2002.12.02

ルイス・キャロルの意味論 宗宮喜代子 大修館書店

ルイス・キャロルの意味論


第一部 論理学
第一章 古典学者としてのルイス・キャロル
人の知識の対象(1):宇宙の仕組み(2):人の体の仕組み(3):人の心の仕組み
三つ目の人の心の仕組みについて近年になって認知科学と言う名の基に研究されるようになった。言語学の諸分野のうち幾つかは認知科学と呼ぶに相応しい。チョムスキーの理論や形式意味論が研究されてきた。
第二章 現代の記号論理学
19世紀半ば命題論理学が登場し、19世紀末に述語論理学が登場する。この二つの論理学を合わせて、現代の記号論理学と呼ぶ。ブール、ド・モルガンによって命題論理学が始まった。
  「V(〜または〜である)」「→(ならば)」「┐(でない)」
三段論法は命題論理学が扱う事のできる多くの論証のうちの一形態にすぎなく成った。しかし一方で命題論理学は古典論理の持っていた意味論を失った。名辞を使う古典論理学では「人間である」ことや「やがて死ぬ」事の意味の繋がりを表す事ができた。あるものが人間であれば、そのものはやがて死ぬモノである事を表す事ができた。
<人間>と言う文字が記号として成立する時、その記号が支持する対象の属性が知られているのであり、だから私達が<人間>と言う記号を使う時、私達はその記号の支持する対象に付いての対象に付いての知を持っているのです。どれが<人間>と言う語の対象であるのかが、分かっているのです。ただこの対象である事の知は、外廷が漠然として得られているだけであり、決して内包が明確に−−この明確さは、概念としての知と言う事である−−に成っているのではないのです。その明確さは、日常的に分かっているが、言葉としては説明できないと言い方に表れている。
「執事が犯人である」と「運転手が犯人である」とは主語を異にするだけのにかよった文であるのに、文の内部構造に立ち入らない命題論理はその事を表す述を持っていない。しかし命題論理は文の内部構造に立ち入らない変わりに、論理結合子の意味を解明した。
PやQなどの基本的な命題を要素命題と呼び、結合子によって出来た命題を複合命題と呼ぶ。
結合子:「または」「条件」「否定」「かつ」「if and only if」の五つある。
20世紀に入り命題論理学と述語論理学を合わせた記号論理学が完成した。
記号論理学では命題の基本形は「A is B」では無く、「F(a)」である。フレーゲによれば命題は主語と述語と言う二つの名辞からなるのでは無く、個体を表す固有名と概念や関係を表す関数から成る。固有名はそれ自体で完全で、補充される必要がなく、関数はそれ自体不完全で固有名を項として取って初めて命題と成る。固有名は、誰(何)を指すのかがハッキリしているのです。ただ問題は、自然言語の文の主語は「a girl(ある女の子)」や「the human child(その人間の子供)」などと言う名詞句である事もあり、ここがややこしい。
 Y=(X*X)+3X
と言う方程式に置いて(  )+3( )の部分は関数、Xは項、Yは関数の値である。XとYは変数であり、実際の数では内。Xがどの様な数であるかによってYは変わる。関数は意味的に「未飽和」である。F(X)のFは述語に相当し、Xは主語に相当する。
命題が現実の事態を表している時、その文は真であり、そうでない時には、その文は偽である。方程式のなかのYは、この文が真であるか偽であるかを表す真理値である事に成る。
数学を言語に適用して文の述語を関数とみなすと言う発想は画期的出合った。こうして古典論理学の伝統を破って述語に関数と言う全く新しい役割を与えた事から、フレーゲの論理学は述語論理学と呼ばれるように成った。
<Alice is Funny。>と言う文は述語論理学では、F(a)と翻訳される。Fはこの世界の中の<funny>という特質を持つ個体の集合である。一方aはアリスその人を指す記号である。従ってF(a)は、アリスがfunnyと言う集合の成員である事を表す。実際にすべてのfunnyな人や物が一堂に会する事は出来ないので、集合と言うのは概念上の構築物である事が分かる。文とは基本的に個体が集合の成員である事、個体がその特質を持っている事、を述べる物である。ちなみに、集合と特質は同じ名前で呼ばれるのが常で出ある。funnyと言う特質を持つ個体の集合なら”funny”と呼ばれる。
    アリスは、funnyです。−−(1)
    アリスが、funnyです。−−(2)
述語論理学でF(a)と翻訳される場合、アリスと言う個体が、funnyと言う集合体の一つとしてある事を述べているのは、(2)の場合であり、(1)は、アリスと言う集合体の中の一つとしてfunnyと言う要素があるとのべている。つまり(1)の場合アリスと言う個体に、<女の子><funny><スカートをはいている>等の側面があると言う事を述べているのです。

