読   書   日   記

私が日々目を通す書物に対して、私の今の視点と、了解できない観点を書き抜き、それをどのように理解すると、私の了解になるかを目的に日記風に綴っていきたいと思います。

−−−−−−−−2002年07月23日−−−−−−−−

対談「大野 晋×丸谷才一」日本語で一番大事なもの 中央公論社

主格の助詞はなかった

丸谷):「は」「も」が係の助詞であるとは思っていなかった。「は」は何となく主格の助詞だと思っていたのです。中世室町の歌道書である「歌道秘蔵録」で言われる、係り結び「ぞ−る」「こそ−れ」「思ひきや−とは」「は−り」「や−らん」は、歌を詠む時の心得だと言う歌です。
  「ぞる こそれ 思ひきやとは はり やらん これぞ五つの止りなりける」
「は」と来た時には終止形で終わると言うのは意識されていた訳で、以前から、室町の時代から「は」が係りの助詞であると言う事に気付かれていた。
大野):大槻文彦が日本文法を組み立てる時、ヨーロッパの文法をまねた。「文には、主語と述語が必要」と決めた。そこで、日本語では主語を示すのに「は」を使うと考えた。

「は」の誤解の根

どうしてヨーロッパ語では「主語」が必要かと言うと、もちろん内容的に、動作の主となるものを必ず言うと言う習慣があるからだけれども、それとはべつにドイツ語やフランス語では主語を立てなければ動詞が使えない。動詞の語尾は一人称の単数ならどう、二人称では、三人称ではと、動詞のしっぽと主語とが相応じている。だから、動詞一つを使うために主語を決定しなければいけないし、主語なしには動詞と言うのはないのです。例えば「勉強する」と言うドイツ語の動詞(シュトゥディーレン)は、その形は不定形ですが、これが人称によって形が変わるのです。その変わった形を定形だと言うのです。
一人称:シュトゥディーレ 二人称:シュトゥディールスト 三人称:シュトゥディールト
不定形と言は、無限定形とか不限定形と言う事であり、各人称とは別に第四の為にあるのでは無いということである。
−−第四の不定形は、各人称に対して本質の立場にあり、その本質が各人称の形態として現れると理解するのです。
日本の文を研究する事。日本語では、「君は」と問うと、「ウナギ」と答え、「君は」と言うと「かけ」と答えればすむ。これは何故かと言う様な、日本語の問題をよく考えて、その本質をつきつめれば、文法は生きて働く事になるのです。

助詞の本質的役割

大野):日本語は、動詞が人称によって変化する事は無い。
−−動詞で示す、対象の活動に対して、その活動の主体が規定されるのだが、ただその主体は活動にとっての主体であって、その主体が、一人称、二人称、三人称と表現されるのは、その主体に対する話者の関係であり、話者と主体が自己関係であれば一人称であり、話者と主体が聞手との関係であれば二人称であり、話者と聞手との両者にとっての第三者であれば、三人称であると言う事とになる。つまり、動作と主体とは、話者や聞手とは独立した客観的な出来事であるが、その客観的関係に対して、話者が聞手と共に関わる時の、その関係が言葉として表現されるのです。<動作と主体>と言う客観的関係に対して、さらにその主体と<話者と聞手>の関係が、人称として表現されると言う事なのです。<動作と主体>であれば、全く客観的な関係が表現されているが、その客観的関係に対する話者・聞手の関係が、人称の違いとして表現されているのです。
「春はあけぼの」見たいな文章をどう理解したらいいのか、と言う問題が出て来る。一般に助詞とか助動詞とか言われているものと、名詞とか動詞とか言われているものとは、日本語で担って居る役割が本質的に違う。その事をよく理解しないと、日本語の仕組みはよくわからない。
−−<日本語で担って居る役割が、本質的に違って居る>と言う文章が表現された時、少なくとも<本質的>と言う言葉が使われている事で、すでに各語彙の役割の目安が付けられているのだといって居るのです。そうでなければ、<本質的>と言うことばが使われている意味が無いのです。あとは、その役割の本質を述べるだけなのです。
「大野」と言う単語には、「大野」と言う指す物体があります。それから「取る」と言う動詞には、指し示す動作がある。
−−「大野」と言う言葉が指し示すものがあっても、ここにいる数人のうち二人が、「大野」さんであり、だから<指し示すもの>は、数人のうち二人だけなのであり、他の人は何故指し示すものでは無いのかと言う事になる。それは人間が多数いれば、彼等には皆<氏名>があり、その氏名に色々な種類があって、皆同じ氏名もあれば、1人しかいない氏名もあると言う事になる。つまり、言葉には指し示すものがあると言う事と、どのものが指し示すものであるかと言う事を区別しなければならないのです。<指し示すもの>とは、対象の存在であり、どの対象であるかとは、対象についての認識の成立であり、その認識が各人称ののそれぞれと言う事になる。これが言語過定説と言う事になる。
「大野が取る」とか「大野を取る」とかの様に「が」とか「を」とかを使って文を作るには、「大野」と「取る」は材料になり、その材料を関係づけ操るのが「が」とか「を」の役目になる。
−−問題は、材料を関係付ける時、その関係は何処かから舞い降りて来る訳では無く、材料の所にあり、関係付けるとは、諸材料にそれを見つける事に他ならないのです。材料と<それ>とによって関係が成立するのです。だから「が」や「を」は、材料同志の特定な側面のその特定性を表していると言う事になります。それなのに、材料を関係付けると言う事を、話者の思いと言う事に限定付けて考えるから、材料同志の関係がねけ落ちてしまうのです。
さらに、その関係をつけるのが、「が」や「を」の役割であると言う考え方は、その助詞に役割の機能を押し付けているのであり、それは言葉を出来上がつたものと考えるので、出来上がつたものがある意味をもつのは、出来上がつたものにそのような機能が備わつているからと言う事になるのです。あたかも出来上がつたものと考えてしまう根拠はなんだろうか。それは言葉における<規範>の問題であり、規範は私が言葉を覚えようとする時に、そこで他者に依って使われている言葉なのです。他者の必要によって生まれている言葉は、絶えず新しいのであるのだが、その産まれて来る言葉の社会性の面が、言語の規範としてあり、赤ん坊が言葉を使える様になるのは、自分を取り囲む他者との伝達に為に、言語の社会性と言う側面をおぼえながら、言葉を他者に向けて発声していくのです。

