読   書   日   記

私が日々目を通す書物に対して、私の今の視点と、了解できない観点を書き抜き、それをどのように理解すると、私の了解になるかを目的に日記風に綴っていきたいと思います。

−−−−−−−−2002年09月12日−−−−−−−−

「言語過程説」と「もののあわれ」の論 加川恭子 思想 2001年12月号 NO.932


1:言語研究の態度
時枝誠記の言語説を「言語過程説」と言う。「旧き国語研究史に現れた言語観と、自らの実証的研究に基づく言語理論との二つの反省の上に成立し、基礎観念として仮説したものである。」
−−この言葉に対して、著者は次の様に言葉を次ぎ
言語研究は「言語の本質が何であるか」を仮定しなければ、研究が始められないし、其の仮定を完全に解きあかす事は「言語研究の究極の目標」でもある事。
−−本質は、究極の目標などではない。物理学にある<質料不変の法則>であり、エネルギーが無くなると言っても形態が変わるだけであり、虚空に消えてしまうと言う物ではないと言う事なのです。エネルギーは神の世界に行ってしまうのではなく、この世界の中で形態を変えるだけであり、Aと言う形態のエネルギーが其の姿でなくなったとしても、それは無に帰したのではないと言う事を言う、物理世界についての考え方と言う事なのです。余計な方向に歩き間違えない為の指針なのです。
西洋言語学は、「物としての言語学」であるのに対し、国語学史に現れている学は、「事としての言語学」である。「言う事」の根本にあるのは、「心」であって、心が発動して言語となると言う考え方の事なのです。西洋言語学のアプローチは、研究対象を「物」として対象化する事にあるが、近世の日本における国語研究は、「古代文献の解釈と、古語的表現の為に」発達して来たのです。言語を研究の対象にする前に、現にある文献の内容の理解が問われるのであり、その内容の理解の為に、言語が研究されるのです。
−−西洋言語学が、言葉の内容を棚上げてしまい、<内容>と<形式>と言ったレベルで研究されるのであり、AやBと言う事は、単に<内容>の例としてしか興味をもたれていないのです。具体的な内容が問題ではなく、<内容>と言う言葉の一つの例としてしか取り上げられないのです。