キャロルでは主語と述語がどちらも概念(集合)として表されたのに対して、述語論理学の集合図では主語は個体、述語は集合として区別されている。述語論理学として考えれば、名前の中には個体を指す為に用いる固有名と個体の特質を表す為に用いる普遍名とがあるのです。
<A girl is funny(ある女の子はおもしろい)>と言う文をどう考えるか。
この文は少なくとも一人の女の子がいて、その子がfunnyであると言つているからです。この様な文のために述語論理学は存在量化子と個体変項を用いる。
少なくとも一つ(存在量化子)、girlでありかつfunnyである個体X(個体変数)が存在する。
少なくとも一つの個体が、<girlかつfunny>と言う集合の要素となっている。これはアリスと言う個体が、<funny>と言う集合の要素であると言う事に対して、そこには多数の個数があっても、その多数を取り上げずに、単に個別と言う把握なのです。<ある女の子>とは、個体の多数を前提にその一つを取り上げているのです。個別であるから、少なくとも個体としては多数であるはずだが、しかしその数の観点を抜きにした個体を捉える思考がある。数としての個体とは、一人とか二人といった把握なのだが、しかしその数であっても、唯一の個体とは、固有名で扱われると言う事なのです。
英語の文<A girl is funny.>としては、主語になっている<girl>が論理表記中では述語の位置をあたえられている事に注目されたい。ここには、文の主語は意味上の本当の主語ではないと言う事が表されている。この点において述語論理学は名辞論理学から大きく飛躍した。ただし、Xと言う個体変項が固有名の代わりの様に項の位置を占めている限りにおいて「関数・項」の論理学は「主語・述語」の論理学と本質的に同じである。
文の構造における主語や述語は、あくまでも表現レベルで成り立っているのに対して、述語論理学は、その文に表現される認識のレベルを問題にするのです。この認識のレベルとは、<対象−認識>と言う関係を前提にした認識と言う事に成る。ただ普通は、表現は認識の表現と言う事であり、表現を考える事は、認識を問題にせざるを得ないのであり、相互の区別と関連を絶えず考えるのです。両者は構造体として出来ているのです。固有名が主語に成っている文を考える。かりにその固有名や他の説明の言葉、例えば<背が高い><太っている>等の言葉を使わない場合、それらの言葉が指示する対象を考えるのです。例えば<山田和夫>と言う固有名が指示する対象に対して、その固有名を使わない場合、その対象を指示するのに、<ゆび指して>行う事も出来るが、しかしその指された対象が、人間と言う言葉で指示されるモノか父親と言う言葉で指示されるモノなのかと言った事は、明らかに成らないのです。ただゆび指しであっても、そう指示する人にとって何を意識しているかは明らかであり、そこにある個体と言うレベルが意識されているのです。この自明性は、本人だけのモノであり、その個体が、白いとか高いとか動くとかいった事は、まさに知覚されている個体に対してなされると言うことなのです。知覚されている個体と言う言い方も、対象と言う言い方も言葉に表されているモノであり、さらに<それ>と言っても、やはり言葉であり、それらの言葉を発する時に体験している事の上に成り立っていると言う事なのです。ここでの<体験>と言う二文字も言葉であり、その言葉で表そうとしている認識が、ある対象を指示していると言う事を了解する事が、ここで語られている事なのです。
<All girls are funny(全ての女の子は、おもしろい)>を述語論理に翻訳すると<すべての個体Xに付いて、もしXがgirlなら、Xはfunnyである。>となる。
<全ての女の子>と言う言い方は、存在としては、そこにいる多数の個体に対して、そこにいる全ての個体が知覚され、その個体が属性として<女の子>と判断されると言う事なのです。これは対象に付いての判断として頭脳の中に成立しているのである。それを言葉に表そうとすると、個体がそのまま主語になるのではなく、<女の子性>と言う属性が実体化したものとして<女の子>と言う言葉になるのです。単に個体の属性として<女の子性>があっても、<女の子>と言う個体であるとは言えないのです。つまり、個体と言う事に対して、それに属性があると言う時、個体は実体と規定されるのであり、実体とその属性と言う構造なのです。
<The girl is funny(その女の子は、おもしろい)>
この論理表記は「girl でありかつfunnyである個体がたった一人だけ存在する」と言っている。「girlと言うと特質をもつ個体の内、それは必ずこの個体はfunnyと言う特質も持つ」と言う事になる。上の文で<the>は、話者が「私がどの個体を指してgirlと言っているか、聴者である貴方にも分かるはずだ」と判断した事を合図している。この様な語用論的な意味を論理表記は表さない。
現代の記号論理学者達は、ある意味では「主語・述語」の2分法を否定した。自然言語の文の主語は、固有名を除いては、主語と呼ぶべきものではなく、むしろ述語である。英語の文ではかりそめに主語の位置を与えらているが、論理的には述語なのだ、と彼等は主張するのです。ラッセルは文の主語をそのまま論理学の主語と見なすアリストテレス的な名辞論理を激しく批判した。ラッセル2依れば、名辞論理は一方では文構造に惑わされ、他方では「実体・属性」構造をそのまま論理構造に持ち込み、その結果、人に世界認識を妨げてきた。
フレーゲも、<all any no some>は概念を表す語に付き、全称文中、特称文中であれ、概念間の関係を表すのに用いられる、と述べている。つまり、<all girls>などの<girls>は個体を指示せず、概念を表す。

ラッセルのパラドックス
例えば、「美しい」と言う表現がある。この述語は、普通は人や花や景色、あるいは美談などとして出来事が美しい事を表す。フレーゲの様に述語が同時に主語にもなれると考えてしまうと、<花は、美しい>と同じように<「美しい」は、美しい>と言う文も成り立ってしまうのです。
第二部 意味論
第三章 意味論者としてのキャロル
<I see Nobody on the road>
<Nobody>と言う名詞があるからには、それによって表される実体があるはずだと考える。古典論理に依れば、世界は実体と呼ばれる具象物で成り立っている。人間は聖書の中でアダムがそうした様に実体に名前をつけていく。実体は属性を持って居り、この属性にも名前をつける事とが出来る。まず第一実体が存在する。そして実体は属性を持っている。これがアリストテレスに代表される古典論理学の意味論であり、キャロルの意味論でもある。しかし実体と属性の2分法を出発点としながら、一方では属性が第二実体でもあるとなれば、あらゆるものがどんどん名詞であらわされ実体性を獲得する事になる。実体に名前を付けたとたんに、その名前自体が実体と化す。この考え方は素朴実在論に直結する。あらゆる名詞は実体を表す、と言う素朴実在論である。
<Nobody>談義は素朴実在論を極端に推し進めた結果、超素朴実在論に陥っている。
言葉としての<Nobody>はある認識を表している。その言葉<Nobody>が指示する対象があると言う考え方。これは言葉が対象を指示すると言う事であり、例えば<りんご>と言う言葉と私の目の前にある<モノ>とが指示関係にあると言う事になる。さらにその目の前の<モノ>に対して<果物>と言う言葉が指示関係にあり、さらにその目の前のモノに対して<物>と言う言葉と指示関係にあり、さらに<目の前のモノ>と言う言葉も指示関係を形成しているのである。最後の<目の前のモノ>と言う言葉の場合、私の視知覚の感覚器官である<目>を基準にした前後と言う位置関係をなしている<」>が対象になっているのです。各言葉は、<」>と指示関係にあるが、最後の<目の前のもの>と言う言葉は、<」>を<もの>と言う言葉と<目の前>と言う私との位置関係とが結合させた上で、指示しているのです。その<もの>と言う個体が知覚され、さらにその個体が持つ多様な属性に対して、その属性の一つを持つ個体を実体として規定する事で、<生物>、<果物>と言う<言葉>として成立したのです。つまり、まず知覚された存在が対象としてあり、それが一塊のものとして個体として葉判断される。その個体に対して、私からの距離にあると言う側面が判断される事で、<それ>とか<これ>とか<あれ>と言った言葉として表されるのです。<私からの距離>が表に表れているが、同時に私からの距離にあるモノも含まれているのです。私が<それ>と言う言葉を発した時、他者は<それ>と言う言葉を聞く事で、言葉を発した私からの特定の距離にあるものを見つけ様とするのです。他者はその言葉から、確定されている<「そ」と表現される特定の距離にある>と言う事を捉え、回りにある色々なモノの中で、どれなのかを予想していくのです。
<Nobody>は、「私は誰も見ていない」と言う事を表現しているのです。私が見ている時色々なモノを見ているが、人については見ていないと言う事であり、それを色々なモノを見ていると同じ<見ている>と言う表現をする為に<Nobody(無人)>と表現しているのです。<存在しない人>を、例えば昨年交通事故で亡くなった友人Aが歩いているのを見たと言った時、幻覚としての友人の存在と言うことでしかない。それに対して<Nobody>は、Aさんでも、BさんでもCさんでも、その他の人でもない<人>と言う規定です。
<私は、誰も見ていない>と言う表現がある。私はこの道に1時間ほどたっていた。その1時間の間この道にいた私は、猫を見たり、犬をみたりしていたのである。これがその時の客観的な出来事です。そこで他者Bさんが私に聞くのです。<この道を人が通りませんでしたか>と。他者Bさんは、この道にいなかったので、午後2時からの1時間の間にここを通ったものがいたのかどうかを確認したいのです。このBさんの問いに対して私は<私は、誰も見なかった>と答えるのです。私にとってこの道における客観的な事は、猫を見たり、犬を見たり、鳥を見たりしていると言う事である。それに対して、Bさんにとって午後2時からの1時間の間には、ここの道にいなかったので、その道での客観的な出来事についての知覚が無いのである−−他の場所での客観的な出来事の知覚はあるのはあたりまえなのだが−−が、しかしその間の出来事についての自分の五感を使った<知覚>では無く、自分が経験していない事についての知識を得ようとするのです。Bさんにとって今問う事もその問いに対する答えを聞く事も、すべて<知>の次元の問題であり、頭の中の思考の問題となるのです。Bさんが私に問うのは、私が経験していた客観的出来事の中に、つまり私が五感で知覚していた内容に「道を人が通った」と言う事があったかどうかと言う事なのです。そこで私は答えるのです。私の視知覚の対象に<人>はいなかった。鳥や猫や犬は対象になっているが、人は対象になっていないと言うことなのです。そこで<Nobody>とは、「対象になっていない人」と言うことになります。「私は、対象になっていない人を見る」となり、<対象になっていない>と言う事は、結局見ていないと言うことなのです。「見えていない人を見る」と言う言い方は、自分の目で見ているが、見えていないと言う<見る>方を考えてしまうのであるが、見ると言う働きの中に、見られる対象が存在しないと言う対象側が取り上げられ無ければならないのです。瞼を閉じれば、目の中の光りの瞬きがみえていても、モノからの光りの反射が遮断されて眼球の中に入っていかない為に、一切のモノが対象にならないと言う事なのだが、今回の場合私が2時からの1時間の間には、人に反射した光りが、私の目の中に入ってきていないと言う事であり、それを<私は誰も見ない>と言葉にするのです。客観的には<私は鳥を、猫を、犬を見ている>と言う事であるが、その私が<誰も見ていない>と言う言葉を使う時、私に生じた客観的出来事とどの様に関連するのかと言う事になります。私が視知覚した経験としての客観的出来事の<対象>として一匹の犬や親子連れの猫や白い鳥や柳の木々があると言う事に対して、私が反省的思考を行うのです。その反省的思考の中で<視知覚−−対象>と言う構造の知を介して犬や猫や木々や鳥が対象である様に人間も対象になっているかどうかと言う問いが成立しているのです。私がBさんから突きつけられた問は、この道に立っていた時に私の見聞きしたことの内容を表象している事が、同時に<視知覚−−対象>と言う構造に付いての知を媒介に上に、<人>と言う像が成立しているかどうかを見つけるようにして下さいと言う依頼なのです。私がその時間帯のことを思い浮かべるのは、ひょっと浮かぶと言うことであるときもあれば、思い出すようにと言う依頼で思い浮かべる事もあるが、ただ思い浮かべてる内容の中に、人という表象があるかどうかと言うことなのです。その表象は私が思い浮かべると言う働きで形成されるのであるが、その表象が成立する原因は、私が自分の目で人を見る事なのであるからこそ、Bさんは私に<見たか>と問うのです。そして私が<誰も><見なかった>と答えるのは、<見る−見られるもの>と言う関係を具現した人の表象を否定をするからなのです。

