読   書   日   記

私が日々目を通す書物に対して、私の今の視点と、了解できない観点を書き抜き、それをどのように理解すると、私の了解になるかを目的に日記風に綴っていきたいと思います。

−−−−−−−−2002年09月12日−−−−−−−−

同一性・変化・時間 野矢茂樹 (株)哲学書房


第一部 同一性・変化・時間/新井編
同一性を問題にする場合の基本的な概念規定
   <数的な同一性>と<質的な同一性>とを分けて考える。
数的な同一性:ものを、「一個、二個」と勘定する際、「何がひとつと勘定される」かと言う事になる。
質的な同一性:色が似ているとか、あの人とあの人とは双子だから顔がよく似ていると言う同質性
例えば、竹薮に何本の竹が生えているかを勘定する時の<数的な同一性>であり、さらに苗木を植えて、それがだんだん育っていって大木になる。この成長の過程を通じてどうしてそれが一本の木であるのか、この「一つ」と言うのは何なのかというのが、数的同一性を巡つての典型的な問題である。とくにそれが先鋭化されて来るのが、人物の同一性の問題で、物が持っている同一性とは違った形の同一性が、人物の同一性にはあるだろう。ロックが問題をそう言う形で定義したのが、考える始まりと言う事になります。−−何故同じものが同じものでありながら、「変化する」と言われるのだろう。
ライプニッツの原理:「aとbがあらゆる点で同質であれば、aとbとは同一である」
逆の問題。「aとbが同一だったら、aとbはあらゆる点で同質ではないのか」と言う言方です。つまり、「同じだったら、異質ではあり得ないだろう」と言う事です。
同質性とは、二つの対象の間の、比較と言った関係である。
同一性とは、自分自身に対して必然的に持つ関係である。
危険な問いがある。「性質が変わりつつ同一なものは何か」と言う問である。例えば、aからbへと同一なものが変化して行く、そのとき「あらゆる性質が共有されていなくとも、同一だ」と言う事は可能な気がする。つまり、「すべての性質が変化してもなお同一でありうるとするならば、その同一性と言うものは性質を剥ぎ取られた何ものか、である。」こうした議論はサブスタンス、実体、あるいは特に基体と言われる様なモノを要請して、性質を剥ぎ取られてもなお残っている透明なスポンジケーキの様なもの、それが同一なんだ、そこに性質が衣服の様にポコポコくっ付いてくるんだ、と言う考え方になってしまう。そうすると、その「同一な何ものか」としての基体とか実体は、認識不可能なものになってしまう訳です。こんなモノを立てたく無いと私は考えています。
−−認識が、性質を把握する事であるなら、あらゆる性質を剥ぎ取った後に残るものについては、当然認識は成立しないでしょう。問題は、「<性質>のみが認識される」と言う事が正しいのかどうかと言う事です。例えば性質が玉葱のかわのようであるなら、一枚一枚剥ぎ取って行った後には何ものこらないのであり、ただ皮に成るモノが未分化ナ状態であり、性質の把握全てになるのです。それに対して、衣服とそれを着ている人間の様に考え、衣服を一枚一枚剥ぎ取って行くと、最後に身体が残るとかんがえ、認識は衣服の一枚一枚についてだけ成立し、残った身体については成立しないということで、身体は認識不可能となると言う事です。つまり、そのように考える時、<認識とは、性質一つ一つについての成立つ>と言う事が全てになっているのです。

そうした道を取らずに、なおかつ「変化を通じて同一なものって何であるか」と問うとすれば、おそらくこの問いそのものをもっと問い直して行かなければ行けない、これがまず問題の発端なんです。
苗木と大木とを、<あれ、これ>の比較による同一性ではなく、一つの統一関係として考えるのです。 <あれ、これ>で考える時、苗木である事は、大木でなく、大木になつている時には、もう苗木では無いと成る。
1920年の苗木は、小木であり、小さいと言う性質をもつている。1970年では苗木は、大木と成り、大きいと言う性質を持っている。1970年の時点で苗木は、大木であるが、かって小さかったと言う性質を持っている。
−−この苗木に対して、小さいと言う性質を取り払い、大きいと言う性質を取り払うと、後には苗木と呼ばれるものだけが残るが、しかし、大小の性質を取り払ってしまえば、性質をもったモノなどなくなるのであり、そのナイものについて、苗木と言う命名する事自体がおかしい事なるのです。つまり、ある性質について<小さい>と命名し、別の性質について<大きい>と命名するなら、<苗木>と言う命名は、何についての命名であるのかと言う事になる。そこではじめて、多様な性質を持つ<モノ>と言う事をきていして、その<モノ>についての命名であるとするのですが、その<モノ>が、多様な性質の統一体であるなら、その性質を統べて取り払つたあとには、何も残らないが、或いは<芯>なるモノだけが残り、その芯を苗木と命名すると言う事になる。
