2003.11.16

日本語はどういう言語か・三浦つとむ・講談社学術文庫

第一章 絵画・映画・言語のありかたをくらべる


日本語についての特性を知る為には、日本語も他の言語である、英語や中国語やフランス語と同じく<言語>のひとつであるから、一応<言語>とはどういうものかを知っておく必要がある。しかし、言語とは何かを知るためには、まず絵画を考えて見る事が必要です。
絵画と言語の共通性:
人間がその認識を見たり聞いたり出来るような感覚的な形を創造する事で外面化し、それによって他の人間に訴えると言う点で、別の言い方をするなら、作者の表現であり精神的な交通手段である点で共通しているのです。
上に記した共通点について考えて見る。

上記の様に絵画と言語についての共通性として語られている事は、それを読み書きする私達にとっては、三浦さんが言語化したものであり、私達は、その言語化の過程を追体験しなければいけないのです。そこで具体的な現場に立って絵画とか言語に付いて考えるのです。それが一枚の絵画を前にして、鑑賞しながらそこに成立している鑑賞に介入する認識の構造を明らかにする事なのです。
「子供が机の前にすわり、読書をしている」スケッチが二枚あります。作者達が写生するには、子供と机とが作者とが現実に一定の位置を占めなければ成りません。それぞれの作者達の目に写ったものを紙の上に写生したモノが、二枚のスケッチなのです。両作者の持つ目に写ったモノは、目と言う入力器官としての共通性によって、共通性があると考えるが、しかし作者の身体の大きさによる目の位置が違うのであり、その違いによって見えるモノも仰ぎ見る様に見られていたり、見おろす様に見られていると言う違いが出て来るのです。二枚のスケッチは見た通りに見えるのであり、それらに違いがある事は、見る事による比較(見比べる事)で分かるのです。その違いを言葉にすとは、見比べで得られている認識を、言葉として表される概念にする事なのです。その概念と言う言葉がどんな認識を表しているのか分からないが、私達は<見比べる>事で成立している両者の違いに付いて、端的に言葉にするのです。言葉と言う実践を実行しているのです。私は片言しかしゃべれない幼児ではなく、ました犬や猫ではなく、日常会話が出来ている人間と言う事なのです。私達は見比べる事で両者の違いがわかり、その分かった事を言葉にするのです。差し当たっては<視覚から得られている分かった事>とそれを<言葉に表した事>の区別と関連を考えるのです。分かった事は、言葉に<表されている>と言う理解なのです。言葉に<分かった事>が表されているのです。<あいうえお>と言う様な文字に<分かった事>が表されている。

ちょっと考えると<写生されたり撮影されたりする相手についての表現と思われがちである絵画や写真は実はそれと同時に作者の位置に付いての表現と言う正確をも備えて居り、さらに作者の独自の見方や感情などの表現さえも行われていると言う構造を持ち、しかもそれらが同一の画面に統一されているのです。><作者のとらえる相手を客体とよび、作者自身を主体と呼ぶなら、客体についての表現をする事が同時に主体についての表現を伴って来る事に成ります。><絵画や写真は客体的表現と主体的表現と言う対立した二つの表現の切り放す事の出来ない統一体として考えるべきものなのです>
一枚の絵画があり、そこに描かれている内容を言葉で表せば「子供が机に向かって正座して本を読んでいる」図と言う事になります。一枚の絵に対して、それがある内容を持った図であると言う事になります。しかし、一枚の絵画があると言う事に対して、言葉は別に声帯の振動による空気の振動として存在しているのです。一枚の絵画は絵の具と言う物質を布製のキャンバスに塗布される事で表現されたものとしてあります。それを対象にして鑑賞したり、研究したりするのです。そこに説明としての言葉があるのです。私はいま目の前に一枚の絵を観ているのであり、その鑑賞にありながら、頭の中で見えているものについて、あれこれ思考しているのです。一枚の絵画に塗られているグリーン色は、今まで見た事のない光沢に彩られているのであり、その色はどの様にして作られたのかと言う疑問は、一枚の絵画を対象にした私達の思考上の働きかけと言う事なのです。すばらしいと感情を高ぶらせる事も、その絵画を見た時の私達の思いと言うことなのです。つまり一枚の絵画を前にしているとき、私は自分の感性や思考や感情を持つ人間として見ているのであり、その見ている私に色々な判断や思考が生まれてきているのです。私の頭の中に生まれているモノを、一般に認識と言い、それは目の前の絵画を対象にして、頭の中に成立するのです。絵画が、風景に対する作者の目の位置や感性を表現していても、まず布製のキャンバスと絵の具の塗布によって成り立っている、物なのです。その物があるからこそ、私達の視知覚の対象となり、視知覚をへた判断が成立するのです。その判断のレベルは、布製のキャンバスと絵の具との塗布跡が、ある特定の像を表現していると言う理解で成立している事なのです。私達はキャンバスに<子供が机に向かって正座して、本を読んでいる>図を見るのであり、絵の具の色と線の形が、<その様な像>と判断されているという事です。しかしそのような説明は、<説明通りに描かれている像>のある側面があると言う事が説明されていないのです。作者の目の高さや広さと言う特定の位置から見られている像と言う事なのです。見おろす位置として見られていると言う様に。一枚の絵画を前にしてそれらを鑑賞している時、見られているキャンバスの絵の具による像の形態そのものが、特定の方向を示しているのであり、私達はまさにその方向から見ている事で、作者の位置を体験しているのであり、描かれている像に付いての注視以外にわざわざ作者の目の高さを注視はしないのです。
その一枚の絵画について、言葉で説明すれば、<俯瞰する位置から見られている><机を前に正座した子供が本を読んでいる図>であるが、この時作者が実際に天井にへばりついて見おろしている訳では無く、高い所に上がって下を見おろすと言う経験から、現に自分の目の高さで見えている目の前のものを、<上から見おろす>と言う想像を介して、一枚のキャンバスに表現するのです。目の前のものを、<そのまま目の高さ>にあるという表現するか、<上から見おろす>と言う表現をするのかと言う事なのだが、両方とも、絶えず継続され続ける現にある視知覚にたいして、そのときの一瞬を捉え、絵画として表現するのです。そのと捉える事こそ、目の前の物を対象とする認識と言う事なのです。現に真横から眺めながら、その対象を真上から見ている想像力は、頭の中の表象として形成する事であり、その表象を含めた対象の知覚を、認識と言うのであり、その認識を絵画や写真や舞踏や言語として表現するのです。
さて、一枚の絵画に対して、<作者の認識が絵画に表現されている>と言う事では、別に言葉でも音楽でも舞踏でも、どの表現について当てはまってしまうのです。絵画表現の場合の認識は、対象とその対象に対する作者の認識が位置として統一された内容となっています。この認識を対象に即して語れば、対象は360度の中にあり、どんな方向からも見られるのであるが、今の場合その360度の一つの位置−−これを認識する私から言えば、私の目の位置の高さと言う事になるのです−−にある対象と言う事なのです。360度の中にある対象に対してどの方向かを示すのは、結局その諸物を対象にした私達の視覚の位置に依ってしか表せないと言う事なのです。私は自分の目の高さから見るのであり、梯子に昇れば、昇った高さからみるのであると言う様に、見る主体に依って360度が限定され、ある一点から見ているのです。ただこの一点は、私の身体運動のそれぞれの時点にあ視点だと言う事で、連続した視点であるのに、認識としてはある時点のある位置の認識と言う事なのです。絵画が静止の時点を表すが、映画は連続の視点を表すのです。
客体的表現と主体的表現と言う二つの区別の表現は、<表現−言語、身ぶり、絵画、音楽等>について概念として定式化したモノなのです。絵画も言葉に対しても<表現>として規定する限り、主体的、客体的と言う区別としてあるが、ただそれらの直接的統一とか媒介的統一と言う同一性を示す事で、論理構造が違っているのです。
まず、直接的統一の場合を考える。一枚の絵画に表現されているものを、「子供が机に向かって正座して本を読んでいる図」と言う言葉で説明してみると、それは描かれている内容を言葉にしているのであるが、しかしさらに<どの様に>描かれているのかと言えば、<作者から机の表面が見えない高さ>から子供の正座姿と机が描かれていると言う事なのです。つまり、<どの様に>と言う事は、作者の目の位置と言う作者の<主体的>なあり方が、そこに表されているのです。<なにを><どの様に>と言う言い方が一番近いのでしょう。絵画はそれが一枚のキャンバスに描かれているのであり、「一枚のコインの裏表の様に切り放せないが、しかし別々のもの」と言う事ではなく描かれているそれが、二つの視点で分析できると言う事なのです。この<二つの>と言う言葉を使うからこそ、「<それ>に対して<一つ>のモノがとなり、その一つのものが二つの面を持つ>と言う一般論になってしまうのです。一枚の絵画と言うのは、壁に掛けられている沢山の絵画に対してその個数の意識があるからこそ、一枚一枚と言う事になるのです。その絵画に<二つの面がある>と言うのは、どんな絵画でも表現として構造を分析すれば、その絵画には<主体的、客体的>と言う二つの面があると分析出来ると言う事を言おうとしているのです。問題はその分析に依って得られている<主体的><客体的>と言う別々の項目が、体育館に並べられているパイプ椅子二脚のように同一の椅子があるのではなく、<椅子と机>の様に別々のモノが二つあると言う構造として成っているのです。つまり、分析する私達は、全く性質が違う別々の二つのモノが、一枚のキャンバスにおいて一つに成っていると考えるのです。この二つの別々のモノが、一つであることを絵画の場合は、直接的統一と規定するのです。
私達が鑑賞と言う立場でも、制作者と言う立場でも、一枚のキャンバスに向かっている時、後に分析家が明らかにするであろう、<一つに成っていると言う視点で見られる側面>に対して、視線を向けているのであり、当然分析家と言われる人々も視線を向けているのです。つまり、<一つである>とか<二つの側面を持つ>とか言っても、それはそこにある絵画を<構造>として分析して得られた項目であり、あくまでも認識された内容としてあるだけであり、それをコインの裏表の様に考えてしまうから、裏と表の存在の様に短絡してしまうのです。絵画は、<主体的、客体的>と言う言葉に表現される認識の対象として存在すると言う事なのです。この対象は、絵画そのモノであり、鑑賞されるのであり、研究されるのです。だから<一つ>であると言う言い方も、その絵画を、分析された<主体的、客体的>と言う観点から捉える事で、成立するのです。その絵画である事には変わり無いが、分析的視点から捉えられた絵画と言う事なのです。だからこそ<一つ>なのです。
私達も分析家も、その絵画を見ているが、分析家の頭の中には、思考として分析的視点があり、自分の目で見ているものを、分析して理性の倉庫に格納するのであり、別に言葉として表すのです。私は分析家が表現した<その絵画についての説明>を読む事で、再度絵画を見直すと、今までも見えていたはずのモノを、違う視点で見ることが出来るようになったのです。それは鑑賞眼が肥えたと言う事に成るのです。

主体的表現の中にはさらに「位置の表現」と「見方」や「感情」などの表現とが区別されると言う事になります。
対象に対して、表現された形態が写実であったり、デホルメであったり、幻想的であったりする事で、対象との比較と言う思考が成立して私の判断や思いが存在している事を表します。そこでこの表現のどこが主体的で、どこが客体的であるのかと言うことになります。一枚の絵画には、背に羽の生え幼児が描かれている。それは天使と呼ばれる図なのです。絵画に描かれている図は、現実の事物としては存在しないのです。表現としての天使図は、キリスト教の教義をふまえたある思想を表しているのであり、頭の中に形成された像をたよりに無一枚のキャンバスのえに塗布された絵の具の形が、羽のはえた赤ん坊の形と同じであるから、絵画を見ると<天使>として理解されるのです。羽の形は、鳩の羽からの知覚から得られ、幼児は、それも白人の赤ん坊−黒人の天使も日本人の天使もいないのです−の知覚から得られ、それが頭の中で合成される事で成立する像を、絵画として表現したのです。頭の中の像に対して、絵画の図の関係は、頭の中の像がそのままで、頭の中から抜け出して、絵の具に姿を変えてキャンバスの上に定着したと言う事ではない。つまり、頭の中に像があるにしても、身体の内部にある血液が皮膚の切り傷から身体外に出てくる様な訳ではない。
最初に戻ってみよう。頭の中の像とキャンバスの絵の具の作る形との間に関係がある事を前提にして、その関係を明らかにしようとしているのです。その答えの一つとして <頭の中の像が、そのまま頭の外にでて、絵の具の衣を装着してキャンバス塗布されるのだ>と言う説明になるのです。この説明にあっては、頭の中の像と言う経験とキャンバスの上の絵の具の塗布が天使の図に見えていると言う経験が前提であり、その経験を繋ぎ合わせるものが<そのまま外に出る><外に出たものが絵の具の衣装を着てキャンバスに定着する>と言う説明の言葉になったのです。画家が一生懸命絵筆を使って絵の具を塗布していくと言う実際の身体活動は、頭の中の像が外に飛び出し一枚のキャンバスに定着すると言う言葉での説明となるのです。画家は自分の描こうとするモノを苦労して一筆一筆絵の具を塗布していくのであり、その過程の結果として一枚の絵が完成するのです。その過程を<頭の中の像が外化して、絵の具と言う物体をまといキャンバスに定着する>と説明するのです。つまり、頭の中の像は、何処にいても、そのままであり、キャンバスのうえでは、私達の視覚にそれが天使の像に見えるのは、絵の具が覆うものがその外化した像であるからなのです。

では言語ではこの二種類の表現はどういう形をとって現れるか、どう結びついて現れるかと言う事に成ります。これが第一の問題です。
第二の問題は、例えば同じ家を絵画で表現するのに、写生的な立場と地図的立場とがある様に家のあり方を言葉で表現する時にも、写生的立場と地図的立場とがあるはずです。
地図は現実から空間的に離れた位置で作者が捉えた現実を示すのに対して、過去の出来事を描いた絵画は現実から時間的に離れた位置で作者が捉えた現実を示します。人間が人間のいなかった時代を見るように描くと言うのは、考えるとずいぶんおかしな話です。これが第三の問題です。
子供が描いた絵を見ましょう。この絵を見る我々にとっての現実の体験は、白い紙の上に黒い線が描かれていると言う事でしか無いのです。ただこの絵を目に映るままに受け取るだけでは、絵を鑑賞した事には成りません。その絵が「子供が現実に体験したままを、紙の上に模写したものである」と理解する事から始まるのです。