「が」や「を」には実体はない。ただ、話し手の頭の中の働きだけが表現されるのです。この、さすもの、実物がなくて、頭の中の操作だけを表す言葉は、それが操る材料である「大野」とか「取る」とかとは、質的に全く違うんだと言う事を、時枝先生は繰り返し言った。つまり、助詞と言うものは、本質的にそういう話題の物体や動作を操る操り方を表す言葉だ、ここの所が大事なのです。
−−このように考えることが、大野にとって全く正しいと結論されているのは、かれにそれなりの実感があるからだろう。<実体、さすもの、実物>があるのは、ここでは材料と呼ばれている名詞や動詞や形容詞などの事をいうのであり、そのような言葉が示すものの様に、助詞たる「が」や「を」には無いと言う事が、ここでは結論出来る事でしか無い。名詞や形容詞などの言葉が、考えている程私達の目の前にあるものを、指し示す対象であると結論する訳には行かないのです。諸物のなかで、どれが<机>と言う言葉の指し示すものであるかは、その言葉の意味が解らなければ言えないのだ。つまり、<机>と言う言葉の指し示す対象は、その言葉の意味によって決まるのであり、意味抜きに、探し当てる事などできないのです。透明な瓶に貼付けてある、文字の書かれたラベルは、瓶にぴったりと張り付ける糊が無ければ成立しないのであり、<貼付けてある><ラベル>と言う構造を捕らえなければ成らないのです。その張り付けると言う働きを、言葉の場合、意味に求めるのです。ある文字<机>が、ある物体を指し示すのは、意味と言う糊があるからに他ならないのです。
さて、助詞に実体が無いという言い掛かりは、名詞や形容詞の様な対象が無いと言う事だけなのだか、しかし助詞と言う言葉がある限り、その助詞が働きをしている事を説明しなければならず、名詞や形容詞の対象に対して、その対象の取り扱い、頭の働きと言う事になったのです。対象は目の前にあつたり、頭の中の想像物としてあったりなのだか、それを扱うと言う時、野球であれば、手であつかうが、言葉だから頭で扱うと言う事なのです。対象であろうと、頭で扱うのであり、すべて頭で扱うのであり、対象を存在として扱い、さらに対象同志の関係も扱う事で、はじめてその関係を、助詞として表すのであって、関係は実体で無いから、関係以外を探しても何処にもみつからず、あるのは名詞や形容詞が示すものでしか無いと言う事なのです。関係はものや実体では無いからといって、だからなにもなく、頭の働きだけがあると言う事なのでは無いのです。関係としてあると言う事なのです。
実体やものや実物と言うあり方と、関係と言うあり方を区別して行く事こそが大事なのです。

「は」と「が」

大野):「は」どんな操り方をする言葉かと言えば、「は」の上に来た言葉は、話し手ももう知って居る題目として話してが扱うのです。ここに「は」の役目がある。聞手がその題目をすでに知って居ることに関わらず、話し手にとってすでに知られていると言う扱い方をするのです。「は」の後の文が、その知っている事について、答え、説明を要求するのです。
−−名詞や形容詞や動詞などが、対象を<指し示す>のに対して、助詞はその対象をどの様に扱うかと言う扱い方を表現すると言うのが、今の結論なのである。そこで「は」は、ハがつく語彙を<話題、主題>として扱うと言う判断が成立しているのです。
「は」は、動作の主格だとか、処分の対象を言う目的格だとか、或いは場所格だとか言った、格には特別の限定はないのです。「白は・・」と言うと、それは一種の問題提起なのであり、その問題に何か答えなければならないのです。「は」は、「は」の上の言葉を問題として提出し、下に答えを求める形式なのです。「が」は、未知のものを描写する。
助詞は、素材を操る言葉である。話し手の扱い方を示すと言ってもいい。だからすでに知られてた材料でも、それを未知の様に操り、或いは未知のものをすでに知っている様に操る事もできるのです。
「が」を使えばそれの上は「未知扱い」となり、「は」を使えば「既知扱い」になる。この操り方とか扱い方を飲み込まないと、日本語の「は」と「が」とは分からない事になると思います。

