読   書   日   記

私が日々目を通す書物に対して、私の今の視点と、了解できない観点を書き抜き、それをどのように理解すると、私の了解になるかを目的に日記風に綴っていきたいと思います。

−−−−−−−−2002年08月22日−−−−−−−−

日本語を考える−移り変わる言葉の機構 山口明穂 東京大学出版会

第九章 −助詞「が」の機能(主語とは?)
私は、貴方「が」好きです。:日本語の使い方で言えば、「あなた」を指示する時は、それを示す助詞に「を」使う事が少なく、「が」を使うのが一般的であった。「が好き、を好き」と区別する表現は、いわば「好き」の主体か、対象かを意識する様になって生まれた、新しい言い方と言う事になる。西欧語の影響以外にも、江戸時代の言葉にも、心情の対象となる語を指示する時は、「が」を使うのが一般であるが、「を」を使った言方があった。
「あなたが、あたし<を>好きだと言うのは愉しい。あたしも、あなた<が>好きだ」・・「が、を」の双方を使う形にして、「どちらが、どちらを」と言う事をはっきりさせている。
<私は、試験を受ける。私は、試験が受けられない。><私は、水をのむ。私は、水が飲みたい>
橋本文法
「が」の例:鳥が鳴く。私は水が飲みたい。
主語に附くのが普通ですが、能力又は希望を言い表わす場合には、動詞の表す動作の対象を示す場合がある。
−−<普通、特例>と言う考え方で、「が」を捕らえる事があるとして、果たしたそれが正当であるかどうかを定義しなければ成らない。
橋本文法は、「語」の形式を重んじ、同じ言語形式は同じ論理関係を表すとする立場に立つので、一見非論理的な説明がなされる事になったのです。
国定教科書「中等文法一」
(1)鳥が鳴く。頭が痛い。説明が丁寧だ。正直なのが取りえだ。
(2)水が飲みたい。本が欲しい。字が読める。勉強するのが好きだ。
(1)いわゆる「主格」であり、(2)は、主格では無い例である。
(1)は、標準であり、(2)はそれからずれたものと言う理解をする。
時枝文法
(2)の類の「が」を、「対象語格(対象格)」として、(1)の主語格(主格)と区別した。
−−主語と述語の関係において、その述語の対象になるものを、表す対象語が成立する。<本が欲しい>と言う時、「欲しい」と言う語は、人間の気持ちを表し、その気持ちを持つ主体としての「私」とか「彼」がおり、欲しがられるものとしての対象があると言う事なのです。私達の動作や性質等を分析する事で、動作の主体や動作の受ける対象がえられると言う事なのです。主格を表す「が」と対象を表す「が」があると言う事であり、主格をどう扱うか、対象をどう扱うかと言う、その扱い方が同じである事を同一の「が」で表すのでしょう。<主体>と<動作や性質>と<対象>とを、主語、述語、対称と言う言葉で表すと、<主体と動作>の特定の関係は、主語と述語とを結びつける助詞で決まって来るのです。<私が、学校へいく>と言う言葉は、<行く>と言う動作の主体である私と、行く方向である学校とが表されているのだが、問題は、その主体のあり方が「が」に依って表されていて、どんなものが表されているのかと言う事なのです。つまり、私と言う存在が、学校へ行くと言う動作をすると言うことに対して、私と言う存在が、どんなあり方をしているのかと言う事なのです。<どんな>という反問に対して、一つの助詞「が」が、その答えを出しているのである。<私、行く、学校>に対して、ここから学校の方向を「へ」で表し、その行くと言う主体である私が、他の人々の1人として、個別的あり方をしている事が「が」で示されている。つまり、ここには私しか表されては居ないが、他に誰かいる人々の中から、私が行くのであると示されているのです。別の観点から考えると、行くと言う動作に対して、その動作の主体であれば、誰でも良いと言う事なのです。動作に対する多数の主体に対して、個別的なものとして、規定された主体を「が」であらわしている。さらに言えば、<私は、学校へ行く>と言う表現の場合、<は>は、行く主体である私のあり方として、他の人に関係なく、この私丸ごとだけを問題にしているのです。主体に備わっている多様な側面の内、<行く>と言う活動、動作の点を捕らえている。<行く>と<私>の関係に対して、動作と主体の関係として捕らえる。その関係を前提に、主体である私の色々な側面の一つとして<行く>と言う動作を考えるか、私と言うものを、動作の主体としてのみ考えかと言う事なのです。
<行く>と言う動作と主体としての<私>の関係は、単に足を動かしているだけかも知れないこの私の身体活動が、特定の動作としての<行く>と規定される事で、目的地が捕らえられると、初めて主語としての<私>、述語としての<行く>、目的語としての<学校>が規定されるのです。