2:文学と言語の連続性
「言語過程説」とは、<言語を、専ら言語主体がその心的な内容を外部に表現する過程と、その形式において把握しようとするもの>だと言うことである。
時枝の考えでは、言語によって表現されるものは、話し手によって対象的に眺められた自然人事と、それに対する感動に限らないにもかかわらず、それに限定してしまっている。時枝は、言語の最も基本的な機能を、「他の生活の手段として行為」だとする。
  水を一杯ください。
と言う表現行為は、咽の渇きを癒すと言う、私の欲望を満足さす所の生活の手段として行為されたものである。この際、相手の行動を促すと言う事が、当面の目的になって来る。其の為には、先ず、私と相手との間に、命令者と非命令者の関係を構成する事が必要である。「水を一杯ください。」と言う言葉は、この様な関係を構成する手段として行為されるのである。
−−私は、咽が渇いていると言う様に知覚されている。つまり、現に咽が渇いているのである。私と他者とは、言葉のやりとりができると言う理解。ペットがいても声をかけるが、しかし答えを期待する言葉ではないはずである。咽の渇きを癒すためのは、水を飲む事なのだが、その<水>を、自分の口にもって来る事を、自分で実行するか、他人に実行してもらうかです。<咽が今渇いている>と言う心的事実は、現に私の内部の心的事実である。その心的事実は、水を飲む事で、解消する。その飲む水を、自分の所に持って来ると言う事をどうするのかと言う事が問題になるのです。つまり、ここでは、咽が渇いていると言う心的事実がではなく、お花に水分を補給しようと言う思いがあるかも知れないし、一杯の水を部屋に置く事で、部屋の乾燥を防ごうと言う思いを実行しようとしているかも知れない。つまり、水を何らかの次元で必要としているので、その必要を満たしてくれる様に他者に要求すると言う思いを、言葉にしていると言う事なのです。水を必要になるなら、立ち上がり水を取りに行く事で、欲求は満たされるのであり、ただ冷蔵庫に入っている冷たい水を持って来るだけでは、駄目なのであり、咽が渇いているなら、水を飲むことで、渇きは言えるのであり、お花であれば、水を掛ければいいのです。その水を何に使うのかと言う思いと、水をどのように自分の所にもつて来るのがと言う思いとの、別々の思いがあり、それをどの言葉に出すのかと言う事なのです。<水を一杯ください>とは、水が必要なら自分で取りに行けばそれで済むものを、他者に取りに行ってもらおうとする事を表現しているのです。<咽が渇いたので、水を一杯ください>とは、空気の様に私の回りに満たされていれば、咽が渇く事と、同時に水を飲む事は成立してしまい、<水が欲しい>と言う事は成立しないのです。事実として水を飲んでいると言う事が成立ってしまうのです。いま咽が渇いているのに、その渇きを癒す水がないので、或いは自分で取りに行けないので、他者に持って来てほしい事を望むのです。<咽が渇いているなら、立ち上がり冷蔵庫の所に行き水を飲む事で、渇きは癒えるの>とき、言葉は必要無いが、現に咽が渇いている事に対して、<私は、いま咽が渇いている>と言うような言葉を発するとしたら、いま習っているフランス語での言い方を思い出す為に言葉を発する事はあるだろうし、交通事故で頭を打った為に言葉が出なくなった症状を直す為に<咽が渇いた>と言う言葉を発するかも知れないのです。他者に向かって、其の言葉を発するとしたら、私の願いを彼が、すんなり聞き入れてくれるかどうかを試す為に、彼に向かって言葉を発するかも知れないのです。其の言葉の前後にどんな言葉が表現されているかで、思いの構造が理解出れば、聞き手は私の言葉を聞いたと言う事になるのです。
時枝誠記「<言葉にて心を読まむ>と言う事は、言葉を思想に対立させた考え方で、言葉を表現の媒体と見る考え方に等しい。」「思想が、そのまま詞として成長して行くと言う考え方」