チェシャ猫のにんまり笑い
「猫は今度はゆっくの消えていった。まず尻尾が消えて、最後にはにんまり笑いが残った。何もかも消えてしまっても、にんまり笑いだけはしばらく残っていた。」 猫と言う個体がまず存在し、それが笑っていると言う認識のしかたをするアリスはごく常識的な人間である。この見方はまた、ギリシャ時代以来の西洋の「実体・属性」と言う認識の枠組みにも一致する。しかし、キャロルは常識的なアリスを描く一方では、「猫のいないにやにや笑い」を場面化して「実体・属性」の意味論と「主語・述語」の論理学のギャップを読者の示している。「にんまり笑い」は、名詞であるからには文の主語にする事がてきる。猫と言う実体の属性であったはずの笑いは今やそれ自体が実体のステータスを得る。
猫や人間が笑うのであり、それを猫や人間と言う実体の属性としてあると言うのです。その笑いは顔の表情であり、笑い声でもあるという事で、猫の体が透明になっていっても<笑い声>だけが残ると言うことはあり得るのです。体と声や顔は同一のレベルの存在であり、声は空気の振動として翻訳されるから、体が消えた後もその振動は固有のエネルギーを持って継続するのです。声は空気の振動としてあるからです。それに対して<にたにた笑い>と言う事は、「笑い声や笑い顔」を形成している<笑い>の部分だけを取り上げたモノとして概念として成立しているのです。だから猫と言う存在のレベルでは、笑い顔や笑い声としてある<笑い>を、概念のレベルで分離して言葉のレベルで表現して、猫が居なくなっても<笑い>は残ると言うようになるのです。猫と言う存在のレベルでなりたつ<笑い声や笑い顔>に対して<笑い><声>と言う概念の上の区別をそのまま存在に当てはめる、あるいは実体化する認識を<チェシャ猫のにたにた笑い>と言う言葉に表したのです。
物に名前のない森
「これが、物に名前のと言う森。この森にはいったら私の名前はどうなるのかしら。この、この、何だっけ、つまり、この、この、・・・」
その森に入ると、物の付いている名前の記憶が、私達の頭から消えてしまう。物自身が自ら<名前>を名札の様に身につけているのではない。物に対して、私達人間が名前を付けるのである。私達は、物をその固有の性質で取り扱うと同時に、名前を介してその物についてコミュニケーションを行うのです。その森に入ると物の名前の記憶が無くなってしまっても、目の前にあるものを手に取り、食べる事が出来るのであり、それを名前で呼べば、<りんご>と言う事になります。さて問題は、その森に入ると<物の名前>の記憶が無くなりるが、しかし<物に名前が付いている>と言う事の記憶は無くならないのです。だからこそ<この、この、エーと、>と言う口ごもりが生じてしまうのです。口からストレートに出ないのは、物に名前が付いている事は分かっているが、今目の前の物の名前が分からないと言うことなのです。それは例えば、私が野山を散策しているとき、木々や花々を見ていて、ひまわりとかコスモスと言う名前は分かるが、後は全く分からない場合、ただ木々とか花という理解で終わってしまうのです。多分な名前と同時にそれぞれの花や木の特有性を覚える事で、名前が口に出るときには、その名前が指示している花の表象が出てくると言う事になります。ただその名前で呼ばれる花の特有性のうち、私達の体の健康に効く成分があると言う知識を得られるかどうかは、名前を覚える事とは別のその花の物という特性を覚える事であり、実際にその花を煎じて薬にした物を飲む事で、体にどんな変化をもたらしたかと言う所までの過程を理解する事なのです。
<物に名前が付いている>という事と<この物は、林檎と言う名前である>と言う構造なのです。前者が概念であり、後者はその概念の現実態であり、<概念は、現実態として表れる>という事が概念の本質と言う事なのです。つまり、「私の目の前の物に<林檎>と言う名前が付いている」という事が、<名前>と言う言葉に表れている概念の現実態と言うことです。それは結局この様な文として表れていると云う事なのです。<A−りんご><B−みかん><C−西瓜><D−クリ><E−鯨><Z−ダイヤモンド>・・・・という事は、それぞれに名前があると言う、あるいは指示すると言う事であり、<モノ−名前>関係の現実態であると言うことなのです。だから<A−?>と言う名前を思い出せない場合でも、<モノ−名前>と言う関係を知ってはいても、具体的なこのものであるAの名前が思い出せない事か、あるいは知らないかと言う事なのです。新しいモノが生まれて来た時、それにも名前を付けると言う実践があるのです。
日常的には<一般論−具体論>と言う区別で示している事は、概念とその概念の現実態と言う事であるが、重要なのは、概念の現実態の成立が、ヘーゲルの様に概念自らの働きに依って成立するといった考え方ではなく、「概念の表現としての言葉が、モノを指示する」と言う言語表現をを経る事で、初めて成り立つのです。概念は言葉として表現され、その表現としての言葉が、概念が生まれてきた対象物に指示として関わる事で、その個別的で具体的な対象物自体が、概念の現実態となるのです。

