読   書   日   記

私が日々目を通す書物に対して、私の今の視点と、了解できない観点を書き抜き、それをどのように理解すると、私の了解になるかを目的に日記風に綴っていきたいと思います。

−−−−−−−−2002年08月21日−−−−−−−−

猫とロボットとモーツァルト 哲学論集 土屋堅ニ 勁草書房

五 何が知覚されるか−−アリストテレスの答え
直接知覚されているのは何か、と言う問題ほど、哲学と常識の違いを明らかにしめす。
直接見られる<-->「人から聞いた、本で読んだ、写真・テレビを通して、カーテン越しに」等と言った仕方によらないで見られるものであり、目の前にあるこの机が直接見られる事には疑問の余地がない。
哲学的反問:直接知覚されるのは、感性的性質あるいはセンス・データであり、物的対象は直接的に知覚されず、せいぜい推論されるものにすぎない。
−−感性的知覚によって得たものを、推論によって組み立てたものが、物的対象であると言う事。電車の線路は、私の位置から離れるに従い、先が細くなって行くのがみえるとき、それが単に<見え>だけなのか、私が立っている場所の線路の巾が小さいのかと言う事なのです。細くなっている場所まで移動してそこの線路の巾を計れば、それは確かめられるのだか、しかしその場所に立って前方をみれば、やはり細くなつていくのです。現に今、私には<細くなっているのが>見えている事に対して、<近くのものより、遠くのものが小さく見える>というのは、今見えている事を、距離と言う言葉を使って言い換えているだけなのであり、<物が目の前にある>と言う事と同じに<遠くのものが、小さく見える>が、成立しているのでは無い。物のあるのが見えていて、さらに見えている現状で物の大小の比較と言う判断がされているのであり、見えの中に判断が構造化される事で、<遠くの物が、小さくみえる>と言う事なのです。遠くにあろうが、近くにあろうが、<物がある>と見えているのであり、その見えの中で、<大小の比較>という思惟、判断がなされる事で、<物のみえ>の中が構造化され、<遠くの物が、小さくあるとみえる>と言う事なのです。物の大小の比較は、二つの物を同一の位置において比較する事で成立するが、みえの世界では、見えている位置のまま比較をする為に、遠くの物が小さいと判断されるのです。物自体は、一定の大きさのものでありながら、私の位置からある遠くの物は、小さくみえていても、だから困ると言う事が無いのは、見る者としての私達は、絶えず移動するのであり、遠くにある物も近くに来るのである。その身体活動によって視覚が絶えず訂正され続けているからです。実際は、遠くの物も、近くの物も、各々の大きさがあるが、見えとしては、遠くのものが小さく見えると言う二分法は、物自体が、私達の視知覚によつて認識される時の現れ方に対する、思考上の区分なのです。
<もの>を<見る>と言う事であり、見る為の知覚器官としての目と言う器官を持っているこの身体存在と<モノ>とは、空間と言う距離が有り、距離はこの身体とモノとの間を対象にしているのです。この距離こそが、<モノ>の見え方として現れているのです。身体たる私から、別々の距離にある二つのリンゴは、遠くにあるリンゴと近くにあるリンゴであり、遠くにあるリンゴの方が小さく見えているのです。これは私達に現に起きている視知覚現象であり、その現象から、思惟の内容として距離とかモノ自体とかを取り出して、言葉として説明し構成するのが、私達の認識運動と言う事なのです。同じ大きさの二つのリンゴとは、同一の<ノギス>で計られた事で明らかにされたものである。ノギスをリンゴに接触させる事でノギスに現れた数値がリンゴの大きさになるのです。つまり、私が見るノギスの形が表す数値は、遠くにあっても、近くにあっても、どの距離にあっても、その距離に関係なく一定の数値として現れていると言う事なのです。リンゴの様に、遠くのモノが小さく近くのモノが大きく見えると言う事にはならないのです。その様に計測された同一の大きさのリンゴが、距離の違いにより、大きさが違うと言う事なのです。両方とも計測して同一の大きさであると確認してあっても、見えとしては別々の大きさなのです。私達が自分の目で、計測を伴いながら同一の大きさを見ている時、そのリンゴとノギスと私達の距離とが、近接の距離が規定されているのに対して、別々の距離に置かれている二つのリンゴには、視覚からの距離を大きさの判断に組み込まれているので有り、それが近くのモノと遠くのモノの大きさの違いと言う事なのです。見た目の通りに見えている遠くのモノと近くのモノとの大きさに対して、そのモノ自体の大きさを調べるのは、三角測量と言う方法を使用して計測する事でなされるのです。見た通りのモノの大きさが、一定の方法を経て計測された大きさが、そのモノ自体の大きさとして結論されるのです。見た目の大きさがそのまま使用されるのであるが、それは近接の距離による計測を介する事でなされるのです。距離のあり方の一つに近接があり、その近接によるモノの大きさが、三角測量の基準になる事で、遠距離にあるモノの見た目の大きさが、その基準の大きさに還元され、距離に関係ないモノ自体の大きさの確認になるのです。
汽車線路が、私の位置から遠ざかるに従ってその幅がせばまって<見える>。実際は線路の幅は一定で有る事が、その線路に従って歩き続ければ、自分の目で確認できるのです。見た目の確認だけではなく、線路の幅の棒を持ち、それを 線路にあてがえば、それで同一の幅であると確認出来るのです。目の位置からの視覚認知による対象の大きさは、目をもつ私の身体存在と対象の位置関係により規定されるのであり、私のいる位置から遠ざかるに従って幅がせばまって見えていると言う事なのです。線路に平行な幅が有る事に対して、私達は歩く事でその地点地点での幅を確認出来るのであるが、それを一地点に立ち止まって、視線を線路に合わせて向けて行くと、立ち止まった地点での線路の幅に対して視線の先に行くに従って線路の幅はせばまって見えるのです。私の身体存在は、歩きながらもその足が立ち止まっている地点での線路の幅が、一定の幅として有ることがわかるのだか、しかし視線を先に向ければ、相変わらず線路は幅がせばまって見えるのです。

認識の成立過程を解明する、と言う哲学の重要課題を果たすためには、特定の用法を基にした概念的枠組みを設定しなければならない。例えば、「見るとは、全部を見る」とすると、今私が見ている机は、こちら側の面見せているのであり、見えているものから、推量や想像力で全体を作るのは、私達の頭脳の力なのです。
アリストテレスの考え方(デ・アニマ):
知覚の対象は、「自体的に知覚されるもの=自体的対象、感覚的性質」と「付帯的に知覚されるもの=付帯的対象、物的対象」に二分される。
自体的対象は、一つの感覚能力のみによって知覚される固有の対象(色、音、臭い、味、温度、湿度ね硬度等)と複数の感覚能力によつて知覚される共通の知覚対象(形、大きさ、数等)の二種類がある。
一判的になっている解釈:その区別は、直接知覚されるものと間接的に知覚されるものとの区別であると言う事。直接的に知覚されるのは、感覚的性質だけであり、物的対象は全く知覚されないか、推論や解釈やその他の認識能力を援用してのみ、物的対象に到達できる、と考えており、それを<自体−付帯>の区別で表している。
感覚器官は知覚能力によって定義され、知覚能力は対象によって定義される。この立場に立てば、個々の感覚能力を定義する為には、対象を分類しなくてはならなず、その分類の第一歩がここで立てられた自体的対象−付帯的対象 と言う区別である。
文章からの理解<知覚動詞の非認識的用法からの理解>
「ライオンが兎をみている。」と言われる場合、この文はライオンが兎を兎として認識しているかどうかに関係なく真でありうる。ライオンは知覚の内容を報告出来ないし、また見誤つているかも知れないし、あるいは何も判断していないかもしれない。この文が偽になるのは、ライオンや兎がいない場合であり、ライオンが視力を持っていなかったり、ライオンが兎の方向に視線を向けていないとか、兎の動きを眼で追わないといった場合である。<視線を向けている>と言う事であり、視知覚が成立していると言う事をいっているのでは無い。見ている当人がどんな事を認識していても、或いは認識していなくとも、その表現の真偽には関与しないという意味で、非認識的である。
−−私の隣に母親に抱かれた赤ん坊がきて、顔をこちらに向けているので、私も顔を向けて眼をみつめると、赤ん坊と視線があつたので、赤ん坊も私を見ていると判断して、赤ん坊の正面から、少しばかりずれ対置に移動して赤ん坊を見ると、相変わらず正面を見ていて、「あ!赤ん坊は、私を見ていたのでは無い」と結論するのです。赤ん坊は正面にあるモノを見ているのであり、移動する者を視線で追えば、はじめてそれを見ていると言う事になる。
ある行為が認識を必然的に含むと言う事と、その行為そのものが認識として分類されると言う事は、全く異なる事柄です。