主格も表す「が」

主格に「が」が使われる様になったのは、一般的に江戸時代からです。今は「私が行く」と言いますが、元は「我が行く」で切れる事はなかった。「我が行く道」の様に下に「道」の様な名詞(体言)が来なければダメだったのです。所有、所属を表していた。「君が代」「我が国」の様に。
丸谷):主格の「が」は、王朝和歌には全然出て来ないのです。王朝和歌で主格を表す助詞と言うのはないのです。
大野):日本語には主格を表す専属の助詞はなかったのです。裸でよかったのです。
「花美し」「山高し」「花咲く」「われ行く」と言いました。動作の主体をきちんと表す特別の助詞はありませんでした。「私が取る」と言う言方は、江戸時代になって、おそらく主として関東から始まるのです。もともと関東では「が」をよく使っていたのです。「が」と言うのは、その上の人間が卑下するとか、その人間を軽蔑するとかの場合に使うものだったのです。
「が」が主格を表す様になった形態的け理由
係り結び「ぞ、なむ、や、か」が来た場合に、倒置によって下の終結が連体形になったのです。倒置による強調と言う事が忘れられ、文末の連体形があたかも終止をかねる形の様に受け取られはじめたのです。
「体言+が+名詞」の代わりに「体言+が+連体形」の形で使う事が可能になった。そこで「この様な事がある」などと言う表現が江戸時代にはじまった。「事(体言)がある(連体形)」=「体言+が+名詞」となったのです。

「は」は何故係助詞か

「係結び」とは、文末の結び方、つまり結びの活用形で区別して捕らえた捕らえ方です。
一般的理解   こそ−−巳然形、ぞ、なむ、や、か−−連体形
本居宣長の理解 は、も−−終止形で終わる。
「は」を係助詞の一つだと捕らえている。

「年の内に、春はきにけり・・・」「・・・なる声は、朝な朝な聞く」
格と言うのは、現実界での名詞と他の言葉との秩序関係をいうのです。だから、どっちが上か、どっちが下かとか、何処にあるかとか、あるいは誰が何をどうするかとか言う関係を言う事なのです。何かがするのであれば、主格であるし、何かをするなら、目的格である。そう言う意味であるなら「声は、朝な朝な聞く」と言うのは、目的格です。
「声」が「聞く」の目的語だと言う事が、日本人に分かっていないはずがないのです。ただそれを言葉の形式上の上で明示しない事でしょう。
  未知「が」既知 と言う構造:既知=主体に対する形容詞の様な働きとして、未知「が」がせいりつするのです。<君が代>は、代という主体に対する<君が>と言う形容詞てきなものとしてある。つまり、<赤い靴>の<赤い>と同じなのです。
<未知「が」既知>
<既知「は」未知>
と言う、「は、が」の構造についての大野説に対する反論
「我が国」「君が代」の様に<名詞(A)、が、名詞(B)>と言う構造であり、すると「私<が>論ずるのは、歌人斉藤茂吉の表現行為としてみた・・・」の様な文章に対して、<が>の上には「私」が来ているけれど、大野によると「が」の上は未知であると言う事であるから、この文章の「私」が未知トなって変だし、その未知のものを含んでいる「私が論ずるのは、」と言う表現が既知であると言うのは、おかしいじゃないかと言う事になります。この種の意見、議論が「は」「が」の問題のとき非常に多いんです。これは、事柄の未知と、取り扱いの未知とを同じものだとみた点に問題がある。事柄そのものと、その事実を、既知として文表現の中に取り込むか、あるいは未知として文表現の中で取り扱うは、話し手にまかされている事で、事実が表現の全てを決定する事では無いのです。
−−論ぜられるものに対して、それが誰によって論じられると言う視点は、論じられる固有対象があるのに対して、不特定多数の、二人以上の、人が想定されていて、その不特定の内の、1人として<私>が捕らえられているのです。<私>は、二人以上のひとの集まりの中の、ひとりとしての私ということになる。つまり、個別的なものとしての人々のあり方は、それらがある共有する属性を介した、集合体として括られているのであり、ここでの<既知−未知>とは、その<論じられるもの>とそれに関わる<論ずる者>に対して規定されるのであり、論じられるもの=既知、であるなら不特定のどれかを示す=未知 と言う事なのです。私や彼や彼女や貴方や我々の存在に対して、論ずるものと言う規定を与えられるのだが、ただこの与えられ方は、<私や彼や彼女や貴方や我々の存在>が、個別的なものの集まりと言うイメージであるか、その集まりの中の特に一つの存在だけが表に現れていると言うイメージであるかと言う事なのです。前者はあくまでも、集まりの中の一つと言う事であるが、後者は一つが全体として規定されているのであり、だから<私が、それを説明する>と<私は、それを説明する>と言う二つの文では、事実として<それ>と言う目的物に対して、私という主体が、説明手すると言う動作を実現するということなのだが、その事実に対して、人々の集まりの1人としての私が、説明すると言う動作の主体であると言う事と、私と言う存在の、一つの属性の様に説明すると言う事が成立していると言う区別なのです。
<それを説明する>主体に対して、個別的な主体の集まりの一つとするか、あるいは説明としてはその1人であるが、その1人だけにスポットライトがあてられる事で、その1人の多様な特性が取り上げられるのです。それはあたかも、ヨーロッパの<神>が唯一の一者であって、その背後に八百万の神をもつ日本の神とは全く違う論理である事と同じである。つまり、一は、ニ、三等の始まりであり、複数の中に背後にあるはずのものであるのに、ヨーロッパの神は、一だけであり、始まりであり、終わりであるものなのです。唯一ものには、一者には、無限の属性が含まれている、あるいは無限の属性を持つものであるりに対して、日本の神は、個々の神聖と言う属性を実体として分有していているものとしてあり、その属性によって、共通を持つモノと規定されるのです。諸属性によって成立つ<モノ>としては同じなのだが、諸属性の集まりであるモノと、一つの属性の実体化されたモノと言う区別なのです。