誰もが物の名前を忘れてしまうと言う森の中では、アリスも子鹿も名前を失い、意味を持たない二つの個体と化している。
この名無しの森の中の台詞では、意味を表す普通名詞は<名前>以外一切使われていない。後は<これ、あれ、それ、どれ、私、あなた>と言う直接指示表現であり、固定した意味を持たず文脈に応じて色々な個体をもっぱら指示すると言う機能を持つ。この名無しの森は、言語記号によって人が世界を分節し始める以前の、世界の本来の姿を象徴している。
私の目の前の物を<林檎>と呼ぶ以前は、チンパンジーや人間や象は、それを食べ物として食べてもいないのだと言うことではない。確かに聖書の中で<アダムとイブ>が、蛇にそそのかされてそれを食べた時、<林檎>と言う名前が付いていなければ、何を食べたのか他者には分からない事は確かです。本人達は何を食べたのかは分るが、その食べた物に名前が付いていなければ、実物を手に持ちそれを人々に前に示せるが、食べてしまえばどの様にして実物を他者の前に持ってこれるかと言う事になる。しかし実物に名前が付いていれば、他者もその言葉を聞いて<林檎を食べたんだな>という理解になるのです。つまり、私達の世界に付いての認識は言語によって分節化するのであり、分節化の結果を言葉として表すのである。それは概念として分節化するのであるが、しかし私達の生きる経験は、概念を言葉として表すだけではなく、身体活動によって世界を分節化しながら生きているのです。道具を作成するのは、その道具の特性が、活動の特性と関連して仕事の質や量を増大させると言う事であり、それは物や活動の特性を知ることなのです。
普通名を聞いた時、我々は意味を探ろうとするが、固有名を聞いても意味を知りたいとはおもはない。何を指すのか、どれの事かを知りたいと思う事だろう。普通名はカテゴリーを表す。その名で呼ばれたモノは、そのカテゴリーの予測可能性の範囲内の振る舞いをする事が期待される。だから普通名を与えると、心のなかの整理整頓が出来て人は安心する。
名指しの多義性
集合図に置いて、集合とその特性は通常は同じ名前で呼ばれる。背の高いものの集合は「背が高い」であり、女の子の集合は「女の子」である。

