2003.10.01

大人のための哲学授業・西 研・大和書房

第七回 近代知の難問とカント
(1)物と心の存在に対して、どちらが<「真に」存在するもの><実体>であるかちと言う問いが成立する。
(2)主観は主観を越え出て客観に一致する事はいかにして可能か
この様な問は、何の成果を生み出すのか。近代から現代にかけての学問すべてが、この難問と関わらざるを得ないのです。
この問いに対する真正面からの答え
「物が実体である。」と答えれば、「意志の自由はどう考えればいいのか」と言う反論が突きつけられる。「心だ」と答えれば、「君は、事物の世界が厳然としてある事を否定するのか」と反論されます。主観を越えられないとすると、客観的認識は成立しないと言う事になるが、科学の認識が客観的な認識であると言う事を知っている。この様な難問にたいしては、問いそのものを吟味する事から始められる。
難問の背景
フッサールの理解:物理学的客観主義の影響・科学こそが世界の客観的真理を捉えている
私達が見たり、触ったり、聞いたり、舐めたりしている世界には、色や音や臭いや味があります。私の目の前の机はクリーム色をしていますし、いま誰かが咳をしたような音が聞こえます。しかしこうした事は全て、物理学的には単に主観的なモノにすぎないとされます。色は客観的には光波の特定の振動ですし、臭いは微量物質を臭覚でもってその様に感じ取っている。音も客観的には空気の振動である訳です。つまり、色や臭いや音は、単に人間の感覚器官にとって「主観的に」そう現れているだけで、電磁波、力、素粒子と言った概念と数式でもって語られる「物理的な世界」こそが世界の真相であり客観である、と言う事になります。
<私にとって現れてくる、この色や形や臭いや音を共なったこのリアルの世界の全ては、物理学的には単なる主観的な現象−−感覚器官をとおって脳の中に作りあげられた映像−−であり、客観的な物理的な過程の不完全を写し絵を意味する>こうした見方を「物理学的客観主義」なのです。私達は学校で科学を學ぶうち、こうした見方をしだいに身に付けています。ほとんどの人は、科学=客観的、見たり聞いたりする事=主観的、と言う見方を身につけているはずです。
(1)主観と客観との鋭い分離−−私達が直接に意識するものは、単に主観的なもので
   あって客観的真理ではない。客観的真理は主観的見方から「独立」し、それとは
   異なった秩序である。
(2)世界の客観的真理(世界の真相)は、それ自体としては色も臭いも価値ももたな
   い、「物的な」秩序である
(3)世界の客観的真理は、実証的な方法(仮説をたて、実験や統計的データによって
   それを検証する)によってのみ入手できる。
一切の認識は主観=意識によって行われるものであり、もし君がその客観的認識をしているなら、君自身の認識が主観なのだから、客観的認識と言っても、しかしそれも主観的認識であると言うことなのです。両者を切り放しているから、その間を結ぶ道も無い事になる。客観主義者は、一旦そこを切り放してなしておいて、「実証」によってその間を結びつけると信じているのです。その信ずる事も主観的であると言う事です。
そもそも、物理学の世界を形成し語るのも主観であり、社会科学的な認識を形作る事ができるのも主観です。だとすれば、「認識の客観性」と言う事を主観と無関係に考えること自体が間違っている。認識の客観性を主観と深く結びついてたものとして考える必要が出て来る事になる。
これがカントの「純粋理性批判」の中心課題であり、フッサール現象学の中心課題でもある。

主観と客観の分離について、フッサールが考えた事
「世界は客観的に<それ自体として>存在するか、それとも世界は<私にとって>存在するのか」と言う問いに帰着する。
私達が意識していない時、例えば眠っていた間にも、世界は客観的に存在していたはずです。私が死んだからと言って、この世界がなくなってしまうと思っていません。南米には私の知らない無数の人々の生活があるはずだと言う事です。しかし他方て、世界とは「私にとって」現れて来るものである。この机も、物理学の法則も、私の中に登場して意識されます。
世界ないし現実と言うものは、二つの相を持っている、と言う事が言えます。どちらの相がより基本的か、と言う事です。<一個同一の客観的世界がまずあり、それを個々人なりに意識したものがそれぞれの主観的世界である。>と誰もが自然にそう思って居ます。
イギリス経験論と大陸合理論
