読   書   日   記

私が日々目を通す書物に対して、私の今の視点と、了解できない観点を書き抜き、それをどのように理解すると、私の了解になるかを目的に日記風に綴っていきたいと思います。

−−−−−−−−2002年09月12日−−−−−−−−

川島正平のページ 私独自の解釈1 <概念の二重化>説


この解釈(註:言語表現論に於ける核心の一つが、概念の二重化説であると言う事)は、私としては、三浦の諸著書を丁寧に読むと、誰もがこのような解釈に到達するのではないかと考えていたところのものなのですが、実際には、この問題について、三浦理論に関心を持っておられる方々の中の少なからぬ方々が私とは違う解釈を持っておられるようです。
−−三浦言語理論は、諸著作に表されているのであり、私が話し、相手が聞き取り、また相手が話すのを私が聞き取りをすると言う事で理解されて来る言葉と同じ様に、私達は彼の著作を読み、理解するのである。私達は、その理解した著作の内容を言葉に出す事で、相手の理解と、自分の理解が<同じ>なのか、<違っている>かを、理解するのです。日本語で書かれた、「同じ」一つの著作であるから、それを理解すれば、みな「同じ」理解になるのは当然ではないかと言う事です。「群盲象をなぜる」と言う話しは同じ一つの象を、皆が触覚で知覚する事で得た象の知識が、言葉にした時に、予想としては、同じ言葉になると思っていたのに、全く繋がりが無いと言うことなのです。群盲の人々にとっても言葉としては皆おなじであり、相互に言葉のやり取りで、自分の理解と相手の理解を、了解して行くのであり、そこで相手の理解が自分の理解と違うと理解するのです。この寓話では、群盲に対して、1人の目明きがいて、彼がその人々を見おろしていて、一頭の象を丸ごと捉えているのであり、彼の視点から人々の知覚を表している言葉を、捉え直すのです。群盲が各々自分で知覚した内容を、言葉を介して相互に綜合すれば、知覚している対象についての像が成立するかも知れないが、しかしその綜合の正否は、1人の目明きが握っているのです。像の各部分の触知覚のよって、成立する像を総合する事で、一つの像ができあがり、それがいま知覚している対象についての<像>となるのです。群盲にとって、1人の目明きは、彼等を超えた超越としてあり、目明きが<見る事>で知覚している対象の像は、群盲には超越的であるのです。問題はここにある。群盲が触知覚体験から作り出した<像A>と、目明きが見る事で作り出した<像B>とについて、群盲からは結論が出て来ないが、目明きにとつては、自分の中に成立している、ある対象のついての別々の像として、共存しているのです。<像A>も<像B>も、両方とも別々なものであるのに、どちらも<像>と呼ばれるのは、各知覚器官によって知覚されて頭脳の中に成立しているからであり、頭脳の視知覚領域に成立する像が視覚像であり、手によつて触知覚領域に成立するものが、輪郭とか形とか硬さといつた像なのです。三浦言語論を理解する私達にとって、群盲に対する目明きのような存在は無いのであり、私達の頭脳で成立している像とそれを言葉にしたモノを介して、理解しているものを提示するのです。ただこの段階では、自分の理解が正しいとは結論できないのであり、その前に頭脳の中に成立している認識が<像>である構造の理解が前提なのです。つまり、私達の認識が正しいにしても誤っているにしても、それらは頭脳に成立する<像>である事の構造を理解する事なのだからです。

  「三浦つとむ」人工の種類としての側面で表現しているのだと推定できた私が、概念とよばれる
   認識が対象の種類という側面を反映している事実と結びつけて、種類としての認識が同じよう
   に種類として表現されるこの対応関係を反映論の正しいことの証明として扱ったのは、当然の
   ことである。残った問題は、超感性的な概念を感性的な音声や文字で表現しなければ、耳や目
   に訴えることができないという、矛盾のありかたであったが、これはマルクスの『資本論』が
   調和する矛盾は矛盾を実現しかつ解決するための運動状態をつくり出すと指摘しているのに示
   唆されて、言語規範による表現の媒介がこの運動形態であると理解することができた。こうし
   て言語の謎は解明されたのである。
−−概念とは、認識である事。絵画などに表現されている感性的認識に対比されている。その概念は、対象の種類と言う側面が頭脳に反映された像として成立している。<頭脳の上の像>の事を認識ということになる。概念とはその像の特定の形態を言い、他の特定の形態として感性が成立している。<像>と言う時、像にはそれを写し出す媒体があり、光学的像は、地面であり、雲であり、水面であり、印画紙であり、鏡なのです。認識を像とする時、それは媒体としての脳細胞を前提にしているのであり、身体の活動を導くものとしてあるのです。対象の種類と言う側面の、頭脳への像が、概念と言う認識であり、対象の別の側面の、頭脳への像を、感性と言う認識になる。概念と言う認識を、感性物体で表現する事で言葉が成立する。<概念と感性的な音声や文字>を規範と言う。
三浦が言語規範の媒介を受ける前の概念の存在を認めていること、およびそれを超感性的な存在として規定していることである。つまり三浦も、時枝と同じように、言語表現の過程的構造の中に、表象を伴わない概念の存在を認めていたのである。ただ、三浦が時枝と違うのは、この表象を伴わない概念が、言語規範の媒介を受けて感性的な性格を付与される過程をも取り込んでいるところである。三浦は、この過程のあり方を《概念の二重化》と呼んでいる。

−−対象があり、その種類と言う側面が、頭脳への像として成立する事。その概念が音声や文字との関係を形成する時、規範が成立するが、しかし、この概念は、規範と言う関係を形成する実体として成立しているのである。関係こそが、規範であると言う事。認識と物質との関係に対して、特定の認識たる概念と物質も種類と言う側面が、この関係を形成する実体として成立している。認識としては頭脳への像であり、その像と音やインクの跡と言う物質の間の関係なのだが、論理的な概念であり実体と言う規定は、頭脳への像である認識が、絶えず身体活動を媒介する生きたものであるのに対して、その生きたモノである思考が言葉とか絵画とか、音楽とか身振り等として表現される事で、具体的な認識として、特定の形態を形成するのです。それが概念であり、感性なのです。生きたものである思考に対して、思考の結果としての、或いは思考の対象化されたモノとしての概念が成立するのであり、その概念が言語規範としての<概念−文字、音声>に対応する事で、言語と言う思考の表現が成立するのです。
認識を、対象の頭脳へ成立している像と理解する事は、同時に身体表現に表される像でもあると言う事なのです。鏡に映っている像は、外部の物体の像として成立していて、物体に反射して来る光が持つ内容が鏡の反射する事で、鏡が外部に反射し続ける事なのです。物体に反射する光が持つある内容が、鏡に反射する事で、鏡の外に反射し続ける事なのです。つまり、像はあたかも鏡の中にあるかの様に考えてしまうが、しかし鏡から離れた所からも鏡を見れば像が見える事で、鏡の外部に絶えず流失しているのである。鏡に反射し続けているのです。鏡は、鏡の周りに関わり続けているのであ。私が10メートル先の鏡に映る自分の姿を見るのは、鏡と言う単体の世界の問題では無く、鏡の10メートルの距離にいる私の視覚まで光りを反射しつつ向けている働きなのです。像は鏡の内部の問題なのでは無く、鏡を囲む周りの世界に特定の光の内容を反射し続ける働きなのです。それと同じ様に頭脳への像は、SF映画の脳細胞の様に脳細胞を切り離されて生き続けるものでは無くて、身体活動を共なった身体を囲む外部への働きとして成立しているのです。
表象を伴わない概念とは、対象の<頭脳への像=認識>と言う事を言っているのであり、表象を伴った概念とは、<概念−音声表象、文字表象>の関係を形成している概念を指し示している。言語が表現されると言う事は、表象を伴わない概念と伴う概念と言う、二つの概念が成立していることです。この二つの概念が成立している事は、別に2本の手があるように、概念が二つあるのでは無く、あくまでも一つの概念が、二重化と言う構造を成していると言う事なのです。資本論において、労働は、人間自身に有用なものを作り出す労働であるが、しかしこの社会では、どんなに相手にも私にも有用なモノを作り出す労働であっても、作ったものが相手に渡らなければ、廃棄せざるを得ない生産物になつてしまうのであり、もしそうしたくなければ、生産物は、交換価値をもったものにならなければならないのです。つまり、労働は、有用なモノを作り出す労働でありながら、同時に交換価値を作り出す労働でも無ければならないのです。これが労働の二重化といわれ、あるのは有用な労働であるが、同時にその労働が、交換価値を作り出す労働で無ければ、有用な労働は成立しない社会なのです。これが有用な労働が、同時に交換の為の労働であると言う事で、<二重性>と言う事なのです。