助詞「は」と日本哲学

日本語では「は」を使う文構造が主語・述語の形式に代わって一般的ですから、判断の仕方の意味を考える時に、「は」の使い方から、判断の仕方を考えたのです。すると、「は」は話の場を造る役目で、その下で述語が働く。その点から考えて「場」の論理へと展開したのでは無いか。

日本語の文法を考える 岩波新書

文法と言う学問:第一「一貫した体系・組織なので、一度しっかり根本から学ぶ必要がある。」
第二「日本語の性格はヨーロッパの言語と非常に違う。文法的な仕組みが違う。」
−−日本語でも、ヨーロッパの言語でも、それらが<言語>と規定されることの同一性があり、またそれぞれの独自性があると言う事こそ正当な考え方でしょう。言語と言う舞台の上にいる各言語と言うイメージになるのでしょう。第一は、舞台の事を言い、第二は各独自性と言う事になる。
自分で自分の言語の文法を考えて組織立てて行く以外に方法が無い。日本の言語で育った人間が自分で自分の言語を深く広く反省し、これを考えてゆく努力をする以外は無いのです。日本で育てば日本語を使う事はできる。話す事もできる。勉強すれば書く事もできる様になる。
第三「文法とは、色々な言語上の現象を整理して把握し、理解しようとする仕事である。」
規則の暗記だけの勉学に対して、言語の発音や意味などは時代とともに少しずつ変化して行くのであり、だから一度覚えてしまう事で済むものでは無いのです。
文法についての考えるきっかけになるもの。
日本語の文章には主語の無い、主語・述語の照応しない文章が非常に多い。所が、英語では主語・述語が応じ合って文であると習うのです。
−−英語の文法を日本語の言葉に訳す事で、その日本語に置き換えた内容を、日本語に当てはめようとする。日本語に中に、例えば<私が、学校へ行く><私は、学校へ行く>と言う文省を発見して、主語=<私>、述語=<行く>、目的語=<学校>と割り振る事で、日本語訳の正統性を主張するのです。問題は日本語訳にした内容の主張に対して、英語にはない助詞<は、が、へ>をどう扱うのかということになり、そこで新たに日本語だけの特徴として、<は、が>は、<私>を主語として扱う働きとして<格>と言う機能を与えるのです。つまり、<I=私は、go=いく、to school=学校へ>となり、Iが主語であるなら、日本語の主語は<私は>と言う事になるのです。<私>が主語なのでは無くて、主語にする格である<は、が>がついた時はじめて主語と呼ばれるのです。しかし、この考え方に対して、<私は、リンゴは食べます>と言う文章に対して、<私は>の「は」は、主格をあらわすが、<リンゴは>の「は」は、決して主格を表してはいないと言う事になります。では、あえてリンゴの「は」は、何を表しているのかといえば、目的格としての「を」に近い事になります。助詞が格を表すと言う事が考えられていても、個々の助詞を考えて行った時、一つの助詞が、主格を表したり、目的格を表したりする事をどのように説明するのかと言う事が新たにはじまるのです。

言葉の働きとは何か
言葉とは一体どんな役割をするものなのかと言う事を考えてみる。「私」と言う話し手と、「貴方」と言う聞手がいる事、これが必要な条件である。話し手は、聞手が知っていないと思われている事を、聞手に伝達する為に言葉を発声するのです。
「火事!」「火事?」−−>「起きろ!」
必要な事を満たした実際的な表現、つまり文である。
−−家が燃えている=火事 と言う事であり、「火事だ」の「だ」は、日本語の特性である、主体的表現と客観的表現のうち、主体的表現であると言う事なのです。家と言う主体が、燃えるという述語として成立しているが、それを火事と言う漢字で表現する事で、客体的表現=火事、と主体的表現=だ、の統一としての文が成立するのです。<火事>と言う漢語表現は、和語の表現と違うレベルにあるが、日本語の表現で使用される時には、客体的表現として名詞化されて、主体的表現である「だ」と統一されて表現されるのです。中国語も言語表現であるかぎり、両表現の統一として表現されるのであるが、日本語の様に別々の語彙として区別された上で表現されるとは限らないのである事を気に止めておかなければ成らないのです。例えば、英語の場合、「私の本」=「my book」の様に、日本語の「私=客体的表現」「の=主体的表現」であるのに対して、英語では<my=客体的+主体的>と言う事になるのです。ただ、英語の<my>が、「主体的表現と客体的表現の統一去れたものである」と言う規定は、日本語の規定が成立する事で始めて<言える事>なのです。何故なら、英語の場合一つになつているものに対して、それを分離する事など出来ないからであり、語彙として分離している日本語から得られた<主体的、客体的>と言う構造論を前提にして、英語の構造を捕らえる事で、両表現の直接的統一と捕らえれば、日本語は両表現の媒介的統一と言う事になるのです。
話者が知って居る事を、知っていない聞手に向かってはなす。例えば<煙りが出ている!>、これは主語・述語の整った表現である。「煙りが出ている光景を発見して」いる話者が、聞手に向かって「描写して」叙述したものであるが、話者が知っている事を、知らない聞手に言葉によって叙述したのです。しかし話は何時も聞手が何も知らない事ばかりでは無い。お互いの間ですでに何か知って居るはずの話題について、相手の知らない部分をつけ加えると言う場合である。
「あの本、どうした?」「読んじゃった。」この場合には、「あの本」と言う話題・題目があって、それについて、話者も聞手も知っている。そしてその本を「どうしたか」と言う事を聞手に尋ねるのです。

