読   書   日   記

私が日々目を通す書物に対して、私の今の視点と、了解できない観点を書き抜き、それをどのように理解すると、私の了解になるかを目的に日記風に綴っていきたいと思います。

−−−−−−−−2002年09月12日−−−−−−−−

ソシュール小辞典 丸山圭三朗遍 大修館書店


ニ ソシュール理論の基本概念
「言葉とは何か」
(1)人間と動物を分かつ言語能力(2)日本語、英語等の国語体(3)個々人の発話する言葉や作家の作品等 意志の伝達を口に出そうが、文字に記そうが全て「言葉」であるのです。<言葉>とは、果たして語の担う意味の事なのか、それとも感性に訴える物理的空気の振動としての音声の事なのか、インクの汚点の織り成す図像の事なのかと言う事です。つまり、身近にある日常の言語現象への問いから出発してまず人間のもつ普遍的な言語能力・抽象能力・カテゴリー化の能力及びその諸活動を<ランガージュ>と呼び個別言語共同体で用いられている多種多様な国語体を<ラング>と呼んで、この二つを峻別した。ラングは、ランガ−ジュが個別の社会において顕現されたものであり、その社会固有の独自な構造をもった制度である。
−−現に私が話し手いる言葉を日本語と言う時、それは<ラング>と呼ばれ、そのような日本語を発言出来る私達の能力を、<ランガ−ジュ>と規定している。このランガ−ジュ能力は、その能力の働きによって人間一切の文化的営為を可能たらしめたのである。A固有、B固有、C固有、D固有があり、ランガ−ジュと言われるモノが、その固有なモノに現れでたと言う事なのです。表れる本体としてのランガ−ジュと表れでたラングということ。<表れる>と言う事により、ランガ−ジュとラングは関係を持つのです。ランガ−ジュとラングとは、<表れる>出る事で結びつくのだが、それも結局ラングの構造を解明することで、ランガ−ジュが<どのように>あらわれでたかが、明らかにされると言う事になる。
ランガ−ジュの普遍性とラングの個別性・特殊性と言う関係
例えば、家族制度は、どんな時代にもどんに人間社会にもあるが、つまり普遍性としてあるが、民族や時代の相違で<様々な形>を取るという事、其の様々な形を、個別性と特殊性と言い直すのです。ひとの言葉も、その機能に関しては同一でありながら、別の言語共同体に属する人々が互いに伝達しあう事は不可能に近い事実を想起しよう。ランガ−ジュは本能に対置された人間の文化の源であり、ラングは社会との関係において歴史的・地理的に多様化している個別文化を生み出している。
言語学が人間の「本能から文化への移行」の根底にある分節言語の本質を探ろうとする学問である限り、その対象はランガ−ジュであるはずで、ソシュールいぜんの哲学者たちがこれを対象として省察を加えたことは、その限りにおいては誤ってはいない。
その探究の仕方が問題になる。サルの場合には、ランガ−ジュと言う潜在能力を持たないが故に、人間社会と言う場におかれても、これがラング化しないのに対して、野生児の場合にはランガ−ジュ能力を有しながら、人間社会の中におかれない為にこれが顕在化しないのである。ランガ−ジュは、これがいかに生得の能力とは言え、この点てせ他の呼吸とか歩行と言ったすべての本能とは、はっきり区別される事を忘れてはならない。ラングは構造であり、ランガ−ジュは<構造化する能力>なのである。