「言語の具体的経験」と言う事
言語研究の具体的な対象は、主体的活動である事。例えば甲が「犬が走る」と言った時、それは甲の「主体的活動」だが、観察者は、その甲の「主体的活動」を、主体的のままに言語研究の対象として把握しなければならない。其の為には「解釈作業」と言う手続きを踏まなければならない。「言語過定説」の考え方によると、「言語は、個物を個物としてそのまま表現するのではなくて、一旦これを概念化して、其の概念を音声或いは文字に移行して聞手の感覚を刺激するものであると言う事、さらにこれらの刺激からある思想を再生するのは、全く聞手の連合作用に依存するものであって、話し手の思想が、聞手に完全に伝達されると言う保証と言うものは、言語それ自体には存しない」と言う事になる。したがって「甲の音声を聞いて或思想を理解する事によって得る我々の言語的経験は、我々観察者自身の言語的経験であったにしても、甲の経験のままではない」と言う事になる。ここで言われている「甲の経験」とは、個物として存在する犬を概念化し、音声化する過程を言うと考えられるが、危惧されているのは、その個物としての「犬」が小犬であるのに、理解する方では、土佐犬のようなものを理解すると言う様な事が起こり得る事なのです。したがって、甲の表現行為を、言語研究の対象とする為には、観察者は、その「甲の経験」を「再経験し、追体験」しなければ成らない事になる。其の為には「甲の意味する犬が如何なる犬を意味するかを穿鑿する」と言う手続きを踏まなければ成らないが、それこそは、「とりもなおさず甲の言語の解釈作業にほか成らない。」と言う。
−−甲が経験している彼の目の前の犬は、或特定の種類の一匹の犬であり、その種類なら他にもいるとしても、生き物としての目の前の犬は、この一匹であり、彼の経験がこの一匹に対する愛情などであれば、彼の経験は、他の犬を持ってきたとしたら、それは又別の経験と言う事なつてしまい、彼はその別の個体に愛情をもつのでしょう。彼のこの一匹に対する経験は、決して他のものに置き換えないとすると、それが別の経験であるとすると、この一匹が<犬>と言う区別にはいるものであるなら、彼のこの経験は、個別的な唯一の経験であると同時に、<犬>と言う経験と言う事になる。そこで<犬>と言う経験が、甲にとって小犬のマルチーズであるが、乙にとって土佐犬であるなら、個別のものとしては種類が別々であるから、同じにする訳には行かないが、しかし両方とも<犬>と言うことなら、<犬>と言う経験としては同じであると言う事になります。甲が<犬が走っている>と言うコトバを発する時、彼の目の前にしているものは、小犬のマルチーズであり、彼はそれを目にする事で、<犬が走っている>と発しった事になる。乙は、甲のそのコトバを聞いたとき、日本語として理解出来ているが、そのコトバからイメージするものは、彼の中では<土佐犬>の走っている姿に違いないのです。しかしそのイメージの中でも、<犬><走る>と言う概念が成立していて、個別的には別々のものを体験していても、<概念>として成立しているものが、コトバとして表現されるから、同一のコトバを使っている限り、同一の概念を共有する事になるのでしょう。個別的には違った経験でも、同一の概念の成立がある事から、その概念の伝達が成立しているのです。個別的なものの経験が、しかし一方はAであり、他方ではBであって、それを甲が<犬が走っている>と言い、乙が<猫が走っている>としたなら、彼等は何かを見ている事は確かなのだが、見ているものが、種類として違っているのであり、その種類を<犬>と言い、<猫>と言うのです。両者とも二つのものを見る事が出来、それぞれを区別できるのであり、その区別出来るものを<犬>と<猫>と言うコトバとして表しているのです。私達は、あるものを目の前にして、それを区別してみる事が出来、頭脳の内部で成立している区別されたものを、仮に<イヌ><ネコ>(カタカナは、概念を表す事とする。)と言う概念とすると、その<イヌ>を、<犬>と言うコトバで表すのです。
さて問題は、いま概念を<イヌ>としてと言ったが、これも概念と言葉との区別を示す為の方便なのです。つまり、ここでは<概念>と言う言葉は、<イヌ>−<犬>と言う関係に対して、後者を物質による表現とすると、前者を概念と言うのであり、その関係は、概念を物質形態に表すと言うのです。いまこの様に表されている言葉も、正に概念が表現されているのであり、その概念は、現にある言葉からしか理解出来ないものなのです。表現過程を経て成立しているこの言葉に対して、それを読み理解すると言う事は、言葉として理解すると言う事は、表現構造のあり方をとうして概念を得ると言う事であり、その表現構造の特性がここでは、言葉と言う表現の理解と言う事なのです。<イヌ>−<犬>と言う関係と言う事は、両者を二つのものとして区別している事なのだが、しかし両者は同一のレベルにあるのではなく、そのあり方を過程的構造と言う事になるのです。日本語である<犬>の概念を、英語で表す時、<dog>と言う時、フランス語では分からないのは、その概念が分からないのではなく、規範としての概念が分からないと言う事であり、フランス語を覚えると言う事は、その規範を覚えると言う事になる。ではその規範はどのようにして覚えられるのだろうか。それは言葉が指し示している対象に対して、そこにラベルを張る様に<XX−dog>と言う関係をあたえるのです。現に自分が対置している<モノ>に向かって、<dog>と言う音を覚える事で、規範の成立がはじまるのです。只この段階では、現に対置しているモノは丸ごとであり、別のモノとの違いが表に表れていないのであり、それが形等の区別ができる事で、二つのモノが違って捉えられ、一方は猫となり、もう一方は犬と呼ばれるのです。丸ごと表れている時、それらは自分の身の回りで接しているものとしてあり、その中で形やいろなどが区別出来るようになるのです。