「既知と未知」
日本語の文法の基本型をかんがえる。例えば、<東京へ行く>と<東京にいく>の「へ、に」の区別は現代ではどちらでもよいくらいだが、しかし時代を遡って奈良時代に行けば、<桜だへ鶴鳴き渡る>のように<へ>と言う助詞は、今いる所から、はるか遠くの方へ遠ざかって行く事をしめすと言える。それに対して「に」と言う助詞は、動作の帰着点として<家に帰りて><心に入りて>の様な場合に使って居る。
「へ」:現在地から遥か遠くへの移動を表す。「に」:静止する一点を指示するのが基本だった。
とすると、「東京に行く」とは、東京につく様に行くんだと言うことであり、「東京へ行く」とは、東京の方向へ、ここから遠ざかって行くのだと言う事になる。
「は」と「が」の研究は、従来それが一文の中でいかに語と語との関係づけをするかと言う点に中心を置いていた。言葉の上の文脈、さらに事実の上での文脈をも考えに入れて助詞を考える。

日本語をさかのぼる 大野晋 岩波新書

第1章 語と事物
最も古く「男」「女」を表した語:「女−ミ」(オミナ)「男−キ」(オキナ)、「いざなみ、いざなぎ」イザ:相手を誘う語、ナは「現代語のの」にあたる助詞、
次ぎ「男(ヲ)、女(メ)」オス、メス
奈良時代:ヲトコ、ヲトメ このヲトは若い生命力が溢れている事を表している。
男:「キ」−>「ヲ」−>ヲトコ
女:「ミ」−>「メ」−>「ヲトメ」、「オミナ」−>「ヲンナ」
第二章 語の意味
意味と言う語を吟味せずに使って来た。ここで具体的に考えておこう。
語の意味:(1)語の指す、物や事柄や観念である。「太陽」「月」と言う語と言えば、その語の指す物のある事は明瞭である。「走る」「歩く」にも、其の語の指す動作がある。意味の一つの大事な点は何を指すかと言う事である。ところが、「お日さま」「お月さま」と言う語も、「太陽」「月」と言う語も、指す物は同じである。同じ物を指すとすると、(1)規定からすれば、意味は同じ事になる。しかし指す物は同じでも、その物の捕らえ方、そして表現の仕方が全然ちがう。その違いまで捕らえた時「語の意味」が分かったと言える。
−−「太陽」「月」と言う語が指し示す物と、「星」と言う語が指す物の違いは、星と言う語が指す物に特に特定の物を「太陽」「月」と言う事になる。同じ物であっても、捕らえ方と言う私達の把握の仕方の違いなのです。しかし私達の捕らえ方と言う私達の内部の問題だけである様にみえるが、物の色々な側面が、把握の仕方の違いとして現れているだけにのです。つまり、私達の把握の仕方と言う、私達の働きかけは、何か精神世界の地底から泡の様に生まれて来た物なのでは無く、物のあり方の心への反映なのです。 つまり、把握の仕方と言う私達の働きかけが、独立した精神世界の無から生まれて来たという結論を拒むものとしてあるのです。「太陽」と言う語の意味は、その語が指し示す物を言うなら、夜太陽が空にいなくなると、「太陽」と言う語の意味は無くなったと言う事なのだろうか。それは空から見えなくなっても別の空にあるのだから、なくナつたと言う事では無いから、言葉の意味である、指し示す物は存在しつづけるのです。しかし指し示すものが、爆発して無くなったならば、語としての「太陽」はあっても、意味が無い言葉であると言う事になる。しかし意味の無い「太陽」と言う言葉とは何であるかと言う事になります。