ラング:顕在的社会的制度、ランガ−ジュ:潜在的能力
前者の潜在性は、決して物質性を表すものではない。社会的実現と言う意味での顕在化であって、具体的・物理的に実体ではない。音声の組み合わせ方、語の作り方、語同士の結びつき、語の持つ意味領域等にある一定の規則の総体を、ラングと規定している。個人を超えた制度であるのです。個人の発話は、パロールと規定して、個別的・特殊的な、一つの言語である日本語であるラングと区別して、別に規定するのです。この関係の別の説明の仕方は、次のようになる。
コードとメッセージの区別
ある情報(メッセージ)が、送り手から受け手に送られ、理解される為には、両者が共通のコードを所有していなければならない。送り手は、そのコードに基づいて情報・メッセージを符号化し、受けて側はその同一のコードに基づいて、符号化されたものから、情報に戻し、情報を理解する。この共通のコードを日本人にとっては、日本語であり、フランス人にとっては、フランス語と言う事になる。
そのコードに基づいて符号化、つまり音声化、或いは文字化したものを、パロールと言うのです。
−−私達にとっての日本語とは、現に発語している文字や音声の事であると共に、その様な発語にする規則の事を言うのであるが、ソシュールは、後者をラング、前者をパロールと言う区別だてをするのです。しかし、区別をたてるが、全く別々の物ではなく、相互に浸透しあうものであると言うのです。
生理的音声学は、言語学に属さず、言語学の補助的ながくである。
−−言語に於ける音声が、物理的側面の種類と言う側面として成立つ事で、一つ一つの音声が、種類で区別されるので、初めてその種類の音声の組み合わせが、規則的にできる様になるのです。私達の声は、其の声帯の状態によって無限に多様であるのに、その多様な音声が、種類と言う側面で捉えられる時、はじめて言葉としての音声が成立するのです。現代の科学は、その種類と言う側面を声帯の振動の周波数の違いとして、フーリエ級数という数学で捉える事ができる様になったので、数学が解きあかしたものをデジタル化して、コンピーターに人間の声の発音をさせる事が出来たのです。その声は録音テープに録音された、誰かの声ではなく、人間が発声する時の声帯による特定の周波数の空気の振動を
パロールとラングの多様性
パロールの二重性:第一「物理的・偶然的な現象である事」
         第二「類推的・創造の源」
ラングの多義性:第一「諸言語」「諸国語体」現実の自然言語の謂である。
        第二「第一の一般化から帰納される原理体系をさす。ただしランガ−ジュと混同しては
        ならない。」
        第三「記号学的原理の次元において用いられる概念。」
第三のラングは、一つの国語体をさすのでもなければ、その一般化でもない。
   言語の領域だけを見た場合でも、様々なレベルにおいて<ラング>を語る事ができるのが何よりの証拠である。<音素>は音韻論レベルでのラングであり、その顕在化としての物理音であるパロールである。