固有名の指示対象
「Nは、三年前大学に入学し、今哲学科にいる。」と言う文章がある。このとき、この「N」と言う言葉で指示している対象はいったい何なんだろうと考えます。この「N」は、三年前に入学したNなのか、今哲学科にいるNなのかと言う事になります。しかしどちらのNでもない。時間断片で考えると、前半は、三年前のNになり、後半は、今目の前にいるNになる。指示対象が別々になるのです。普通この様な話しをする時には、Nは目の前にいるその人を指し示していると考えるのです。
−−18才のNがいて、かれが大学に入学した。いま21才で哲学科に在籍しているのであり、時間的には、別々のNであるが、時間の変化の中でも同一なものとしてNが考えられている。その同一のNは、その時点時点のNに対して、つまり、絶えず変化してあるモノに対して、その変化に関わらず同一であるモノとしてのNと言う考え方なのです。ただこの同一は、変化してあるモノとは、別の何かでは無く、変化として表れているモノとしての同一であり、<変化にも関わらず>と言う時の変化と別の何かと言う事では無く、変化であつても、同一なと言う事なのです。<変化−−同一>は、論理関係であり、Nさんについても、彼に対する論理的把握が、言葉に表されているのです。

何が「変化」するんだろうか?「変化する」と言われる時の主語と言うのは何か。「時間断片」とは、ある時点で切り出された対象であるから、ある時点と言う一点で固定された変化しない対象なのです。それに対して連続体を、「三年前に入学し、いま哲学科にいる」と言う性質を持ったNさんと考えると、Nさんは三年前から今までの性質を全て持ったNさんと言う事になり、今のNさんは、時間的に違った性質を持ち続けるNさんと言う事になる。
−−赤ん坊であるNさん、保育園にかようN、小学校にいくN、中学校にいくN、と言う様に、時点時点のNがいて、と言う事は、時点時点であるモノが、皆違うと言う事であり、その違っているものが、同一の連続体であるモノに対しては、変化していると捉えられるのです。小学校にいくNと保育園に行くMと言う事であるなら、単に別々の人と言う事であるにすぎない。時間的な時点時点からの観点と時間的な連続の観点の二つの視点から見られる時、はじめて<変化と同一>と言う考え方が成立つのです。
<時間の流れ>で考える。
「川の流れ」の場合、両川岸と言う固定に対して、水の動きを<流れる>と規定するのだが、時間の流れの場合には固定としての岸のあり方をするものは何かと言う事。
時間の流れは、「かって現在であったものが、今や過去へとおしやられている。」と言う事から、時間の流れを知覚する。
  今苗は小さい(1)
  今苗は大きい(2)
(1)の時点では、苗は今小さいが、(2)の時点から(1)を見る時、苗は小さかったが、今は大きいと言う事であり、小さいものが、小さかったと変化する。この時制の変化が、「時間の流れ」と言うモノを表している。
−−<苗が(1)では、小さく、(2)では中間で、(3)では大きい>と言う事が時間の流れであっても、それだけで<時間の流れ>が気付かれるのではない。(1)時点の今が、(2)時点から過去として規定される事で、時間の流れを意識するのです。(1)の時点の出来事は今として現前しているが(2)の時点からは、(1)は記憶の内容として成立し、その記憶の苗に対して、いま現前している苗の知覚の内容を関係付ける事で、<小さかった>と捕らえれば、今、今と続く時間が、時間の流れとして意識されるのです。
変化とは、「小さい」から「大きい」へ=現在形から現在形へ移ってゆく事。「小さかった」から「大きい」へ変わるのは、いま現在の視点から眺められた静止した時間的奥行きでしかない。変化を語ろうとすると、今の時点から振り返って「ああ小さかったものが大きくなったなあ」と言うだけなんです。これは変化を固定しちゃっている。変化を「変化の軌跡」として一望のもとにしてしまっているわけです。