「三浦つとむ」
   …ソシュールは思想を「不定形のかたまり」にしてしまったから、この学派の学者の発想では
   音声言語で表現されている概念も、langueの一面である非個性的な概念が思想と結合するこ
   とによって具体化され個性的になったものと解釈されている。だが実際には言語規範の概念
   と、現実の世界から思想として形成された概念と、概念が二種類存在しているのであって、
   言語で表現される概念は前者のそれではなく後者のそれなのである。前者の概念は、後者の
   概念を表現するための言語規範を選択し聴覚表象を決定する契機として役立つだけであって
   前者の概念が具体化されるわけでもなく表現されるわけでもない。概念が超感性的であるこ
   とは、この二種の区別と連関を理解することを妨げて来た。言語規範の概念は、ソシュール
   もいうように聴覚表象と最初から不可分に連結されている。連結されなければ規範が成立し
   ない。これに対して、表現のとき対象の認識として成立した概念は、概念が成立した後に聴
   覚表象が連結され、現実の音声の種類の側面にこの概念が固定されて表現が完了するのであ
   る。(『言語学と記号学』p.27〜28)(傍線は原文では傍点)(強調――川島)

−−ソシュールの考え方は、不定形の塊としての思想と、<概念−聴覚映像>の概念の関係を、不定形の思想が、自ら変化して概念になったと結論した事である。
    不定形の思想と概念の関係(ソシュール)−−−(1)
    対象から得た概念と規範の概念の関係(三浦つとむ)−−−−(2)
両概念が、超感性的である事、つまり感性的で無い為に、感性的印による区別が成立たないので、二つの概念がある事が分からなかったと言う事になる。概念が二重化していると言う事が捉えられなかったと言う事になる。言葉として表されている事で、概念に区別がつき、諸概念と言う規定が明確になる。
(1)は、不定形の思想が、規範の概念と結合される事で、具体的定形の思想となると言う考え方。
(2)は、対象から得た概念が、規範の概念に関わる事で、音声や文字にかかわる。つまり対象から得た概念が、表現されると言う事になる。対象の種類と言う側面が、頭脳への像として成立する事を、概念と言う認識が成立したと言う事なのであるが、しかし私達は、その概念の成立はあり得るとかんがえても、<概念−音声、文字>と言う関係をどのように作り出すのかと言う事になります。それは、対象の種類と言う側面の頭脳への像を、認識としての概念であると言う認識野成立の問題なのです。この規定はあくまでも本質規定であり、生成の過程が考えられなければならないと言う事なのでする。対象は、感性が知覚している通りに<あり>、そのあるモノに対して種類と言う側面が、概念として成立すると言う事です。頭脳への像は、<ある>と言う規定とその種類と言う側面で成立していて、<概念−音声、文字>と言う関係は、「現に知覚されている<ある>もの−−音声、文字」と言うことで、言葉を名前として覚えて行く事で、成立して行くのであるが、それが言葉としての表現になって行く事で、単に<ある>モノについている名前が、さらに<ある>と言う名前と共に、「リンゴが、ある」と言う言葉として出来上がっていくのです。ただ問題は「が」と言う語彙が、個別的なあり方をしている<対象であるリンゴ>と言う事が認識されなければ、「が」も使用出来ないのです。「リンゴがある」と言う言葉全体が、概念の表現であり、<リンゴ><ある><が>と言う個々の語が形成している<概念−−音声、文字>の関係の組み合わせによって、話者の伝達したい思想、或いは概念が、表現されるのです。

このように三浦は、言語に表現される概念は、ラングすなわち言語規範のそれではなく、表現主体が表現の際そのつど認識する個別的・特殊的な概念であり、言語規範の概念は、表現される概念の聴覚映像を決定する契機として役立つにすぎない、というのである。
−−両方を概念とする時、<概念−音声、文字>と言う関係で成立している概念と、<表現主体が表現の際そのつど認識する個別的・特殊的な>概念との区別は、その概念と言う言葉の前に長たらしく記されている文字によってしか示されてない。<リンゴがある>と言う言葉は、現に自分の目で見ているものを、言葉にしているのであり、見る事で得ている事実と言う思想とか言いたい事とかを表現しているのです。この時言葉は同時に<概念A−りんご><概念B−が><概念C−ある>と言う規範の連結としてあるのです。概念A、概念B、概念Cの結合は、対象から得た概念を前提にして、表されている。例えば、目の前のモノをみて、その語彙が浮かばない時、<ほら、緑色の丸い果物>と言う言葉にして表現するのです。<西瓜>と言う名前は、対象についての<丸い><緑色><果物>等の言葉と伴に成立して来るのであり、モノの名前を忘れても、モノにまつわる言葉も忘れている訳では無く、そのまつわる語彙を使用して、自分の頭の中に浮かんでいる物のイメージを、言葉に表すのです。この時イメージを、<丸い><緑色><食べ物><果物>と言う言葉にする時、<ある><持って来る>と言う動作についての言葉は、他の言葉にかえる事が出来ないのです。

表現主体が<対象>から認識した超感性的な<概念>が、言語規範によって規定された<概念/聴覚映像>(つまり、ソシュールのいうシーニュ)との照応をへて、感性的であると同時に超感性的でもある物質的な形式として、<表現>にまで高められたもののことをいうのである。表現主体の認識した<概念>は、すべて実践的に抽象的であり、その点においてつねに感性的な表象とともにある<概念/聴覚映像>とは区別されるべき存在なのである。
−−対象に対する認識として成立する<概念>が、規範として成立している概念に<照応する、関わる>ことで、規範の他端である文字や音声としてあらわれると言う構造です。ただし規範の他端である文字や音声は、デタラメな物ではなく、種類としての文字や音声であり、インクや声帯と言う物質に対して、その種類と言うあり方と概念を関係づけることで、規範が成立する。
対象から得た概念を、規範の概念に照応させる事で、文字や音声として表現し、言葉を書いたり話したりする。私の声帯から発声されるちょっと低めの声は、独自な個別的な声なのだが、しかしその声の種類と言う側面は、規範としての概念との関係を形成しているのであり、聞手や読み手は、その種類と言う側面の音声を聞く事で、その音声に成立している概念との関係を自らの中に成立させるのである。つまり、話し手が発声する言葉のそこに込められている意味は、聞手の聞く言葉により、彼の中に入って来るのだか、しかしこの言方はまだ比喩としての言方であり、話し手の頭の中にある概念が、言葉と一緒にでて、聞手の耳を通じて頭の中に入って来ると言う事ではない。例えば見知らぬ外国語も、言葉であるはずだから、その音の中に意味が入っているなら、私の耳にその音が入ってくるのだから、意味も私の頭脳に入って来てもいいはずであり、はいれば、私はその言葉の意味が分かると言う事になるはずである。意味とは種類と言う音声に結びついた概念ではなく<音声−概念>の関係自体なのであり、音声を聞く時に、同時にその客観的関係を再生することで、他者の言葉の意味を理解したと言う事なのです。小さいころから言葉を覚えて来ると言う事は、種類と言う側面の音声に、結びついている概念との客観的関係についての認識を自分の中に形成する事であり、だから今の私にスワヒリ語の言葉が、単なる騒音であるのは、種類と言う側面の音と概念との関係についての認識が全く成立していないからだ。この関係が<客観的>と言われるのは、音声と言う物質が、種類と言う側面で発声され、概念が、物質の種類と言う側面の認識として成立しているのであり、対象的なあり方として存在しているからです。

−−三浦理論に対する疑問
     実際は、言語規範の概念なるものは、表現主体の認識した概念が、特定の表象と関係
     づけるために言語規範の媒介を受けるとき、その社会的な規定の面から見られたもの
     なのではないのか? つまり、実際はひとつの概念が異なる二つの側面から見られた
     ものが、「二種類の概念」として表現されているのではないか? 「概念の二重化」なる
     ものは、本当は、「概念の二面化」として捉えるべきものなのではないか?

