2003.07.04

言語学が好きになる本・町田健 研究社出版

<第三章 日本語を言語学する>


「は」と「が」は、どこが違うのか?
「は」も「が」も、助詞であると言う言う事で、同じであるが、「は」は副助詞(係助詞)であり、「が」は、格助詞に分類されている。この分類は、実際、「が」は名詞にしか付かないが、「は」は名詞だけでは無く、副詞や形容詞、動詞などにも付く事を指している。
−−両者とも「助詞」と言う事で同一性を示し、別々の助詞である事で、異なっている事を示している。同一性である「助詞」とは何かと言う問であり、違いが何処から生まれるのかと言う問いなのです。つまり、私達が、上のような説明を聞いたり読んだりする時、「そうなのか!」とうなづきながら同時にその問を作るのです。副助詞である「は」は、格助詞である「が」と大きく違う点は、「が」が、名詞だけに附くが、「は」は、形容詞、動詞等の名詞以外にも附くと言う事です。−−
太郎「は」学生です。−−名詞
太郎は少し「は」勉強した。−−副詞
花子は美しく「は」ある。−−形容詞
もちろん、こんな事が分かったからと言ってどういう事もありません。
−−「が」と「は」の働きが違う事の事例として理解されると言う事であり、現に別々の使い方を実践している事で、助詞の違いを理解しているのです。その違いをどのように理解しているかと言う反省は、実践に対する思弁的なレベルでの問いなのです。思弁的なレベルが得られたからと言って、それで直ぐ結婚式のスピーチが滑らかになると言う事では無いのです。−−
名詞に附く「は」と「が」の問題について
「が」の排他性
    花子「は」美しい。−−−(1)
    花子「が」美しい。−−−(2)
(1)の方は、話者の前にいる聞き手も知っている、花子と言う人間がいて、その人が美しいと言う性質を持っていると言う内容を表している。ところが(2)の方だと、それ以外に花子以外の人間は美しいとは言えないのだと言う意味合いが出て来ます。−−排他性と言う。
しかし、「ほら、富士山が見えるよ」と言う、ある事柄に初めて気がついたと言う状況だと、排他性が手で来る事はあり得ない。排他性があったり、無かったりと言う事です。
主題を表す「は」
<花子「は」>と言うのは、一体どういう働きがあるのでしょうか。
「花子は」は、「美しい」と言う述語に対する主語の働きをしています。「が」が排他性のある主語であるなら、「は」は、排他性のない主語と言う事に成りそうです。
しかし、上の規定では、十分ではない次の様な例文があるからです。
宿題は、ちゃんとやりました。−−(3)
東京は、もういきました。  −−(4)
これらの例文は、主語ではなく、目的語です。「は」と言う助詞は主語を表すだけでなく、名詞が文中もつ、色々な役目をも表す事が出切るのです。これまでの研究者達は、この様な「は」の働きを「主題」と呼んで来ました。(3)は「あなたは、宿題をやりましたか?」と言うような問に対する答えとして出て来た物です。
−−「貴方は、宿題をやりましたか?」と言う問に対して、「宿題<を>やりました」と答えずに「宿題<は>やりました」と答えたのは、「を」と「は」に違いがあるからでしょう。両者とも宿題に変わりは無いが、その宿題に対する扱い方が別々の言葉になつたと言う事なのでしょう。ここに問題がある。客観的には同じ<宿題>と言う事に対して、話者の把握の仕方が違うので、<を><は>と言う区別になっているなら、把握の違いとは何かと言う事なのです。違いは、その言葉として成立しているのだから、<は>と<を>を直接に調べると言う事なのでしょう。宿題と言う勉強に対して、それを実施しようと言う事であり、それを<する>と言う言葉で表すのです。その<する>と言う活動の目的として表すのが、<を>なのです。それに対して<は>は、宿題と「する」の間には、宿題以外の遊びはやらなかったが、宿題はやった、と言うニアンスを表そうとしている。 宿題以外のものや<する>以外のものが入っているのです。宿題を含む多数のものがあり、その中から特に宿題をとりあげて、その中のモノを前提にしながら、宿題に注目していると言う事なのです。「その中にあるモノを前提にする」と言う事を、排他性とか親和性と言うのでしょう。