そもそも「変化を通じて同一なものは何か」と言う問いそのものが却下されることになります。ただ変化だけがあるんだ。そしてそれをある時点で立ち止まって振り返った時に、それを纏めあげる作業として始めて同一性と言うものが出て来るんです。「季節が変わる」と言った時、同一なものをあえて求めるとしたら、それは対象側にあるのではなく、私がそれを見る時の一つの観点の同一性だと思うのです。「季節が変わる」と言う時その変化を貫いて同一なものなんて求めないでしょう。ただ「変化がある」でしょう。変化そのものを、そこに一個・同一な何モノかをなんて言うものを立てずに、体験しているのでしょう。
−−「季節が変わる」と言う時、今春である。今夏である。今秋である。今冬である。と言う事があるだけに対して、それらは、私達を囲む環境のあり方の違いの大まかな区別である。その区別の連続的移行を<季節の変化>と言うのであるが、この変化の中の同一性とは、<私達Aを囲む環境のあり方>と言う事であり、そのあり方の形態の違いが、<季節の変化>と言う事になる。例えば、私達を囲む環境のあり方が、絶対零度になれば、それは一切の運動の停止であり、変化さえも成立しないのです。
季節とは、私達の対象を見る時の一つの視点であると言う時、季節の形態としての<春夏秋冬>と言う対象的なあり方に対して、さらに<私達を囲む環境のあり方>と言う抽象的な次元を問題にしているので、アタカも思考だけで成立つ視点の様に理解されてしまう。そのような視点も、例え抽象的であっても対象的な裏づけがある。暑かったり、寒かったり、じとじとしたり、からっとしたりしているのは、太陽との関係で決まるのであるが、しかし私達が居住するこの環境が太陽との関係を形成する時、季節と言う言葉が表現されるのです。
私は、今日用事があって、それを果たす為に10km先のA市に行く為の移動手段として車に乗るのです。10kmあるので歩くと時間かかるので、車を使うのです。この時私は車の走行させる為の知識として運転の知識を持っていて、それはアクセルとクラッチを操作する身体のバランス運動の身体的知識であるがしかしその様に車が走行する為には、車が走行する働きをしなければならないのであり、その働きを作り出す車自体の構造がそこに作り出されていなければならないのです。私が知っている構造の知識は、走行するだけの操作知識であり、全体の構造知識がある訳では無い。私には分かっていないが、私達の誰かは必ず知っているのであり、その必ず知っている事を、知識として表現しておけば、その言葉を介して車の構造についての知識を形成する事ができるのです。操作すると言う方向に対する知識は、その車を動かして場所の移動をする目的の為にあり、その場所を移動する本体、車自体の構造が当然そこにあるが、操作する人間にとっては、そこまで知らなくとも、操作は可能なのです。その知識は、例えば故障によってエンジンが作動しない場合、エンジンの構造が分からなければ、修理のしようがないのです。操作する人間の知識と、車を作り出す人間の知識の違いである。それは、私達の活動目的に違いによって形成される知識である。人々はその目的に沿った知識の獲得を実行するのであり、私は運転の知識で十分であると言う事なのです。
季節の変化と言う時、そこにある太陽との関係についての構造の知識が無くとも、変化の中にどっぷり浸っていればいいが、人によっては、浸りながら<太陽との関係>についての構造の知識を獲得しようとするのであり、そこで始めて<季節の変化>を体験している事と重なった<季節の同一性と区別>と言う考え方が生まれて来るのです。ただ車の構造の知識とは違って、車を作る時に構造が明らかにされていなければ、つくりようあがないが、<季節の変化>は、私達の環境のことでありながら、「季節の変化と言う言葉」であると言う、思考とか判断と言ったレベルである為に、思考の内容が対象的なあり方でありながら、私達の頭の働きを問題にしなければならないのです。

<討議>
変化を認識する事、変化を考える事に対して、変化を生きる事
・・変化を生きろと言う限り、サイエンスにならない。語り得ないものが出て来てしまうのです。同一性については、存在論、或いは我々の「語り方」の問題なのです。同一性とは対象のあり方ではなく、その対象や世界についてどうやって「まとめあげる」のか、その世界記述の中に初めて同一性と言うものが出て来るのです。動物にとって、茂みに隠れてそこから叉出て来たものが同一かどうか、なんて事はどうでもよく、食えるかどうかでいいわけです。食えるものがそこから現れて来れば、喰えると言うタイプで飛びかかる。だから動物にとって世界が全部タイプの世界になります。
これは哲学の中では一つのテーゼ、立場になりうるものです。まず個があって、それから抽象されて普遍が出て来る、と言う話しでは無い訳です。先ず個が出て来る事の方が異様な、あるいは特異な事だと思います。動物は、ダイレクトに普遍の世界に生きているのである。