鑑賞者は、自分の目で鑑賞するのであるが、そのとき目は光学的には、白いキャンバスに黒い線の形を見ているのであり、その見られている線が作る形が、作者の知覚している対象の形態を模写しているのであり、私達は同時にその模写を判断するのです。私達が一枚の絵画を「子供が机に向かって正座しながら本を読んでいる図」と見ているのは、視覚としては白いキャンバスの上の黒い線の形を見ている事であるが、同時に作者が対象から得た形態に付いての認識を、その黒い線で表していると理解する事なのです。
視覚としては<白い>キャンバスに<黒い線>を見ていると言う考え方は、それらの黒い線がどんな形を作っているのかと言うレベルを問題にしているのではないのです。キャンバスの上には黒い絵の具を塗布されている特定の形があり、その形が生身の人間の形を模写していると理解することで、視覚を通して<人間が画かれている>と判断するのです。しかし今はどんな形と言った事が問われているのではないのです。それらが<黒い><線>である事が問われているのです。具体的には必ず特定の形としてある<線>に対して、その特定性を一時棚上げして、<黒い線>であると言う一般論が問題になっているのです。その一般論を、対象の感性的側面といい、その側面の頭脳への認識を感性的認識と規定するのです。つまり一枚のキャンバスの上の黒い絵の具の塗布が作る線の形は、私達が日々経験する視知覚のえる感性的側面と関連するのであり、それはアルタミラの洞窟の動物の似姿と言う事になる。その線の作る形が少しばかり違ってくると鹿の似姿になり、また少しばかり違って来ると馬似姿になる様に<黒い線が作る>形は生きた動物の姿形をまねて作られていると言う事なのです。
一枚の白いキャンバスの上の黒い線が作る形が、対象の形と同一である事で、その黒い線のつくる形を対象の知覚から得ている<子供><机>と言う認識で捉えるのです。一方に対象があり、他方に一枚のキャンバスの上の黒い線が作る形がある時、両者が形の相似性により、一定の関係があると判断されるのです。他方が人間による創造として現れていれば、それは前者の対象の模写と言われるのです。作者に依って知覚される対象は、彼の頭の中で形や大きさ等、形態として認識されている。その認識を黒の絵の具で線で描くと「子供が机に向かって本を読んでいる図」と言う言葉に現れる内容を読みとる事が出来ているのです。作者が対象たる目の前の出来事に対して認識したモノを、絵画として表現する、絵を描くのです。作者はその出来事に対して身体の移動により、絶えず位置を変えるのであり、その移動のある時点での位置から見られたモノ、描くのです。梯子に昇ったり、二階屋の屋根から下を見おろして眺める経験から、今見ている出来事を、頭上から見ている想像の位置から描く事も出来るのです。対象とはあくまでも作者の<知覚>の対象であり、<モノ>が知覚の対象となることを、<モノ>が<ある>と言うのです。さらに一枚のキャンバスの上の<子供が机に向かって正座して本を様でいる図>は、対象となっている<モノ>と関係をなしていて、両者を関係づけるのは、作者の知覚から得た認識と言う事になる。<モノ>が存在として知覚されその形態が認識の内容となり、その認識内容を一枚の絵画に表現する。この時どんな認識内容かは、表現された一枚の絵画がどんな表現であるかと言う事なのです。<モノ>の形や大きさや色といった認識が、絵画として表現されていると言う事です。モノから反射してくる光りが目から入り、網膜から脳細胞までの間で変換され<色><形><大きさ>という言葉に表される認識として成立するのです。さらに一枚のキャンバスに絵の具と言う媒体を塗布する事で認識を表すのです。
、モノを対象とする知覚は認識として、一枚のキャンバスに絵の具と言う媒体を塗布する方向と<色><形><大きさ>と言う言葉の方向に表されるのです。
<モノ−絵画>と<モノ−言葉>と言う二つの関係は、両者とも<モノ−認識−絵画>と<モノ−認識−言葉>の様に認識が媒介しているのであり、前者の認識は<モノと絵画>を色や形や大きさの同一性で関連させるのであり、後者の認識は<モノ−言葉>を種類という側面で関連づけるのです。モノと<赤い>と言う言葉には、絵画のような関連は無いのです。絵画の関連を感性的関連とすれば、言葉の関連は超感性的関連と言うのです。
絵画の表している黒い線のつくる輪郭に付いての視知覚は、そのまま<そこに子供がいる>と判断されるのではなく、<子供がいる>という現実の認識に伴う「形や色」の知覚内容と同一であると言う判断なのです。<子供の人形がある>と同じように<子供が描かれている>と言うのです。つまり一枚のキャンバスの上にあるのは黒の線の跡であり、手によって白紙の上に作成されたと言う事と、その線の跡が、頭脳の中の人間の形と相似形である事で、<子供>が描かれていると判断されるのです。それは壁のシミがその作り出す形が、人形に見えたり牛に見えたりするのは、あくまでも壁のシミが作り出す<形>が問題であり、その形と 相似形の形を、現実の人間や牛や馬を知覚している事で得ているのです。現実に対象が持つ形や色や大きさ、質の知覚は、頭の中の表象としての形や色や大きさ、質によって判断されるとき、それは頭脳の中の秘技ではなくて、今視知覚している対象の所に<牛>や<人間の顔>があると読みとってしまうのです。私の目の前にあるモノに対して、光が関わる側面が視知覚として成立する。それは鏡に映る像を人の顔であると判断している事と同じです。鏡の中に人物が実在するのではない事は確かです。鏡は、実在の人物から来る反射の光が、鏡に反射して人間の目に知覚されると。その鏡の所に像を見るのです。私の視線は鏡に向かっていて、鏡からの反射の光が網膜にはいり顔として判断されるのです。判断は鏡とそこから反射してくる光と光による網膜への刺激の過程として成立し、<鏡に顔が映っている>とし成立するのです。実在する人間の顔が、私の目の中に入ってくるのではなく、実在する顔から反射してくる光が目から入って来るのです。視知覚の対象たる顔は、光が反射する事で、情報をのせてた光とし人間の目に入ってるのです。目の中に入ってくるのは光であるが、ただその光が反射する物体の情報を携えているので、その情報を<人間の顔>として判断するのです。それを視知覚情報というのです。実在する顔も、鏡に反射する顔も、写真に写る顔も、それらが皆<顔>として判断されるのは、反射する光による情報として共通するからなのです。

言語と絵画、あるいは言語と映画との共通点をさぐって行くと言う仕事が、映画の作者の中から生まれてきたのです。それがモンタアジュ論に成ります。1920年〜1930年に成立した。
「映画作家にとって様式の仕事が始まるのは、フィルムの組立(モンタアジュ)から始まるのです。詩人や作家にとって個々の単語は、いわば生のままの原料であり、実に雑多な意味を持ち得るモノであって、文章に組み立てて一定の意味が決まる。
映画と言語との関係を、モンタアジュ論者の様に見かけから「組み立て」として捉えるのは不充分ですし、またここから間違いも生まれた訳ですが、だからと言って映画と言語との関係やその基本的な性格としての共通点を分析する事まで無意味であると言う事には成りません。
モンタアジュ論者の考え方からすれば、「本がある」と「本である」との違いは「が」と「で」との違いだ、と言う事になる。この違いが、この二つのぶんの全体の思想的な違いをもたらした、と言う事になってしまいます。モンタアジュ論に対する反省が生まれてきた。
「一つ一つのモンタアジュ断片はもはや独立的なものとして存在せず、それら断片の全部を平均して貫く統一された全体のテーマのある部分的な表現として自ら現れる」この反省と訂正が正しい事は「ある」の語がそれ自体絶対的な独立性において捉える事をやめ、文全体の中で何を表現しているかを分析する時、その二つの文の違いが正しくつかめる事でも分かります。
三浦つとむによるモンタアジュ論の完成。
絵にしろ、写真にしろ、フィルムの断片にしろ、そこには必ず作者があります。ピカソの壁画、新聞写真という様に、作者なしにはそれらの表現はありません。これと同じ事が、言語についても言えるはずです。Aさんが「私は・」と書き、Bさんが「私が・・」と書いたとしても、それらは違った書き手が別々にペンを持って別の言葉を作り出したモノで、その私が支持するモノはAさんでありBさんであると言う様に別々のモノなのです。それにも関わらず、この場合に「二人は同じ言葉を使っている」と言う人が少なくありません。Aさんの「私」とBさんの「私」とが同じ面を持っていることは確かである。誰が見ても文字のかたちは同じに見えます。しかしこの同じに見える事や、そこに共通点のある事と、言葉として同じである事や共通である事とは違うのです。
正確に言い言えば、ここで同じなのは音声の種類あるいは文字の種類としてであって、言語としてではないのです。スターリン言語論の根本的なあやまりの一つは、語彙と言語との混同でした。辞書は、言語表現の為の社会的な約束を教える書物です。ここから語彙についての知識を得ることを「言語を取り出す」と解釈したモンタアジュ論者も、やはり語彙と言語を混同したのです。

Aさんが自分の事を<私は・・>と言い、Bさんも<私は・・>と言う時、両者にある同じ<私は・・>と言う言葉のその同一性は、話者が自分自身を対象とする、その自己関係の同一性なのです。自己関係の同一性であっても、指示する対象が違うのであり、Aであり、Bであると言う事なのです。言葉の同一性は、関係の同一性であり、その関係を指示する対象に対して現実化するのが、言葉による指示なのです。Aの自己関係であり、Bの自己関係であり、両者とも自己関係では同じであると言う事なのです。ただこの自己関係は抽象性であり、ABCDさんと言うそれぞれの人々の中での自己関係であり、四人はそれぞれ別人であると言う事の上に成立している関係なのです。あるいはAさん一家、Bさん一家がいて、父と母と子供と言う家族関係としては同一であると言う時、家族としは別々の家族であると言う個別性での違いがあると言う事です。同じ家族単位に対して、別の呼び方をしているのではな、個別としてのABCDに対して、自己関係としての同一性と言う事なのです。自己と言えば、100人の人は皆自己であるからどの人の自己なのかはここからは出てこないのです。100人の個人に対して、その個々の具体性ではなく、その個々が形成している自己関係を取り上げるのであり、具体性を抜きにしている為に、抽象と言うのです。皆それぞれ<私>と言う言葉を使う時、一個一個の具体性でありながら、その自己関係だけが示されているにすぎない。しかしその自己関係を表す<私>と言う言葉を、指示として使う事で、指示されている<この者>が、自己関係の具体的形態となるのです。つまり、<私は・・・>と言う言葉で表す自己関係の現実態としての、話者全体と言う事なのです。
言語過程説−(対象・認識・表現)−よれば、AさんBさんCさんDさん等の存在に対して、その存在にある自己関係が認識として頭の中に捉えられ、その認識を<私、自分等>と言う言葉として表すのです。その<言葉として表す>と言う事は、自己関係の認識を、文字の形としての<私>に対応させるのです。
三浦さんは、その同一性を「音声の種類、文字の種類」であると規定している。文字の形や音韻としての音声の同一性と言う事なのです。二人が別々の文字を書けば、別の言葉に成る。<私は・・>と<貴方が・>になれば、別の言葉なのです。この文字の種類としての同一性は、しかし言葉の同一性ではなく、文字の種類に対して心的現象である概念が対応している事が、言葉の同一性と成るのです。
Aさんが言葉を使い、Bさんが言葉を使う事で、Aさんの言葉、Bさんの言葉と存在している。AさんもBさんも自分の思いを言葉にするのです。辞書のなかにある語彙は、思いを言葉にするためのルールが表現されるのです。そのルールは、ABCに共通に適用されるのであり、その共通性を社会的と言うのです。日常のコミュニケーションで使われている言葉を反省して、その言葉の使用の中にあるルールを、言葉にして表しているのが、辞書と言う事なのです。当然ルールを記した辞書も言葉であり、記された言葉からルールを読み取るのは、日常のコミュニケーションでの言葉の理解と同じ事をしなければ成らず、子供が周りの人の言葉をまねながら、ルールを身に付けて覚えて行く中で、辞書を読み解く、文字のルールを覚えるのです。

辞書をあけて知らない語彙の説明を読む事で、その語彙の意味をしると言う事なのだろうが、しかし私がスペイン語の辞書を開いても、そこに書かれている記号も文字も全く読めないのは、日本語で言えば<あいうえお>の基本さえ知らないからです。しかし英語の辞書の場合<A、B、C、D、E・・>を区別できて、<I am、it、be>は分かるからなのだ。しかし読めない語彙をあるのです。私の日本語では、初歩として言葉と対象物との間にある<指示関係>を認識出来るようになっていて、私の目の前のモノにたいして、<「リンゴ」「が」「ある」>という三文字による言葉の表現ができるのです。「X」と言う指示対象に対する私の認識の内容が、「リンゴ」と「ある」と「が」いう言葉として表されているのです。私は「X」を対象に知覚していて、知覚の対象である事を「ある」と言う言葉で表し、対象を「リンゴ」と言う言葉で表すのです。「X」が私の眼に入り視知覚される事で私の頭脳の中に認識が出来るが、単に見えている通りにあると言う事だけではなく、それが「特定のあり方」という認識される事を、私達は一般に判断と言うのです。さしあたって私達人間が対象をその様に判断する事は、その対象たる「X」を特定の扱い方をすると言う事なのです。その知覚されている対象が特定に判断されている事を「が」と言う言葉で表すのです。「X」が知覚の対象に成っている事に対して、「X」に「リンゴ」と言う名前を付け、<対象に成っている>事に、<ある>と言う名前を付けるのです。対象たる「X」に対して私達は認識するのであり、対象であるある事を「ある」と言う言葉で表し、対象に「リンゴ」と言う名前が与えられ、「ある」ことの特性が「が」で表される。
<りんご「が」ある。りんご「は」ある。りんご「も」ある。>と言う様に、「ある」ありかたに色々な違いがあるのです。表現の現場では「ある」と言う言葉には、その色々な違いがあり、ただ「同一の」内容があるとしたら、それは私達の知覚の対象になっていることなのです。同じ内容である「ある」が、表現の現実形態にあって、個々の助詞との結合で、特定の「ある」を表すと言う理屈になります。「ある」と言う言葉は、私達の知覚に対して対象があると言う事であり、その対象の特定性を助詞との結合で表すのです。
モノが知覚の対象になっていると言う事を、私達は認識していると言うのであり、当然私達の頭の中に知として成立していると言う事です。その頭の中の知は、頭の外の事物を五感知覚の対象とする事で形成される。この時例えば視知覚知の場合、事物に反射した光が、外部に接しっている視知覚器官としての目から侵入して、網膜を反応させるのです。事物と視知覚器官とを関係づけるのは、<光>であり、光に乗っ取っている事物の光的性質が事物から出て、人間の頭の中で了解されるのです。
光は、リンゴに反射してくる時、反射する部分と、それ以外の空間とに区別される事で、リンゴは個体として了解され、同時に個体を包む空間として了解されるのです。光の反射する事物がなければ、空間も知覚されない。さて頭の中では五感知覚である五つの特性の統一体として、モノがあるが、五感知覚をなすこの身体が関わっていくモノとしていつも統一されているのであり、その一つのものが、ただ知として分析され、統合されると言う事なのです。私達は、五感知覚によりそれぞれの知覚内容を持つ事になるが、五感を身体の各働きとして形成しているので、身体はいつも一つのものとして事物に対峙するのです。その一つとして対峙している事を、頭脳としては、五感によるそれぞれの内容を統一すると言う理性とか悟性と言う働きであると理解するのです。

                      認 識
              認識関係(A)/   \ 表現関係(B)
                    /     \
               対象 「X」−−−−−「リンゴ」表現
                     指示関係(C)

