<川島言語論について>
言語論に一定の方向性が無い理由:
本来ならば理論言語学の基礎として位置づけられているべき「言語学の対象と
は何か? またその本質はどういうものか?」という問題を正面から取り上げ
て、これを究明する理論、すなわち言語本質論がなおざりにされているところ
にあるのではないか、と考えています。
言語学の概説書を数冊手にしてみれば誰でも気づくことです。そこで皆さんは
言語学の対象としての「言語」の定義は決して統一されておらず、なかには最初
から対象の定義を放棄してしまっている概説書が存在することすら発見される
ことでしょう。そうです、実は言語学の世界では、いまだにその対象の規定が
一般的に確立されておらず、その対象が具体的にどういうものであるかを取り
扱う言語本質論が盛んに論じられてはいない状況なのです。
言語過程説の理論の生まれた地平:
この言語本質論を本格的に論じている数少ない例外のひとつであるということ
言語論の研究する対象については、経験的な対象観があり、それを目の前に立てて、それを研究しているのです。その極めて多様な使われ方をしている「言語」なるものが「対象」になっている。
その時々の表現において、抽象的な言語行為・言語行為一般をいみしている。
日本語や英語などの個々の固有語、構造言語学におけるlangue、など
構造言語学の言語論(F・ド・ソシュール)が、はじめて本質論を立てたと言えるのです。
複雑で混質的な「言語活動(langage)」の中から、ラングとパロールを区別して
取り上げ、ラングこそ言語学の対象であると規定した。
ラング・・言語能力の社会的所産であり、同時にこの能力の行使を個人に許すべく社会団
体の採用した必要な制約の総体である。(ソシュール『一般言語学講義』)
言語の本質論は、私達の24時間の生活の中にある言語と言う、書いたり読んだり話したり聞いたりしているインクの跡や音声に対してなされる探究である。話された言葉は一つの結果を生み、誤解されたり反間されたりするのです。つまり、言葉はその内容が相手に伝達され、相手に了解されたり伝わらなかったりする事で、一つの完結を生み出すのです。それらの言葉に対して、そしてその言葉の真只中で、自分達の言葉の構造を考えるのです。その探究は、過程も結果も言葉として記されるのであり、それが例え日常の挨拶の言葉のようで無くとも、言葉のひとつであることで、24時間の生活の中の一つとして行為されている事なのであり、ただ挨拶の言葉が誰でもかわされる言葉であるなら、その探究の言葉は、人数が少ないと言う事なのでしょう。コンピューターの取り扱い説明書の言葉が、コンピューターを使用する人の言葉であるなり、六法全書の言葉が、法律に携わるひとの言葉であっても、その各々の言葉が、日常に生きる人の生活に関わる時、人々はその言葉を自分のモノにしなければならないのであり、言葉を自分のモノにしなければ、コンピュータを自由に使えないと言う事なのです。言語の本質論で対象にする言葉は、それらの言葉全てであり、そこで成立している構造の探究と言う事になる。その構造として「ラングとパロール」と言う区別をとりあげるのです。ラングは、意味と聴覚映像との合一である記号の体系である。
構造言語学における言語研究の対象は、主に前者のラングであると規定されたのです。
つまり、頭の中の観念的な記号の体系という静的な対象が言語学の対象として規定さ
れ、現実の発話行為すなわち現実の言語表現行為という動的な対象は研究の対象から
除外されてしまったのです。
三浦、時枝の言語過程説は、ソシュールノ言う<langage>と言う言語活動を対象として、その過程的構造を解きあかすのです。その言語活動を<ラングとパロール>とに区別するのでは無くてあくまでも過程的構造を明らかにすると言う事です。
その過程的とは、<対象>−−<認識>−−<表現>と言うことであり、言語活動と言う人間の実践的な活動の一つを対象にしながら、その<過程的>と言う構造を解明しようとしている。構造言語学も同じ対象を目指しているが、<別の>構造解明をしている事になる。その解明の仕方の違いは、人間の実践的活動に対する理解の違い、つまり人間論の違いから生じたと言う事なのです。
言語過程説は、ソシュールのいうラングを研究の対象から除外してしまったわけでは
ありません。言語過程説は、ラングとパロールを敵対的に切り離してとらえるのでは
なく、両者を言語表現論の中に統一してとらえるべきことを主張するのです
現実の言語活動を対象とした、そこにある構造の探究から得られた言語活動の知は、私達の言語活動に際して「話し方が上手くなる、言葉を言わなくともテレパシーを使える様になる等」に寄与すると言う訳では無い。それらの知は、その他の自然についての知や社会に対する知の寄与と同じであり、人間の活動が機械の動きでは無く、さらに動物の本能的な動きとも違った目的的な活動としてある事で、その<目的性>に関わリながら成立していると言う事なのです。10階建のマンションの屋上から飛び下り自殺をする人の気持ちの中にもう生きては行けないと言う絶望があったとしても、彼がそこから飛び下りたのは、自然の法則としての落下の法則があり、その法則をしっているからこそ、飛び下り自殺ができるのであり、彼が無重力の世界にいれば、飛び下りると言う事が成立しないのです。つまり、かれは自然法則の一つの落下の法則をしっていて、それを自分に適用したのです。落下の法則を<知っていなくとも>彼の身体は法則にしたがうので、足を踏み外して落ちてしまう事があるが、その<知っていない>と言う事は、リンゴも熟すへたが取れて落下するのであり、人間はあるいは動物は、その落下に逆らう様に足をふっんばったり、羽を動かしたりするのです。その身体的知とニュートンの万有引力の法則と言う知の連関こそが人間の知の構造と言う事なのでしょう。身体知は、身体を介した対象たるモノの知であり、ニュートンの万有引力の法則にある落下運動の主体は、剛体と言うレベルのモノであり、だから身体もその中の一つとしてある法則なのです。ニュートンの万有引力が分かった事から、マンションの屋上から飛び下りる事がなくなるとか、無重力になるとか言う事では無い。
