2003.09.13

認知意味論・松本曜 編・大修館書店・認知言語学入門第三巻

第一章 認知意味論とは何か
意味の問題を知覚や認識との関連で捉える意味理論である。
(1)言語使用者の外界認識の産物として捉える
(2)言語的意味と百科事典的知識の無理な区別をしない。
(3)意味に経験などからの動機付けを求める
<意味とは何か>と言う問いに対する認知意味論の立場からの答え
従来の答え:ソシュールの記号観によると、言語記号には、「表すもの」と「表されるもの」と言う二つの側面がある。
<表すもの・能記−−シニフィアン>−−−音やインクの跡である。
<表されるもの・所記−−シニフィエ>−−意味である。
この二つが結びついて、記号が成立する。意味とは何かと問う事は、この所記が何であるのかを問う事になる。ソシュールはそれを概念とするのです。言語記号の意味は、それに依って表される所記である概念と言う事になる。,br> しかし概念が、言語記号の意味であると言う考え方に対して、多くの言語学者に支持されなかった。それは概念が曖昧であり、よく理解できないものであると考えられたからです。それが20世紀の心理学が追究した行動心理学と言う考え方に現れました。人間の内面といったあるのだかどうか分からないものを追究するよりは、客観的で人の外に現れる行動のみが研究の対象になったのです。それでは概念の代わりに<何が>意味だと考えられるだろうか。
(1)その語が指し示す指示物、あるいは指示物の集合である。
  反論:もし、首相と言う語の意味がその指示物であるとすれば、その人物が代わった時、語の意味が変化する事になるが、人物が代わっても、語の意味が変化するわけではない。
「首相」と言う語が指示する対象物は、特定の人物であり、Aと言う人物が首相をやめると、次にBと言う人物が首相になるのです。とすると人物A自体ではなく、AにもBにもある<何か>が、指示されているのであり、その人物のその<何か>が<首相>と言う言葉に表されると、Aはその<何か>を持っているから、Aが首相と呼ばれるのです。Aが死亡すると<何か>を持っている主体、本体が無くなるので、<首相>と云う言葉で表されないと云う事です。しかし現時点では、首相と呼ばれて居るのは、人物Bであり<Bは首相である>と云う事になる。さらに現時点から見ると、今も生存している人物Aについて考えると、<Aはかって首相であった>という事になる。そこでこの文が成り立つのは、Aと言う人物には前に<何か>があり、それをを<首相>と言う言葉で表しているのです。つまり、A自信と<何か>は、客観的関係としてありその<何か>が、無くなってもその関係が有ったと言う事は、確かであり、又Aが死亡する等で本体が無くなっても、かってA自体と<何か>が関係としてあったと言う事は、事実なのです。
とすると<Aはかって首相であった>と言う言葉は、Aさんのかって生きていたときのその客観的関係が、その関係は現代の私達の記憶として残っている為に、その記憶が認識として加工され言葉としての<Aはかって首相であった>となったのです。つまり、私達の記憶の中は対象物に対するる認識として成立していて、その認識がその度に言葉として表されるのです。言葉を発声したり書かれたりするのはいつも今であり、書き言葉は、文字として成立すればインクの跡が消えない限り今の言葉がそこに残り続けるのです。そして残り続けている言葉を、かっての言葉でもいま私達が読むのです。いま目の前にしている物や事にたいしての知覚から認識がうまれ、その認識を言葉にすれば、有る朝目撃していることも、私の知覚を通して認識されるが、その時点で言葉にすることも有れば、時差をつけて言葉にすることも有るのです。言葉は、その言葉に表されている認識を介して、知覚の対象に向かうのであり、その知覚の対象物と言葉とが指示関係を結べは、言葉として表されている認識の現実態として知覚の対象物が、捉えられるのです。知覚した内容と認識の内容は、例えば人の顔を自分の目で見ている事(視知覚)で成立するイメージ、表象が、認識の種として成立する。つまり、一度イメージが出来ると、そのイメージを頭の中に浮かばせる事で、彼について色々な思考を巡らすのであり、その時彼は私の前にいなくても良いことになります。しかしそのイメージが出来ていても、私からの一面であるために、次に出合ったときにイメージが覆ってしまうのてす。イメージを浮かべる事は、対象についての視知覚と認識の間で成立し、錯視と言う知覚現象は、対象についての視知覚の場に、対象には無い物が<見える>と言う事なのです。イメージの様に目を瞑っていても、頭に中に浮かぶのと違い、現に目を見開いているその時に見ている物の所に、そこには無いはずの物が見えていると言う事なのです。「対象」<−知覚−錯視知覚−イメージ−認識>と言う事に成ります。