六 誰もいない森の中で木が倒れたら音がでるか−アリストテレスの解決
この問題には、簡単な解決がある様に思われる。
音を出していたものが音を出さなくなるには、真空にする。木の組成をかえる。常識的には、そのような特別な出来事が起きないなら、単に聴力を持った者が近くにいなかったと言うだけでの理由で、音を出さなくなったとは言わず、目を閉じたらカラーテレビが色を失うとは考えない。人間が聞いていなくとも、木が倒れたら音がでるはずである。これは自明の事の様にさえ思われる。
−−この自明さは、木の倒れる事で生まれた音が、空気中を伝わり、耳に入って来るのであり、耳を塞げば、耳もとまでは来るが耳の中に入って来ないので、聞こえていないと言う事なのです。空気が無くなれば、伝達する途中のものがないから、耳まで来ないので、音を聞く事が無いと言う事なのです。音は、そこで生まれていて、それが人間の耳に入る事で、音を聞くと言う事なのです。音は、人間が聞こうが聞くまいが、そこで生まれているのです。これが全く当然な事の説明なのです。耳の外側に<音A>があり、その音Aが耳から入り、脳細胞で<音B>として聞かれるのです。<音A>が空気の振動として伝達し耳に到達する事で<音B>として聞かれている事について、その空気の振動による伝達は、伝達の手段だけなのです。電車の車輪がこすれる音が、レールの振動としてレールに耳を当ている私に知覚されている時、鉄のレールの振動が伝達の手段となっている。音の伝達の手段としては、一方は空気の振動であり、他方は鉄の振動であると言う事になる。しかし各伝達の手段を抜きに、木々の倒壊のエネルギー、電車の車輪の鉄をこするエネルギーを<音>とするわけにはいかないのです。
空気や鉄や液体を振動の媒体とするとき、これらはあくまでも媒体であり、<木々の倒壊運動><電車の車輪の鉄をこする運動>が、これらを振動の媒体とする原物としてあり、媒体を介して耳の鼓膜の振動に変化して内耳から脳細胞で処理されている事を、私達が<音を聞いている>と言う言葉に表されているのです。過程の一つ一つを切り放せば、それぞれが<音>であると言う事にはならない。物理現象が<音>なら、この世界には<音>があふれている事になる。さしあたって<音>と言う言葉は、私が耳で聞いているモノを指示しているのであり、単にあふれかえっている物理現象を指示しているのではない。木々の倒壊運動が作り出すエネルギーがあり、そのエネルギーによる空気の振動が、空中を伝達し、私達の耳からはいり鼓膜を振動させると、その鼓膜の振動運動が作り出す内耳の電気的化学的変化が脳で処理されている事を、私達が音を聞いていると言うのです。つまり、現に<私が音を聞いている>と言う知覚運動にたいして、その構造を過程として示したモノが今説明した事なのです。聴知覚認識とは、私が現に耳によりトラックのエンジン運動を音として聞いていると言う事であり、その認識運動の構造を過程として示したモノが上の説明と言う事なのです。とするとその過程の内、耳の鼓膜の振動が作り出す内耳の化学的電気的変化による脳処理を認識と指示することは、認識が人間の身体も耳からはじまる脳細胞の働きであるなら、確かにそう規定する事ができる。しかし認識が脳細胞の働き出合っても、認識としてはその内容を持っているのであり、その内容の成立に、<エンジンの動作と言う物理現象、その動作が作り出す空気の振動>が関わるのです。幻聴や耳鳴りが、聴知覚器官の動作として成立していても、その動作には知覚の内容が存在するのであり、それは生まれてから人の頭脳に蓄積されている聴覚表象が意識の表面に現れてきていると言う事なのです。つまり私達は日々五感による感覚認識を行っている時、外部の物理現象により形成される感覚表象を頭脳に認識の内容として蓄積していくのであり、それが時々の脳細胞の自動の成立により音が聞こえると判断される事になるのです。脳細胞の蓄えられる音程と音韻とリズムの聴覚表象が、聴知覚認識の内容となるのです。それはあたかもテープに塗布されている磁気塗料の特定の塗布形態が、再生機にかけられると音声としての音として聞こえる様なモノなのです。脳細胞の神経の結合の仕方に対して、私達が認識の内容と規定する為には、その特定の結語が形成されるとき、その認識をするこの身体の活動が特定の形態となることで、初めて認識の内容となるのです。風の流れにより海面に波が立つとき、液体としての海水の性質により波面になるのだからと言って、海水の性質そのものが波面を作り出すと言う事にはならないのです。逆に、波面の形は、風の流れと言う外部の力によって形成されるが、しかしあくまでも海水の性質によって限定されているのです。
生物の脳細胞の働きを認識と言う時、脳細胞を包むその身体が作り出す行動が、認識の対象でもある諸物にたいする働きかけとその結果を作り出していると言う事であり、その働きかけと結果とが、脳細胞の知蓄積されるモノ、脳細胞の神経の結合形態、と関係するからこそ、その関係から規定される蓄積されたモノが、同時に認識内容と言う事になるのです。つまり私達の身体行動が、脳細胞の神経の結合としてある形態によって媒介されている時、その神経の結合の形態を身体行動により働きかけを受ける諸物に対する 五感知覚による得られる認識内容と言うのです。
<脳細胞の神経の結合>を媒介として捉えていなければ、その結合を<音>と規定する事になり、物理現象による空気の振動=音 と言う事なのか、神経の結合=音 と言う事なのかの区別が出来なくなるのです。あるいは「外部にある音が、耳から入り音として知覚される」と言う理屈になってしまうのです。この理屈でいけば、私達が耳を塞いでも、耳の回りには<音>があふれていて、人々が耳を向けなくとも音はそこにあると言う事なのです。しかし耳の回りにあるのは、物理現象による空気の振動であり、その振動により聴知覚器官で感知される時、音を聞いていると言う事になるのです。<物理現象による空気の振動>は、音知覚の認識の内容を形成する<実体>としてあるが、けっしてそれが音であるのではない。耳の回りに有るモノは、耳の中の鼓膜を振動させる実体として有り、その実体により聴知覚に音として形成されるのです。物理現象による空気の振動としての特定の側面が、聴知覚の対象になる時、その特定の側面の事を論理として<実体>と規定するのです。物理現象と耳による知覚との関係があり、その関係が一方の物理現象の特定の側面として規定し他方の知覚を聴知覚の鼓膜の振動と規定するのです。関係によって規定される特定の側面を実体と名指すのです。