<「X」−「リンゴ」>と言う指示関係は、「X」を知覚ししている事で成立している知覚内容が頭の中に成立していて、その頭の中の認識が媒介しているのです。つまり、<「X」と「認識」と「リンゴ」>という関係なのです。
表現の過程的構造を以下の様に表します。
私達の頭脳は、五感を入り口にして「X」に、認識として、つまり形や色や臭いや大きさや重さや味として関係する。さらにそれらの属性の認識を「リンゴ」と言う言葉として表し、その言葉を知覚の対象に指示として関係づける事で、「リンゴ」と言う言葉に表されている認識が、現に知覚の対象としてある「X」自身として現れていると理解するのです。知覚の対象である「X」は、頭脳の中で五感性として、認識として成立しているが、それを言葉として表し、その言葉を「X」を指示する事で、知覚されている「X」は、単に多様な属性を備えていると言うレベルではなく、「X」自体として、「X」そのままで、「リンゴ」と言う言葉に表されている認識の現実態と成るのです。認識のレベルでは、「X」の対象の多様な属性が認識されているだけであり、ここでその属性に付いての認識と「X」を関係づけようとして、多様な属性の結合体、統一体として「X」があると結論していたのです。目の前にある<それ>と指示されるものが、多様な属性の統一体であり、その統一体が多様な属性をまとめあげる主体とされたのです。しかしそれは認識のレベルで完成されているのではなく−−多様な属性とは、この眼で、耳で、舌で、皮膚で、鼻で知覚されているのであるが、それら属性を<まとめる、統一する>と言う言葉で表そうとしても、それで統一体が出来上がるのではなく、問題は、その統一する構造が明らかにされなければ成らないのです。−−言葉と言う表現を介して、と言う事は人間の多様な表現を介して知覚の対象に関わる事で、初めて統一される構造が成立するのです。言葉が指示する対象である「X」は、同時に知覚の対象でもあり、その対象の一つの属性の認識を表した言葉が「X」と指示関係を結ぶことで、「X」自体に一つの属性があるのではなく、そのままで属性の現実態、実体であると言う事なのです。「X」はリンゴ自体であり、また果物自体なのです。たの果物と同じ共通性を備えていると言う事ではないのです。「X」に対してその物性の探求により、「X」を構成する成分が明らかにされるのです。
私達が言葉を覚えると言う事は、上の三者関係を捉えると言う事です。<認識−−「X」>の関係は日常の出来事とし絶えず成立しいる。私が歩いている時、前方を見ている知は、着地する足の一歩一歩で平らな地面を捉えているが、右足をおろすと突然バランスを崩したのです。右足をおろした地面に窪みがありそれに右足をとられたのです。歩いている時には、歩く事で地面の状態が知覚されていたのであり、地面は歩いている時の状態として予想され続けるのです。しかしその予想にはんして地面の窪みに足をとられてつまずくと、突然のつまずきと言う感性が生まれるのです。右足を出し、次に左足をだす事で、視知覚を含みながら、地面が認知され続けているのです。右足を出す前に、窪んでいる事を知覚出来ていれば窪みに合わせて−−地面とその状態を知覚し、地面との距離を知覚し、歩く事に伴う頭の働きが出来ていているのです−あるくのです。地面の状態と地面との距離についての知は、歩く事で実証され続けている。ふと考え事をして、地面を見る意識が散漫になっている時、歩く事で無意識にされている地面の状態についての知と実際に足が地面に接した時につまずいた体の知との間に齟齬を来すことで、驚きの感情が生まれるのです。一歩一歩歩く時、次の一歩が、前の一歩の状態と同じであると予想しているから、予想にはんして次の一歩が、褄づくことがあれば、驚きがしょうずるのです。
さてその様な認識の成立の中で、<認識−−リンゴと言う文字>という関係を形成する時、認識は私達の頭の中で設立していている事では、絵画表現でも、音楽表現でも、変わりがないが、しかし内的な構造としては、言葉にある認識は、概念と規定されているのです。この概念に対して、絵画表現にある認識を感性的認識といい、この視点から再度概念を考えると、概念認識は、超感性的認識と言う事に成るのです。とすると、絵画の様な感性的認識を明らかにすれば、<超>の意味が明らかになるのです。
スペイン語を習おうとしている時、生きている限り、それまでに既に認識関係は成立しているが、ただ表現関係と指示関係が形成されていないのです。目の前の<X>に対して、その形や色や質等を伴いながらそれらが食べられる物であると言う認識が成立しているのです。目の前のその<X>に対して、頭脳の中で成立している認識を前提に、<X>と<リンゴ>と言う文字を対応させるのは、<X>に木の棒をそばに置く事とは違っている。それは文字としてのインクの跡や音声が言葉として対応づけられていると言う事なのです。ただ<X>に対して、スペイン語を対応づけられようとしても、それらがスペイン語という言葉として対応しているのだと言われても、そのスペイン語自体が理解されていなければ、日本語の様に言葉であると言う理解があるだけで、それだからといって、スペイン語として使用できると言う事ではないのです。それは、<X>に対して、<リンゴ>と言う名前だけではな、<X>をどうするのかと言う言葉が出て来ないのです。私の頭の中では、目の前の<X>を手に取って、食べたいのであれば、そのまま歩いていき、手でもぎ取り、食べればいいだけであるが、他者に依頼する場合には、他者との間に私の仕手欲しい事を伝達しなければ成らないのです。<X>を食べたいと言う思いと、それと私の間の距離により、店から買ってくるとか、木からもぎ取るとか言う活動の実行が思考されるのです。<X>を「リンゴ」と呼ぶ事とそれが食べられる果物であると言う事が、対象知覚とし成立しているのです。このもの−その色、形、手触り、大きさによって知覚いるされているモノで、視知覚の対象になっいてる−−は食べられるものと言う種類として認識されるのです。10個の<X>に対して、みな同一の<形、色合い、材質>であり、又<食べられるモノ>と言う規定をあたえるのです。その両規定の認識を表した<リンゴ>を10個の<X>に指示として、あるいは名前として関係づける。現物のあれやこれやの<X>に対して、<リンゴ>と言う「文字、言葉」を「名前、指示」として関係づけるのは、Xとインクの跡、声帯による空気の振動とを物同士として対応させているのです。この対応におけるインクの跡や声帯の振動は、特定の線の形であり音韻と言う特定の声帯の振動としてあります。この特定性は何処に由来するのかと言う事なのです。それはXに対する知覚にはじまる頭脳の働きとしての認識によります。食べ物と言う種類であっても、形や色や大きさや質が違うのであり、その違っているものを<みかん>と名付けるのです。その材質によって人間の胃に消化される事で身体の栄養となるものを食べ物と規定している。XもYも、その材質により、人間の胃の腑に関係づけられるのであり、その材質によって、Xは、食べ物と言うグループの一員になるのです。ただしX以外にあるのはY、Z、Wであり、グループとは、それらとは別の第三者の存在でないのです。それらがもつ材質によりXYZWが特定の材質を共有している事をグループと言うのです。「Xa,Ya,Za.Wa」の中で、aを共通なものとして認知する事で、その共通性から各XYZWを捉え直す時、XYZWがグループに入っていると言われるのです。つまり、XYZWだけであるなら、たんに個別的と言う事だけだが、そこにあるaが共通として認知される事で、グループと言う把握が出来るのです。XYZWが、個別的である時、そこにはaが存在していても、個別として<把握>しているのであり、その個別としての<把握>の後に、さらにグループとして<把握>するのです。

この説明のもともとの初めである個別的と言う規定は、XYZW等を個として把握している事で、XYZWはその前に食べ物として食べているのであり、それは個であるとかグループであるとかを考慮せずにただ食欲を満たす活動であるのです。そのような本能、生命活動の上に食べ物である諸物に対して、思考として個別やグループと言う把握をするのです。その思考以前に諸物はバラバラで、混沌であり、それを私達の思考が個別化したりグループ化しりするのだと言う事ではない。この地球上で生命活動を実践して行く時、私達は身体活動として諸物に関わっていくのであり、その関わりの中で、偶然であったり、必然であったりするのです。その関わりの中で、私達は頭脳の働きとして諸物に対する身体の関わりを思考として内面化するのです。その思考の内面化を人々の前に言葉として表す事になつたのです。
一個一個のXやYやZが、リンゴと呼ばれ、ミカンと呼ばれ、スイカと呼ばれる。幾つかのXに対して皆リンゴと呼ばれる時、その形、色、大きさ、材質の側面の認識がリンゴと言う言葉として表されている事であるが、同時にその認識を表しているリンゴと言う言葉を指示として、名前として、目の前の一個一個のXに対応させる。<リンゴ>と言う言葉で指示される、目の前のXは<形、色、大きさ、材質の側面>を持つのではなく、その特性そのものとなるのです。つまり、たまたま目の前にモノを持つ事で、そのモノの性質の特性を一々認知していき、そのモノに一つの性質があると判断するのだが、しかし言葉による指示が出来ている時には、言葉に表されている認識として、いま目の前に認知しているモノをきていするのです。

Xに接する子供は、見た通りの形や色や大きさとして知覚し、同時に食べ物として認知するのです。現に手に取り口にいれて食べるのです。そのXに対して、<リンゴ>と言う名前を対応を記憶する事で、言葉を覚える事に成る。Xに対する私達の認識は、感性的なあり方と食べ物であると言う側面の認識として概念に成るのです。Xは名前としては<リンゴ>であるが、リンゴを食べると言う活動を頭の中の認識として内面化する事で、<リンゴ>と言う言葉が、<X−リンゴ>と言う指示関係を担うのに対してXが<リンゴ>と言う言葉に表されている概念の現実形態と成るのです。ソシュールのラングとは、リンゴと言う言葉に表されている概念の事であり、その出生は、現実の沢山のXの共通項として認知されて頭脳の中にあると言う事に成ります。つまりラングとって現実のXは、Xについての概念の出生の場所でしかないが、しかし三浦理論とっては、出生の場所であると同時に指示されている事により、初めてX自体が概念の現実形態と成るのです。ラングでの概念が一般的であるなら、現実形態としてのXは、個別的と言う事に成ります。ヘーゲルの様に一般的な概念が、そのまま個別的概念に<成る>のではなく、概念の表現された言葉が、対象を指示する事で、はじめて対象がその個別性のまま、個別的概念に成るのです。個別的になるのは、対象自身の個別性によるのです。Xが一個一個として把握される、その個別性と言う事なのです。
子供にとっての言葉とはXに対する名前として覚える事であり、その記憶の過程にあって多様なXから共通項を思考として抽出する事であるが、同時に抽出によって廃棄されるXになってしまう訳ではなく−−ヘーゲルにとって抽出のXは廃棄されるものではなく、止揚として概念の内部に保持され続けるのでありその内部に保持されているモノがその力によって外部に現れてくるのが、個別的概念と言うのであり、これが概念の働きなのです−−言葉の指示関係により、現前しているそのX自体が正に個別的概念として現れているのです。この<現れ>は、言葉に表現されている一般的概念(ラング)がX自体として現れていると言う事なのです。頭の中にある認識としての概念が、頭の外に出て、個別的Xに変身したと言う理屈ではないのです。 現物としてのXでありながら私達の頭の中に成立している認識としての概念が、言葉を介してXに指示として関わる事で、Xを内的な概念の外的形態とし了解する。Xをそのままの形態として知覚しながら、食べ物と言う種類としてする事とそれを言葉としての<リンゴ>として理解する事なのです。食べ物としては、お腹が空く事で食べて満腹するのであり、動物は皆実践している事であるが、その中で人間は同時に名前としての<リンゴ>を使用する事により、「リンゴを食べよう」と言う言葉でXと食べると言う活動を喚起するのです。 つまり、ここでは<食べる>と言う言葉は、現にこのXを食べる事から抽象化されるのだが、ただこの抽象化は、食べる活動が、「お腹が空き、食べ物を口に入れ、咀嚼し、満腹になる」と言う過程を一つのまとまりとして個別化できる事なのです。物体Xの場合には、視覚的な形、大きさ、色により、個体として個別化されているが、食べると言う行為は、お腹が好き、満腹なると言う意思過程による咀嚼活動として個別化されるのです。

第二章 言語の特徴−−その1:非言語的表現が伴なっている事

「彼の言っている事は、どうも意味がよく分からない」:私達はこんな話をします。ここに言語は意味を持つと言う考え方があります。所が意味とは何かと改まって質問すると、多くの人はなんと答えていいか、返事に困ってしまうのです。
言葉の意味についてその使い方は、実践的には知られているが、しかしその概念として明らかにしようとすると、つまり言葉で説明しようとすると、言葉が出てこないのです。それは、知のレベルの違いがあると言う事で、その違いを言葉に出せるかどうかと言う事になります。私がフランス人にあって彼が発した声帯の振動に付いて、意味以前に言葉として分からないのは、隣でしゃべる日本人の日本語は分かるのに、単に音がしていると言う事でしかないのです。フランス人監督の話している音に対して、通訳が話している日本語は、彼の発する言葉として理解できるのです。そのフランス人監督の発する音声は、通訳が話した言葉に表されている認識を、表しているのでしょうが、しかし彼の音声からは、それが読みとれないのです。音声から読みとれるモノを意味とするなら、私達は彼の音声を聞くとき、同時にそれに付随している意味を聞き取るのです。音声を聞く事との<同時性>とは、音声と切り放しては意味の存在があるとは考えられないと言う事です。音声の存在と切り放せないとは、音声が音韻として、母音と子音との音声形態をとると言う事であり、その音韻の特定の組み合わせに、頭の中の対象に対する概念を対応させる事で、話し言葉の構造が成立するのです。九官鳥はその音韻の特定の組み合わせを発音する事が出来るが、しかしその対応関係が無いので、言葉を話していると言う事には成らないのです。私達は対象についての認識を概念として形成する事が出来ても、それを音韻による特定の組み合わせに対応出来ることで初めて、言葉として発話できる。しかしここから新たな問が現れるのです。対象についての認識が概念と成る事で、その認識は対象と感性的なつながりを切り放してしまうのであり、それを超感性的と規定するのです。これらは結局<認識>とは何かと言う事なのです。人間が五感を入り口とした頭脳のなかで成立する認識を形成するのは、それら対象物にたいする認識により身体を介して対象物に物質的に関わって行く事を構造として捉えたモノを言うのです。私の家のテーブルの上に「X」があるのを見ている事に対し、白紙の上に描いて示せば、それは対象の五感による知覚で得られている知覚内容を示しているのです。白紙に「X」を描いてあれば、単に紙の上に「X」が見えると言う事でしか無いが、テーブルとその上の「X」を描けば、テーブルの上にリンゴが<ある>という事を理解できます。私達が「X」と関わる時、白紙の上の絵は、「X」の感性的あり方に関わり、言葉は、「X」の超感性的側面に関わることになる。「X」はその材質に依って食べ物としてあり、私達は「X」を食べることで、身体の栄養とするのです。食べる時、手にもつ感触と歯ごたえと食感と味が伴なうのであり、それらは感性的認識として成立するのです。味が良ければ、再度食べるのであり、苦みがあれは躊躇するのです。「X」は食べるモノの一つとしてあり、それを認識のレベルでい言えば、「X」は、ミカンやお米や大根と同じ性質を持つ物であり、その性質を持つモノを一般に<食べ物>と規定するのです。Xが食べ物であると言う判断は、実際に食べる事で実証されると言う事であるが、Xに即して考えると、X自身に身体の栄養分になる成分が含まれていると言う事なのです。X自体を料理して食べるのであるが、消化され栄養に成るのは、そのXを構成している特定の成分であると言う事なのです。X自身にある特定の成分が、人間の身体に栄養として消化されるのであり、そして実際に消化される事で、実際に食べ咀嚼し、飲み込む事ではじめて人間の生命の維持がなされるのです。その食べると言う身体活動は、Xの特定の成分の存在の実証であり、存在の確認でもあるのです。ただし動物すべてのせ実践であるが、人間はその食べ物を構成している成分についての知を頭の中に作る事が出来ているのです。
「X」に対する知覚から、他のモノとの共通性を捉える事を、「X」に対する概念が形成されると言うのです。しかしこの説明での共通性は、例えば形がみな四角だとか、丸いモノだと言う様な事でしか無く、食べ物であると言う場合には、まず口にいれそれが栄養として成立すると言う事で成立するのであり、その身体行動の成立するモノに成れば、どれもみな<食べ物>と言う言葉で示し得るのです。つまり、「X」への知覚が<食べ物>と言う言葉で表される概念として成立するのは、まさにその様な身体行動を媒介するモノと言う判断が、私達の中にせいりつするからです。現実の身体行為があり、その行為を導く目的意志を私達は認識と言うのであるが、しかしその身体行為は虚空に浮かんでいるモノではなくて、身体を囲む外界の物質に関わるのであり、目的意志はその物質を五感の知覚の対象にして頭脳の中に認識として形成していくのです。その頭の中に出来上がっている認識の特定の形態を概念と言うのです。知覚の対象であるモノは、又認識を介した身体活動、つまり表現が関わる対象であり、その表現過程に媒介される対象は、表現に現れている認識の現実態と言う事になり、「X」はそのままで<食べ物>と言う言葉で呼ばれる概念の現実態と言う事なのです。「X」のある特定の属性があるから、それによって<食べ物>と言う事なのではなく、これは結果からみた反省であり、反省以前にまず端的に食べられている事で、実証され続けているのです。