この言葉の経験から得られた知識に対して、別の視点を加味するのです。それが言語についての一般論です。言語とは概念的認識を文字や音声として表したものと理解する。ある出来事にたいして概念としての認識を<宿題>と言う言葉で表しているなら、さらに出来事に対する概念の<個別性><特殊性><個別性>と言う<レベル>が助詞として表されていると言う事です。
日本語の研究から生まれた言語過程説では、出来事については、客観的表現として<山、川、愛情、宿題、運動、色等>となり、主体的表現として助詞に振り分けられるのです。この振り分けは、客体的表現である<山、川等>が、どのレベルで概念化されているのかを、助詞で表していると言う事であり、日本語にあっては主体的表現と客体的表現が、一つの文の中で語彙の連合として成立しているのです。英語の場合には、ひとつの語彙の語尾の変化や別の語彙として成立している。例えば、<I=私は、私が><My=私の><Me=私に><Mine=私のもの>の様に、英語では両表現が<I>と言う語彙一つになつているのであり、日本語では<私、は>と言う二つの文字に分かれていて、それが連合されているのです。日本語の分析から、<主体的、客体的>と言う様に捕らえられるのは、日本語の膠着後と言う特性が表れているからであり、その結論から、英語を反省した時英語においては、客体的、主体的の両表現が見た目にもひとつの文字に組み込まれていると言う事なのです。<I>は、両者の統一体であるから、それだけを見ていても、あるいは深読みしようと<主体的、客体的>と言う分析は成立して来ないのです。日本語の場合には、別々の語彙として成立しているモノを、言語の本質論から見直す事で始めて分析できているのであり、その本質論<言語は、概念的認識を、文字や音声として表した>と言う規定なのであり、<山>や<は>は、概念を表したものと言う事なのです。私の目の前にある<それ>を対象にした認識を概念にしたモノを<山>と言う文字で表現したと言う事に成ります。音声で表せば、<yama>と言う発音に成ります。オウムも<ohayou>と言う発声をするが、かれの頭の中に<概念>が成立しているかどうかと言う事なのです。そこで問題は、頭の中で成立していると言う<概念>なる認識とは、一体どう言う事なのかと言う事に成ります。それは、<ohayou>と言う発声が、言葉である限り、話者が他人に出会ったのが、朝と言う時であれば、その<挨拶>としてかける言葉として成立していると言う理解なのです。つまり、<ohayou>と言う発声の時、自分達を囲む状況に附いての認識と他者に出会った時に<挨拶をする>と言うルールについての知覚が成立している事なのです。子供が<ohayou>と言う言葉を覚えて使えるようになるのは、他者の発音をまねをして自分でも発声する事ができるようになる事であり、オウムはそれが出来ていると言う事です。しかしさらにその<ohayou>と言う音声が<挨拶>と言う概念を表していると言える為には、朝と言う時刻に他者と出会う時に相互に掛け合う言葉やしぐさが、<挨拶>と言う言葉で表される概念の現実態であると言う理解なのです。少しばかりの体を傾け、頭を下げる事で、他者に対して無防備である事を示すと言う所から生まれて来たしぐさが、<挨拶>と言う言葉で表される概念の現実態であると言う事なのです。
<挨拶>と言う言葉は、ある概念を表している言葉なのです。その概念は当然頭の中の脳細胞の働きとしてあり、他者と出会う事で、頭を下げるしぐさをしたり、<ohayou>と発声したりすると言う事を、頭脳の働きとしてみる時、それを概念が成立していると言うのです。つまり、頭の中の脳細胞の働きと言う事であっても、それは頭の中にあると言っても、林檎の実の中タネの様な物では無くて、頭を下げると言う仕種や発声と言う活動が、脳細胞の働きの現実態と言う理解をしなければならないのです。