語の指示物の集合はその語の外廷と呼ばれ、その語の中に内在する内包と区別される。
内包と外廷による言葉の意味の説明。
語の意味は「その語の正しい使用の為に外廷が満たされなければならない条件」と定義される。
その語が指示する物と、今指示している物とが同一であるかどうかを決めるのが、語の意味であるという事。猫と言う言葉の意味は、その猫と言う語と、今指示している物が、決まった指示関係にあるかどうかによってきまり、指示物が違っていれば、その語の使い方を間違えていると言う事になる。丸と言う語の指示対象物が○である時、<丸−○>と言う指示関係に対して、<丸−×>であるよと指示物を指し示せば、×は丸と言う言葉の指示する物ではないと教えられても、それで<丸−×>という関係が、空虚に消えてしまうのではない。そこで成立している<指示関係>と言う一般レベルては正しいのであり、ただ<丸−○>と訂正されるだけなのです。今まで有った<×>の位置に<○>を入れ替えれば良いのです。
その指示物は、<犬>と言う言葉で呼ぶのだし、猫と言う言葉が指示するのは、そちらの指示物であると言うことなのです。そこで、言葉の指示が、間違っていても、正しくても、<言葉は指示する>と言う事は、明らかな構造であり、決まった対象物を指示するまで、指示行為が継続されるのです。指示すると言う事には間違いないが、指示物の選択に間違いがあると言うことです。

