2003.09.27

言葉の学習のパラドックス・今井むつみ・共立出版(株)

ことばと意味の即時マッピングと制約理論
1〜6歳の間に、言葉の発話に伴う「指さし」や親の目線などの、非常に曖昧な手がかりから、発話された音の連なりを「意味」と結びつけて行くのです。子供はたった一度、新しい言葉を導入しただけ、その言葉を特定の概念領域に対応づけ、それにより、既成の表象を再編成する。この対応付けを<即時マッピング・fastmapping>
「リンゴ」と言う音の連なりが、私達の意味する所の「林檎」だけをさし、他のモノを指さない事を確定する事は、実は論理的には非常に難しい問題を含んでいる。
「りんご」と言う音の連なりが、目の前にある沢山のモノの中で、これと<ゆび>で指示されているモノをだけを呼んでいる事の論理性を問うのです。その前にゆびで指し示すものが、お米の粒を区別して特定のこれと区分けされるのとは違い、色とか形や大きさで区別できるのであり、それは言葉による指示とは別の感覚知覚による区別と言うことになる。だから10個のパイプ椅子は、みな同型で大きさが同じで、一個一個は皆同じと言う事でしか捉えようがない が、10個ある机に対しては、別々のモノである事が、その形や大きさで、それぞれ違うと言う判断をするのです。一方は腰をかけるのであり、他方はその上にモノを乗せる事で、私達の活動の道具となるのです。これが<机>と言う言葉で呼ばれ、それが<椅子>と呼ばれても、これとそれがいったい何であるのかは、これとそれが私達の身体活動に対してどんな道具として働くのかを知る事なのです。子供も周りの人の真似をして見よう見まねでそれに腰掛けるのであり、それをなすとき少なくともその形態を識別出来ているのです。大人はこれが<椅子>と呼ばれている時、これの使い方を知っているので、椅子と呼ばれているモノが、<何であるか>と言う問いに対して実際に座って見せると言う事で答えを出す事が出来る。しかし子供にとって最初は、その姿形のモノが<椅子>と言う言葉で呼ばれるのであり、さらに<それが何であるか>と言う問いは、よけいなモノとなるのです。つまり、何を問うのか分からないのです。その問いに対して、<これが、椅子である>としか言えないのです。つまり、大人は、<椅子とは何か>と言う問いが、<椅子>と言う言葉が指示する対象がどれか、その指示する対象がどんな働きとして有るかと言う二つのレベルが有る事を知っているので、それに見合った答えを出せるが、子供の知は、言葉と指示物との関係をまず知る事で始まっているのです。二つの間に有る指示関係、つまり、Aと言う文字、音声にaと言うモノが対応すると言う事であり、そのaは見た通りの形や色として知覚され、別のモノにも同じ知覚が出来れば、それもAに対応すると言う事なのです。その対応の中で、<見たとおりの形や色>だけでなく、そのaの使い方が概念として認識される事で、初めてAと言う言葉が、概念の表現となるのです。この時、<見た通りの内容>は、形や色や大きさ等として対象の性質として再構成されるのである。さらに、その概念の表現たるAが、aを指示する事で、指示物aはそれ自身で概念の現実形態となるのです。この段階に成ると、指示物aは見た通りの形や色の知覚で名指される共通となっていたものを属性として持つ指示物aが、そのまま概念の現実形態になるのです。
クワインの謎
言葉の指示対象を確定する際の論理的な難しさを次の様に投げかける。
自分達とは違った言葉を話している人々の所で、彼等の言葉と自分の言葉の間の翻訳辞書を作ろうとする。例えば、現地人が、私達の言葉で<ウサギ>とよばれる目の前のモノを指さして「ガヴァガーイ」と発話をしたとしよう。その時言語学者は「ガヴァガーイ」の意味を正しく確定する事が出来るだろうか。私達の言葉で<うさぎ>と言う言葉であるか、それ以外の可能性もあるかもしれない。目の前のモノの色、形、大きさ、走って居る事、佇んでいる事、耳を立て居る事等であるかもしれない。あるいは体の一部を指示しているかもしれない。
私達の使う<うさぎ>と言う言葉は、今目の前にいるそれA自体を指示しているのであり、それがやはり目の前のそれA自体を<生き物>と言う言葉で指示する時、<A_ウサギ><A−生き物>と言う対応関係は、<B−ライオン><B−生き物>と言う関係が成立している事をしれば、言葉の違いが分かると言う事なのです。つまり、A1、A2、A3、A4、A5・・・にも<うさぎ>と言う言葉を使えば、それらのどれにも共通性があり、その共通性を<うさぎ>と言う言葉に表し、さらにその言葉を、A1、A2、A3・・に指示として関係づける事で、A1自体が<うさぎ>と言う言葉に表されている<共通性>の現実形態となるのです。さらに同じ対象の共通性を<生き物>と言う言葉に表し、その言葉でA1、A2・・・を指示すれば、その指示物は<生き物>と言う言葉に表される共通性の現実形態ともなるのです。