−−主体の現実の対象から捉えた概念Aと言う認識に対して、その概念Aが、音声Aや文字Aと結ぶ規範関係から見られること。両方とも概念Aであり、対象からの認識と言う側面と、規範関係と言う側面の二つの側面があるだけであるということ。
−−三浦理論からの反論
     この概念の二重化は、実に、超感性的な認識が感性的な形象によって表現されなけれ
     ばならないという矛盾を原動力として媒介されつくりあげられた、言語表現に特有の
     概念形態である》(三浦つとむ「言語における矛盾の構造」、『スターリン批判の時代』
     勁草書房、1983.p.109〜110)(傍線は原文では傍点)(強調――川島)
−−概念Aと概念Aの二重化は、超感性的概念が、感性的な文字や音声として表現される<矛盾を原動力>とする所から生まれたと言う理解。つまり、二重化と二側面の違いである。後者はあくまでも一つの概念であり、それが他のもの、対象との関係か、文字や音声との関係かによって規定されていると言う事である。その関係の数によつてニ側面と言うことです。さらに言えば、この私の存在は、子供との関係から父親であり、つまとの関係から夫であり、親との関係から子供であると言う事と同じ考え方です。しかし二重化とは、関係から規定されたモノと言う事ではない様です。
<二重化>とは、正反対の働きが、一つのもの中にあると言う事です。私と言う存在に対して、子供との関係から親といわれ、親との関係で子供と規定される事は、一つのものが、他のものとの多様な関係を形成していると言う事であり、ニ側面であり、決して相反する物が内在している訳ではない。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     三浦つとむは、表現主体が逐次的に認識する独自の概念と、言語規範における一般的
     な概念とを区別して考えていました。
     言語表現の過程的構造においては、前者の概念が後者の概念と二重化することによっ
     て感性的な表象が決定され、そうして得られた感性的な表象がインクの線描や空気の
     振動に模写されて言語表現が遂行される、と考えていました。
     両者を同一の概念の二面化と見ることはできないと思います。なぜなら、両者の間に
     は、明らかに次元の相違があるからです。
−−<二重化>と言う言葉で、具体的概念と一般的概念が、関係付けられると言う事。

三浦が《…新しく対象を認識して表現するときにこの概念に新しく規範から媒介された感性的な手がかりが結合すること…》というときの《概念》とは、表現主体が逐次的に認識する独自の概念のことであり、《感性的な手がかり》とは、言語規範における概念のことです。表現主体が逐次的に認識する独自の概念は、現実の世界が反映したところの生きた・具体的な概念であり、言語規範における概念は、すでに頭の中に観念的に存在する対象化された意志すなわち言語規範に規定された一般的・抽象的な概念であり、両者の間には明らかに次元の相違が存在します。そもそも、その出発点が違うのです。前者の出発点は現実の世界であり、後者の出発点は頭の中に登録されている「実在体」です。ですから、私はこの両者を一つの概念の二面化と見ることはできない、と考えます。
−−言葉が生まれる場面において、まず規範の生成を実現しなければならないのであり、現実から得た具体的な概念は、現実の世界に対する人間の働きの中から、頭脳への像としてうまれるのであるが、しかしそこで規範の概念は、突然天から落ちて来たのでなければ、現実から生まれて来ている概念に関わるのでしょう。多分そのかかわりとして、<二重化>と言う原理で、規範の概念がうまれると言う事なのでしょう。

やはりここでも、両者の間には、言語規範に規定された概念と、自らの意志によって自由に運用できる概念というように、次元の相違が存在するのですから、両者は明瞭に区別するべきだと私は考えます。
−−両者を明確に区別する事については、全く当然なのだか、しかし区別は、両者に同一性があるからこそ成立つのだと言う考えがあるのです。

−−個別的概念と一般的概念の関係について、<二重化>の事実ではなく、実現する過程を示す事
  個別的概念と、規範の規定する普遍的概念とは、はじめは別々の二つの実体であったものが、後
  で一つに連結されるという形で二重化するのではなく、実は、一つの個別的概念が成立する過程
  が、同時に、規範の普遍的概念とその個別的概念との間の対立が止揚される過程でもあって、こ
  の過程の結果として成立する個別的概念は、それ自体がその内部に普遍的概念を含んだ構造体と
  なることにより、普遍的概念と個別的概念との一体化が実現する。これが、二種類の概念が一つ
  になる(=二重化する)過程の具体的な構造だと、私は考えます。
  この過程は、二つのものが一つになる「二重化」の成立であるだけでなく、同時に、一つの個別的
  概念が直接に普遍的概念の面を持つ二面的存在になるという「二面化」の成立として見ることもで
  きると考えます。
  したがって、三浦のいう「概念の二重化」は、二重化即二面化であるという・両者の統一において
  把握する必要があると考えます。
−−規範が成立して来る事は、個別的概念から普遍的概念が成立して来る事であるが、一旦出来上がると個別的概念が、普遍的概念を媒介にし、<普遍的概念−−音声表象>と言う関係から、音声が発声される事で、私の口から言葉が出て来るのです。現実の対象の知覚から成立して来る概念が、頭脳の細胞に音声表象と伴に記憶されている普遍的概念に関わる事で、音声表象を介して声帯を振動させて言葉を発するのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
《……だが実際には、言語規範の概念と、現実の世界から思想として形成された概念と、概念が二種類存在しているのであって、言語で表現される概念は前者のそれではなく後者のそれなのである。
言語規範の概念は、ソシュールもいうように聴覚表象と最初から不可分に連結されている。
−−「聴覚表象と概念は不可分に連結されている」と言う事は、それでいいのである。しかしオウムがどんなに<おはよう>と言う音声を発したからと言って、それが挨拶の言葉である事を示している訳ではない。つまり、<挨拶>と言う概念に対応する働きがないのです。つまり、音声表象が概念と不可分であると言う事は、<おはよう>と言う音声表象を頭の中に成立させる時には、同時に他者とであつたら挨拶をすると言う目的の為に使う言葉である事をしることなのです。<概念B−−おはよう>と言う規範の成立である。英会話の学習教室で、2人の生徒に日常会話の練習をさせる時、朝出会ったときの状況を想定させるのは、朝の出合いの場に必要な身体行動をする頭の中の思考をつくりだす為なのです。それが概念と言う事であり、「その概念B−おはよう」と言う不可分な関係を、頭の中に記憶する事が、次に朝人とであつた時の挨拶の言葉として、<おはようございます>と言う言葉として出て来るのです。最初はその関係を記憶する為の実践であるが、しかし出合いは一度だけの出合いである事には変わらないのであり、英会話教室の想定された場ではない事は、明らかです。最初はぎこちなくとも、私達にとって全く一回一回の出合いとしてあり、<グッド・モーニング>と言う言葉が、朝の出合いの言葉である事を、朝になるたびに実行しながら、覚えて行くのです。状況はいつもいつも新しく、或いは繰り替えされているが、同時に<朝の出合いの挨拶>と言う規範でもあり、スワヒリ語の人々の中に入っても、朝の挨拶と言う概念があれば、それを実こうする言葉を、規範として覚えるのであり、覚えてしまえば、次からはスワヒリ語の言葉を発声すればいいのです。スワヒリ語を話す前の<出会った時の挨拶の言葉>と言う概念は、私が日本語を覚える事で成立している言葉なのだが、日本語での挨拶の言葉を覚えようとしている時には、腰をかがめ頭を下げる事が、挨拶の表現である事をしることで、<挨拶をする>と言う概念が、音声や身振り等で表される事を知るのです。

   普遍的概念(言語規範の概念)は、個別的概念(表現主体が逐次的に認識する独自の概念)が
   成立したあとに、その個別的概念の聴覚表象を決定する契機として役立つにすぎない、と。
−−「普遍概念は、個別概念を聴覚映像につなげる契機としてある」のであるなら、両概念をつなぎ合わせるモノは何なのかと言う事になる。個別概念の中に普遍性の面がすでにあるから、個別概念の普遍性と普遍概念の普遍が繋がる事で、聴覚表象が使われると言う事なのだろうか。
   三浦つとむの著書には、個別的概念が成立したあとで、普遍的概念がその個別的概念の
   聴覚表象(映像)を決定する契機として役立つということが述べられていること。
   普遍的概念は、あらかじめ言語規範に規定されて存在する頭の中の一種の心的実在体で
   あり、個別的概念とこの普遍的概念とが同じ一つの概念の二面化であるという考え方は
   (無意識的に)概念が現実の世界の反映として成立するという唯物論的な考え方を否定し
   てしまう可能性が多分にあること。

 《わたしたちは、ある対象を概念として認識しながらも、表現のための社会的な約束を知ら
  なかったり、忘れたりすることがある。このときは、その対象を自分自身と一定の関係を
  もって存在するというありかたからとらえなおして、「あれ、なあに?」「これは誰ですか?
  などと質問する。そのものズバリの概念でとらえはしたが、それを言語として表現できな
  かったからこそ、この質問がでてきたのである》(三浦つとむ『スターリン批判の時代』勁
  草書房、1983.p.110)(傍線は原文では傍点) −−私は、ふとある事を思い出して、2階へ登って行ったのだが、廊下を曲がりかけた時、自分はここへなにし来たのか、頭の中が空白になって、思い出せない事があります。2階に登って来た目的が、目的物事空白になってしまっている。行動の目的と言う一つの意志がなんであるのか、記憶から落ちてしまつたのです。そこで階下へおりようとして階段まで来た時、突然目的が浮かび上がり、本を取りに2階の部屋の本棚に来たのを思い出したのです。つまり、身体による2階にあがると言う目的行動に対して、頭脳の中で成立していた意志の内容を形成している<本を取りに行く>と事が、なくなってしまつたのです。
言葉の場合、個々の語彙を忘れたのであって、対象について<それ><あれ><これ>と名指される事も忘れられたのではない。名指しされる対象の概念が成立しているのであるが、対象の個別としての名前を忘れているのであり、だから対象の個別の名前が出て来ないから、対象は<それ><あれ><これ>と名指されるのであり、<ほら、黒いあれを、持って来て>と言う言葉を表すのです。問題はこの時、<黒><もってくる>と言う言葉で表す「概念」は内部にあり、対象についての表象レベルについて、頭の中にうかびあがるが、それについての語彙がわすられているのです。だからその表象を浮かべながら、その性質や機能についての語彙を使用する事で、言葉に表すのです。この時でも、語彙の順序は忘ラれていないのです。