この意味論の考え方は、語の意味が直接外界と結ぶ付いている点が特徴で、その点で「客観的」意味論とも言える。しかしこの考え方には、外界を認識しそれに基づいて語を使う認識主体の存在が抜け落ちている。
構造主義による意味論
語の意味は、たの語の意味との関係で成立する。例えば、boyと言う語は、girl、man、childなどの他の語との関係において理解しうるとされる。
<丸−○>と言う指示関係は、<ばつ−×>と言う指示関係と切り放せないのであり、両者の一意的な対応は、他の物に置き換え出来ないのであり、これを指示関係の上に語と指示物があると言うことなのです。
認知意味論は、意味が概念的である事を受け入れる。そして意味が人間の外界認識の産物であると考える。語の意味は、外界の指示物を決定する物と言うよりか、認識された外界をカテゴリー化したモノである。認知心理学、ゲシュタルト心理学は、すでに外界の知覚に知覚側の内的なプロセスが関与している事を明らかにしていた。「ルビンの盃」は、地と図という構造になっているのであり、どちちらに見る者の視点を置くかと言う、見る者の働きかけなしには、何が見えるのか言えないのです。意味の現象を見ていくと、言語的な意味が客観的な外観を直接反映したものでなく、認識主体の主体的解釈に基づいている事を示す現象が多く存在する。
言語化されるものは、客観的な外界ではなく、それが知覚・認識されて私達の心に投影されたものである。
第二章 語の意味
認知意味論の前史:チェックリスト意味論
語の意味はより元素的な要素に還元されると考えられている。例)boy「+human」「+male」「+-adult」と言う三つの要素に還元(分解)される。この要素を意味素性、意味標識、意味成分などと言われる。これらり意味を構成する要素とは、その語の適切な使用の為に外廷が満たされなければ成らない条件である。
構造主義意味論の流れである。特定の言語要素を、それが構造全体の中で占める位置に依って定義しようとするものです。それぞれのごは独立に存在しているのではなく、他の語との意味的関係の中で構造的に位置づけられている。
   man 「+human」 「+male」「+adult」
   woman「+human」 「-male」「+adult」
   boy 「-human」 「+male」「-adult」
   girl 「-human」 「-male」「-adult」
チェックリスト意味論における意味特徴の限界をしめす。
<cup>の分析:様々な容器の中でどのようなモノをcupと呼ぶのか。mug,bowl,glassとどの様に違うのか。cupの外廷を決める条件は何かと言う観点から実験を行った。沢山の容器の絵を見せて、どれが<cup>と呼ばれるのか指示し、その理由を述べるのです。
cupと呼ばれる事に関わらず、容器と言うレベルで作られたモノを沢山並べ、それらのどれがcupと呼ばれても問題ないかを調べた。左右の手のひらを合わせ、その中に水を入れて飲む時手のひらで作り出す形が、水を入れる容器として働くとき、その合わせた手の形を容器と呼ばなくとも、しかし容器として働くのです。私達の生活の中にある、土や粘土や木や金属のもので作られているモノに<容器>と言う言葉のレッテルが貼られるのは、それらの諸物の属性として有る<モノ>が、私達の頭の中に概念として認識され、その認識たる概念を<容器>と言う言葉で表し、諸物の指示対象として働く事で、その言葉で指示されているモノが、属性の認識として成立している概念の現実形態と成るのです。認識の対象としては、そこに有るモノの属性が捉えられている。<そこに有るモノ>の属性が認識されているだけであり、知としては属性が内容として成立していて、<そこにあるモノ>は、知の内容に成っていないのです。そこから生まれる理屈として沢山ある各属性を合計する事で、<そこにあるモノ>自体が知覚された事になると言うのです。しかしこの理屈は、各属性をどれだけ集める必要が有るのかと言う事になります。そこでその属性の認識を言葉に表し、その言葉が認識の対象である、属性をもつ<そこに有るモノ>と指示関係を結ぶ時、<そこにあるモノ>自体が、認識の内容の現実態となるのです。属性と言う区別ではなく、自体が属性そのものとなるのです。ここには、属性の認識を沢山集めれば、自体になると言う考えはないのであり、指示されているモノは、現に言葉に表されている概念(特定の内容を持った認識)の現実態としてあると言う事です。つまり、その認識を沢山集めなくとも、いまある言葉に表されている概念が、指示されているモノ自体を、現実態として扱うのです。
プロトタイプ(典型)意味論
red:ある有限の幅があり、その幅の中心をプロトタイプとして、その幅の両脇に行くに従ってプロトタイプから外れると理解する。redは、特定の色相、明度の値により定義される<真っ赤>をプロトタイプとし、それらの連続的な尺度上でそれに近いほど典型的である、と言う構造を持つ事になる。これは、redのカテゴリーの成員であるかどうかには程度があり、曖昧(ファジー)なカテゴリーを作っている事を意味する。
bird:この語の指示物には、<羽毛がある><翼がある><嘴がある><卵をうむ><空を飛ぶ><足が二本ある>などの特徴がある。これに対する凡例<空がとべない駝鳥><翼がないペンギン>
climmb:離散的条件
プロトタイプの性質
例えば、birdと言うプロトタイプ例で言えば、<コマツグミ>とと言う鳥じたいがプロトタイプではない。コマツグミが持つすべての特性がbirdのプロトタイプに貢献するわけではない。
フレーム
<land>と<grand>と言う二語は、同一の<地球の乾いた表面>に対して、海との対比での<地球の乾いた表面>をlandと言い。その上の大気との対比での<地球の乾いた表面>をgrandと言う。
  <a bird that spends its life on the grand> 飛べない鳥の事
  <a bird that spends its life on the land> 水鳥でない鳥の事
この語は、フレーム(ここでは空間理解)の中でどのように位置づけられるかと言う点において異なっている。

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山田和夫
kyamada@nns.ne.jp
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