読   書   日   記

私が日々目を通す書物に対して、私の今の視点と、了解できない観点を書き抜き、それをどのように理解すると、私の了解になるかを目的に日記風に綴っていきたいと思います。

−−−−−−−−2002年09月10日−−−−−−−−
−−−−−−−−2005年01月24日−−−−−−−−

間違いだらけの日本語文法 町田健 講談社現代新書


文法:文についての「法則」、正しい文、法則に則った文の作成の事を言う。
「太郎」「は」「映画」「を」「み」「た」と言う6個の語彙があり、その特定の繋がリとして文が成立している。「太郎は、映画を見た。」に対して「映画を、太郎はみた。」は、文としては全然駄目だと言う訳では無いが、他人は見なかったが、太郎は見たと言う二つの事柄が「対比」されていると言う意味が出て来ます。このような意味の違いが出て来るのは、「は」のついた名詞の働きが、文の中のどの場所にあるかで決まって来ると言う性質があるからです。今の文の例から言えば、文の先頭にある名詞につく時には、普通の「主題」としての働きをしているのだが、そうで無い場合には他のものとの「対比」を表すと言う働きをしています。
「は」は、伝統的な国文法では「副助詞」とか「係助詞」と呼ばれていて、「主題」とか「対比」と言う抽象的な内容を表す働きをしています。位置によって意味が変わったり、並べる順番に決まりがあるのは、「は」とか「ね」とか「よ」の様な助詞が持っている意味から出て来るのだとしか考えられません。文法というのは、まずもって、単語がある一定の順番で並んで作られる文が表している事柄に、文を作っている単語の意味がどう言う形で関係しているかをきちんと書き表わすものでなければなりません。

−−「は」と言う助詞の位置によって、文の意味が変わってくるのは、「は」に位置による文の意味を変化させる働きがあるからだ、と言う考え方は、個々の語彙の一定の連結によって文が出来上がっていると言う事を別の言方で言っているのすぎない。車の各部品は、各々特定の性質をもっていて、その特性によって相互に連結して全体としての車が出来上がつている。言葉も同じ構造として各語彙の各々の特性によって相互に連結されて、一つの文が出来上がるのです。これが個々のものを物体として考えるものである。言葉も、物体と同じく、各語彙の特性があり、そのある特性によつて相互に繋がるのです。車の部品の特性は、<地上を走る>と言う所から生まれて来るのであり、同時にその働きが物体の材質や性質のよつて規定され、車輪は円形である事になるのです。車の部品は、あくまでも物体の性質によって決まって来るのであるが、言葉の場合、<各語彙の特性>と言う事で考え始めても、しかし物体の特性の様な訳には行かないのです。何故なら語彙の特性、つまり個々の語彙の違いが、語の意味によって決まって来るのであり、その意味の解明がなされなければ、次に進まないのです。
「は」は、その位置のちがいによって、「は」のつく語の意味が違って来るのであるのは、一つの経験であり、日本語を話し手いる人間にとって自然な区別としてせいりつしているのです。そこで位置によって意味が違って来ると言う事はいいとしても、少なくともどこにあっても成立している意味なるものとは何であるか、考えなければならないのです。Aの位置にある時の意味と、Bの位置にある時の意味の違いを「主題のは」と「対比のは」と規定する事には、問題ないとして、何処にあっても成立する「はの意味」とは何であるかと言う事になります。論理の言葉で言えば、AとBの区別は、両者に同一のモノがあって初めて成立しているのである。区別とか違いを問題にできるのは、同一が前提にされているからであり、その同一を取り上げずに、違いだけ出しても、「対比のは」と「主題のは」と言う違いを取り上げて済ませるのでは、片手落ちになってしまうのです。同一性のレベルの「はの意味」と言うことになるのです。
この考え方は、つぎの様に成立する。
   「太郎は、映画を見た。」−−(1)
   「映画を、太郎はみた。」−−(2)
と言う二つの形態に対して、違いはこの二つの経験から読み取れ、それを前者は「主題のは」とし、後者を「対比のは」としているのです。そしてそこで探究が終了してしまうのです。違いだけを論じている限り、ここで終わってしまうのです。<二つのモノが違いとして区別されるのは、両者に共通な同一なものがあるから>と言う規定は、一つの導きの糸なのだが、その同一性をどのように見つけるのかが分かっていんいのです。その同一性は、違った意味の文を見ているだけではわからないのです。文そのものに目を向けなければならないのです。言葉は、人間の表現の一つであり、内部にある認識を外部に表したものであり、絵画が、感性的認識を表現しているのに対し、言葉は概念的認識を表したものと言う事になります。(1)も(2)も、概念的認識を表現していて、概念の違いが、表現の違いとなつていると言う事になります。このレベルが、言語過定説と言う本質論であり、(1)(2)の文の違いは、両者とも概念的認識の表現と言う同一のレベルを前提にしていて、それは人間の活動や行為を、認識の表現として見る、一般論が成立している事を前提にして、個々の言語や絵画や音楽や、身体行為の具体的構造を解きあかして行くのです。つまり、(1)(2)の文は、言語論を前提にし、言語論が表現論を前提にするということであり、表現論は、人間をどのように考えるのかと言う事に繋がるのであり、哲学が成して来た観念論や唯物論などが実施してきた思考が生まれて来ていることの、成果なのです。

第四章 助詞が「助ける」もの


1「各助詞」の「各」とはどう言う意味なのか
(1)倉庫「から(連用修飾語)」赤い印「の(主語)」ついた箱「を(連用修飾語)」もって来てください。
(2)私「と(並列語)」弟「は」東京「へ(連用修飾語)」新幹線「で(連用修飾語)」行った。
国文法での「各助詞」:「が」「を」「に」「の」「で」「と」「から」「より」「や」の九っです。各助詞は、名詞の後に来て、単語と単語の間の関係を表す単語だとされ、その働きは「主語」「連用修飾語」「連体修飾語」「並列語」の四つです。
「主語、連用修飾語」は、名詞が述語とどんな関係なのかを表している。「連体修飾語、並列語」は、名詞と名詞の間の関係を表している。<太郎が、来る>の場合、「が」は、述語の「来る」に対して、「太郎」と言う名詞が「主語」だと言う事をあらわしている。国文法は、主語とは「何がどうする、何がどうなんだの<何>にあたる」と言う程度の説明で終わっている。
名詞の後に来る助詞は、どうして「格」助詞と言う名前で呼ばれているのか。名詞が表すモノは、例えば<食べる>と言う動詞が表す事柄の枠組みの中であれば、一番大切なのは、その事柄を成立させる「主体」実際に何かを食べている人、です。次に大切なのは、主体が食べると言う動作の「対象」、食べられるモノです。事柄が成立する事に関係するモノの働きとしては、色々なモノがかんがえられるのです。こうした働きを、コトバであれば、何らかの方法で表さなければならないのです。
「英語、中国語:語順で表す。」・・・Taro(主体) ate chocolate(対象).
日本語:「が」や「を」などの特別な単語で表す。・・太郎が(主体)、チョコレートを(対象)食べた。
主体とか対象の様な、モノの働きを表すのが、日本語の格助詞の「が」や「を」だと言う事になります。ギリシャ語やラテン語では、「主体」や「対象」などの働きを、名詞が形を変える事で、名詞の活用により表しています。ギリシャ語:四つの活用、ラテン語:五つの活用形による。この活用形の事を「格」と言うのです。格と言うのは、元々名詞の活用するコトバの文法であるが、日本語には名詞の活用は有りません。しかしその名詞につく「が」や「を」「に」は、事柄の中での類司の働きをしますので、こういう単語を「格助詞」と呼ぶようになったのです。助詞の数だけ格が存在する事になるのです。
ラテン語の「主格」は、名詞が主体だと言う事を表しまし、「対格」だと、名詞が対象であると言う事をあらわします。日本語の場合「が格」といても、それが主格を表していると言う事は、その「が」の理解以外にべつの理解をしなければならないのです。
−−文法は、<私が、学校へ行く>と<私は、学校へ行く>と言う二つの文に於ける、<は>と<が>の助詞に対して、助詞と言う同じものでありながら、別々の働きをする事を説明しなければならない。
<主語・私と述語・行く、目的語・学校>であり、<私>が主語であるのは、あくまでも、<私「が」>であり、<私「は」>と言う事によるのです。<私「を」>とする事で、「私」は目的語となります。名詞はその後につく助詞との関係で、特定のあり方を表します。さて、私は今、「私」に「は」と言う助詞がつく事で、「私」は主語と言う規定を得ると言ったのであるが、英語で考えた場合、「I=私が、私は」であり、「My=私の」であり、「Me=私に」であり、「Mine=私のもの」と言う事になり、助詞との関係で主語が決まったりするのでは無く、単独で主語であるのです。初めに無規定の<私>があり、助詞との関係で、主語になり、目的語になるのだと考えたとしたら、英語には日本語の<私>のようなものはない事を考えれば、二つの語彙「名詞+助詞」で、新しい規定を得ると言うのは誤りになのです。これは、<諸部品を集めて、部品を超えた自動車と言うものを作る>という考え方と同じになってしまうのです。言語過定説に立てば、言葉とは、概念的認識が表されているのであるから、特定の認識が、<私>+<は>として表されていると考えるべきなのです。<私>と言う言葉で示される対象に対して、ある特定の認識が成立する時、はじめて<私は、私が>と言う表現が成立すると言う事なのです。この概念的認識とは、<個別的認識、特殊的認識、普遍的認識>と言う事になります。そこで<私が学校へ行く>と言う文は、多数の、個別的なあり方をしている者の中で、やはりその中の1人である私が、学校へ行くのであると言うことなのです。学校へ行く主体としては、多数いるが、行く主体としてのこの私を取り上げる事で、成立している文なのです。さらに<私は、学校へ行く>という文は、行く主体の対して、主体の一つの側面として<行く>事が捉えられていて、丸ごとの主体の一つ一つの特性としての述語が成立しているのです。<主語−述語>と言う関係に対して、述語が中心になつた時、述語で表す活動の主体として個別的なあり方で主語が考えられている。しかし主語に中心が置かれた場合、主語の一つの側面としての述語が成立する時、特殊・普遍的なあり方としての主体が、主語として表され、主体の一つの特殊性として述語があらわされるのです。その特殊性を、「主題」とか「対比」とか言う言葉で、説明しようとしているのです。