イギリス経験論は、「私にとって」と言う視点を追究して来ました。ロック、バークリー、ヒュームと言う人たちはすべて、認識がどのように「私にとっての世界」、つまり主観の世界の中で形作くられて行くのかを問題にしました。
デカルトからスピノザ、ボルフトと言った大陸合理論が生まれてきた。
デカルトは、世界を延長を持ち運動する運動が合理的な秩序をなすものとみなしていました。
どんな客観的認識も、主観と無関係ではない。このイギリス経験論の主張は、素朴な客観主義や合理主義よりも「理」があります。客観主義は、世界が客観的に存在する事、かつそれが認識しうる事、この二つを素朴に仮定しているのです。
カントは、イギリス経験論と大陸合理論を統一する事を考えたのです。ヒュームのままだと、客観的認識などありえないと言う事になりかねません。ヒュームの立場を引き受けつつ客観的認識がありうる事を示す事、それがカントの役割だったのです。
カント「純粋理性批判」
(1)客観性は意識の「内部」にある。
主観は、主観に現れ出ている「現象」の世界を認識するだけである。主観に現れでない物それ自体のあり方は認識できない。しかし主観が認識する時、それは出鱈目にするのでなく、きちんとした秩序があるからです。
秩序の第一:空間と時間という秩序であり、それは客観的世界にあると思われているが、これは主観のなかの「感性」に元々備わっている。感覚器官を通じて色々な刺激がやってきますが、それを私達は空間・時間と言う枠組みに入れて整理し秩序づけている。そうカントは考える。
  例えば、今僕にも色々な視覚的な刺激がやって来ています。それを僕は「左手にはTさんがいいて、右手には窓があり、部屋の後ろにはドアがある」と言う風に空間的に整理し秩序づけています。そして自分のこの経験が「いま」なされていて、「さっき」は控え室にいた、と言う様に、自分の経験を時間的な前後関係として秩序づけているのです。この様な考え方は、さもありなんと思えるのです。
  感覚から入ってきた刺激が空間と時間の中に位置づけられてたしても、それらは多様な混沌です。これらに「まとまり」を与え、何らかの「判断」にもたらす事が必要になるわけです。悟性にはもともと四種十二個のカテゴリー(範疇)が備わっていて、悟性はそれによって「まとまり」と「判断」を作り上げるのです。
       1):量のカテゴリー・・・単一性・数多性・総体性
       2):質のカテゴリー・・・実在性・否定性・制限性
       3):関係のカテゴリー・・偶有性と実体性・原因性と依存性・相互性
       4):様相のカテゴリー・・可能と不可能・現実性と非存在・必然性と偶然性
   A−−
   B−−−−−−
上の線分はの内、Aを全体<1>とすれば、Bは<3>になり、Aを<2>とすればBは<6>となります。何処までを<1>にするかによつて、Bの数え方が決まってきます。それは主観の側の自ら行う操作なのです。
関係のカテゴリーは、二つの事柄の間に何らかの関係を設定するものですが、最初にあげられるカテゴリーは、偶有性と実体性であり、様々な諸性質(偶有性)を生み出す生み出す「おおもと」として一つの実体を考える、と言う判断の形がこれです。例えば、立方体をしている、しょぱい味がする、と言った事柄を偶有性とみなし、それらを生み出す「おおもと」として塩と言う実体をかんがえる。原因と結果と言う思考。二つないし、それ以上の事柄が相互に作用を及ぼしあっているとみなす判断を生み出します。
この様に、感性の持つ空間・時間と言う秩序、さらに悟性のもつカテゴリーによる秩序づけ、と言う働きは、どんな主観の側にもあらかじめ備わったものであり、それがあるからこそ私達の認識は恣意的では無いことになるのです。私達は、自然科学の基礎的な部分や数学については、分化や個々人の違いを越えて人々は共通な認識を持つ事ができます。その理由は、「科学は客観的世界を正しく写し取っているからだ」と言う事できはなく、「どんな人々にも共通する認識の仕組みがあるからだ」と答える、これがカントのアイデア立ったわけです。カントは「それ自体を私にとっての世界」の内部に入れてしまつたのです。

第八章 超越論的哲学とは何か−−カントとフッサールへ
(1)カント説の意義と問題点