言語過程説における<言語>は、<対象>→<認識>→<表現>という観念的かつ物理的な
過程的構造をへて現実的に表現されたところの物質的な音声や文字のことです。
ソシュールのいうラングは、言語表現行為における<認識>の過程に関与する認識の
特殊な形態のひとつにすぎません。
現実の言語活動は、過程説における<表現>にあたるが、その<表現>は、表現活動の主体が自己の回りにある諸物や他者に関わる事で成立して来るそれらに対する認識を介して成立するのであり、言語は多様な表現形態の一つなのです。多様な表現の一つと言う次元は、表現論としての一般論であり、それを前提にして絵画、音楽、言葉等が、それぞれ特性として明らかにされる事で、言語論や絵画論が成立するのです。
言語本質論における時枝誠記と三浦つとむの相違
<言語>を表現としてとらえ、言語表現の背後に表現主体による観念的な過程的構造を想定する点で本質的に同じ立場をとりますが、両者の<言語>の本質に関する説明は、異っています。
共通性として、或いは本質としては、<表現>の背後に、表現主体による観念的な、認識的な過程が想定されていていること。その背後と言う事を<対象−認識−表現>と図式するのです。背後と言う事で、例えば家の背後の様に、今見えている正面にたいして、見えていないモノとして、見えているモノの向うにあると考えるのです。現に今見えているモノがあるが、その見えているモノに隠されているモノは見えていないと言う事です。言葉の場合、その見えているモノとは、音声としての音であり、書き文字としてのインクの跡であり、それらの音や文字に対して<背後>に観念的なモノがあると言う事なのです。家の場合であったら家の背後に廻ってそこを目で見る事ができるのであり、背後にあるモノをその目で知る事ができる。しかし言葉の場合耳や目が悪く無ければ見えると言うモノでは無く、耳で聞き目で見たものを介して、観念を得ていると言う事になる。オウムでも九官鳥でも見たり聞いたりしているが、しかし言葉として理解しないのは、<その背後を知り得ないからだ>と言う事なのだが、この言方はあくまでも比喩としてであり、言葉に即して理解しなければならないのです。何故なら<背後>と言う言葉で、今正面のモノを見ていても、<その見ているもの>では無いものと言う方向になってしまうのです。しかしその見えている聞こえているインクの跡や音声のと関係ない別のモノとしての観念などではなくて、その見えているものや聞こえている音声は例えば、インクの跡、線と巾との大きさや長さによる種類として成立する事でそのしゅるいの組合わせが観念と対応する時、はじめて文字や音声がことばとして、頭脳の中の観念を表すと言う事になったのです。つまりインクの跡や音声の背後は観念なのだが、しかしインクの跡が文字として音声が音韻として成立する事でその種類の成立が観念と表現と言う関係として成立したのです。音声が音韻として成立して来た事に対して、九官鳥でも発音出来るのだが、ただ彼等にその背後に観念が成立しているかどうかと言う事である。その<観念の成立>は、頭脳の中に実体としてあると言うようなものでは無いのです。目の前の対象に対して成立する認識が、文字や音韻として表されるた時、さらにその表された言葉を対象を指示する事として理解する事で、対象から得られる認識は、言葉の指示を介して関わる対象を、認識そのものの現実形態として扱うのです。認識は対象から得られた頭脳の中の出来事であるのだが、その認識が言葉の指示関係を介して対象にラベルの様に関わると、認識の対象であったそれは、単に普遍的な側面、種類と言う側面があると言う事ではなく、種類と言う事の現実形態となるのです。対象たるそれは、まさに種類そのものとなるのです。つまり、単に他のモノと共通する側面としての種類と言う面ががあるというのではなく、それ自体が個別的な種類そのものであると言う事なのです。これは種類と言う側面の認識である概念が、普遍的な面を示していると言う事であると同時に、正にいま指示関係をなしているそれが、概念そのものの現実形態であると言う事であり、<普遍的な概念が、個別的なものとなる>と言うことの正体なのです。
三浦理論と時枝理論の相違点
三浦は、時枝が<言語>の過程的構造を取り上げたことを評価しつつも、過程的構造
そのものが<言語>なのではなく、過程的構造が反映されたところの物質的な音声や
文字が<言語>であり、過程的構造と、物質的な音声や文字とを過程と結果の関係と
してとらえるべきことを、すなわち両者を統一してとらえるべきことを主張しました。
別のことばでいえば、三浦は、<言語>を過程的構造が関係づけられた実体としてと
らえ、この実体と関係とを統一してとらえるべきことを主張しているのです。この点
で、三浦の見解は、ソシュール的な素朴な言語実体論とは区別されるものです。
時枝は、ソシュール理論のように、頭の中の観念的な記号のような何らかの実体的な
ものに<言語>の本質を見ることを否定して、表現主体による観念的な認識過程、す
なわち<言語>における《継起的過程現象》、すなわち《一の心的過程》を<言語>
の本質としてとらえていました。