言葉の意味が何であるかの言語学者の説明は、大きく分けて二つに成ります。
どの言語学者にも共通しているのは、人々の喉の声帯の振動によって作り出す音声に、白紙の上の青インクの跡である書き文字に、言葉の意味があると考えていることなのです。人々がその音声はスペイン語だよと言うその音声を聞いても、単に音を聞いているのに対して−−その人はそのスペイン語を言葉として理解しているのでしょう。私が彼の理解について推量するのは、私が日本語を聞いて理解していることを当てはめているからで、推量したからと言って私には単に音でしかないのです。私の「彼がその音声を聞いて理解している」と言う推量は、彼が他者とその音声に依って会話しているのを見ているからで、私にはどうしても言葉として聞いていないのです−−私が、日本語を聞いている時には、音以外に言葉として分かるのです。それは、音韻による区別が聞き取れる事と、意味が聞き取れると言う事なのです。私が人々がスペイン語と呼んでいる音声を聞いても、その音韻の区別と意味を捉えていないから、単に音を聞いていると言うことになってしまうのです。音を音韻として区別するのは、頭の中の概念が音韻の組み合わせとしての単語に対応しているからです。<ど、れ、み、ふぁ、そ、ら、し、ど>と言う音楽の音は、七つの別々の音で成り立っていて、この区別には、音の相対差への聴知覚が頭の中で成立していて対応しているのです。言葉としては<何処に行きますか>の<ど>の音韻と同じであり、そのような言葉の知覚の中で、一つ一つの音韻を<イロハ>と表すのです。私達日本人が、ドイツ語での音程の発音を、日本語での発音をするのは、日本語にある音韻によって発音するからです。英語の<RL>の発音葉、口の中の舌の位置の問題であり、似た発音としは、<ら>になるが、文字としては<ら>になってしまうのです。蚤も米も<ライス>と言う同一の文字に成るのです。そのような音韻としての語彙の組み合わせとして成立している言葉に<意味>があると言う事の構造を解明するのです。

第一:
話して・書き手の側にあるモノとして、その心的状態と表現である言語との関係において説明するやり方です。
第二:
聞き手・読み手の側にあるものとして語られ書かれた言葉とそれに依って呼び起こされた心的状態との関係において説明やり方です。
第一の場合、言葉が話しての話し言葉として、書き手の書き言葉として成立するのであり、話してや書き手の心的状態は、現実の中から生まれて来るのであるから、言葉の意味を、その心的状態と心的状態を生み出す現実とから説明しようとするのです。意味を、内的意味としての心的状態と外在的いみとしての現実との二通りから出来ていると説明するのです。:(S・I・ハヤカワ)
内在的意味とは、作者の記憶している事物の共通の特性であり、概念です。外在的意味とは、その言語が指し示している現実の事物です。「家」や「犬」の様な言語は内在的意味と外在的意味の両方を持っているが、「お化け」とか「天国」の様な言語は、内在的意味しか持っていないのです。
<天使の像>が描かれている場合、画かれている天使が、現実に存在すると言う事ではなく、赤ん坊や鳩への現実的知覚より得られている、それぞれの姿形を、キャンバスの上に絵の具で画いたモノなのです。つまり、一枚の天使像の絵画とは、現実の知覚より得られている事物の形や色等が、頭の中で組み合わされ、頭の中で成立する表象を、一枚の紙の上に絵の具の痕跡とし作ったのです。絵画と現実の事物との間のつながりは、まずキャンバスと言う布地の上の多彩な絵の具の痕跡とそれが部屋にの壁に飾られていると言う事です。つぎに、その壁にかけられているキャンバスの表面の絵の具の跡が作る<形>が、背中に羽のある人間の赤ちゃの<形>と同一であるから、数学的には相似形であると言う関係に成るのです。形の相似形は、鳩の羽と人間の赤ん坊の形による合成として出来ているが、絵画の形が、そのままキャンバスの外の世界に存在すると言う事ではないのです。外の世界には、羽の形と赤ちゃんの形は存在していて、その合成を、私達は頭の中で想像として成立させているのであり、その成立し想像図をたよりに、絵を描くのです。
絵画は、現実の事物に対する五感を入り口とした認識を介して成立しているのであり、俯瞰的に見れば、両者は切り放せ無いのであるが、細部では頭の中で結合する事で、現実には無いモノが、頭の中に出来上がるのです。そしてそれを白紙の上に画けば、天使の像が出来上がるのです。俯瞰の立場と細部の立場を一緒にすると、天使が、現実に存在すると考えてしまうのだし、天使の表象を全てであると考えれば、鳩も赤ん坊も、いわゆる想像物になってしまうのです。「天国」と言う言葉に、内在的意味を認め、外在的意味を認めないと言う事は、現実の事物の中には天国と言う言葉で指示されるモノが無いと言う事であり、それは頭脳の中だけで成立している想像のモノと言う事なのです。絵画として表されている<天使の像>の場合、その像として表されるモノが、<そのまま>現実の中にはいないが、その像として表されている部分としての<赤ん坊>と<羽>は、現実の中にあると言うことなのです。<天使>と言う言葉のうち、内在的意味としては、話しての頭の中を表していると言う次元で成立するが、外在的意味としては、頭の中の表象に元がそのまま無いと言う事で成立していない。しかし頭の中の表象が<鳩の羽>と<赤ん坊>の表象の結合で出来ていると言う意味では、頭の外の出来事とつながっているのです。
現実の事物の中には無いが、頭脳の中の想像としてはあると言う言い方は、例えば自分の祖母は10年前に亡くなってしまい、今はいないが、頭の中には記憶としてあると言う事が、家族の一員や社会の一員としての祖母自体のあり方と、私の記憶としての表象としてあると言う区別です。私の大学時代の友人のKには、私の祖母に付いての記憶が無いのは、彼が祖母に直接会った事も無く、私も祖母について話した事がないからです。しかし彼が私の両親の両方に母親がいる事を知っているのは、祖母がいるのを知っているのは、それは彼にも祖母がいるからで、客観的な親族関係を知識として認識しているからです。つまり、彼が私に祖母がいる事を知っているのは、私にある親族関係をただ指摘しているだけで、別に祖母の具体的人間を見ている訳では無いのです。私が自分の親族を祖母と言う名前で呼ぶ時、その名前が指示する人物を直接眼にしているのであり、その人物を見ながら−−私が赤ん坊の頃に無くなっていれば、記憶もなく、ただ写真として残されている人物に成るのです−−祖母と言う言葉を使うのです。視知覚から入ってくるその人物の知覚内容とその人物が私や周りの人と作る人間関係の認識が統一され私は目の前の人を<祖母>と呼んでいるのです。友人Kも彼の周りの人との人間関係があり、それを認識しているのであり、その関係を認識していると言う次元で私と同じ<祖母>と言う言葉を使うのです。ただ両者が視知覚している人物が違うので、彼は自分の祖母を見ているが、私と住んでいる所が違うので、私の祖母と呼ばれている人物を見ていないのです。
<祖母>と言う言葉は、自分を中心にして形成される人間関係のうち、自分の両親の母親との関係を表している。友人Kにも彼を中心にした人間関係があって、それを<祖母>と言う言葉で表すのです。私と彼が<祖母>と言う言葉を相互に発言出来るのは、お互いに特定の人間関係をその言葉で表しているのであり、ただ二人が<祖母>と言う言葉で指示するのは別々の人間であり、私の身近にいる人と彼の身近にいる人なのです。私にも彼にもある人間関係のうち、特定の人間関係を<祖母>といい、その関係を担う特定の人物をその祖母と言う言葉で指示するのです。つまり、祖母と言う言葉が表す私達の頭の中にある心的現象である概念は、私達人間相互の人間関係を認知しているが、私が使う祖母と言う言葉は、まず人物Aを指示しながら使われているのです。その人物が私にとって祖母に成るのです。私と人物Aとの間の人間関係の認知を表したのが<祖母>と言う言葉です。ただ言葉は関係のレベルを表すだけだが、その言葉を特定の人物に指示として使う事で、その人物が<祖母>と言う言葉が表す概念の現実形態であ事をしめすのです。

私達は、自分にとっての特定の人物Aを<祖母>と呼んでいたり、扱っていたりしています。しかし言葉としての<祖母>は、その特定の人物との間にある人間関係を<関係>のレベルで表しているだけナノだが、しかし話し言葉や書き言葉として日常使用しているレベルに置いて、人物Aに対する指示、名指しとして使う事で、関係のレベルでありながら、同時に関係を担う−−関係の他端は私自身になります−−人物Aを<祖母>と呼ぶ事に成るのです。彼にとって葉、人物Bが<祖母>と言う言葉の指示対象であり、彼はBを祖母と呼ぶ事に成るのです。私と彼が同じ<祖母>と言う言葉を使うのは、関係のレベルでの同一性を表すからであるが、その関係を担うモノとして私には人物Aであり、彼には人物Bと言う事なのです。
私がコミュニケーションとして<昨日祖母がなくなった>と発言すれば、人間関係としての関係を表しているだけでも、その言葉の理解に成るが、しかし私の祖母である人物Aを知っている人にとっては、単に人間関係のレベルだけではなく、その人物Aがなくなったと言う理解をするのです。
<天使>や<お化け>と言う語が指示するものは、本とか山と言った言葉が指示するものの様に存在するのではないが、しかし頭の中の想像の産物として頭の中に成立していて、それを指示としているのです。それは赤ちゃんの表象が頭の中に成立している時、あくまでも現実の生きている赤ちゃんについての似姿として頭の中に成立していると言う事なのです。<生きている赤ちゃん>と<似姿としの表象像>であり、赤ちゃんと言う言葉は、頭の中の<似姿としの表象>を介して、<現実のそれ>に指示として関わるのです。それに対して、<天使>と言う言葉は、頭の中の像と関係−−それを表現と言うのです−−しているが、ただ赤ちゃんの似姿と鳩の羽の似姿とが合成されて出来ていると言う事なのです。現実の世界の諸似姿としてあるものの、その合成により出来ている表象であるから、部分としては、現実の諸に姿であるが、合成体としては、頭の中での存在でしかないのです。問題は、私達人間がその様な合成体を頭の中で形成する時、何故その様な合成をするのかと言う問いが成立する事なのです。天使像の場合、神と言う視点の中で、神のシモベと言う発想で生まれているのです。
時所に関係なく、存在しないのであり、<祖母>と言う語が指示するモノは、今はすでに亡くなって存在しないだけで、死亡以前は存在している。指示を持つ語と指示を持たない語があると言う事です。ただ語にとってその有無は本質的ではないのです。認識の表現が本質的であり、想像としての表象であろうと、対象の反映としての認識であろうと、表現としては同じと言う事です。

心的現象、概念にしても現実の事物にしても、言語が語られ書かれたあとで変化したり消滅したりする事を免れません。内在的意味であろうと、外在的意味であろうと、それらが指示するモノが変化・消滅すれば、意味の変化・消滅になると言う事になります。作家が死んでも彼の作品は残ります。彼の思想はすでに存在しません。したがってその作品は意味を持たない、と言えるでしょうか
作者の心的事実が、彼の表現した作品の意味であると言う言い方は、何気なく述べているが、その極端な結論を示せば、作者が生きている間は、心的事実は彼の中にあるから作品に意味があると言う事が言えるが、作者が死亡してしまうと、その時点から意味である心的事実が彼の死亡とともに消えてしまうと、言葉の意味も消えてしまい、あとには単に黒い線の痕跡だけが残っていて、後に私達がその作品を前にしても、言葉として読み得ないと言うことなのです。昨日まで意味の読み取れた文が、あたかも外国語を前にして<みみずのはいずり回った跡>としか見えないのに似ている事になる。しかし万葉集を読んでも日本語として読み得るし、別に黒い線ののたくった跡とは見えないのは確かであるのだから、上の説明にはおかしな所があるのです。作者と伴にある心的現象が、彼の死とともに消えてしまっても、彼の思考を表した作品は、残るのです。その作品を読む私達には、当然心的現象があり、その心的現象により、作品の言葉に表されている概念を形成する事が、他者の作品を読むと言う事なのです。作者も私達もこれから生まれる子供達も、各自の心に生ずる心的現象から、客観性である言葉を形成する概念を、自分の心の中に形成するのです。文字や音声と言う物質のあり方を介して、私達の感性的知覚の対象物についての認識の表現として、再度対象物を指示すると言う過程を一つの客観性と規定するのです。100人の人がいれば、皆心的現象より、頭の中に言葉にある<文字−概念>と言う関係を形成する。つまり皆言葉を話す様になるのです。各自の心的現象により、頭の中に言葉の客観的関係を形成するのであり、だからその客観性により、他者の作品の言葉を読む事が出来るのです。
それぞれの生きている人間が、対象についての認識を形成しながら、その認識を言葉にある<文字−概念>のその概念へと変化させるのです。概念はあくまでも生きている人間の頭の中に形成される認識であり、その認識としての概念の形成は、人々に共通としての物質の種類と言う側面が対象と成る事で、可能になるのです。私も彼も自分の頭の中で認識するであるが、ただし両者の頭の中を開いてそれぞれの認識を二個として比較すると言うあり方ではないのです。頭の中で形成される認識は、身体活動の諸形態として現れていると理解するのです。その身体活動の形態の比較を通して、認識の内容が明らかにされるのです。
既に亡くなった彼の小説をいま読んでいて、私達に理解できるのは、その言語表現を言葉として読み得ているからです。生きた認識が、言語表現としての<文字−概念>の表現関係を形成する概念に成る事に対して私達も生まれてから言葉を覚える事でその表現関係を絶えず実践しているからこそ、他者の言葉である小説を読み得るのです。とするとその言葉を話す人々がいなくなるとは、客観性を継承していく者がいなくなるのであり、全く途絶えるともう言葉として理解する事が出来なくなるのです。

生きている私が文を書き、それが一枚の紙Aに残されている。私の考えかも日々変化していて、ある日Aに記してある文を読む事で、間違った考えをしていたと反省するのです。Aに文を記した時点と今の時点にある時間の隔たりの間に私の考えに変化があり、今の時点からその文を読み返すと間違っている事に気づくのです。A時点での思考が、Aに文として記されたのです。ここで問題にしているのは、文として記された思考とその時点での思考の関係です。生きている思考が、言葉の規範に則って加工された思考と成るのです。<流動していたものが固定する>と言っても<混沌が輪郭あるものになる>と言っても、それは日々生きている者が、文を書いていると言う事実を、思考と言う視点から説明している事なのです。つまり、文は話者が頭の中の考えを言葉にしたものだと言う文の一般性の視点から、私が記した文について考えているのです。

言葉に、ソシュールの言う様に文字と概念の切り離せない対応があるなら、私達が言葉を発するとは生きている思考を、文字や音韻と対応する概念に形成する事なのです。生きている思考とその対象化された概念との関係に成ります。生きた思考がどんな構造で概念になるのかと言う、その構造が問われるのです。

