2003.10.05

価値論史の巨峰・永谷 清・世界書院

第一章 アダム・スミスの価値論
国富論・第一編・第五、六章の数十項に書かれている。
アダム・スミスの価値論については、マルクスの「剰余価値学説史」が一番貢献している。
スミス価値論についての一般的に理解:資本と土地所有の発生以前の単純商品生産社会では、投下労働価値説をとっていたのが、それらの発生した資本主義社会では、投下説を放棄して支配労働価値説を取っている。投下・支配労働価値説の二つが存在していると言う考え方。
第一編第五章:「交換価値の真の尺度とはどのようなものであるか、すなわちすべての商品の真の価格はどのようなものに存するか、と言う事を明らかにする。」
商品は、それぞれ価格と言う貨幣量が表記されていて、その価格のよって貨幣と交換される。商品の対して沢山の価格と低い価格付けられる時の基準とは何かと言うことです。欲しい人が沢山いる場合は、価格が上がり、割と少なければ価格も低いと考える事は、特に間違ってはいない。しかしこの場合、価格表示の量的な違いが問題なのではなく、どの商品も価格表示がなされる時の基準は何かと言うことです。例えばテープが一本100円で、一冊の本が1200円と言うとき、一円と言う価格が何を表しているのかと言うことです。欲しい人が沢山いるる事は価格の高低を決めるのだが、それに価格が付くと言う事がどういう事なのかが問われているのです。沢山欲しい人がいるだけなら、自分が持っている商品をその人達に譲れば好いのである。ここではその商品に価格を付けて、その価格と貨幣を交換して他者に渡すと言う事をしているのであり、そこで価格が成立する事の根拠を問うのです。商品所有者は、自己の商品に価格をつけ、その価格にみあった貨幣ともらい、商品を他者に譲るのであり、その貨幣を手に入れて、貨幣を使うと言うことで成立しているのです。
商品の価格と言う貨幣量表示は、商品の価値が一般に貨幣によって尺度去れる事実を前提にした上で、貨幣での価値尺度は「名目価格」にすぎず、「真の価格」は労働により価値尺度されたモノと言う主張が主題である。貨幣価格は便宜上のもので、本当の価格は「労働価格」であるというのがスミスの言いたい点であるのです。実際の社会では商品の価値は貨幣によってしか尺度されていない。にもかかわらずあえて労働による商品価値の尺度によって、商品の「真の価格」ないし価値を主張しているのです。
資本主義社会:<資本家、賃労働者、土地所有者>からなる一つの社会があり、その社会の経済法則を最初に探求した。「国富論」は経済学の誕生、あるいはむしろ経済学原理論の誕生と言ってよい。スミスは商品の価値は、「労苦と煩労」であると言っているのではなく、商品の「真の価格」がそうであると言っている。「貨幣はまたは財貨は、一定の労働の価値を含んでおり、我々はその時それらを等量の労働の価値を含むと思われるものと交換する」と述べていて、けっして「一定の労働を含む」とは言っていないし、投下労働量で交換するとも言っていない。
マルクスが「労働過程」で明らかにしたように、自然に対して働きかける事に依って労働力を支出し生産物をを自然から獲得する関係(人間が自然へ働きかける物質代謝の過程)は、どのような社会形態であれ、人間の社会一般的な存立条件をなしている。この過程をスミスは<自然に対して労働を支払い、自然から生産物を買う>と言う売買関係ないし商品交換関係でもって捉えている。社会一般的な分業が最初から商品生産として捉えられ、特殊社会的な商品交換関係でもって捉えられ特殊社会的な商品交換が人間の本姓としての「交換性向」から来ている、と考えるスミスにとっては必然的な生産過程の認識である。
自然に対して働きかける事に依って労働力を支出し生産物をを自然から獲得する関係A(人間が自然へ働きかける物質代謝の過程)が、どんな社会形態でも成立している人間の社会一般的な存立条件であると言う事は、そのままで成立している社会形態があると言う事ではない。色々な社会形態にあって、そのどの社会形態にあっても成立しているものを示している。原始社会でも現代の社会でも成立しているのであるが、問題はその成立している関係Aが、各社会形態でどのように現れてくるかと言う事なのです。その論理の区別を知ることなのです。
自然に対して働きかける事に依って労働力を支出し生産物をを自然から獲得する関係が、特定の形態の社会において、<どのように>現れているかと言う事を問うのです。それに対してその関係をそのまま特定の社会形態に当てはめて考えると次の様になる。

労働を支払って自然から生産物を獲得する関係を、私達人間が労働を自然に譲渡しすると、自然から交換に生産物をもらうと考えるのです。労働と生産物商品の交換関係と見れば、労働支出は労働商品の譲渡と見なされ、労働商品と生産物商品の交換関係として生産過程が見られる事になる。生産物が商品であり価値を持つのも、交換された労働が商品であり価値を持っていたからと解釈される事になる。
人間は自然の事物を加工したり、飼育したりするという労働によって、自然物を生産物として受け取る。この生産物が商品であり価値を持つのは、その生産物を生産する労働が商品であり価値を持つからであると言う事。<労働が価値を持つ−−その労働によって生産される生産物−−だから生産物が価値をもつ>と言う構図です。支出労働量によって商品価値の大きさが決定されると言う投下労働価値説ではなく、あたかも労働商品の価値が交換を通して生産物へ移転するかの様な考え方なのです。スミスにとって生産物が商品としい価値を持つのは、労働という価値あるモノが、生産物と交換による譲渡が成立しているからなのだが、この時労働と労働の成果としての生産物の区別が曖昧に成っているのです。私達の生きた身体が、自然物に加工、飼育等による労働によって、生産物を作り出すと、そこには労働の成果としての生産物、生きた労働により投下された労働としての生産物が出来上がるのです。生産物が商品としての価値を持つのは、そこに投下された労働が内在するからであるが、それをアダム・スミスは生きた労働が価値を持ち、その労働と生産物が交換により、等価になるから、当然生産物も商品としての価値を持つと言うのです。労働と生産物が<交換される>から、両者は等価であり、労働が価値をもつなら、生産物も価値を持つのだと言う事です。両者が等価であるからこそ、<交換が成立している>といえるのであり、とすると労働も価値をもっているが、生産物も価値を持っているのだと言う事になる。
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山田和夫
kyamada@nns.ne.jp
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