過程的構造とは、「<対象>−<認識>−<表現>」と言う事であり、言葉=表現であると言う事は、それに「対象−認識−>」と言う過程が含まれていると言う事です。言語=表現であると言う時、すでに<認識の表現>であると言う事です。言葉はインクの跡や声帯の振動で発生する音であるのだが、それを言葉=表現とする事は、青空に表れている飛行機の飛行の軌跡としての飛行機雲が水蒸気であるなら、書き文字はインクと言う物質であるのだが、そのインクの跡が、頭脳の中の認識を表していると言う事なのです。飛行機雲は、飛行機の排気が空気中で起こす水蒸気の粒だけであるのに対して、インクの跡は<認識の表れ>と言う事なのです。この時、「表れ」と言う言葉を使ったことに際して、認識が頭の中から抜け出して頭の外のインクの跡になったと考えたとしても、単なるインクの跡が飛行機雲と違う事を示そうとしているのであり、飛行機雲が単に水蒸気であるのと違って、文字としてのインクの跡は、認識が自分の場所である頭脳の中のあり方から、頭脳の外にでてインクのあり方に変化したのであるから、文字としてのインクの跡に意味や内容があると言う経験が成立するのだと言いたいのです。
つまり、私達の経験からすれば、日常の言語経験は、話し言葉や書き言葉が音声であり、インクの跡であると言う事と、それらが伝達の意味を持っていると言う事を示しているのです。その経験を論理として示そうとしているのが、上の言語論と言う事なのです。あやしい言い方であるが、しかし少しばかりの真実があり、それを救い出さねばならないのです。
表現とは、インクの跡や声帯の振動による音声が、認識と特定の関係を形成している事であり、それを認識が自ら変化してインクの跡になったとかインクの跡とコインの裏表の様に一体になっているとかと言った理解は、その特定の関係のその特定性を示そうとしているのです。ここでわりと理解しやすいのは、認識がインクの跡と表裏一体のようになっていると言う事であり、認識が姿を変えてインクの跡になったと言う事では無いのでしょう。
コインの裏表と言うイメージとメビウスの環と言うイメージとの違いであり、メビウスの環の場合裏表は無いのです。つまり裏表と言う比喩は、裏と表と言う様にはっきり区別ができるが、しかし表と裏とに別々に分離出来ない統一体と言う事を表現しようとしている。認識の対象としては区別出来るが、存在としては一体化されていて分離出来ないモノであルと言う事なのです。コインと言う存在を使って言葉のあり方を説明しようとする事は、論理構造を借用して言葉にしていると言う事です。言葉の構造を理解するのに<コインのあり方を介した論理構造>と言う事で、コインを思い浮かべる時、<区別されているが、しかし統一体としてある>事をすばやく理解すると言う事なのでしょう。
<対象−認識−表現>と言う過程的構造おいて、各項目同士の関係を考える。認識は人間の頭脳で成立して、その頭脳の内部に成立が、外部のものとどのように繋がるのかを考えるのです。外部のモノについて考えていると言う事に対して、頭脳に中に成立している認識が外部のモノを言い当ててルと言う事の構造を説明するのに、外部のモノが姿を変えて頭脳の中に入ル事で成立すると言う論理をつくるのです。さらに認識が表現されて書き言葉になったり話し言葉になったりすることにたいしても、認識が自ら変化してインクの跡や音声に重なる事で、言葉となると言う考え方になるのです。つまり、過程的構造に対して、各項目は前項目が自ら変化してなったものであると言うすべて同一の実体であると言う事になってしまうのです。ヘーゲルの論理はその実体が絶対精神であり、絶対精神が諸物に自ら変化している。諸物についての人間の認識は、諸物の本質である絶対精神をとらえることであり、それはとりもなおさず諸物として外化している絶対精神をとらえることなのです。そして私達の頭脳の中にある認識を言葉として表現すると言う事は、それが私達の頭脳の中にあるということであっても、私の頭の中、彼の頭の中、彼等の頭の中と言う様に別々にみなの頭の中にあっても、その多数に関わらず本質は絶対精神であり、だれの認識もみな絶対精神であり、その認識を干揚言して言葉にしても、その言葉は絶対精神が頭の中から出て来て、言葉になったと言う事なのです。ヘーゲルこそがその絶対精神を認識しているのであり、さらにその絶対精神を「論理学」と言う書物に表す事で、絶対精神を読み得るモノとしたのです。これらが<実体>と言う言葉を使う時の正体です。対象も認識も表現も各々みな違うものであるのに、その本質は絶対精神と言う実体であるのです。ヘーゲルの思考にとって過程説は、絶対精神と言う実体であり、区別など成立していないのです。
それに対して、過程説の各項目の関係に対して、実体では無い思考とは、例えば<対象と認識>の場合<原形と像>と言う関係である。対象の本質であるものが、そのまま認識の中に入って来る事で、認識の内容がたんなる妄想では無く対象を言い当てていると言う事に対して、対象の本質は私達の認識の内容を形成する実体であるが、実体が認識の中に入って来て内容になるのではないと言う事です。前者も後者も、対象の本質を「実体」と規定するのは、対象になっているモノの現象的な面を切り落として、跡に残ったモノであるからこそで、それを実体と規定するのです。その実体が前者では、対象の所にあり、それが対象を認識する事で、対象から離れて認識の中に入って来るのです。それに対して後者では、対象にある実体は、認識の内容を形成するだけであり、その形成を媒介するのが、身体活動と言う事になる。