だからどんなに挨拶をしようとしても、声帯を傷つけて発声が出来ないからと言っても、<ohayou>が発声しないからと一て、彼に<挨拶>の概念がないと言う事では無い。発声や頭を下げると言う活動が、頭の中の脳細胞の働きと、相対的な関係にある事を理解する事で、概念が頭の中で成立している何らかの実体と言う論理的な把握が可能に成ります。<挨拶>と言う言葉で表す概念は、<ohayou>と言う発声や頭を下げる事や、目配せをすると言う様な事までを含む多様な形態が成立する事で、初めて多様な形態に表れ得る頭脳の中のものとして概念が成立するのです。脳細胞の働きとして成立する認識が、多様な物質形態、発声や目の動きや手の働き等として表現される様に成る時、認識は概念と呼ばれるのです。と言う事は、認識が特定の形態のみに表現される時、その認識を感性的認識と言うのです。感性的認識が表現されるのが特定の形態であるのに対して、概念が表現される形態は、感性的認識が表現されるモノの、種類と言う側面が使われるのです。つまり、<挨拶>と言う概念は、日本では<頭を下げる>と言う事であり、他国では<握手をする>と言う事であり、また<鼻の頭を摺り合わせる>と言った事としてあるが、それらが、<挨拶>と言う言葉が表す概念の現実形態と言うとなのです。
<挨拶>を直ぐに概念と言わないのは、概念が文字や音声や身体活動の形態で表現される事でしか、そのあり方を示せないからです。つまり<概念>は、この様な<概念>と言うインクの跡や音声として示される事で、その言葉で表されていると理解するのです。私は、目の前で示されている<ohayou>と言う彼の言葉と仕種を知覚しながら、知覚しているそれらを、ある概念の具体例あるいは現実態として理解するのです。人同士が出会った時に相互に行なわれる行為に対して、諸々の行為がある概念の表れであると理解する事で、ある概念が<挨拶>と言う言葉で表されてもいる事を理解する。<挨拶>と言う言葉を知らなくとも、人と出会えば相互に頭を下げたり、声を掛けたりする事でなされている事に対して、それラを対象にした指示の言葉として<挨拶>と言う言葉が使われるのです。自分達が行なつている事を対象にして、これらが<挨拶>と言う言葉が指示する物なのだと理解するのです。自分達が行なっている行為は、ひとが出会う時に相互に行なわれる諸行為であり、それがひと相互の間をスムースに行なおうと言う意志の表れであると理解するのでする。その意志のあり方によって相互に行なわれる事に対して、意志を中心として諸知覚の総体があるにしても、それが概念なのでは無くて、その意志の総体が諸活動として表される事で、例えば<ニコニコしながら、頭を下げる>と言う行為の過程的構造を<概念>と言う言葉で表しているのです。頭の中にある意志と活動の総体に対して、その意志を概念とし、身体諸活動を表現形態とすると言う論理的な区別は、意志が頭の中で、単独に浮遊する何ものかである様なイメージとしてあり、そのモノが、身体活動として表れていると理解されてしまう。そうではない。意志とは、身体の活動としてあると言う事なのです。私達人間の活動を構造として捕らえる時の一端が身体であり、他端が精神といわれ、その精神が意志とか認識と規定されるのです。つまり、精神と身体とが構造であると言う事は、何か二つの歯車があると言う事では無い。頭脳の脳細胞の働きとしてあるモノが、身体の活動を促すものとしてあり、その活動をしている身体を活動抜きで、モノとして捕らえたのが、身体であり、活動を促す脳細胞の働きを精神とするのです。身体とは活動の<主体>と言う側面としてあり、その活動を促すものとして精神があるのです。精神と身体は<活動>と言う点を介して繋がるのであり、精神の具体性は、<活動>の多様性としてあると言う事です。

主語も目的語も表す<は>の事を研究者は<主題>と呼んで来た。
「宿題はちゃんとやのました。」と言う文は、「貴方は宿題をやりましたか?」と言うような質問に対する答えとして言われたりするのが、普通です。つまり、「宿題」の事がすでに話題となっていて、その宿題を中心的なテーマとする文が「宿題はちゃんとやりました。」であると言う訳です。
主題とは何か?