−−私の目の前にあるリンゴの木に、リンゴの実が10個なっている場合、個としては10個と言う個数としてあるが、それが10個と言う量として規定されるのは、同一の質として規定されている事が前提であり、さしあたってその実は、形や色等で同一の質として規定される。しかしその同一の質は形や色等であっても、やはり食べられるモノと言う規定として成立っているのでしよう。とすると、10個の実は、個としてあっても、その食べられる性質としてあると言う事になる。それをあえて個として考える事はその個が性質として規定されないと言う事になる。しかし10個の実がなっているその木は、一本の木として個としてあるが、しかしリンゴと言う食べ物になる実を作り出す個であるなら、やはり食べ物を作り出すと言う性質をなす個と言うことになる。一本の木は個としてあるが、<食べ物を作る>と言う性質を持つ個であり、その実は<食べ物>と言う性質を持つ個と言う事になる。一個の実は、<雄しべと雌しべ>の結合としてあらわれるように、私と言う存在は精子を作り出す性質を持つ個としてあれば、私の個は特別な個ではなく、ある性質を持つ個と言う事になる。Aと言う個がその性質によって他者に関わる時、A個は、その同じ性質をもつならば、B個に置き換わるのであり、B個がその性質によって他者に関わる事になる。A個がその性質があって他者に関わっていても、<性質>と言う側面では無く、あくまでも<個>と言う事が重要であるなら、関係から生ずるモノa個が、A個の一個性に対して、a個の一個性としてあると言う事なのでしよう。つまり、B個にたいしては、b個と言うことが大事であると言う事なのでしょう。
我が家は4人家族であり、一匹の猫がいる。その猫には<む−>と言う名前がついていて、特に次女になついているのは、彼女の優しくすると言う性質によつてそのむーを大事にするからだ。私にとつては、側にもよらない猫になつているのは、私に次女のような優しく扱うと言う事がないからだが、しかし側にもよらないと言う事であっても、けっして<そばにもよらないモノの一つ>ではなく、あくまでもこの猫と言う事になります。それが個と言う事になる。この猫の性質としてあるにすぎないと言う扱いをする事なのでしょう。

ある人に出会ったとき、初めてであれば、その人の名前を知らない事がある。「アリストテレス」の場合「アリストテレスは固有名である」って言うけれど、「アリストテレス」と言う固有名の指示対象はないわけです。そんなもの何処にいるかわからない。
−−<ある人>の場合、私の目の前にいるのであり、その人と固有名<山田和夫>とが結びつくと言う関係である事を知る事になる。しかし<アリストテレス>という言葉が、固有名であれば、結びつく関係があるはずだか、しかし関係の他端の存在を確認出来なければ、<アリストテレス>と言う言葉は、単なるインクの跡にすぎないかも知れない。<アリストテレス>が固有名であると考えるのは、他端に<特定の人>がいるということなのであり、もしそう考えないなら、それは一般名であり、ある性質を持った一つのモノなのです。あるいは空想の世界の主人公の名前であり、そんな者など現実に存在しないと言う事なのです。<山田和夫>と言う固有名が、指示対象を持つということと、<アリストテレス>と言う固有名が、指示対象を持たない人がいる。私は<アリストテレス>と言う名前で、特定の時代の哲学者を考えかれの言説である者を呼んだりする事で、その言葉を理解するのです。しかし彼は<アリストテレス>と言う名前で、家で飼っている犬の名前を言っているなら、両者の<アリストテレス>と言う名前は、別々の指示対象を示している事になる。両者は、この<アリストテレス>と言う名前で、名指されているモノについて語るのであり、それを名前というなら、名前の違いは、名指される対象の違いと言う事になる。「<対象>と言う存在−−−名指すと言う関係−−−<プラトン>と言う名前」と言う構造はの内、対象のあり方は、固有名詞としての<山田和夫>と言う言葉が名指す対象としてあり、その対象としては、今目の前にいる人と言う事になる。客観的に存在する人がいて、その人と、<山田和夫>と言う文字とが、名前としてむすびつくと言うことになる。その文字に対して、他端としてある客観的なものとしての人とは、全く無関係であるのに、もしあるとしたら両者とも物質と言う共通性だが、<名前>と言う関係が形成されるのです。この名前の関係ができる時、一方は形や音声の特定性による文字や話声として、他方は個としての人と言う事になる。それは私達の頭脳の中で認識として成立しているのです。