読   書   日   記

私が日々目を通す書物に対して、私の今の視点と、了解できない観点を書き抜き、それをどのように理解すると、私の了解になるかを目的に日記風に綴っていきたいと思います。

−−−−−−−−2002年09月12日−−−−−−−−

哲学的冒険−形而上学へのイニシアシオン− 佐藤一郎 丸善(株)


第三話 概念と存在の違いは
   −スーパーの入社式と新宿の人込み−
一般的に、思考の高度の段階を指して言う場合もある。
ベルグンソンは、ギリシャに昔からある論理学での意味にそっていると言える。
<犬>を飼う事にまつわる様々な話をする。「ゴールデン・レトリバー」「柴犬」「チワワ」「マルチーズ」の様な違ったタイプの犬を頭に浮かべながら、種類の事を言わずに、犬と言う言葉を使って話をしても、お互いに話は通じます。それは、犬と言う言葉を使う事について前提になる、共通の了解を皆が持っている事になっているからだ。この了解を概念と言う。
−−概念は、まず了解の様に私達の判断の中に成立しているのであり、その了解を対象的に規定する事、つまり、犬と言う言葉で指し示されているモノのレベルでは、どのようになるのかと言う事になります。一般的な規定としては、対象の普遍的側面への了解と言う事になる。これは個別的にあるモノに対して、その個別にある普遍的側面と言う事です。例えば、今目の前にしているそれは、個別的にある一つのモノであり、それらの集まりであるが、それを「柴犬」と言う種類でさらに「犬」と言う種類に入ると言う理解である。犬と狼の区分けができる事、犬と猫の区別であり、その犬の中ではさらに柴犬、プードル、マルチーズと言う種類の区別があると言う事になる。子供に対して、ニ匹いるモノの内、一匹はマルチーズであり、他方が柴犬であっても、まずその区別を教えはしない。初めは、猫や麒麟との区別として、<犬>を教えるのであり、それが理解できたあと、さらに犬の中にも、色々な種類がある事を教えるのでしょう。
どのようにして、その了解を持つ様になるのか。
ワンワンと言う言葉の適用の仕方を、時には正される事も含めて、学びながら、おのずと犬の概念を持つ様になるのでしょう。形や色や大きさや、しっぽの形等は、種類の共通性であって、犬と言う概念では無いはずである。論理学では、複数の対象から非本質的な性質、種類においては本質的な性質であるが、を捨てて、抽象して、共通の性質を取り出す事で、概念が構成されると説明されます。共通性は、概念の内包、その概念が適用される対象の範囲の事を外延と言います。
−−概念が適用される個別的なものと、それ以外の個別的なものがあるということ。多数の個別的なものがあり、それがA概念と言う共通性で集められたモノと、それ以外で集められたモノという、二つのグループに分けられるのです。ただそれ以外とは、そこに、A概念以外の共通するB概念と言うものが成立しているのでは無いのです。A概念を共通性として持っていないと言う事であり、けっしてB概念があると言う様に規定されているのでは無い。個別的なモノとしては、全て同一であるが、その中で幾つかの個別的なモノは、A概念と言う共通性を持つと言う事になる。さらに、A概念と言う共通性を持つ幾つかの個別に対して、A1概念、A2概念、A3概念と言う共通性でわける事で、犬と言う種にたいして、スピッツ、柴犬、マルチーズと言う種類としてのグループごとに成るのです。A概念とA1、A2、A3概念と言う区別に対して、犬概念と猫概念、馬概念を生き物概念と言う共通性のグループの上の区別とすると言う考え方は、しかし構造としては似ていても、<犬−マルチーズ>と<生き物−犬>が同一である事はないはずです。個別的なモノが犬概念と言う共通性で集合化されたグループに対して、その集後の外部にあるものは、単に個別的なモノと言う事だけである。つまり、多数の個別的なモノは、共通性で個別であるのでは無く、まず個別として、認識の対象になっていると言う事であり、その個別が、A概念と言う共通性で区別される事で個別の対象の認識は概念へと構造化されるのでしょう。犬と言う概念が成立する前に、認識者に対して<対象として>個別的なモノとして成立するのです。この個別的なモノは、概念以前としては、<ある>と言う事であり、そこから<ある>モノが、各共通性として犬と言う概念でグループ化されるのです。この<ある>と言う規定も概念であり、多分この段階の概念を一般的に言えば、感性的認識と言う事になるのでしょう。つまり、この感性的認識の段階は、対象的には<ある>と言う事になる。認識内容としては、<見る、聞く、嗅ぐ、触る、味見>と言う事であり、対象的には<音がある><光り、色がある><ざらざらがある><しょっぱいがある><こげくさい匂いがある>と言う事なのです。
「概念が適用される対象の範囲を外延と言う」時、無数にある個別的なモノに対して、すべてA概念が適用されるのでは無いと言う事であり、諸物はある特定の、つまりその概念を共通性として持つと言う事なのだが、性質で集まり毎の区別が出来ていると言う事です。問題はここにある。概念の外延と言う事でその概念の適用される対象の存在を考えるのだが、その対象となると言う事が、概念の始まりであると言う事なのです。つまり、個々では概念の外延と言う事はせいりつしていないのです。何故なら、<ある>と言う対象の成立が、始まりであり、そこから個別的なモノが、集合体として区別化されるのだからだ。