価値の体系

ソシュールに始まる現代言語学の理論が、後の構造主義の原点と見なされる所以は、ラングが自立した一つの「体系」として捉えられる視点にあると言えよう。「個々の要素が相互に関わりあっている総体、それぞれが密接な関係におかれた部分から成る全体」と定義しただけでは、ソシュールの「体系」の本質をいささかもついているとは言えない。この定義は、はるか以前から存在しているのである。
以前の定義:自然的・絶対的特性によって定義される個々の要素が寄り集まって全体を作る。
ソシュールの定義:全体との関連と他の要素との相互関係の中で始めて個々の価値が生ずる。
ソシュールの体系を作る個々の単位が、非実在性にあり、客観的な実体は存在しない体系なのです。言語の本質に関わる恣意性、形相性、示差せい、否定性と切り離して論ずる事はできないと言えるだろうる。
様々な駒に賦与された力の、様々な組み合わせから成立つチェスゲームの様な構造であるが、それにもかかわらず、実体としての単位は何処にも与えられていない。「言葉の中に自然に与えられている事物を見る幻想の根は深い」
−−チェスゲームにおいては、その盤の配置が、ルールの実行の場であり、駒自体には、一つ一つの働きがあるが、その一つとして盤の上の動き方があるのです。一つ一つの駒が持っている特性とは、盤の上を動く事で成立するのであり、その盤の上の世界を抜きにして、個々の駒の特性と謂うものなどないのです。あるいは、個々の駒の特性とは、一つ一つの駒として区別されたものが持つ、何か内的なものであると言うイメージは、一つ一つとしてその形で区別される駒が、盤の上をAからBへの位置を移動することを、駒自体に内属させると謂う事から生まれて来る。一つ一つの駒の特性とは、盤の上の位置移動を、論理として実体化したものであり、駒同士の関係が、盤と謂う世界で形成されたものを謂う。駒と謂う一つ一つのモノの関係であれば、其の関係は、物自身の持つ特性と謂う事から説明せざるを得ないが、その駒が盤の上の世界での動く方であり、決して三次元的に動く事はないのは、別のゲームの世界になってしまうからだ。つまり、駒の特性と謂う事で、一つ一つの駒の内部の特性を考えるのは、盤と謂う世界の限定性を、駒の内部にあるものとして実体化したからだ。
ソシュールの体系の概念:出発すべきは常に全体からであり、全体は個の算術的総和ではない。
語の二つの存在様式
語を研究するにあたっては、即自的な実体ではなく、視点から生じる関係の網を対象とせねば成らない事がはっきりしたが、ソシュールはこの関係が二つの異なった次元に見い出される事に気付いた。
−−関係と謂う概念は、現にある二つ以上のモノの間に成立しているが、しかしその間にあるモノは、二つのモノとは別のモノであるといっても、三つ目と言う事ではない事は明らかである。二つのモノであれば、そこに見た通り、聞いた通り、触った通りに捉えられるのであり、<捉えている>と言う事であるが、しかし捉えられているモノだけが表に表れているのに対して、関係は間にあるはずなのに、<この様なモノだよ>といって提示が出来ないので、どうしても捉える<こちら側の捉え方>として<視点>と言わざるを得ないのです。彼等二人を<親子関係の視点>から見ると言う場合、二人の間にある<血の繋がり>から、親子関係を捉えるといっても、指から流れ出ている血をみていても、繋がりが分かる訳ではない。前もって親子関係と認定されている二人の各々の血からDNAを調べた時の、両DNAのパターンの同一を知る事により、別々の血からDNAパターンをしらべ、それらが同一であれば血のつながりがあると結論するのです。つまり、同一のDNAパターンは、各々の血を持つ人が、血の繋がりがあると言う事なのです。現にいる二人の間には、生みの親と子と言う経験があり、それを前提にして、彼等の血からDNAを調べる事で、調べられたDNAパターンの図柄の異同の同である事がわかれば、親子関係は、その個人の内部の血と言うレベルからの明らかにされると言う事になるのです。親子関係は<生み生まれる>と言う出来事として現実にあるが、その<生み生まれる>出来事を、<血>と言うレベルで捉える事で、親子の実大的な把握が成立して来たのです。二人の人間の間にある親子関係とは、二人の人間を、細胞のレベルでのDNAパターンの同一と言う点から規定する事で、成立して来る。DNAと言うレベルは、二人の人間の親子関係を形成する実体ではあるが、DNAが親子関係なのではない。DNAで作り出されるこの身体と言う次元での二人の間の親子関係であり、その関係を形成している実体のレベルがDNAと言う事なのです。<関係と実体>と言う論理概念で考えると言う事です。

1)顕在的な連辞関係
 動詞、名詞等は、すべてその前後関係によってしかきめられない。
2)連合関係
1)2)の二つの関係を、建築物を例にひいて説明する。
ある寺院の構成要素である、ドーリヤ式の柱は、一方では柱と言う点でその寺院を作っている他の要素−−土台とか屋根とか壁など−−との関係(顕在・対比)から価値を生じ、他方では、ドーリヤ式と言う形式の点で他のイオニア式、コリン式の柱との関係(顕在・対立)から価値を生ずるのである。
−−鉛筆は、ノートや消しゴム等と合わせて筆記用具と言うのに対して、筆、硯、紙、文鎮等は、別の種類の筆記用具と言う事になります。タイプライター、紙、インクもまた別の種類の筆記用具になります。つまり、鉛筆と言う個別的なものは、一つの種類の筆記用具の中にあるが、他の種類の筆記用具である筆との同一性を持つ事になる。「鉛筆、筆、万年筆、チョーク」における同一性は、各筆記用具の中で果たす働きの同一性であって、もし尖った鉛筆で、人を傷つけたなら、ある種類の筆記用具の中の一つである鉛筆であっても、しかしノートとの関連とか、消しゴムとの関連が成立しているのではないから、筆記用具と言う種類の中にあるのではないのです。