主題と言うのは、表面的には、文を作っている幾つかの名詞の中から一つを選んで、それを文の先頭に出したものです。そしてその名詞が表すモノが主題だと言う事を表す為の単語が、副助詞の「は」だと言う事になります。「は」はどんな働きを表す名詞にも付ける事ができて、「は」だけでは、名詞がどんな働きをしているのかを表すことが出来ません。<花子には>の様に、「は」の前に格助詞が置かれている場合には「花子」がどんな働きをしているのかは、格助詞の「に」によって表されます。

所が<太郎は花子に本をあげた>だと、「太郎」には「は」がついているだけですから、「太郎」の働きはこれだけでは分かりません。ですが、後に続いている「花子に本をあげた」と言う部分には主語がありません。そこで、この文が全体としてまとまった事柄を表すのだとすれば、どうしても主語は必要だと言う事から、「太郎」が主語なのだと理解されるわけです。

主題は文の他の部分から独立した地位にけあって、主題がどんな働きをするかは、後に続く部分があらわしている内容から決めなければならないと言う、他の名詞とは違う性質を持っている事になります。

主題は文の他の部分から独立した地位にあって、主題がどんな働きをするかは、後に続く部分が表している内容から決めなければならないと言う、他の名詞とは違う性質を持っている事になります。そして文は単語が一列に並んで作られていて、私達が文の表す事柄を理解する時には、最初の単語から順番に単語の意味を組み合わせて行きます。主題は文の最初に来て、しかしも文の他の部分から独立した地位にあるのですから、主題の表すモノが文の表す事柄の中心になり、そのモノとの関係で、他のモノとの関係でたのモノの性質や、述語が表す事柄の枠組みの性質も決められて行くのだと考えて良さそうです。
例えば、「太郎は肉を食べる」と言う文では、「太郎」が主題ですから、「太郎」を中心として他の要素の性質が決まります。このことから「肉」が表すモノは、太郎が一度に食べるだけのちょっとの量の肉で「食べる」と言う動詞が表すのは、未来の時点で起きる一つの事柄だろうと解釈されます。
一方「ライオンは肉を食べる」と言う文では、「ライオン」が主題です。この名詞が表すモノは、どれか特定の一匹のライオンではなくて、「すべてのライオン」を表すのだと思うのが普通です。ですから「食べる」が表す事柄も、未来に一回だけ起きる事柄ではなく、習慣的に繰り返し起こる事柄なのだと言う事になり、それに応じて「肉」も、色々様々の量の肉を表すのだと解釈される事になります。
「太郎は」と「ライオンは」のそれぞれの名詞は、前者が固有名と言う人間の一人の人間を指しているのであり、後者は例えば、檻の中にいる5匹のモノに共通する名前と言うことであり、普通名詞というのです。アフリカの草原にいる多数のモノのどれもが、ライオンと呼ばれているのであり、そのライオンと呼ばれているモノ達が、<肉を食べる>と言う事なのです。特定の一匹が肉を食べるのではなく、どの者も肉を食べると言う事なのです。なぜ前者の<太郎>が、特定の人の名前であり、後者が多数の者に共通する名前であると言う事なのだろうか。檻の中にいる5匹のライオンのうち、右側のあの大きなたてがみのライオンが、飼育員に次郎と呼ばれていると言う時、飼育員の間では、次郎は、特定のライオンの固有名であると言う事なのです。つまり、普通名詞であるライオンと、固有名詞である太郎と言う区別が理解できているから、文の初頭に使われても、その後に続く述語がの内容が条件づけられるのです。
例えば、<ライオンは、草原を走っている>は成り立つが、<ライオンは、肉を走った>と言えば、意味が成立しないと思うのです。主題たる<ライオン>がどんな働きをするのかを、具体的に表すのは後に続く述語によって明らかにされると言う事はたしかだが、その具体性に一つの枠組みをつけるのが、ライオンと言うコトバか、普通名詞であると言う先頭に使われる言葉のあり方によるのです。つまり、先頭のライオンと言うコトバのあり方が、後に続く述語の内容を規定すると言う事なのです。
小説家が、<富士山は・・・・>と、最初のコトバを記し始め時、次ぐのコトバを記すのでに時間がかかるのは、その<富士山>と言うコトバで、何を考えようとしているのか、自らの中で明解にされていないからなのです。
文が成立する時、文の以前に、あるいは同時に頭の中で成立している思考があり、その思考の外的表現がコトバであると言う、言語一般論が必要であり、その構造が有るからこそ、文頭のコトバと語尾のコトバとがその思想による枠組みを受けるのです。

主題が事柄全体の性質を決める働きをするとなると、主題が表すモノが具体的にどんなモノなのかが、あらかじめ、分かっている必要が有ります。そうでなければ、後に続くモノの性質もハッキリ決まらないままになってしまい、事柄そのものが表す内容が、ハッキリとは分からなくなる事もあります。主題になるモノは、あらかじめ分かっているモノ、特定のモノなのが普通です。
<本は、太郎が花子にあげた>だと、「本」が主題なのですから、この「本」が表すモノが、他の本とは違うのだと言う事が、あらかじめ分かっている必要があります。それなのに「本」だけで、それが特定の本を指している事は表し憎い訳ですから、<本は、太郎が花子にあげた>だと、どうも不自然な感じがする訳です。そこで<その本は、太郎が花子にあげた>の様に、「本」の前に「その」を置いて、特定の本を指すのだと言う事を表して、はじめて自然な言い方になる。
<本は、・・・>と記し始めた時、この<は>により、本と言っても特定の本ではなく、ノートやランドセルや靴などの種類としての中での<本>と言う事が考えられるのです。つまり、小学校に入学する子供に対して、プレゼントとして<本>であり<ノート>であり<ランドセル>でありと言う様に親や祖父が分担していると言う事になります。ここには不自然さがありません。当然祖父があげた本は、リンカーンやアインシュタインについての、子供様に記された伝記物であると言う様に、具体的な本であるのです。しかし事柄としての具体的な物に対して、文章としては、その種類と言う側面を表しているのであり、子供の小学校入学のプレゼントとして、子供は色々な具体的な物をもらっていても、親側としては、その具体的な物を、それぞれが分担してプレゼントする時、分担をするのに種類として分けて考えると言う事であり、その種類として分けられた物を、いざプレゼントしようとすると、本としては、伝記であるとか童話であるとか言う具体的な物になるのです。
さて今私がこの様に記してきて、<本としては、伝記であるとか童話である>とコトバに表しても、それは現実の具体的な本を指しているわけではなく、あくまでも伝記と言う種類であり、童話と言う種類がコトバにされているだけです。親たちが現場でプレゼントする物は、具体的な物であるが、それらについて今ここで記しているコトバは、種類としてのコトバを語っているのです。
「具体的な本」と「種類という本」と言う区別は、両者が別々にある訳ではなく、捉え方の違いが表現されているだけなのです。それらをコトバで説明しようとすると、全てコトバになり、コトバ以前あるいはコトバを成立させる現実と言う舞台と言う様に比喩を使っても、<コトバ以前>も<現実という舞台>もコトバであり、ただ表現された内容を、そのコトバから讀みとってもらうモノがあると言う事なのです。
主題としての<本>であっても、伝記とか辞書とか小説とか言う具体的な本になるが、しかし小説としての本であっても、それらにはファンタジーも幻想小説もSFもあり、小説だから具体的であると言う事にはならないのです。小説とは、<罪と罰>とか<カラマーゾフの兄弟>等。個別的に名前を持ったものとしてあり、その一冊一冊が具体的な小説と言う事になる。とすると<その本>と言う指示たる<その>と指定される本は、その一冊一冊のどれかの本であり、<罪と罰>と言う名前の小説と言う事なのです。では何故「<罪と罰>は、太郎が花子にあげた」と言わないのかと言えば、まず<罪と罰>がロシアノ作家の小説の名前であると言う事が了解されているかどうかにあり、ただ小説や本と言うレベルでの種類を表すのであれば、「その<本>」と言う指示で済ませるのです。ただ<その>と言う指示は、<この>とか<あの>とか言う指示するモノの中で選択されているのであり、祖父がプレゼントした本や叔母さんがプレゼントした本と言う区別がそこにあるからです。
<ライオンは肉を食べる>の「ライオン」は、<全てのライオン>を表していて、動物の仲間のなかで<ライオンと言う種類>を表しているのでして、これだとほかの「トラと言う種類」「ゾウと言う種類」などとはっきり区別されます。ライオンとは特定の種類の動物と言う内容があるからこそ、主題として成立するのです。