−−三浦理論における個別的概念の形成の構造
   概念は個々の事物の持っている共通した側面すなわち普遍性の反映として成立する。すで
   に述べて来たように、個々の事物はそれぞれ他の事物と異っていてその意味で特殊性を持
   っていると同時に、他の事物と共通した側面すなわち普遍性をもそなえているので、この
   普遍性を抽象してとりあげることができる。
−−個々の事物は、一つの集まりとしての共通性と他の集まりとは別であると言う特殊性を持っていてこの二つの集まりは、さらに集まりである普遍性を備えているのです。つまり、Aと言う集まり、Bと言う集まりは、その集まりの中の個々の要素にとつての特殊性と普遍性なのであるが、さらに個々の事物を区別と同一で、個々の集まりに振り分ける事が生ずるのです。個々の事物に視点を向けている限り、自分はある共通性a(普遍性)で幾つかのモノと同じであり、その共通性a(特殊性)で他の幾つかのものと別になると言う事になる。後者の共通性a=特殊性 と言う事は、集合Aの内部に対するモノと、集合Bと言う他の集まりに向かったモノとしてあり、それが特殊性と言う事は、集合Bの共通性bが同じく特殊性として対立しているのです。共通性aは、それで集合される個々の事物に対してのみ普遍性として規定されるが、他の共通性bとの対立から、特殊性aとなり、共通性bも特殊性bと言う事になるのです。集合aだけであれば、その集合の無数にある要素は、共通性aで、集まりにはいっていて、少しづつ違う面はここのモノが、一個一個個としてある事を示しているのだが、しかし、共通性aは、共通性bと区別される時、初めて共通性だけの独立性を得るのです。例えば、体育館の中のステージに向かって縦10列、横10列に並べたパイプイス100台がある場合、一台、一台のパイプイスは、材質でも形でも色でも区別がないが、体育館の床が座標上の点の様に把握される事で、100台全てが、その位置で区別される様になったのです。100台全てが、皆同一の形、材質、色である事が、共通性であるのではなく、体育館Aと言う空間上に配置されている事が、共通性であり、各位置が区別を作るのです。さらに隣の体育館Bに配置されている100台のイスは、その体育館Bの空間によつて規定されるのである。体育館Aの中に配置されている100台のイスと体育館Bの中に配置されている100台のイスは、その体育館の空間を無視して、さらに大きな空間から見おろす時、はじめて同一上の空間上の別々の位置にある200台のイスと言う事になるのです。そこで各体育館の空間を前提にすれば、体育館Aと体育館Bの空間は、それだけ区切られた物として、独立した空間であり、相互に特殊性と規定するのです。ただこの特殊性は、体育館Aの100台のイスの同一と区別を規定していた空間が、同時に体育館Bの空間に対して、独立している物としてある事で成立して来るのです。体育館Aも体育館Bもその壁や屋根の取り払う事で、新しい空間のしたで配置が決められて来るのです。体育館Aの空間と体育館Bの空間とは、もっと大きな空間の下にありながら、相互に関わらない空間としてある事を、特殊性と規定するのです。問題は、体育館Aの空間は、その空間の位置にいる事で把握で来ていて、決して体育館Bの空間とは繋がらないのであり、それを両空間を同一化するのは、両体育館ABを同時に見おろす位置があるからであり、体育館Aにいる空間は、見おろす位置から見る事で、特殊性と規定されたのです。体育館Aの空間に対して、超越的な位置から見おろす事は、体育館Aの空間が、全く無くなった訳ではなく、あくまでも特殊性として存在し続けているのです。体育館Aの中にある100台のイスは、体育館Aの空間と言う共通性を持ちながら、超越的な位置から見おろされる事で、体育館Aと言う限定された空間としての特殊性をえるのです。体育館Aの中にある100台のイスにとって、その空間が、共通性の全てであるが、体育館Bとの両方を見おろす超越的な位置からの体育館Aの空間は、100台のイスではなく、そのイスを包む空間を、再構成してしまうのです。空間の再構成において、100台のイスは、どうなったのかと言えば、体育館Aの中のイス、各々イスとしての働きを持つが、その普遍的な規定である空間を、再度特殊性として規定するが、体育館Aの空間と言う普遍的な、あるいは共通的な規定は、その中のイスを単なる点として抽象しているのです。体育館Aの空間の任意の一点を原点にした座標が作られる事で、100台のイスは一台一台が、座標の位置で把握されるのであるが、それが体育館Aと体育館Bを含む空間をみるとき、各原点A0B0は、その大きな空間の任意の位置を原点00にして、00からの特定の位置に、位置付けられるのです。

  たとえば私の机の上に文字を記すための道具が存在するが、軸は黒いプラスチックでつくられ尖
  端に金属製のペンがついていて、カートリッジに入っているインクがペン先に流れ出るような構
  造になっている。このような道具は多くのメーカーでそれぞれ異ったかたちや材質のものを生産
  していて、私の持っているものにも他のものとは異った個性があるけれども、それらは共通した
  構造にもとずく共通した機能を持っていて、ここからこれを「万年筆」とよぶわけである。それゆ
  え、概念にあっては事物の特殊性についての認識はすべて超越され排除されてしまっている。だ
  がこのことは、特殊性についての認識がもはや消滅したことを意味するものでもなければ、無視
  すべきだということを意味するものでもない。特殊性についての認識は概念をつくり出す過程に
  おいて存在し、概念をつくり出した後にも依然として保存されている。私が「万年筆」を持ってい
  るというときのそれは、私の机の上にあるそれであって、文房具店のケースの中にあるそれでは
  ないし、もし必要とあらばその概念の背後に保存されている特殊性についての認識をもさらにそ
  れ自体の他の側面である普遍性においてとらえかえして、「黒い」「万年筆」とか「細い」「万年筆」と
  か、別の概念をつけ加えてとりあげるのである。
   この場合の「万年筆」は、机の上に個別的な事物として存在している。私はこの事物の普遍性を
  抽象して概念をつくり出したにはちがいないが、その対象とした普遍性はこの個別的な事物の一
  面として個別的な規定の中におかれている普遍性にすぎない。普遍性をとりあげてはいるものの
  問題にしているのは個別的な事物それ自体なのである。しかしわれわれは、個別的な事物ではな
  く、この普遍性をそなえている事物全体を問題にすることも必要になる。このときにも同じよう
  に普遍性が抽象され概念がつくり出されるが、その普遍性はもはや個別的な規定を超えた存在と
  してとらえられるのであり、類としての普遍性が対象とされているのである。「万年筆はますま
  す普及している」というときの「万年筆」は、個別的な存在ではなくて全体を問題にしている。さ
  きの私の「万年筆」が個別的概念であるのに対して、この全体をとりあげた「万年筆」は普遍的概
  念あるいは一般的概念とよぶべきものである。これと同じことは、鉛筆やボールペンについても
  成立するのであって、「鉛筆」「ボールペン」などの概念にも、個別的な事物をとりあげた個別的概
  念もあれば、全体をとりあげた普遍的概念もあるわけである。(『言語過程説の展開』p.90〜92)
  (傍線は原文では強調か傍点)(強調――川島)
−−<文字を帰す為の道具>と言う規定こそ、概念の事なのであり、道具に多様な材質があり、形があっても、それらが抽象された次元で、<道具>と言う次元で成立っている。現実にあるのは、金属製であったり、木質であったりしているが、その性質を考慮の外に置くことで、<文字を書く>為の媒介物である事を示すのです。現実にはどれかの材質であり、そのひとつである、例えば金属材質で出来ている道具と言う様に考えてしまうと、たの材質の道具は、<文字を記す>道具ではなくなつてしまうのです。
道具に対して、材質等は、特殊性としてあり、<文字を記す道具>と言う次元では、その特殊性が捨象されていると言う事。<文字を記す>と言う概念が成立して来る時、材質等と知覚されてきて、頭脳の中に道具と伴に認識されている。道具と伴に認識されている材質等についての認識は、必要がある時に<黒い>とか<長い>といった言葉に表現される概念化されて、<黒い色の道具>と言う言葉として表現されるのです。このとき、現に知覚される事で成立している認識に対して、<文字を記す道具>と言う概念化と<黒い色>と言う概念化を経て、<黒い色の文字を記す道具>と言う言葉が表現されるのです。この個別的対象についての認識が、概念化を経て言葉に表現されると言うとき、この<概念化>と言う事が明らかにされなければならない。机の上にある<個別的存在物>は、筆記用具の一つであり、それには<万年筆>と言う名前がついている。個別的にあるモノに対する普遍化と言う側面が、概念として存在しているのである。この普遍は、個別的存在の中にある普遍性にほかならないと言う事である。それに対して、この普遍性をそなえた個別全体を考えようとすると、個別的存在の中にある普遍性であるものが、その多数の個別を集合させる輪の様なものを、普遍性と考え始めているのです。その輪は、あたかも個別的存在物と同じレベルの第三者としてあるかの様です。個別的な物の中にある普遍性は、その個別が沢山集まっている時にも、その個別の中にあるのだし、それが多数のモノが入っている器の様に考えてはならないのです。存在として個別的なモノに中に普遍があるのだか、その普遍を、議論として問題にすると時には、議論の中では、普遍がそれだけで動き回っているのであるが、ただ万年筆を使って故里に便りをしたためる時には、集合が問題になる事も、概念が問題になることはないのですし、気に入った文字が書ければ、それですむのです。つまり、議論の領域は、認識世界の出来事であり、そのせかいでは、普遍も一つの存在となり、あたかも個別的な物の一つになってしまっているのであり、その現象が言葉に表現される時、同等の語彙の集まりになつているのです。個別と普遍と言う二つがあるかの様にみえるのは、二つの語彙の、二つと言うあり方を短絡しているからでしょう。両者は構造としてあり、車とその部品の様なモノであり、部品の集まりが車であり、もし勘違いがあるとすれば、目の前の一台の車と、ギアの部品が、一方は駐車上に、他方は倉庫にあることで、同一の存在であると考えられているのです。
「個別的な事物を取り上げた個別的概念」と「全体を取り上げた普遍的概念」があると言う考え方:
私が文字を書くのに使うA社の万年筆は、個別的なものであるが、しかし<文字を書く道具>と言う概念そのものを表しているのであり、正に書く事で概念を実行しているのです。それに対して他者とその万年筆の事を議論する時には、その書き味とか、持つ感触とか手の疲れ等を問題にしたりするときには、今私が持っているA社の万年筆は、その材質とか筆圧がもんだいなるのであり、それは概念に伴う付属のことなのです。そもそも万年筆の機能や本質とは何かと言う事になれば、それは今あるA社の万年筆だけのことではなく、万年筆全体と言う事になるのです。それはもう、今の私にとっては、故里に便りを書くための万年筆の事ではなく、個別的存在から得た<概念>を問題にする事なのです。ただそのとき、個別的存在には、多様な性質があり、その性質と一緒に概念が成立しているから、その<概念>を問題にする時には、多様な性質を排除して考えなければならず、それを排除した跡に残ったものが<普遍的概念>と言う事になります。<個別的なモノを取り上げる>と言う事と<全体を取り上げる>事とは、取り上げる次元が違うのであり、前者は個別的な物に関連する諸性質を含む概念であり、後者はその諸性質の排除された概念を取り扱うのです。私達は、後者を普通<概念そのもの>と言うような言方をするのです。