例えば、私の目の前にあるモノを知覚している時−−この言い方は、目が<そのもの>の方向に向けられていると言う客観的ないいかたである−−私の頭の中の判断は、机の上の白い皿に赤いリンゴが一個ある、として成立しているのです。この判断を、何処か高みから見おろすと、<机の上の白い皿に赤いリンゴが一個ある>と言う判断は、モノに対置している者の頭の中にあると言う事になります。しかし、実際は高みから見ても頭の中身が見える訳では無く、脳波計もオシロスコープの波形でしか無いのです。しかしそれをみている私自身から言えば、目の前のそこに<白い皿の上に赤いリンゴが一個ある>と言うことであり、高みからすれば、「白も赤も」頭の中にしか無いはずなのに、私はの目の前のそこに<ある>とするのです。この私の知覚経験からすれば、そこにある<赤や白>が、そのまま目を通り道にして私の頭の中に入って来ていると言う事になり、<赤い色や白い色がある>という判断になると言う事なのです。つまり、ヘーゲルの絶対精神の様に、色はそこら中を駆け巡り、頭の中にまで入って来ると言う事です。客観的に言えば、目の前のそこにあるモノが−−そこから反射して来る特定の波長の光であり、その波長の違いがある−−私達の視覚を通して頭脳で受領されるとき、その頭脳の成立を色と言うのであり、目の前のモノから反射して来る特定の波長の光りは、色と言う判断を形成する実体としてあると言う事なのです。モノによる特定の光反射が色なのでは無く、頭脳の中の認識として成立しているモノを色というのであり、その光は、認識の内容たる赤とか白とか言う色を、形成する実体であると言う事でする。
赤とか緑とか言う色は、私達の視知覚認識の内容であり、頭脳の中の出来事であるが、その認識内容を形成する実体として、対象から反射して来る特定の波長の光があると言う事なのです。そこにある関係の構造を無視して、実体のみで考えると、特定の波長の光=赤い色 と言う事になってしまうのです。認識内容として<赤い色がそこにある>と言う事を、そのまま存在にしてしまうと認識から離れて外部に<赤い色>があると言う事になってしまうのてです。先ほどまでは現にモノを目の前にしながら、白い皿の上に赤いリンゴがあると判断していて、今は別の方向の見えているモノがあると判断している。つまり、両方とも見られるモノは違っていても、私の認識が成立していると言う事であり、だから「目の前のそこに白い皿と赤いリンゴがある」と言う言葉は、第一は私の頭の中で成立っている認識を言葉にしているのであり、その認識にある内容があると言う事なのです。リンゴと言う言葉で指示されている物はその表現の材質が特定の波長の光を反射させるのであり、その反射して来た光が、私の目から入り感受され、頭脳で処理される時、リンゴは、<赤い色>をしていると言うことになる。リンゴで反射する光りは、リンゴの材質としての表面を「赤い色」と言う様に認識させる。目を瞑ると言う事は、反射して来た光を目の中に入れないと言う事でありるが、この時、目に入るまでの反射して来ている光は、<何色であろうか>と言う問は、それが目に入り頭脳で処理されれば、<赤い色>と認識されるが、入る以前のひかりに対しては、<認識>が成立していないと言う事であり、だから何色であるかと言う事は、現に視知覚していると言う経験を前提にして、つまり<赤い色のリンゴがある>と言う事を前提にして、こちら側私達の経験を前提にして、そちら側のリンゴだけに、経験を当てはめようとしている事なのです。あちら側とこちら側の両方の関係で成立っているモノを、その関係の一方のあちら側だけで、考えようとしているのです。関係と言う事ばて示せば、<あちら側−こちら側>と言う様になり、その両者の間で成立っていると考えられるが、現に知覚している時には、<あちら側は、赤いリンゴがある>と言う事ですむが、こちら側は、現に知覚している事以外ないのである。<こちら側>と言う様に対象化出来るのは、反省の段階からなのだが、しかし反省の段階であっても、<あちら側>を見ている事が無くなる訳では無く、反省の真只中でも<あちら側を見ている>事は継続しているのです。ふと考え事をしていて、手許がおろそかになったり、目が泳いだりと言う事があるのは確かなのです。視知覚内容は、<赤いリンゴがある>と言う視知覚は、反省の内容になって、言葉に表されるが、言葉が表現されている間も、目を開けている限り、或いは視線を他所に移さないかぎり、継続しているのであり、その継続している視知覚について言葉にしていると言う事になる。視知覚の継続を対象にして、それを認識して、言葉に表しているのです。<あちら側−こちら側>と言う区分は、反省の段階で成立する概念を言葉として表現したモノであり、継続の中では、<あちら側>に視線が向けられている為に、<赤いリンゴ>と言う事しか意識されていない。認識とは、<あちら側>に対するこちら側の働きかけである為に、<こちら側>にとって認識している事が、自らのありかたであり、その自らのあり方を反省する事で、<あちら側の知覚、つまり赤いリンゴがある>と言う段階が、はじめて<あちら側−こちら側>と言う構造として自覚されるのです。
現に右手に赤いリンゴを持ちながら、この何がいま問われているのかと、手に持ったリンゴを眺め回しながら考える。リンゴははっきりと赤いのであり、赤はリンゴの所に確かにあり、この赤の何処が問題になるのかと考えながら、見つめているのです。視覚能力がある限り、モノを見ているのだが、ただ考え事をすると視線が固定しない状態にあり、目は開いていても、見ずと言う事になるのです。
過程的構造の内、言語=表現と言う事に対して、認識が自ら姿を変えてインクの跡や音声になるのでは無い限り、認識と特定の形のインクの跡とが関係を形成する事が必要である。問題は認識と文字との関係と言っても、認識を取り出して、この認識とこの文字形態とを関係付けると言う訳には行かないのです。例えば、<赤、青、黄色等>と言う表象が頭の中に成立している事に対して、それと同じ様に<概念>が、対象の種類と言う側面の認識が、頭の中に成立していると考える事は、少しばかりの踏み外しなのでしょう。<認識−文字の形>と言う規定は、あたかも<認識>と<文字の形>と言う二つの項目を右手と左手に持ち、それを重ね合わせると言った事ではないのです。もし認識に対して、取り出し可能なら、直接取り出した認識を人の前に提出すればいいのであり、いちいち文字にする必要など無いのです。対象の種類と言う側面を知覚する事で概念と言う認識が成立する。その概念に関係付けられた文字を、再度対象を指示する関係においた時、対象から得られた概念と言う認識は、対象自体が、その種類と言う側面の現実形態となる事なのです。