主観と客観一致の難問に対する答え:客観性や真理性と言う事は、じつは主観の「外側」との一致ではなく、むしろ主観の「内部」で、私達の経験のなかで生ずる事。これを「コペルニクス的転換」と言う。私達のごく普通の見方では、太陽が動いていると見えている。しかし、太陽の動きと見えたものは実は地球が動く事によって作り出された見かけの運動だった。
太陽が動いていると見えているのは、その視知覚をする主体が地球という台地にいる為に、地球と言う台地が動いていても、その動きを視知覚出来ないのであり、地球と太陽の関係からすると、地球が動きが視知覚できなければ、太陽の動きとして視知覚していると言う事になるのです。しかしその太陽が動くと見えている時、同時に月も動いていると見えているのであり、その二つに対して<太陽は動かないくて、地球が動いている>と言う事と、<月が動き、地球も動く>と言う区別をするものは何なのかと言う事になる。月は見えた通りに動いているのに対して、太陽が動いて見えていると言う視知覚判断の場合、太陽と地球の運動関係を地球の位置から視知覚する為に、地球は動かずに太陽が動くと判断されるのです。つまり、太陽と地球の運動関係と言う客観的なあり方に対して、それらを私達が認識しようとする時、まず視知覚をするのであるが、ただその視知覚をする主体が地球上にいるために、地球が認識の基底となり、その地球に対して太陽や月が動くと言う認識となるのです。視知覚する人間が月にいれば、静止している月に対して動くのは地球や太陽であると判断されるのです。
今目の前の空の上で太陽や星や雲や鳥が動くのを見ていている時、それらの動きを見ている時に目の入ってくる多様な情報は、動くものと静止しているこの台地と言う判断として、区別として成立しているのです。この様な視知覚が成立している事を舞台に、思考として<地球と太陽の運動関係>と言うイメージを立てます。地球とは、いま私達が立っているこの台地の事であり、太陽は地球に昼と夜を作り出す、目の前のあの星の事になります。つまり、朝になれば東の空から上る太陽であり、夜西の空の山並みの向こう側に沈む太陽と言う事になります。この視知覚によって得た地球とその回りを回る太陽と言う現実に対して、一旦運度を無視し、<太陽と地球>の間の運動関係と規定するのです。運動する主体としての地球と太陽に対して−−太陽が地球の回りを回ると言う運動−−主体同士の関係として捉えるのです。この運動関係は、どんな形態として現れるのかと言う問いを立てます。運動する主体同士の関係としての考えは、<地球が静止し、その地球の回りを太陽が運動している>と言う説明(AA)となり、それはまさに今目に見えている事を言葉にしているだけなのです。<地球と太陽の運動関係>と言う一般論BBは、いま目にしている<静止している地球の回りを太陽が回る>と言う形態として現れていると言うことになります。その一般論BBが見た通りの形態をとっていると言う事は、いま現に見えている視知覚の内容を、一般論BBの視点から再考していると言う事です。私達が自分の目で経験している諸星の運動についての知覚内容は、私達が立っているこの台地としての地球が球形であり、その球形の地球を中心にして太陽や月や火星や、諸星が回りを運動していると言う天体についてのイメージとしてあると言うことで地球上の昼や夜の構造を説明出来るようになったのです。現にこの目で見えている知覚の内容は<地球と諸星の運動関係>と言う概念を介した<地球を中心にした諸星の運動>と言うイメージの成立によって初めて、一般論としての宇宙論の観点から再考されるようになったのです。子供も天文学者も毎日毎日や空を見上げていても、一方はきれいな夜空を見ているだけだが、他方は相互に運動する星の動きと言う視点で見る事になったのです。子供も天文学者も同じ物を見るのは、彼等が同じ人間の目の視覚構造によるのだが、ただ頭の中の思考の構造が違う為に、両者とも同じに見たモノを、彼だけが組み合わせる事で別のモノが見えてくると言う事なのです。