第四章  現代の意味論
述語論理学に基礎を置く現代の意味論は、固有名は個体を指示するのみと言う立場をとっている。固有名に論理的主語の位置を与え、普通名に本来意味を表すとされる述語の地位を与えると言う区別として成立している。
述語論理学の創始者であるフレーゲやラッセルにとって固有名は意味を持つのだろうか。
フレーゲは1892年の「意義と指示」と言う論文の中で、すべての言語表現は意義をもち、意義は指示を決定すると言っている。フレーゲの意義は、所謂「意味」の事であり、人によっては内包とかコノテーションといわれ、抽象的な対象であり、概念の事を言う。フレーゲの指示は言語表現が指す指示対象の事である。フレーゲが「意義と指示」の区別を発見したのは所謂「明けの明星、宵の明星」と言う二つの言語表現のパラドックスなのです。
******固有名は正に私の名前である<山田和夫>ということであ。その固有名は、この私を指示するモノとして働くのであり、固有名は、その指示関係としてのみ成立すると言う事を、<固有名の意味>と結論する。そこでこの固有名の意味規定に対して、次のような例を持ち出してどのように考えるかと言う問を提出するのです。
(<明の明星=AAAA><宵の明星=aaaa>「A」)と言う二つの言葉は、夜明けに最後まで輝いている星と夕方一番に見える星と言う別々体験から成立している。二つの言葉は、二つの別々の出来事を言葉にしているのです。しかしその別々の出来事についての言葉は、星としては同一の金星と言う星について語っている事が分かったのです。同一の対象をし指示していると言う事が分かったのです。その金星が地球の夕方と言う時刻では、他の星に比べて一番明るく輝くのであり、その金星が地球の朝方と言う時刻では、やはり一番輝いていると言う事なのです。それを言葉にしたものが「A」と言う言葉です。<明の明星>と言うひと纏まりの言葉は、対象としては<金星>を指示するが、しかし金星が地球との位置関係から表す状態についても、そこに表されているのである。日本語の表し方では、<明けの><明><星>と言う三つの語彙の組み合わせとして成立しているのであり、それを<夕方の><一番明るい><星=金星>と言う意味で<明けの明星>と表すのです。
私達が一日の中で経験する天体現象の内、二つの現象は、朝方と夕方と言う別々の時間帯の出来事として捕らえられていて、それを<aaaa><AAAA>と言う言葉で表すのです。この時この二つの言葉は、各々の時間帯にある天体現象の、特定の領域を表しているのです。
それが、朝方であるなら「明け方の空が明るくなるに従い最後まで輝いている星がある」と言う事であり、夕方であるなら「夕方の西の空に一番最初に輝くほしがある」と言う事なのです。その状態の星を一方は<AAAA>と言葉にするのであり、他方を<aaaa>と言葉にするのです。天体の多様な出来事に対して、その天体の現象のなかにある特性甲を、一定の視点から捕らえられ知覚した内容を言葉にしたのです。星は単に太陽との位置関係で輝くのであり、それが一番とか最後であると言う事は、あくまでも地球上の位置から星を見上げている時、星が輝くと言う過程を時間の流れで集めると言う事なのでしょう。つまり、<一定の視点>と言う何か主観的な響きのある言葉なのだが、しかし客観的に存在している時間とか位置関係とかを、特定の時間間隔、特定の位置関係から、天体現象を捕らえると言う事なのです。青空の日中から西の地平に太陽が沈むと空は暗くなり始め、星が輝きはじめると言う時間を考えているのです。ただこの時間は地球と太陽と諸々の星の位置関係を地球の上から知覚したものなのであり、だから<太陽が西の地平に沈む>と言う言い方は、地球と太陽の動きを、客観的には各星の位置関係を遥かな高みから見下ろした時に見える星の関係なのであり、その両者の移動を地球を固定したとき太陽が動くと言う現象として知覚されると言う事なのです。地球も太陽も相互に動いているのであるが、その相互の動きに対して地球を動かない静止した状態での太陽の動きは、地球の東の水平線から昇り、西の水平線に沈むと言う事になるのです。この<地球を動かない静止した状態として>と言う言い方は、思考上のあやふやな何かでは無く、私達の感覚的知覚が持つ特性であり、人間の目は、地球上にある限り、地球と一緒に動く為に、地球は動かない静止した状態ということになり、動くのは諸星に方だけになるのてです。それは私達の主観的な思い込みとか行った事では無く、感覚知覚の特性から生ずる認識内容と言う事なのです。
星が輝くのは、太陽からの光が各星に反射するからであり、その反射する光を私達の視知覚が知覚する事で、月が輝いていると認識されるのです。太陽と星があり、太陽の光が星に反射している限り、星は輝いているのだが、しかしその輝く星も、太陽からの光が反射して輝いている地球にあっては、その輝きの中にいる限り星の輝きを<見る事>が出来ないのであり、地球の球と言う特性から太陽の光は半分の球面に反射している時、他の半分には光が届かない為に反射しないのであり、そこを闇と言うのです。そして私達がその闇の中にいる時太陽の光りの反射で輝いている星を<見る事>ができるのです。明るい状態から闇の状態に変化して行く過程で、変化する明るさが最後に闇に変わる事で、星の輝きを知覚できて行く。このとき地球に対する位置の違いによって星の輝きの大きさが違うのであり、変化する明るさの中で輝きで見えて来る星に時間差が出て来るのです。この時間差を<一番最初に輝く>と<最後まで輝いている>と言う視点で区別すると言う事なのです。
これが<aaaa、AAAA>と言う言葉で表す<特定の天体現象>なのです。
    むかしギリシアでは、「明けの明星」と「宵の明星」は別の星と思われており、
    明けの明星はフォスフォール(Phosphor、ラテン名:ルシファー、Lucifer)、
    宵の明星はヘスペロス(Hesperus、ラテン名:ウエスペル)と呼ばれていました。
    当時バビロニアの天文学はギリシアより進んでおり、「明けの明星」と「宵の明星」
    が同じ星であることに気がついていました。そして愛と美の女神イシュタルの名前で
    呼んでいました。金星を意味するビーナス(ギリシャ神話では アフロディーテ明け
    の明星イオスフィルスと宵の明星ヘスペルス
    紀元前6世紀に、サモアのピタゴラスがそれらの智識をギリシアにもたらしたとい
    います。そして金星はギリシア神話の愛と美の女神アフロディテ、そしてヴィーナ
    ス(Venus)の名前で呼ばれることとなりました。
<aaaa=ルシファー><AAAA=ウエスベル>と言う事です。問題はこの言葉が指示するモノは、天体の特定の現象であり、その現象が「対象」となっているのです。しかし<ルシファー>と言う言葉を、「明けの明星」と変えた時、天体現象の中の<特定の天体現象>と言う視点が個々の語彙として表現されているのです。天体現象の中の<特定の天体現象>と言う視点を、一語の<ルシファー>と言う言葉で表現する事と、その視点を<明け方><明><星>と言う言葉の組み合わせとして表現する事とは、両者とも<特定の天体現象>と言う視点の内容が表現されていると言う事なのです。<ルシファー>と言う言葉も、その視点を表していて、<ほらあそこに輝いてい星が、ルシファーだよ>と指示しながら説明するのです。説明する人間には、今見上げている天体の現象が、特定の視点から見ている事が分かっているのであるが、その説明を聞く者にとって、彼が説明する言葉と指し示す指の方向を見上げる事で、そこに見える星を、<ルシファー>と言う名前と対応付けるのです。<ルシファー>と言う言葉が何を指し示すのかを知っている人間にとっても自分の目で見る事ができると言うレベルで自覚的に知っている<その星>の事だけであり、無自覚的には、その指示される<その星>が夕方のこの時間帯に南西の夜空に表れている事を、その時間帯にその場所で見上げると言う実銭される事が、無自覚な知としてあるのです。だから説明する人間が、説明を聞く人間を、その場につれて来ル事で、<その星の特定性>を経験させているのです。 説明を聞く人間もその場面にいる事と<その星>を視知覚する事の両者で始めて、<ルシファー>とが何であるかを知るのです。ただこの指示行為による説明では、その<星>だけしか向かわないのであり、「その星がとる特定のあり方」については、指示では説明出来ないのです。なぜならその指示行為がなされる事が、正にその星の特定のあり方である<明け方の最初の輝き>と言う事を選択しているからです。だから昼と言う時に、金星があったとしてもその指示行為が出来ないのです。夕方と言う時間帯の選択と指示される方向にある<輝く星>と言う事が、頭脳の中に認識される事で始めて<ルシファー>と言う言葉がでてきたのです。<ルシファー>と言う言葉を知っている人が、新しい人にその<ルシファー>と言う言葉を教え様とする時、夕方の時間帯に西の空を見上げながら教えるのは、見上げた空の<輝く星>を知覚する事と同時に<夕方の特定の時間帯>と言う事を認識させる為なのです。見上げると言う事で見える<輝く星>については視知覚の問題だが、その夕方と言う時間帯を選択する事は、正に一日の中の時間帯を選ぶと言う実践なのです。それは視覚とか聴覚と言った感覚知覚の問題では無くて、生活している一日の中の<夕方>と言う時間帯と言う事なのです。<ルシファー>と言う言葉では、その言葉が成立して来る特定の天体現象が成立っている時間帯を選択すると言う意志の上に視知覚による<輝く星>が、表現されたのです。それに対して視知覚されているモノを、天体の何処でも輝いている一つとして<星>と名付け、夕方の時間の選択と言う意志を<宵の>と名付ければ、<ルシファー>と言う現場で役立つ言葉か、そして固有名こそが言葉の成立している場面で使われる指示の言葉が、現場を離れた<宵の><明><星>と言う言葉として表現されるのです。何故なら<宵の>と言う事で一日の時間帯が、朝方、昼、午後、夕方、夜中と言う様に区別された上で、その一つとして<宵の>と捕らえられた事により、一日の時間の何処が指示されているのかを理解出来るからです。<宵の>とは別に明星とは無関係であり、私達が生きている一日の時間の変化を太陽の照らす明るさの変化として捕らえる事なのです。<ルシファー>では、指示の為にその言葉が使用される特定の時間帯が選択されると言う意志があってこそ成立するが、<宵の明星>と言う言葉になると一日の時間変化の経験を踏まえ、当然<ルシファー>と言う言葉もその経験の上に成立っているが、一日の時間の変化を区別した言葉として成立したモノとして表現していると言う事なのです。
一つの語彙で呼ばれていたのであり、<金星の特定のあり方>をそのまま一つの言葉で表している。それに対して、日本語の<明けの明星><宵の明星>と言う言葉は、金星の特定のあり方の、その特定性をも表現しているのです。その二つの言葉が、対象としては同一の金星を表すと共に、その対象たる金星の特定のあり方も表していると言う言い方は、次の事を区別していない。つまり、ギリシャの時代から、明け方と夕方に西の空に輝いている星が見られていたのであり、その特徴が自覚された時、始めて<明けの明星><宵の明星>と言う言葉として表現されていたのです。そこにある金星と言う星は、太陽系の他の星との特定の位置関係を持つと言うことであり、アタカも太陽系を高みから眺めおろす事でみられる星と言う事なのです。それに対してその金星が、太陽と地球と金星の三つの星の位置関係を、地球から眺めた時に知覚されると言う事なのです。太陽系を高みから眺めると言う発想は、現に地球の上にいる私達人間の頭脳の中の創造として成立しているのであり、それは図として表現された地図を介して創造されているのです。夜空を眺める事だけであるなら、星は全天にちりばめられているのであるが、諸星を特性でまとめる事で、太陽系の諸星と言うまとまりとなるのです。<明けの明星><宵の明星>は、全天の輝く星と言う事であるが、それをさらに星の特性による太陽系と言うまとまりか区別された時、始めてその太陽系の金星と名付けられた星を指示していると言う事が明らかになったのです。
太陽と地球と金星の三者の位置関係が、地球の明け方や夕方に一番輝いて見える星と言う観点から認識されているものを、表した言葉が<明けの明星><宵の明星>ということなのです。私達の視覚経験から言えば、全天にある星を眺めているのであり、決して太陽系の高みから星を眺めると言う訳には行かないのです。それを金星と言う星が対象になり、金星に対する私達の捕らえ方を言葉に表したものが<明けの明星><宵の明星>と言う言葉であると言う言い方は、<私達の捕らえ方>という何か主観的なものと言うニアンスを言ってしまうのです。金星と言う星を太陽系の特定の位置にある星と言う言い方は、全天の星の観察から得られた知識によった私達の認識であり、高みに昇って眺めているかのような私達の頭脳の為せる想像図なのです。太陽系と言う太陽と諸星との特定の位置関係は、地球から眺められて全天の知識から作成されているのであり、最初は地球を中心にした諸星の位置関係、つまり天動説であり、後に太陽を中心にした地動説となるような考え方として形成されて来たのです。
<明けの明星><宵の明星>と言う言葉は、同一の対象である金星を指示し、その対象に対する把握と言う私達の捕らえ方の違いを表していると言う言い方は、すんなり受け入れられそうにみえるのです。何故なら言葉は、思いや思想や把握を表したものであると言う一般論が潜んでいるからです。対象とその把握と言う、区別があるかのようなのです。<宵の明=私達の捕らえ方><星=対象>と言う事であると言うのです。前者は、地球上で成立している明け方と言う時刻の出来事であり、それを私達は視覚を介して知覚しているのです。その時刻に夜空を見上げているのです。それはこの地球と言う環境の中で成立している現象であるが、決して私達の把握の違いと言うような事では無いのです。その特定の状態が対象になっているのであり、その対象の中に金星と言う星があるのです。時事刻々と変化して行く全天の状態に対して、明け方最後まで輝いている星と言う状態が、対象なのです。それを対象にして表した言葉が、<明けの明星>と言う言葉です。さらに夕方一番最初に輝く星を対象にして言葉にしたものが、<宵の明星>と言う言葉です。
ここで視点がしめされる。全天の多様な星を知覚している。太陽が西に沈むと私達の回りは少しずつ闇になって行く。この明るい状態から暗くなる状態になる事を夕方と言うのであり、その夕闇の中で空に星が輝く様になるのだが、この輝きの一番初めの星の存在が知覚された時、その確認された<一番最初の輝き始めた星>を<宵の明星>と言う言葉で表したのです。全天の星の中からある特徴から把握されたモノ、「夕方、一番最初に輝く」と言う視点から得られた<一番最初の輝き始めた星>が成立したのです。金星と言う太陽系の中の一つの星に対して、地球や太陽との位置関係から生ずる金星の特定のあり方は、金星を含む太陽系の中の出来事であり、その出来事を地球の位置から私達が知覚するのです。その知覚したものを言葉として表現したのが、<明けの明星><宵の明星>と言う言葉なのです。全天の星の中で、<夕方一番最初に輝く>と言う視点から対象として得られている領域を図式すると、<対象−認識>となる。つまり、夕方や朝方と言う時間帯と金星と言う星とが、<最初に輝く、最後まで輝く>と言う視点からひとまとまりとして捕らえられる時初めて、それらは対象となるのです。特定の視点から捕らえられたモノが対象となる時、全天の星の出来事の中の一つであるが、それらが一つの視点から捕らえると言うことを認識の内容として成立すると言うのですその認識の内容を、言葉として表現したものが<明けの明星><宵の明星>と言うことばなのです。
とすると対象は、金星であり、金星についての捕らえ方が<明け方の最後までかが焼いている>と言う言葉であると言う言い方は、金星を含む太陽系の星相互の位置関係のうち太陽と地球と金星の位置関係の金星だけを抜き出して対象としているのであり、三者の位置関係を地球の上から知覚すると言う事を、<捕らえ方>と言っているのです。ギリシャ語では、日本語の明けの明星を<ルシファー>と言うとき、捕らえ方も対象も全て含まれているが、しかしそれらは姿を見せていない為に、ただ対象を指示すると言う事だけしか表に表れていないのです。<ルシファー>とは、ほらあれのことだよというのです。どれがルシファーなのと聞かれれば、あそこで一番輝いている星のことだよと言うのです。しかしこの言い方を述べない場合、そこを指で指し示したとしても、その指事している対象があるにしても、そこには<明け方最後まで輝いている>と言う規定は示されないのです。たんに金星の存在を指示する事はできても、その金星がどのような側面を示すのかと言う事は指では指示出来ないのです。ルシファーと言う名前と金星(ビーナス)と言う名前の違いは、全天の特定の位置にいる星、あるいは太陽系の特定のいちにある星、を金星あるいはビーナスと言うのに対してルシファーとは、明け方の一番最後まで輝いていると言う側面を取り立てて表現している金星の事を言うのです。問題はその側面の取り立ては、<明け方の一番最後まで輝いている> と言う言葉に表されると言う事です。<ルシファー>と言う言葉で指示する対象が、全天の太陽系と言う星の集まりの中の一つの星である場合、一晩中輝いているのであるから、<ほらあの星がルシファーだよ>と言えるはずだが、しかし明け方の最後まで輝いて残っている星のみを指すなら、指で指示するひとにとって、その時間帯だけの指示行為は、<一番最後まで輝いている>と言う事の現実過程と言う事なのです。この指示行為は、しかし時間帯に関係なくたえず存在する金星を指すか、特定の時間帯に指すかと言う、時間帯の選択と言う事が実例となる。
対象の種類と言う側面が概念として認識され、その概念が言葉として表現されるということになる。しかしその認識は、人間の身体活動においては、対象の種類と言う側面を使用した活動となり、朝方一番最後まで輝いている星が消えるまで起きているとか、その星の輝きを仕事の一段落にすると言う様に使用したとすれば、種類と言う側面の実施と言う事なのです。その出来事を労働の終始の基準の時間とする事で、種類と言う側面を<明けの明星>と言う言葉に表現する事とは別の表現形態となるのです。
「対象の種類と言う側面の認識として概念が成立する」と言う言い方は、金星と言う星が対象になりその側面が概念として認識され、<明けの明星、宵の明星>と言う言葉として表現されると言う事なのです。そこで<金星と言う対象の種類と言う側面>とは、何を言おうとしているかです。<明けの明星、宵の明星>と言う言葉の方から考えるなら、金星と地球と太陽と位置関係を、地球を固定した中心として特定化する時の、その状態を示している。つまり、金星と言う単独なものだけを眺めているのでは無く、その金星を眺める人間の立つ大地である地球と金星を光らせ、地球を夜にする太陽との三者関係こそが、金星を介して対象になるのです。目が金星に向かっている時その目が知覚しているモノだけを<対象>としてしまうから、太陽と地球との位置関係を地球を中心にした特定の位置関係を話者の<把握の仕方>と言う振り分けをしてしまったのです。
そのような振り分けをせずに、太陽と地球と金星の位置関係を地球を固定した所から認識しようとする事で、はじめて客観的な<太陽と地球と金星との位置関係>が、地球を基点とした位置関係として認識されるのです。客観的とは、太陽系の各星の位置関係を、神のいる高みから見下ろす様にとらえたものをいい、その位置関係を地球を中心にしてとらえたものが、特定の位置関係と言う特定性として表れるのです。つまり、<明けの明星、宵の明星>と言う言葉は、金星を含む太陽系の星の位置関係が対象となり、その対象が<地球を中心にした位置関係として>認識されると言う事で、その認識の内容が表現されたのです。<対象の種類と言う側面>とは、金星と言う単独の星の何かではない。<金星・太陽・地球>の三者の位置関係と言う客観的な関係とは、どんな位置からも見えて、またどんな位置にも固定されない見方と言う事です。太陽系の天体図は平面としてみた位置関係であり、CGとしての太陽系の球体図は、360度回りから見ることが出来ると言うことなのです。客観的な位置関係に対して、地球で明け方と言う時刻の三者の位置関係から金星を視知覚したモノと地球の夕暮れ時刻の三者の位置関係から金星を視知覚したモノと言うことになります。このそれぞれの時刻の三者の位置関係を、金星の種類と言う側面であると規定するのです。

