2003.09.06

可能世界/固有名・現代思想・1995年4月号

可能世界/固有名


数学基礎論、可能世界論、カントのコペルニクス的転回にせよ、構造主義の問題を再考するところから生まれてきた。構造は、数学的な所から生まれてきた。「かたち」ではなく変換規則を意味している。対象がある形式によって構成されると言う事に関して、その対象を文化的と自然的とに区別する必要はない。カントがやった区別は、理論的か実践的かと言う事です。構造か実存の区別です。カントの現象と物自体と言う区別は、関係(構造)とその関係項と言う様なものだと思います。人間はこの世界から関係しかつかめない。ところが「関係」は物が在るようには在るわけではない。プラトンは、だから、この「関係」をイデア的なものとみなした。カントはそれを斥けて「関係」を主観的な構成だと考えた。例えば天動説の場合、地球の回りを回る太陽は知覚される対象です。ところが地動説では、太陽は数学的関係の任意の項です。もう目に見える太陽とは関係がないのです。カントはいわば「構造」の側から考えた。それまで主観と客観と呼ばれていたものは、構造の項でしかない。しかし、構造は主観的形式であって、主観は関係の内容、つまり関係の項を与えることはできない。カントはその様な内容を与える外部性を物自体と呼んだのです。観とが言う物自体は、物のその様な実存性であって、彼は物自体を理論的でなく、実践的な問題だとみなしたのです。カントは、悟性が捕らえるのは関係だけだと考えている。関係の素材、内容を悟性は与える事が出来ない。
感性と悟性の区別に関して、感性そのものは能動的な形式です。カントが言いたい感性はその受動性です。この二つが混同されています。別の例で言うと経済学で使用価値と価値と言うくべつがありますがねマルクスの価値形態論では使用価値は価値形態の中で存在する形式です。ところが使用価値と言うものが、交換価値とととは別に在る物だと考えられるし、マルクスもそんな風に書いたりしています。しかしある物の使用価値はそれが交換価値であることによって生じる訳です。使用価値は価値形態の素材的形態です。言語学で言えば音韻と言うのは意味を弁別単位だから、意味と言うモノと関連しないとでてこない。つまり、物と使用価値、音声と音韻のくべつは、価値あるいは意味の側から見たときに成り立つ訳です。使用価値や音韻は、商品や言語と言う形式において始めてその内容として存在する。それは物や音とは違うのです。意味や価値に対してはマテリアルなものとしてある。感性はそういう物です。
物や音声を知覚する人間の感性は、まさに<感性>と言う言葉で表されるレベルになった認識としての感性は、単なる音や物にたいする知覚ではなく、それらが音韻とか使用価値と言ったレベルから見られた知覚としての感性と言うことです。つまり、単なる音を聞いているのではなく、音相互の違いを、例えば<あいうえお>と言う母音で在れば、五つの母音が<い>音を基準にして周波数による<あえ>と<うお>が対称的あり方をしているという規則性としてあると言うことです。五つの音の違いであると言うことと、五つがまとまった対称性を持つと言うことなのです。単なる音の知覚と音韻としての知覚は、前者が自然の音であるなら、後者は社会的音と言うことです。
固有名を確定記述の束に還元できるかどうかと言うクリプキの問題は、関係項と関係と言う問題です。ラッセルが言う確定記述は、個物を関係の束のなかに見ることです。

「名辞」その指示対象・使い方・同一性(池田清彦)