これに反する哲学説も出された。
その説の根底に次の様な考え方がある。音、色、匂い、などは元々、人間の感覚能力に依って知覚されるものです。広い巾を持つ電磁波や空気の振動のうち、一部の周波数の部分だけを取り出して、音とか色と呼んでいる。一部を取り出すとき、基準になっているのは、人間の感覚能力であり、知覚されるものだけが「音」とか「色」と呼ばれている。したがって、色や音の定義の中には「人間によって知覚される」と言うフレーズが含まれているはずである。もし「人間によって知覚される」と言う事が音や色の定義の中にはいっているなら、問題の解決は常識とは逆になる。知覚する者がいなければ、色や音は失われるはずである。
だれもいない森の中で音がでるか、と言う問題は、哲学ではもっと広く、知覚(音を聞くこと)と対象(音)の間にはどんな関係があるかと言う問題の一部として考えられて来た。森の中に人がいる場合も含めて、知覚と対象とはどんな関係にあるか。これを正確に取り出すのがアリストテレスの課題である。
アリストテレス「デ・アニマ」
   聞く能力を持つものがその能力を現実に発揮し、音を出しうるものが実際に音を出しているとき、
   現実的な意味での聴覚と現実の意味での音は同時に生起する。我々は一方を「聞いている事」と呼
   び、他方を「音を出している事」と呼んでいる。
この解釈は、「(物体から)現に音が出ている」とは、「現実に音が聞こえている」時、またそのときである。「知覚対象」は「固有の知覚対象」(色、音、匂い、冷、味、温、乾、硬、柔、・・)を指すものと考えられる。
1)解釈
A)現実的な意味での音
 現実的に知覚している音が、現実的に存在する。
−−つまり、<私がいるこの場所から遥かはなれたアラスカの奥地で大木の倒れた音は出るのか>と言う問は、私が現に知覚していない限り、私にとっては存在しないと言う事である。私は、この部屋にいて、アラスカの奥地にいる訳では無いので、その音を聞く事ができないのです。奥地にいる人だけが聞くのであり、もし奥地に誰も居なければ空気の振動は成立しても、誰の耳にも入らないと言う事です。アラスカの台地にある<音>に対して、自分の部屋にいる私が耳による知覚を行うのです。その音は、部屋からはるかな距離の場所に有るために、私の耳にまで到達しないので、聞くことが無いと言う事なのです。アラスカの台地にいるXにとって、そこでの木の倒れる音を聞くことが出来る。
ここで注意しなければならないのは、木が倒れて作り出した<音>と<倒れる木々の倒れる音を聞く>の区別なのです。差し当たってここで使われている<音>と言うのは言葉であり、その言葉が何を指示しているのかと言う事を考えなければならないのです。
木々の倒壊する<音>と言う場合、その<音>と言う言葉は、木々の倒れる運動が空気を振動させることで空気の振動としての物理現象を指示している。その空気の振動が伝達して人間の耳の鼓膜を振動させると内耳から脳細胞で処理されていることを、<木々の倒れる音を聞く>と言うのです。「私は目の前の大木が倒れる音を聞いている」と言う言葉は、私に起きている事を言葉にしているのであり、物理現象の成立とそれについての耳による聴知覚を語っているのです。
そこで<音A>と言う言葉は、木々の倒壊で生じている物理現象を指示しているのであり、<音B>と言う言葉は、現に耳に聞こえて、知覚されているモノを指示しているのです。
知覚すると言う事は、その知覚の主体があるのであり、私が座っている部屋の南窓の向こう側の道路を走るトラックのエンジン音を私が聞いている時、知覚器官を持つ私は、この部屋にあり、この部屋の南側の国道を走るトラックの存在が、空間上の各位置にあると言う事になる。これは、しかし今これを表記している時点での部屋にいる私が、想像の世界で遥かな高みから見おろす事で成立しているイメージに他ありません。高みから見おろす何者かは、走るトラックとトラックのエンジンの振動が作り出す空気の振動を捕らえ、さらにその振動が部屋にいる者の耳に入って行くのを捕らえている。しかし高見から見おろしていても、<部屋にいる私の耳に入る>と言う時、高見から見おろす所から、一気に現にこの私が今エンジン音を聞いている途と所に戻るのです。私は、想像の世界で、その何者かを見上げながら次の様に考えるのです。その高みにいる何者かに耳があれば、彼の耳にもその振動は伝わっているはずであると。その耳に入る振動が内耳から聴覚神経を伝わって行くことで、音として聞くと言う過程を、客観的なものとして示しているが、この客観的過程は、誰にも成立するものであるが、それを音として聞くのは、あくまでも私であり、貴方であり、彼であり、彼女なのです。そしてこの様な客観的な言方は、私が音を聞いていると言う事だけであるのに、私に成立している<聞く>と言う過程を、他者にも当てはまる客観的なものと結論した上で、言葉に表しているのです。そこにある客観的過程とその過程が成立つのは、個々の人間の各々であると言う事なのです。つまり、私は聞いていると言う事なのです。科学者が私の脳細胞を探究して、神経の働きを明らかにしても、聞くのはあくまでも私であり、科学者は、彼の耳の聞く働きを実行していると言う事なのです。科学者が検査機を使用して私の内耳等を調べて、ガラスの割れる物理現象に反応していると分かっても、私が聞いているのであり、彼が聞いているのであり、彼女が聞いているのであると言うことだけなのです。私や彼や貴方等、人々が音を聞いている時、内耳等の変化を検査機器の表示したとしても、その表示を音と言う訳ではないのです。物理現象と感覚器官としての耳との関係であり、物理現象を空気の振動として成分化し感覚器官としての耳を内耳の働きとして実体化すると、耳の内耳の働きによる内容と物理現象としての空気の振動として論理化され、物理現象と耳の働きの関係から見た時、前者を<音>の原物であり、後者を<音>として聞いていると言うのです。前者は一応「音の原物」と言っても、原物の方に支点があり、その原物が<音>と言う言葉として表される聴知覚認識を形成する実体とあると言う事なのです。
物理現象と知覚器官としての耳の二つの間に成立している関係に対して、物理現象が空気の振動として実体化され、耳が内耳の振動として実体化されるとき、関係からみられた、木々の倒壊運動による空気の振動を原物と言い、耳の内耳の働きを聴知覚内容、つまり<音>と言う言葉に表される認識と言う事なのです。物理現象としての木々の倒壊による空気の振動は、そのまま物理現象として成立しているが、それが聴覚器官に知覚される時、その知覚内容として成立している認識を<音を聞いている>と言葉に表しているのです。その認識は別に言葉に表されなくとも、体を物理現象の方に向けるとか言う身体行為としても表されているのです。この時私も物理現象の方に顔を向けるとともに私の回りの人も物理現象にむけて体を向ければ、彼等も音を聞いていると、私は判断するのです。その身体行為によっては、彼は音を聞かなかったとか、耳が悪いのでは無いかと回りの人々が判断する事になるのです。<音を聞く>と言う言葉は私達の知覚認識を言葉として表しているが、それはこの身体存在である私達の存在の特定の運動に属していることなのです。つまり、音のする方に顔を向け、音源の存在の位置を確認したり、音源のあり方を確認するのです。ただ音としての空気の振動が、開け放れた南の窓からはいって来ているから、南にはしるトラックがあると言う事ではなく、道路はいえの北側にあるから、トラックのエンジン音が反射して南窓から入って来ているので、南にトラックがあると判断されているのです。つまり音源に対して空気の振動はその振動の法則性により伝達されることで、音源の位置を条件づけてしまうのです。
両者の関係から見られた聴知覚認識が<音>と言う言葉に表されているのです。<音>と言う言葉を使わなくても、聴知覚認識は成立している、つまり現に音を聞いているのです。ただしこの様な説明の言葉は、あくまでもそれらの一連の聴知覚についての説明として言葉に示されていると言う事なのです。聴知覚認識は耳を介した認識の働きであり、当然私達生き物の行う認識活動は、身体存在による対象に関わる事なのです。物理現象の特定の面が、聴知覚認識の対象になり、認識の内容として成立するのです。その認識の内容が、<音>と言う言葉として表されているのです。聴知覚は、物理現象の特定の面を対象にし、その対象である特定の面が、認識の内容となるのです。この<認識の内容になる>と言う事は、物理現象の特定の面が、それ自身人間の耳から入るにしても、それは耳の鼓膜を振動させる所までであり、鼓膜を振動させれば、後は耳の器官の運動にゆだねられるモノなのです。音源は音源を包む空気の振動として、あるいは液体の振動として、個体の振動として媒介され、その媒体と耳の接触により耳に入ると言う事なのです。鼓膜を振動をさせるのは、外部からの空気の振動であっても、鼓膜が振動すれば後は耳器官の内部の問題となるのです。

