読   書   日   記

私が日々目を通す書物に対して、私の今の視点と、了解できない観点を書き抜き、それをどのように理解すると、私の了解になるかを目的に日記風に綴っていきたいと思います。

−−−−−−−−2002年09月01日−−−−−−−−

シリーズ・日本語のしくみを探る「認知意味論のしくみ」町田 健編/籾山洋介著 研究社


第1章 認知言語学の基本的な考え方
言語を、人間の行う認知、人間が有する認知能力との関係で考えて行こうとするものです。
ソシュールの構造主義言語学のように、言語だけに注目して研究する考え方に対する新しい考え方である。
チョムスキーが創始した生成文法は言語能力の自立性を考え、その能力だけで、言語を考えようとするものである。
ここで問題になるのは、「認知(あるいは認知能力)」とはそもそも何なのかと言う事です。
さしあたって、「認知とは、人間が頭や心によって行う営み」あるいは「人間が行う知的・感性的な営み」と言う様に広く考えておきます。
そこで、様々な認知の中で、特に言語との関わりが深いもの、さらに言えば、言語のあり方を動機付けている認知能力について見て行きます。
 複数の対象を比較する能力・比較すると言う事に基盤を持つカテゴリー化の能力・同一の対象を異なるレベル、観点から捉える能力・参照点に基づき目的の対象を把握する能力について検討していきます。認知言語学は、生成文法などに比べて、我々言語の習慣、使用を支えるものとして日常の様々な経験、経験を通じて身に付けた知識を重視します。
第二章 認知意味論における「意味」の考え方
「意味」を研究する事にどんな意味があるのですか。
言葉には、かならず「意味」が伴っている事、意味が無いものは言葉とは言えないと言う事である。言葉を聞いたり、話したり、書いたり、読んだりする事は、その意味を捉える事であると言う事です。だから言葉の研究は、その意味の研究なのです。
語とは、「音」と「意味」との結びつきが、その言語の話し手(の多く)によって認められたものと言う事になります。言語学の中で意味を研究する意味論と言う分野は、音韻論、統語論などにくらべて不十分である。「意味」を持つと言う事であれば、言葉以外にもある。交通信号の「青」に「進む」と言う意味がある。
−−言葉は、話される音声や書かれる文字としてあり、交通信号は、交差点や道路に立てられている事で成立していて、その場と言うものを考えに入れなければ、一本の標識と言う事で意味が成立するのでは無い。特定の色と形を図示したものは、約束事を表しているだけであり、その約束事を実際に実施するには現実の道路に設置される事によるのです。私が走っている道路の前方に赤くなっている信号機があれば、私は標識の赤をみて、信号機の所で車を停止するのです。走っている車が止まるのは、エンジンの働きが落ちて行くからであり、その信号の意味を理解した私が、車のスピードを落とす操作をしたからです。約束事を認知している私が、身体の動きによつて約束事を現実化するのです。約束事を知っていても、赤信号で止まらなければ、つまり、止まる動作をしなければ、その約束は、現実のものにならないと言う事です。約束事は、頭の中で成立する行動への規範であり、標識という図示表現によつて頭の中の規範を、外部に表すのです。その標識によって、人々の頭の中に共通の規範を形成させるのです。標識に表されている規範は、表現されている標識の構図として表されていて、その構図に合わせた身体の運動、目の前の赤い標識の時には、そこで止まると言う身体運動を実施する事で、内面化された規範となるのです。
何らかの「表象」、すなわち我々が視覚や聴覚で捉える事ができるものと、「意味」とが結びついたものを「記号」と言います。言語は記号の一種であり、言語を「言語記号」と言う言方をする場合もある。記号の「表象」と「意味」の関係について考えてみる。
−−その考える事として、現に使用している記号の例を対象にして考えると言う事になる。表象に結びついている意味を、現にある表象に即して考えるのです。
交通標識で考える。「人間が歩いている姿」の五角形の標識は、<横断歩道>を表している。−−その場所に「横断歩道」と言葉で標示せずに、その図表で表すのは、同じ対象を、同じ事柄を、示しているが、前者が言葉の方向で、後者は図表の方向で表していると言う事です。同じ対象に対して、形とか色とか構図とかが、近似しているものが、後者の図表であり、前者には、それが無いと言う否定でしか語り得ないのです。<車両侵入禁止>と言う言葉で表す「全体が丸い形で、中央部分が白い長方形で、のこりは赤色」と言う標識の場合、表象と意味との間に必然的な関係は認められず、約束として、この表象でこの意味を表すと言う様に決められているだけです。−−この必然的な関係とは「表象と意味」と言われている両者の間における関係なのであり、表象とは、一枚の標識の事をいい、意味とは、ある出来事や対象と言う事になのます。丸の中の白い長方形は、侵入して行く矩形の穴のイメージであり、赤は、禁止する為の力強いイメージとして使われていて、色が持つ社会的な性質を利用しているのです。