固有名は、私にとっていつも指示対象が在るとは言えない。<アリストテレス>と言う固有名は私にとっていかなる指示対象も持たないのです。他人は「アリストテレスは古代ギリシャの最大の哲学者の一人で、あなたの研究室の埃をかぶっているアリストテレス全集の著者そのひとです」と教えてくれても、他者は私にアリストテレスと言う固有名の使い方を教えてくれただけでうあってアリストテレスという固有名の指示対象を教えてくれた訳ではない。
フレーゲ、ラツセルらで代表される、いわゆる記述説によれば固有名は記述の束に還元され、指示対象もまた記述の束によって決定される。
名前を學ぶに当たって、受け手はそれを伝えてくれた人と同じ指示でそれを使うことを<意図せねばならない。>とクリプキは言う。
2003年の現代の私たちにとって、徳川家康と言う固有名を持つ人物は、記述された言葉の中にあるが、その人物に接していた人々にとって直接的に<徳川家康>と言う言葉の指示対象を、その目で知覚していると言う事となのです。私達にとって時間的な制約であり現に生きている私達の時代では、固有名(徳川家康)の指示対象者を自分の目で見る事は出来ないのだが、同時代の人々は、確実に自分の目でみているのです。同時代の人々が直接経験した事を固有名などを使って文として記述したのであり、現代の私達はその記述から、徳川家康と言う人物を知る事になるのです。つまり、<固有名が指示対象を持つ>と言う事は、一般性のレベルであって私が自分の子供に名前をつければ、名前と指示対象を同時に知ることになるが、子供が産まれる1カ月前に離婚して外国に行ってしまった人は、子供は確かに生まれてきていても、名前も指示対象をも知ることはないのであり、個別のレベルでは、その固有名を使ったり、指示対象を自分の目で見たりする事で、現に目の前にいる者に多対して、名前と指示対象者とを知るのであり、私にとって過去の人も私がいない未来の人についても、自分の目で知る事がないからと言って、<固有名が指示対象を持つ>と言う事は相変わらず成立しているのです。
自分にとって他者の言葉を理解すると言う事がどういう事なのかと言う事です。つまり、他者が経験している特定の固有名とその指示対象者に対して、私は彼の言葉を聞いて言葉として理解すると言う事なのでしょう。
私の友人Aさんの母親である<瞳さん>と言う名前の指示対象を、私は直接見知ってはいないのです。私は町ですれ違う無数の人々を見ることになるが、それらの人々に固有名があるにしても、私は知らないのだから、私の視知覚している人々の存在は、さしあたって固有名とは関係ないのです。そのすれ違っている人々の中で見かけた人の存在があり、彼の固有名はBとすれば、<B−−見かけたその人>と言う固有名とその人の存在において、その存在が始めて<指示対象>と言う事に成ったのです。見知ったては居ない人々と同じ人でありながら、<固有名B>−<その人>と言う関係が成立している人として規定されると時、町で見かけている人と言う以外に、固有名Bを持つ人と言う事を<この私>が知ると言う事なのです。つまり、その人の名前を<Bさん>として知っていると言うことです。私は連れの者に対して、<ほらあそこを歩いている女性は、Aさんのおかあさんであり、名前を薫さんと言うんだよ>と教えるのですが、この時私の連れは、彼が見ている女性に対して、名前として<薫>と言う固有名を覚えるのです。その名前を覚えると言う行為は<視知覚している人に対して>−−<薫>と言う文字や音声を関係づける事であり、その関係を<名付ける>と言う概念として理解することであり、今見ている人々にもある文字や音声を覚えなが、同時にその名付けると言う言葉で表される概念の現実態として理解すると言う事なのです。今目にしている人ひとりづつに対して、皆名前を持っていると理解しながら、それぞれの人ひとりについて<薫><和夫>と言う言葉を覚えていくことは、<名前を持つ>と言う概念の現実態であることを実行しているのです。しかしその概念も、私が頭の中に持ち合わせていても、出会った人に対して名前を覚えようとしなければ、概念の現実態を実行しないと言うだけであり、出会って覚えた印象等は知覚しているだけと言う事になります。さらに名前は、文字や音声として成立している為に例えば紙の上に文字として記しておけば、紙がなくならない限り、名前は記され続けています。紙が存在し続けて、その間にその人が死んでしまったとしても、<その人−薫>と言う名前の関係は続くのです。しかし人々の間に<その人>が生きていたと言う記憶が無くなってしまえば、<薫>と言う文字が、誰についての<名前>で在るのかも考えなくなるのです。