その文の「は」が附いている語彙が表すものが、その文が成立する以前に取り上げられていると言う、前もつて成立している事を、つまり、主題を示すと言う。
しかし、「人は死ぬ」の「人」はいわゆる普通名詞であり、その普通名詞に「は」が附くと、「すべての〜」と言う意味になります。「は」が附いた名詞が、その名詞が指す事の出来るものの「全体」を指すと言うのは、大切な性質です。
「おはようございます。今日は月曜日です」と言う「今日」は、特定の10月3日と言う日であるかも知れないが、その日全体を示す為に「は」が使われていると言う事に成る。
「は」は全体で「が」は部分である。
鯨が、哺乳類です。
この鯨も、鯨全体を指しているはずだか、しかしこの全体は、<シュチ、鯨、サメ、マグロ等>と言う哺乳類集合全体の部分集合としての<鯨集合>と言う部分の事を言っているのです。この部分集合としてのクジラは、他の部分集合に対して、哺乳類と言う集合の一つとして個別的な物として取り上げられている。
<犬が走っている。>
「犬」とか「鳥」が、基本的には「犬全体」とか「鳥全体」を指しているとすれば、この文の「犬」は全体では無く、今目の前にいる<これ>の事を示しているのです。この「犬」には、排他性がありません。それは、現に目の前にいる<これ>を指事しているのであり、猫でもなく、鳥でも無いと言う否定として取り上げられていないからです。
      「太郎は犬を飼っている。」
      「私は、太郎は学生である事を、しっている。」
      「私は、太郎が学生である事を、しっている。」
      「私が、太郎が学生である事を、しっている。」
      「私が、太郎は学生である事を、しっている。」
−−太郎と言う対象と学生と言う対象の重なり具合を考えるのです。太郎と言う人物の属性として<学生>と言う性質があると言うのを、「太郎は、」と言う文で表そうとしている。太郎の隣に二郎がいたり、三郎がいても、あくまでも太郎と言う人物の自体に附いて問題にしているのである。それに対して「太郎が、」と言う場合太郎と言う人物が、学生と言う集合の一つである事を示しているのです。太郎と言う人物の属性としての学生ではなく、学生と言う集合の一つとしての太郎であり、当然二郎もその集合の一つである。ただし三郎は、社会人の集合の一つといてあるのです。集合の中の一つ一つは、学生であり、1人の学生は、他の学生と、同等な物として成立している。太郎=学生、なら二郎=学生と言う事に成ります。とすると、私がいる所から見える他者に対しては、個別的なものとしての何人かの人間が見えているのであり、その個別的なモノの一つが、<太郎が、>と表現されるのです。舞台の全体に光が当てられていて、沢山の役者のなかのひとりと言う観点が<太郎が、>と表現され。それに対して舞台が一転闇に反転し、一人の人物にスポットライトが当てられる事で、舞台にいるたの役者は無視され、彼一人だけが取り上げられる時、彼に付いての言説は、彼と言う主体の属性として示されるのです。<太郎が、>と言う場合は、主体としての太郎に対して、属性としての学生ではなく、主体=太郎=学生と言うことなのです。つまり、全体の舞台の上では、何人もの役者がいて−−これらは、役者と言う客観的な世界のことであり、舞台を降りても役者である−−各々が学生、先生、医師、サラリーマンと言う存在としてあり、けっして太郎と言う名の役者の属性として学生と言うあり方をしているのでは無いのです。
「私が、太郎が学生である事を、しっている。」
と言う文の場合、私以外にも何人か人がいて、その中の一人としての<私>に対して、私=知 と言う関係が成立しているのであり、その知の内容として、<太郎=学生>が成立しているのです。知の領域に入って来るのは、誰であるのかと言う問があり、その問に対して知の領域に入るのは、私である事を言おうとしている。又、学生の領域に入るのは、太郎であると言う事を知として得ていると言う事である。
それに対して「私が、太郎は学生である事を、しっている。」
と言う文は、私=知っている ということであり、その知の内容が、太郎と言う存在の属性として学生が成立っていると言う事で、当然他の属性もあるが、ここでは学生と言う属性がある事を示している。太郎と言う存在に対して、それに多様な属性があり、その内の学生と言う属性があるよといっているのです。
つまり、<は>がつく名詞は、その存在が捕らえられ、その存在の属性が、述語として表現されている。<が>がつく名詞は、述語で示されるモノの実体としてある事を表現している。