シーニュ・シニフィエ・シニィアン
ソシュール言語学における最も重要な点は、記号の理論にある。
研究の始まり。
伝統的言語観である言語命名論の否定から出発した。私達の生活世界は、コトバを知る以前からきちんと区別され、分類されているものではない。それぞれの言語の持つ語が既存の概念や事物の名付けをするのではなくて、その正反対に、コトバがあつて始めて概念がうまれるのである。あらゆる知覚や経験、そして森羅万象は、言語の網を通して見る以前は連続体である。
−−言語の網を通してみる事で、見ている私達の認識の世界は、連続体であったものが、区別されたものと成るのである。世界について、区別を付けてみる事ができる様になる時の大事な条件としてコトバを通してみると言う事なのです。見分ける事ができるのは、対象が区別として認識してされて来る事なのだが、しかし認識から独立してある世界の区別が、そこで始めて出来上がるのではない。私達の頭脳の細胞が作り出す認識の世界のあり方が、認識から独立した世界の<像>であると言う事の構造が問題なのであり、時々脳細胞の暴走によって出来上がる<像>があって、暴走として成立っているのに、世界についての<像>であると結論してしまう事から、妄想なのに現実であると言う事になってしまうのです。例えば視覚の世界について言えば、私の目の前にある線路の巾が、私の位置から離れるに従って<狭まって行く>のが見える時、<線路がある>と言う事と同じ程度に、そこにそのように<狭まって行く>と見えている事を、<狭い>と思うのです。視覚と言う特性を介した頭脳の脳細胞の判断であり、視覚と言う特性が、線路の先を狭めて見えさせるのです。現にその様に見えている事を、視覚の特性というのですが。つまり、視覚の特性によってそのように見えると言う考え方ではなく、そう見えている事に対して、そう見える構造が特性として捉えられたと言う事なのです。なぜなら<見る>かぎり、絶えずそう見えていると言う事なのです。
森羅万象が区別される例:太陽光線のスペクトルや虹の色は、これほど客観的かつ普遍的な物理的事実に基づいたものはない様に思われる。
日本語では七色であり、英語では六色であり、ローデシアのシュナ語では三色であり、リベリアのバサ語ではニ色で表している。
−−どの人たちにも同じはずの客観的・普遍的な物理的事実に対して、言葉の表現としては、七色であったり、六色色であったり、ニ色であったりしていて、違いがあるのは、どうしてなのだろうかと言う事になる。二色の言葉で表現している人達にとって、客観的事実は、二色にしか見えていないと言う事なのだろうか。人間の目は、人種に関わらず同一の構造を成していて、犬や猫と言う種の違いによって構造に違いがあると言う事なのでしょう。とすると日本人である私達が、いま見えている虹に対して七色として区分けする事に対して、他の人種にとっても同じだように見えているはずだが、ただ区分けの仕方が違うと言う事であり、けっして見る事で成立している認識内容に違いがあると言う事ではないはずである。現代の光学的知識からすれば、虹は七色で構成されているのであるが、それを二つの言葉として表す事は、七つの区分けに対して、大まかな区分けとして二つに分けていると言う事なのでしょう。赤信号の三色に対して、一つだけその見た目と、言葉の表現が違うものがある。それは見た目には緑なのに、<青信号>と言う命名である。つまり、見た目はどう見ても<緑>なのに、<青信号>と言うのは、その青が規範性を帯びてしまい、青=安全に渡ると言う規範 であるから、規範をかえる事は、また別の努力が必要になるからなのです。
つまり、二つの言葉で表現していると言う事と、対象を視知覚している内容がそのまま直桔していると言う事では無いのです。対象に対する視知覚からの認識内容(A)は、表現の段階で区分けされて(B)表現されて、二つの色の名前として出されたのです。(A)の認識こそが、科学的認識と言われるものであるが、(B)は生活世界によって変容された認識と言う事になる。日常的な認識と言う意味は、例えば、<朝東の空に太陽が昇り、夕方西の空に太陽が沈む>と言う事は、全く当然な事であると言う事なのです。例えば、汽車線路は、私の所から離れるに従って間が狭まって行くのが見えるのも当然であると言う事なのですが、このとき、それは狭まって<見える>だけで、実際に狭まっているのでは無い。実際に狭まっているものを<狭まっていると見る>か、実際には平行なのに<狭まって見える>と言う事なのか、と言う事なのです。見える事で判断されている内容は、現に見えている状態なのであり、その見えとは関係なく、<狭まっている><平行である>と言う事が成立しているのかどうかと言う事なのです。汽車線路の場合、狭まつていると見える所まで歩いて行く事で、先ほどは狭まっていると見えた所の地点でそのばの線路を巾を計れば、巾が変わっていない事が分かるのです。つまり、<実際>と<見た目>との区別とはどんな<実際>も私達の視覚認識を介して対象を認識して行くと言うのです。現に<狭まって>見えている線路の巾は、自身が立つこの場所の巾を、メジャーで計る事で150cmとし、狭まつて行く場所の巾を計って数量化する事で、一定の数値が出れば、線路の巾は一定の150cmである事が分かるのです。その巾を計るのは、正にこの視覚を通じてであり、ある特定の行為に対する視覚認識であり、視覚認識を対象と認識する五官との静的なものであるかぎり、<見え>の世界から抜ける訳にはいかないが、見るこの目を持つ私達の存在は、歩くと言う知覚対象との距離が絶えず変化するものであり、だからいま立っているこの地点から線路の先が狭まって見えていても、狭まっている方向に歩いて行く事で、立っている地点の巾の同一性を知覚して行くのです。歩く事で成立している各地点の巾は、その場に立つ私の視覚で認知されるものであると言う事です。