小説の中に出てくる人名は、作者が仮構したものであり、現実の指示対象を命名の時点でさえ持っていない。それにも関わらず私は私の友人に、例えば「罪と罰」の主人公、ラスコーリニコフについて論議をする事ができる。固有名は指示対象を持たなければならないとすれば、ラスコーリニコフは固有名ではないのか。私達は単に記述を通して知っているだけであり、言い換えればそれらの名前と言うコトバの使い方を知っているだけです。
固有名は世界に存在する個物(あるいは個人)を指示対象として持つ、と言う信念は、固有名の存在根拠を、外部世界の個物に求める点で、素朴実在論の一変種なのである。私の考えでは、個物を指示するものが固有名なのではなく、固有名により指示し得るものが個物なのである。
「固有名がまずあり、それが<指示しえる>ものが、個物である」と言う事について、固有名と呼ばれる文字があり、<あるもの>との間に<指示する>と言う関係が成立すると言う事なら、<指示する、名指す>と言う事がどんな事なのかと言う事です。コトバは、どんな言葉であろうと指示対象を持つ事に対して、普通名詞の指示対象と固有名詞の指示対象の違いがあるという事です。<あるモノ−−ハイセイコー>と、<あるモノ−−馬>と言う時、後者はあるモノが種類として馬と言う名前で表されていることであり、あるモノが他のモノと共有している共通性を表しているのです。それに対して前者は、あるモノがたのモノとの共通性といったどんな種類であると言うことに関わらず、その姿全体に対して指示しているのです。あるモノに対して私達はその全体を視知覚している。それを種類として判断すれば、<馬>と言うのであり、それを一個のものとして判断すれば、<ハイセイコー>と言う名前で呼ぶことになる。それが一個のものとしてあっても、視知覚しているモノは、種類として判断されていて、私の頭の中で成立している対象に対する判断が、<ハイセイコーは、その馬の固有名です>と言う言葉になるのです。
SAの母親は赤ん坊のSAから現代の47歳のSAまでを間違いなく同一視する事が出来る。それに対して7歳の時まで一緒にいたBにとって、40年後のいま偶然にSAにあったとしても、その人がSAである事に全く気づかないのです。固有名SAは、固有名が指示しているのは、その人物が絶えず変化していても同一であることを対象としているからであり、母親はその同一性を指示できるが、Bには7歳までのに指示していた同一性と、今目の前にいる人物をつなげることが出来ないために、目の前にしている人物を、固有名SAで指示できていないのです。SAの47年間の変化の中でも変化しない同一性が固有名の指示対象であるなら、母親は47年間の同一でありながら変化しているものを知り得ているのであり、Bは7年間の変化と同一を知っているだけで、40年の変化を知らないためにその同一性が連続していないのです。つまり、47年の間の変化に対してその変化に一切関係なく同一が得られているのではなく、もしそんなら7年間の間の同一性は、その後そのまま続いているのだから、40年ぶりに合っても、理解できると言う事になるのだが、変化と同一の統一としてある同一であるから、40年の変化を知らなければ、同一も理解できていないと言うことなのです。 <池田さん>の事を知らない人と、彼を知っている私とが話をする時、二人は<池田さん>についての意味の持ち方が違うと言うこと。二人とも<池田>は、固有名であり、誰かの名前だと言うこと知っている。その誰かを、私は直接見知っているので彼と固有名(池田)を連結出来るが、Aさんにとっては、直接知らないので、私の発する池田さんについての言葉の述語の所から池田さんについての内容を理解するのです。しかしBさんの理解した池田さんについての理解は、あくまでも私の理解を言葉にしたモノを理解しているのであって、Bさんが池田さんに直接あって自分の目で見れば、別の理解が生ずるのです。<百聞は一見にしかず>と言う真理は、そこの辺を言葉にしたモノです。しかしBさんが直接出会おうとしても、その時点で池田さんが死んでいれば直接合うことで得られる理解が出来ないと言うことです。<池田>と言う固有名を持つ人に対して、直接であったとか合わないと言うことは、直接の見聞の点で違う事は確かであるが、その固有名で呼ばれている人がなした仕事が、現代の私にも関係しているとすれば、知に依って関わることと、身体を含んだ物質的な活動で関わる事の構造としてあるのです。池田さんの思想は記述され言葉として本として残ったり、彼に接した弟子と呼ばれる人々中に伝達されているのであるとすれば、人と出合う事で成立するモノは、Bさんにはすでにいない人であると言うことは、またBさんが今いきている事で出合う人々がいると言う事なのです。その人々の間になにか優劣があると言う発想は、すでに居ない人に合わない事は、原理的に固有名が不可能だと言った短絡に成ってしまうのです。今の私が徳川家康に合わないと言う事が、なにかの問題の様に考えることは、神を作り出した私達にとっては難しくない事なのです。