幻聴や耳鳴りは、耳の外に何も空気の振動がないのに、本人は聞いていると判断しているのです。
「音を出す」も「音を聞く」も一義的ではない。何か(鐘やラジオなど)が「音を出す」と言われる時、(1)音をだしうる(2)現に音を出している、のニ義を持っている。
「音が聞こえる」にも、(1)聴力を持っている(2)現に聞こえている、のニ義をもっている。
「現実的な意味での音」と「現に聞こえている」事の関係を、どのように考えるのか。
A−1)
幻聴や耳鳴りは、もし「音が出ている」と「音が聞こえる」との間に何の関係も無ければ、幻聴や耳鳴りを「異常な」現象とは考えなかったであろう。これらの現象は、「音が出ていないのに聞こえる」点で異状だとされるが、異状かどうかを判定するには、音が実際に出ているかどうかを知らねばならず、その為には通常、正常な聴覚によって音の有無が知られなくては成らない。
−−幻聴や耳鳴りは、私の耳の内部で、音が聞こえていると言う判断が成立しているのであるが、その聞こえている時に、外部に空気の振動とその振動をつくりの出す物体がある事が、知覚されていないと言う事なのです。つまり、音が聞こえる方向が確定出来ないのであれば、幻聴や耳鳴りと判断されるのです。音が聞こえていると判断されている時、その聞こえるモノの方向に顔を向けると言う身体活動を実行する判断が成立しているのです。この身体があり、五官の知覚とは、現に知覚しているおとや光や匂いなどと同時に、知覚を形成する物に対する方向性を身体に対する方向として、身体の正面を向けるとか、顔を向けるとかして実践して行くのでする。五官の知覚、感性的認識は、現に知覚していることであるなら、幻聴でも幻視でも、区別出来ないが、感性的認識が成立している時、同時に知覚しているものに対するそのあり方を、方向性といった身体性として知覚しているのです。幻聴とか耳鳴り等は耳器官の働きが外部の物理現象によらずに引き起こされると言う事であるが、脳からの指令が出てしまうと言う事なのでしょう。問題は幻聴が成立している事ではなく、その様な幻聴として現れる耳器官から内部までの働きを指令する働きかけが出てくる事なのでしょう。薬物により脳の細胞が刺激されると幻聴であったりするのです。

物理現象<1>−媒体(気体、液体、固体)の振動(物理現象の特定の側面)<2>−鼓膜の振動<3>−内耳の作動<4>−化学的電気的変化<5>−脳細胞の働き<6>−
これらの連続の過程は、私達が「音を聞いている」と言う認識を物理的な特徴から分析して得られたのです。私達の頭の中も脳細胞と言う物体であり、その物体の<働き>として捉えられているのです。このうち脳細胞の<働き>だけが認識と言う事であるなら、それは身体の<足>が歩く事に関わる事と同じであり、逆立ちをしている時には、手が歩くことをしていると言う事なのです。脳細胞の特定の働きを<認識>と言うのであるが、その働きには内容が伴い、その内容として脳細胞に蓄積されている表象がそれにあたり、その表象の原形として外部の物体が規定されるのであり、その外部の物体が運動を通じて、例えば空気の振動として、光りの場合は光子の伝達として、私達の五感器官から頭脳に入り込むと言う事なのです。ただし脳細胞に蓄積される表象は、この身体が関わる物体の取り扱い方も表象として成立しているのです。
「3、4、5、6」が身体の頭と言う部分における働きです。「1、2」が、頭を囲む外部と言う事になります。外部と内部の接点は、耳の入り口を入った鼓膜です。耳の形態と中の穴により、空気の振動が鼓膜の表面に集中する事になる。骨伝導スピーカーは、そのスピーカーの振動が頭蓋骨に直接伝導する事で、鼓膜の振動を抜きにして内耳を働かせ、脳細胞で処理されるのです。
聴知覚認識とは<1、2、3、4、5、6の過程全体>である事に対して、認識活動をするのが、人間の身体の特に脳細胞の領域であるとすると、認識とは<3、4、5、6>と言う事になる。しかし脳細胞の働きは身体のあらゆる運動をも司るのであり、だから脳細胞の働きが認識活動と言う事にはならないのです。細胞を脳内に持つ、脳細胞の働きによりこの身体活動が、身体を囲む諸物によって媒介される時、諸物の諸性質により、活動が構造化されるのです。この身体活動が諸物の性質により構造化される時、諸物の性質の一つ一つに合わせた活動が作りだされると言う事なのです。この身体の活動の構造化が、まさに構造化にかかわる諸物を対象とした、性質と言う知覚認識によりなされると言う事なのです。私達の身体活動は、この肉体に限定されたモノでしかないが、諸物の諸性質の違いにより多様な道具として使うことで、この肉体の大きさを越えた活動を作り出すのです。この<肉体の大きさを越えた活動>が出来るのは諸物を道具として使うことなのだが、まさに諸物を道具として使うためには、諸物の諸性質の違いに合わせた活動をする事であり、その活動の内部に<諸物の諸性質についての知>が成立してる事になる。その知の蓄積場所が脳細胞に他ならないと言う事なのです。重要なのは、諸物の諸性質の知が脳細胞に蓄積されていると言う事ではなく、蓄積内容により身体活動が構造化されると言う事で、別の言い方をすれば、蓄積された知が諸物により表現されると言う事なのです。ここで初めて脳細胞に蓄積されたモノが身体の諸活動を媒介するモノとして<認識>と呼ばれることになるのです。脳細胞には蓄積する能力が有ると言う事が大事なのではなく、蓄積されたモノが媒介項目となり、身体活動を方向づけるのです。脳内出血により、細胞が壊死する事で、自由な身体の動きが損なわれるのは身体の運動を方向づける働きをしているからなのです。細胞の壊死は蓄積された部分が無くなると言う事であるから、表現にも向かうことが無いのです。