概念どうしは判断の要素として結合され、一致または不一致が言われる。「鯨は魚ではない」は判断です。犬と言う概念の内包は、辞書の最初に出ている説明がそれに当たるでしょう。鯨の概念の外延は、魚の概念の外延と重ならないと言う事です。
−−鯨を魚だと思っていた時の判断は、鯨の概念の内包に<水の中に住む>と言う性質があるからと言う判断が成立しているからだ。つまり、鯨と呼ばれている対象が、現に海の中に住んでいると言う事実が、鯨の概念の内包であると考えられているからだ。他の秋刀魚やいわしや鰺やと同じに、海に住むものと言う事で、同一の概念である魚のグループに入っているのです。鯨は魚と言う種類の集合にはいり、その集合の中で、鰺のグループ、いわしのグループ、秋刀魚のグループ、カツオのグループ、ト同じ様に鯨のグループに無つていると言う考えなのです。
概念を持つと言う事は、実際には、その外延を指し示す一般的な呼び名の言葉(論理学では名辞と言う)を持ち合わせる事です。概念を持つとは、それを表す名辞を使えると言う事である。
−−私の目の前にあるモノについて、それが何であるか知っているが、それに附いての韓国語の名辞を知らないと言う事である。しかし今目の前にしているモノに対して、生活の違いから私には何であるか分からない事がある場合、それに附いての韓国語の名辞を教えてもらって、<・・・>と発音しても、それだけで名辞を知った事には成らない。発声としての音を、オウムと同じ発声するだけである。名指されている対象たるモノが、例えば食べ物として、或いは料理の道具として、或いは部屋の飾りとしてある事をしることなのです。つまり、個別として今あるものが、それ以外の個別のモノとどのような関係にあるかを知る事が、そのモノの<なんであるか>を知る事なのです。私の前にある18センチぐらいの二本の棒に対して、それが<なんであるか>と言う問には、手にもって茶碗の中の御飯を口に運ぶ、モノを食べる道具である事が分かる事で問に答えるのであり、そこで始めて、目の前の手に持っているモノを、<箸>と命名するのです。目の前のそれを、そのような一連の操作の道具として使える様になる事で、始めてそれについて、頭の中に概念が成立するのであり、その概念に媒介された、いま知覚している個別的な対象に対して、<箸>と命名するのです。つまり、<手にもって茶碗の中の御飯を口に運ぶ、モノを食べる道具である事>と言う概念は、しかし概念である限り、抽象的な規定であり、その現実形態として、現に今私が右手にもっている二本の棒を使うと言う事が必要であり、命名とは、概念の現実形態である個別的なモノに対してなされるのです。モノとそのモノを使用した一連の行為に対して、モノ=「箸」、一連の行為=「食べる」 と言う言葉を命名するのでしょう。手に持っている二本の棒に対して、そしてこのような言葉を出す事である事柄を言葉で説明しようとしているのだが、<箸>と命名する事は、そのモノに対してなされるのだが、しかしそのモノは、あくまでも手にもたれる事で道具と成るモノと言う規定を得ているのです。だからその道具の規定を受けていると言う意味で、<箸>と言う命名は個有名と違う、一般名と成るのです。