歴史上の人物名や見知らぬひとの名前や小説の主人公の名は、すべて対象を指示出来ない固有名である。この様な名に関して、人はその使い方を知っているだけなのである。この対象のない名は他のコトバ達との関係性の中でしか存在する事ができる。それに対して対象を持つ名は、他のコトバ達とは独立に存在する事ができる。
Aさんが言う自分の母親の名前AIKOは、実在の対象が在るのだが、しかし今私に対してそのコトバを使うとき、彼の母親は死んでおり、今は存在していないのだから、私にもAさんにも、今は対象がないと言うことになる。
世界は変化してやまない。時空間に何らかの拡がりを持つ変化してやまない任意の現象系列を個物と認定する根拠は、個物にも世界にも自存している訳ではない。それは我々が発する固有名の同一性の中に存在するだけである。
固有名が同一だから、その固有名がついている対象も個物であり、同一であると言うこととになる。つまり、個物とか同一と言う規定が、固有名から出てくると言う事です。世界は無定型であり、混沌であり、それを有限で固部的であるモノにするのは、固有名であると言う考え方です。
金と言うモノを知っている人にとって、金と言う名辞の指示対象は、目の前にある金の塊に決まっているが、目の前にあるモノは、飾りや貨幣として使うと言う事を理解しているのであり、それを名辞として<金>と名付けても、その塊の使い方が、別に新しくなる訳ではない。

固有名の矛盾・その異化と同化(イ・ヨンスク)