「主題」と「主語」の違い


太郎が来た。
花子が賢い。
主語も、主題と同じ様に文が表す事柄全体の性質を決める事になりそうなものですが、実はそうではありません。主語には、後に続く部分からの独立性はないのです。主題だと、それがどんな働きをしているのかは、とりあえず分からないのですから、その働きが主体なのか対象なのか、それとも別のものなのかは文を最後まで聞いてから決める事になります。さらにある特定のモノを表す事も分かっています。
ですから主題が表すモノの働きをきちんと決めるには、文の残りの部分が表す内容からみて一番適当なものにしなければいけませんし、主題は特定のモノを表すのだと決まっていますから、それに合わせて、述語や他の名詞の性質も決める事になります。
主題は、事柄全体の性質を決める働きをする事であるから、「太郎は学生だ」と言う文が表す事柄は基本的には「太郎」が「学生」の一員だと言う事です。所が学生の一員になれる人間は、世界中にいくらでもいます。と言う事は、ある場面である人間が学生の一員だと言われるのであれば、その人は、「学生だ」と言う述語が表す事柄の枠組みの主体として「選ばれた」のだと言う事になります。だとすると、その場面にいる他の人間は主体として選ばれなかったのですから、その人たちについては、学生の一員ではないと言う事になります。
つまり、述語が「学生だ」である文が表す事柄の主語として「太郎」が使われているのだとしたら、事柄の性質として「太郎が学生の一員だ」と言う事と「太郎以外の人間は学生でない」と言う事の両方が表されてしまうわけです。所が「太郎」が主題なのだとしたら、太郎と言う一人の人間が、事柄の性質全体を決める事になります。ですからこの場合には、「太郎」と言う人間が始めから選ばれていて、その人についてどんな事柄が起きているかが、後で言われるわけです。となると「太郎は学生だ」と言う文なら、始めから太郎についての事柄だと解っている訳ですから他の人間の事は、何の関係も有りません。
<太郎が・・・>
<太郎は・・・>
前者の太郎は、<が>が付く事で、太郎とその他の人が前提にされ、太郎に付いては学生と言う性質をその他の人には、別の性質を、そして別の性質により、学生と言う説質では無いモノと言う規定をうけるのです。ただここでは太郎だけがコトバとして表現されているが、その表現を成立させる頭の中には。その太郎を含む人々の把握が出来ていて、その認識の内容を<が>と言うコトバで表されているのです。前提されている<個々の人々の集まり>があり、その人間の一人である<太郎>について、個別である一人としての太郎として、学生と言う述語が成立するのです。
それに対して、<は>が付く場合、太郎と言う人物の認知は、多数の人物の一人であっても、他の者には目をくれず<太郎>だけを取り上げている事を表すのです。その取り上げられた太郎について、その属性として学生が規定されるのです。太郎については、他の属性もあるが、学生と言う属性を持つ一人として規定されるのです。
<太郎が・・>の太郎は、個別としての人間の集まりがあり、その一人としての太郎であり、次郎であり、三郎なのです。一人一人の人間として捉えられ。その一人としての太郎に対して学生と規定し、その一人としての次郎が警察官であり、三郎が消防士と言う規定なのです。太郎が学生であり次郎が学生である場合、次郎も学生であると言う<も>の表現が成立するのです。

「太郎は、平泳ぎが上手だ」の主語は何か
「主語」と言う名称の問題点
格助詞の「が」についている名詞が主語である。名詞が主語ではなく、<は>や<が>ついている名詞を主語と規定しているのです。事柄の基本的な性質と言うのは、事柄の枠組みと、その枠組みの中にあるモノが表す働きの事です。
例えば<太郎が花子に手紙を書いた>と言う文
では、動詞の「書く」が事柄の枠組みを表し、その中で<太郎>が表すモノが<主体>、<花子>が表すモノが<受け手>、<手紙>が表すモノが<対象>と言う働きを持っています。主体、受け手、対象と言う働きを表すのが、格助詞の<が><に><を>で有るわけです。
<太郎(主体)は、花子(受け手)に手紙(対象)を書いた。>
主体とは、事柄の枠組みそのものを決める働きの事だと考えれば、いいのです。主体が決まって初めて、事柄がどんなモノなのかも決まってくるのです。
太郎が(主体)花子にボールを渡した。・・・・・・太郎が・・渡した(1)
花子が(主体)太郎からボールを受け取った。・・・花子が・・受け取った(2)
太郎から花子にボールが(主体)渡った。・・・・・ボールが渡った(3)
俯瞰の位置から見えるのは、太郎と呼ばれる男の子の花子と呼ばれる女の子がいることであり、その二人の間でボールが投げ合いがなされているのです。<太郎の手にあるボールが、花子の手に移動する>と言うコトバは、俯瞰する神の視点から見られるモノであり、ボールはA点からB点に移動していると言う事だけなのです。太郎が手にしているボールを投げる動作の実行により、ボールが空中を移動して花子のいる場所に来ると花子が手でうけとるのです。神は太郎に向けていた視線をボール移し、移動するボールに視線を向け続け、ボールが花子の手に入った時、視線は花子に移り、花子が受け取ったとなるのです。
神は、自らの視線を太郎の視点に重ね、太郎の目を通して、そこで生じているモノをコトバに表すのです。太郎がボールを投げ、ボールは空中を移動して、花子の所に到達するのです。
(1)は、客観的な構造としての太郎から花子へと言う方向性の中で、太郎の手から花子の手に移動する時の、太郎の動作に意思を含む事で<渡す>と言うコトバが選ばれている。ここでは太郎と花子と言う二人の人間がいて、その二人と言う集まりを前提に個別として一人一人として把握されている事を<が>であらわすのです。
(2)は、同じ客観的な構造にあって、太郎から移動したぼーるを、花子の意思を含む視点から見ることで、<受け取る>と表現するのです。
(3)は、ボールの視点であり、太郎と花子の間のボールと言う、個別のモノで有ることを<が>で表し単に太郎に有ったモノが、花子の手に移動したことを、<渡る>と表現するのです。
動作としての<渡す><受け取る><渡る>の動作主体が、ここでは主語となっているのです。この動作は客観的には同一の事柄であっても、動作主体の意思との関わりで上記の三つに分けられるのです。そこで起きている出来事は、神の視点としての俯瞰であり、私達が科学として成立させた客観的なものとして思考と言う事なのであるが、それを前提にして、動作の主体の意思を含んだ表現が成立しているのです。

主体とは、あくまでも事柄の中でモノが表している「働き」の事を言い、「主体」で有るモノを表す単語が主語と呼ばれている。
「太郎は泳ぎが上手です」
主語とは、文で使われる述語を決めると言うモノでした。それでは、述語の「上手だ」が使われる事を決めたのは「太郎」でしょうか。それとも「泳ぎ」なのでしょうか。
太郎という人物がいて、かれは散歩で歩いたり、ジョッギングで走ったり、山に登ったり、水の中を泳いだりするのです。そこで彼の泳ぐ状態は、泳げ無いので有れば、プールをただ歩くだけだったり、泳いでもアップアップしたものなのか、スムースに水を切って泳ぐかであり、彼の場合は、あたかも魚の様にスムースに泳ぐのであり、彼のその泳ぐ姿を、上手に泳ぐと言うのです。つまり、泳ぐのはあくまでも彼であり、泳ぎと言う動作の主体は、太郎と言う人物であり、太郎と一緒に飼い犬の<ワン吉>も泳ぐ時、ワン吉の泳ぎの主体は、ワン吉であり、太郎の泳ぎの主体は、太郎であると言う事なのです。水の中での身体による特定の状態を泳ぎと言い、人間であろうとネコであろうと犬、魚、象など、皆身体を駆使して上手に泳ぐのです。とすると<太郎>がその身体で作り出す水の中での状態を泳ぎと言うなら、太郎の泳ぎは魚の様に泳ぐのであり、その魚の様に泳ぐ事を、上手に泳ぐと言うのです。とすると<太郎は泳ぎが上手である>と言う文は、太郎と言う人物に付いて、走ったり、歩いたり、登ったり、打ったりするが、その色々な活動の中で、泳ぎと言う活動が、魚のように出来るのであり、それは太郎と言う人物の、沢山の個別的な活動のなかで、泳ぎが他の活動より秀でている事に対して、言われるコトバなのです。
太郎にとって上手と規定されるのは、野球の打撃と水泳であり、他の活動は特別に秀でている訳では無いとすれば、<上手である>と言う述語に対して主語は、泳ぎになります。では太郎と言うコトバはどんな働きをしているのかと言う事になる。それは泳ぎにしても打撃にしても走りにしても、皆太郎における身体活動であり、上手なモノも並のモノも、下手なモノもあるのだが、その様な太郎の事柄対して、上手なモノが文として表されているのです。<泳ぎが>の<が>の使用は、水泳、打撃、走り、歩き、山登り等の個別なモノが沢山有るとして認識されている事を表すのです。その個別なモノの中で、泳ぎと言う事柄が選ばれるのは、その上手と言う規定によるのです。
では<太郎は・・>の<は>は何を表しているのかと言う事になります。それは多数ある身体活動が成立しているのは、太郎と言う人物においてであり、太郎と言う自体に対して、彼の中の個別的なモノのうち泳ぎに対して、<上手>と規定されているのです。