その存在を全体と規定し、実体としてのモノが多数ある事で、一つ一つの実体は、部分として規定される。集合と言う概念は、同一の属性を持ったモノとしての各要素の集まり、と言う事なのだが、 今沢山の鳩がいるとして、一匹一匹の集まりとしての、鳩と言う集合を考えたとしても、一匹一匹がはとなのであって、集合と言う実体がある訳では無い。それに対して私と言う存在に対して、手とか足、鼻、耳、皮膚等と言う多数の身体と言う要素の集合と考えた場合、存在と言う全体と要素と言う存在が、考えられているのです。

日本語の源流・言葉の歴史が語る日本語と日本人・佐藤美智代・青春出版社

第三章 日本語の特徴
助詞を読み解く
助詞の位置付け:助詞<私は、の「は」、貴方を、の「を」、これが、の「が」、ここだけの「だけ」などを指し、言葉と言葉がどんな関係にあるかを説明する役割、すなわち言葉と言葉を繋ぐ接着剤の様な役割を担っている。
−−私達の話したり、書いたり、聞いたり、読んだりしているモノに対してそしてそれらが言葉と言われるのだが、分析をして行く事で、最低一個の語彙から、多数の語彙の順序だった連結として成立っている事を知るのです。<私は、私が、私に、私だけ、私を、私へ等>と言う様にして、私と言う語彙とたの語彙とが組み合わされて、<私>に付いての意味が変化して来る事を知るのです。この<私>について私の意味を変化させる語彙の事を助詞と言うのです。この助詞に語彙同士をつなぐ接着剤の働きを比喩として考えるのは、どの様な語彙同士ならどの助詞を接着剤として使うのかと言う事に成ります。しかし、この様な接着剤の比喩から生まれる、語彙同士の具体的関係の解明をしなければならないと言う考え方は、同時にもともと語彙同士の接着剤としての助詞と言う事が一体何にを言い表わそうとしているのかと言う事なのです。具体的な接着剤のあり方と同時に、そもそも接着剤とは一体なんなのかと言う事なのです。言葉の経験に対して、それを分析した所に生まれて来た助詞と他の語彙の関係を、接着材と言う比喩で語るのです。つまり、接着の具体性を解明する事は、<は、が、を、に、だけ等>の違いを明らかにする事だけでは無くて、そもそもそれらの共通する助詞とは何かを明らかにすると言う事なのです。だから助詞を接着剤の様なものと言う事では、その同一性の解明の入り口に立っているだけなのです。それを接着剤と言う比喩を使っただけで、全てが理解されたかの様に成っているのです。
助詞を摂着材と比喩する事は、接着されるモノと接着剤とは全く別の構造であり、紙と紙を張り合わせるとき、紙と接着剤とは別の材質であルと言う事なのです。つまり、助詞と他の語彙とが全くべつのモノであると言う事なのです。この助詞の他の語彙との間にある異質性は何でしょうか。それは、他の語彙が、例えば<山>と言う語彙が、私達の目の前にある「それ」を対象として、それの集類と言う側面が表現されているのに対して、助詞たる例えば「は」には、対象が見当たらないと言う事なのです。しかし<山、川、空、感情等>の様な対象がないとしても、これらの語彙を接着するものとして助詞があるという事になります。語彙同士の関係が、助詞に表されていると言う事です。語彙同志の関係とは何でしょうか。それは語彙が指事している対象に対して、話者がどんな捕らえ方をしているかを示しているのです。どんな捕らえ方とは、対象に対しての話者の認識の事を言うが、それは、例えば、太郎と呼ばれる人間とその属性である学生との関係として示されるのです。太郎と言う主体とその主体の属性であるかぎり、「太郎は、学生である」と言う用に<は>によってしめされ、それらの関係を話者が判断した事を<である>でしめすのです。それに対して太郎が、学生と言う集合の一つである事を、「太郎が、学生である」と言う様に、<が>で表して、さらにそれらが話者の判断である事を、<である>で示すのです。対象の形成している関係を一方は、太郎と言う語彙で、他方を学生と言う語彙で表し、両者の関係を<は>や<が>であらわし、さらにそれらが話者の判断である事を<である>で表すのです。話者の発声する言葉は、対象を、その関係で捕らえ、関係を形成している個別を個々の語彙で、その関係自体を助詞で表し、さらに関係で捕らえている事を、判断として<である>で表すのてです。現に丸ごとある<対象>に対して、人物が<太郎>と言う名前で、人物の属性を<学生>という言葉で表し、<主体と属性>と言う関係を<は>で表したり、<主体=実体>と言う関係を<が>で表しているのです。