人は単にそれ自体としての事物に名前を付けるのでなく、その事物と人間との関わりを不可分のまとまりとして、それに名前を付けるのです。名前を付ける事ではじめて混沌の中に溶け込んでいた事実や事物は、人間の語る物語のなかにの出来事となって、自らの物語を生み出していく。
この記述に対する確からしい納得は、世界についてなにも知らない自分の無知に対して、名前を介して記憶していけば、世界についての混沌としたイメージが、輪郭を持った世界と成ってくると言う経験です。つまり、世界が輪郭を持って来るのではなく、私の中の世界についての像が明確に成って来たと言うことです。明確に成ってくれば私の世界についての働きかけも、事物の細部を区別しながら扱うことも出来るし、<糞も味噌も>一色単にすることはないのです。しかしこれは神が混沌とした泥の世界を、かき回して日本の国をつくったといった神話の世界の事ではないのです。人間は物事の区別を知ると言う知の世界が頭の中に出来ていなければ、毒の入ったモノを食べれば自分の身体を損傷すると言う事に成りかねず、毒であるモノとないモノとの区別や、少しばかりの毒は体にとっていいこともあると言う経験を培っていくのです。世界にそれ自体明確な輪郭があっても、それを知として組み入れていく努力なしに<世界が明確に輪郭がある>と言ってもなにも成らないのです。味噌も糞も一色短にしく扱えない知力が、味噌の区別と糞のく別が出来れば、朝飯時においしい味噌汁を飲むことが出来るのです。
固有名と一般名の優劣を考えてしまうのなぜなのかと言うことです。<ポチ>と<犬>の両者の間に優劣を考えるのは何故なのかと言うことです。その答えとして固有名には、<意味>がないからと言うことです。
固有名論の歴史的に資料としてジョン・スチュワート・ミルが「論理学体系」において展開した。・・・ほとんどの名詞は主体を指示すると共に、その主体の含む属性を共示する。
・・・<主体−属性>は、<主語−述語>と言う言語的枠組みと二重写しに成っている。
・例えば、<雪>と言う名詞は、対象としての「雪」を指示し、「白さ」「冷たさ」などを共示する。それに対して固有名<雪乃>は、個別性を示すだけであり、供示するモノがないのです。
ミルにとって固有名は、「これらの個別者を談話の主題とする為に用いられる記号にすぎない」事になる。その意味で固有名詞は「アラビアン・ナイト」に出てくる盗賊が、白墨で目指す家に目印を付けたときの白墨の×点と同じ働きをしていると言う。目印を付ける目的はただ区別をする事にある。その家についてなんらかの知識を含む訳ではない。したがって「固有名詞はたんなる無意味な目印にすぎない」のです。
場所の特定が出来ている家に白墨で×点を付けているのは、その家に盗賊の宝をくすねたシンド・バッドが入って言ったからであり、その彼を仲間と捕まえに行くために、その家である事を他の家と区別するために白墨の×点を付けている。つまり、白墨の×点は、同じ大きさで色で形をした沢山の家の中から、そのシンド・バッドが住んでいる家だけを区別する為に必要な印と言う事です。同じ形、色、大きさをした沢山の家があり、その同じと言うことだけで、すでに区別が付かないのであり、ただ一軒一軒が重なる様に連続して建てられて居るのです。その同一の属性を持っている家々から、特定の人間シンド・バッドが住んでいる家を発見したと言うことに対して、<その特定性>とは、属性の点で同一である家とその家に入って行った人間との関係で特定の家と言う事なのだが、ただシンド・バッドとの関係で成立する<特定性>では、その彼が居なくなれば、相変わらず他と同じ属性を持つ家と言う事であるにすぎない。ではその彼との関係で成立する<特定性>を、家で継続させるためにはどうしたらいいのかと言えば、それは同一の属性と言うレベルで考えるのです。それがその家の扉にあって、他の家の扉にはない白墨の×点を記して置くことなのです。×点のある家とない家の区別を立てる事で、シンド・バッドの家を特定するのです。×点の付いている家には、シンド・バッドが居り、彼を見つけるなら、まず×点の家を探せばいいと云う事なのです。所で、この白墨の×点の意味に対して、単なる目印であると言う事で中にいるシンド・バッドとはなにも繋がりを持っていないと判断されている。確かにシンド・バッドとはつながりを持っていないが、この場合の白墨の×点は、家の形、大きさ、色と言う点での同一性から、沢山ある家が皆同じに知覚されてしまう事に対して、同じ家々の中で、一つだけ違う家で有る事を表すのに、その同一性を成り立たせている<形、色、大きさ>と云う観点を使うのであり、それが白墨の白の色であり、線の形としての×点と云う事です。つまり、同じ家々であると云う現実に対して、その同じさ加減が、<形、色、大きさ>であると了解出来ているからこそ、家々に区別を付けるなら、同じさ加減を破綻させるものが必要と言うことなのです。それが白墨の×点と言う事なのです。
<シンド・バッドが居る家>である事に対して、シンド・バッドを探し出す事が目的であり、そのシンド・バッドが住んでいる家を探しだす事で、シンド・バッドを探し出すと言う事なのです。そこで沢山ある、皆、形も色も大きさも皆同じに見える家々のをどのように区別立てをするかと言う事になるのです。だから白墨の×点とシンド・バッドを見比べても、つながりがないのは当然です。そのつながりが無い事から、白墨の×点には、意味が無いと言っても何にも言った事にはならない。さらに白墨の×点が、家の住み心地や誰の持ち物かと言った事を表していないのは確かだが、それは白墨の×点の問題ではないのです。同じ、形で色で大きさである為に相互の区別が出来ていない家々であるからこそ、その違いを区別する為に成立してきたものなのです。