論理としては、対象に私達が認識として関わる時、対象の種類と言う側面に関わる認識を概念と規定しても、色や形等感性的に知覚されるモノの表象の様に存在しているのでは無いのでしょう。頭脳の細胞に障害が起きれば思考も行動も不可になるのだから、脳細胞の働きによって言葉も行動も支えられていると言う事を前提にすれば、概念という認識も頭脳の中に成立していると考えてしまうのでしょう。認識と言うレベルを論理的に考える事と脳細胞の働きによるこの身体活動を媒介にしていると言うことで認識を考える事は、前者が論理の問題であるなら、後者は存在の問題と言う事になる。つまり、<対象の種類と言う側面>と言う事で、それの認識として成立する概念と言う考え方は、個別的にあるものとしての対象を、対象の持つ種類と言う側面を介して私達の身体的活動によって働きかけると言う事を論理として示している事なのです。認識としては、対象の個別的な面は捨象され他の個別との共通項である種類と言う面のみが取り上げられると言う事なのだが、身体活動の働きかけられる対象は、その対象そのものが、種類の具体的な姿であると言う事なのです。そこには捨象される何ものも無いのでする。一個の対象全体が、身体活動を媒介するのです。これを認識として規定し直すと、対象は、個別的な面を捨象して共通としての種類と言う面が認識されると言う事では無く、種類と言う面が、そのまま対象の個別的なあり方として表れていると理解するのです。種類と言う側面についての認識である概念は、対象を扱う身体活動が。例えば食物として扱うのは、たまたま一個あるものに対してだけで無く、その一個の特定の材質が人間の身体のエネルギーとなるのであり、認識的には材質と言う側面が、他の個体との共通性としてあるということなのです。私達がそれを採取して食べると言う事は、対象を種類として扱う事であり、認識的には対象を概念として認識していると言う事なのです。人間は採取された食べ物としてのリンゴに対して、その材質を目当てにしているのたであり、その材質だけを化学的に製造する事ができる様になったのです。つまり、認識における概念は、人間の活動の種類的な側面の頭脳へ像としてあると言う事であり、言葉は、その概念の特殊な表現形態であると言う事になります。
<リンゴ>と言う言葉は、ある物体を指示する言葉であるが、そのある物体の種類と言う側面は実践的には、例えば食べるものと言う側面を言うのであり、その物体自体を<リンゴ>と言う文字に対応づけ、その<リンゴ>と言う文字を<あるもの>の指示として成立させると、色や形をしているあるものは、リンゴと言う言葉の対象であると共に、<たべるもの>と言う概念の現実形態として示されルのです。<リンゴ>と言う言葉は、ある形と大きさをしたモノであり、見た目の形をなしているのであるが、同時にそのものが食べ物としてあると言う事で、種類の側面を表しているのです。このニ方向こそが、<リンゴ>と言う言葉の指示する対象が持つ性質であり、<概念>を表しているノです。<あるもの−リンゴと言う言葉>とを関係付ける事で、日本語の<リンゴ>と言う言葉の指示関係を覚える事であるが、英語であれば<あるもの−Apple>と言う指示関係であるが、同時に<あるもの>は、食べるものと言う側面であると言う認識が成立しているのです。この側面の認識が成立する事で始めて、<リンゴ>と言う文字を、言葉と言う様になるのです。
<リンゴ>と言う言葉に対して、目の前のソレを対象とした、その種類と言う側面の認識を表していると言う規定は、その言葉を口にした時に頭の中に浮かぶ表象の出所である、現実の体験の中のリンゴと呼ばれているものとの指示関係抜きには成立しない。種類と言う側面の認識である概念と文字との規範関係は、その文字と対象との指示関係を介して、種類と言う側面でしか無い概念が、一般性或いは、他者との共通性だけの概念が、個別的なものとして表れる。言葉として概念が表現される時、それが対象を指示する事で、概念は普遍性と同時に個別性として表れる。対象は認識の概念が成立する種類と言う側面を持つものとしてあり、その側面を認識する事で<概念>が成立する。しかし<概念>の獲得は、対象を普遍としてしか理解しないのであり、対象が個別であると言う事の理解は出来ないのです。それが言葉によって表現される事で、言葉の指示関係で対象に関わり、普遍性が同時に個別性であると言う事になる。普遍性が自ら姿を変えて個別になるのでは無い。普遍はいつまでも普遍なのだが、言葉と言う表現形態と対象との指示関係を介する事で、指示される対象の個別性が、普遍の個別性となるのです。
<赤いリンゴが、机の上にある>と言う言葉は、私の目の前のある事実を対象として支持しているのであるが、<明日の天気は、晴れるだろう>と言う言葉は、現に私の前にある空の状態から、明日の空の状態を考えているのであり、いまの空の状態が対象となっているのでは無く、明日の空の状態が対象になっているのです。ただその明日の空は、現に見ている空の状態の様にあるのでは無く、私達の頭脳の中に表象としてあるのです。その表象としてあるものを対象にして、認識して言葉に表現しているのです。明日の空の状態についての表象が頭の中に成立していて、その頭の中の表象が対象になっている。つまり、現に目の前のモノを対象にしている段階から、頭の中での表象の段階に入ると、その表象についての概念を言葉に表現出来る様になるのです。目の前の物体を対象にして<リンゴ>と言う言葉を指示として使う事で成立している所から、頭の中の表象を対象にする段階になるのは、<同じ表象を持つ>と言う了解が無ければならないのである。