この時<インクの跡や声帯の振動>であるなら、単に物質的な次元でしか無いが、それが特定の線の形やその組み合わせ、音韻と言う事である事で、はじめて言葉と言う事になるのです。つまり、話し言葉や書き言葉に対して、それを声帯の振動やインクの跡のとして理解する事は、言葉が、物質的なあり方をしていると言う事を示しているにすぎず、絵画や音楽が音や絵の具の跡と理解する事と同じ次元なのです。問題はインクの跡と絵の具の跡の違いを示す事で、インクの跡の特性が明らかになれば、言葉がなんであるのかが明らかになる。そのインクの跡の特性が、形や長さや大きさということであり、例えば書道の毛筆で書かれた形が、毛筆特有性を持っていても、形や長さが同一であれば、<文字>と言う事になるのです。コンピ−タ−の画面の文字の標示は、<フォント>と言う規格を作り出す事ではじめて、画面標示ができるのです。さらに言えば声帯がの振動が、特定の音韻と言う種類で発声される事では、インコや九官鳥でもできるのであり、それだけでは言葉とは言えないのです。九官鳥が<おはよう>と発声したからといって、朝の挨拶をしている事にはならないのです。何故なら、朝起きた時、他者に対して言葉をかけると言う習慣の中で始めて成立するからだ。そう言う習慣の思いがなければ成立しないのであり、例えば外国に行って朝起きて、その国のひとに合ったときに、自分の国で実施している<おはやうございます>と言う挨拶をしようとするが、その国の言葉を知らなければ、口籠るだけになつてしまう。自分自身では挨拶をしようと言う意志があるのだか、当地の言葉をしらないので、意志は体をもぞもぞさせたり、固まったりするだけに無つてしまうのです。この意志のもぞもぞ感は、例えば足が痺れている時に、一生懸命その足を動かそうとする意志なのです。つまり普段だったら足を動かそうとする意志は、現に足が動く事ですんなり終了しているのに、痺れている時には、一生懸命動かそうとする事が終わらないと言う事なのです。<足を動かそうとする意志>と<現に動く>と言う事の間の区別は、前者が後者を媒介するものと言う事であり、直接的には後者の足が動くと言う事であり、私達が足を動かすとは、両者の統一と言う構造になっている。
第ニ部 同一性・変化・時間/横浜編
同一性は対象間の関係では無い。同一性記号「=」は二項関係では無い。二項関係というのは二つの対象の間の関係で、例えば「この本が、この机の上にある」と言う場合、この本とこの机の二つの対象の間の関係だから、二項関係になるのです。しかし同一性は対象間の関係では無い。「先週合った人」と「この人」が同一人物であったら、それは二つの対象ではありえない。「aとbが同じものならば、aについて述べた文とbについて述べた文は論理的に等しい意味になる。」
−−<明けの明星>と<宵の明星>は、その字義どうり、「明け方の最後に一番輝く星」と「夕方の初めに一番輝く星」と言う事であり、時刻の違いが「明け方、夕方」であり、周りの星の中で「一番明るく輝く」と言う事が共通性として示されている。しかし沢山ある星に対してそれらの性質を持つ星があると言う事だけであるが、太陽と地球と他の星との位置関係を明らかにして行った時、始めて、<明けの明星><宵の明星>と呼ばれている星について、金星と言う同一の星である事が分かって来たのです。明星とは単に明るい星と言う事であり、別々の性質をしている為に別々の星であると考えられていたのです。これは観測者のいる地球から見える現象からそのまま判断されたのであり、別々の星と言うことになるのでしょう。観察者のいる地球から見えている星は、固定されたこの地球と、太陽や月や星の位置関係となり、それが移動する天と言う天動説が出て来たのです。<地球と太陽と星>の位置関係でありながら、地球が固定された支点となり、太陽や星がいどするモノとして考えられる事で、天道説が成立する。その観測の内容を、地球と太陽と諸々の星との位置関係と言う、高みの位置から見直した時、つまりこの目で見えている事に対して、さらに想像の位置に昇りそこから位置関係を想定して、見た目でえた現象の観察内容が、解釈されることで、明星が金星と言う一つの星である事が結論されたのです。明け方の空を見上げる時、そこに一番輝く星は、太陽と地球と金星の位置関係が、地球から見られる位置として捉えられていると言う事になるのです。この説明は、観察の内容を、地動説と言う高所の関係にあ私達は相変わらず、明け方や夕方に一番輝く星をみているのだが、それをそのまま別の星と結論せずに、その時刻に金星が太陽の光を反射させて一番輝かせていると結論するのです。この思考を成立たせているのは、<太陽と地球と星>の位置関係、つまり、天動説や地動説と言う位置関係論の上で、現象の観察内容が解釈されているのです。