この様なミルの言説に対して反旗を翻したのが、オットー・イェスペルセンです。
言語の意味作用のあり方から見れば、普通名詞も固有名詞も少しの違いもない。相互の意味転化が起きる事から違いはないと言うことです。しかし彼は、固有名の特性を普通名詞に還元して、固有名の特性を考えなかった。
両学者にとって、固有名詞は「対象と属性」「指示と内包」「外示と共示」と言う枠組み、つまりひとえに「一般性と個別性」と言う枠組みのなかでのみ固有名詞を捕らえるからです。この枠組みについて考え直す事が必要に成ってきている。
それはほかでもない「名付け」の行為の特異性です。固有名詞と他の記号との関係、固有名の指示対象との関係を考えるのです。
ソシュールが切り開いた言語記号観によれば、あるものの名前は、偶々そうなったと言うだけであり、あるもののあり方からは、規定されない自由がある。しかし固有名の場合、名前として悪魔とも汚物とも付けてもいいのに、そういうことをしないのです。さらに「ねこ」を「いぬ」と変えたら、体系をすべて変更しなければならないが、固有名の場合全体としての体系に変更をもたらすことはない。新しく子供が生まれて名前をつけても、それだけで回りの言語体系が変わることはない。言語の意味を対象についての知識・情報の事だけを指している。なるほど固有名詞を言語にとって周辺的・寄生的なものとして捕らえてる言語学は、言語を情報に還元する事によってしか成り立たないのである。この様な言語学では固有名詞は無意味な記号に転落してしまうのである。固有名は翻訳を拒否する事で、ラングの境界を簡単に飛び越えてしまう。
固有名詞の世界ではAはただ「A」と呼ばれるのではない。Aはまさに存在そのものが「A」なのである。バラは「バラ」と言う名前で呼ばれのではなく、バラは「バラ」なのである。
フランス革命やロシア革命の際に、地名の変更が行われたのは権力の生理からすれば当然の事である。権力の交代がある時、必ずと言っていいほど固有名詞の取り替えが行われのも、世界の象徴的支配は固有名詞の創造と抹殺がその核をなしているからです。自らの思うままに名前を付ける事は自らを神の権座に置くことにある。
「名付ける」と言う事が、ある個別的存在と文字や音声を関係づける事だが、人々が特定のモノに名前を付ける時に、それが共有される人の集団があり、集団Aが共有する名付けが、集団Bには共有されないと言う事があるのです。その地区の公用語と言う発想は、例えば戦争に勝った国がその国を支配しようとするとき、負けた国の人間に自国語を話させないようにすることで、一つの国を滅ぼすと言うことなのです。生活の面での母国語の禁止は実行出来ないが、マスコミとか国の公の文章には、戦勝国のコトバしか使えないようにして、支配すると言う事なのです。
個体が個体たるべき特異性は一般性の中に埋没しやすい。しかし固有名をあらわす個体性とは個の中にと閉じこめられた偏狭な個体のあり方ではない。それは他者との関係性が、すぐさま一般性に昇華しないで、個体そのものの力となる様な存在のあり方の事である。固有名詞の特異性が「名付け」の行為にあると言う事は、固有名詞の中にすでに他者との関係性が刻みこまれていることを意味する。何故なら私の名前は、それをそう呼んでくれる他者がいなければ、すでに名前ではないから。固有名詞のもつ力を十全に発揮するには、一般性に基づく述語付け、根拠付け、属性付与に寄り掛かる事無く、ただ「Aがある」と言う個体性を全面的に肯定しなければならない。

