読   書   日   記

私が日々目を通す書物に対して、私の今の視点と、了解できない観点を書き抜き、それをどのように理解すると、私の了解になるかを目的に日記風に綴っていきたいと思います。

−−−−−−−−2002年08月14日−−−−−−−−

言語の脳科学−脳はどの様にコトバをうみだすか 酒井邦嘉 中公新書

第四章 普遍文法と言語獲得装置 言語学とはなにか
紀元前1世紀頃、ギリシャ語の文法体系(伝統文法)ができあがり、それはラテン語に適用された。
言語の多様性を学問的に扱う時、言語の分類である。
ラテン語--->ロマンス語派やゲルマン語派の発生。単語の語源を調べてみると、ラテン語の語幹や接頭語・接尾語が、ヨーロッパの言語で共通に用いられている。インド・ヨーロッパ語族と言う分類が、ヨーロッパの言語の共通分類となるのです。
19世紀の言語学の中心は、インド・ヨーロッパ言語が、もうすでにない言語から派生して来たのでは無いかと言う、言語の起原に関する研究であった。比較言語学の成立なのです。
ある単語が異なる言語の間で似ているといっても、厳密な統計的解析を使わなければ、結論出来ないのです。例えば、日本語の「名前」と英語の「name」、ドイツ語「Name」とがよく似ているから、共通の起原があると考えるのには、かなり無理があるだろう。近年の比較言語学では、確率論や統計学を導入して、言語間の類似性を定量的に評価出来る様になった。文法の類似性の問題を「数理的に問題」として初めて扱ったのは、チョムスキーであり、言語の普遍性を明らかにする事に成功したのである。
比較言語学が歴史性を重視していたのに対して、ソシュールは「共時言語学」を形成した。
ソシュールの言語観:形式と言う記号表現と意味と言う記号内容からなる体系(ラング)を、実際の発話(パロール)から区別する。
20世紀言語学は構造主義言語学と呼ばれ、外から観察出来る言語の構造のみを対象とした。これは、基本的には単語の分類学と同じで、言語の内部構造や法則とは程遠いアプローチであった。このような構造主義の強い影響下にあった。ハリス(1909--1992)は、一歩踏み出した。ハリスし、文と文の意味関係を規定する為に、「変形」と呼ばれる考えを導入した。
例えば、能動文「猫が鼠わ追い掛ける」を受動文「鼠が猫に追い掛けられる」に変形する時を考えてみると、一定の規則に従っている事はあきらかである。例えば、名詞はN、動詞はVと言う様なパラメーターを使って定式化した。言語学に代数学を持ち込んだ事で、言語の法則を見い出す基礎を築いたと言えよう。生物の分類:「界−>門−>網−>目−>科−>属−>種」と言う経験的な分類に対して、種を決定する実体として、遺伝子と言う存在に結びついたのである。
チョムスキーは、単語ではなく文の構造に着目した。人間の言葉には、文の構造に一定の文法規則があり、それが多様に変形されうる事を明らかにした。
−−一歩(ぽ)、ニ歩(ほ)、三歩(ぽ)、四歩(ぽ)、五歩(ほ)、六歩(ぽ)、七歩(ほ)、八歩(ぽ)、九歩(ほ)、十歩(ぽ)<ほ、ぽ>の区別について、日本語を母語にしている人に聞いても発音はできるので、区別は実践出来るものがあつても、それを言葉で示す事が出来ない。しかしその実践は、言葉に現れる知識とは違っていても、知識に連なる身体的知識なのです。<ほーぽ>の区別は、音としての口のあけ方の問題であり、数字の発音の最後の音が唇を閉じられている時、次の<歩>は、促音であり、最後の音が唇の開けられている時、清音の発音になるのです。身体が行う実践は、無意識的なものであって、口の開け方の規則性ということになるのです。その規則性の実践は、それが自然なものと意識されると、一歩を<いつほ>と発音する事で、違和感がしょうずるのであり、其の違和感をなくする為に、<いっぽ>と発音し直すのである。一歩を<いっほ>と発音すれば、それが自然性になるのかということなのですが、<一歩>と言う言葉以外にもあるたの語彙にも、その不規則な発音を当てはめる事が無い限り、たまたま<一歩>だけの発音が、違っていても他の語彙に広げられる訳では無いのです。