A−2)
無人の部屋の様な、誰も聞く者がいない所で音は存在しうるだろうか。この問題を常識的に考えれば「テープレコーダーをその部屋に設置すれば簡単に確かめられる」と言えるだろう。
観念論者の反論:無人の部屋では、音は存在しえない。レコーダーは無人の部屋の音では無く、いまある
        テープレコーダーから出る音にすぎない。
常識の立場:テープレコーダーから出る音は、再生されている今音が出るが、しかしその音は、無人の部
      屋で立てられた音を記録してあり、その記録された音を、今再生していて、私達は聞いてい
      るのです。再生は今行われているが、再生された音は、無人の部屋で発生した音であると言
      う事なのです。
バークリ−は、これらの主張に対して、この議論が実はそもそも出発点から的外れであると考えるのです。「無人の部屋の中や、耳を塞いだ時、音は存在しない」と言う主張は、経験的事実を主張するものではない。したがって「調べてみた結果、音は存在しない事が判明する。」と言っているのでは無く、又その様な音の有無を経験的に調べる手段がない、と主張するのでもない。バークリ−によれば「誰にも聞かれない音」と言う表現は自己矛盾を含む表現であり、論理的に不可能なのであって、経験的に確かめられるかどうかと言う以前に、初めから意味を持たないのである。
私には、神が最初に聴力を創造した瞬間に、空気の振動の有無に自動的に聴力が感応するようなったのであり、<現実的に知覚している音が、現実的に存在する。>様になったのです。アリストテレスに依れば能力は、しかるべき状況では必然的に発揮されるのであって、聴力の場合、正常な条件で音がでればそれを聞くのは、必然的である。
−−部屋で鳴動しているラジオ、そのラジオのスピーカーの振動が空気を振動させているのです。その振動する空気の中にテープレコーダーが置かれているので、マイクロホンの振動板が振動し、その振動が電気の変化に対応しテープの面が特定の磁気溶剤の波として形態化されるのです。その形態化したテープを再生機に掛けると、テープの磁気面の形態に対応した電気的変化を作り出し、その電気的変化をスピーカーの振動として変更することで、スピーカーの振動が空気を振動させ、振動した空気が私達の耳に入り、鼓膜を振動させるのです。それらが、私達の耳からはいり鼓膜を振動させる事で、内耳の変化が脳細胞の局所の変化として現れる時、「それらを<音として>聞いている」と言うのです。私はスピーカーから音楽が流れていると知覚する事になるのです。この場合「無人の部屋のラジオのスピーカーから流れる音楽」とは、<ラジオのスピーカーの振動が部屋の空気を振動させている>と言う事です。私達はその振動を<音>と言ってはならないのです。その振動した空気が耳からはいり、鼓膜を振動させ、その鼓膜の振動が内耳の変化を導き、脳細胞の処理となるとき、初めて<空気の振動>は<音>となるのです。
脳細胞の働きを<認識>と考えるなら、幻聴の様に、薬やアルコールによる脳細胞の暴走により、聞いたり、見たりにおったりしている経験から、脳細胞だけが有れば、感覚知覚が成立すると短絡されてしまうのです。それはSF映画の人間の脳だけを取り出したコンピーターの様に、思考と指示が脳だけが有ればいいと言う考え方の上で成り立っているからだす。各感覚器官を入力とし、更に出力器官とする身体存在を無視している事になる。身体の存在が、脳を一枚の地図にしたときの各場所が、身体の核場所に対応しているのです。
スピーカーの振動が<どんな>振動かは明らかにされてはいないのです。その振動が耳から入り鼓膜を振動させ、その振動が内耳で電気的、化学的変化として、脳細胞で処理される事を、「ラジオのスピーカーから」音楽がながれると言う事なのです。ただここで、脳細胞で<音として>処理されると考えると、脳細胞の入り口までの過程の各段階は、最終的に脳細胞の電気的化学的物質を作り出す、働きをするのです。脳細胞の働きを促すモノでありながら、同時に特定の感覚器官を入り口として入り込んできて、各段階での変化を経て、脳細胞の局所の働きをする時、音を聞いていたり、色を見たり、味わったり、すると言う違いとして現れるのです。外部の物体は、その性質により、各感覚器官のそれぞれを入り口とした、関連過程をへて、脳細胞の局所で処理されるのです。脳細胞は、自己の局所が全体の何処であるかにより<音として、色として、味として、触覚として、臭いとして>と言う判断になるのです。つまり、物体の性質の違いが入力としての感覚器官の違いとしてあらわれるが、その入力経路は脳細胞の各指定された局所で処理される事で、地図の様に全体の中の位置としての、各感性を得ることになる。<音として>とは、今入力してきたモノが、一枚の地図の特定の場所で処理されていると言う事なのです。
−−<脳細胞の働き>が、その前提の各段階を経て成立している事、これは物質としての各段階と言う事であり、その<脳細胞の働き>を、認識と言うレベルで考えると、前段階は、その認識の内容として成立している事になる。<脳細胞の働き>も、局所としての働きとして有り、各局所が入力としての感覚器官の違いに対応し、その入力の違いが、局所の違いで有り、脳細胞の働き場所の違いと言う事なのです。認識が<脳細胞の働き>なら、認識の内容は<各局所の違い>と言う事なのです。<脳細胞の働き>を認識と規定する事は、それでいいのだが、<赤い色>を知覚している時と<黄色い色>を知覚している時とは、 −−現に音を聞いている事が始まりであり、その音を聞いている事の構造が説明されなければならないと言う事なのです。私を囲む環境があって、そこに存在する物の振動が、空気を振動させ、さらに空気の振動が、私達の左右の耳の鼓膜を振動させると、鼓膜の振動が内耳のから生じた電気信号が、聴覚神経を伝達して行き、脳細胞で処理されている事を、ある音源が、私の位置から一定の方向にあり、そこからのモノを音としてを聞いているというのです。処理はあくまでも脳細胞がしているのに、私の右前のモノから音が聞こえると言う判断は、外部についての判断として成立しているのです。脳細胞の働きとして知覚が成り立つ時、対象は、<音として>処理されているのです。処理の内容は、<そこにあるラジオから音楽が流れている>と言う事であり、脳細胞が特定の処理形態を持つ事を、認識すると言うのです。この脳細胞の処理は、私の回りの物体にある特定の側面が、<音>として捉えられていると言う事なのです。つまり<音として>と言う事は、物理的現象が空気を振動させる事が、そのまま<音>なのではなく、その現象が聴知覚されて、現に耳に<音として>聞こえている事をいうのです。だから「私達の回りには音があふれている」と言う言葉は、多様で個別的な物理現象が空気の振動を作り出していて、私達の耳に到達して<音として>聞いていると言う事なのです。それは<物理現象が作り出す空気の振動>と<聴知覚器官としての耳を介した脳細胞>との関係であり、その関係からみられた<脳細胞の処理>を<音として>聞いていると言うのです。この関係は、高い音とか黄色い声とか絹を引き裂く音等の多様な音は、音で有る限り、成立している関係であると言う事です。<音>と言う一般論を語っているのです。
<音として>とは、「音色、調子、リズム」による物態の性質の把握で有り、だから木々の倒壊する音と言う言葉は、その音に含まれる「音色、調子、リズム」として聞いていると言う事であり、それを空気の振動とか鼓膜の振動、内耳の運動、脳細胞の処理と言う一般論で語ることは、現に聞こえている木々の倒壊による空気の振動に含まれる多様な周波数の混合が前提にされている事を、どの様に語ったらいいのかを示していないのです。<音として>とは、音源に含まれる多様な側面に関わらず、皆耳から入ってきて処理されていると言う事を言っているにすぎず、現実にと言う言葉の上ではなく、私が聞いている音には高い音から低い音、金属を切り裂く音と言う様な面までも含まれていて、それを聞いているのだと言う事なのです。つまり、<音として>とは、対象たる物理現象が作り出す空気の振動を概念として認識していると言う事であり、それは物理現象であるモノを個別の存在として、私からの位置や方向を示すモノとして捉えているという事なのです。だから耳で知覚している<音>は、物理的現象の特定の性質を知覚していると言う事なのだが、しかし更にその対象を概念として、<音として>把握していると言う事は、その物理現象の特定の性質であるものが、聴知覚器官を持つこの身体存在である私達から、特定の位置や方向を持つモノであると言う把握なのです。<音として>とは、現に聞いている私が、私の位置からの特定の位置にあるモノとして聞いていると言う事であり、物理現象が作り出す「音色、調子、リズム」と言う側面だけが音で有るかのように、分析されてしまうのは、その分析をしている間も、私の耳に聞こえるコンピューターのうなり音や、時折窓外をはしる車のエンジン音に、私の座る位置からの方向性を知覚している事が、全く当たり前の事として、言葉にする必要が無いと思われているからです。私=聴知覚存在、では無いのであり、椅子に座って思考し、画面に向かって、キーボードから文字を打ち込んでいる存在である事を前提にして、<音を聞く>と言葉にしているのです。だから音源にも固有性があり、それを音の知覚を通じて関わっていくのです。