ソシュール以前は、コトバは<表現>でしかなく、すでに言語以前からカテゴリー化されている事物や、言語以前から存在する普遍的概念を指示する道具であると考えられていた。ソシュールはコトバは、表現であると同時に<意味>であると考え、その<意味>が、現実を非連続化し、概念化すると言う事である。例えば、異なった幾つかの精神状態の多様性を集めて一つの概念にするのは、日本語では「愛」、英語では「LOVE」、フランス語では「amour」と言う語があってはじめて可能になる。言語に先立つ観念はなく、言語以前には、何一つ明瞭に識別されてはいない。
−−<明瞭に区別される>と言う事が、感性的領域で成立する事であれば、概念はそれ自体超感性的あり方をしている為に、自らを他者と区別するモノが無いのであり、それを感性的な区別のある音声とか文字とか身振りとかに関係付ける事で、音声の種類や文字の種類の数だけ、概念があると言う事で、文字の種類の区別が、概念の区別を示していると言う事になる。問題は、文字の種類の数の個数に対して、どの概念が対応するのかと言う事なのだが、しかしどの概念と言う時、それは<どの文字>に、<どの音声>にと言う事であり、文字自体に区別があるので、その区別された個々のモノに対して、一つ一つ取り上げる事を<どの様に>と言う事になるが、概念の場合には正にそれが出来ないのであるからこそ、感性的なあり方をしている文字や音声と言う物質に関係付ける事になつていたはずである。初めから区別の無い概念を割り振る為の個別化をどうするのかと言う事です。それは概念の成立と言う事になります。つまり、内的には概念の生成であり、外的には正にコトバを覚えると言う事なのです。両者の構造としてあるモノをコトバと言い、内的には概念であるが、外的には音声や文字と言う事になります。これは人がコトバを使える状態の時を言い、この状態に<なる>と言う事を明らかにすると言う事なのです。
第一:シニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの)との相互依存性
シーニュは、あらかじめ別々に存在する二つの実体を結び合わせて合体させたものではなく、シーニュノ画定とともに生まれ、お互いの存在を前提としてまの存在する。
第二:両者の不可分離性
第三:両者ともに心的存在であり、ラング内の本質体である。「意味するもの」を言語外現実ないしは志向対象と混同したり、後者を物理音と混同したりしてはならない。
形相と実質
形式と内容(うつわとなかみ)では無い事。
若い女性のソブラの音声で発声された「いぬ」と言う語と、年輩の男性がバスで発声された「いぬ」と言う語が、同じ語として受け取られるは何故だろうか。
−−音声としては全く<別々のモノ>であるのに、<同一の>「いぬ」と言う語であるのは何故かと言う疑問が成立する。音声が違うのだから、同一であるはずが無いはずなのに、私達は「いぬ」と聞こえてしまうと言う事。私達は、話声を聞く時、コトバとして聞いると言う現状があり、その現状の中で、私の声がガラガラ声であり、Aさんはソプラノの声であり、Bさは低音であっても、相変わらずコトバとして聞いていると言う事。皆各々発音している「いぬ」と言うコトバの同一性と、この同一性の根拠について明確に知っている訳では無いが、音声としては、質や高さや大きさが、皆違うと言う区別が出来ても、相変わらず「いぬ」と言うコトバである事には変わらないと言う事。質や大きさの違いとは、発する人間が、男か女か、子供か年寄りか、おかまなのかどうかと言う事が知られる特徴であるということなのです。音声の違いは、発する人間の区別として成立し、同一性はコトバであると言う事を示すのです。これが私達の日常のコトバから得られる反省なのです。つまり、違いと同一性の区別についての疑問は、解きあかされてしまうレベルなのです。しかしここで問われている<意味するもの>と<意味されるもの>と言う区別は、日常はなされている言葉についての<学的>な問いとして成立しているのであり、そのうちの<意味するもの>と言う言葉が、人間の発声する音声について考えさせるものなのだと言う事です。
女性の声、男性の声、子供の声、相撲取りの声等の違いは、各々私の耳が聞き取っているのであり、有名俳優の声が、テレビから流れてくれば、その人の顔がすぐ浮かんで来るのです。言葉における声の違いはその声を出す人の大まかな区別ができるのである。それに対して、言語論に於ける声の違いとは、各別々の特徴をなす声に対して、種類と言う側面が取り上げられるのであり、音声のその種類と言う側面を音韻と言い、咽の声帯で生ずる声の成分によって決まるのであり、皆各々違う音声に対して、声帯から発声する音に含まれる多様な周波数の内、特定の成分のみが概念と関係を持つ時、始めて言葉と言う事になる。