語順の文法
主語をS、動詞をV、目的語をOと表す事にすると、理論的な並べ方は六通りある。
SOV:日本語や朝鮮語の動詞が平述文の文末に置かれるのです。例えば、「花子を太郎は好きだ」の様に目的語が文の先頭にきてもよいが、OSVを基本の語順と見なす事は無い。強調して話題にしたい単語を文頭へ移動させる現象の一つと考えられる。
−−強調して話題にしたいと言う気持ちがあって、その気持ちを言葉にすると言う事で、言葉が出来ているなら、その気持ちを言葉にする事は、重要な言葉の働きであり、それはたいした事のナイものだと言う訳では無い。つまり、その気持ちを表現する時、日本語としては、OSVと言う順序が可能であると言うその日本語の規則性こそ、重要な事なのです。それが、強調するのに日本語とは違った方式があると言う事が、例えば英語にはあると言う理解なのです。日本語は自由に語順を入れ替えられると言う現象に対して、基本の語順のすれば、単なる一現象に過ぎないと言う理解は、語順を変えたくても決して変えられない言語が合ったりする事に対して、その現象をキチンと説明しない限り、<現象>と言う言葉で終わってしまい、それだけで済んでしまうと言う無意識な前提があるのです。最少1個の語彙から多数の語彙までの集まりとして文が出来上がっているのであり、その集まりに、順序と言う規則があると言う理解なのです。しかし時枝の言語過程説によれば、文とは、語彙の単なる集まりなのではなく、客体的表現である語彙と主体的表現の語彙の結合としてあることです。<語彙の集まり>と言う事に対して、その集まりを<山><高い>と言う二つの語彙が、対象の二つのモノの性質であり、それを<高い山>と言う語順にするかは、日本語としての約束事で決まると言う事なのです。英語には英語の語順があると言う事です。しかし語彙に対して、日本語と英語を同一視すれば、日本語の特性である両表現が媒介的統一として成立している事で、日本語文が成立している事が無視された過った結論を導く事になるのです。
SOVからOSVへの変形は、生成文法理論で、「かきまぜ」と呼ばれている。
サイエンスにおいては、必要な抽象化と理想化をしなければ、本質が見えにくい。言語の脳科学も同様である。母語の使用者を理想化するのと同時に、対象となる言語の範囲を狭めなければならない。
言語の中心的問題
1):日本語を話す時、人間の心/脳の中には何があるのか。
2):人間の心/脳の中にはあるモノは、どのようにして獲得されるか。
3):獲得されたモノは、言語を話す時どのように使用されるか
4):この知識の、表現、獲得、及び使用に関する物理的なメカニズムはなんであるのか。
チョムスキーは、言語知識、言語獲得、言語使用の問題に分けて、言語について取り扱う事を主張した。その結果として、意味論や語用論は切り捨てられた。
しかし、この考え方は、空気抵抗を切り捨てて、飛行機を飛ばす為の問題を扱わないから、ニュートンは間違っている、と言う様なものである。理論の次元があると言う事なのです。
−−何を言語とするのかと言う問は、話したり聞いたり、書いたり読んだりしているもので、<これ>と指示出来るものとしてある。これを現象の確認が出来ているとするなら、ここではまだ<その本質>は解明されていないと言う事になる。つまり、言語の本質は何かと言う概念的な解明は出来ていないが、使用しているものを経験している事で、対象が確認されているのです。言葉を使用する事で、言葉の語順とかルールを実践しているのであり、ルールに間違いがあれば、正しい語順を指摘されながら、語順を覚えて行くのです。その時何故それが正しい語順なのかと言う事に答えられないのは、間違った語順では、言葉が相手に通じないからと言う事以外に無いのです。
