読   書   日   記

私が日々目を通す書物に対して、私の今の視点と、了解できない観点を書き抜き、それをどのように理解すると、私の了解になるかを目的に日記風に綴っていきたいと思います。

−−−−−−−−2002年08月05日−−−−−−−−

へ−ゲル 論理学(哲学の集大成・要綱 第一部) 長谷川宏訳  作品社

第一部 論理学
論理学は純粋理念の学であり、思考と言う抽象的な場で展開する理念の学である。
思考の学、思考の具体的内容と法則の学
思考そのものは、論理的な理念の展開する一般的な枠組ないし場をなすにすぎない。理念は、思考の形式として現れるものでは無く、思考独自の具体的内容と法則が思考の運動として次々に展開し、もって全体をなしたものの事で、その内容や法則は思考の内ですでにあり、目の前に見い出されると言うものでは無い。
−−思考と言う場(抽象的であるなら、具体的な場は、感性とか感情となる)とその場の上で展開された理念の学を論理学と言う、その展開された理念は同時に思考自身の展開でもあると言う事。思考自身の展開の具体的内容と法則を理念と言う。思考自身の展開の具体的内容とその法則についての学を論理学と言う。
論理学は、直感や幾何学の様な抽象的・感覚的なイメージを相手とするのでは無い。思考の展開を相手にする。<相手にする>限り、一定の力と熟練を必要とするのだから、その限りでは、最も難しい学問である。内容は「存在、無、限定、大きさ、それ自体、自分に対して、一、多」など、最も知られたものであるが、よく知られているその事が論理学の研究をかえって難しくするのです。
論理学の対象は、思考であると言う事。−−この時、人は、自分の経験する考えると言う事が、対象になっていると理解するのです。今考えていた事が対象になるとして、<どのように>と言う事が新たに問われるのです。つまり、自分が今考えていた事に対して、反省をする事は普通であり、その反省によって次には別の方法を考えようと言う判断が産まれたりするのだからだ。
思考:(a)精神的な働きや能力の一つとして、感覚や直感や想像、欲望や意志などと並列される、普通の、主観的な意味での思考である。−−精神的な働きとしてある個別的な能力として、感覚や直感や想像、欲望や意志や主観的な意味での思考が区別されるのです。<身体的働き----精神的働き>と言う区別の上で、さらにその区別の各々について、個別的なものが把握される。身体的としては、<走る、掴む、跳ねる>と言う個別的なものが把握されているのです。認識の本性と種類を捕らえるには、感覚とイメージと思考の区別が不可欠なのです。

「感覚」:外的起原−五官ないし感覚器官−から説明される。しかし、感覚器官の名を上げても、それによって捕らえられる感覚について、何も言った事にならない。感覚と思考の違いは、感覚が個別のものに関わる点にある。互いに並列の形式と前後の形式をとる。
「イメージ」:感覚的な素材を内容とするが、内容が私の内にあると言う性格や、一般性、自己関係、単純さと言う性格が与えられる。イメージの独自性は、イメージの内容が個として現れる点にある。