それが言葉であり、身体活動と言う事に成ります。概念の対応した文字や音韻を、概念である認識の対象であるモノに、指示として関わる事で、対象物が、概念の現実形態と成るのです。つまり概念の個別化なのです。認識としての概念は、感覚器官を入り口とした対象であるモノの種類と言う側面えの認識として成立するのです。感覚器官は一個一個のものを対象に知覚していくのだが、それらの諸物の種類と言う側面が認識として成立しているのであり、一個一個と言う事は、種類と言う側面の背後に捨象されてしまうのです。概念は、種類と言う個別のもの同士の間の共通性の、認識として成立している。その意味で概念は普遍性と言う事に成るのです。その普遍性である概念が、普遍性である限り、変化も個別化も無関係であるが、表現の形態である文字や音声や身体活動を介して諸物に関わる事で、諸物そのものが、普遍性である概念の個別的形態と成るのです。その過程を俯瞰するとあたかも普遍である概念が、個別化したと、ヘーゲルの様に判断されてしまうのです。普遍である概念が、表現形態をとるといっても、概念が実体として、自ら変身して個別に成るのではない。概念は、心的現象として儂たちの頭の中に、感性的知覚が捉える対象物の種類と言う側面として成立しているのです。その概念が頭の外に、言葉として−−インクの跡の文字の形態として、声帯の振動としての音韻形態とし−−表されるのです。この<表される>と言う言葉は、頭のを中心にして<内部−−外部>と言う関係を作るのです。それは比喩的に言えば、部屋の中にいる人が、扉を開けて部屋の外に出てると言う様な実体的なイメージではないのです。頭を中心に内部と外部を考える時、まず脳細胞が頭蓋骨を壁に内部にあり、外に耳や目や鼻や皮膚や舌がある場合では、各感覚器官は伝達回路である神経繊維により脳細胞とつながっているのです。この生理的な脳の構造にあって、脳細胞の働きとして、脳細胞自身の所に形成されている心的現象である認識としての概念は、その動きを神経伝達繊維を介して、各身体器官に伝達されるのであり、伝達されたものは、身体の活動の多様な形態として現れているのです。頭脳の中の概念は、自らが神経伝達回路と言う水道管の中を流れる水の様に、身体と言う蛇口から出てるのではないのです。この水道の比喩で考えると、内部の水が、そのまま蛇口から出てる様に、思考も、そのまま言葉として出てるのだと考えれば、思考と言葉として出てくるモノの間に区別はないのです。頭の中では、生き物が生きている限り絶えず水が生まれでてくるのであり、その生まれでる水が、外部に流れ出続け、死はそれらの働きを停止するのだと言う事なのです。思考を実体として考える事は、身体活動としての身体の動きが、単に力学的、生理学的な運動だけではなく、諸物をその種類−−簡単に言えば諸物を道具として−−として取り扱う運動であると言う事を、頭脳の中の心的現象を介して成立していると理解するのです。その道具としての諸物の最たるものが、人間にとっての言葉と言う事です。インクは単に特定の液体でしかないが、そのインクの跡の特定の形が、文字として使用されるのは、その特定の形に、心的なものとしての頭の中の思考が対応しているからなのです。

「<あいうえお>と言う文字と呼ばれる黒い線の跡に言葉としての意味がある」と言う説明は、その言葉の所に意味があり、作者がその作品を書き上げる事で、意味が出来ていると言う事なのです。作者の心的事実に関わる事は明らかであるが、しかしそのままで、表現された言葉にある意味になると言う事ではないのです。作者の生きている心的事実が、何らかの特定性を経る事で、言葉の意味になると言う事なのです。その特定性とは、心的事実が、概念として音声表象と関係を形成する事であり、その関係こそが、生の心的事実が消えた跡も、残り続けるのです。ただしその関係が残ると言っても、新たな人間がその関係を彼の心に再生産する事によってなのです。新たな人間は、生の心的事実の中から、<概念−文字表象>と言う関係を認識するのです。ロゼッタストーンに記されている文字らしいモノを読み切れなかったのは、<その文字−概念>の関係を捉えられなかったからであり、たまたまその文字に対して、現代でも読み得る文字が併記されていたために、併記された文字の表している概念をそのまま使用できたからです。言葉は、文字や音声がインクの跡や声帯の振動と言う物理的事実なのだが、その物理的事実に概念が対応する事で、物理的事実は言葉と規定されるのです。ただしその物理的事実は、インクの線による特定の形、音韻と言う声帯振動のように特定性が規定されているのです。音韻は母音と子音とで成立しその2音の組み合わせにより、<あいうえお・・・>と言う音声が成立するのです。そしてその<あいうえお>の音声の組み合わせに、概念が対応して、概念相互の関係が、組み合わせ相互の関係として発話されるのです。日本語の場合、概念は客的表現として表し、それらが相互に関係していることを主体的表現として表すのです。

<私 は 学生 です>と言う言葉があります。「私」「学生」と言う客体としての概念とそれらの相互の関係を「は」「です」と言う主体的表現として表しているのです。
     <私は、学生です>−−(1)
     <私が、学生です>−−(2)
     <貴方が、学生です>−(3)
両方とも「私」も「学生」も同じ字形であるから<同じ>と考えられる。そして<私>と言う言葉があらわす概念と<学生>と言う言葉が表す概念との、二つの概念の相互関係の違いを「は」と「が」で表し、さらに関係づけている事を「です」で表すのです。二つの概念を関係づける事を一般手的に派、判断と言う言葉で表しているのです。(1)と(3)の場合、字形も対象も違うのはすぐ分かるのです。(1)と(2)の場合字形も対象も同じである事は分かるが、今の場合は文字や音声としての同一性であって、表そうとする概念には違いがあるのです。(1)の場合、私の本性として<学生>であり、あるいは私にある多様な側面のうち<学生>と言う面があると言うことになる。私と言う言葉が指示する対象の属性として<学生>が規定されているのです。(2)の場合おなじく私と言う言葉が指示する対象は、その<丸ごと全体>が学生という規定を与えられるのです。私を学生と言うグループの一員だけで捉えているのです。
私と言う言葉が指示する対象には多様な属性があり、その一つが学生であり、男性であり、会社員であり、歩く人であると言う事なのです。これは(1)の表現と同じ方向にあるのです。それに対して(2)と(3)の場合、例えば演劇の配役として<学生><教授><学長>の三つがあり、その配役を降り当てようとして、貴方に学生を役づけるのです。貴方の属性が問題なのではなく、貴方全体が学生と言う事なのです。貴方の一つの属性ではなく、そしてこの<実体とその属性>と言う考え方を前提にすれば、属性そのものの実体化として貴方の存在が捉えられているのです。つまり(1)が実体として<私>にある沢山の属性として<学生>と言う規定があるのなら、(2)や(3)での私や貴方は、その属性が実体化していると言うことなのです。普遍と言う概念は、その中に多様な属性を持っていると言う事であり、その一つの属性が実体化したものを特殊と言う概念です。それぞれの属性が実体化したものが、一つ一つと規定されている事を個別と言うのです。
<普遍、特殊、個別>と言う三個の言葉がある。この三つの言葉の三個という数量は、内容の違いに関わらず、文字としての数量という事です。ただ<普遍、普遍、普遍>という三個と言う数量は「<」の中の文字数という事なのです。<普遍、特殊、個別>の三個の数量は、文字数としての数量です。それぞれの語彙は、概念を表していると言う規定から考えると、三個の語彙の数量に対して、表されている概念も三個と考えてしまうのです。

言語にある、意味の存在を確認出来ないので、言語とは単なる形式にすぎないと言う考え方が生まれてきました。その考え方の上ででは意味とは何かと言う事になります。それは言語の聞き手・読み手の中に呼び起こされた心的状態だと言うのです。しかし一つの文章に対して各人が違った受け取り方をした場合、それらは全て文章の意味であると言う事に成ります。意味を取り違えたとか誤解したとか言うことはあり得ない事になります。これは現実の言語のあり方を正しく説明するものではありません。文章と言う形式から読み手の中に内容が生まれると言う形式主義なのです。
作者の心的状態でも読み手の心的状態でも、これらの説明は、意味を概念や心的状態そのものとして、すなわち一つの実体として捕らえている点で共通しています。
「言語が意味を持った音声であると言っても、それは脊椎骨を持った動物と同じ様な意味においては、我々は何処にも意味を持った音声と言うものを観察する事とができない」(時枝誠記)
時枝は、この経験から言語それ自体が意味を持ちあるいは文章が内容を持っていると言う考え方を否定しました。「言語はあたかも思想を導く水道管の様なものであって、形式自体にある」
・・・・・・私はりっぱな祖先を持つ
・・・・・・彼は秘密を持つ
祖先はもうこの世にはいません。現実に何ら存在しないものを、これらの人たちが「持つ」と表現されるのは何故でしょうか。それは、私がそれと関係を持っているからです。これは客観的な関係であって、これらの人達が現実に存在する限り、この関係はいつまでもつきまとうからです。一つの事物は言い色々な関係を持っているから、どの関係を取り上げるかに依って、同じ事物でありながら、表現が違ってきます。
音声や文字に直接結びついているのは、話して・書き手の概念ですが、これは表象や感覚に結びついている事も多いし、そらにこれらの認識の対象である現実の事物や想像の事物との結びつきが存在しています。音声や文字には、その背後に存在した対象からの認識への複雑な過程的構造が関係づけられているのです。この様に音声や文字の種類に結びつき固定された客観的な関係を、言語の「意味」と呼でいるのです。

話者の発音する音声と彼の中の認識との間にある関係に対して、その関係から音声を見た時、言語と言い、その関係から認識を見た時、概念と言うのです。<この関係は両者の間にある>と言う言い方は、音声と認識の二つの項目の間と言う事であるが、ただその二つに対して、第三者存在としての関係と言うことではありません。音声と認識を<一対一>の対応させることで、音声が音韻と言う特定の形態に成り、認識が概念となると言う構造を成立させている事を関係と規定しているのです。両者が対応する事で自ら変化していく事を、両者の間に関係があると言うのです。いま<音声と認識を対応させる>と言いましたが、しかしここではまだ単に言葉としての<音声、認識>であり、文字としてみている限り、二つを対応させると言う事がすんなり成立していると考えてしまうのです。認識は対象を五感を入り口として成立する頭脳の働きであり、知覚として対象の形とか色とか臭い等の、いわゆる感性的形態を持っているのであるが、その感性的形態を前提にしながら、種類と言う側面が捕らえられることで、認識は超感性的になる。感性的形態として知覚されている対象に対して、音声を関係づける事で、その音声と対応している対象の種類という側面の認識の、現実形態として、知覚の対象が規定されるのです。この構造の上で、一つの反省として<音声と概念の対応>と言う関係がそこに出来ていると捕らえるのです。そうではないのです。音声を知覚の対象に関係づける事で、その対象は、種類と言う側面の認識である概念の現実形態として規定されるのです。私達の五感は、対象を感性的あり方として知覚しているのであるが、その対象に対して音声を対応する事で、対象は種類という側面を持っていると言う事でなく対象自体が、種類の現実態となるのです。この構造に対して、私達が思惟としての反省として<音声−−種類と言う認識=概念>と言う規範の関係をえる事になるのです。対象に対する五感知覚を入り口として頭脳の中に生ずる認識が、声帯の振動として成立する音声や手の動きから生ずるインクの跡と特定の関係を形成する時、その関係を音声に見るとき、音声を話し言葉と言い、認識に見るとき、概念と言う。この関係を音声や認識に<見る>とは、関係の実体化と言うことであり、声帯の振動としての音声が、音韻という特定の音声形態になる事なのです。さらに認識は実体としての概念になるのです。つまり、認識が身体活動を導く頭脳の働きとしてあると言う事は、その認識に対象が内容として形成される事を概念と言うのです。認識は対象を知覚内容として持つ事で、内容ごとによって個別化されるのである、その個別化された認識を概念と言うのです。

文字や音声があり、その音声の<背後>と言っても、字義の通りに音声に背中がある訳ではないのだから、音声の背後と言う言葉で、何を表しているのかと言う事なのです。白紙に文字を書いたとき、紙の後ろ側から見たらそこが背後であるなら、それは文字の背後ではなく、白い紙の裏、表と言う事で成立するモノなのです。とすると文字の背後とは、何かと言うことなのです。それは文字が言葉として認識の表現であり、認識の現れたモノと言う事なのです。認識がそのまま頭の中から抜け出て、他者の頭の中に入って行くのなら、最初から最後まで認識であるが、しかし認識がインクの跡や声帯の振動として表れている場合、そこにあるのは声帯の振動やインクの跡と言う物理的事実であり、その物理的事実に対して、頭脳の中に認識が存在しているのです。その存在の仕方を背後にあると言うのです。その頭の中の認識には、五感から入ってくる外部のモノについての知覚内容が成立しているのです。知覚が対象にしている事物と頭の中の認識は関係を持ち、表現としての音声や文字に対して、背後と言うあり方をしていると考えるのです。比喩的には声帯の振動である音声は口から前方に伝達していくのであり、当然前方に進むと頭の中のある認識は後方と言う事で、背後と言う言葉に成るのでしょう。

概念そのモノは意味ではなく、意味を形成する実体です。概念そのものの消滅は、これによって形成された意味の消滅を意味しません。意味は話し手・聞き手の側にあるのではなく、言語そのものに客観的に存在するのてぜあって、音声あるいは文字の消滅とともに、すなわち表現形式の消滅と伴にそこに固定された関係が消滅し内容あるいは意味も消滅します。