それは現に目の前にしている晴れた空の体験を共有する事であり、その共通する体験が、頭の中に作り出している<晴れているときの青空>と言う表象は、各自の頭の中に成立しているだけであるが、言葉に表す事で、言語と言う客観性を介して共有性が成立し、頭の中の表象をも皆同一の表象を持つと理解される様になるのです。つまり、頭の中の表象だけなら、同じであるとか、別々であるのかと言う事は成立していないのであり、ただ私が表象していると言う事だけなのです。それが言葉として表現される事で、言葉の指示関係を介して、言葉として表された表象と言う構造となり、客観性を得るのです。表象は、頭に中の存在であり、私が表象するのであり、彼が表象し、彼女が表象すると言う様にそれぞれ皆が表象するだけであり、私にとって見れば、彼等が表象しているのかどうかと言う事さえ問われる事は無いのです。それがこのような表象という言葉として表される事で、客観性を得るのです。頭の頭蓋骨を開いて脳細胞を見たから、表象が見えると言うような客観性では無く、言語の指示関係と言う客観性であり、私が言葉を覚えるのは頭の中に成立しているモノと<表象>と言う言葉を指示関係として理解する事でなのです。頭の中の<それ>と<表象>と言う言葉の理解であり、九官鳥もその言葉の音を発声出来ると言うレベルの言葉であるが、ただ人間がそれらを言葉と言うのは、その音たる発声に、指示関係と言う関係認識が成立しているからなのです。ではその指示関係はどのようにして成立するのかと言えば、言葉と対象を関連づけると言う偶然性は、例えば<なごり雪>と言うフォークソングを聞くたびにある時代と場所が思い出されるのであり、その関連は、その歌の時代の中で生きていた私の記憶の同時成立によつて成立したモノが歌を聞くたびに思い出されると言う事なのです。例えば音楽の世界にある<絶対音感>と言う現象は自然の作り出す音に対して、特にピアノの純音の記憶と、一音一音の<ど、れ、み、ふぁ、そ、ら、し、ど>と言う名称のとを同時に覚え、例えばトラックのエンジン音の高さを聴く事で、その聴いた音の高さに<ミ>とか<ド>と言う音名が同時に思い浮かぶと言う事なのです。つまり、トラックのエンジン音であろうと、ピアノの音、鶯の鳴き声であろうと、空気の振動として成立しているのにすぎないが、ピアノの様に音相互のに音程を規定すると、規則的な周波数の音のつらなりとなり、その一音一音に言葉を対応させる事で、音と言葉を関連を記憶して行くのです。その記憶にへの中では、ピアノと言う特定の質の音であっても、音は一定の周波数の高さとして知覚されるのであり、それが他の音を聴いた時に聞こえている音は、周波数として理解される事で始めて、その周波数に対応した言葉としての<ド、レ、ミ・・>が言葉として出て来るのです。つまり、絶対音感の記憶とは、永年の友人の声が、久しぶりにあって聴いてもすぐ彼の声であると理解出来るレベル声の様にその質も含めているのに対して−−例えばテープレコーダーに録音されている友人の声を聞こうとして機械を動かしたが、レ−コーダ−の回転が少しばかり速くなっていて、聞こえる声のピッチが高くなっていて、友人の声とは違う高く速い言い方を聞いてしまう時に表れる様に、普段の声に一定の高さの周波数を聞いているからこそ、回転がおかしくなったのを聞こえて来る声の周波数で判断出来るのです。−−音に含まれる周波数に対して記憶が形成されるのであり、その周波数の特性が示されるのが、ピアノの音なのです。ピアノの音により、周波数の特性が聞きとられると、周波数の一定しない、自然音に対して、持続している音があれば、その音の周波数から、対応する<ドレミ>と言う言葉を対応するのです。<ミの音から半音下がったレのシャープ>と言う言い方になるのです。
ピアノは、そのピアノと言う機能からくる一定の質の音を発生させるのだが、しかし私達にとってその音は、一定の周波数と言うレベルからこそ知覚され理解されるのです。この周波数と言う観点から音に対して<ド・レ・ミ・ファ>と言う言葉を関連づける事で、始めて絶対音感と言う働きが成立するのです。絶対音感の無い私にとっては、ピアノの一音一音の間の間隔の相対音感を捕らえる事ができると言う事なのです。つまり、引き初めの最初の音の高さが何であるか分からないが七つの音の連なりを<ド(1度)レ(1度)ミ(半度)ファ(1度)ソ(1度)ラ(1度)シ(半度)ド>と言う長調音程をつける事ができるだけなのです。そして普通このような音程の取り方を<相対的音感>と呼ぶのです。純然たる自然の音は、多数の周波数の集まりとしてなっているが、人間は音楽の領域で一つの周波数を作り出す楽器を考案したのであり、ピアノと言う楽器こそ単一の周波数を作り出す事ができる様になったのです。
ピアノと言う音を作り出すのに便利な楽器が発生させた音を聞く事で、その音質を含む音程、高さのいったいである現実の音を聞いて、その周波数の高さを、<ドレミ>の言葉と関連させ、同時に記憶して行くのです。単に音の記憶であるなら、昔からの友人の声は記憶に残ってい、何時聞いても彼の声であると分かるのは、音質、音程による知覚が成立しているからです。しかし絶対音感の場合には、音と言う現実体の中の周波数に対する知覚であって、だからこそどんな質の音であろうと音である限りある波として性質である波長の周期だけを抽出して出来た音の性質に言葉を対応させた認識が成立するのです。