感覚的なもの特徴として、個としてバラバラにあると言う定義が示された。付け加えて言えばこの定義それ自体はがまた一般的に思考されたものである。
−−感覚的なものを個として、バラバラなものと定義すること、この定義は思考の領域で成立っている。個として定義する事で、多数の個を見おろす位置がイメージされる。感覚としては、その個として感覚するのであり、他の個に対して自らを表すと言う事ではないのです。個としては、個以外の上から見おろすといったイメージでは無いのです。ライプニッツのモナドの様に、他のモナドと関わらないのです。視覚と言う感覚は、其れだけで成立し、聴覚もまた其れだけで成立しているのであり、視覚が聴覚に関わるとか言う事では無い独立性としてある。目で見、耳で聞き、肌で触れ、舌で味見をし、鼻で嗅ぐと言う事であり、それらに対して、個として一つの集合に入れるのは、つまり、どの個も感覚と言う定義で統一されるのは、思考のレベルから<感覚>と言う覗き窓から見おろす事なのです。思考と言う高みから、感覚と言う覗き窓に入って来るものが、各感覚なのです。<感覚>と言う言葉は、思考のレベルで規定された覗き窓であり、その窓の領域に見えるものが、個々の感覚、見る、聞く、嗅ぐ、触る、味わう、ということになる。窓から、個々のモノが見える事と、個々のモノである事の区別を行わなければならない。感覚として成立していながら、多様なものを見聞きしながら、同時にその見聞きの能力を、思考の世界に開かれた、感覚と言う窓である事を知る事で、思考が一つの構造体として成立している事をしるのです。コンピューターのディスプレーに目を向けながら、思考を文字に記しているのは、見ると言う感覚を介して、思考を手の動きでキーボードから文字を打ち込む事なのです。思考は、見ると言う世界に繋がっているのであり、思考の世界に開かれた感覚と言う窓と、その窓から見える五つの感覚<さしあたって、「感覚」と言う言葉を使用しなければ、思考の世界では話が通じないからであり、五つの感覚とは、思考の世界に開かれた窓の名であり、その窓の名に依って集合された個別のものなのです>は、其の繋がりを視覚的な言葉で表現しているのです。思考の世界に開けられた窓に付けられた<感覚>と言う名前は、その窓から見える集まりの個々を対象とするのである。名前は思考の世界の個別的な窓の一つを、文字や音声に対応づけたものであり、其の窓から見えるものに名前がついているのでは無い。つまり、その窓から見えるものである個々のモノと文字や音声が対応しているのでは無く、思考の世界の窓が対応し其の窓から見える個々のモノは、窓と言う枠に入って来る対象となるのです。
所で、思考の世界の窓とそこから見える個々のモノとを、論理的な関係と規定せずに、思考の世界の窓をあたかも<神>の存在の様に考えた場合、思考は、個々の<見る、聞く、触る等>に対して超越的存在になってしまうが、あくまでも思考の世界の出来事、つまり論理的な関係であり、思考と個々の<見る、聞く、触る等>とは、超越論的関係になるのです。超越的と言う時、個々のモノを結び付けるのは、神自身の能力であるが、超越論的と言う時、思考の働きが個々のモノをまとめると言う事であり、其れが実現されれているのが、思考の世界に開かれた窓としての言葉に他ならないのです。

思考:主観的な働きとしての思考、つまり記憶、観念、意志能力などの能力
とすると、思考の具体的な内容は、経験的に知られる思考の法則や規則です。法則に従う思考の働きを考察するのが、これまでの論理学の内容と去れて来たのです。
「自分で考える」と言う言方が、特別の意味をもつている様に思われているが、実際は他人の為に思考など出来ない相談で、それは他人の為に食べたり飲んだり出来ないのと同じ事だ。
−−<他人の為に飲んだり、食べたり>と言う時、ある食べ物が毒であるかを確かめるのに、誰か1人が食べてみて、人間の身体の合うかどうかを確かめられるのであり、そう言う意味でしか、他の人の代わりに食べる事ができるとは言えないのです。皆自分の為に食べるとは、1人1人の身体は、各々栄養を補給しなければ維持出来ないからだと言う事であり、食べ物が毒かどうかの確認の為に食べるとは、人間の身体があるなら代わりは誰でも良いと言う事なのです。それと同じ様に、何かを考えるのは、各々の人間の頭で行うのだが、Aと言う問題の解決の為には、解決の能力さえあれば、誰が考えても良いと言う事なのです。他の人にその解決を考えてもらうと言う事なのです。その他人が解決した問題の解決方法を、言葉による表現等を介して追体験して頭の中で重ね合わせる事で、自分も納得するのです。もしその追体験をしなければ、私はそのに一切関わらなかったと言う事でしか無いのです。自分の頭で考えると言う事は、多数の問題に全部関わらなければ成らないと言う事では無くて、関われば必ず頭で考えると言う事なのであり、他人が考えた事も、追体験として自分の頭で考えると言う事なのです。人は他人の言葉を聞く事は、テープレコーダーに音声の音が吹き込まれる事とは違うのです。

思考が事物とつきあう中から一つの概念を作ろうとする時、この概念は、物と無縁な、物にとって外的な内容や関係から成立つことはありえない。「客観的思考」と言う表現が耳障りなのは、思考が普通は精神ないし意識にのみ属するものとされ、客観と言う言葉はさしあたり非精神的なものにしか使われないからです。
論理学の仕事は、思考規定を体系づける試みであって、思考と思考規定の関係は、古代ギリシャ人の「ヌース(理性)が世界を支配している」というのであり、「世界の内に理性がある」のです。
普通の意味での思考では、純粋思考と言えないものがイメージされているが、それは思考の対象に経験的な内容が混じりあっているからです。