私達がある種のものどもを言い表わすのにどんな語彙を持っているかと言う事、つまり分類の細かさ粗さは、言葉を使って世界と関わる私達が、その物どもの世界と実際にどのくらいの深さ浅さで関わって生きいてるかと言うことと関係しているのです。
−−私が道で見かける色彩鮮やかな、私の目に支障がないと言う事なのだが、それらを、命名するとしたら<花>と言う事になるが、しかしその<花>と呼ばれるそれらは、さらにその形や色や大きさ等で区別されているのであり、それらにも名前がついているが、分からないのです。細かい名前が分からないことに対して、個々の経験した花については、イメージとして頭の中に入っていて、それを描く事ができるがしかし名前としての言葉が、イメージと関連し、その名前を出す事で、イメージの再生が容易に成るのでしょう。つまり、名前は、<Aと言う種類>の<花>と言う区別として成立している為に、単なる一つのイメージとは違う、構造化された概念を伴ったイメージになるのであり、イメージとしては同じでも、概念として成立しているので、言葉と伴に再生が容易なのです。単に花と言う言葉のレベルでは、自身が経験した一つの種だけのイメージしか浮かばないが、各種に合った花々は、その名前と伴にイメージが浮かぶのです。言葉の細分化は、対象に対して細分化された行為がなされるのであり、その細分化された行為こそ、世界への関わり方と言う事なのです。
大手スーパー・マーケットの入社式と新宿の人込みを比べる。両者の内、どちらが分かりやすいと言う事になるか。前者は、そこに集まる人々の目的がハッキリしていて、集まりに基準がある。年令、着る服、が統一されている。概念の話と結び付ければ、内包が単純で、全体がハっきりしていると言う事になります。後者は、全てに共通する性質などおよそ考えられないので、概念にも成りません。買い物客、デートの人、営業の人、通り過ぎる人等多様な人々が集まっている。特定の目的の集まりでは無いと言う事です。雑多で、取り止めのない集まりです。裏にはさらに多くの種類の人がいるのでしょう。
しかし前者の場合、集まりの人々に入社すると言う共通性によって全体がハッキリするが、ひとりひとりの違いが隠れてしまうのです。共通性に注意を奪われ、個別性が目立たなくなります。
−−入社式の集まる人々は、入社すると言う目的によって規定されているのであり、その時この式に参加する事が、人々の服装や身なりを規制するなら、集まった人は、皆同じ格好をする事になる。同じ格好だから、個別性が目立たないのでしょう。しかし集まった人々は、同じ型式のイスを200台集めた時の同一性では無いのであり、ただ服装や格好で差異が無いと言う程度の問題にすぎない。個別性を消しさるものがあるとしたら、入社式に於ける人々の行動が、入社式と言う行事に左右されて、みな同一の動きをしなければ成らないと言う事から来るのです。
この話の表題の言葉を使えば、スーパーの入社式は、概念としてはハっきりしているが、存在はハっきりしていないと言うことに成ります。存在は、個々の違いが区別された物について言えることなのです。
−−入社式に参加すると言う概念に対して、その概念に関わるものに、つまり、式に参加する時の格好とか服装とかが、一律に決められてしまうから、それにあわせて自分の存在を合わせる為に、みな同じ格好になると言う事になる。<起立、礼>と号令されれば、皆いっせいにたちあがり、礼をすると言う行為には個別性がないとしても、それは、彼等が式の意志を肯定しているからに他成らない。彼等が、その入社式に参加すると言う意志をもったとき、すでに彼等の存在は、単に学生と言う存在でも、山田家の一員と言う存在でもなく、A社の一員になると言う存在であり、概念が、存在に対する関係は、存在の関係する規定を、概念と言うのであり、山田カズオと言う1人の人間にとって、犬や猿や鯨等に対して、人間と言う種であり、山田家の中では父親であり、会社に行けば、会社員であり、と言う様な存在としてあるのです。もしかりにその関係を抜きにして考えた場合、論理として実体と言う規定を受けるだけであり、その実体が色々な関係を形成する事で、多様な存在規定を受けると言う事なのです。映画観のなかの200席のイスは、形や色が皆同じであるが、しかしその映画館と言う空間の中で、左右からの位置が特定出来るのであり、その位置にあるイスとして位置の区別を持っているのです。つまり、イスとは、虚空に浮かんでいる何ものかでは無くて、私達の生活するこの時間と空間の中にあるのであり、その位置を皆規定する事ができると言う事なのです。素粒子のレベルになる事で、その位置と速さは同時に確認出来ないと言う事なのであり、同時で無ければ、位置は確定出来るのです。