「お日さま」:「お」と言う接頭語、物事に丁寧に対処する話し手の気持ちを表す語、「さま」もまた相手の人に対する敬意をあらわす語である。「太陽」を敬意、親愛の対象として人格化として捕らえた表現である。
−−問題は、「お太陽さま」と言わずに、「お日さま」という言い方であり、同じ物を「日」と言う語で指し示すか、「太陽」と言う言葉で指し示すかと言う事なのです。この場合、<同じ物>と言う言い方は物体と言う次元での言方であり、それがある場の中にあるものと言う次元で捕らえられているのです。その場を含む事ことが、指し示されているのでしょう。SUN、太陽、日 の違いであり、ヤマトコトバとしては「日」であり、漢語として「太陽」であり、英語では「SUN」と言う事なのです。日本語で「SUN」と言う語彙で、太陽や日と同じ使い方をすれば、それは指示する対象を同じ物と判断して、日本語に引き付けて使用しているのです。
一つ一つの語は、網の結び目の一つ一つであり、網自体、網全体が、言葉の意味となる。一つ一つの結び目は、周辺に広がり、隣の結び目と重なる場合があり、その重なる部分が、同一の意味を担っていながら次第に別々の意味を担う様になる。
類似する語を区別する。
「ユフ(結)」と「ムスビ(結)」との意味を考えてみる。
「ユフ(結)」:むすぶ、縛る、くくる。「ムスビ(結)」:つなぎあわせる
ヤマトコトバの意味を鮮明に受け取る為には、ひとまず漢字を離れなければならない。したがつて、「ユフ(結)」と「ムスビ(結)」を共通の「結」の字を使うことに惑わされてはならない。
「ユフ」:すべて他人の自由を排除するために、その物に何らかの印を付けるのが古い用法である。
「ムスビ」:万葉集では草の根を結ぶ、松の小枝をむすぶとつかう。これは長寿多幸を祈る習俗である。
第三章 語の意味は展開し変化する。
語の根源的意味を受け継ぎながら発展した物であるばあいが少なく無い。

日本語練習帳 大野晋 岩波新書

第二章 文法何か嫌い−−役に立つか
ハとガ
英語を中学で始めると、英語の「主語−述語」と言う文法が、日本語の文法を考える基本として定着する。しかし英語の「主語−述語」を日本語に当てはめようとすると必ずしも旨く行かないのです。
私<が>大野です。
私<は>大野です。
両者を「主語−述語」で文が成り立っていると言っただけでは、その差は何も分かりません。
日本語のセンテンスの構造を理解するには、<ハとガ>とは何処がおなじで、何処が違うのかを良く見極める事なのです。

ハの働き(1)・・問題を設定して下にその答えが来ると予約する


山田君<は>、ドウシテイルカトイエバ、・・暮らしている。・・・・「主語−述語」で理解できる。
それを繰り返している間は、ドウナルカトイウト、受からないだろう。・・動作の主とは考えない。
<は>は、動作の主だけを言わず、その<は>に依って話の場を設定し、下でそれについて新情報を加えるのです。<は>の下の答えは、どれかと求めるのが、日本語の文章を読む骨です。

ハの働き(2)−−対比

山田さん<は>碁<は>打つが、将棋<は>指さない。
山田さん<は>で、まず話の場を設定します。その答えはそれ以下全部です。碁<は>、将棋<は>の<は>は、碁と将棋とを向かい合わせる役目をします。これを対比の<は>と言います。
私は、ネコは嫌いです。
<私は>の答えは、<嫌い>です。<ネコ>は<嫌い>の対象物です。<ネコは>の<は>は、二つ目なので対比の<は>になります。「猫は」と有るだけで、「別の何かは(好きだけど)」が裏に有るのです。表面に表していない背後に、何か対比がある。
「私は、ネコは嫌いです。私は、ネコが嫌いです。」・・・・私と言う主体における嫌いという感情であり、その感情は私の中に生まれる。対象物に対して、感情が生まれると言う事なのです。猫と言う動物に対して、嫌いと言う感情が生まれているのです。問題は、その猫についている<は>と<が>の違いがなんであるかと言う事です。確かに違った意味で使っているのであり、それを使い分けている事で違いを実践的に了解している。その実践的了解を分析的了解にする事が、ここでは問われているのです。
<猫は>の<は>に対して、対比と言う視点があると言う事で説明しようとするのは、猫は好きだが、犬は嫌いですと言う場合、<好き−嫌い>の感情の対比から、犬と猫が対比されていると言う事でしかない。ただ犬と猫とを並べてはいるが、「は」は、その内の犬だけを表していているが、いつも裏には別のモノに対する感情が控えているのだと言う判断をあらわしているのです。
それに対して<私は、猫が好きです>と言う<が>は、犬や猫やキリンがいても、その中の一つである猫に対して、感情が成立していると言う事なのです。
<は>がつく主体は、好き嫌いの感情によって識別されたモノとしての<犬や猫やキリン>で有るのに対して、<が>がつく主体は、個別的なモノとしての犬や猫やキリンに対して、その中のひとつとしての猫に対して好き嫌いの感情を持つと言う事なのです。