言語の基本的な機能は意味の伝達である。言葉が持っている働きには、意味の伝達以外にも幾つかある。他者とであった時に相互に言葉を掛け合うと言う事です。お天気の状態を言葉にするようなことです。「今日は、暑いですね」と言う言葉です。
−−1)我々は何の為に言語を使うかと言う問いに対して、<意味の伝達である>と言う答えは、言語以外の、絵画とか音楽でも、交通標識も、皆意味の伝達としてあるのだから、<どんな>意味の、<どんな>表現によるかと言う事を示さなければならない。つまり、絵画も音楽も交通標識も、人間の表現の一つ一つであり、それらは、意味の伝達をする諸手段としてあると言う捉え方は、一般論としてあり、まだこの段階では、一つ一つの手段の各々の特性は取り上げられていないのです。絵画は、意味の伝達をしていないのだと言う事なら、絵画は、色や形を組み合わせたものであり、その姿が現れたものが、現代絵画と呼ばれるものであり、そこのは線と線が囲む色の領域で成立っていると言う事なのです。具象画が、家や山や川や緑の木々を描いていても、私達の周りにある家や川や緑の木と、描かれたものとが対応しているのに対し、抽象画は、周りにある諸物から得られた、形や色だけが対応しているのです。
この<基本的機能>と言う事で、諸々の表現が持つ共通性である、表現の一般性を示しているのです。
<基本−応用>と言う区別であり、基本とは、表現における一般論であり、応用とは、個々の具体的な表現としての言語であり、絵画であり、音楽であり、身振りなのです。そして個々の表現の各々がもつ特性は、表現の一般性を媒介にして、はじめて解明されるのです。一般性は、土台なのであり、枠組みであるが、しかしその枠組みが、何かを生み出すのでは無く、その枠組みの中にあるモノが、言葉として、表現 の特性として捉えられるのである。

他の人に何らかの伝達を行う場合、伝達する人は相手がその伝達の内容を知らない事を前提にしているからです。お天気については相手も知覚しているのであり、相手の知っている事をわざわざ言葉にする事はいらないのでは無いか、と言う事が導かれるのです。
A)今日は久しぶりにいい天気だね。
B)本当に。
A)の言葉は、意味の伝達を目的としたものではなく、言葉を発する事だけが目的であると言う事になる。言葉のやり取りをする事で、人間関係を円滑に保つと言う社交的な機能もある事になる。
ものを考えるのに言葉を使う場合があるが、思考は必ず言葉によって行われると言う事では無い。
−−私達に思考が成立している事は確かであるが、言語に表現される思考は、概念的思考であり、概念的思考は、感性的思考との構造として、一つの思考として成立しているのであり、モノを考える時、言葉を使うと言っても、構造として成立している概念的側面を使うだけであり、思考は感性的側面を含めて、相変わらず成立しているのです。言葉による思考は、思考と言う世界の重要な部分であるが、しかしそれだけが思考では無いのです。思考の一般論と、言葉による思考である概念及び体感による感性的思考とは、レベルが違うのであり、思考の一般論は、この身体活動を媒介する頭脳の働きを指し示すのであり、その身体活動がさらに、身振りとか、声に出すとか、手で文字を書くと言う活動として区別されて来る時、初めて頭脳活動としての思考も、区別されて捉えられるのです。思考は、一般論のレベルを踏まえ、それぞれ特性ある思考として捉えられるのです。