「同一」とされているものは何か
固有名の指示対象は何かと言う問題を考えます。Nさんと言う人物について考えます。
「Nさんは四年前大学に入学した」と言う文を考えます。そこで「N」と言う固有名が指しているものはなんでしょうか。一つの答えとして「四年前のNさん」が指示対象になる。
−−「N」と言う言葉、固有名の指示する対象は、四年前のNさんになる。Nさんについての時間的変化は、一年前、現代、10年前と言うような区別としてある。これは、ゼノンの運動の逆理における時間の無限分割とおなじ考え方であり、分割された時点時点が、一つ一つの対象と規定されてしまうのである。運動を分割された静止の集まりとする考え方であり、運動と言う言葉は、現に目の前に繰り広げられる車の動きを対象にしていながら、そして<車の動き>と言う言葉で、運動を言い当てようとしているのだがただこの段階では、対象と言う言い当てにすぎず、それを<何であるか>と問う事で、はじめて<運動を静止の集まり>とする一つの考え方が現れたのです。運動は、車が動いている<それ>を対象としていて、その対象を分析していって、初めて<運動がなんであるか><対象の構造がなんであるか>と言うことになるのです。対象を言い当てる事と次にその構造がなんであるかを言い当てる事の区別であり、当然対象を言い当てる時には、その予兆があり、対象の構造と言う時には、その予兆が前面に現れると言うのが予兆のあり方なのでしょう。つまり、コミュニケーションとしての言葉を子供が覚えて行く時、運動、動くと言う言葉が、例えば家から外に出て、歩き回るとか、車が走って行くと言うことをさしながら覚えて行く事で、対象として理解するのです。場所の移動としの物体Aの運動は、場所の違いと時間の経過として分析されるのであり、距離と時間の関係としの物体の運動は、速さとしてしめされるのです。だから<アキレスと亀>の逆理は、速さの全く違うアキレスと亀が、競争しても、アキレスは亀にいつまでも追いつけない理由を、距離と時間の対比で示しているのです。現実にはアキレスが亀に追付き追いこして行くと言う目の前の事を、そしてそれを運動としているのだが、それを距離と時間とで説明すると、アキレスは亀にいつになっても追いつけないと言う理論となるのです。結論がどうであろうと、目の前にある運動と言う対象に対して、<距離と時間>の数学的には変数として理論化するのは、対象としての存在が捉えられた上で、さらにその存在の構造を明らかにしようとしてしている事なのです。「N」と言う言葉の指示対象に対して、それが何であるかを明らかにする事で、「Nさんは、四年前大学に入学した」と言う事が言えるのです。対象としての「N」さんに対して、それがなんであるのかと言う問は、「N」と言う言葉の指示対象が得られた上で、さらになんであるのかと言う事であり、その両者の構造として成立っているのです。だから「四年前のNさんが指示対象になる」と言う言方は、アタカも指示対象だけが成立っていると結論されていて、その指示対象を明らかにしていると言いたいようだが、指示対象である事とそれが何であるかとは論理として区別されなければならないのです。
N=四年前に入学した
と言う事では、対象とその何であるのかと言う事が一体化されてしまつている。

「Nさんは、今年卒業した」と言う文章ではどうでしょう。「N」の指示対象は何か。「今年のNさん」と答えます。ここで、「四年前のN」と「今年のN」は異なる対象です。同一人物と見なされるある統一体を構成する異なる二つの部分と考えられている訳です。「時間断片」と呼ばれたりするやつです。問題となっている時間ごとに対象を切り分けてしまう。その分けたものを、同じものであろうかと、なんだか二つのものを比較しているような気も、してくるのです。
現在の時間断片と言うのは現在にしか存在しない。過去形の語りと言うのは、語られた過去の時点に存在しているものに対する、いわば「存在論てきなコミットメント」を持っているのではないでしょうか。例えば「四年前大学に入学した」と主張する時、そう主張する事の前提に、四年前に確かに存在したのだと言う事が含まれています。
−−今1990年4月1日に大学に入学  (1)
−−今2002年10月27日結婚する  (2)