フレーゲの固有名、ラッセルの「指示対象」と「意味」
フレーゲは全ての言語表現が意義を持つと言う立場を取る為に、固有名も意義を持つのです。フレーゲが意味を<意義と指示>に区別した後、<意義と指示>とは、意味論の述語となった。
ラッセル(指示について):
  <The present king of France is bald.>
  (現代のフランス王ははげである)
という文の主語が実在を表さない事がテーマになっている。この文の主語は、個体Xと述語とに分解される。そこには実在のフランス王はいない。実在で無い者が現に文の主語の位置を与えられている事を、自然言語の不完全さのせいにする。自然言語の文構造は論理的な命題の構造からかけ離れている。この様な言語は思考を妨害する。言語は論理分析をして曖昧さを除去しなければ使えない。重要なのは論理である。フレーゲとラッセルに共通するこの様な自然言語不信の態度は論理実証主義とよばれている。
指示理論の議論の経緯
J・Sミルの論理学に発端を持つ
ミル「固有名=固有名詞には、特定の対象への<指示>機能があるだけで<意味>はない。アリストテレスと言う固有名は、対象に貼られた<レッテル>のようなもので、レッテル自体には<意味>が無い。レッテルは、例えばガラス容器に貼られる事で始めて、その役割をはたすのであり、容器とは別な所では、何の意味も無いと言う事。容器との関係ということであり、容器を離れている事を<自体>と言うのです。白い紙に<アンモニア>と文字が書かれていても、容器にはってないかぎり、単に紙に文字が記してあると言う事だけであり、その紙を容器に貼ってあれば、はじめて書かれた文字と紙とが、レッテルと言う役割を果たすのです。容器に入っている液体が、特定の性質をしたモノである事が、表現されているのです。現にいまその容器に入っている液体があり、その液体が何であるかと言う事、つまり液体の特定の性質について、貼られているレッテルの文字が表していると言う事なのです。文字は、液体の特定の性質について表しているのであるがその文字を記した白紙を容器に<レッテル>として貼る事で、その容器の中の液体が<アンモニア>と言う言葉であらわされる、特定の性質を持つと言う事になるのです。つまり、文字に記されている<アンモニア>と言う文字は、特定の刺激や皮膚を溶かすと言う性質を表しているのであるが、その文字を<レッテル>として貼る事で、容器の中に入っている液体がその性質を持ったものというとになる。文字が<性質>を表していると言う事と、その文字を記した紙が<レッテル>として貼られている容器の中に液体が入っていると言う事の区別をたてるのです。
今私達は、自分達の前に透明な液体あるのを知覚している時、その液体に特定の性質がある事を他の液体とまぜたりする事で知ることができるのです。その知られた性質を例えば<アンモニア>と言う文字に表す事もできるのです。その<アンモニア>と記した紙をレッテルとして貼る事で、現にある透明な液体を、透明であると言う事しか分からなかったものから、特定の性質である事を概念として知り、その液体を他の液体とまぜる事で、その液体の特定の性質が表れているのを知覚するのです。私達が自分の目の前にある透明な液体についてその性質を認識するのは、その液体が例えば皮膚に触るとか、他の液体と混合するとかであらわれる事を対象にして成立するのです。
文字はある特定の性質を表現しているのであり、字義の通りからすれば、例えば透明な液体についてその性質が認識されると、その頭脳の中に成立している認識を頭脳の外に文字として出す事を表現するとしているのです。この文字における表現形態は、外部の文字と頭脳の内部の認識と言う関係として成立しているのです。頭脳の内部にある認識としては、対象の種類と言う側面が、性質として認識されていると言う事であり、性質は認識の内容としてあるが、対象については、それらの諸性質の束としてあると言う方向に行くのです。玉葱の一枚一枚の皮が、各性質の認識を表すなら玉葱とは、その皮の纏まりとしてあるのです。それに対して文字として表現されている認識がレッテルとして貼られる事で、その容器に入っている液体は、そのレッテルに記されている文字が表現している<アンモニア>と言う性質の現実形態としてあらわれるのです。諸性質の束では無くて液体自体が、文字として表現されている性質の現実形態と言う事なのです。
認識のレベルでは、対象は、自体とその属性と言う区別を得る事になり、さらに自体と属性とは属性の集合、集まり、束が自体であると言う事になるのです。属性とは一つ一つの性質を言うが、自体とはその属性の集まりと言う事なのです。ただこの考え方では、沢山の属性に対して<幾つ>集まると自体になるのかと言う事が問題になって来るのです。<幾つ>集めるかと言う以前にすでに自体と言うものがあるのです。