頭蓋骨を開くと、外部と同じ様に見える物質のできごとであって、開く間では頭蓋骨の内部と言う事なのだか、開いてしまえば、内部などなくなってしまう。そこで、脳細胞が処理する一定の規則性を、外部にあるモノと関係付ける時、物資である脳細胞の活動を認識と規定するのです。その認識を、外部にたいして、内部と言うのであり、その内部は、窓を開けたり、壁を突破らったりすれば、外部も内部も無くなると言う物では無く、脳細胞を形成する身体の活動に対する、内部と言う事になるのです。身体活動は、道具を媒介したりして、身体以外のモノに働きかける時、その活動の選択性を意図するものとして認識が成立するのであり、その認識を内部に生まれるというのです。外部のモノの振動と聴覚器官との関係の内、聴覚器官によって生ずる脳細胞の出来事が<音>なのでは無くて、モノとの関係において、初めて<音>と呼ばれる。とすると、モノの振動は、音では無く、音を形成する実体としてあるのです。耳をふさいだり、無人の部屋と言う言方は、音を形成する実体としての<モノの振動>はあるが、それが音なのではなく、<モノの振動>が、聴覚器官に作用した時に生ずる脳細胞の出来事を、<音>を聞いているという。脳細胞の電気的、化学的活動の特定の規則性が、外部の振動と関係付けられる時、はじめて<音>といわれるのであり、実体としては、一方は空気の振動であり、他方は脳細胞の電気的、化学的活動であるのすぎないが、それが関係として規定される時、実体としての化学的、電気的活動は、<音>と規定されるのです。幻聴とは、聴覚器官に作用せずに、脳細胞に生じた出来事であり、作用しないことから、<モノの振動>の存在を捕らえる事が出来ていないのです。<モノの振動>は、音を形成する実体であるが、その実体と言う事は、<モノの振動>が、私からある方向に存在すると言う事なのです。「私の周りにある<音>が、空気を振動させて、耳から脳細胞に入る」と言う言い方は、全く当たり前の正しいものの様に見えるが、これも<モノの振動=音>としているのであり、関係概念である<音>を、実体概念におとしめているのです。日常の取扱いであるなら、特に問題が生ずるわけではなく、大きな音をしているラジオの、摘みを回して音を小さくするのであり、音はラジオの所にあると言っても良いのです。現にラジオから流れる音楽を聴いていて、大きな音に聞こえているので、つまみを回して小さく聞くのです。音はラジオのスピーカーから流れていると、私達の耳は聞いているのであり、その聞いている中でラジオのボリュームのつまみを左に回すと、だんだん小さく聞こえて来るのです。この私達の行為は、ラジオと言う機械が作り出すスピーカーの振動を、私達の耳を通じて<音楽>として聞いていると言う事なのです。私達にとってラジオのスピーカーから<音楽>が流れて来て、私達の耳から入り、聞こえる様に聞く事になるのです。

A−3)
<「現実的音」=「現に知覚されている音」>について、知覚されるものについて、音が空気の振動であるのは必然的だが「音が出ていれば聞かれる」のは偶然的である。神が音を創造する時、空気振動を創造すればそれで十分である。しかし音が知覚されるようにする為には、もう一つ別の創造が必要である。従って音と空気の振動は必然的に同一であるが、音と聴覚は互いに異なる二つの事柄である。
私達が<音>とか<音についての聴知覚>と言う言葉を使えるのは、現に知覚している事を前提にしていて、その知覚の内容を認識と言うレベルで考えるからなのです。当然認識にはその内容と対象があり、聴知覚認識の内容は<音>であり、その対象は物理現象による空気の振動と言う事になるのです。<音>と<物理現象による空気の振動>の区別は現に音知覚している認識のレベルを構造として明らかにしようとする事で、取り上げられて来たモノなのです。例えば私達がその耳で知覚しなくとも、木々の倒壊した音は、そのままで存在するのだと言うありふれた考え方は、<木々の倒壊した時の運動エネルギーが作り出す空気の振動>と<音>とを同一視していると言う事なのです。現に耳で聞くことを成立させている私達にとって、思考として<聞くことのない>状態を考えよとか、<遥かなアラスカの台地の木々の倒壊の音>と言う思考は、一つの考えの上の問題で有るにすぎないのです。今私がラジオから流れる音楽に耳を傾けている時、<遥かなアラスカの台地の木々の倒壊の音>と言う思考が出来るのは、現に耳に聞こえている音楽がラジオと言う物体のスピーカーから出ていると言う事とつながっているのです。つまり、私達の耳に聞こえている音には音源があり、その音源から私達の耳に流れて来ていると言う事なのです。ただしこの考え方では、音源から流れてくる音とは音源たるラジオのスピーカーの振動が回りの空気を振動させていくことで、空気の波として伝導していくと言う事なのであり、その空気の振動を<音>と規定する事になる。音源から<音>が出て、空気を伝導して耳から入り<音>として聞いていると言う事になるのです。聴知覚として成立している現に聞いている<音>に対して、机の上のラジオのスピーカーの振動が回りの空気を振動させることで、振動の拡がりで伝導して来る空気の波と言う過程の最初のラジオの運動が、知覚されている<音>の元であると考えてしまうのです。ラジオのスイッチを切るとは、ラジオの運動を取りやめる事であり、運動が止めばスピーカーの振動が成立しなくなると言う事なのです。そしてそれは音がしなくなると言う事であり、私達は耳での知覚が成立しないと言う事なのです。
スイッチをひねると電気が導通し、スピーカーが振動すると、その振動が回りの空気を振動させながら伝導していく事になる。その空気の振動が耳からはいり鼓膜を振動させると内耳からの化学的電気的運動となり、脳細胞で処理される事に対して、その過程をラジオから流れる音楽を聞いていると言う事になるのです。頭脳の細胞の処理だけを<音知覚>と言うなら、ラジオから鼓膜の振動までの過程は、知覚の内容として成立しているのです。ラジオのスピーカーの振動が作り出す多様な周波数の波により、鼓膜の振動の多様性が生まれ、処理の仕方が規定されて来ると言う事なのです。

    現にラジオのスピーカーの特定の周波数の振動がある事。−−(1)
    スピーカーの振動が回りの空気を振動せさ、振動が空気の拡がりと共に伝導していく−−(2)
    その空気に接触している耳の鼓膜か振動する。−−(3)
    鼓膜の振動が内耳の骨を介して繊毛を振動させると化学的電気的運動による細胞の運動の成立−−(4)