不実なる固有名・高橋義人


「固有名は同一の対象を指示する」と言う主張に対する疑問
自然物に付けられた名前や記念碑的な名前に関してはそれが成り立つが、人の名前に関しては同姓同名が有る事を考えれば、同一の対象を指示していると考えにくい。
駅前の雑踏をあるいて居るとき、<鈴木一郎さん>と言う呼び声がしたとき、数人の男の人(ABCD)が振り返ったのであり、その中の一人Aが声をかけた人甲の所に歩いて行くのがみえる。固有名・鈴木一郎が指示する対象は、ABCDのそれぞれであるが、「鈴木一郎−A」鈴木一郎−B」鈴木一郎−C」鈴木一郎−D」と言う事であるが、今回の場合、<鈴木一郎さん>と発声した人甲との関わりで考えると、その関係は多様であるが、Aと言う人物の固有名として<鈴木一郎>が使われたと言うことです。その固有名を発声する人甲にとって、駅前で出合う約束している人の固有名を<鈴木一郎>と言う事を知っているので駅に着いた時、歩いて来る人に向かって<鈴木一郎さん>と発声するのです。この時歩いてくる人も、その人と会う約束で来ているのであるから、両者の間には共通の情報<駅前で出合う>があって、それを中心にして、固有名を聴いたひとAさんが、自分の固有名をを呼んでいると判断するのです。その様な情報(駅で会う)の無い人で、自分の用事でが、偶々なのかはべつにして、駅前に来たひとBCDさんたちが、その固有名を聴いたとき、自分の名前と同じ名前を呼んでいると判断して、呼んだひとの方向を見るのだが、その人の事を全く知らないので、同姓同名の人を呼んでいるのだと結論するのです。
つまり、鈴木一郎が固有名であり、それが人の名前であると言う事に対して、その一般論は「鈴木一郎−A」「鈴木一郎−B」「鈴木一郎−C」と言う個別的な事例があると言うことです。しかし「鈴木一郎さん」と発声する声があったとして、その発声の原因として雑踏の中に<鈴木一郎>と言う名前の人がどれだけ居るのかを知ろうとするだけなら、個別的な事例の数だけを取り出せばいいのであり、個々の人がどんな理由で駅前に来ているのかは、取り上げられていないのです。それに対して甲さんが発声する<鈴木一郎>と言う固有名は、甲さんが合う為の人の名前であり、その人に出合う為に駅前に来てどの人なのかを特定出来ないので、沢山いる人々の中のどの人かを特定するために固有名を発声しているのです。甲さんは駅前の雑踏の沢山の人を見ていて、対象に対する知覚判断が出来ている。この時の人々に対する甲さんの判断はただ駅前にいる人というだけであり、その人の中でどの人が、自分が出合おうとする人なのかは分からないのです。この分からないと言う判断は、「自分が出合おうとしている人もこの場所に来ているはずだ」と言う事を前提にしかし、目の前の人々のどの人なのかを特定されないと言う事なのです。見た目だけの特定するための情報が無いのです。ただ特定する情報として固有名<鈴木一郎>と言う名前だけであり、そこで甲さんは、目の前の人々に向かって<鈴木一郎さん>と呼びかけるのです。鈴木一郎と言う世間に沢山居る名前であるが、「今日この駅前に甲さんに会いに来る人」と言う特定される点をもつ人は決まったひとであるからこそ、甲さんの発声する<鈴木一郎さん>と言うコトバは、単なる発声練習でもなく、同姓同名の人を見つけるのでもない、特定の人の名前を呼ぶと言う事に成るのです。<鈴木一郎>と発声する事は、九官鳥も出来る喉の声帯運動であるが、どんな目的で発声するのかと言う事は、発声する人の判断領域の問題であり、自分が出合おうとする人を呼ぶ為に発声するかその名前を持つと言うレベルだけで、人々に向かって発声したのかは、判断領域の問題なのです。別の観点から言えば、私が駅前で合おうとする人は、どんな人なのかは分からないが、彼が胸に一輪の赤いバラと手に週刊誌を持っていると言う事で有れば、私が駅前の雑踏の中で見かけている沢山の人々の中に<胸に一輪の赤いバラ><手に週刊誌>の人が居るかどうかを確認すればいいのであり、その特徴を持った人が、私が出合おうとしている人に成るのです。私の目の前の個としての沢山の人がいても、私が出合おうと確認しているのは<人・男か女か分かっていない>であり、だから駅前に猫がいたり馬がいたり鯨がいても、それらが私が出合おうとしているものではない事は明らかです、人と言う事でその同一性が知られているのであるが、その同一性が確認されているモノのなかで、同一の人間集合のなかで、<これ>と指示できるものを確認するのに今、なにが必要なのかと言うことなのです。人間集合の中の単に同一性でのみ集まっているモノ達に対して、これと指示出来る区別を付ける事で成立するのです。それが<胸に赤い一輪のバラ><手に週刊誌>と言う特徴なのです。つまり、人間集合は、胸には何も付け手居らず、手ぶらに人ばかりか、鞄を下げていると言うことぐらいであると判断されているから、その点からの同一性、皆同じと言う事に対して、区別立てとして<胸に赤いバラ><手に週刊誌>と言う印を付けるのです。