認識と音声の間には、認識が概念となり、音声が音韻と成ることで、意味と言う関係が形成されるのです。言葉の意味について考えると言う事は、現に話したり、聴いたり、書いたり、読んだりしているこれらの言葉と呼ばれるモノに意味があると言う事なのです。この時、それらの諸形態(読書聴話)としてある、これらは、その本質が分析的に捉えられていなくとも、<言葉>とはなにかと言う問いの対象が、把握されているのです。つまり私達は、言葉としての対象を知っているが、ただその知は、分析的知に成るための実践的知と言う事なのです。
私は何故この様な説明をするのかと言えば、哲学の知として概念の<内包−外廷>と言う考え方からすれば対象の確定は、<内包−外廷>によってなされるのであり、それは、はじめから言葉の定義が成立していなければ、何が言葉なのか確定できない事になってしまうのです。この定義と言う言葉が間違いなのではない。日常の言葉のコミュニケーションによる実践的な体験が、どれが言葉であるのかと言う輪郭で、対象を捉えているのです。コミューニケーションにあるその音声の諸現象体験として知られているモノが、<言語>と呼ばれる言葉が指示している対象であると知っているのです。言葉を話している時、その内容に注意が向いていても、しかし今話している事が<言葉、言語>であると言う知としても成り立っているのです。
その音韻の組み合わせである音声が、あるいはインクの跡がつくる形が、認識の対象への指示として表れると、あるいは音声が対象のレッテルと成ると、レッテルを貼られた対象がそのまま−−対象の特定の側面といった<特定性>の確定に戸惑う事になる問題をクリアーしているのです−−で、概念の現実態と成るのです。五感による知覚の対象である事で、感性的形態を得るのだが、「この段階を反省してしまうと、その感性的形態は、対象と言う主体の属性としてある」と言う概念区分に陥ってしまうのです。主体は多様な属性が集合したモノ、加算されたものと言う結論に成ってしまったのです。しかし加算されるとしても何処まで加算されると、主体という当体になるのかと言うことなのです。知覚の対象を主体として規定するのは、その対象に音声とか文字とかのレッテルを貼る事で、レッテルの個別性に対応して対象の個別性が成立するのです。私達がこの眼で見ているモノが、そのまま個別性としてあるから、わざわざレッテルを持ち出さなくてもいいではないかと考えたとすれば、私達にとって知覚をするが、それは身体の知覚運動と言う事であり、眼も顔の動きと身体の高さを、かがんだりと言う運動との連動として成立しているのです。知覚ではなく、知覚運動と言う事なのです。当然知覚運動により働きかけられる対象は、身体と関わるのであり、身体と関われば、身体の物体性とかかわる物体と言う事になるのです。と言う事は、知覚を介した身体運動は、物質を対象にした表現活動と言う事なのです。五感を入り口とした対象に対する認識は、単に対象に対する模写ではなく、対象に物質として働きかける媒介活動と言う事なのです。認識による媒介活動を一般に、表現活動と言い、身体と道具をにより知覚の対象でもある事物に働きかけ、変化させていくのです。事物の変化に働きかけるとき、私達は、その事物の性質に働きかけるのであり、自らの働きかけが、事物の性質の認識を見取り図にして働きかけると言うことなのです。対象を<赤い色のもの>と<他の色のもの>とに区分けして、赤い色のモノを、倉庫に保管しておくと言う、知覚としては<赤い色>と<他の色>言う認知であるが、そのような知覚が出来ると言う事は「倉庫を作り、そこに保管する」と言う活動に関わるモノとして認知運動があると言う事なのです。ただ<赤い色>と言う知覚が、その色のモノを倉庫に保管させると言う事ではない。わたしたちは身体活動において、その活動が働きかける諸物を知覚の対象にもしているのでありその知覚の内容によって事物に対する働きかけが出来ないこともあれば、働きかけが完成する事もあるのです。
言葉のうちインクの跡や録音された音声などが消えない限り、その客観的関係は継続するのであるが、例えば、ロゼッタストーンにかかれている線の跡が文字(ヒエログリフ)であるとしても、それは私達の日本語と同じ<文字言葉>であるらしいが、しかしそれを読めないことが続いていたのです。研究者が読む事が出来なかった間もそれが言葉であれば、客観的関係としての意味がそこにあるはずなのです。そこでそこにある意味をどの様にして読むのかと言う事になります。
ロゼッタストーンは、ヒエログリフ(古代象形文字)、デモティック(エジプト民衆文字)、ギリシャ文字の順序でかかれていました。現代でも読み得たのは、ギリシャ文字であり、そのギリシャ文字の解読から、他の二つの文字もすんなりと読み得ると思ったのでした。しかしギリシヤ文字からの翻訳では一意的に解読出来なかったのです。
その解読をしたのはグルーノーブル大学(フランス)の若き教授ジャン・フランソワ・シャンポリオンでした。シャンポリオンが解読に成功したのは、ヒエログリフは表意文字であると同時に表音文字であることを、そしてヒエログリフのアルファベットを発見したこと。ヒエログリフは、象形文字、表意文字、そして表音文字の3種類の文字から成る。ある一つの文字がいくつかの機能を持ち、同じテキストや語句のなかで、同時に象形的、表意的、表音的になりうるのだ。
第一に、個々の文字が指示する対象の確定である。日本語の場合「が」「は」などの助詞と呼ばれている文字には、対象があるようにはみえないものがあると言う注意が必要になる。
「X」に対して、<X−リンゴ><X−果物><X−食べ物>と言う言葉の指示関係が成立している時、一般に「X」と言う対象の色々な側面が、それらの言葉の対象であると考えられてしまっています。しかし対象たる「X」に対して、それらの属性が指示されているのではなく、各言葉はどれも「X」自体を指示しているのです。対象の属性は、知覚を介して認識され、各言葉として表されている。その属性の認識の現れである言葉が「X」を指示することで、いま現に知覚されている「X」が、その知覚の通りに認識の現実態と言う事なのです。対象たる「X」に対して<リンゴ>として扱ったり、<果物>として扱ったり、<食べ物>として扱ったりするという事なのです。概念の表現としての言葉が指示する事は、この「X」自体の扱い方と言う事に成るのです。扱い方とは、事物と言う存在をその法則性により私達の身体活動を媒介する事です。身体活動の道具にするのです。事物の存在がもつ法則性を身体活動の媒介とする事を頭脳への反映と捕らえたモノが認識であり、その特定の形態である概念と言う事なのです。つまり認識とか概念と規定するのは、その様な身体活動を対象にしてその構造を明らかにしようとして分離された特徴と言う事なのです。その特徴を担うのは、頭脳の細胞の働きとしてあるが、しかし頭脳の細胞に出来ているモノは、認識とか概念と言うのではなく、身体活動との関係を形成する実体なのです。身体活動との関係を形成する実体としての脳細胞の出来事が、認識であり、概念なのです。脳研究者が、機械を使って研究しているのは、先ほどの実体としての脳であり、その実体としての研究が内容が、認識というレベルでの正体がどうであるかは、関係として成立している身体活動とのかねあいであり、身体活動をする個々の人々の知覚内容にゆだねられているのです。つまり、被験者に一切の沈黙を通されてしまえば、分析から得られた脳のデータが何であるのかは解明出来ないのです。
言葉に客観的に存在する<意味>は、話者の認識に依って成立するが、しかしその認識は言葉の意味を形成する実体としてあるが、けっして意味自体では無いのです。作者の認識が無ければ言葉は成立しないし、死亡して考える事が成立しなければ、言葉も出来上がらない。しかし話者の生きた思考が、言葉として表現されれば、生きた思考は対象化されます。人々は生まれてくると社会の中で話されている言葉の<文字と対象化された思考との関係>を覚えて行く事で、前の世代の言葉を引き継ぎ、次の世代に受け渡していくのです。言葉に成立している客観的関係こそが、その継続の要と成っているのです。

言語道具説:「語彙と言う部品があり、その部品を文法と言う法則で組み立てて音声として表されているモノを、言葉という」この語彙を建築材料の様に扱う考え方は、話して・書き手の認識の対象が理論的に切り捨てられている。言語活動は、個人が対象から「自由に」認識して成立した思想を「潜在的」な社会的な約束を使って音声や文字に表現する事ですから、この個人の作り出した思想と「げんご」との関係を無視している訳です。その個人の作り出した思想と言語との関係を具体的に明らかにしない限り、思想により表現が成立するとお題目を言うだけでは、次に進まないのです。具体的な対象から与えられた具体的な認識と、いわゆる「言語材料」とがどの様に結びつきどの様にして表現が行われのか、詳しく説明してくれないのです。
いま私達の前に家があり、その家とおなじモノを建てようと計画するのです。生きた材料である木材を家を構成する各部品の形の様に見よう見まねで加工するのです。その家の全体から規定されて各部品の形態が決まって来るのであり、だからこそ有限の部品の数から一軒の家が出来上がるのです。つまり部品が部品であるのは、ある全体が決まっていて、その全体に規定されて部品相互の関係が出来ているからです。全体と部品と言う関係として両者が決まるが、しかしそもそも家が何の為にあるかと言う事がまずあり、そのあり方から家が、内部を持った構造として決まり、部品の構成が決定されるのです。まず全体があるのではない。全体とは、内部の部分との関係を言うのであってそれ以前に一つのまとまったモノとしての家、つまり私達人間が寝起きする場所としての家と言う事がまず決まり、それを内部に構造を決めようとする時、部分と全体とが規定されるのです。それを<内部に構造を決めようとする>と言う事を無視して、住居するモノしての家をそのまま全体とするから、考えはじめとしては正しい一歩ほ歩き始めたのに、はじめに全体ありきと言う事になってしまい、理屈の無限地獄に落ち込んでしまうのです。
一軒の家は、私が寝起きする場所であり、その家と呼ばれる対象に対して、分析的思考を行う時、その対象物たるその家は、私が寝起きする建物であり、その寝起きによって知られているモノであると言う事が、分析的思惟の前提になっている。それが対象と言う存在なのです。生活の中で知覚されている内容が、分析的思惟にあって、初めて分析的思惟の対象となるのです。当然分析的思惟がなければ、ただ日常の経験知であるにすぎないのです。私の寝起きする建物は、知の対象である前に、まず寝起きの場所であり、寝起きと言う活動に伴う私達の五感にはじまる認知が形成されているのです。それは寝起きと言う活動が、引力による落下運動をする物体ではなく、意思活動であると言う事なのです。身体の活動を媒介するはらきとして知が成立しているのです。

ソシュールの「思想はそれだけとってみると星雲の様なモノで、そのなかでは必然的に区切られているものは一つもない」と言う主張なら、社会的な約束の成立する客観的な根拠は存在しない事に成ります。しかし概念それ自体はいずれも超感性的であっても、それは客観的な区別の存在しない事をなんら意味しません。我々は超感性的な概念を記憶する時に、社会的な約束の音声の表象や文字の表象を結びつけて、これをレッテルに使って区別します。思考する時、このレッテルで概念を思い浮かべて運用していきます。「子供に何か玩具を買ってやろうか」と思考する時、「玩具」はまだ単なる種類として考えられるだけで、レッテルに付いた概念に止まっています。そこに想像の対象が想定されてはいるのですが、超感性的な種類としてなので、頭の中に音声や文字を思い浮かべるにすぎない様に感じられ、思考言語が存在すると言う解釈になります。これを更に進めて「タコにしようか、どんなタコがいいかな」と考えて言い行くと、想像の対象も具体化されて、概念だけだったのが、タコの表象が作られように発展していきます。
<思想はそれだけをとって見ると、区切られてはいない>と言う言葉は、次にその思想の区切られたものとして言葉があるのだと言う結論に流れていくのです。思想がそれ自体区切られてはいない事を、混沌と表しても、一様と言っても、区切られる為の目印が感性的なあり方をしていると言う事に対して、思想は感性的でないと言う事なのです。問題は、混沌である思想が言葉として表されると言う事で、言葉における感性的区別が成立していると言う事なのです。無限の光の色彩が混合されると、透明と言う区別のない光の世界が現れる。透明な区別なき光の世界が、プリズムや空気中の水玉に反射する事で、そこに色彩があらわれるのと同じなのです。<一個一個の色としては、無数にあるものが、混合と言う事で透明な光としてある>と言う言葉の説明は、多様な諸物の中で明るいと言う透明な光の世界は、特定の物質としてのプリズムや雨粒により、虹と言う光の分解による色彩を、私達の視覚は知覚するのです。透明な光の世界の知覚とプリズム等で色彩の多様な知覚とが、光の原理の認識が出来る様になった時、つながったのです。
<透明な光の世界は色彩の多様としての区別がない>と言う言葉は、透明な光が諸物に反射する時に諸物の特性によって反射する光の波長が違ってきて、色として知覚されるのです。透明な光が、多様な波長の光の混合であると断定できるのは、その透明な光が諸物に反射して多彩な色彩として現れる事に対して、反射の方向性と波長との一定の関係を捉える事が出来る様になったからです。光の反射原理が得られる事で、光が多様な波長の混合であると結論できるのです。透明な光についての視知覚、諸物に色があると言う視知覚、これらの二つの視知覚を前提に光の反射の原理と言う思考が成立した時、はじめて透明な光が、色として知覚される個別的な波長の混合であると結論できたのです。透明な光は、諸物に反射する事で、多様な色彩のひかりである事を表すのです。「透明な光は、その内部に多様な色の光を持っている」と言う言葉は、個別化されている多様な色の光と言う視点から、その多様を混合したものが、透明なひかりであると言う結論を導きだしているのです。多様な色彩となる個々の光−−透明な光が、諸物に反射する事で現象するのです−−の混合である、透明な光と言う規定は、色彩の現象を視知覚している事で、その現象の本質を認識している事を言葉に表したものなのです。透明な光は、闇の中から太陽が出る事で世界が明るくなり、私と諸物と空間を明確にするのです。この時諸物が多様な色彩であり、雪の世界では青空と白い大地と言う色彩になり透明な空間となっているのです。<太陽から生まれる透明な光にはその中に多様に色彩の光が含くまれている>と言う説明は、透明な光が諸物に反射する事で、その反射として色彩が成立している事なのです。諸物とは別に光りを考えても、その光は諸物に反射しているのであり、その反射現象の所に色彩があるのです。色彩の多様性は、一つの光の中にある多様な波長の光が、諸物に反射する事で、生まれると言う説明なのです。しかしこの説明は、一つの光が多様な諸物の特性に対して色彩として現れているのでもいいのです。色彩が反射の所にある現象なら、その様に多様な色彩として現象する、透明な光と個々の色彩とはどんな関係になっているのかと言う事に成ります。つまり透明な光が諸物に反射する時、諸物の特性により、反射する光が個々の色彩となるのです。それは例えば、リンゴが赤く見えると言う事なのです。諸物に反射する光はプリズムに対して内部に入射すると、その透明性により光を構成する波長の違いで、屈折する度合いが違う為に、外部に出て行く時、虹と呼ばれる七色の光の幅が出来るのです。

星雲の様な、区別されていない思想が、文字や音声と関連する事で区別された存在となる。この星雲が個々の銀河になると言う比喩による生成の理屈は、どの様にして成るのかと言う構造が示されていないのです。星雲自体に変化する能力があり。その能力で個々の銀河に成ると言う説明も、結局変化前と変化後があり、その両者を結びつける事に躍起になっているのです。とすると星雲の様な一様である概念が区別される個々の語彙になるのは、まず個々の語彙つまり、現実の言葉にある区別されている概念性の出生を問おうと仕手いる所に生じた疑問と言う事になるのです。その区別は音韻としての音声と線の形としての文字の区別であると言う事になる。しかしこれでは、文字や音声の相互の区別される一つ一つの文字や音声に対応する概念がどの様に、星雲の様な一様なモノから個別化されるのかは分からないのです。ただ<概念に客観的な区別がある>というのは現に私達が言葉を使用してコミュニケーションが成立しているのであり、そこには概念らしいものが区別されていると言う経験が成立しているのです。
では、思想自体は星雲の様に一様でしかないとして、その一様な星雲を個別の区別された銀河にするものは何かと言う事なのです。ヘーゲルに従えば、それは星雲自身が自らの力で個別化していくと言う事になる。しかしヘーゲルのように自ら個別化して、相互に他者と区別されて行くなら、その個別に文字や音声で区別する事など必要でないのです。概念と言う完成された時点から考えてしまうから、一様で区別無き存在が、どの様に区別されるかと言う思考に成るのです。もともと五感を入り口として成立している対象に対する認識が、その知覚で得ている対象と言う存在を種類という側面の認識として、概念として成立するのである。その種類と言う側面の認識には、対象の存在が知覚内容として成立しているのです。だから種類と言う側面の認識の中には、対象の存在たる感性的な内容が含まれているから、その感性的特徴が概念を相互として区別するのだと結論したとすれば、結局ヘーゲルの様に概念自らの中に、個別化する要因があると言う事になるのです。この様な考え方は、人々が対象を知覚するのは、みなそれぞれの頭で行うのであり、思考を概念化するのは、全く彼自身の問題であると言う事になってしまうのです。確かに自らの頭で考えるのであるが、しかしそれは相互に働きかけあって考えると言う事が捕らえられていないのです。その相互の働きかけの一つが言葉に他ならないのです。