つまり、絶対音感と言う定義は、私達の耳が聞く外界の多様な音現象に対して、その音の周波数と言う点にのみが対応関係を付けられた言葉がによって始めて、成立して来るのです。私は旧来の友人の声を聞く事で、彼の言葉や容姿を思い浮かべる事が出来たり、歌手の歌を聞く事で、彼の顔や名前を思い浮かべる事ができます。彼の声を丸ごと知覚しているのであり、彼の発する声を識別するのであり、それは他の人の声と区別されると言う事であると同時にこの声は<Aさんの声>である事の知覚なのです。10人の声を各々区別して知覚しさらに10人の人間の個々の名前をも知っていると言う事になります。それに対して絶対音感の場合、個々の音の識別は、周波数と言う点でのみ行われ、7個の音の区別が、周波数の違いとして前後の関係を持ち、さらに前後の関係の音を<ドレミファ・・・>の音に対応付けるのです。7個の音が一音一音区別できて−−10人声の区別ができると同じであるが−−更に音相互の順序があると言う事なのです。音の場合、周波数の比率として成立している。その事を音程と言う言葉で表すのです。10人の人の声や顔を区別する事が成立していても、10人には、個別的でだけであり、順序と言うような相互の関係は成立していないのです。一個一個の区別ができる事は、他者ではないことの理解であり、それを更に一個一個のモノが、相互の関連<音の周波数による量的な比率によって形成される>を形成していると言う理解は、一個一個の区別が形や質でなされ**双子の様に形や大きさの様に区別が出来ない場合には同じ形のモノが二つあると言う事になる**同一の質のモノが、量的違いとしてある事によって成立する。と言う事は、単に区別出来る場合、10人の人間の声や顔の区別の際にその区別を成立させる質における同一性によって出来る量の違いを比率として成立しないと言う事なのです。
音の心理的要素は、音の大きさ(loudness)、音の高さ(pitch)、音色(timbre)
の3つである。
音の大きさ:音量のことで、波形の振幅で表される。大きい音は振幅が大きく
小さい音は振幅が小さい。これは音圧レベルである。通常、人が聞こえる音は
25db~100db程度の音量である
音の高さ:波形の周期で表される。高い音は波長が短く、周波数が多い。低い
音は波長が長く周波数が少ない。
音色:波形が変化すると、異なった音色が聞こえる。同じ周波数、振幅でも波
形が異なると、音色が違って聞こえるのである。この音色によって心理的な効
果が演出できる。従ってサウンドデザインには、音色の制御方法が大切である。
音は、その波形の周期、振幅によってきまり****正弦波と言う波形などがあり****周期の違いが音の高さと言う事になり、音程とは、前後の音の高さ関係として成立しているのです。つまり、私達が聞く音現象に対して、周期の違い、周波数(1秒の間の周期)の違いと言う視点から音を規定し直し、前後の音を波形の周期の違いとして規定するのです。そしてその規定を<ドレミファソラシド>と言う言葉に表す事で、私達は言葉の発声による<歌>を作り出したのです。歌は、私達自身の表現行為であり、音と言う物理的な現象の中にあるものを分析して得られた<音の大きさ、音の高さ、音色>と言う認識内容を介して、その認識を表した音階としての<ドレミ・・・>の組み合わせにより成立している。音は、空気の振動現象と言う客観的な存在であり、それを耳と言う知覚器官を通じて頭脳の中に取り入れると、認識の世界の「ある内容」として知覚され、「音」と言う言葉で表現するのです。この説明の仕方は、現に私が目の前のテレビを見ながらテレビのスピーカから流れて来る音楽や言葉や車のエンジン音や風の音や雨の音を聞いている事に対して、スピーカと言う機械の振動とその振動が作り出す空気の振動と言う客観的な存在とその存在によって知覚器官である耳の鼓膜の振動とその鼓膜の振動によって生ずる神経の化学的、電気的反応が頭脳の細胞で処理されている事を示している。つまり、現に知覚している事に対して、それを高みから見下ろすと言う位置にいるのです。現に聞こえているのであり、その聞こえているモノが、目の前に停車している車のエンジン音であると判断していて、聞きながら、聞こえている音は、車のエンジンから発生していると考えているのです。聞こえている音が車のと所にあると言う考え方は、現に聞こえている<音>を、知覚として成立させるのは、車のエンジンの振動が、空気の振動を作り出して耳に知覚されていると言う事であり、聞こえている音を形成する実体としてエンジンの振動があると言う事なのです。いま聞いている音は、あくまでも耳の知覚を介して頭脳の中で成立している事だが、その耳から知覚されるモノとして車のエンジンの振動があると言う事なのです。その振動が音なのでは無くて、<音>と言う聴知覚を作りだすものとしてあるだけなのだと言う事なのです。
現に知覚しているモノは、認識内容としては全体であり、知覚の対象になっている事なのだが、それを分析する事で、<音の高さ、音の高さ、音質>と区別されるのです。しかしこの区別は、知覚の対象としてある客観的、物理的な現象にある構造を各々の側面として認識したものから成立している。だから音とは、それらの統一体であると言う言い方は、分析を経た後で、客観的、物理的に現象を説明しようと言う所で生まれている。<知覚の対象になる>時、まずあるだけであり、それが構造を持つとかと言う事の領域に入らない。対象になった<モノ>に構造があると言う考え方は、対象になつたモノに対する分析がなされた後に考えられる事である。ただ分析の後に成って始めて<考えられる>と言う事は、分析と言う思考の領域で言われる事である。物質的実践における構造は、個別的モノを種類としての扱っていると言う事で示される。例えば、目の前のモノを食べる時その一個一個のモノは、その性質によって、食べ物としてあり、その性質によって他の個別との共通性を持つのです。つまり、一個一個はその特有な性質によって、私達の食べられるモノと成るのです。この性質があると言う事が、目の前の一個一個のモノに構造があると規定するのです。
三浦つとむの言語理論の立場から説明