人間である限り生得的に備わった言語能力が存在すると考える事で、脳に「言語獲得装置」があると仮定する事で、プラトンの問題に説明を与える事ができる。この言語獲得装置の持つ規則を言語学的に記述したものが、普遍文法である。人の言語には、普遍的な文法の原理が本能としてそなわっていると考えられる。普遍文法に対して、実際に母語(日本語や英語と言った個別言語)を話すときにもちいられる文法のことを個別文法と呼ぶが、個別文法は普遍文法よりも具体的になっている。
−−日本人もアメリカ人も、皆脳に「言語獲得装置」を持っているのに、獲得されたものが、日本語であり、英語であると言う事は、獲得装置でどのように説明するのかと言う事である。つまり、モノを手で投げる為に、腕の筋肉とか骨格とかが説明されても、そこからアメリカでどうして野球が始められたのかを説明することが導かれる訳では無い事と同じである。手も足も無ければ、走ったり投げたりする事がない事と、ボールを取ったり投げたり打ったりする野球が無い事とは、隔たりがあるのです。槍投げをしたり、ブーメランを投げたりする民族に対して、その投げる身体の運動を骨格や筋肉や関節の曲がり方等で解きあかす事で、ブーメランを何故投げるのかと言う問を作る事と同じである。次元が違うのです。日本語と英語の違いを、言語獲得装置の違いであると言う視点を移しかえることは、言葉の違いの生れを、別のものの違いとして説明する事になる。
実際に我々が話す言葉が多種多様に見えるのは、普遍文法のパラメータに自由度がある為である。言語獲得とは、生得的に持っている言語の「原理」に基づきながら、母語に合わせてパラメータを固定して行く過程と見なせる。例えば、日本語では、LとRの音を区別すると言うパラメータは必要ないが、英語では必要である。
−−LとRの音の区別はあくまでも英語だけの問題であり、日本語では<ら>であって、その日本語に対して、<LとRの区別が無い>と言う事は、もともと無いものに対して、区別が無いと言う事は意味が無い事なのである。<ら>しか発音していない日本人が、<L、R>の区別をしなければ成らなくなる時、初めて困難が生まれて来るのです。その困難は、頭の堅くなった人間が、もう一度、一から学習する困難なのです。L音とR音の区別ができる事が同時に言葉の意味の区別ができると言う事が、言葉としてのLとRのの獲得なのです。逆にLとRの音の区別ができる英語を話せる人が日本語の<ら>を発音するのはどちらで発音しても、単に巻舌で発音すると言う事でしか成らない。<ら>音は、どちらかと言えば<L>音であると言う事になる。

普遍文法の「言語の法則」
1):形態素とは、特定の意味を持つ様に有限の数の数の要素(音素)を組み合わせた最少のまとまり
2):句とは、名詞や動詞などの一つのみを主要部とする最大のまとまり
3):文とは、対等の関係にある一対の名詞句(主語)と動詞句(述語)が作る最少のまとまり
この(1)(2)(3)の定義の組み合わせによって、無限に近い形態素・句・文をつくれる事が分かるだろう。
「第一法則」形態素・句・文の階層性は、すべての言語に普遍的に存在する。
「第二法則」文を構成する句の順序や、句の中での語順には、一定の文法規則が存在する。この規則はそれぞれの言語が持つパラメータによって決められる。
「第三法則」人の脳は、有限個の言語データを入力としてその言語が持つパラメータを決定する為の、言語獲得装置を備えている。
この三法則は、あたかも物理学のニュートンの法則の様に理解されるものと成る。

第五 言語の脳科学−言語はどのようにして調べられるか
動物 遺伝子が神経の回路網を決定し、その構造に基づいて、脳の機能である行動が決定される。
 「遺伝子−−脳−−行動」と言う連鎖がある。