   ――私の<概念の二重化>論といい、私がなぜ、このように、言語規範における普遍的概念
   を、そのほかの表現や思惟において運用される概念と区別したかというと、それは、言語
   規範における普遍的概念はあくまでも、思惟において概念の表象を決定するする契機とし
   て役立てられたり、表現される概念を表現へと媒介するのに役立てられたりするという、
   この概念の非創造的な側面に着目しているからです。ソシュールの言語記号論(拙著のソシ
   ュールの図式A)においては、この非創造的な概念が表現主体の用い方によっていろいろな
   意味を持った個別的・特殊的な「記号」として表現されるということになっていますから、
   このような不可知論と一線を画すために、私は、そういう非創造的な概念とは別に、表現
   主体が現実の世界から認識する個別的・特殊的な・あるいはまた創造的な概念が存在する
   のだということを、明確化しておきたかったのです。
−−ソシュールは、言語規範<概念−音声表象>における概念が、言語表現として表される思想に、具体的な姿を与えると考える。私達の日常から得られている思想とか考え方に対してそれらが具体的ななるのは、言語に表現される事によるということなのです。言葉による表現が、具体的な姿と言う事をしめしている。思想に具体的な姿を与えるのではなく、思想に文字や音声と言う姿を与えるのであり、思想が自身が具体的になった訳ではないのです。思想は定形でも混沌でもないのだ。感性の世界には定形も不定形もあるが、概念の世界は、そのような感性の姿を捨象して出来上がつているので、その根本から不定形にも定形にも関わらないのです。その超感性的な世界に、感性の姿を関係付ける事で、感性の姿を介して、超感性の世界を成立させるのです。超感性的なモノを、感性的姿に関係させ、その関係を介して他者に超感性的なモノが伝達されるのです。超感性的なモノを、感性的なモノに関係付ける事を、超感性的なモノを表現すると言うのです。感性的なモノによって、文字表現、音声表現、身振り表現と言う区別が成立する。表現は物質の姿であるが、概念が自分自身の姿を物質に変えている訳ではない。概念は、音声や文字と関係を結ぶのであり、表現とは、その関係をいうのです。つまり、概念が一部分でも姿をかえると言う事はありえず、独立したモノ同志であり続けるのです。

五つの薬品の透明容器に入っている透明な液体に対して、臭覚的には五つとも、区別出来るのであり、容器の蓋を開けてにおいを嗅ぐとすぐ判別出来るのです。しかし、蓋をして見た目で区別しようとすると全く出来ないのです。そこで見た目の区別ができる様に、文字を記したラベルを張るのです。このラベルの文字は、液体に対する臭知覚による区別によって成立しているのであり、そのラベルを容器に張る事で、容器の中の透明な液体を、見た目で区別して行くのです。見た目のラベルの文字は、臭覚による知覚内容に対応し、a臭覚に「A」と言う文字、b臭覚に「B」と言う文字、c臭覚に「C」と言う文字、d臭覚に「D」と言う文字を割り当てる事にする。ただこの時、文字ABCDは、特に文字である必要はなく、五つの形の違った木の葉であってもいいのです。<a臭覚−−A木の葉>と言う事が、A木の葉を見れば、a臭覚である事が、認識出来ればいいのです。この時、臭覚aと文字A、或いはA木の葉とは、繋がらないのであり、臭覚aは鼻による知覚から成立している認識であり、文字Aはインクの跡であるのです。液体にはラベルを張れないので、液体を入れてある容器にラベルを張る事で、臭知覚によつて成立している一つづつである区別を、容器に張ると言うラベルの関係を介して、ラベルの文字で表すのです。臭覚は現に容器の蓋を開けて匂いを嗅ぐと言う事で終わっているが、その完結している臭知覚を前提に、視知覚でその液体を区別しようとしてラベルを張ると言う事が生まれたのです。見た目では区別が出来ないが、臭覚で区別されている内容に対応している文字つきのラベルを、臭覚で区別されている液体の入っている容器に張る事で、そのラベルを見れば、見た目の区別のつかない液体の容器の、見た目の区別ができるのです。臭覚による区別を、この区別は、認識として頭脳への像として成立している区別の一つ一つを、ラベルの文字表象に対応させて、さらに臭覚の対象である液体の入った容器にラベルを張る事で、現に目の前の見た目の区別がつかない対象に、見た目の区別をつける事になったのです。

<臭覚認識−文字表象>と言う規定は、臭覚認識の対象である透明な液体の入っている容器に、ラベルと言う次元に現実化されて糊で張る事で、視知覚による区別ができる様になったのです。ただしあくまでも間接的な区別であり、直接的には、相変わらず透明な為に見た目の区別が出来ていないのです。規範は、あくまでも頭脳の中の出来事であり、ラベルと言う形で、規範の一端である認識を作り出した対象に張る事で、初めて規範の現実化が成立したのです。対象から認識が成立し、その認識に音声表象を関係付けるのだか、この段階では<対象と音声表象>とは連関されていないのであり、<認識と文字表象>と言う規範関係の内、文字表象をラベルに記し、そのラベルを認識の対象に張る事で、そのラベルの文字への知覚が、ラベルを形成する臭覚認識の対象についての、見た目の認識となるのです。その透明な液体の入っている容器について、どれも皆同じである視知覚認識が出来ているが、しかし規範の<臭覚で得た認識と文字表象との関係>と、文字の視知覚からその関係を構成して、現にラベルのついている容器の液体が、文字に記してあるモノと理解するのです。容器の蓋を開けて匂いを嗅ぐ事で臭知覚しながらラベルの文字を見ている訳ではない。あくまでも五つの、透明な液体が入っている容器を見ているのだが、臭知覚による認識の成立と文字表象との規範関係、その現実化としてのラベルの文字を読む事で、頭脳の中に今視知覚している見分けのつかない透明な液体に対しての、文字に関係付けられた認識として成立するのです。五つの容器を視知覚しながら、この文字を読んでいる時に、同時に容器の中の液体のついての臭知覚が成立している訳ではなく、対象がある事は視知覚されているのであり、その対象について文字による規範関係の構成で臭知覚の認識、規範認識が成立するのです。