と言う時の流れに対して、2002年10月27日の今、1990年を記憶として呼び出した認識を言葉に表すと、<今から10年前の、「1990年に大学に入学」した。  (3)>と言う文章になります。(1)も(2)も、各々の時点の今の認識を言葉に表していてるが、さらに(2)の時点で(1)の時点の出来事を考える時、(1)の時点の出来事は、記憶として、つまり認識として成立しているだけであり、(2)の時点の認識と重ねられ、過去と規定されるのです。(2)の時点にあるのは、「2002年10月27日結婚する」と言う出来事であり、その出来事の認識なのです。その出来事と認識の中で、その出来事は次の出来事に形や内容を変えて変化して行くが、その時の認識は記憶として頭の中に貯えられているのであり、(2)の時点では記憶として頭の中にあるのです。A出来事はB出来事に変化したり、立ち消えたりしているのであるが、その時の認識は記憶として、色褪せたり、変形したりしながらも、継続するのです。つまり、(2)の時点の出来事は、現に目の前に繰り広げられているのだが、(2)の時点では(1)の時点の出来事は、あくまでも私の記憶の内容としてしかないのであるのに、あたかも(2)の時点の出来事の存在と(2)の時点から見られた(1)の時点の出来事が同列になってしまうのです。時系列で、神の視点から見おろせば、各出来事は同列になるが、いかんせん人間の目は、各時点の出来事は今と言う時点としてみるのであるが、今より前の出来事は、今の時点からは、記憶の内容としてしか成立していないのです。あるいは記録された文字や映像や遺品として現在に継続していて、それを頼りに出来事の<認識>を形成するのです。

文Sが記述する時点にその文で用いられている固有名の指示対象が、もし存在しなかったらどうなるか。Sは偽なのか、それとも無意味なのか。
 東京タワーは、関東大震災にも持ちこたえた。
この文は偽なのか、無意味なのか。
「東京タワーは関東大震災に持ちこたえた」は、関東大震災の時に東京タワーが存在しなかったと言う理由で、無意味である。そう考える訳です。その考えの前提にあるのは、文が有意味である時、固有名Aの指示対象は、その文を記述する時点において存在しなければならないと言う事です。
−−関東大震災が起き継続し終了すると言う時間の中で、東京タワー倒れずに持ちこたえたと言う事。しかし関東大震災の起きた時期には東京タワーは建立されていないだから、潰れるも潰れないもないのです。その時点には無いのですから。今は関東大震災の時期では無く、平成の時であるから、今の時から、関東大震災の時点を振り返る事で、「・・・・た」と表現したのです。今の時から東京タワー建立の時期を振り返ると、二つの時期は全く重ならないので、その文章が成立しないと言う事です。それに対して「東京タワーは関東大震災に持ちこたえる」と言う文は、タワーの構造力は、関東大震災のエネルギーの大きさにあってもつぶれるような事は無いと表現しているのです。今の時点からみて過去のある時点の出来事である「関東大震災」は、今の時点には存在しないものなのだが、その時の振動エネルギーは、別の地振が起きた時にも生ずるのである。<関東大震災>と言う名前で指示される対象は、ある特定の時代に起きた地振を指すが、地振である限り繰返して生ずるのであり、その地振の振動が作り出すエネルギーは、普遍的なあり方をしていているからこそ、東京タワーが「土地の上に」立てられる限り、振動で構造が影響を受けると言う事なのです。
・・・東京タワーは関東大震災に持ちこたえた。  (3)
・・・東京タワーは関東大震災に持ちこたえている。(4)
・・・東京タワーは関東大震災に持ちこたえる。  (5)
この三つの文章は、(3)は、いわゆる過去について表現していて、(4)は現在についての表現していて、(5)は、普遍的な側面、つまり時間に左右されない、あるいは条件が揃えばいつでも再現すると言う側面を表現している。(3)(4)は個別的な東京タワーと個別的な関東大震災との個別的な関係として成立している。(5)は、個別的な東京タワーに対して個別的な関東大震災であったも、その振動の持つエネルギーと言う側面の普遍的な関係として成立している。(4)の場合には現に今振動していて、その振動の中でタワーが立ち続けていると言う事になる。

同一性と言語変化
ウィトゲンシュタイン