<太郎は、泳ぎが上手である>と言う文は、<上手だ>だけが述語なのだとすれば、<泳ぎ>が主語ですし、<泳ぎが上手だ>が全体として一つの述語とすれば<太郎>が主語になります。別の言い方をすれば文の構造としてどちらを選択するかで、主語になる名詞が違って来るのです。
<太郎が、泳ぎが上手です>という文は、例えば、クラス対抗の水泳大会の選手を選出する場で、先生が「この3年2組の生徒の中で、誰を選手に選出したらいいか」と提案されたのに対して、その答えとして提出されたモノとして見ます。クラスの20名の生徒がいて、その一人である太郎が選ばれ、彼の泳ぎについて、幼なじみのKに聞いた所、とても上手であるという事なのです。Kにとっては太郎は、小さいときから見ているので、泳ぎは上手である事が解るのであり、<太郎は、泳ぎが上手だ>と言うのです。しかしクラスの20名の中の一人として見れば、個別としての太郎が、泳ぎが上手であり、他の生徒は普通の泳ぎであると言うニアンスが含まれているのです。つまり述語としての<泳ぎ>の前に、個別としての太郎は、他の生徒次郎や三郎と対比されているのです。クラスの生徒全員が泳ぎと言う属性で規定されてその泳ぎの上達度から比較され、結果として<太郎が、泳ぎが上手だ>と言うコトバになるのです。更にこの<泳ぎが>の<が>はクラスの一人としての太郎にとって、球技や体操や登山などの色々なスポーツが出来ているのであり、そのひとつとしての泳ぎについて<上手だ>と言っているのです。
<太郎が、泳ぎは上手だ>と言う文は、クラスの一人としての太郎に付いて、例えば球技は下手だけど、泳ぎは上手だと言う様に、<泳ぎ>が、特別の視点から、つまり上手、下手、普通と言った視点から捉えられていて、上手の分類に入るものとして<泳ぎ>が有るのです。

太郎と言う名前の人間がいる。彼は20名クラスの一員であり、20/1と言う存在になる。その20名全員が、泳ぎと言う属性で均質化され−−クラス対抗水泳大会に出る選手の一人にだれでもなれるのです−−上達度で比較されると、太郎の泳ぎが、上手であると判断されるのです。その20名のクラスを、俯瞰する所から見おろせば−−クラス全体にスポットライトが当たり、全員の動きが確認出来ている−−そのクラスと言う集合体の20の要素に対して、<太郎の泳ぎが、上手。次郎の泳ぎが、普通で、三郎の泳ぎが、下手である>と言うコトバになるのです。
その3年B組の一員であることが水泳大会の選手に選ばれる要素であり、クラスの一員である事が対等な要素なのです。俯瞰する位置にあるスポットライトは、クラス全体を照らすのであり、一人一人の動きは俯瞰する所からも良く確認出来るのです。さらにクラスの一員と言う要素に、<泳ぎ>の上達度で比較され<太郎が、次郎が、三郎が、四郎が・・>と言う様にコトバに表されるのです。
その対等なクラスの20名に対して、俯瞰する位置のスポットライトが、点のビームになり、一点の光が、一人一人に当たり出すと、その当たっている時には、他の生徒は闇に消えていて、太郎だけの存在となり、次郎だけの存在となり、三郎だけの存在となるのです。そのビームの光が当たっている太郎に対して、<太郎は・・>と言うコトバになります。そして<泳ぎが・・>と言うコトバになる事で、太郎における水泳、球技、格闘技等の個別としての諸活動の一つが選ばれている事を表し、その選ばれているモノの上達度がコトバになったのです。
スポットライトAが太郎に当たっている事だから、<太郎は・・>となる。更に別のスポットライトBが太郎の諸活動に当てられていると、水泳、球技、格闘技等の個別の集まりとして捉えられるのです。それが<水泳が・・>と言うコトバになる。さらにスポットライトBが、一点のビームライトとして<水泳>をテラスと、諸活動は闇に消え、水泳の存在だけが浮かび上がってくるのです。それが<泳ぎは・・>と言うコトバになります。
<太郎は、水泳は上手です>では、スポットライトBが一点のビームライトとして水泳を照らしているのだが、そのライトは<上手>と言う色を出して水泳を照らしているのです。太郎と言う人物に当たっているスポットライトは、その身体の形に向かっていれば、当然他の人間には当てられていないのは確かであるが、上手に水泳をしている太郎には、現に泳いでいる状態の太郎にライトが当たっているだけで、同時に球技をしている訳ではないので、ライトの当たっていない所に他のスポーツが隠れていると言う事ではないのです。とすると<太郎は・・>と言うコトバは、人々の集まりに向かって当てられているスポットライトが太郎だけに当たることで、太郎の存在だけが光ると言う事であるなら、光以外の闇の中に、他の生徒が潜んでいても、闇により無視されると言う事なのです。それに対して<太郎が・・>と言うコトバは、集まりの全体に<泳ぎをすると言う光>が当たっているなかで、太郎を取り上げるのであり、当然他の生徒も<泳ぎをする>と言う光があたっているが、ただ<上手に>と言う色が付くのは、太郎だけであると言う事なのです。

英語の場合主語に選ばれるコトバの形は、述語の形と一体になっているのであり、それを主語の人称により述語の形態が決まると言う事なのです。しかし日本語の場合には、人称の違いが、述語の形態を制限しないのです。英語でも、<動作とその主体>の関係は成立していているが、動作に対するその主体が、話者から見て、自身である一人称、相手である二人称、第三者である三人称であることで、動作を表す言葉が、決められると言う事なのです。
第一人称 I am a boy。
第二人称 You are a boy。
第三人称 He is a boy.
日本語では、<私><貴方><彼>と言う違いだけであるが、ただ<私が・・>か<私は・・>と言う別々の表現が成立しているのです。それは話者が自身を、有る集まりの一人として規定しているか、単独の者として規定しているかであり、<が>が前者であるなら、<は>は後者になるのです。その集まりの各要素は、要素として同一の規定を受けているのであり、今の例の場合には、クラス対抗の水泳大会の選手として選出されるためには、同じクラスの一員であること、水泳が出来ること、さらに上手に出来ている事が条件になった結果として、太郎が選出されたのです。しかし友人Kにとっては、クラスの一員以前から太郎自身の事を知っているので、<太郎は・・上手です>と言えるのであり、さらにその知識を前提にしてクラスの一員としても<太郎が、泳ぎが上手である>と言うのです。