「意味と言うものをどのように考えたらいいのか。」
認知意味論は意味を基本的にどのようにかんがえるか。四つの観点からみていきます。
1):対象に対する人間の主体的な捉え方を反映したものである。
2):意味の把握には百科事典的意味と言うものを考慮する必要がある。
3):我々の多様な知識の領域を踏まえて、意味を多面的に捉える必要があると言う事です
4):合成語の意味は、単に構成要素の意味を足しあわせたものでなければ、構成要素のいみと全く関係    がないのでもなく、構成要素の意味を基盤として、さらに意味が限定されたものであるということ    です。
<1>同じモノや事であっても、異なる捉え方、意味づけをすることができる認知能力があると言う事を取り上げ、この種の認知能力があると言う事を取り上げる。
語の意味は、単にその語が指し示す対象の集合、あるいは対象が持っている客観的な特徴(の集合)と考えたのでは、明らかに不十分です。
例えば、意味とは指し示す対象(の集合)であるとすると、「のぼり坂」「下り坂」と言う語は、同じ意味と言う事になります。しかしこれは、我々日本語を母語とする者の直観に合わないのです。つまり、この二語の意味の違いは、同一の対象をどのような視点から捉えるかに帰する事ができるものです。語の意味には、単に語が指し示す対象(の集合)だけではなく、我々の捉え方が反映されていることになります。
−−二つの語の対象は、一つのモノであり、それが坂の状態である事を、水平な地点との関係から規定するのであり、その坂を遥か地点から見おろす時、A地点からB地点への位置関係に対して、AかBを<登り>とすると、BからAは<下り>となる。遥かな地点とは、水平線とそれに交叉する別の線が、把握できると言う事であり、それが客観的な認識であり、私がA地点に立ち、B地点に向かって歩く時、身体の歩く運動が、身体感覚として<登る>と言う感覚をつくり、<下る>と言う感覚を作るのです。とすると「対象としては同一である」と言う事は、「水平線に交叉するもう一つの線」と言う2本の線の関係を示しているだけであり、その関係に対して<AからB>、<BからA>という具体的な形態の各々が、<下り><のぼり>と示されるのでする。<同一の対象>と言う私達の外部にあるモノと、それに対する<私達の把握の仕方>と言う言方は、関係として成立つているものと、その関係の具体的ありかたである形態の区別を、経験的な言葉にしているのすぎない。つまり、<水平線とそれに交叉するもう一つの線>と言う客観的にものと、同じくその関係の客観的な形態であるものを、対象としては外部にあり、対象の把握としては、私達の頭脳のなかで成立しているという結論で済ませてしまっているのです。外部にあるモノに対して、認識として「<水平線とそれに交叉するもう一つの線>も<その関係の客観的な形態>」が成立しているのであるのに、<外部にある対象と、その対象についての認識>という一般論をそのまま何処にでも当てはめようとするからこそ、同一の対象である<坂>と、それに対する私達の把握の違いが、言葉としての「のぼり坂、下り坂」になると言う考え方になるのです。現象的には、言葉は私達の認識を表しているのであり、言葉の違いは、認識の違いであり、認識の違いは、同一の対象について成立つと言う結論になってしまうのです。日常的に言うと、経験的にいうと、「同一の対象とその対象に対する頭脳の把握の違いが、言葉の違いである」と言う言葉の方が、馴染みやすいのです。この馴染みやすさは、一般論のレベルとしては正当であり、この常識を一般論として確立する事で、初めて具体論の確立の為の媒介となりうるのです。
どんな言葉も、私達の認識が表されているのであり、たまたま「のぼり坂、下り坂」とか「明けの明星、宵の明星」と言う言葉に、その認識の違いが現れている事が、目立っているのであり、この目立っているもの、無原則に拡大すると、把握の仕方が目立たないものは、認識に関係ない外部のものだけとなってしまうのです。これはもうすでに、あらゆる言葉が、認識の表現である事をふみはずしているのです。例えば、科学の言葉や記号も、各法則のついての認識を表しているが、その認識が、日常の認識と違う為に「認識の違い」と言う事が見えないのです。

<2>語のいみは多面的に記述する事が必要である。
「金槌」大工道具の一つで、<釘などを打ち付ける道具>と言う機能を持つ。−−この「釘を打つ」と言う機能に対して、その道具で人の頭を打てば、<打つ>と言う機能が働いたのであるが、「釘を打つ」と言う機能は果たされないのです。「金槌」を、違う使い方をしたと言う事になるが、しかしその「打つ」と言う機能は果たされているのであり、「金槌」は、ある特定のモノを打つと言う事で成立しているが、その特定のモノをはずした所で、打つ事が成立しても、別にいいわけです。さらに「形」「材質」と言う側面は、打たれるものによって決定されるのであり、3ミリの釘を、大ハンマーで打つ訳に行かないのは、打たれる釘の方が機能を果たさなくなるからだ。
<3>語の意味は、関係する認知領域のある一部分が特に重要であると言う事です。「昨日」と言う語の意味は、「時間」と言う認知領域の観点から捉える必要があり、特に「発話時点を含む日」と「その前の日」と考えられるます。
「昨日」と言う語の意味は、その語に表現される認識Aに対して、他の「発話時点を含む日とその前の日」と言う認識Bを含んでいて、認識が構造化されている。前提去れている認識Bをベースと言い、認識Aを「プロフィール」というのです。「前日」と「昨日」と言う語の意味の違いを考えてみる。二つの言葉のプロフィールはいずれも、「前の日」です。しかしベースから見ると、「昨日」は、「発話時点を含む日とその前の日」であるのに対して、「前日」は、「発話時点を含む日を除く任意のある日」であると考えられる。
−−発話時点の日ではなく、例えば3月3日の前日と言う言方で3月2日を表すが、このとき、発話が3月3日に行われている訳では無く、発話は1月でもいいし、4月でもいいのです。それに対して、「昨日」と言う語は、発話時点が今日と言う日であり、その日の一日前と言う事を表している。発話時点は、今であるが、発話の内容を考えた時、その主語にあたる主体が存在する時点から、一日前の日にちとを区別する事が必要になる。例えば、手紙を呼んでいるとき、私の時間は、9月10日であり、昨日は9月9日になるが、手紙内容の世界では、「昨日富士山に登って来ました」と言う文で表現されている昨日は、相手が手紙を書いている時間としての9月5日であれば昨日は9月4日になりまする。つまり、昨日とは、ある主体に成立している時間の流れの今を基点として成立するのであり、私に於ける今の基点として一日前が、昨日になり、それは観念の世界でも、現実の世界でも、構造としては同一なのです。発話行為の時間領域と発話内容の世界の時間領域があり、発話行為の時間の中にいる私の、頭脳の中に観念の世界に成立する時間領域であり、その世界は言葉として表現されると言う事なのです。