2003.09.13

名前のアルケオロジー・出口顕・紀伊国屋書店

(1)人の本名を口にしては成らない社会がある。
(2)初対面の相手に直接名前を尋ねるのが不躾にあたる社会もある。
(3)美しくなって欲しいと願って「美子」と名付ける。
(4)一人に複数の名前を付けることがある。
(5)複数の人が一つの名前を共用していることがある。 (6)名付け親が死ぬとその人がつけた名前を捨てて、新しい名付け親が現れるまで名無しになる。
第一部 裸の固有名詞
固有名詞:同じ種類に属する他のものから区別する為に、そのものだけに付けた名を表す語。人名・地名・国名・書名・曲名・会社名・団体名などの類」
普通名詞:同じ類に属する個物なら、そのどれも通じて適用される名称を表す名詞
「父親が、一郎で、母親が花子、長男が太郎、長女が秋子」「飼い猫がみー」「飼い犬が鉄」と言う名前で呼ばれるとき、人間と言う普通名詞、猫と言う普通名詞、犬と言う普通名詞で区別されているが、それらが個物として固有名を持っている。個物は皆名付けられているのです。<一郎、花子、太郎、秋子>と言う固有名が付いている個物は、また人間と言う名前で呼ばれるのであり、さらに生き物と呼ばれると言うことになる。長女が学校から帰ってきて、母親に向かって<鉄がいないけど、何処に言ったの>と言えば、その鉄が犬だとか、猫だと言うことを言っているのではない。長女は犬を飼っている事は当然になっていて、<犬の鉄は、何処に言ったの>とは言わないのです。
ジャック・デリダ(記号ととしての個人名)
(1)反復可能性・発声する主体を越えて繰り返して機能する。
(2)コンテクストからの分離可能性
(3)間隔化
Aと言う人物に<野茂英雄>と言う名前が付いているが、その人物が私達の目の前に居なくとも、彼に付いての話をすることが出来るのであり、話のコトバが出るとき、<野茂英雄>と言う固有名の指示対象は、私達の間では、彼についてのイメージを含む記憶の内容として成立している。<野茂英雄>と言う文字が指示する現実の人物に対して、私は直接見たことはないし、テレビ放映で映像として見ているだけであるが、それでも<野茂英雄>と言う固有名とそれが指示する対象の関係を、つまり<野茂英雄>と言う固有名が、特定の人物を名指していると言う事を、理解しているのです。ただ私にとっては<野茂英雄>と言う名前は、有る特定の一人の人物を指し示しているが、別の人にとって<野茂英雄>と言う固有名は、隣家のおじさんの名前でもあると言う事で、<野茂英雄>という名前は、別々の人の名前でも有るという同姓同名と言う事になるのです。同姓同名と言うとき、10人の人物が皆同じ<野茂英雄>と命名されていても、10人のモノに<人間>と言う名前が付いている区別されるのでしょう。10人のモノがそれぞれ持つある共通性を介して、<人間>と命名されているのです。その共通性が命名の対象ではなく、共通性をもつそれぞれのモノが、皆<人間>と呼ばれるのです。それに対して<野茂英雄>と言う固有名が、同姓同名としてある時、そこにいる10人の人物が皆同一の名前であるのは、少なくとも共通性がある事によると考えられる。この共通性と言う考え方は、10人と言う個体として知覚されているモノが、同一の名前と関係を結ぶ事に対して、<皆人間と呼ばれている>とか<皆猫と呼ばれている>と言う事ですが、その関係の所で成立している構造を表しているのです。その関係は、10のモノのそれぞれにある部分Gが、同一性として捕らえられる事で、1G、2G、3G、4G、5G、6G、7G・・・と言う構造として有るとき、はじめて<人間>と呼ばれるのです。さらにその同一性がHと捕らえられるとき、それぞれが<野茂英雄>と呼ばれる言う事です。
共通性G、Hは、10個の個体があり、それらに対して使われているのであり、固有名であろうと普通名であろうと、共通するものを、介して表したモノが、それらのコトバと言う事です。
<1G−人間><2G−人間><3G−人間><4G−人間>・・と言う事に対して、Gが共通性としてあり、そのGを持つ各<1、2、3、4、・・>を、<人間>と言う言葉として表しているのです。個体としての<1、2、3、4>が知覚されているのであり、それらに対して共通性としてのGが捕らえられる。そのGを<人間>という言葉に表す。しかしそのGと言う部分以外のモノは、切り捨てられると言う事ではないのです。Gとそれ以外のモノの総体に対して、<人間>と言う言葉を対応させると、普通この対応関係を<対象を指示する><名指す>と言うのだがはじめて<1G−人間>と言う事が成り立つのです。
対象の認識として、各個体の共通性<G>が捕らえられる。この時各個体の共通性G以外は切り捨てられてしまうが、ただ思弁的には思考の内部に保持されていて、後ほど問題するときに表に現れてくると言う考え方をするのです。何故なら、個体を<共通性とそれだけのもの>と言う区別で考える時、個体の本質としての共通性なら、その本質が現象しているレベルでは、<それだけのもの>を取り上げ無ければ成らないからです。このとき、思弁の内部に保持されていた<それだけのもの>が、現れてくると言うことなのです。しかしこの思弁的な説明は、<本質が現れる>と言う事だけで、説明し終えていると短絡しているのです。問題はその現れ方なのです。本質は自らの力に依って<現れる>と言う事で、現れるのは、本質に元々備わった現れ様とする<力>に依って現れるのであり、現れる力は、材利として<それだけのもの>を使用するであり、個体はその材料として、まさに本質が自らの力に依って現れていると言う事なのです。内部にある本質が自らの力によりその材質として現れたものが、各個体と言うのです。しかしこの説明が思弁であるのは、まさにその<力>のあり方を明らかにしなければ成らないと言うことです。