「山が、見える。」「汽笛が、聞こえる」「犬が、恐い」の、「が」が、主語を表していると考える事に不合理性が無い様に思えるのは、何故だろうか。それは「見える」「こはい」と言う語は、一方では、主観的な知覚、感情の表現であると同時に、他方では、その様な知覚や感情の機縁、条件となる客観的な事柄の属性を表現している。これらの語は、主観、客観の総合的な表現で、我々がこれらの語を用いる時、必ずしも一方的に主観的なものだけを表現している物では無く、また客観的なものだけを表現しているのでも無い。「山が、見える」は、客観的なものを表現し、「私は、見える」と言えば、主観的なものを意図している。「足が、痛い」の述語「痛い」は、主観的な感情の表現であるから、「足」を主語にする訳には行かないのである。ここに対象語が成立する。
−−「足が、痛い」と言うと時、痛んでいるのは確実に右足であるのに、しかし「痛み」は、身体全体から考えられていて、痛みを頭脳で処理しているのであるから、身体の中で痛みの場所があり、仮にそれを対象と規定すると、1個の身体の特定の場所を痛みと関係付けるのです。私が、痛みを感受しているのであるが、私の何処が痛んでいるのかを示そうとするのです。<私は、足が痛い>とは、私と言う1個の存在は、身体としてあり、私と言う身体存在の特定の場所に痛みを知覚していると言う事なのです。例えば、身体存在に対して、「足の指が、ピクピク動く」と言うと時、確かに動いているのは足の指であり、<痛み>のような身体的なあり方では無いのです。
「足が、痛い」と「足が、動く」とでは、述語のあり方が、違っているのである。これに対して、「私は、足が痛い」と言う文において、<痛い>と言う述語と、主語としての<私><足>と言う事で理解するのかと言う事です。

言葉の形式を考える。「人が、来る」「山が、高い」「君が好きだ」「故郷が、恋しい」などの言方で「人」「山」「故郷」「君」等の名詞と各述語との関係が「が」で捉えられている。同じ「が」で捉えられたのは、これらが同じ関係であると考えたからである。その時、この「が」の表す関係は何であるか、そこに日本語の論理が捉えられているのではないだろうか。初めに主格ありきから、考えるのでは無いと言う事です。<主格、主語>の概念をどう理解するか。一般的な理解としては、「動作・作用・状態の主体」である。しかしその一般的傾向がある以上、それが日本語に適切な名称であるか無いかを考えず、それによって割り切ろうとするのは、日本語の論理をゆがめる一因となっている様に思えてならない。
「これは、父が建てた家です。」:この文では、「父」が主語である。しかし、多くの場合「父」は実際の建築作業をしていない。父が「建てる」の主体でもないのに、「が」を使うのは、非論理的では無いかと言う意見がある。これも「が」を「主格」としたから非論理的と言う結論になったのです。
「昨日、僕は、歯をニ本抜いた」:<抜く>と言う動作が、道具を使う事でうまれるある種の行為なら、抜くのは、歯科医であり、抜けるのが歯であるなら、口の中にある歯から1本でも無くなってくれば、それは<歯が抜ける>のであり、<抜く>事を、口の中の状態が変わったと言う事を、 −−「建てる」と言う事は、新規の家を土地に組み立てると言う事から、そう言う家を手に入れると言う事を含んでいるのであるから、実際に金槌やのこぎりを持つ事が家を建てる事ではないのです。とすると「父」は、「建てる」と言う動作の主体である。