ソシュールの構造主義
現代言語学の父と呼ばれるソシュールは、「実体・属性」の世界観とは反対の立場を取った。名前と言う考え方そのものを否定した。まず実体としての物があってそれに1つずつ名前を付けると言う名付け主義の考えを斥け、それに代わる相対的な世界観を打ち出す。
言語以前にある実体と言う物など無く、言葉記号の網の目で仕切られる以前の世界は混沌以外の何物でも無く、言葉によって分節されて初めて世界が出来上がる。
記号:「<表すもの>と<表されるもの>とでなる」「記号としての意味は表すものの本来の意味とは異なる」
言語記号は「表すものとしての音声表象(SA)」と「表されるものとしての概念(SE)」との表裏一体の不分離である。言葉が意味を表すと言う事は、SAがSEを表すと考えるのではなく、言語記号がSEを表す事なのです。人の口腔や鼻腔から出る空気に、世界を表す意味を持たせる。 SAとSEとは、抽象的である。物理的音声は記号の一部ではない。音素の列と言う抽象的なものが言語記号のSAとなり、その抽象的なSAにSEが統一されているのです。
物理的音声が、26文字のアルファベットと母音と限定されることで、その音素の一つ以上の組み合わせで、語が成立する。その組み合わせによって出来る各語彙には、SEが不可分として統一されている。言語記号は網の目の構造をなしていて、語の意味はその語が網の目のどの網の目にあるかで決まってくる。
言語記号の意味は、SEであると言う事、さらに各記号が作り出す網の目によって各SEの繋がりが決まり、そのSE相互のつながりで、一つの全体が形成されるのであり、その形成された一つの全体が、言語の意味となる。<青い木>と言う言葉の意味は、<青い>と<木>と言うそれぞれの言語記号に統一されているSEを結合したものである。対象における一体物が、<青い>と<木>に分離され、そして<青いき>と言う様に統一されると言うことです。最初の<一体物>と表現における<統一>との関連は、後者の一体が前者に対する<像としてある頭脳における存在>を言葉として表したものだと言う事です。だから一体物に対して、頭脳の中で分離し、それを言葉という統一で表しているのです。一旦分離して、再度統一したと言う事ではない。分離したものは頭脳の中に相変わらずあるが、言葉として表す事で、言葉という統一体として表れると言う事です。私の目の前にある沢山の木々に対して、<青い木>を手に取り選ぶと言う事は、分離された<青い>と<木>とが、統一されたものとしてあると言うことなのです。つまり、分離する思考は、一方では言葉という表現として統一され、他方では身体による選択行為に依って、統一観が成立しているのです。<一体物の知覚−−分離思考−−言葉により表現としての統一の形成>