日常生活の中で大人が幼い子供に語りかける時、多くの場合言葉は、一つの指示物に対して、ラベルづけと言う形で発話される。例えば、遊園地で折りの中にいる<それ>に対して、「ほら、うさぎさんだよ」と言う。その時、ほとんどの場合「うさぎ」と言う言葉がどういう意味なのか、何を指すのかを説明しない。では、子供はどのようにして言葉の指示対象を曖昧な状況から確定して行くのだろうか。
今目の前にあるものが、<うさぎ>と呼ばれたり、<生き物>と呼ばれたりする時、目の前のモノではなく、外のモノを指示しているかもしれないと言う疑問に対して、そうではなく今目の前にしているものが、それ自身<うさぎ>であったり、<生き物>であったりするのであり、それがどのようなレベルの違いが<うさぎ>であり、<生き物>であるかと言うことなのです。たとえば私達の目の前にしているモノに対して、私達は<うさぎ>と呼んでいるが、子供が<みみ>と呼んだとすれば、それに名前が付いていると言うことは私も子供も同じ了解をしているのであり、その了解の上で子供が間違った名前をおぼえてしまったと言うことになるのであり、私達は子供に向かって正しい発音をしながら<うさぎ>と言う言葉を教えるのです。子供がウサギと呼ばれているモノの、その耳の大きさの特徴の印象が強く、私達がそれを<みみ>と発音したことから、それ自体を<みみ>と覚えたとすれば、二人が見ているモノを、子供が<みみ、いるね>と言えば、その言葉は体の一部としての<耳>の事ではなく、私達が<うさぎ>と呼んでいるモノ自体を名指していると理解するのです。私達の間ではその<みみ>と言う言葉で、<うさぎ>と言う言葉が指示するものを、指示していると言うことで了解出来ているのです。しかし第三者にはそのあいだの事情が分からなければ、<みみ>と言う言葉が、何を指示しているのかが理解できないと言う事になります。子供が私達の間ではコミュニケーションの成立が出来ている事に対して、第三者にも了解できる<うさぎ>と言う言葉を覚えるのは、言葉の持つ社会性を更に広げると言う事に依るのです。
言葉の意味とは何か?
二つの側面:外廷(指示対象の集まり)内包(指示対象となるモノが、どの様な属性を持ち、指示対象にならない事物とどの点において異なるかの知識)。この内包により、あるる事例がその言葉の指示対象となるかどうかを決定する。沢山の事例の中で、特定の内包Aを持つモノが、集められる事で、外廷が成立する。
「赤」と言う言葉の内包が何であるかを言語的な属性で記述するのはほとんど不可能である。しかし人は「赤」と言う言葉が指示するモノが、知覚的にどういう色であるのか、さらに「赤」の周辺「オレンジ」や「ピンク」がどの色であるかのイメージを持つており、その内的イメージに照らして、問題の事例が「赤」であるかを決めている。
外廷と内包は、互いに切り放せない関係にあり、外廷を決めるのは内包であるが、内包を外廷に属するすべての対象の共通性から帰納されると考えられている。大人は、これも、あれも、それも皆<ウサギ>と呼ぶとき、内包が理解できているからそう呼ぶのだと結論するといえる。<ウサギ>と呼ばれているモノに対して、それらに共通する属性を取り出して、これが内包の正体であると言うのです。そこから、子供は、内包を理解して、それを言葉にして、「特定の内包A−言葉・ウサギ」にして、その内包を持つものを探しだして、言葉<うさぎ>の指示物にするのだと言う説明を立てるのです。問題は、子供が理解する内包の内容である。子供がウサギと言う言葉を使えるようになっているから、大人が使う<ウサギ>と言う言葉の内包と同じであると言う事を結論している。
言葉がが私達の思いの表現であると言う一般論は、言葉と思いとが構造として有ると言う事を言っており、それに対して想いがある<から>言葉が<出る>と言う理解は、その構造で有るモノを、存在的に扱って居るのです。構造は一体化しているのであり、言葉が表現であると言う事は、同時にそこに表現される思想が成立していると言う事です。問題は、想いが言葉として表現される時、そこに特定の概念と言われる想いがあり、その想いが言葉以外にも表現されると言う事なのです。
対象の認定の曖昧さは、例えば交通の法規は、私達が自動車を運転するとと時にどのような行動をとるべきかを外から−−自動車が走る現場ではなくて、沢山の自動車が走る場合の相互の走り方を前もって決めておくのであり、その規則に則って自動車の動きが作られる。自動車はエンジンの働きで動き出すが、つまり実験室でも動くのだが、その自動車が道路を走る時に自動車相互の動き方を決めるモノが、交通法規と言う事になる。自動車相互の動き方とは、その自動車を動かす人間が、車を走らせながら、道や車や信号等の対象を視知覚判断をしながら行う行動であって、無人の機械だけの車が自動的に走ると言う事ではなくて人間の判断として行われる活動であって、その人間の判断を規定するモノとして交通法規という、頭の中で対象的に成立している意志を媒介して成立するのです。この頭の中で成立している対象化された意志を、現実に動かす意志に対して「制約」と言うのです。−−
「制約」する。高速道路で時速150キロで走りたくても、それが見つかれば罰せられる為に制限速度を守るのは、交通法規が制約するからです。
対象に付いての曖昧な知しか出来ていなくとも、言葉を話していくのであり、この曖昧さの中にあって実践として言葉を話していく時の子供の認知力に、生まれながらに曖昧さに見えるモノを区別してくれる「概念的枠組み」「認知的バイアス」があるからです。この考え方は、子供の学習や発達は、子供の外からのインプットとフィードバックによって達成されると言う行動主義の考え方の正反対と考えて良い。
言葉の学習における概念的制約の役割

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山田和夫
kyamada@nns.ne.jp
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