規範としての<臭知覚−文字表象>の成立、つまり言葉を覚えると言う事は、五つの容器の蓋を開けて、液体の匂いを嗅ぐ事で、匂いの認識を成立し、その認識と文字表象との関係を前提に、文字を記したラベルを張る事で、規範の関係が、<対象と張られたラベル>において、形態として成立するのです。認識の世界で成立している<認識−音声表象>と言う本質論に対して、形態論として、その本質の現実態として文字の書いてあるラベルを容器に張ることで、容器の中の液体と言う対象とそれに貼り付いているラベルが、認識の世界に媒介されていると言う事になるのです。ラベルは文字を記さるている単なる紙であるがその紙が容器に張られる事で、透明な液体の臭いの認識と文字の関係と言う内部の認識が、知覚の対象とその対象に張られた文字と言う外部のとの構造として成立する事になる。視知覚で透明な液体を認識している事に対して、同時に対象として認識されていて、そこに張られたラベルの文字を読む事で、対象とラベルの文字とが、規範の認識を表していると了解されるのです。ラベルAの張ってある容器の蓋をあけて、匂いを嗅ぐ事で成立している認識と、ラベルのAと言う文字に対との認識とは、今嗅いでいる液体が、Aと表現されていると言う事なのです。<この容器の液体は、Aである>と言う表現なのです。a、b、csと言う液体を嗅いだ時の匂いに、関連づけたAと言う文字が、現にその液体の入った容器の張られている認識と統一される事で、その言葉を経験する人間にとって、はじめて認識として規範の成立が出来、規範の現実化としてラベルの張ってある容器が、棚に沢山並べられる倉庫をみるのです。
棚に並べられている液体の入った容器と、それに張られているラベルの文字の関連は、液体の匂いを嗅ぐ事で出来上がる匂いの認識が、現にいま嗅いでいる目の前の容器の液体と言う対象とラベルの文字と言う関係を媒介するのです。<対象−−臭いの認識>「これは、経験であり、嗅いだ事のない液体については、認識が成立しないと言う事です」と<対象−−ラベルの文字>「透明な液体の入った容器の側面にラベルが張ってあると言う事」とを、<臭い−文字表象>とが媒介するのです。
透明な液体を鼻で嗅ぐとき、頭脳への<臭い>と言う像が成立するのであり、その像はあくまでも脳細胞の中に成立しているのであり、この時<臭い>は、その液体の所にあり、どうして脳細胞の所にあると言う事になるのか疑問が生まれるとしたら、それは次のようになる。<臭い>はあくまでも、脳細胞への像であり、液体と言う対象から蒸発している成分の分子が、鼻から入り、脳細胞への<臭い>と言う像を形成するのだが、この時の液体と言う対象から流れ出て来る成分が、鼻腔の細胞に働きかけ、脳細胞で<臭い>と言う像が出来ていると言う事で、対象からの成分は、<臭い>ではなく、その成分が鼻腔細胞に働きかけ、脳細胞での像を作る為の物なのです。これを論理として言えば、成分は、<臭い>と言う関係を形成する実体であると言う事です。つまり、脳細胞への像である<臭い>は、関係概念であり、脳細胞の電気的化学的変化は、液体成分の脳細胞に対する働きかけであり、働きかけの結果として出来上がつているが、その電気的化学的な変化が、像ではなく、それが対象の成分を<原形>とする事で成立する<像>と言う事になるのです。脳細胞の電気的化学的変化は、脳科学の電位計等で計りうる現象であるが、その変化が、原形との関係で<像>といわれるのです。脳科学が磁気共鳴装置で脳の働きを映像化しているが、それは脳の電気的化学的変化の映像化であるが、しかしこの理解は、その化学的電気的変化が脳細胞で生じているときに、その脳を持つ人間が、自分の中で何が起きているのかを言葉で言う事で、化学的電気的変化が、認識的には何であるのかと言う事が言えるのです。本人には理解できている現象と言う事なのです。

(小川文昭氏)
     ●個別的概念の成立過程の例
     言語に表現される概念が、規範の媒介によらずに対象から直接抽出される場合としては
     (1)「あれ、なあに?」「これは誰ですか?」など、新しく言葉を学ぶ場合
     (2)新語を作る場合(=命名の場合)
     が考えられます。
     (1)(2)とも、「個別即普遍」の概念が成立することがあるのが、このような、規範
     の概念の媒介なしに対象から直接に概念が抽出される場合の特殊性です。
−−<あれ>と<何>と言う語は、すでに表現であり、<あれ>と言う言葉で、表現するモノは、対象が、それも表現主体にとって、特定の位置にあるモノを指し示しているのです。特定の位置を無視するとしても、あるモノが対象として知覚されていると言う事なのです。つまり、「あるモノ」について、<あれ><これ><それ>と言う対象の存在を指示する言葉として表されているのです。その対象としての確定とさらにその対象が<何であるか>と言う事なのです。他のモノについては、「それが、Aである」と言う事が分かっているが、「あれ」については、<Aである>様な言葉が成立しないと言う事なのです。しかし、これはまず「それは、Aである」と言う言葉が出来ている事を前提にしているのです。その前提である「それは、Aである」と言う言葉は、単に<それ>と<A>とに<・・は、・・である>と言う形態ができると言う理解であり、その理解を<あれ>に当てはめようと言う事なのです。しかし、初めて言葉を覚える時には、どんな前提があるのかと言う事になります。一個の赤い色のリンゴを手にとって、手のモノを目の前にだしながら、<これは、リンゴです>と言う言葉を出す時、手に持っているモノに対して<これ>と言うラベルを張り、さらに<リンゴ>と言うラベルを張る事になります。<これ>と言うラベルは、今手に持っているモノが、対象になっていると言う事であり、手に持っているモノがあると言う事実に対して、<腕の長さくらいのある近さにあるモノ>と言う認識が、<これ>と言う言葉と関係付けられる事で、つまり規範関係が成立する事で、現に今もっている物に言葉として発声する事なのです。「手にモノを持っている」と言う事実に対して、<手の長さ程度の距離にあるモノ>と言う意識で、その事実を考える事で、初めて<これ>と言う言葉が関係付けられ、現に手にモノをもつている事実を提示しなが、<これは、・・・>と言う言葉を発声するのです。その言葉は、現に発声する主体である私にとつての<これ>であり、そう発言することで、発言の言葉を介して、私がてに持っているモノに、意識を向かせるのです。その言葉を聞いた他者は、私との距離があれば、<彼が手にもっているあれは・・・>と言う理解になるのです。現に手に持っていると言う事実と、手に持つ手いるモノが、私の位置から至近距離にあると言う意識が、<これ>と言う言葉として表現されている。つまり、手に握られている<モノ>に対してそのモノだけでなく、主体である私からの距離の近さに規定されたモノと言う事が<これ>と言う指示として表現されている。主体としての私とモノとの距離関係から、モノを捉えている事なのです。だから<これ>と言う言葉は、モノに貼付けたラベルではなく、その距離関係に貼付けたラベルなのです。モノに貼付けたラベルは、「リンゴ」と言うラベルになります。<これは、りんごである>と言う言葉は、私とある特定の近さの距離にあるモノを、指示し、さらにその指示したモノが、<リンゴ>と言う名前であると言う事なのです。<誰ですか?>と言う言葉は、それが指示されているモノが、人間であると言う事が前提されているのは、<誰>と言う言葉が表す対象は、人間と言う規定で成立しているのです。猫を前にして、誰だとはいわないのです。<これは、リンゴである>と言う言葉の内、リンゴと言う名前は、掌の上にあるモノが、最初は、口に運んで確かめるものと言う事であり、それを食べた時の食感などから、食べ物と言う規定をうけ、現に口に入れて食べるものと言う規定を受け、さらに<リンゴ>と言う名前を与えられるのです。<概念>とは、手に持っているモノが、<この>と言う近さで対象となり、<リンゴ>と言う名前と、<食べ物である>と言う規定をへる事で成立するのです。