<主体と属性>と言う区分は、わりと分かりやすい。いま私の目の前のものに対して、それが林檎と言う名前であり、食べ物であり、甘酸っぱく、表面が赤い色をしていると言う時、モノに対してその名前と言う属性、色と言う属性、形と言う属性、味と言う属性等の、モノとその属性として考える事が出来るのです。それに対して、そのモノが、林檎と言う名前で呼ばれる多数のものの一つである時、多数のモノが知覚されていて、その多数のモノがどれも皆、林檎と言う名前であり、赤い色である等で捕らえらル時、一つ一つのモノが、<赤い>と言う色の属性によって共通であるからと言う事では無いのです。多数のモノが一つの集まりとして捕らえる時、それを一つの集合とするのは、一個一個のモノの<色と言う属性>が共通性としてあると言う考え方は、しかしその色と言うモノは、林檎を入れておくバスケットの様な物では無い。数学の集合論の説明に使われる<円形の環>としてあるのでは無いのです。<円形の環>は、その中にある物が、全て皆同一の要素としてあると言う事を、モノの外に想定したのです。単に一個一個のモノの諸属性に対して、A属性を共通性とすると言う事では無い。属性である限り、他の属性もあり、けっして幾つの属性が合わされると主体に成ると言う事では無い。属性と言う時、すでに主体も成立しているのです。それに対して、集合の要素の場合は、個々の主体にAと言う属性があるからでは無くて、A属性の実体が即主体であると言う事です。この属性の実体化と言う過程が、集合の説明における<円形の環>と言う比喩としてあらわれているのでしょう。学生の集合と言う時、太郎は学生そのものであり、彼に色々ある属性のうち学生と言う属性があるのだと言う事では無い。学生が太郎と言う形態で表れているのです。学校と言う相識の中で、勉強をする者を学生と言うなら、そこにいる人々はみなその学生と言う概念の現実形態という事に成る。ただ学校と言う組織もあれば、社会と言う組織があり、家族と言う組織があれば、その相識の中では、皆その組織の概念の現実形態と言う事なのです。
では何が、主体と属性と言う事で、学生を属性としてを見てしまうのか。それは、太郎と言う人物画、ある時は家族の一員であり、電車の乗客であり、スーパーの買い物客であり、学生でありと言うあり方を、その場面である関係を抜きにして考えてしまうからです。太郎と言う人間は、二郎とも三郎とも違った別々の人なのだから、彼一人に付いて考える事に問題は無い様に見えるのです。とすると、太郎に諸属性として<学生><社会人><客><生徒><男><通行人>等があると考えるのです。しかし太郎の属性と考えられている<学生>も、学校と言う組織があり、先生がいてと言う他者と形成している関係の中で成立しているのであり、その関係と言う舞台の上で、始めて学生とか社会人、客、通行人と言う事なのです。主体の属性とは、その関係から生ずるモノを、主体の機能や性質と規定する事なのです。

「が」について、ヨーロッパ、アメリカ言語には相当するものが、なかなかないと言われている。 <私が、山田です。>−−(1)
<私は、山田です。>−−(2)
これらを英語で翻訳する時、両方とも<I am Yamada>となります。
(1)の<が>は<私と山田>と言う言葉の関係を表している。<山田>の存在はすでに知られているが、誰が山田さんなのか分からない時に使われる。
−−山田と言う名前の人がいると言う話の行為の前に持っている知識によって、今目の前にしている、この場所に数名の人々がいると言う知識を分析して行く事で、この数名の人のなかで、どの人が山田さんであるのかを、人々に向かって聞くのです。<誰が、山田さんですか?>この問に対して、なかの人が<私が、山田です>と答えるのです。話の前に持っている「人々の中に山田と言う名前の人がいる」と言う知識を持ちながら、今目の前にしている現に知覚しているこれらの事態について判断するのです。数名の人の存在を現に今知覚している。この数名の存在と言う認識は、その数名の人の各々にある名前のうち、<山田>と言う名前の人が、数名の人のどの人かを確認するのです。数名の人を確認しているが、同時にその確認に対して、名前と繋がっている、そのつながりを確認するのです。誰が山田さんであろうと、現に今知覚している数名の人の存在に対して、さらに<山田−人の名前>と言う関係から、どの人に<山田−人の名前>の関係が当てはまるかと言う事なのです。つまり、私がいま知覚している<人と言う>存在に対して、<人−名前>と言う関係の<人>を介して、存在の<人>と言うあり方に指示して行くのです。