各個体の内部にある<共通性>を、<人間>と云う言葉に表し、その<人間>と云う言葉を、共通性を持つ各個体に対して指示として関係づける事で、始めてその個体が<人間>と云う言葉で表される<共通性>の現実形態と云うことになるのです。思弁の云う本質の力とは、共通性を表した<人間>と言う文字や音声を、認識が対象にしていた各個体に関係づける事で、その対象に成っている個体がそのまま、その言葉の表されている<共通性>の現実形態になるのです。その個体との言葉の対応関係を対象指示、名指しというのです。<名指し>と言う事は、言葉と対象との間の関係として成立しているが、その構造としては、言葉に表されている<共通性>の現実形態であるということなのです。認識としては個体の内部にある本質とか、たの個体との共通性という事で、思弁がどんなにその本質の自力によって、個体の全体を説明しようとしても、まさにその自力の正体が問われている事が忘れられているのです。ここではその共通性、本質に力が有る訳ではなく、言葉として表され、その言葉が、対象を指示することで、対象自体が−−思弁では認識が切り捨てたり、自分の内部に保持していて隠れているだけだと説明しなければ成らないことを−−言葉に表されている<共通性、本質>の、現実の姿であると言うことなのです。認識としては、<本質と現象>という区別として把握したもの、区別して二つに振り分ける事で知ることなのだが、言葉による指示関係により、始めて指示されている対象がそのままで、言葉に表されている本質や共通性の、現実の姿であることを、実践していくのです。だから九官鳥の発声する言葉なるものという考え方は二重の意味で、観点を忘れている。音声には対象の共通性が対応している事と、その対応している音声を対象に指示として関係していると言う事なのです。
対象の共通性という捉え方は、次の様な説明で明らかになります。
アリハバと40人の盗賊と言うアラビアン・ナイトの中で、主人公アリババが見つけた盗賊の宝を、盗賊が取り返そうとしてアリババの家を探し出し、彼の家の扉に白墨の×点を付け、盗賊全員でアリババを捕まえようとするのです。このとき、盗賊がアリババの家の扉に白墨の×点を付けるのは、×点の付いている扉がある家が、ほかの者の家と違ってアリババの家である事を示す為なのです。×点印を付けないと沢山の同じ様な家ばかりで、アリババの家の確認が出来ないからです。客観的には、必ずどこかの家に住んでいるのであるが、ただ盗賊にはその確認が出来ないと言う事なのです。そこでアリババの後を付けた盗賊が、家に入って言ったアリババを確認したら、その家の扉に白墨の×点を付ける事で、その×点の付いた扉のある家がアリババの家である事を知るのです。たの盗賊は、その白墨の×点が付いている扉の家を発見することで、その家の中にアリババを発見すると言う事になるのです。盗賊が確認した<その家は、アリババが入って行った家であり、アリババはその中に居る>と言う事を、他の同じ様な家と区別する為に、白墨の×点を扉に付ける事で表そうとするのです。白墨の×点は、<アリババが中に居る>と言う盗賊の知覚内容に対応しているのであり、他人はその白墨の×点を見ただけでは、それが何を表す記号なのかは、類推出来ないのです。何故なら<アリババが居る>と言う事と、白墨の×点にはつながりが無いからです。しかしアリババを付けてきた盗賊にとって自分が確認した事を、白墨の×点で対応させたのであり、その白墨をアリババが居る家の扉に記す事で、この家がアリババの居る家だと言うことを表しているのです。さて、<盗賊が確認している・アリババが居る−−白墨の×点>と言う対応関係の内、前者は盗賊の頭で行われたアリババの動きから得た対象認識であり、あくまでも頭の中の出来事としてあり、その認識に対して、白墨の×点を対応させているだけです。つまりその家に入った事を入った時点で確認している盗賊にとって、その家の確認は、アリババが居ると言う認識と重なって居るのです。透明なガラスの家であれば、いつでも中の人間がアリババである事を確認出来るから、アリババの顔を忘れない限り、仲間を呼びに言ってその場をはずれても良いのだか、しかし一旦中に入ってしまえば、その家にいると言う事は分かっていても、その場を離れてしまつて、再度戻ってきても、皆同じ様な家である為に、再度家を見付ける事が出来なくなるのです。そこで<アリババが居ると言う確認>を、<白墨の×点>に対応させる事で、あるいは<赤いペンキの×点>に対応させる事で−−この対応関係は、任意の対応であり、対応させる物に、限定は無いので、一つの約束にすぎないのです−−その対応関係を前提にして、現にアリババが居る家の扉にその対応関係の他端である、白墨の×点をつけると、その扉の家は、<アリババが居る>と言う事の現実形態となるのです。