   しばしば、おそらくはきわめてしばしば、単語とは子どもにとって始めのうちは、固有名
   である。「森」とは森一般ではなく、食堂で子どもに指し示された特定の画のことである。
   (…中略…)ファーザーという単語は初めてこれを耳にしたとき、固有名である。つまりそ
   の子の父親の名前である。しかし程なく、この単語は広げられて、その子の父親となんら
   かの点で共通する他の個人にも適用されなければならなくなる。ある子どもはそれをすべ
   ての<男の人>(原文強調)に用いようし、ある子はおそらくあごひげをもつすべての男に用
   いようし(あごひげのない顔の画はぜんぶladyと呼ばれる)、また別の子はこの単語を父親
   母親、祖父のみんなにあてはめるであろう。(引用終り)
−−個有名とは、現に対象になっているモノを、現に手にもっているモノを、<対象>と言う規定だけで捉える事。それが、食べられるもので、ある形や色をしていると理解する事で、現に手に持っているモノ以外にも、同一の形や色であるモノにも、<リンゴ>と言う名前をつける事ができるのです。対象と言う認識を踏まえ、私と言う主体、私が食べるとの関係が認識される事で、認識の構造が成立する。対象とは、まず主体に対して<何かが、ある>こと、そのあるモノは、言葉としては、個有名であり、そのある<何か>が、主体に対して、特定の関係として認識される事で、他のあるモノにも、その関係が認識されれば<特定の関係についての認識>は、概念と呼ばれ、その成立によつて、個有名で指示されているものが、例えば個有名の言葉を忘れても、<あの、大きな、緑色の>と言う言葉で指示出来るのです。

   この二種類の概念−−「運用概念」と「規範概念」−−の関係は、根本的には「運用概念」
   が基礎的な存在であって、そこから「規範概念」が抽象され、それが「運用概念」から相対
   的に独立した「対象超越的」な認識として固定化され、以後、「規範概念」は「運用概念」
   の内容を拘束するようにはたらきます。
−−私は、今日本語を話してさらに、韓国語を話せる様になるには、さしあたつて日本語の語彙と順序に対応させて、韓国語の語彙と順序を覚えていく意外にないのです。この時日本語に対応させるのは、日本語の語彙が持つ規範性を介して、韓国語の語彙の音声表象を形成する事なのです。韓国語の語彙の音を発音しながら、と言う事は、その音を表象として記憶しながら、日本語の<概念−音声表象>と言う規範を構成している<概念>を、韓国語の音声表象との規範概念として使用する事なのです。例えば、今目の前にしているモノを、日本語では、<お湯>と言う名前でよび時、目の前にしている対象に対してその状態がどうなっているか認識していて、それを日本語では<お湯>と言う言葉で表し、英語では、<hot water>というが、英語の場合<hot>と<water>との結合として成立している。対象に対して、<water>と言う語を形成する概念と、<hot>と言う語を形成する概念との関係として新しい<hot water>と言う語を形成する概念が成立するのです。ただ、たんなる<water>と言う語の表す概念の対象であれば、<液体で、冷たく、飲料できるもの>と言う概念であるが、<hot water>と言う語は、<冷たい>と言う側面を否定して、<hot>と言う言葉の表す側面を際立たせて、対象を認識しようとしているのです。
日本語では、私の目の前のモノを、<お湯>と言う言葉を表現する時、同時に英語では<hot water>と語彙を使うと覚えたとすれば、両者は全く同一の表現になるが、しかし<hot water>と言う語彙を<hot>と<water>の語彙の組みう合わせによって成立したとすれば、つまり、英語の語彙が沢山覚えられて来ると、二つの語彙の連合として成立しているのなら、どのようにして一つの概念になったのかと言う語源の追求がなされるのです。
英語の語彙と日本語の語彙を、同一の規範性として理解しようとするのは、その語彙が指示する対象に対して、日本語では<お湯>と命名し、英語では<hot water>と命名すると言う事の理解なのです。日本語から英語の理解、逆に英語から英語の理解とは、その語彙の指示する対象に対して、規範を構成している音声表象を他言語の音声表象に置き換えるのです。ただ音声表象の置き換えで終わるのでなくて、語彙の順序などは、覚える以外にないのです。名前で名指される対象を身体活動の道具として使用する事で、媒介構造を認識し、概念として理解され、その概念と音声表象が対象を介して関係を持つ事で始めて、規範が成立するのです。

   3歳の子どもに「これがママで、これがパパだよ」と教える場合は、まさにイェスペルセン
   のいうとおりでしょう。この子どもは、もう少し大きくなって、「あれが○○ちゃんのママ
   で、これが××ちゃんのパパ」ということが分るまでは、「ママ」「パパ」という単語をそ
   れぞれ自分の母親と父親の固有名として記憶していることでしょう。
−−赤ちゃんの時から、祖母に引き取られた子供が、5年後に2人の人物に合って、<こちらが、パパでこちらがママだよ>と言われた事を理解したとしたら、初めて目にした2人の人物の顔形等に対する知覚認識と<パパ、ママ>と言う語彙のもつ規範性における概念とを連結して、目の前の2人の人物認識に、自分との関係認識をあてはめ、<パパ、ママ>と言う語彙を張り付けると言う事になる。それは、生まれた時から、自分の側にいつもいる2人の人物のに対する五官による感性的知覚によって得ている認識内容によって、知覚の対象である2人に対して、<パパ、ママ>と言う語彙を名前として使う様になる事とは、方向性が違う様に思える。前者は、<パパ、ママ>と言う語彙が、<親−子>と言う関係概念として成立している事をしつている事であり、後者は、<親−子>と言う関係概念が、生まれて来る場面が考えられているのです。関係概念の成立以前には、現に五官を全部使った対象認識が成立しているだけで、それは身の回りのモノが、人間として、猫として犬として区別されているだけであり、もし鉄腕アトムが側にいれば、人間と理解してしまうかも知れないと言う事なのです。人間特有の形と言ったものなのでしょう。赤ちゃんは、成長するにつれて、その親子関係を概念として認識していくのだか、しかしそれは、私達が今追求しているような、<概念>と言う言葉のレベルではない事は確かである。それは、生きて行く中で自分が2人の人物と繰り広げているものを中心に、その2人の人物のあり方を<親>とし、自分を<子>と言う関係認識が成立する事である。身の回りの世話をしてくれている人物に対する、自分との関係認識として<親−子>が認識される。それが仮に祖父母しかいなかった場合、日々のあり方は、父母がいる人間と代わりがないが、しかし<祖父母−孫>と言う関係として認識するのでしょう。自分は、この2人から生まれて来たと言う認識と、この2人の子供から生まれて来たと言う認識の違いであり、それは犬猫でも同じ構造であるが、しかしその構造を実践する場としての社会形態が違うのであり、その社会形態から<祖父母−親−子・孫>と言う人間関係が実行されるのです。つまり、犬猫も<親−子>の関係があって、その認識が子育てとして使われるが、成長してしまうと、その認識は消えてしまうのです。つまり、犬猫にとって親子関係の認識は、子育てと言うレベルで終わってしまうのです。子育ての段階の我が子と言う個体認識は、子育てと言う事に関わる事で形成され続けるが、子育てが終わってしまえば、単にる個体識別の認識になってしまうから、道ですれ違えば、獲物を取り合う邪魔者のなってしまうのです。つまり、<親−子>と言う関係についての認識は、動物では、子育てすると言う実践で終わっているが、人間社会の中の親子の実践、例えば財産を譲渡すると言う所までも含んでいるのです。その実践の頭脳への反映が、<親子関係と言う概念>なのでしょう。そして反映された概念を、言葉に表した表現が、<親−子>と言う言葉なのです。<親−子>と言う関係概念の成立は、タネとしては、実践としてのものが、頭脳への像として成立しているが、人間は人間の特性の反映が、言葉として表現される事で、像は、認識は概念として再構成されたと言う事なのでしょう。
自分の前にいるこの人が、<パパ>であるが、それは自分との親子関係から見た<この人>の事を言っているのであり、その時自分は<子>であるという認識です。この親子と言う関係は、しかし関係と言う概念の次元ではなく、父親として振舞うと言う日常の出来事として理解されて来るのです。彼が自分にしてくれる事を通じて親子関係の一つの現れとして理解して行くことで、彼を<パパ>と言う語彙で指示するのです。この人と言う対象とその人が日常してくれる事についての認識が、親子関係を表す言葉である<パパ>で表されるのです。親子関係と言う関係概念にとって、血の繋がりと言った生物学的なものではなく、ふるまいといった些細なものを通じて親子関係の現れを理解する事なのでする。関係概念と些細な親子形態との繋がりをどう理解して行くのかと言う事なのです。些細な形態などどうでもいい事ではないのです。関係概念は、その関係を形成している実体としての自分と2人の人から出来ていて、その人達が、生物学的な血の繋がりで親子関係が出来上がつていると理解したら、その関係を踏まえ、私とその人達との日常的な振る舞いを、関係の現象形態として理解して行くのです。
<パパ、ママ>が、目の前に2人の人についた固有名であると言う理解は、親子関係にある両者についた名前であるが、<透明な液体の入った容器に張られているラベル>で言えば、文字の記してあるラベルが「張られている」と言う事を、名前を持つと言う事になるが、小学一年生の胸ポケットに名前の記してある白い布が貼付けてあるのは、そこの記してある文字が名前である事を表しているが、しかし自分の回りにいる人にだけついている名前から、自分に対して振舞ってくれ事自体から、2人のあり方を見る事で関係から見られた2人は、<パパ、ママ>に新しい概念を表すのです。自分にとっての<ぱぱ、ママ>は、2人の人をさすが、隣のA君にとっての<パパ、ママ>は、彼の2人の人を指す事になるのです。<パパママ>が固有名から切り離されるのは、今いるこの2人についての名前でありながら、関係を踏まえた2人と言う理解になる事で、<親>である<パパ、ママ>と自分は<子>であると言う言葉になるのです。自分以外の他者が使う<パパ、ママ>と言う語が、違う人を示しているという経験は、単に固有名ではないと言う理解を作るのでしょう。
<一郎>と言う名前と<猫>と言う名前の区別がどの様にできる様になるのか。前者が唯一の者に対してあるのに対して、後者は多数の個体に適用される共通なものと言う事になる。多数いる個体に対しては猫と言う名前がつくが、しかし個体一つ一つには、名前がつけられていないのであり、飼い猫では個体名が付けられていると言う事になる。<猫>と言う種に当てはめられる名前は、多数の個の共通性に付けられたラベルであると言う考え方、しかしこの共通性とは、数個体が皆白い毛並みをしていると言うようではないはずである。その見た目の形態はどれも皆同じであるのだから、一個一個そのものが<猫>と言う事になります。例えば、<鯨>は、秋刀魚やいわしと同じに海にいることから<魚類>の中に入れられる。<海の中にいる>と言う事が、共通性であるから、海の中の生き物を皆<魚類>と名付けているのだが、しかしこの共通性には誤りがあり、海にいることは、共通性にはならないと言う事です。海にいても哺乳類と言う事なのです。猫は、一匹一匹のその生きている形態そのものが猫と名指される。形態素のそのモノが共通性であるなら、違っているモノはなんになるのかと言えば、液体のような流動物ではない、個体として、一個として区別されている事です。