意味関係の分析は語の意味を、語が実際に何を指さすのかに依ってではなく、もっぱら他の語との相対的な関係によって浮き彫りにしようとする。

形式意味論と認知意味論
形式意味論の支柱:アリストテレス以来の西洋世界観とそれを支える2値論理である。
この伝統的な世界観の元では、物が実在し特質を持つ。物は実在するかしないかのどちらかであり、特質を持つか持たないかのどちらかである。世界は、物と物の持つ特質、および物と物の関係によって成り立っている。この様な世界観は、人とがそれに付いて知っているかどうかに関わり無く客観的に存在する。さて文は、物が特質を持つ事を表したり、物と物がある関係を持つ事を表す。従って文は、正しく構文されている限り、真か偽かのどちらかである。真なる文は世界の事態を正しく表し、偽なる文は世界の事態を表さない。
この文の言い方は、上で記した世界観が、まさに私達の頭の中に成立していると言っているのである。頭の中に成立しているのなら、どの様にして頭の中に形成されるのかと言う事になります。さらに<この様な世界は、人がそれに付いて知っているかどうかに関わらず・・>と言う文は、私達が現にそれを知っていると言う事であり、知っているからこそ、この様な文を作ることが出来ているのです。<物が実在し特質を持つ>という文は、「物が実在し特質を持つ」事を表すのではなく、私達が知った事−−その知った、知の内容が「物が実在し特質を持つ」と言う言葉に表されているのです−−をこの様な文に表したと言う事なのです。当然<物と物とがある関係を持つ>という文も、ある知を表しているのであるから、この言葉<物と物とがある関係を持つ>は、一体何を言っているのかと言う事なのです。つまり、私達にとってこの言葉は抽象的でありすぎて、具体的に知るための手続きが必要になり、初めて<物>が何を表し、関係が何を表しているかを知らなければならないのです。そこでさらに<物>と言う言葉が指示する対象を確定し、<関係>と言う言葉が指示する対象を確定すると言う事になるのです。例えば、<皿の上にある林檎>と言う言葉は、皿と言う物と林檎と言う物が、上下と言う位置関係をなしている事を表しているが、その皿と林檎が地球と言う台地の上にあり、同一の重力に支配されている事で、そま重力によって皿と林檎との位置関係が決まって来るのであり、もし重力のないところでは、上下と言う位置関係そのものが成立しないと言うことなのです。つまり、林檎と皿の上下と言う位置関係は、物と物とにある関係であるが、ただそれだけ言えば済むものでは無いのです。その物が同一の重力と言う作用、つまり、地球が回転する事で生まれる力が、そこには働いているのであり、そこまでを散らない限り、ただの抽象的な言葉ということなのです。
その文が表す内容が、真であるか偽であるかは、その文の内容のあり方によるのです。そこでそれ自体で存在する物の特性や物同士の関係を、言葉が正しく表したら真で、間違って表したら偽であると言う言い方は、では<正しく表している>と言う事が、どういう事なのかが、また問われ無ければならないのです。

形式意味論は文と言語外の事がらとの対応の関係を明らかにする事を自らの任務とする。文と事態が対応している時、その文は真である。文の意味を知っているとは、その文がどの様な条件の下で真になるかを知っている事である。つまり、文の意味はその文の真理条件である。これが形式意味論が真理条件的意味論とも呼ばれる由縁である。

認知意味論の考え方
認知意味論はアリストテレス的世界観を否定する。人は常に経験をカテゴリーに分類し自らの中に取り込もうとする。こうして自らの精神の中に世界を作り上げる。
<自らの精神の中に世界を作り上げる>という事が、別に問題とされる事ではない。精神の中に作り出されるとき、その精神は頭の脳細胞の中に作られるのであり、それを頭としたこの身体が活動するのであり、活動の場にある諸物に関わっていくのです。その自らの関わりの時に、活動の場にある諸物については、諸物を含む世界に付いての知が無ければ、人間は身動き出来ないと言う事なのです。つまり、人間にとって精神の中に世界が作り出されるという事で、双六の終点に成るのではない。活動の場における活動の方向性を意識していく事なのです。
認知意味論にある語の分析の特定の方法
それは、プロトタイプ理論とフレーム意味論です。 プロトタイプ理論によれば、語の意味はイメージであり、言語化出来ない。イメージを提出する意外に無い。ロッシュの説明ではプロトタイプとは、「そのカテゴリーの成員をよく表したのカテゴリーの成員が表さない様な特徴を備えた物」と述べられている。
<White Knight is friendly>と言う文で、主語(White Knight)は白のナイトをイメージとして捉え指示する。述語(is friendly)は、この全体的イメージの中には<friendly>と言う成分がある事を述べる。まず指示しておいて意義を与える。主語を述語づける。文がこの機能を果たす為には、プロトタイプと成分の両方が有用である。プロトタイプは指示を行うのに役立ち、成分は意義を知るのに不可欠である。固有名は意味を持たねばならないのかと言うキャロルの問に現代の意味論は、語には対象を指示する働きと意義を表す働きがあり、固有名はもっぱら指示のみを行う、と答える事が出来る。
「母の日なので花を買った」と聞けば、その花はカーネーションである事が容易にイメージされる。「母の日」のフレームが「花」のプロトタイプを決める。
今日と言う365日の中の一日が<母の日>と言う言葉で喚ばれる時、その<母の日>と言う言葉は、指示する働きとして存在し、その指示対象として今日の日が存在する。

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山田和夫
kyamada@nns.ne.jp
URL:http://www.nns.ne.jp/pri/kyamada/menu.html
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