猫がきらい。犬がきらい。キリンが嫌い。豚がきらいと言う様に。「が」は、一個一個に対しての感情であるのに対して、猫は好き。犬は好き。キリンは好き。豚は好きと言う時の「は」は、猫と指定した時に猫に対するモノとしての犬と言う対比で、猫を扱うのです。問題は、<は>に対比の働きがあると言う事ではなく、猫にしても犬にしても、その扱いに特徴があり、その猫の特徴を捉えた判断が、<は>や<が>として表されるのです。
現実の文があり、<猫は好き>と<猫が好き>とは、違った意味があるのに対して、その違いは<は>と<が>によって作られていると考える所に過ちがある。<猫好き>と言う同一なモノにある違いが、<は>と<が>によって表されていると言う事なのです。<猫>と<好き>は共通であり、その共通なモノが<は>と<が>により、別々の意味を表すと言う事なのです。それに対して、<は>の使用して有る文を例文として取り出し、その意味の違いを<は>の働きの違いとして説明しても、ただ違っているモノの例題が沢山取り出される事になるだけなのです。
コトバが、人間の概念認識を文字や音声として表現したものであるなら、<私は、猫は好き>と<私は、猫が好き>とは、その概念の違いと言う事です。<猫は>の猫は、種類としてのモノであるが、<猫が> の猫は、個別としてのモノであるのです。
ある特定の形や仕草をする個体があり、その個体の種類という側面の認識を<猫>と言うコトバにあらわします。<私は、猫は好き>と言うコトバは、例えば家で飼っているモノは、個体としての一つでありながら、種類としてあり、その種類という側面の認識が<猫>と言うコトバとして表されている事が始まりであり、家にいる二つのモノの内<猫>と呼ばれている個体ではなく、<犬>と呼ばれている個体を選択している時、<犬が好き>となり、それらの個体にあって、種類性の面から<猫と言うモノは、好き>となるのです。
私が家に帰り、炬燵で丸くなっているモノを見ながら、<猫は好きになれない>と言うコトバを発するなら、それは炬燵で丸くなっている個体としてのモノにある種類と言う側面が有るから<好きになれない>と言う事です。しかしどう見ても丸ごと<猫>なのだから、目の前のそれが<好きになれない>と言う事になります。又さらに炬燵で丸くなっているモノをみながら、<猫が好きになれない>と言う場合、例えば、わが家の<炬燵の側にいる個体と庭にいる個体>との中で、猫と呼ばれている個体を選択して、<猫が好きになれない>と言うのです。同じく炬燵にいる個体を選択していても、その個体の種類と言う側面としての猫性により、<猫は、好きになれない>というのです。
どちらも炬燵の側で丸くなっている個体が対象であるが
−−−わが家には、他に同じモノが4匹いるのであり、それらはすべて<猫>と呼ばれているのです。4匹のモノは、その形態等で等しいのであり、その等しいモノの側面の認識が、<猫>と言うコトバに表されています。その側面の認識を表している<猫>と言うコトバを、炬燵で丸くなっているモノを指示するものとして使います。コトバは、あくまでも認識を表しているが、そのコトバを、炬燵で丸くなっているモノに名指しとか指示として使用する事で、指示されているモノが、共通性としての種類を持つのではなくて、一匹のモノに<猫性>なるモノがあるのでなく、それ自体として、全体に<猫>と名指されるのです。私達の認識は、目の前の一匹に対して、他のモノとの共通性を捉えるのであり、共通性以外はそこで切り捨てられるのです。私の目の前で炬燵に丸くなっているモノに対して、共通性は、<猫性>として表されているのであるが、それ以外は、共通性から切り捨てられてしまうのです。しかし<猫>と言うコトバを炬燵で丸くなっているモノの名前として使用すれば、それは目の前の丸くなっているモノ自体が、<猫性>の現実態となっていると言う事なのです。共通性とその抽出する時に切り捨てられたモノと言う区分がここでは無くなり、丸ごと<猫性>の現実態となるのです。つまり、コトバによる<名付け>とか<指示>とか<レッテル>等の人間活動により、私達にとって目の前のモノが、丸ごと<猫性>の現実態と言う事になるのです。認識としては、認識の対象に対して、共通性とそれ以外と言う区別を付けるのであるがその認識をコトバやその他の物質による表現を介する事で、その認識としての区別を統一体として扱うことが出来るようになったのです。ただコトバによる表現形態は、区別されたモノを別々な語彙として表して、その上で一つの文として、統一すると言う事に成るために、どうしても、区別であるモノ同志が区別のままに、表に現れてしまうのです。文自体が、その統一体である事を実証していても、区別されたモノが諸語彙としてあるのです。<コインの裏と表は、一体である>と言うコトバは、コインの側面は一体どちらに入るのかと言う事を説明していないのです。裏と言うコトバで指示されるモノと表と言うコトバで指示されるモノがあるが、その裏面と表面と呼ばれているモノが一つのコインの裏表である事を、切り放せないと言うコトバで表しているのです。10円玉の裏と100円玉の表は、全く別々のモノとして有るのだから、両者は切り放されているとは言わないのです。一つのコインがあり、そのコインが分析の対象となるのです。こちらが表で、こちらが裏でと言う様に指示されても、裏表が、一つのコインから二つに分けられるのではなく、あくまでも一体と言う事なのです。−−−
その対象たる個体を指示するのに<猫>と言うコトバを使い、その対象の種類と言う側面を問題にする事が、<は>で表され、その<猫性>を<猫は>と発言するのです。同じく個体を指示するのに<猫>と言い、その個体の他の個体との一個性を、と言う事は、多数の個の中の一つを<が>で表すのです。この<多数の中>と言う集まりを、例えば<わが家にあるモノ>と言う集合体であり、学級と言う集合体であったりと、無限にある集合が捉えられているのです。<猫>はコトバとして、ある集まりの中の個体を指示していて、その<猫>と指示される個体に対する私の感情を<私は、猫が嫌いだ>と発言するのです。その個体は、例えばわが家の動物の一員としての個体であったり、家の中で飼われるモノの一員であったりと言う、集合体の一員と言うレベルなのです。その一員たる猫と呼ばれる個体は、一員としての集まりが念頭に入れられているのです。