    二種類の概念の関係は、根本的には「運用概念」が基礎的な存在であって、そこから
    「規範概念」が抽象され、それが「運用概念」から相対的に独立した「対象超越的」な
    認識として固定化され、以後「規範概念」は「運用概念」の内容を拘束するようには
    たらきます。
    「規範概念」が独立した後も、「規範概念」は絶えず現実の言語行為での「運用概念」
    との相互浸透を通じて、対象の認識の止揚によって得られた「運用概念」の内容を受取り
    つづけます。
    この相互浸透の過程には、「規範概念」が「運用概念」の運用のなかで検証されると言
    うことも含まれます。もし「規範概念」の内容に誤りがあれば、それが「運用概念」の
    誤りとなり、誤った「運用概念」による言語活動で目的どおりの結果が得られないとい
    うことになります。そのことによって「規範概念」の誤りが知らされるというわけです。
−−基礎的存在である運用概念から抽象されたものが、抽象=超越的である認識として固定化され、それが、規範の概念となると言う事。両概念は、相互浸透をすると言う事。しかしこの相互浸透とは、規範の概念が時代と伴に変化していると言う経験を言葉にしているにすぎない。その構造が明らかにされる事なのです。つまり、<相互浸透>と言う神の遣わした万能の力によつて、両者は関係を持つと言う事がない限り、その構造が明らかにされると言う事なのです。言葉の規範が変化して来ると言う経験は、私が使っている<ハレンチ>と言うことばが、今の人たちは違った使い方をして、その使い方では駄目だと言っても、それが無視されて自分達の使い方を仕始めれば、私と彼等の間のコミュニケーションは、十分に成立しなくなるが、彼等が中心の社会になれば、その言葉は、彼等の作った規範が大手を振るう様になるのです。その時私達の使っていた規範が示していた<出来事>は、別の意識で見られる様になつたと言う事であり、やっている事は、出来事としては同じでも、そこから派生して来るモノが違うと言う事であり、いままでなら社会からはじき出される事なのに、そこまでされなくなったと言う事なのです。ハレンチな行為であると、人々仲間から弾き出される恥ずかしい事であるのが、恥ずかしい事ではない事であれば、<ハレンチな>と言う意味が、変わらざるを得ず、<ちょっとかっこの悪い>と言うような意味に変化してしまうと言う事です。ある出来事に対して私達世代が使うその言葉の規範に対して、彼等の言葉の規範の使い方が、少しばかり違っているのは、その出来事に対する理解が、私達の理解と違っている為であり、<その出来事>と言う対象が同じであるから、彼等も<ハレンチ>と言う言葉を使うのであるが、その対象に対する認識が違っていると言う事なのです。つまり、私達世代も彼等世代も、同じ出来事を対象にしているのであり、その対象に対して私達が<ハレンチ>と言う言葉を使っているから、彼等も使うのだが、しかし認識の内容が私達の思いとは違っている為に、彼等の言葉には、私達世代同志が使う意味とずれている事が実感されるのです。
言葉の規範を<概念−音声表象>と規定する事は、本質レベルの事であり、この<本質レベル>と言う事を考えなければならない。例えば概念を<対象の種類と言う側面の認識である>と規定する時、私達の視点は、<種類と言う側面>と言う所に固定されてしまいがちであるが、しかし<対象>と言う事が忘れられているのです。まず<対象>が認識され、種類と言う側面が重ねあわされることで、概念が成立する。対象と言う認識とその対象の種類と言う認識によって<概念>が成立していると言う事は、対象と言う認識が指事しているモノを必要とするのであり、それが透明な液体の入った容器とその側面に張られている記号を記したラベルとの関係として現れているのでする。つまり、A液体内容が、匂いとして認識されその認識と文字表象と関係付ける事が規範で合っても、手書きであろうと、ワープロで記そうと、文字を記した一枚の紙を容器の側面に張る事で始めて、透明な見た目の区別が出来ない液体を、見た目の区別として成立させるのです。つまり、匂いによつて成立している対象についての認識が、そのまま自ら姿を変えてラベルの文字となつたのではなく、もしそうなら、文字を読む事は、同時にその匂い認識を得る事になってしまうのです。自ら変化して他者になるのではなく、ただ臭い認識を他者である文字に関係付ける事が、そしてこの関係付けこそが、言葉を覚えると言う事であり、その関係の一端である音声表象のみを考えてしまうと、オウムが<オハヨウ>と言う声を出す事との区別が出来なくなるのです。ラベルの文字の違いによって、一個一個の容器が違うと言う事は理解できても、A容器、B容器、C容器、D容器と言う区別が付けられても、A容器に入っている透明な液体が、aと言う匂いのモノである事は、出て来ないのです。今私の前にあるA容器の透明な液体についているラベルのAと言う文字を読む事で、私の中で成立する<臭いa−文字A>と言う規範は、現に今容器の蓋を開けて嗅いでいる認識ではなく、透明な液体の容器とラベルのA文字の認識だけであり、そのなかで、その規範として成立している関係を諒解するのです。<臭いa>も<文字A>も、記憶として蘇るのであるが、その関係こそが重要なのです。関係には、その二つのモノが当然前提にされているのです。規範を覚えるとは、両者を関係として覚えると言う事なのです。透明な液体の入った容器とラベルの文字Aとが、視覚的に認識されている。A文字の書かれているラベルが<張ってある>と言う事と、液体の匂い認識とを関係付けると言う時、匂いと文字とは、何処にもつながりがないので、関係付けると言っても全く恣意的なモノであり、それを覚えると言っても、手がかりがない様にみえる。しかしこの考え方は、<概念−音声表象>と言う構造を、そのまま覚えると言う様に考えてしまうからだ。その規範は、透明な液体の入った容器に対して、その匂いによる認識が成立する時、同時にラベルの文字Aへの視覚認識が成立つと言う、その同時性によって初めて関係付けが成立するのです。つまり、匂いと文字Aとを、関係付けてみようと言うような事ではないのです。だから規範の関係性を、本質として理解する事は、現象形態としてのラベルの文字と中の液体と言う様な現実的なあり方に即して理解すると言う事なのです。前者の本質論に対して、後者は形態論と言う事になるのです。
透明な液体の入った容器と文字Aと記されているラベルとは、ラベルが貼付けてあると言う事により、文字Aのラベルが、容器の液体を指示する事を表している。これは、私の目の前のモノを、<猫>と言う言葉で表す時、<猫>と言う文字或いは音声を、<名前>と言う言葉で表す事と同じなのです。「これの名前は、猫と言う」と表現するのです。文字Aと記す事と同時に、ラベルを容器に張り付けると言う事なのです。その文字だけに目がいってしまうが、まさにラベルとして張られている事が忘れられてはならぬのです。