<同じ>と<違う>についての一般論
一度壊されて復旧した街路は、以前の道が砂利道であり、それが今度はコンクリート鋪装されたとしても<同じ>道と見る事が、同じと言う事についての第一の視点となる。
顔立ちや背丈がよくにた双生児も決して<同じ>人間ではないという、第二の視点であり、火事で失われたしまった同じ家具は二度と入手できないと言う時の<同一>は、第二の視点からの同一である。
第一の視点を<形相>の視点であり、第二の視点を<実質>の視点と言う。
言語の本質は、<形相>の視点によってしか捉えられない。
まず、その表現面において、シニフィアンは心的存在であり、物理音では無い。様々な<実質>上の差異の束を対立として意識する視点であり、この対立化と言う現象が価値を生み出す。

恣意性と記号学
<言語とは、事物の名前である>と言う視点からすれば、事物のあり方と言語のあり方には、特定の関係が無く、それを恣意性と言う規定をするのであるが、ソシュールの恣意性は、二つの意味を持っている。第一の恣意性は、シーニョ内部のシニフィアンとシニフィエの関係において見い出される。つまり、シ−ニョの担っている概念Xと、それを表現する聴覚映像Yとの間には、いささかも自然かつ論理的絆がないと言う事実の指摘である。
第二の恣意性は、シーニュ全体として持つ価値の恣意性