この様な分析の一つ一つに対して、それぞれが<音>として知覚されると言う事ではない。(2)の場合、線路のレールに耳を当てると「ガッタン、ゴツトン」と耳に聞こえる事になる。この場合私が耳を当てている場所から遥か離れた所を走る汽車の車輪の回転運動がレールとの間につくる振動がレールの振動として伝導されてきたと言う事なのです。振動の伝導を担うのは、あくまでも鉄製のレールです。耳に聞こえている「ガッタン、ゴツトン」と言う音は、車輪の回転がレールに接触している部分で作られているが、私達はそこで作られているモノを耳で<「ガッタン、ゴツトン」>として聞くのです。耳で聞く場合、耳の鼓膜に接触している伝導の媒体たる空気やレールによって、中継されている事になるのです。問題は耳に接触するモノが何であろうと、それらは音の伝導媒体であり、伝導媒体なしには耳は<音>を聞くことが無いのです。汽車の車輪の回転がレールとの間で作る振動があって、その振動が空気を媒体として空気の振動伝導となるか、鉄製のレールを媒体として振動伝導となるかであり、その媒体に耳を接触していることで<音>を聞くことになるのです。ここで短絡してはならないのは、媒体は、車輪の回転運動とレールとの接触運動の特定の側面を振動として伝導すると言う事であるにしても、車輪の回転とレールが作り出す摩擦振動を、<音>と規定する訳にはいかないのです。向こう側に媒体を抜きにした物理現象があり、こちらには聴知覚器官としての耳から脳細胞までの過程があると言う事になる。媒体抜きで考えると、空気の振動が耳からはいり鼓膜を振動させると言う耳の働きを抜きに、<音>が聞こえると言う事になってしまうのです。媒体としての空気がない真空の空間では、ラジオのスピーカーの振動があっても、中継する空気の振動が無い為に、耳の鼓膜を振動させる事が無いのです。(3)(4)も無い事になるのです。(4)と言う分析は、私達の脳には音を知覚する局所があって、その局所を電気的に刺激すると<音>が聞こえていると言う判断が成立している事を考える事で、脳の働き抜きでは、音知覚が成立しないと言う事が理解できるのです。これは幻聴が音源なしにも<音を知覚している>と言う判断である事とつながり、結局媒体抜きの物理現象か、脳細胞の働きかと言う単純な区別に陥ってしまうのです。
「私達が耳で音を聞いている」と言う私達の日常の出来事があり、それを対象にした分析思考は、(1)(2)(3)(4)と言う箇々の段階を思考として得るのです。各段階はそれぞれ特徴により、段階として区別されると共に前段階との関連が示されるのです。(1)が無ければ、そもそも音知覚が成立しない。(1)が有っても真空で有れば、音知覚が成立しない。(1)(2)が成立しても、鼓膜を破損していれば、音知覚が成立しない。

特定の物理現象の運動が作り出す振動が、空気を振動させると、その振動は空気の波として伝導して行き、(3)(4)が成立するのです。その過程全体を私達は、<音を聞いている>と判断しているのです。(1)(2)は、自然現象として成立していて、それは動物が聴知覚をするモノであろうと無関係に自然現象として有るのです。動物が聴知覚を持つと言う事は、自然現象に対する動物からの関わり方を示すのであり、<音>として知覚する事により音源の、知覚する者に対する位置や方向や性質を示す事、つまり聴知覚する者に耳が二つ有り、前方を向いていると言う耳の特性により、音源の空間上の位置や方向や大きさ等を示し、その示されたモノを知覚しているのです。音知覚とは、客観的な物理現象に対する動物からの働きかけであり、音源の場所と媒体としての空気の満たされている空間とその空間に位置にいる動物のあり方なのです。だから音源と言う事でラジオのスピーカーを考えても、そのラジオのスピーカーからの振動が、媒体の振動により耳の鼓膜に届くと言う過程が無い限り、音源と言う言葉を使う訳にはいかないのです。媒体の振動も、イヤホーンの様に耳の穴にスピーカーを付けると言う事で完了するモノも有るのです。媒体の違いは、音を聞くこちら側の問題であり、イヤホーンの場合は、一人で聞くと言う事であり、部屋の机の上にラジオが有れば、皆が聞く事が出来ると言う事なのです。音源があり伝導する媒体があり、鼓膜を振動させると言う事で、音知覚が成立しているのです。問題は<音源がある>と言う事で、<ラジオのスピーカーが振動している>事を表しているなら、私達が現実にラジオのスピーカーから流れている音楽に耳を傾けていると言う事が、全ての始まりであり、その音知覚が成立している事を前提に<ラジオのスピーカーが振動している>事を、<音源>と言葉にしているのです。つまり私達の音知覚による認識との関係から<ラジオのスピーカーが振動している>事を規定すると、<音源>と言う事になるのです。アラスカの無人の台地で倒壊する木々の<音>と言う言い方は、無人であるから倒壊したときに音を聞いている訳ではないが、私達の音知覚と言う認識能力との関係からすれば、木々の倒壊の運動を音としてを聞く事が出来ると言う事を示そうとしているのです。つまり、私の耳が悪く無ければ、音を聞く事が出来ると言う可能性の事ではなく、音知覚は、音源と媒体と入力器官とにより構成された構造であると言う事で、その構造により初めて音知覚が成立していると言う事を示そうとしているのです。<木々の倒壊の物理現象>が、人間の耳からの空気の振動が知覚され<音として>知覚されるのです。
<木々の倒壊の物理現象>があり、現に私がそれを<音として>聞いている事に対して、前者を表す<音源>と言う言葉は、その物理現象と現に音を知覚している事とを関連づける思考から生まれて来ているのです。現にそれを<音として>聞いている事に対して、<音として>と言う側面から、<木々の倒壊現象が作り出す空気の振動>を、規定する事で、<音源>と言う言葉で表したのです。
深夜屋根の瓦を揺さぶる柿の実の落下運動が、瓦との間に作る衝撃が回りの空気を振動させると、その空気の振動が私の耳に到達し、私の内耳のなかの運動に変換されて、<音として>知覚されるのです。深夜の柿のみの落下による瓦との間に成立する衝撃は、回りの空気を振動させるにしても、その振動する空気の中に私がいるために、耳に音として知覚されたと言う事でしかない。私が現に耳に聞いたと言う事があるから、その<音として>の知覚を成立させるモノを音源と言うのであり、私の知覚器官の能力に問題が有れば、<音として>の知覚が成り立たないと言う事だけなのです。音源と呼ばれる物理現象があり、音源が耳で<音として>知覚されると言う事なのです。しかし、物理現象自体が、音であり、その音が耳で知覚されると言う考え方は、物理現象がそのまま知覚の内容となる事で、モノのレベルと認識のレベルの区別が立てられていないのです。物理現象としての空気の振動とその振動が耳から入り鼓膜を振動させる事で脳細胞が処理する事の関連なのです。
木々の倒壊運動が作り出す空気の振動に対して、中耳炎により感知出来ない時、私は木々の倒壊を目の前に見ているだけになると言う事なのです。聴知覚としては私の耳野中の空気が振動しても鼓膜が振動しないために、その後の運動が連動しないので、<音感知>が成立しないのです。音知覚が耳以降の器官働きによる事は明らかで有り、その器官の不具合により、<音>の知覚が成り立たないと言う事なのです。音知覚は耳以降の器官の働きによるのであり、私の回りに音があふれていても、すこしも<音>を知覚しない事はあり得るが、聴知覚の器官が正常であれば、私の回りにある諸物の作り出す、空気を振動させる働きを、<音として>認識する事になるのです。その空気の振動は、空気の波として伝達し、私の耳の所まで到達するのであり、その事により、私達は、諸物との間に距離と方向をも認識する事になるのです。音知覚は脳細胞の特定の場所で成立するが、同時にその音源の位置や方向をとらえる空間知覚を成立させる脳細胞の別の場所でも成立し、私達は両者を関連させることで、音源の主体の存在を認識すると言う事なのです。
入力器官としての耳、目、鼻、舌、皮膚は各伝達経路を介して脳細胞につながり、各器官から入力してきたモノが、脳細胞の各場所で処理されるとき、その場所での処理が、<音知覚、視覚知覚、味知覚、臭い知覚、触覚知覚>と言う区別となるのです。処理が脳細胞でなされると言う事と身体の頭部の頭蓋骨の中にある脳細胞と言う二つの観点が、認識としての<音、味、色等>は、内部にしか成立しないモノであり、だから<アラスカの台地で倒壊した木々の音>は脳細胞を持つ人間がそこにいないのであるから、言葉そのものが無意味なモノでしかないと言う事になる。<アラスカの台地で倒壊した木々の音>ではなく、<アラスカの台地で倒壊した木々運動エネルギー>と言う事であり、その運動により空気を振動させ、振動した空気が波として伝導し、周囲に広がっていくのです。その周囲の中に人間がいれば空気の振動は彼の耳から入り鼓膜を振動させて内耳から特定の脳細胞に伝導していくのです。これを木々の倒壊の音を聞くと言う事になるのです。鼓膜の振動は、木々の倒壊の運動エネルギーが空気を振動させている事と繋がっていて、現に聴知覚されている対象との距離のあり方の認識との関わりで、そのつながりが絶えず確認されてくるのです。時たま音源が分からず、幻聴かもしれないと言う判断も成立するのです。つまり、ラジオのスイッチをきれば、スピーカーからの音楽が消え、スイッチを入れると又音楽が流れることで、ラジオのスピーカーの振動が、音楽を聴いている事と関連しているのだと言う事になるのです。ラジオのスピーカーの振動とその振動が空気を振動させ波として連動していく事。私達の聴知覚は、ラジオのスピーカーからの振動が、空気の振動に変換され、その振動する空気が耳から入り鼓膜を振動ざせて、頭脳で処理されることを<音楽>が流れていると判断するのです。当然スピーカーの作り出す振動があり、空気の振動をつくり、空気の振動が鼓膜の振動を作り、鼓膜の振動が内耳の変化として関連し、脳細胞の運動となるのです。鼓膜の振動以降は、人間の身体の活動であり、最後に脳細胞の運動により、<ラジオから音楽が流れている>となるのです。スピーカーの振動に対して、私達の耳には単なるうなり音、音楽音であるかは、その振動の性質によるのだが、どちらにしても、振動が脳細胞で処理される事で、<音><うなり>と言う認知するのです。つまり、物体の振動に対して、私達の各知覚器官を入り口とした認知によって、私達が普通に考える<音>とか<うなり>と言う音認知になるのです。私達の認知のどこに<音>と言う認知が含まれるのかと言う事なのです。それは物体のそれぞれの性質による入り口の違いとなり、入り口は脳の局地に伝導していて、脳における各局地が地図のように場所の特性として規定されるのです。ラジオのスピーカーの振動が作り出す空気の振動が、聴知覚を入り口として脳の特定の位置で処理される時、ラジオからの特定の周波数の振動でありながら、同時に特定の場所で処理されると言う二重性として前者が<ラジオ>と言う個別としての音源として、後者は<音として>と言う事になる。
ラジオが音源として個別の特定の周波数の振動が作り出す事に対して、その個別の中に他の個別との共通としての一般性としての<音>があると言う思考は、言葉としての論理の地平での問題で有り、人間がその一般性をどの様に認識するのかと言う事が、問として残るのです。多数の個別を比較して、その個別だけにあるモノと、他の個別にも有ることを振り分けて行く事で共通のモノを選り出すと言う事になる。しかしこれはそれらしい理屈と言う事になります。
ラジオのスピーカーの特定の周波数の振動が耳から入り鼓膜を振動させ脳細胞で処理される時、その振動には個別性以外に一般性があるから、脳細胞でも一般性としての<音として>の処理がなされるのだと言えば、ではその脳細胞の一般性の側面の処理がどの様にしてなされるのかと言う事なのです。脳細胞の処理と言っても、脳細胞全体がその処理に当たるのではなく、脳地図の特定の場所が処理に当たり、その脳地図の全体における場所の特定性が、ラジオのスピーカーの特定の周波数の振動の処理であると共に<音>と言う一般性であると言う事なのです。つまり、特定の周波数の振動の処理である事が、脳全体の中の処理する場所の特定性により一般性でもあると言う事なのです。脳全体のなかの特定の場所と言う特定性は、そこでの処理内容が、他の場所の処理内容と連関する事で示す相互性と言う事なのです。ラジオのスピーカーの特有の振動が耳から入り内耳を経て脳細胞の特定の場所Aで処理される時、そこで処理された内容は、他の場所Bでの処理の内容と関連され、AとBの関連性から規定されたAの内容を、一般性と言う事になるのです。Aで処理されているのは、丸ごとラジオのスピーカーの振動が作り出しているモノであり、それはその特有の音として知覚されているのであるが、しかしその特有性が、他の知覚との関連を得る事で、一般性を得ると言う事なのです。つまり聴知覚としの音はどんな音も丸ごとその特有性として有るが、他の視知覚等との関連により、そのままで一般性を得ると言う事なのです。対象たる音源は、音を出すモノと言う様に、特定の音を出しているのは明らかなのに、今は対象から、無音であった対象から、音が出ていると言うレベルでの一般性が注視されているのです。音自体は特定の周波数の空気の波として有るが、それが対象との関連で、一般性の規定を得ることになるのです。