言語はすべて表現であり、表現は全て「<対象>−−<認識>−−<表現>」と言う構造を背
後に持っている。言語表現の特徴は、<認識>において、表現主体が認識した概念を、言語規
範が媒介するか過程的構造にあり、同時にその規範の媒介は、過程的構造の各過程が超感性的
な面でつながりをもつていると言う性質に有る。言語表現は、<対象>から<認識>への目に
見えない複雑な過程的構造が物資的な<表現>において、これまた目に見えない<像>として
統一されている。言語表現における語は、表現主体の認識した一概念が表現されている部分で
あり、それは、客体の反映としての概念の表現である客体的表現と、それから相対的に独立し
て生まれた表現主体の感情・判断・意志など能動的な認識の概念的表現である主体的表現とに
ニ大別される。文は、客体的表現と主体的表現とが統一されて表現されたものの事を言う。
現実に話したり、読んだり、聞いたり、書いたりしている言葉に対して、それの本質レベルとしての理解は、話者の実施する概念認識を、文字や音声として作り出すと言う事なのです。この文字や音声として作り出す事は、例えばインクの跡としての文字としては、インク液と言う物質としてあり、それをペン先からか白紙の紙に付着させる事で、線状の跡が出切るのです。それはジェット飛行機青空に作り出す飛行機雲と変わりが無いのです。そのインクの跡が、文字と言われる為にはインクの跡が作り出す形が、一定の規則があると言う事によるのです。この一定の規則にあるインクの跡の組み合わせによる、各々の個別的なあり方「B1、B2、B3、B4B5、B6、B7」に頭脳の中で成立している概念a「a1、a2、a3、a4、a5、a6、a7」を対応付けるとする。「a1−B1、a2−B2、a3−B3、a4−B4、a5−B5等」 この対応関係を前提にして、いま私の目の前にあるA3を視知覚する事で、同時に私の頭の中にB3と言う概念が成立するのです。この成立過程の中にある、A1等この見た通りの形のインクの跡を、言語における書き文字と言うのです。A1等の文字と言われているインクの跡は、その形はそれなりに創造されなければならないのであり、日本語で使う漢字が、象形文字と言われる様に、その文字が指示する<対象>の形をまねる事で、創造性が実行されるのです。それに対してB1等の概念がどのようにして形成されるかと言う事です。それは<対象>に対する認識から生まれて来ます。<対象>の種類と言う側面の知覚が、概念と言われます。目の前をモノとして、五感によって知覚されるとその知覚内容が、種類と言う側面として分析される事で、知覚は、概念として成立します。五感による知覚は、モノとして対象にする事であり、その対象と言う知覚が、さらに種類と言う側面として分析される事で、その分析を対象において統一されていると言う認識が成立する時、はじめて概念が成立するのです。つまり、知覚の対象である事と、その対象において種類が統一されていることが成立した時、始めて五感による知覚が、概念と言われる事になります。しかし五感による知覚が認識−−知覚以外に認識と言う言葉を使うのは、五感と言う目や耳や鼻や舌や肌による知覚に対して、それらが知覚されているモノを対象として捕らえている事を示しているが、さらにその対象に種類と言う側面が有る事を捕らえる事で、知覚を超えたモノが成立している事をしめすためです。−−と言う言葉で言い直されるのは、対象の知覚を前提に、さらに種類と言う側面が捕らえられると言う事を言う為なのです。対象Aに対して、その種類と言う側面がaとして認識される時、その認識を概念aと言う事になります。その概念a1を文字B1に対応づけ、さらに文字B1を対象Aに<指示する>と言う関係付けをすると、対象Aと言う存在は、種類と言う側面を持っているモノと言う規定から、種類とい側面の現実形態であると言う、対象=種類と言う実体 と言う規定を得る事に成ります。つまり、知覚の対象であるモノに対して、どの面が種類であるかと言う未定の出来事が、言葉の指示と言う関係において始めて、対象自体が、種類の現実形態として表れると言う事なのです。知覚の対象である限りは、種類と言うのは、多様な<側面>の一つとしてあり、その側面を指示する訳には行かない。指示するのはあくまでもその対象丸ごとであり、ほらここだよと言って指示しても、指示は対象全体を示しているだけであったが、言葉の指示関係を介して、言葉に表現されている<対象の種類と言う側面>についての認識、つまり概念が、対象自体、指示している対象自体と言う現実形態となるのです。対象のどの側面と言う事を考えずに、対象自体が、種類と言う側面の現実形態ということなのです。
今目の前のモノが、<ノート>と言う言葉で指示される時、目の前にある対象が、種類と言う側面で知覚されるのは、そのモノが、文字をきされると言う私達の活動に使用される事であり、その材質で<文字が記される>のであれば、同一の材質のモノであるなら、それも<文字を記す>ことのできるもノであるのです。<文字を記す事のできるもの>と言うのは、概念を表した言葉であり、その概念の現実形態とは、文字を記される物が、特定の材質の、例えば木材とか竹であった場合には、それを木簡と言う言葉で表し、また紙と言う材質の場合には、それを<ノート>と言う言葉であらわすと言う事です。つまり、<ノート>と言う言葉に表されている、私達の頭脳の中に成立している<文字を記すモノ>と言う言葉で表される概念は、紙と言う材質として現実形態となっているのであり、
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山田和夫
kyamada@nns.ne.jp
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