現に今目の前にしている存在に対して−−そしてこの様な言葉にする事自体、<存在>と言う概念としてあつかわれているのだが−−<人>と言う言葉で表される概念が成立しているのであり、この人と言う概念には、名前と言う概念が関係しているのであり、いま目の前にしている存在を<人>と認識する事で、その認識が、<人−名前>を介して、<人−太郎>と言うなまうの指示に成るのです。私が人に出会い、彼に面と向かっているのに、名前と言う概念がある事はわかるのに、彼の名前が浮かんで来ないと言う思いに成るのです。彼に出会った時、名前が付いていると言う事は分かるのに、具体的なインクの跡の文字や発声としての言葉がどうしても出て来ないのです。太郎と言う文字や音声が、彼を指示する時、その指示内容は<名前>と言う言葉で表す概念であって、脳細胞が傷つけられていない限り、名前と言う言葉で表される概念とその概念の現実形としての<太郎>と言う言葉が、表現されるのです。オウムさえも発声出来る音声としての<太郎>は、私達人間にとって、名付けると言う概念の現実形態である事を、知る事に成るのです。
名前と言う言葉が表す<概念>と<山田和夫>と言う文字や音声との関係は、その概念と概念の現実形態と言う事なのです。Aと言う人物がいて、彼と<山田和夫>と言う文字とが、<名前>と言う言葉で表される<概念>の関係にあると言うのです。つまり、私達は、<山田和夫>と言う文字が名前と言う概念である事を知るのは、正に<山田和夫>と言う文字を、その人に対して使用する事なのだが、その使用の事を<名指す>と言うのであり、オウムが<Yamada>と発声するのとわ違うのである。<名指す>と言う意識があり、その意識と同時に<山田和夫>と言う発声するのです。対象を視覚する事で、彼に視線を向け続けるのであり、彼の側に近付いたりする事で彼と言う個人を特定するのです。つまり、言葉以外の方法で個人を特定している中で、<名指す>と言う言葉としての<固有名>が成立しているのです。<個人としての特定に>と言う意識は、その特定の個人に向けて名前を言う様に使われるのであり、それが向けられた個人が、返事をするとか、振り向くとかいうこういによって、特定性が実現されて行くのです。つまり、特定性と言う意識は個人の内部の問題ノ様に見えるが、しかしその個人が特定され事で、引き起こされる物があるからこそ、私達は意識するのであり、だから意識を全く<静止的>に考えてしまえば、頭脳の中に閉じこもってしまい、外部から伺いしれないものとなってしまうのです。特定の個人とは、その人にあるモノであり、特定の個人といったとき、魔法使いの魔法によってに立木に変えられてしまった兵隊と言ったモノでは無いのです。「立木は、<本当は>兵隊さんなんだよ」と言う訳では無いのです。
概念と概念の現実形態は、日常的には、一般則と具体例と言う事なのだが、ただ日常の<具体例>は、現実に使用されるモノとしてあるのでは無く、使用される物についての知識と言う意味合いが強いのです。<山田和夫>と言う名前は、この私の名前であり、他者が私を<山田和夫>と言う名前で呼ぶとき、それは彼と私との現実的な出来事としてあり、それによって次の行動が起こされると言う事なのです。つまり、名前とは「この様なものだ」と言う様に、例として扱われる側面があったとしても、そして新しく生まれて来た自分の子供に、相応しいと考えている名前をつけるのは、他者の名前の付け方を例としても、それはどんな名前にするのかと言う事だけであって、名前を付けた後で、その名前を強く呼んだり、優しく呼んだり、叱りつける様に呼んだりと言うことで、人との関係が絶えず前に出ている事なのです。

名詞に表れている特徴
助詞は単語の働きを区別をあらわす品詞の一つである。
名詞、動詞、形容詞、形容動詞、副詞、連体詞、接続詞、感動詞、助詞、助動詞の10種に分類する事ができる。
        日本語    外国語             
  性別  無し     有り(冠詞や形容詞の付け方が変わって来る)
  数   無し(犬)     単数、複数の区別(Dogs,a Dog)

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山田和夫
kyamada@nns.ne.jp
URL:http://www.nns.ne.jp/pri/kyamada/menu.html
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