七 どうして分かるのか
1)どうして、赤色だと分かるのか
目の前に典型的な赤色したモノがあったとき、普通の人は「この色は、赤色だ」ということができる。「この色の名前は何か」と問われたら、即座に「赤色」と答える事ができる。何を手がかりにして「この色の名前は、<赤色>だ」と判断しているのかと言う事です。
−−この色の名前を韓国語で言おうとして、なにも出て来なくとも、色の認識は成立しているのであり、緑のサングラスでみている色ではないのです。今知覚しているモノに対して、<色>と言う方向と<赤>と言う方向で成立する事が必要なのです。例えば、いま眼にしてるリンゴに対して、「その色は、RED である」と言う時、日本語の赤と言う名前を英語の名前に変えただけであり、色も<color>としない限り、英語にはならないのです。つまり、今見ているものに対して、<赤>と言うとき、色としては<赤>であると言う事なのです。だから<色>としては分かっているが、何色であるかを言葉には出来ないと言う事なのです。英語を話せると言う事は、対象の認識からしょうずるモノを、言葉にする時、REDとかBLUEと言う単語を思い出せないばかりか、それがcolorである事も忘れてしまえば、対象の認識が成立しているかどうかも分からないのです。言葉は、その構造を<赤><色>と言う二つに分離して表しているのであり、<色>と言う大きな区分けは、<味><音><臭い><接触>と言う区別の中の一つとしてあり、さらにその一つの区別の中で、さらに<赤、黒、紫、白・・>と言う区別が成立している事を示しているのです。現実の対象の中では、必ず個別的な具体的な<赤−−しかし赤であっても、それはある集合を表していて、その集合の中の個別的なものが、少しずつ違っており、濃淡があるのです。つまり、色は個々の色の集合としてあるのと同じに、赤にも、色の集合の中の赤という集合としてあるのでする。集合の中の集合としてあるのです。>であるが、しかしその赤を、<色>である事を、<赤色、黒色、黄色・・>と言う表現で示すのです。対象の構造を、<赤>と<色>と言う表現として表すのであるが、この時、語彙の個別性の様に、対象が二つある訳では無く、集合の集合と言う様にあるモノを、一つの構造としてあるモノを、論理として区分けしたものが、<赤い色>と言う表現として表されているのです。この論理としての区分は、存在としてのあり方に対して特徴と言う面の認識として成立しているのです。論理としての区分は、存在としてあるモノに対して、認識として成立していて