自分が個人的にな知り合いの名前を呼んだり聞かされたりした場合、その人の面差しや言葉遣いが浮かんで来る事があるのだから、その浮かんできたモノがその人の名前に意味として潜んでいるのではないか。
「富士見台」と言う町名は、かっては確かに富士山がみえていたのだか、大きなビルが立てられてもう見えなく成っていても、今でも「富士見台」と呼ばれている。クリプキの主張に従えば、「富士見台」は<富士山がみえる台地>と言う意味を持って居るのではなく、それを端的に指示するのです。
「アリストテレス」ってどんな奴だい?と聞かれたとする。それに対して、アリストテレスは、プラトンの弟子で、アレクサンダーの家庭教師をやっていたし、「形而上学」を書いたりした男だと答える。とすると「プラトンの弟子」「アレクサンダーの家庭教師」「形而上学を書いた人」などが「アリストテレス」と言う固有名詞の意味内容に見える。この意味内容に対して反対の事を記述できるとしたら、「プラトンの弟子でない」としたら、「プラトンの弟子」と言う事はアリストテレスにとって偶然的な性質である。これらはアリストテレスと言う固有名の意味などではないのです。
<アリストテレスとは何であるか>と言う問いは、その属性を記述する事であるが、しかし<ほらこれがアリストテレスであるよ>と言う対象の確定がなされなければならない。しかし2003年の現代において古代ギリシヤ社会にいたと言うアリストテレスを<ほらこの人だよ>と指示することは出来ないのは、その人が居ないからです。しかし2003年の今<ほらこの人が、北島三郎だよ>と指示できるのです。古代ギリシヤの社会に居た人間で有れば、アリストテレスを指示できていたのであり、その指示できていた人物に着いての多様な記述をコトバとして残しているのであり、2003年の現代の私達にとってその記述である多数の著作物の記述内容から、アリストテレスと言う人物の存在とその内容を理解していくのです。しかしどんなに理解しても、それは私達の知の中身として成立するだけで、<ほら、この人物が、アリストテレスだよ>と指示はできないのです。2003年の私達は、タイムマシーンに乗せて<アリストテレス>をつれてきて、話をしたり学問を教えてもらったり、一緒にご飯を食べたりすると言うことが出来ると言うことではないのです。アリストテレスと言う固有名をもつ人物について多様な記述をすることが出来ると言う事と、多様な記述が出来ているからその多様な記述を合計すると<アリストテレス>と言う人物を作る事が出きると言うことではないのです。記述の世界の中では、あたかも多様な記述を合計すると一人の人物像ができあがる様にみえても、それは固有名がもつ対象指示による対象のイメージがあって、ただそのイメージをその世界の中で膨らますと言うことでしかないのです。
アリストテレスと言う名前が、アリストテレスと言う対象を与える、と言うことだとすると、アリストテレスと言う指示対象の同一性を保証しているのは、「アリストテレス」と言う固有名でありと言う循環に陥る。
固有名は個体を指すのではない。固有名は状況の中で待ち受けている事象を、一瞬のうちに、贅動する個体として立ちあげる。

可能世界を名指す事・固有名と記述の隙間から(三浦俊彦)


クリプキ・カプラン・プランティンガの直接指示の理論によれば、固有名は、あらゆる世界に渡って同一の対象を指し示す。外廷的同一性としての対象を指し示す。

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山田和夫
kyamada@nns.ne.jp
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