英語や中国語には、主語や目的語を表すための、日本語の「が」と「を」に当たる単語が有りません。ですから主語と目的語を区別する為には、語順に頼るしかない事になり、日本語ほど語順が自由にはならないのです。
<花子が太郎をぶった>(Hanako hit Taro.)
枠組みとして考える:述語が表している事柄の性質
時点:事柄が起きる時点で、過去、現代、未来のどれかです。
アスペクト:事柄の全体が成立したのか、一部なのかと言う内容
可能性:事柄が成立する可能性がどの程度だとされているのかと言うことです。
<ぶつ>と言う語は、人Aが他者Bを手や道具を使って、身体に暴力を加える事を表し、他者からみれば<ぶたれる>と言うコトバになります。つまり、話者にとって自身をAに重ねてコトバにすれば、<ぶつ>になり、話者が他者Bに重ねれば、<ぶたれる>となるのです。単に俯瞰する位置から見ている限りそこで起きている出来事は、<ぶたれる>も<ぶつ>もないのです。一つの出来事が起きているのであるが話者は、その出来事を俯瞰する位置から眺めると同時に、Aに重ね合わせて語る場合とBに重ね合わせて語る場合があるのです。<ぶたれる>とは、俯瞰している事で見えているその出来事に付いて、話者が他者Bの視点に重ね合わせて認識し語ったものです。花子が自分自身がであり、そして話者であれば、彼女の口から出るコトバは、<太郎は、私をぶった>になります。ただ<ぶたれる>のはあくまでも、花子自身であっても、<動作とその主体>と言う観点からすれば、<太郎が、ぶつ>のであり、<花子が、ぶたれる>のです。
<太郎が、花子をぶつ>と<花子が、太郎にぶたれる>との二つは、ここで<動作とその主体>と言う視点から表されている言葉であるが、俯瞰する位置からは、太郎と花子との二人の人間と太郎と花子の間の身体的接触があると言う事だけであり、その客観的な出来事に対して、何処から二つのコトバが生ずるのかと言う事なのです。それは主体と動作と言う視点であり、太郎が主体になっても、花子が主体になってもいいのであり、太郎が主体で有れば、花子は対象であり、述語は<ぶつ>になり、花子が主体であれば太郎が対象であり、述語は<ぶたれる>となるのです。太郎の身体の動きに依って作られる力が、手の動作を介して花子に伝わると、花子は頬に痛みを知覚するのです。しかし太郎、花子それぞれの動作を相対的に独立したモノとして考え、その別々の人間たる太郎や花子を主体として選択する事で、動作も規定されるのです。問題は主体として選択された<花子>に対して、例えば数人の人間の集まりの中での一人としての個としての花子と言う規定が、「花子」と言うコトバに<が>がつく事の内実であり、その集まりの中で、個としての花子以外にも個としての雪子が前提になっていて、たとえば<雪子も、太郎にぶたれた>と言うコトバになるのです。さらに<どうして、花子が太郎にぶたれたか>と言う問いに対して、突然太郎が部屋から出て来た時、皆は一目散に逃げたのに、花子だけが逃げ遅れて、それで<ぶたれた>のだと言う解答になり、さらに<どうして「太郎に」ぶたれたのか>と言う問に対しては、太郎と花子はとてもなかが良いのに、ぶたれる理由が解らないと言う事になるのです。
どうして、<花子が>ぶたれたか。
どうして、花子が、<太郎に>ぶたれたのか
どうして、花子が太郎に<ぶたれたのか>
と言うそれぞれの問が成立するのです。
そこで<どうして、花子はぶたれたのか>と言う問に対しては、「雪子ではなく花子が」と言う解答が<花子がぶたれた>と言う答えであるのに対して、そういう他者との比較ではなくて、<花子自身>の理由により、ぶたれたのだと言うのが、その解答になるのです。<花子は>の<は>は、花子と言う存在における属性が関わるのであり、単に一員としての花子であることが、<花子が・>となるのです。
当然<花子が、ぶたれた>と言うコトバが、他の雪子ではなく、瑞季でもなく、<花子が・>と言う個別性として規定されているのであり、さらにその人の中から<花子>が選択されたのは、単に集まりの一人として<逃げ遅れた>と言う理由と<花子には>太郎をいらいらさせる振る舞いが沢山有るからだと言う理由になり、後者はまさに他の人に関係なく、ただ花子自身の内実の問題だと言う事なのです。

<花子が・・>の<が>は、花子自身を<ぶたれるモノ>として規定するのです。<花子=ぶたれるモノ>と言う規定を受ける。<花子は、太郎にぶたれる>とは、花子自身が持つ内的な構造が前提にされる為に花子以外の人である雪子や佳子は、前提にされないのです。<雪子は、太郎にぶたれる>の時も、そこには、<ぶたれる>共通性はなくて、ただそれぞれの内的構造だけが取り上げられているのです。

ラングを批判した時枝誠記

彼は、コトバと言うのを、話し手が具体的な場面からモノとか動きとかの事物を選んで、それを概念に対応させて、それから又その概念を音に対応させる「過程」なのだと考えていたからです。ソシュールのラングは、話し手が特定の場面にいると言う要素を取り除いた所が大切なのですから、時枝がらラングなんてのはないんだ、と考えたのも無理はありません。しかしソシュールにとって、そのラングが具体的な話し手に依って、特定の場面で使われたモノを「パロール」と呼んでいたのは、大事なのです。
ソシュールがラングとパロールを合わせて「ランガージュ」と呼んでいたモノこそが、コトバなんだと主張したと言う事になるのです。
コトバというのを、話し手が事物を単語や文で言い表したモノだとするだけでは、まだその半分だけしかありません。単語や文を聞いた人が、そういう記号の内容を正しく理解すると言う過程が、残りの半分を占めているからです。例えば、話し手が有るモノを見て「リンゴ」と言ったとして、聞き手はその「りんご」と言う単語を聞いて、日本語を知っていれば、その単語がどんなモノを表しているのかが解ります。もし話し手と聞き手も同じ場所にいるのだったら、その「リンゴ」が具体的にどんなモノを指しているのかは、まあ大体は解るでしょう。もし話し手が「私は昨日リンゴを食べた」と言ったとしたら、その「リンゴ」が指すモノは、当然その場所には有るわけありません。ですから聞き手は「リンゴ」が指しているモノが具体的にどれなのかは、絶対に解らないのですが、それでも日本語を知っていれば、「私は昨日リンゴを食べた」と言う文の意味を理解する事が出来る訳です。
コトバを理解するとは、具体的な場面で単語が指すモノがどれなのか、と言う事が解らなくとも、出来ると言う事です。
<私は、昨夜リンゴをたべた>と言う文の意味の理解は、日本語がわかると言う事で了解されるのであり、特にではその意味は何かと問う事はありません。その文の通りなのです。私という存在は、一日で変わらないにしても日々生きていればへんかしているのであり、今の私とは違っているし、昨夜と言う夜はすでになく、リンゴも食べてしまったので無く、食べると言う事もすでに終了されている。それらは一回の出来事としては、もう過去になったのであるが、しかし<夜><リンゴ><食べる><私>と言うコトバはその一回の出来事にある、種類という側面を表しているのです。昨日に食べたリンゴAと言う一つの個体は、食べるものとしてあると言う事なのです。一個のリンゴAと言う個体は、居間のテーブルの上にあったモノであり、それを食べてしまえば、胃の府に入って消化されることで、個体が無くなるのです。食べてしまえば、それはすでにこの世界にはないのだが、しかしその一個であるモノは、その形や味や大きさや色等であり、私達の身体の栄養物として<食べ物>と言う種類なのです。リンゴと言うコトバは、そのと言う事で、指示されているモノを具体例として提出するのであり、それを色々なコトバで修飾して語るのだが、その一個一個のモノを指示している。しかしこの一個一個のモノへの指示は、指示されるモノに取っては、一個一個であるが、指示する<リンゴ>と言うコトバは、<リ><ン><ゴ>と言う三つの音で構成され、<ミカン><スイカ>と言う音との区別がなされれていて、一つのコトバで指示するのです。ただその指示される一個一個のモノにたいして、<食べ物><果物><モノ><生物><木の実>等、指示するコトバが沢山有るのです。指示する<リンゴ>と言うコトバは、一個一個のモノの種類という側面を表す<食べ物><果物>と言うコトバを前提にしている。その種類と言う側面の認識と一個一個が見た通り触ったとおり、味わった通り、と言う認知が統一されて表されている<リンゴ>と言うコトバなのです。絵に描いたモノも<リンゴ>と呼ばれるのだが、味わいや手触り等が成立していないので、本物のリンゴとは呼ばれないと言う事なのです。<リンゴ>と言うコトバに表されている認識は、五感による感性的認知と<食べ物>と言うコトバに表される概念認知との統一として成立しているのです。
子供が<リンゴ>と言うコトバを発声したり、記したり出来る様になるには、コトバの発声や表記と同時に、頭の中に見た目による認知や味や手触り等の感性的認知が成立することであるが、それがさらに<食べ物>と言う様に種類の認知が成立することで、コトバとして表されるのです。その認識を概念と言うのです。
<私がリンゴを食べる>と言うコトバが言えるのは、自分自身を指示するコトバとして<私>、その主体がする動作を<食べる>、食べられるモノで、特定の色や形をしているモノを<リンゴ>と言う様に認識が構造化されているからです。それを日本語では<リンゴ>と言い、英語では<APPLE>と呼ぶのはそれそらについての認知として頭の中に成立する概念構造は同じでも、感性的認知をあらわしたコトバが別々であるからです。英語を話す人々も、食べ物を口から食べるのであり日本語を話す人々とその身体活動は同じだからこそ、別々の形態のコトバでも、概念のレベルではおなじであるから、意思の伝達が可能になるのです。

コトバの理解には、単語が実際に何を指しているのかが解る事は、実は本質的に重要な事では無いのだと思います。ソシュールは、コトバが表す内容にはこういう性質が有ることを知っていたからこそ、コトバの一番大切な部分は、ラングなんだと言ったのでしょう。「リンゴ」だったら実際に指すモノがこの世に存在しますが、<魂>とか<大鵬>とか、人間が頭の中で空想しただけのモノについては、元々具体的な場面など考えようが有りません。こういう点で、コトバが使われる「場面」を、ことばを考える時にはいつも組み入れなければならないとする考えには、問題があります。
ソシュールにとって<概念>とは、単語が表す意味と同じだと考えていたようです。ですから、ある概念が有る事は、それを表す単語がある事によって確かめられる事になります。所が時枝は「リンゴ」とか「食べる」の様な単語だと、概念に対応するけれども、助詞とか助動詞の様な単語は、概念に対応してはいないのだと主張しています。
名詞、動詞の様な自立語(詞):概念過程を含む単語
助詞、助動詞のような付属語(辞):概念過程を含まない単語
自立語の場合は、事物から概念へ、そして音へと言う過程があるのだけれども、付属語の場合、事物からすぐ音へと言う過程しか無いのだと言う事になります。
時枝によれば、概念と言うのは、話し手の判断を含まない客観的なモノだと言う事なのだそうです。ですが、どうして名詞や動詞の表す意味が客観的で、助詞や助動詞の表す意味のほうは客観的ではないのかは何処にもきちんと説明されていません。
時枝が主張する日本語の文の構造は、「詞」と「辞」が並んで一つの単位になり、それに又「詞」がくっついて大きな単位を作り、その単位に又「辞」がくっついてもつと大きな単位を作り、と言う具合に、詞と辞が交互に並ぶ様な形になっていると言うものです。時枝は、この様な詞と辞の構造を「入れ子型」と呼んでいます。実際には日本語の文は、こんな解りやすい構造になっていません。例えば「太郎は花子に会った」の様な文を見ても、入れ子型の構造が正しいとすると、
時枝の文法は、橋本の学説をもとにした国文法の問題点を修正する手段としては、決局使われる事はにはならなかったのです。
私達日本人が話す日本語と言うコトバは、私に取っては毎日使用するコミュニケーションの手段でありそれで相手とへ伝達を交わしているのです。その日々のコトバを、研究する思考が分析するのです。それが時枝の<詞と辞>と言う区分であり、歴史的には江戸時代の歌論から生まれた<玉の緒>と言う発想なのです。<て、に、を、は>と<名詞や動詞>の関係は、数珠の玉とその玉をつなぎとめる緒の関係として表象したのです。

