次に「も」がくれば、終止は否定表現が来ると言う様に。
<全部食べなかった。>と言う文に対して、全然箸を付けなかったのか、一部分だけ箸を付けたのかどちらにもとりえるが、この場合、「は・と」などの助詞が、効力発揮して意味をけっていするのです。
全部は食べなかった。−−>一部分だけ食べた。
二度と顔を見せなかった。−−>一度だけ顔をみせた。
助詞には、上に述べたほかに、一語がきわめて複雑な内容を持つ場合もある。
犬「や」猫と言う場合の「や」に相当する単語は、英語などには無い。犬「と」猫の様に、ハっきり列挙するものを限定できない場合に用いる助詞で、and so on の様な連語を用いなければ成らない。コーヒー「でも」飲もうの「でも」も、もしコーヒーが嫌いならば必ずしもコーヒーに固執しないが意味を持つ。