「明けの明星」と「宵の明星」とは、両者の名前の使用に関する規則とみなします。そこで「明けの明星=宵の明星」と言う同一性の主張は、言語規則(両者は相互に置換可能であると言う規則)を表したものである。同一性言明は世界のあり方について何かを語った記述文ではないと言う事です。「夏目漱石と夏目金之助は同一だ」と言うのはその人物については何も語っておらず、「夏目漱石」と言う語と「夏目金之助」と言う語について述べた文法的注釈に他なりません。明け方の明るい星を「AAA」、夕方の明るい星を「BBB」と呼ぶことにする。それらの二つ命名された星が、別々の星では無く、実は同じ星である事が分かる。そこで、「AAAとBBBは同じ星だったんだ」と言う。この文は「AAAとAAAハ同じ星だったんだ」と言うとんまな発言とは違う意味を持っているということから、名前の意味は単にその指示対象だけで尽くさるのでは無いと、フレーゲは考えたのです。
「AAA」と言う名前で、ある星の事を意味し、その星の事をあれこれ言う時、例えば「AAAは惑星である」「AAAは明け方輝く」と主張する時、それと同じ星を指示対象として持つ「BBB」と言う名前でそれを書き換えても、その意味は変わらないと言っていい。
−−別々の星であると考えられたから、AAA、BBBと言う別々の名前が立てられているのだが、それが、別々の星では無く、一つの星であると分かり、その一つの星の現れ方が違うので、AAAとBBBと言う別々の表現になったのです。金星と言う一つの星が、地球と太陽の位置関係による朝と夕方の位置にあらわれる時、宵の明星と明けの明星と言う名前で呼ばれる様になったのです。金星と言う名称は、太陽系の中の星の位置が、客観的な位置から見おろされたものとしてあるだけであるが、その位置関係を地球から見上げて確認する時、明け方の空と夕方の空となり、その各空にある金星を、二つの言葉として表現したのです。
「AAA〜BBB」と言う非同一性の言明から「AAA=BBB」と言う同一性への推移、これが認識の変化を示している。非同一性から同一性への推移は何を意味しているのか。それはすなわち言語の変化です。
存在論(何が対象として存在するのかについての了解)と言語変化
例えば、幽霊は現実に存在する対象では無いとされるならば、それは幽霊を含めないような一つの存在論をとっていると言う事です。<幽霊は存在しない>と考える人と<幽霊は存在する>と考える人では、存在についての考え方が違うと言う事。
−−幽霊は存在しないが、リンゴは存在する。
−−幽霊は存在するし、リンゴも存在する

サンタクロースが存在しない存在論のもとでは「サンタクロースがプレゼントをくれた」という文の無意味になります。言葉の意味が違ってくる。例えば私が「マウはついに7キロになってね」なんていっても<「マウ」って何だ>と言われるのがおちである。
−−<「マウ」って何>と反問する事で、コミュニケーションが始まるのであり、そこで相手が<マウとは、家で飼っている猫ダよ>と答え、そこで私が<猫って何>ト言ったとすれば、基本的な了解事項を持とうとする事が始まるのである。私が猫と言う言葉を知っていれば、<彼の飼っているマウと言う名前の猫は、体重が7キロになったのだな>と了解するのです。例えば、道で外国人に出会った時彼が発声する音声に対して<?>となれば、言葉としての了解が全く成立しなければ、それは無意味だとか間違っていると言った事も関係なのです。とすると<東京タワーは関東大震災に持ちこたえた>と言う文は、正に文として、日本語として理解出来るのであり、アラビア語では無いとハっきり分かるのです。それが<東関東震京災こたタにワ持ちーはた>と言う文字があっても、日本語の<いろは>のようだと考えても、言葉としては成立していないのであり、それを言葉として理解したあと「東京タワーの建立時期」と「関東大震災の時期」を照らし合わせる事で、時期のずれから、両者は同時期はないと言う事になり、その文章は成立たないと結論するのです。

意味論:その固有名が何を指示対象として持つかと言う事
構文論:その固有名を用いてどのような有意味な文が作れるかと言うことです
<そして><しかし><だから><ではない><すべて>のような語は、それらの意味は指示対象と独立に定まっている。指示対象のある語がいくら変化しようとも、それによって「しかし」と言う語の意味が変わる訳では無いのです。語が変化しても「論理」も変わらずに受け継がれると言う事です。
大雑把に言えば、固有名の指示対象が変化しても、接続詞や否定詞なんかはそれらとも無関係に意味を同一に保ち続けると言う事です。
同一性は、何処かの「今」に立ち止まり、そこから過去を振り返ると時に構成されて来るものです。同一性は歴史を作る時にあらわれる。そして歴史は変化の軌跡にすぎないのです。変化そのものと同一性し同居出来ないのです。変化がへんかのままにあらわれる時、同一性は姿を消すしかありません。逆に、同一性が姿を表す時、変化は軌跡として固定されざるを得ない。