三浦つとむの時枝「言語過程説」についての評価(日本語はどういう言語か。講談社学術文庫):
時枝以前の言語観は、言語を一つの道具として理解していました。頭の中に道具があって、これを使って考えこれを使って思想を伝達すると考えるのです。この道具は「概念」と「聴覚映像」とが堅く結びついて構成された精神的な実体と説明され、「言語」または「言語の材料」と呼ばれています。時枝はこの道具説を誤ったものとのして斥け、<対象−認識−表現>の過程をもって言語の本質であると主張したのです。過程説の生まれた事は、歴史的な一つの必然として考えなければなりません。世界は出来上がった諸事物の複合体としてではなく、ある「過程の複合体」として捉えるべきだと言うまは、ヘーゲル哲学の革命的な見方なのです。時枝誠記が思考のバックボーンにした、日本の古い国語学者達の持っていた素朴な言語観であり、ヘーゲル哲学の流れを組む「現象学」に、長所も欠点もあるのです。
長所:
(1)言語を過程的構造と見たこと 
(2)語の根本的分類として主体的表現と客体的表現の区別を採用した事 
(3)言語における立場を明確にした事・・主体的、客体的の区別
短所:
(1)言語の本質を「主体の概念作用にある」と考えた事 
(2)言語の意味を「主体の把握の仕方、すなわち客体に対する意味作用そのもの」と考えた事 
(3)言語表現に伴う社会的な約束の認識とそれによる媒介過程が無視された事 
(4)与えられた現実についての表現と、想像についての表現との区別及びその相互の関係が取り上げら    れていない。
言語を過程において取り上げ様とした事、その事は正しかったのですが、だからと言って言語と言語活動が同一だと言う事にはなりません。音声や文字は、それ自体物理的な空気の振動であり石の上に出来た亀裂の様なモノで、そこには「意味」はないと考えたのです。では何処に意味があるか?、言語の過程としては、対象が必要であり、概念も作られますが、これらが表現の後で消え失せてしまっても、音声や文字は言語の資格を失いません。対象や概念は言語の成立条件であっても言語の構成部分ではないのです。すると「対象」「認識」「表現」のいずれも「意味」ではなく、それら以外に「意味」を求めなければなりません。そこで時枝は、この表現を行う主体の活動そのもの、すなわち対象を認識する仕方を「意味作用」と呼び、話し手・聞き手の活動そのものが「意味」であると結論しました。
なるほど<対象−認識−表現>の過程の中で、どこかに「意味」と呼ばれる様な実体が無いかとさがしても、それに当たるようなモノが無い事は事実です。何かの実体を「意味」と考えたこれまでの言語理論が間違っている事も確かです。時枝が「実体」を意味と考えてはならぬと主張した事は正しかったのですが「意味」のあり方を「実体」から「機能」に移し変えた事は間違いでした。「意味」は機能としてでは無く、関係として考えるべきだったのです。音声や文字は、それらが創造されるまでの過程的構造と、それらの創造された形において結びついています。この関係そのものは目に見えない為に、見逃されてしまったのです。音声や文字の形は、その過程的構造との関係において、すなわち音声や文字は表現形式と表現内容との統一において理解しなければならないと、時枝の言語過程説を訂正する必要があります。
言語道具説が、表現の為の社会的な約束の認識を「言語」または「言語の材料」と考えたのは間違いです。時枝は言語道具観を否定し、個々の具体的な言語以外に言語はないと主張しました。これは正しかったのです。けれども言語道具観の取り上げた「言語」 または「言語の材料」の正体がなんであるかを明らかにする事ができず、これを否定した為に言語道具観を支持する人々を説得出来ませんでした。時枝は、この社会的約束を「言語の材料」と解釈されている抽象的な認識に求めるのではなく、「本質的には個人の銘々に受容的整序の能力が存在する」からだと、個人的な能力に基礎づけた所に、間違いがあります。
<リンゴ>と言うコトバには、現実の対象があるが、<天使>と言うコトバには、現実の対象がない。両者に共通なモノが、コトバに当てはまる項目であるが、対象には関わらないと言う事がコトバを考える時の重要項目なのだと結論したなら両方のコトバに表される認識が、少なくとも頭の中に成立していて、それが<リンゴ>と言うコトバ、<天使>と言うコトバに表されているのです。リンゴと言うコトバに表される認識には、現実の事物が対象としてあり、<天使>と言うコトバには、現実の事物が対象になっていないと言う事なのです。しかし<天使>と言うコトバは、ヨーロッパに住む人々の頭の中で組み立てられたモノであり、彼等の頭の中の想像の産物であるが、しかし赤ん坊、それも白人の赤ん坊が種であり、日本人の赤ん坊が使われているのではなく、さらに天使の羽は鳩の羽が種になって、<天使>象が成立しているのです。つまり、想像された産物であっても、現実の事物が種になっているのであり、その種のあり方を無視して天使自体が事物として存在する、存在しないと言う言論は、過ちを犯しているのです。コトバの本質はあくまでも認識の表現であり、その認識が現実の事物を対象にしていて、その現実の事物のあり方を、認識内容として形成しているのです。想像の産物も、現実の事物を対象にして成立している認識内容が組み替えられているのであり、その産物が<天使>と言うコトバに表されていると言う事なのです。
コトバの意味は、音声や文字の形と頭の中の認識との対応関係であり、話し手が亡くなった後でも、一度記したコトバに意味が有り続けるのは、そのコトバの示す形や音韻と認識の<対応関係>が絶えず再生産されるからです。私の頭の中に形成された認識も、新しく生まれた子供が成長するに従って形成された認識も、音との<対応関係>を形成するのであり、その対応関係が同じであると言う事なのです。この対応関係は、音韻と言うコトバの音声面と認識の間で成立している。音声の同一性は、音韻と言う音の周波数によってきまるのです。それに対して、対応する認識は、私の認識と子供の認識を比較して比べると言う訳には行かないのだから、<音声に対応する>と言うコトバでは、簡単に結論出来ないのです。その解決は、話コトバの音声の側面を、そのコトバが表す事物に指示として使う事で、事物が私達の存在と関わる側面、例えば<食べ物>と言う種類として知覚される、事物についての認識が成立するのです。<それ>と呼ばれる個別的対象物は、固有名としての<リンゴ>と種類名としの<食べ物>と呼ばれ、食べられる事で、特定の種類の食べ物として扱われ、その扱いの頭脳への反映が<概念>と言う認識なのです。つまり<そのモノ>を、その様に扱える事のなかで−−当然動物も、それを食べ物として食べるのである−−<リンゴ>と言うコトバで呼ぶ事が、頭脳の中で概念認識が成立していると言う事の直接的な表れとなっているのです。それを形や大きさや材質や色等で、他のモノと識別できているが、ただ<それ>についてコトバとして<リンゴ>と名付けるその感性的知覚されるモノが、同時に<概念>としての食べ物と言う種類の現実的形態となる事で、目の前の<それ>を、概念の現実形態として扱う事になるのです。動物も人間もそれを食べていて、それで生命を維持するのだが、<それ>を食べ物と言う種類として扱うと言う事では同じでも、動物は食べて終わりと言うレベルで有るのに対して、人間は<食べ物>として栽培すると言う様に、食べ物になるモノを食べる以前から、扱うのです。それは人間の頭の中にそれらしい思考回路が成立しているからなのです。その思考回路を通って来たモノが、コトバとして表れていると言う事なのです。