この説明AAに対して、平たい台地に空と言うドームがかかり、ドームの東はしから太陽がのぼり、ドームの西はしに沈むと言う天体イメージが作られたのです。さらにこの台地は平らではなく球形であると言うイメージの中で、その球形の回りを太陽が回り、太陽が当たっている側面を昼と言い、当たっていない側面を夜とする天体イメージが作られた。前の世代では太陽が昇る前と沈んだ後には、その太陽がどうなったのかと言う事が考慮されなかったのであり、現実の私達にとっても、目には沈んだ後の太陽に付いて、見た通りであれば、太陽はもう目の前に無いから見たくとも見れないと言う事になってしまうのです。単に見た通りなら、突然東の地平から昇って来るのであり、有方に西の地平に沈んでしまうのです。<西に沈み東に昇る>その間、私達が夜と呼んでいる時間の間太陽はどうしているのだろうかと言うことです。平たい台地の下を動き続け、朝に東の地平に昇ると言うイメージになってしまうのは、私達が立つ地球と言う台地が「平たいと言うイメージ」であれば、その平たい台地の下を西から東に向かって移動するということになります。つまり、私達のこの目で見ている地球と言う台地と太陽の移動と言う対象に対して、単に見えているだけでなく<地球は平たい台地と言ういメード>が出来ることで、はじめて見えなくなった太陽について考える事が出来るようになつたのです。見えていない間も太陽は、平たい台地の下を西から東に向かって移動していると言うイメージになるのです。この平たい台地の下は、地中と言うことであり、球形の地球の様にそこにも昼の世界があると言うイメージにはならないのです。平らな台地と言うイメージから球形の台地と言うイメージに変化する事で、西の地平に沈んだ太陽は、私達がいるこの場所の球形の反対の場所で昇り始めると言うイメージになります。その場所では考えられなかったものが、その球形の地球と太陽のイメージから、初めて地球の西の果てに沈んだ太陽に付いて、そのドームの上を太陽や月が動き、この問いに対して、見えている通りの物を言えば、<静止している地球の上を太陽が動いている>と言う形態を言葉にするのです。
現に視知覚している事、さらにその視知覚しているモノ相互の運動関係として概念化された所から 再度視知覚している内容をイメージ化する事で、視知覚を越えたものまでを含む天体論が成立するのです。重要なのは見た目のモノをそのままイメージ化するにしても、見えるモノを主体とした運動の関係として概念化し、その概念化の現実形態としてイメージが作られて来る事で、はじめて現に見えているモノ以外の見えていないモノを含む全体図が構想出来るようになった事なのです。

意識主観が行う世界の秩序つづけの基本構図を明らかにしようとする哲学を、カントは「超越論的哲学」と名付けています。「普通の認識を超越してその根拠を問う」と言うくらいのいみです。
対象についての何らかの認識、例えば「コップが一つある」といったものが成立しているとします。カントは空間時間とカテゴリーを論じたわけですが、それは、こうした普通の認識が成り立つ為の条件(認識の土台となるもの)を捉えようとする試みだったというます。
「私の前に、赤いコップがひとつある」と言う事が自由に言える時、対象についての認識が成立して、その様な言葉になる為の根拠と言ったモノを明らかにする事。普通に言えている事を前提にする事は、少なくとも前提の中にいるかぎり、言葉が発声されれば、その言葉に対する応答がありと言うことで過ぎて行くのだが、その様な応答に関わらなくて、認識の構造を問う事を、応答と言うレベルを超えたと言う意味で「超越的」と言うのです。目の前も、私も、赤いコップも、単に認識を表す言葉と言うレベルとしてしか扱われず、そこにある具体性を越えてと言う意味なのです。単なるサンプルデータとして扱われないのです。
カントの世界についての秩序付けとしての空間・時間とカテゴリー区分は、しかし世界の秩序づけ=認識の成立過程が、ちょうど原材料が加工されて行く様な「工場モデル」になっているのです。カント説では、感官からはいった印象がまずは、空間時間といった枠に入り、つぎに因果性といったカテゴリーでもって加工されて認識が作りだされるのです。しかしこの加工モデルは、世界の秩序付けの仕方の正しさを捉えているのでしょうか。
フッサールの批判
<「主観が認識しようとしまいと客観的に存在する唯一の世界があり、どの主観(トカゲも含めて)もその中に生きている」と私達は信じて疑わない。しかしこれ自身も又、主観の中で成立している一つの信念と考えるべきモノではないか>と反論する。主観の場において考えると言う超越論的哲学の立場を徹底すれば、物自体を主観の「外」に置くのではなく、物自体の想定そのものが主観の内側で行われている、と言う事になっている。

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山田和夫
kyamada@nns.ne.jp
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