第三章 言語の特徴−−その二


言語で単語と言われるのは、その話しての一概念が表現されている部分です。
・・・・・・私・の・本
・・・・・・梅・に・うぐいす
これらは三つの単語から構成されています。我々は、これらを切り放して扱い、それぞれの社会的な約束を辞書で説明しています。
「白墨」が日本に入って来た時、これは字を書くためのものであると言う機能の面で、古くからある「墨」の一種と考え、墨との区別をその色彩の点に求めて「白」と言う概念を添えて、この様な複合語をこしらえたと思われます。けれども墨と白墨との決定的な差別は、色彩の点にあるのではありません。一方は水に溶いて筆で書き、他方は個体のままで黒板に書くという点にあるのです。その為に話しての意識から「白」と言う概念が薄れて言って、「白墨」全体が黒板に文字を書く用具そのものについての一概念の表現に変わってしまいます。その結果、色彩を意識する時には、あらためて「白い白墨」「赤い白墨」と表現する事に成り、見かけは奇妙でもこれが合理的なものとして今では一般に使われています。
文字を書くと言う概念がある。書き文字があれば、その文字を現実化する筆記活動が成立する。日本では墨と言う溶液と筆と言う筆記用具Aを使用して紙に文字を書く事が中心でした。書き言葉があれば、文字を書くと言う概念の、現実態として日本では墨と言う道具が成立しているのです。文字を書くと言う概念の現実態としての墨と言う筆記道具Aに対して、西洋から別の筆記用具Bが入って着た時、そのBは文字を書くと言う概念の現実態としての<墨>に対して色彩での区別を立てて<白墨>と命名したのです。西洋から入って来た<もの>が、黒板と呼ばれるモノに文字を書く筆記用具としてある事を体験するように成ると、現に学校で使用される様に成ると、<文字を書く>と言う概念の現実態としての<筆と墨と白紙>と言う日本の出来事に対応して、筆記用具としての墨が色彩としての<白>と言う観点で規定され<白墨>と成ったのです。書き言葉があれば、<文字を書く>と言う概念は何処の国にも成立しているが、ただその現実態は国ごとの文化によって違っているのであり、日本や中国では<墨や筆と紙>として現実化しているのです。その日本に今まで経験した事のない<筆記用具>が−−ここで「筆記用具」と説明出来るのは、文字を書くと言う概念が私達の中にあり、その概念が「筆と墨と白紙」で現実化している生活があるからで、西洋のそれがまさにその概念との同一性を現実化したものと言う事を理解されたからです−−入って来た時、その筆記用具を日本の筆記用具と関連させて名称をつけと言う事なのです。日本のそれも、西洋のそれも<筆記用具>と言う言葉で表されるレベルは、<文字を書く>と言う概念を構成する<文字の形、文字を書く道具、書かれる道具>のレベルであり、それを日本語で<墨と筆と紙>と言葉で表すとき、具体的な材質を取り上げているのである。つまり<筆記用具>と言う言葉は、文字を書くと言う活動を構成している道具を言うのであるが、さらにその道具が現実の物質により出来上がっている事で、初めて文字が書かれたと言う完結として成立した事になるのです。<砂に指で>文字を書く。<キーボードでディスフプレーに>文字を書く。<絵の具で>文字を書く。<鉛筆で>文字を書く。と言う様に<文字を書く>という概念が、現実化しているのです。西洋のそれは、西洋においては特定の名称(チョーク)があるはずだが、モノ自体が日本に入ってきた時、日本での<文字を書くという概念>の現実態としての<墨と筆>が、<筆記用具>の具体名として扱われている為に、その具体名に対して、材質の<白という色>を対抗させて<白い墨>という事で<白墨>と命名したのです。それが<白墨>と言う名前で、学校の授業において日常使われてくると、学校では<文字を書く>と言う概念の現実態としの筆記用具は、<白墨>が中心に成ると、その名称が持つ<白>と言う材質の特定の性質は、材質の色に関係なく、その現場での筆記用具の総称となると、それは、別の赤や緑の色のモノが出てくると、<赤い白墨>と言う表現として成立してきたのです。<赤い>は、その材質の色であるが、<白墨>は、色の言葉が使われていても、学校の授業に黒板に文字を書く筆記用具の名称と成ってしまったのです。
<白墨>の<墨>は、材質としての特定の材料でありながら、筆記用具という概念の現実態としてあるために、西洋から今までにない筆記用具が入ってくると−−単に<筆記用具>と呼んでいれば良いと言う訳には行かないのは、多様な筆記用具があれば、どの種類の筆記用具かを特定しないと他者に向かって発言出来ないからです−−筆記用具としての墨に対して、筆記用具としての<白い墨>と言う名称が出来あがったのです。西洋の<それ>の材質は決して墨の材質と似てはいないがしかし墨と呼ばれる液体が、筆記用具と言う概念の現実態としてある事により、西洋の<それ>も筆記用具と言う概念の現実態としてあるなら、名称として<白い墨>という事で<白墨>と名指されたのです。ここで注意いなければならないのは、<筆記用具>という言葉も、墨や白墨と同じ言葉であることです。西洋の<それ>に対して<白墨>と<筆記用具>と言う二つの名称があり、同じく日本の<それ>に対して<墨>と<筆記用具>と言う二つの名称があると言う事なのです。さらに言えば、<日本のそれ><筆記用具><墨>と言う言葉も、名称であると言うことなのです。<同一の対象>も名称であるのです。
<日本のそれ>と言う言葉も、<筆記用具>と言う言葉も<墨>と言う言葉も、三つの別々の違った言葉であるが、しかしその三っの言葉は、相互に関連されているのです。<言葉以前のモノ>と言う言葉でまず言葉を出す時、その言葉で表そうする事で理解されるモノがあり、その理解されている彼や私達の頭の中の出来事から、次の言葉が継続していくのです。<言葉以前のモノ>と言う言葉は、私達が言葉のコミュニケーションを行うとき、その私達を囲む世界の出来事の存在を表現しているのです。その世界の出来事の中の一つに対して、<日本のそれ>と言う言葉で表す時、この言葉が表す認識は、他方には<西洋のそれ>と言う言葉に表される認識と区別されているのです。私達の頭の中では、認識が分化され始めている。五感を入り口とする知覚が対象にしているモノが<それ>と言う言葉で指示される時、知覚の主体に対する特定の距離にあるモノが対象になっている事を<それ>と言う言葉で表すのです。その特定の距離の違いにより、<それ><あれ><これ><どれ>と言う表現になるのです。さて<日本のそれ>と言う言葉で指示されている対象は、それが存在する日本と言う国の中では、文字を書くという活動の道具としてあり、そのあり方を表した言葉が<筆記用具>と言う事になります。知覚の対象になっている<それ>が、<それ>と言う言葉で表されるのは、私からの特定の距離にある対象であると言う認識が成立しているからなのだが、ただこの<それ>は、私からの距離であって、その距離にあるモノがどんなモノなのかは、この言葉を表現している私の知覚の内容として成立しているだけなのです。<それ>と指示されるモノが<リンゴ>なのか<筆>なのかと言う事は、あくまでもわたしの知覚として成立しているだけであり、その知覚内容を言葉に表す方向に向かうだけなのです。まず<それ>と言葉に表されるだけなのは、まだ名称がないからと言う事になります。私達は、その名称をまだ知らないか、あるいは社会的に命名されていないかに関わらず、<それ><これ><あれ>と言う言葉の使い方は自由になっている頭の言語発達があると言う事なのです。まだ命名の言葉を知らない私達は、しかし<それ>に対して「何であるか」と言うその概念を、実践しているのであり、さしあたって<それ>と呼ばれているモノが、文字を書く時の道具となっていると言う事で、手に持って使われているのです。特別な観念がないとその道具から、文字となるインクが流れてこないと言う事でなく、象もその鼻で筆を持ち墨をつけて白紙に跡を付けることができると言う事なのです。つまり道具としては、私達の頭の中にある文字の表象を墨の跡とする事であり、<筆、墨、紙>と言う道具は、その過程を作るモノと言う事なのです。頭のなかの文字の表象があり、その表象を頼りに、手に筆を持ち筆に墨を浸し白紙に筆を下ろし、文字の形を作るのです。その筆の運動の完了として文字が表れると言う事になります。<筆、墨、紙>は、その様な過程を作る過程の仲立ちとしてあり、私達は<筆、墨、紙>を単なるモノとしてではなく、その過程を仲立ちするモノと言う規定で捕らえるのです。<筆、墨、紙>は、私達の知覚の対象としては、動物の毛と竹で出来たモノで、墨という鉱物であり、植物繊維で出来た紙と言う事でしかないが、文字を書く過程の仲立ちとしてのモノである時、初めて<筆、墨、紙>は<筆記用具>と呼ばれる事になるのです。私達の文字を書く活動の仲立ちである事を、まさに文字を書く事の最中に自覚していて、だからこそ文字を書き得るのである。<筆、墨、紙>の知覚とそれを仲立ちにした自覚的活動の頭脳への反映を概念と言うのです。私達の悟性的思考、単なる反省は、<筆、墨、紙>と言うモノに、種類という側面があると言う結論をして、「<種類>と言う側面」と言う言葉が、何を表しているのかを明らかにしていないのです。単にモノとしての<筆、墨、紙>に属性として種類という側面があると言う説明が何を言おうとしているのかと言う事になります。墨の液体と言う側面は筆の毛の部分との浸透状態を創り出し毛に浸透した液体が、毛の大きさだけの部分で紙の繊維に染み込む事で文字が出来ると言うのであり、紙ではなく、鏡の様なモノであれば、浸透する事も無いので、文字が書かれる事はないのです。つまり、<筆、墨、紙>の材質は、相互に関連する事で初めて文字を書く道具となるのであり、それは個々のモノの材質がどうのと言う事ではなく、その材質の相互の関連こそが、はじめて文字を書く道具となりうると言う事なのです。

言語学者の語の分類の仕方:「語の形、語の独立の有無、他の語との併用」と言った形式のあり方から語を分類する傾向がある。しかし語はその内容に依って分類され、その分類がなされるとき同一の形式の場合もあると言う事です。同一の形式なのに、別々の内容の語があるのです。
(1)彼は急に「笑い」だした。・・・・動詞として表されている
(2)部屋中に「笑い」の渦が広がっている。・・・名詞として表されている。
三浦言語学での分類
一切の語を機能や語形で分類するのでなく、<対象−認識−表現>という過程において調べてみると次の二つの種類に分けられる事とがあります。
(1):客体的表現・・話し手が対象を概念として捕らえた表現です。いわゆる主観的感情や意志
     なども、<主観的感情><悲しみ><意志><要求><よろこび>などと表現されるこ
     とで客体的表現となるのです。「いわゆる主観的感情や意志なども」と言う言葉こそが
     客体的表現と言う事なのです。
(2):主体的表現・・話し手の持っている主観的な感情や意志そのモノを、客体として扱うこと      なく直接に表現した語
(2)は、話し手が何事かを対象にするとき、話し手自身に直接形成されるモノを、(1)のように対象として客体化した表現ではない表現と言う事になります。ここでの「直接と言う表現」と言う言葉も決局は客体的表現なのであるから、「直接的なモノ」と言う様に客体的に表現している時に、表現される事で理解されれば、いいのでしょう。しかし上の二つの表現の区別は、一つの文が主体的表現と客体的表現で構成されていると言う事なのだから、現に私達の目の前にある言葉は、両者がそれぞれとして表されているのである。
この<それぞれの表現>を、次のように考えるとする。
私達に直接なモノがあり、それを対象化して客体として表現する事と、直接に表現する事で、両者が一緒になったモノ−−日本語は、両者が分離して別々な語として独立され、それを語彙の順序として表しているのに対して、英語の場合両者は一つの語彙の語形の変化として表されていることなのです。日本語では分離して別々になった語彙が、膠着して統一されているのであり、この統一を媒介的統一と言うのであり、媒介されているからこそ、再度分離する事が出来るが、英語の場合二は、一つの語彙の語形変化であるから、直接的統一されている為に分離する事が出来ないのです。「私は、私が、私に、私を、私のモノ、私へ」と言う日本語は、<私>と言う語と<は、が、に、を、へ、のもの>と言う語の組み合わせという理解は出来るが、英語の場合<I、My、me、mine>と言う語彙であり、日本語のように分離は出来ないのです。この分離不可能性は、コインの裏表の様に確かに別々の裏であり表であるが、半分に切り放せない不分離と違い、二つが全く一つになっていると言う事なのです−−が、私達の言葉であると言う事です。
しかしここで一つの疑問が出て来ます。そもそも言葉の研究の時、絵画表現との対比で言語に表現される私達の認識が概念と呼ばれると規定が成立しているはずなのです。絵画が感性的表現であるなら言語は超感性的表現、つまり概念的表現であると言うはずなのです。五感を知覚の入力として成立する感性的認識が、超感性的認識に変化する時、その変化の跡の概念の段階になると、知覚の対象物が持つ感性的区別が捨象されてしまう為に、あるいは生まれた所にある感性的区別を無くした所で成立しているモノが、概念と言う超感性的認識である為に、再度その区別の無い所に、感性と言う区別を付けようとするのです。この時、知覚の対象物が持つ感性的特徴が、捨象されて成立する超感性的認識は、捨象と言う働きに依って成立しているのだが、ただこの捨象に特別な意味を込めて、捨象の後もその特徴が概念の<内部に>保持され続けているのだと考えてしまう事なのです。概念にはその出生の元の特徴である感性的特徴が保持され続けられているのだと考えてしまうのです。確かに自分が経験したへモノに対して、その特徴である<丸い>とか<赤い>と言う特徴がある事を記憶する事はあるのでしょう。しかしその特徴は単に感性的特徴を一つの種類として表象しているにすぎぬのです。
その感性としての区別の為に形成されたものが<文字>や<音声><身ぶり><てぶり>と言う事なのです。<あいうえお>と言う文字の区別によって、概念を区別として表しているのです。そこでこの概念を再度見つめると、感性的認識が超感性的認識としての概念に変わるのは、感性的認識が対象化される事によると言う事になります。例えば今目の前のモノが、視知覚されていて、その視知覚の内容を一つの種類にまとめることで、例えば<色>であったり、<赤>であったりと言う言葉になるとき、白黒の明暗の視知覚しかない所から、色視知覚の世界が成立している事で、<赤>と言う言葉が、その言葉を使用する者が、指さし等で<これ>と指示する対象と名指すと言う関係を形成している事を表しているが、このとき指さしで指示する<これ>と言う対象は、これと言う個別なものであり、別に<あれ>と指示されるものもとしてありながら、しかし単に個別だけでなく、種類と言うグループとしてある事を、<これと言う指示対象−赤と言う言葉>の関係で示しているのです。
この関係における指示物は、私達にとっては私達の身体をふくむ身体活動による媒介項となることで、これやあれと言う個別ばかりでなく、種類と言う側面をもつモノとなるのです。いま私の目の前のモノは<りんご>と呼ばれているモノとして二つあるが、それを食べる事で、その二つのモノが持つ属性、性質、材質が、私達の身体の養分として働くのであり、その材質から規定された個別は、種類としての個別であり、その材質があれば皆同一のものと言う事なのです。つまり、一個一個としてあるモノが、その属性によって同一であるとき、個々のモノは、同一の種類としての個別となるのです。どれも他と置き換え出来ると言う事なのです。現に目の前のモノを視知覚している時、そのモノが同時に置き換え出来るモノとして現れることで、個別としての感性的認識は、種類としての超感性的認識になるのです。個々としては全く同一である事で、相互に置き換えできるのであり、個々としての対象の知覚で感性的認識が成立するが、同時にその対象が相互に置き換え出来るものである事で、その感性的認識に対して超感性的認識が成立するのです。単なる認識論では個々のものを知覚する感性的認識と別にその個々のモノが持つ属性を認識する超感性的認識とに分ける考え方をとるので、感性的認識が対象の形や色等として成立していると理解できるが、その対象の<種類という側面>が何を表しているのか理解されていないのです。だからこそ両認識の区別が出来ても、その関連を示し得ないのです。
言葉とは、対象の種類と言う側面の認識である、感性的認識でない超感性的認識である概念を、文字や音声として表しているのです。<表す>とは、頭の中には概念が成立し、頭のに外には声帯の振動である音声や、手の動きによるインクの痕跡が出来て来るとき、その頭の中の概念の成立と外部の声帯の振動が関連することを示しているのです。
直接てきなモノもそれが対象化され客体として、つまり概念として扱われれば、客体的表現になり対象化されず客体として扱われない、つまり非概念として扱われると主体的表現になると言う考え方に成ってしまうのです。この非概念に対して、対象の種類と言う側面の認識である概念を言葉として表していると言う規定がどう対置されるのかと言う事なのです。