新しく生まれた赤ん坊は、今使われている言葉を覚え、自分の欲求を新しいことばとして表現していくのです。つまり、話し手Aが記したコトバには、その時の話し手Aの認識が関係していて、聞き手Bが、そのコトバから自分の頭に作り出す認識が、コトバの社会的約束としての認識を生産するからです。彼が日本語で育っている限り日本語の規範を覚えながら日本語を使用していくのであり、その覚えている日本語の規範を介して話し手Aのコトバに表されている認識を、自分の頭のに再生産するのです。昔のコトバに出合った時、その意味が解らないのは、そのコトバが表してている規範が、今話している言葉の規範と繋がらないからであり、そのつなげる努力により初めて昔のコトバの意味が理解できる様になるのです。
コトバに繋がっている社会的認識との関係を規範として作り出し、私達がその規範を覚えて行く事で他者との間にコトバのコミュニケーションが成立するのです。しかしコトバが、その規範を介していても、規範が行き来するのではない。生きた人間の生きた現実認識乙が、規範として成立している<文字の形−認識甲>の認識甲に関係することで、初めて彼が作成した認識過程がコトバとして表されたのです。私には韓国語が話せないのは、韓国文字に対応する社会的認識の関係認識が出来ていないからだが、しかしコトバが話せないとしても、生きた現実の認識は成立しているのであり、生きるのに必要なら、身ぶりでも伝達させようとするのであるが、ただその生きた認識を韓国語に変換する社会的規範が無いばかりに、コトバの伝達が出来ないのです。一人前に生きてはいるが、他者との韓国語による伝達が出来ないのです。日本語としての<リンゴ>と言うコトバを覚える事は、その様な発音が出来るように口内の動きを制御できる事なのだが、さらに目の前のその事物に対しての認識が出来上がることなのです。その事物に対する認識とは、それが食べ物と言う種類であり、食べ物としては私達の口で食べると言う活動が関わり、身体の食欲を満たす行為であると言う事なのです。<リンゴ>と呼ばれているモノを眺めても、ただ形や色や手触り等が知覚されるだけだが、それが食べられる事で、私達の食欲が満たされるのであると同時に<食べ物>と言う種類に分類される事になるのです。それが<リンゴ>と呼ばれ、果物と言う種類に分類され留のに対して、別のモノが<なす>と呼ばれ、野菜と言う種類に分類されるとき、どちらも<食べ物>と言う種類に分類されるのに対して、野菜、果物と言う分類は、食べ物と言う種類であるものが、その生え方が木になるかどうかと言う区別に依ると言う事なのです。
自分たちの目の前の事物をなんと呼ぶのかと言うコトバの規範は、話し言葉の<音声>を覚える事と事物の<何であるか>を認識する事の一体化なのです。例えば自分の中の意思としての欲求を<そのリンゴが食べたい>と日本語にすれば、日本語の分かる人には、伝達されると言うことであるが、日本語の分からない人には、コトバに表された欲求は伝わらないから、身ぶり手振りで表す事になるのです。日本語であろうと韓国語であろうと、生きた欲求は成立しているのであり、日本語を話せるとは、その生きた欲求と社会的規範としての<欲しい−−社会的認識>とをつなぎ合わせているのです。この<生きた欲求>と<社会的認識>との間の関係は、例えばお腹が空いていると言う状態では、一方では食べ物と言う抽象化であり他方は口で食べると言う身体活動として分化されて行く事なのです。五感による認知の対象である多様な事物が、食べ物として種類化され、それらを食べると言う活動によって支えられていると言う構造の分化なのです。<お腹が空いたからリンゴを食べる>と言うコトバは、お腹が空いた身体の状態と空腹を満たす食べ物としてのリンゴと言う対象認識と、食べると言う行為により、空腹を満たし得ると言う活動の現実化によって支えられているのであり、動物も人間もそれらを一連の行為として実践するだけであり食べ物がないとただ空腹のままうろうろするだけになってしまうのです。人間はその一連の活動の中にありながらも、食べ物の工夫や食べ方の工夫を通じて、実践を導く概念的な認識を形成し、そのあらわれとしてコトバを使う様になるのです。単に空腹のままではなく、他者とコトバによる伝達を通じて食べ物を獲得したりするのです。

言語道具説とは、話し手が自分の思いを、聞き手に伝える為の手段としてコトバが使用されると言う事であり、思想の伝達の道具としてコトバを使うと言う考え方であり、話し手の頭の中の思想がコトバに載って、頭の外部に出て聞き手の耳から入り、聞き手の頭の中に到達すると言う説明になります。コトバは、話し手の頭の中にある思想を載せて頭の外に出す為の乗り物であると言う事です。
ただこの乗り物は、載せるモノの種類によって形態が違うのであり、言語と言う乗り物は、絵画と言う乗り物、音楽と言う乗り物、と言う様にそれぞれの乗り物があって、それに載せられるモノはそれぞれの特徴があると言う事なのです。コトバに載せられるモノは、概念と言う思想であり、絵画は感性的認識と言う思想なのです。

例えば、電車にのってK市から東京までの移動をする時、乗り物としての電車と乗る私自身とは別物であり、たとえ電車で電車の部品を運んだとしても、動き回る電車と部品としての電車は別物として有るのです。特定の場所K市から線路の上を東京まで移動するのであり、その移動する電車に乗っていれば、載せられているモノも移動すると言う事なのです。電車の移動は、その移動の構造により線路等の形態が決まるのであり、電車に乗るモノは、ただ乗り続ければ良いだけであり、これが自転車の場合には、ペダルを漕ぐと言う働きをしないと、自転車が移動しないと言う事なのです。
この<乗り物>と言う考え方にあって、載せる電車に対して乗る乗客がいるのであり、コトバと言う乗り物は、意味と言う乗客を載せていると言う事なのです。電車が線路の上に待機しているとき、人々は日常として生活しているのであるが、その人々がそのまま乗客なのではない。その人々が電車に乗った時に初めて、電車との関係で乗客と言われるのです。電車に乗る以前の人々は、乗客になる可能性はあるにしても、その人々がその時点で乗客であると言う事ではない。人々の乗客になる可能性とは、なにか神秘なモノではなく、彼等の生活の中で場所移動をする必要が生まれるかどうかと言う事なのです。必要からうまれた場所移動の手段として乗り物を使うと言う事なのです。場所を移動するのは、それが必要な人間であれ、その人間の移動の為に、道具としての乗り物が使われるのです。場所の移動と言う時、その場所が水の上であったら、道具としては船であり、空中であったら飛行機となり、水中であったら潜水艦になります。移動の道具の具体性は、移動する方法の具体性であるが、その具体性の違いに関わらず、人間の移動と言う事が本質なのです。
言語道具説は、伝達される<思い>と伝達手段としてのコトバとが別物であると言う事を前提にしているが、しかしそれは話コトバを電話と言う道具で話相手に伝える事とは違う区別なのです。電話は、話における声帯の振動が作る空気の振動が受話器の振動板を振動させると振動板の振動が、電流の変化に転換され、その変化する電流が電線内をながれ、相手の電話機の振動板の振動に変化して、その振動が空気を振動させると、音声として聞こえると言う事なのです。<送話器−電線−受話器>の過程は、ただ振動板の振動と特定の電流の変化だけなのだが、その特定の電流の変化が、話し手の声帯の振動が作り出す空気の振動と一体一の対応関係が出来ている為に、受話器でも同じ<空気の振動>として作動すると言う事なのです。この<一体一>の対応とは、発声による空気の振動が振動板を振動させると振動板に接続されている電線に電流が流れるのであり、この振動板の特定の振動と振動場から電線に流れる電流の流れ方に一定の法則、つまり数量的関係があると言う事なのです。振動板の振動は物態の振動周波数としてあり、その周波数の数値の違いが、電流値の数量の違いとして変換されると言う事なのです。
私達は、話し手の話の内容が、電話の過程を通じて、電話機を道具として、相手に伝達されたと理解するのです。話し手の声帯の振動が作り出す、空気の特定の振動が、人々の耳に<コトバ>として聞こえると言う事であり、その空気の特定の振動にコトバとしての意味がある事を、コトバを聞いていると理解しているのです。電話機が作り出す電流の流れは、振動板の特定の振動に対応しているだけであり、振動板の振動の周波数によって決まる電流の流れであると言う事なのです。それが<話し声の伝達>と理解するのは、話し声が特定の空気の振動としてあるからなのです。とすると電話以前にも、話し声は単に声帯が作る特定の振動が、空気を振動させているだけでは無いかと考えるのは、声帯の特定の振動に頭の中の観念が対応している事の意味が理解されていないのです。話し手の頭の中にある観念とその観念に対応している声帯の振動により、空気が振動されると、空中を伝達する。その振動が聞き手の耳からはいり鼓膜を振動させると、頭の中で音声表象の成立と観念の対応関係が生まれ、結果として聞き手は話しての言葉を聞いたと言う事になるのです。私が電話口から聞こえる人の声に、ただ雑音としてしか耳に入らないのは、中近東のコトバとして理解していないからなのです。それは音声表象と観念の対応関係を得手いないからです。
電話機の構造は、音と言う空気の振動が振動板で電流の変化に転換されると言う事だけであり、たまたま話しコトバが<音>と言う構造として成立しているから、話コトバの伝達として電話機が伝達の道具として使われていると言う事なのです。話コトバの構造として、声を形成している声帯の振動による空気の振動が始まりであるから、その声の本質てある振動の周波数を、転換する機械が電話機と言う事なのです。書き言葉の伝達には、書き文字としてのインクの跡を電流の変化に転換出来れば良いのであり、それがFAXと言う電話の機能に他ならないのです。
電話機が道具であるのは、声の振動を電気に変換し、再度空気の振動に再返還するからであり、雑音であろうと、音楽であろうと、話し言葉であろうと、それらが<音>で有る限り、その<音>の伝達の道具として成立するのです。私が話している言葉が、電話を通じて相手に届き、コトバとして聞き取られるのはその<音>が、特定の形態の音であり、その特定性を認識できることが、<コトバ>の理解であると言う事なのです。
私が中近東のコトバを理解するまでは、電話機から流れてくる音声に対しては、ただ音としてしか対処出来ないのであるが、実際にその音を発声する人々を前にする事で、その音の種類と観念の対応関係を理解できる様になれば、電話の声もコトバとして理解できると言う事なのです。
ここには、声帯の特定の振動が作り出す空気の振動がある事とその音と言う音声表象が頭の中に成立していると言う構造が有るのです。その音声表象は、同時に対象事物についての観念と一体一の関係として理解され、その音声表象が頭の中に生ずる時、同時に観念も成立すると言う事なのです。その関係を作ることをコトバを覚えると言うのです。観念の形成は、事物に対する感性的認識から超感性的認識へと変化する事で成立するが、その観念と対応する音声表象による現実の音声としてのコトバが、指示として事物に向かう事で、認識としては、事物の一般性としてある観念が、そして観念の前では、事物は抽象の彼方に消えてしまっているのが、この事物自体が観念の現実態であると言う事になるのです。一般性としての観念、つまり諸物のどれにも当てはまる共通性としての観念である為に、個々の諸物は、後ろに隠れてしまうものであるのに、コトバとして指示されることで、その指示されるモノが、一般性の観念の個別的な観念と言う事になるのです。それはあたかも概念の自己展開として個別的概念を生み出すと言うヘーゲルの理解になってしまうのです。そこにコトバによる指示関係が成立する事で、概念があたかも自己だけで個別的概念になったかの様に見えるのです。
諸事物にある共通性が、私達の頭の中に概念として認識される。その時諸事物の個別的な特徴は、抽象と言う思惟の働きにより、共通性の背後に消えてしまうのです。個々の特徴を消し去って行くからこそ共通性が認識されるのだが、しかしその共通性についての認識をコトバに表し、諸事物に対するレッテルとして貼られる事で、共通性であるモノの個々具体的なあり方として了解されるのです。個別的な特徴は、共通性を表す素材となるのです。鉄製の椅子は、椅子と言う概念の鉄と言う素材による形態であると言う事です。木製の椅子は、木材と言う素材による椅子と言う概念の現実形態であり、火の中で燃えているのはあくまでも素材としての木材なのだと言う事です。椅子と言う概念はあくまでも頭の中にしかないが、その概念が木材を素材にする事で、頭の外部に表現されるのです。外部的には、自生する木材がその形態を変えるだけなのだが、ただこの形態の変化は、私達の頭の中の椅子概念を図面にして、私達が身体の働きにより、つまり手を使って、変化させる事で成立しているのです。それは頭の中の椅子概念が、木材を素材にして、外部に表されたと言う理屈になるのです。ただこの理屈の時、思考が実体的になると、身体から汗が出るように椅子概念が頭の中から流れ出て、木材に二人三脚の様に寄り添うと現実の<椅子>になると言う事になってしまうのです。これはコトバにおける<音と概念>の有り様を、コインの裏表と比喩する事ににるのであり、実体として椅子やコトバの所に概念が寄り添っているわけではないのです。
では、椅子概念と現実の木材製の椅子とは、どんなつながりが有るのでしょうか。つまり頭の中にある椅子概念と頭の外の椅子との関係が問われるのです。頭の中の椅子概念は、図面として働き、その図面を横に見ながら、図面に記された形に則って、木材を加工してその形態を変えるのです。概念は、人間の身体の動きのうち、特定の形の身体の形態を支えるものとし、腰掛けるモノとして、椅子と言う道具を作り出すのです。前者の事を頭の中の概念として形成しているのです。問題はその概念は、現実の木材や鉄製などによって、加工が違ってくるのであり、その各違いを明確にしたモノが、図面と言う事なのです。概念は、表象として、頭の中で具体化され、その具体化された表象をイメージしながら、現実の木材をかこうして、特定の形の形態として椅子を作るのです。