もう一度考えてみる。自分達の宝を横取りしているアリババを見付けた盗賊が、宝を取り戻す為にアリババの後をつけて彼の拠点を知ろうとするのです。アリババが入っていった家を見付けるとその家の扉に白墨の×点を付けて、仲間を呼びに帰り、仲間とつれてきて、×点が付いている家に入りアリババを捕まえて宝を取り戻そうとするのです。近くの住人がその家にだけその白墨の×点がある事を見知っても、昨日までなかったのに、何故今日これが扉に付けられているのか分からないのです。盗賊の意図など分かりません。×点だから、なにかを表しているのだろうと言う予想はするかもしれません。盗賊にすれば、白墨の×点は、なにも特別な事ではなく、ただ<アリババが居る>事を示す為の記号であるのです。この一連の出来事に対して、その構造を説明するのです。
盗賊が家の扉に付けた<白墨の×点>は、盗賊がアリババの動きを確認した末に、アリババがこの中にいると言う事を表す為に付けられたのです。一軒の家の扉に付けられた<白墨の×点>は、盗賊のアリババに対する確認行為であり、その確認行為として成立しているのです。<アリババが居る−白墨の×点>と言う関係の内、盗賊が追跡によって得たアリババの行動に対する<アリババが居る>と言う認識に対応するモノは、後者の白墨の×点、赤のペンキでも、扉の前に小石を3個おくでも、扉にナイフで傷をつける、てもいいのであり、それを任意に<白墨の×点>に対応させると言うルールをつくったのです。つまり、白墨にも赤いペンキにもナイフの傷にも、対応する資格はあるが、それを今回は<白墨の×点>にしたと言う事なのです。犬であったら、その扉の前に<おしっこ>をひっかける事で、おしっこを対応づけるかもしれない。
盗賊が知ろうが知るまいが、<アリババが、この町に住んでいる限り、昨日も今日も明日もその家にいる>と言う事実と<白墨の×点>が対応しているのではない。宝物をくすねた人物としてのアリババに対して、捕られた宝物を取り返すためにその住居を確認し様と言う事であり、その確認した事は、彼の記憶として頭の中に入ったのであり、今確認している<他の家ではなく、この家に居る>と言う事に対して、<この>と言う指示対象を、それから目を離さなければ−−仲間を連れに行くのに、その場を離れなければならないのです−−持続するのだが一旦目をはなすと、どれなのか分からなく成るからこそ、目を離した後でもすぐに<この家>と分かる様にしなければ成らないのです。つまり、事実としては沢山ある家について、<家は、山田さんの家で、家はアリババがいる家で>と言う事であるが、その事実に対して、<この家>と言う、盗賊からする<この>と言う位置にある指示対象の家について、<アリババの家である>と言う認識が成立しているのです。
私のこのような回りくどい言い方は、アリババと盗賊のいる世界の出来事を、私が言葉として説明しようとする事からうまれている。アリババの住んでいる町を俯瞰する位置からは、どの家も皆同じ様な形、色、大きさであり、その中の一つの家にアリババはすんだいるのであり、盗賊はアリババの後をつけて、アリババの住む家を確認するのです。当然これは、私が二人の状態を俯瞰する所から見おろし、すーと視点を、盗賊の方に移動し、そこから見ながら言葉にして説明しているのです。これを俯瞰の位置からをアリババの前方に視点を移動すれば、そこから説明する者である私に見えているのは、<アリババの後ろを追いかけてくる盗賊がいる>と言う事です。つまり、<追いかける>と言う事実に対して、追いかけて<来る>のか、追いかけて<行く>のかの違いは、二人を見る私の位置を、盗賊の方に置くか、アリババの方に置くかと言うことです。今回はアリババが盗賊につけられている事に全く気づいていない事であるから、二人の動きの説明は、盗賊の方向からみるアリババと言う位置関係に成るのです。それをアリババの前方から、アリババをつけてくる盗賊を見ていれば、<アリババをつける盗賊とそれに気づいていないアリババ>と言う構図から私は、<アリババよ盗賊につけられているのを早く気づけ>とつぶやくのです。ただこのつぶやきは二人のいる世界を俯瞰する位置にいる作者や鑑賞者の行いでしかないのだが。
作者たる私は、アリババや盗賊の判断も、行動も、一切を言葉で説明しているのである。アリババの行動が、彼の判断によって支えられている事を説明する時、行動と判断は特有な構造としてあるのだが、言葉としては、行動の説明についで、判断の説明と言う様になり、あたかも二つの連続的に行動の様になってしまうのです。つまり、歩く行動と考える事が、同じ事のように扱われてしまうのです。さらに言えば、歩くと言う行動と考えると言う行為にたいして、<二つは特有な構造としてある>と言う言い方は、前者二つの

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山田和夫
kyamada@nns.ne.jp
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