「悲しみ(客体的表現)」の<ああ(主体的表現)>、「喜び(客体的)」の<まあ(主体的)>、「要求」の<おい>などの「感動詞」、「・・・だ」「・・・ね」「・・らしい」などの助詞が主体的表現なのです。ここに表現されているのは、古い認識論で言われている意味での概念ではないが、言語表現によって感情や意志が普遍的・抽象的なものとして捕らえられると言う意味で、新しい認識論ではこれを特殊な概念と認めるのが適当でしょう。
古い認識論で言われている概念が、対象化され客体として扱われている認識(A)と言う事になら、助詞や感動詞などが表す認識(B)は概念と呼ばれないが、しかし言語である限り概念(C)と言う認識を表しているのだから、AもBもCと呼ばれてもいいと言う事なのです。概念が知覚の対象の種類と言う側面の認識であるなら、知覚の主体たる私達が事物や観念や表象を対象にして、概念としての認識を形成している時、同時に私達の内部に直接なものが生まれているのであり、その直接なモノを、再度対象化して<感動、悲哀、判断等>と言う言葉で表すのでしょう。確かに喜びとか悲しみと言う言葉で表される様に概念化される対象たる感情の高ぶりが生まれているのだろうが、しかしそれだけが<直接なもの>では無いのであり、判断や意思や推量等の思考と言うれているモノも、その様な言葉として表現される対象が直接に成立しているのです。つまり<山><川><判断>と言う言葉に表される対象化された事物や観念が認識として成立している時、その対象化されたモノを内容とする形式が頭脳の中に生まれているのであり、その形式を言葉に表すと観念とか判断とか思考と言う言葉で表されるのです。つまり、思考と言う言葉として表される対象が頭脳の脳細胞の働きとして成立している時、事物の動きや表象を浮かべているのであるが、しかし<その浮かんでいるモノ>と<浮かんでいる事自体>とを区別して考えると言う事なのです。それを言葉にすれば、<思考>と<その内容>と言う事になるが、問題は、<浮かんでいると言う事自体>が、問われているのです。そしてその浮かび方の違いを、言葉としては形式と言っているのです。その形式の違いを<思考、判断意志、感情等>として言葉で表しているのです。ただこの<浮かぶ事自体>とは、それだけが虚空に浮かぶと言う事ではないのであり、あくまでもこの身体がある人間の頭の中と言う事であり、その頭は身体と伴に活動し運動しているのです。つまり身体活動を導くモノとしてあるのです。だから人間にとってそれらが頭の中に浮かぶとは、この身体活動を導くモノと言う事を言おうとしているのです。対象化されているモノは概念の内容として、そして現に対象化している事の構造が、頭の中で成立している事を概念と言うのです。日本語はその両者を主体的表現と客体的表現と言う形態で表現するのです。対象から得られる認識としての概念が、頭脳の中で成立している時、どんな概念であるかを表すのが、主体的表現と言う事なのです。概念としての特性とは、その概念が個別として、特殊として、普遍としてあると言う事であり、主体的表現は、その特性を表すのです。概念にある内容ではなく、その形式性を表すのです。

主体的表現と客体的表現の区別は、日本では古く鎌倉時代から問題にされていて、江戸時代になると本居宣長門下の国学者鈴木朗がその正確の違いを明確に指摘しています。
     三種の詞           テニオハ
    ○指す所あり         ○指す所なし
    ○詞なり           ○声なり
    ○物事をさし現して詞となり  ○その詞につける心の声なり
    ○詞は玉の如く        ○緒の如し
    ○詞は器物の如し       ○それは使い動かす手の如し
    ○詞はテニオハならでは動かず ○詞ならでは付く所ない
西洋でも、「ポール・ロワイヤル文法」が、語を「人間が自らの思考を表明するための記号」と見、これを根本的に二種類に区別して「一方は思考の対象を表し、他方は我々の思考の形態と様式をあらわす」と主張しています。1690年ロックが「人間悟性論」で、認識のあり方に基づいて語を二大別しています。
絵画や映画が客体的表現と主体的表現との統一であり、この二つの表現は切り放す事の出来ない一つの画面として存在することが特徴です。
「絵画や映画が一つの画面として存在する」と言う時の<一つ>は、一枚のキャンバスであり、一本のフィルムの数量を指しているのであり、日本語と言う言語の場合は<私><は>と言う様に単語二個と言う数量を示している。その話し言葉、書き言葉としての言語を研究の対象にして得た<言語は、特定の認識形態を表現する>と言う規定から、表現として<主体的><客体的>と言う区別を見いだす事は、言語にその様な二つの特徴的な側面があると言う事なのです。日本語では、その二つの特徴は、<私><は>と言う様に、二つの単語に分離されいて、それを<私は・・・>と一つの文として成立させるのです。ただしこの<分離してあるモノ>を<統一する>と言う考え方は、別々の原理で成立したモノが、一緒になると言う考え方であり、言語の場合には当てはまらないのです。私達は、自分たちの中にある特定の思いを言葉に表現するのであり、その表現された言葉を探求するとき、その表現する思いの探求もするのであって、その探求の結果<思い>には、対象の内容と対象への話し手や書き手の判断とで構成されていると言う事が分かって来たのです。そしてその構造をしている想いが、言葉に表現されるとき、前者が<客体的表現>としてあらわれ後者が<主体的表現>として現れているのです。
言語が対象の感性的な面からの制約をのがれたと言う事は、一方では表現の為の社会的な約束を必要とする結果を、又他方では客体的表現と主体的表現とを分離させる結果を生みだしたのです。
「主体的、客体的」表現の分離について、日本語では例えば<私><は、が>と言う事であり、英語では<I>と言う一文字であれば、日本語の構造を分離と言い、英語の場合には一体と言う事になります。英語を探求しても、そこからは、<主体的、客体的>と言う二つの言葉に表されるモノは得られません。それに対して日本語の場合、<私><は>の様に別々の語彙と成っているために、例えば対象がある<私>と対象のない<は>と言うような理解をしながらそれぞれれ特有の語としてあることを理解しているのです。英語の場合<I>は、<私>に近いはずだが、しかしあくまでも述語となる活動の主体と言う規定を得ているのであり、それは<私は・>とか<私が・>と言う主体的、客体的表現なのです。日本語の<私>は、その様な活動と切り放して示されているのであり、話し手や書き手が、彼の認識の中で動作の主体となるべきモノに対して話し手自身との関係を表しているのです。動作の主体を第三者に置き換えて表象するとき、話者あるいは書き手はその動作の主体として<彼が>とか<彼女が>と表現するのです。日本語<私>は、それに付属する<は、が、に、の、のもの>によって<I、me、my、mine>に成りうるものとしてあるが、しかし「もともと無色のモノが助詞が付くことで、色付きになる」と考える時の<無色の存在>では無く、私達の、言葉における客体的表現として表される概念の構造を示しているのです。構造として多様な色としてあるが、その色の構造を分析したとき、分析の一つとして区別されているモノが無色と言う事であり、多様な色とは別に無色という色があるのでは無いのです。<話す>と言う動作の主体たる話し手から、話される内容にある動作の主体との関係が<私><貴方><彼>として表されているのです。

時枝誠記氏の「風呂敷型統一形式」と「零記号」
全ての認識は、認識の対象と認識する人間(主体)の存在を必要とします。お化けや天使の認識は現実に認識の対象が存在しなと言うだけで、これを認識する人間は自分の頭の中に空想の対象を想定しているのですから、この意味ではやはり対象が存在している事になります。
認識は人間の頭の中の脳細胞の働きとして形成されている。頭の外にある事物に対して五感を入り口とした頭の中に出来るモノが認識であり、その認識が頭の外の事物を<像と言う内容>として<表象とか概念とか意志と言う形式>を持つと言う事なのです。天使とかお化けもやはり、頭の外の事物の表象を使っているが、頭の中だけで組み合わせて使い、その組み合わせに依って出来た表象が、頭の外の事物についての表象であると判断するから、天使が存在すると言う言葉に成るのです。天使像は、赤ん坊と鳩の表象が組み合わされて作られたのであり、赤ん坊と鳩は五感知覚の対象となっているが、天使と言う言葉は、その組み合わされた表象が表現されているのです。私の目の前にいるモノを五感を入り口として認識しある表象を形成し、その表象を赤ん坊と言う言葉や画像として表すのです。画像としての赤ん坊は、私達の頭の中の表象を絵の具の塗布による形として表したモノなのです。この時頭脳の中の表象は、五感を入り口として五感の外部にある事物から得られているのであり、事物と画像は、頭脳のなかの表象を介して関係すると言う事です。赤ん坊の画像は、赤ん坊と言う存在と関係を持つのは、両者を媒介する形や大きさや色彩と言う感性的認識が成立する事によってなのです。つまり多様な属性のある事物と一枚のキャンバスの上の画像が直接に関係を結ぶ様に見えるのは、両者を比較して事物を画いているとすぐ考えるのは、両者を見比べる私達の働きの中に<形や大きさ色彩を認識する感性的認識>が成立しているからなのです。事物と画像との比較と言うありふれた思考力の中に、事物から得られた形や色彩と言う認識たる感性的認識が絵の具の塗布による形や色彩と言う画像となっていると言う理解が出来ているのです。赤ん坊の体温がどうのとか体重がどうのとかを含む多様なあり方に対して、その形や大きさや色彩と言う属性が知覚されのであり、その知覚された内容が、絵の具の塗布による形や大きさや色彩として作られることで、そこに赤ん坊の画像が成立するのです。<赤ん坊>の画像と言っても、生きた赤ん坊がキャンバスに張り付けられている訳ではなく<赤ん坊>と言う言葉を言い出しても、それは<赤ん坊>という言葉が指示する対象物の感性的側面たる<形、大きさ、色彩>という側面で規定された対象物と言う事なのです。生きているモノの認識が出来ていて、それが<形、大きさ、色彩>と言う特定性の観点から差別化され、その区別を意識しながら絵の具を持つ手で塗布し、画像が成立しているのです。
画像としては、赤ん坊も鳩も天使も同じキャンバスの上の画像であり、特に区別されるモノなど無い。それが実在するモノを対象にした知覚が成立した上で画像が成立しているのだと言う事なら<赤ん坊の画像>とその対象を比較するのであり、その感性的な側面での対比に特定性があれば、例えば<本人>を画いていると言う事になる。しかしその赤ん坊本人も成長して現代20歳になっていると、今現代両者を比較する事は出来ないが、画像を中心にして20歳の彼の赤ん坊の頃の姿は画像の様なんだと言う判断をするのです。それに対して画像としての天使像は私達の頭の中の表象を画いたモノであり、<画く>と言うレベルで言えば「頭の中の表象」と「画かれた画像」の間の関係だけであり、「頭の中の表象」が五感を入り口とした対象を知覚する事で成立している事なら頭の中の表象に対する頭の外の対象物が存在している事になります。その関係がなくて頭の中に表象が成立すると考えるのではなく、外部のモノと頭の中の表象とが関係しているのであり、その関係の中で成立しいる表象同士を組み合わせて出来る表象が、頭の中だけの、つまり空想の産物と言う事なのです。五感を入り口とした頭脳の細胞に成立する表象は、その入り口から入ってくる事物の出来事と関係を形成しているのであるが、ただ頭脳の中では、そこで形成された表象相互の組み合わせでできた表象を創り出す、外部の事物があるかどうかで、空想と言う形成なのか現実の形成なのかと言うことになるのです。<表象−事物>と言う関係に対して、空想の表象は、その関係が無くとも成立していると言うことでは無いのです。その関係で出来ている表象が部品として使われて別の表象を創り出していると言う事なのです。
<?−神><?−お化け><事物−紙><それ−赤ん坊><?−石>にあって、対応関係のない表象もあると言う事は、<紙><神><お化け><石><赤ん坊>が「表象」と言う概念の現実形態と言う論理を理解し無ければならない。子供時代の彼の姿を表象する事が出来るが、しかし私が表象する今の時には、彼は20歳なのです。現に今私が頭の中に表象しているモノは、誕生時の彼の姿に<関係>していると言う事なのです。その表象に対応するのは19年前の彼の姿であり、19年と言う時の変化であっても、<関係>として成立しているのです。私の表象する今と、その今の彼の存在とが対応して、はじめて表象が成り立つが、成り立ってしまえば、私の脳細胞が死滅しない限り、再生は出来るのです。その出来た表象は<彼の存在>と関係として存在し続けるのです。私達の頭の中にある彼についての表象は彼の存在と直接的なあり方で私達の頭脳に成立するが、しかしこの時私達の頭の中に出来る表象は、彼の存在の、例えば<形、大きさ、色彩、臭い等>が知覚される事で成立しているのです。それは彼の存在そのままが私達の頭の中に入ってくる−−あたかも金庫の中に書類やお金が入るように−−と言う事ではないのです。彼の話し方が、音声表象として彼の姿が視覚表象として頭の中に成立する事なのです。視知覚は物体の形や色や大きさが、光りにより網膜に受光されると、脳細胞に物体の形や色や大きさと言う表象が成立するのです。彼の存在は自ら変化するのであり、私達の頭の中にできる表象は、その変化の一時期の状態を知覚するのです。<彼の自ら変化する存在>と<私達の頭の中の表象の存在>との間の関係とは、後者が前者の変化しない一面が実体として成立していると言う事なのです。つまり、<彼の自ら変化する存在>と言う流動的なあり方が、変化しない実体として五感を介して知覚される事で、後者となるのです。
モノがあり、それを白紙の上にコピーすると白紙の上には、<モノ>の形や大きさや色のインクの跡が出来るのです。モノと白紙の上のそのインクの跡とを考える場合、後者の<インクの跡>と言う、物としてのあり方が作る<特定の形や大きさ色>が、モノの<特定の形や大きさ色>の模写と言う関係だと言う事です。人間の手によって画かれたインクの跡は、単にインクと言う溶液の跡でしかないが、その特定の形や色や大きさとして、モノと関係づけられる時、私達は、それをモノの模写と言うのです。白紙の上の線のつくる特定の形は、モノ全体ではなく、モノの形や大きさや色彩によって関係づけられているのです。一方モノは例えば<リンゴ>と言う言葉で指示されるているのであり、他方は白紙の上のインクの跡であり、両者はその物質としての材質が別々の形態としてあるのです。その別々の材質のモノに対して「<リンゴ>と言う言葉で指示されるモノ」の<形と大きさと色>と言う側面と「白紙の上のインクの跡」の<形と大きさと色>とが比較される事で両者にその観点の関係があると判断されるのです。それが白紙の上に絵の具をもって塗布する事で絵の具の跡ができれば、その絵の具の創り出す形やおおきさ色の跡を、「<リンゴ>と言う言葉で指示されるモノ」の模写と規定するのです。後者は<絵の具の跡>として事物としてあるのだが

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山田和夫
kyamada@nns.ne.jp
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