「禅宗ではコトバは、月を指す指である」と言い、指された月の在処が解れば、指さすユビとしてのコトバはいらなくなるのです。ユビはモノを掴む手になり、日常の仕草のつながりとなるのです。つまり問題は私達の身体の一部の指と言う存在は、支持する行為を表すのであっても、それだけが指の働きではないのはあきらかです。指の特定の動かし方が<モノの方向性を支持する>と言う概念の現れとする事で、指を<特定のモノの方向を指示する>働きをする道具として考える事になるのです。月のある方向が理解されれば、指の働きはいらなくなり、後は月を見ていればいいのです。指と月を繋ぐモノは、同じ物体であると言う様なレベルではない。指か指し示す方向と私達の目が向かう方向が同一であると言う事だけなのです。人指し指と言う特定の指を、月の方向にまっすぐにのばす事が私が視知覚する月の方向と同一であると言う事だけが、共通性なのです。
指を指す人には、月のある方向が了解されていて、その了解を他者に伝達する為に、つまり彼にもその月を見る事が出来る様に、そちらに目を向けさせる為に、私がその意思表示をするのです。私に取っては、私の意思表示であるが、他者にとっては、私の身体の動きが、何らかの意思の表れであると理解する事であるが、ただまだその具体性が理解されていないだけで、真っ直ぐにのばした指の形は、その形が方向性を表していると言う理解をつくりだせば、後はその方向に目を向けて、はじめて<月>を見ることが出来るのです。
<私達が、月を見る>と言う時、私と月とは、一定の方向性を持つ空間関係にあるのです。この空間の中で、私の今いる位置から右上空に月がみえると言う事です。私は正面に向けていた視線を、首を回転して右上空の方向性にある月にむけるのです。私には月が見えると言う事です。つまり、<月を見る>とは、私の視線の前に月がある事であり、視線の前におくには、身体を回転運動させる事です。つまりモノを見る所には、方向性があり、身体を動かすと言う事で身体が知覚する内容が成立しているのです。2歳の子供がユビ指す<ユビ>を見てしまうのは、親がその身ぶりで注意を喚起している事に反応しているのだがその注意がさらに<モノを見る>と言う事まで広げられるのは、<モノを見る>事が、モノに対する見る主体からの方向性が選択されたと言う事です。目による視線は、真正面にモノを見ることであるが、その目がついた身体は絶えず運動をしています。その運動の選択として目をモノの正面に対峙させる事で、見る事になるのです。音の聞こえる方向に顔を動かし、視線を音の方向に向けて、音の正体を知ろうとする様に。
<ユビ指す事>と<コトバを発する事>について、ユビの何処にも指されるモノの正体が示されていない。 ただ指されるモノに対して、指す主体からの方向性が示されているだけです。それに対して<コトバ>の場合、そのコトバで表されるいるモノがあります。そのコトバ自体が、モノに対して指示と言う働きを実行し、モノの何を指示するかは、コトバに表された内容が決定するのです。
私が月を見て、その月の方向に指を向けると言う経験があって、はじめて<指の指示する方向>と言う観念が成立するのであり、小さい子に<ほらと指で月の方向を指し示したら>、かれは指先を見ているだけで、さらにその先の月には目を向けなかったと言う事になるのです。確かに手をだらーとしている状態から、肘をあげ指をまっすぐにすれば、それだけの身体運動としては、肘や指の動きに目を向けても問題が有るわけではない。身体の一つの運動であれば、それだけで人の注意を引く事も有るのです。しかしその身体運動が、一つの意思の運動である事を理解する為には、意思のあり方をしり、その意思の表れ方を知る事なのです。一つの方法は、<ほら>と声を掛けながら、指を特定の方向にさして、彼の頭を掴んで月の方向に向けさせる事で、月を認知させるのです。その行為の結果として<月を認知している>なら、私が<ほら>と声を掛けて彼の注意を引き、指で方向を指示し、頭を向けさせれば、その行為の一連の結果として<月を認知した>と言う事が了解されるのです。私が行う<ほら>と言うかけ声による注意の喚起と、指さしと言う行為による注意の喚起により、彼に特定の行為を促そうとしているのです。彼における特定の行為は、彼の自覚とともに成立することで、彼の意思の表れとしての特定の行為となるのです。
<ほら、あそこにある月が・・>と言うコトバと指されたユビの真っ直ぐな方向は、まずユビの先の爪の所に注意が向き、さらにユビの真っ直ぐな方向に注意が向くことです。その身体の活動としてのユビ指しは、私が視線を向けているモノの方向に向かっているのであり、コトバと視線と指さしの三者に対する認知が一つになることで、他者が理解するのでしょう。
ユビ指しによる指示の行為は、私が他者に対して、私の前に有るモノに目を向けてもらいたいと言う私の中の欲求の表れであり、私に対する他者の存在が前提になっている。私が月を見るだけなら、自分の首を回して視線を向ければ良いのだが、他者に対して、彼が現に見ている方向から、月のある方向に視線を向ける様にして、月を見る様にするために、まず彼を私の方に注意を向けるようにコトバを発声するのです。彼の注意が私に向くと、次は私の身体の動きであるユビ指しの行為の<真っ直ぐにのばした指先>が表す視線を向ける方向を了解して、彼が視線を月の方向に向けるのです。