ハの働き(3)−−限度

(a)お寿司を三つ、六時に持って来て下さい。
(b)お弁当を三つ、六時には持って来て下さい。
(a)は、ただ「六時に」と時間を指定するだけです。(b)は、時間の限度を明示する。<六時が限度><六時までに遅れないで>と言う意味になります。
<に>では、1時、3時、10時と言う様に個別化されたモノとして扱われているのです。個別化は一個一個が、個として有るだけで、数量として扱われるだけなのです。それに対して<六時には>の<は>はその個別化された一つである「六時」と言うモノに、特定の内部構造を規定するのです。5時でもなく8時でもなく、あくまでも六時と言う時間が選択されるのであり、選択の基準として、例えば食べる時間とか皆が集合する時間と言う規定された時間となるのです。地球上の時間は、天体現象としての日没や夜明けと言うそれぞれの特徴を持つ時間として経過していくのであり、その特徴を時間の規定として、私達が意思するのです。つまり一律に経過する時間を、時計と言う計器により、一日=24時間と言う時間の個別化をして、1時〜24時と言う細分化をするのです。1時、2時、3時と言う個別化は、その時間の変化を順序として表しているだけなのです。
時間を個別として扱うのは、<に>であり、その個別としての時間に構造を付加するのが<は>と言う事なのです。24時間の順序である時間を、特定の時間と規定するのが、<は>と言う事です。
<私は、今日の六時はいけません>と<私は、今日の六時にいけません>との区別を考える。
前者は、六時以外の時間の選択は出来るが、六時は、その六時の特定の理由ににより無理であると言う事です。個別化されている時間を前提にしながら、その中の一つとしての六時と言う時間に、特定の構造を考える事、つまり、個別とは、外面的同一性でしかないが、その個別に特定の内的構造を考える時、初めて一つであるはずの個別が、それだけで他の個別に関係なく、捉えられる事になるのでする。この個別を特殊と言うのです。このAと言う個別として有る特殊を、たのBと言う個別との共通として規定するとき普遍と規定するのです。特殊とは個別として有る共通性であり、普遍とは、諸個別の共通性と言う事です。後者は、個部として有る各時間に対して、<いけない時間>として六時であると言う事です。

ハの働き(4)−−再問題化

<私が行くか行かないか「は」、分かりません。>
「私が行くかいかないか」と言う事は、問題として、話題として確定的で揺るぎ無い事だと<は>が決定しているのです。その確定的な情報に、新しい情報として「分からない」と言う事が加わったのです。つまり<は>は、事柄・事実が確かだと言うのではなく、問題として確かだと言うのです。これが日本語の<は>と言う助詞の特性です。
美しくは見えた。・・・・美しく見えた。===美しく無かった・・・・・美しくは無かった。
訪ねては来た。・・・・・訪ねて来た。====訪ねて来なかった・・・・訪ねては来なかった。
<は>が加わると、<美しく見えた。しかし、べらぼうに高かった><訪ねて来た。しかし、遅く来た>の様に、何かの保留がついたり、条件がついたりして、単純な肯定や否定では終わりません。否定は全面的否定ではなくて、保留とか部分否定とかになります。
「美しく」「訪ねて」と言うのは、切れていないがそこで一応の判断を下している。その下の<は>の働きは、すぐ下に有るモノを問題として確定した事を設定する事です。<美しく><訪ねて>と肯定の判断を一度は確定的に下します。それにも関わらず、それを再び<は>で問題として設定し直した。それは再問題化であり、直上の判断に保留条件を付けたり、否定したりする事に繋がります。
<は>は、すぐ上にある事を「他と区別して確定した事(モノ)として問題にする」と言う事です。
例えば、私は、私の目の前にあるチューリツプの花について、それが美しいと判断している。その判断としての<美しく>は、私が視知覚しているチューリップについてであって、私の頭脳の中の局所には、その視知覚から取り入れた対象の像があり、その像の成立は、脳の局所に成立しているが、その局所での成立は、しかし私の目の前のそこに<チューリップが見える>コトバになるのです。つまり脳の局所で像が成立している事と、その像の内容が、私の目の前のそこに<チューリップが見える>との区別をしなければ成らないのです。さらに他の局所で同時に<美しい>と言う判断が成立しているのです。その目の前のチューリップについて、<美しい>と言う判断が成立している時<チューリップが見える>のであり、その見えている時に、チューリツプは、美しく見えているのです。そこにさらに<チューリップは、美しくは見えた>と言う時、そのチューリツプには別に大きすぎるとか値段が高いとかヒトのモノであるとか言う判断が加えられている事を、<は>で表すのです。たんに<チューリップは、美しく見えた>と言う事では、判断の一つが表されていると言う事なのだが、<美しくは見えた>と成ると、美しいと言う判断以外の、例えば値段が高いと言う判断も成立していると言う事なのです。