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-------------2004年02月22日---------------

価値法則論体系の研究−−−現代経済分析の論理的基礎・村上和光(多賀出版)

資本論の価値法則論は、投下労働量による商品価値の決定と言う命題が展開の一つの基本内容として構成されているが、しかしその点に強く限定すると問題が有るように思う。
資本論の価値法則論の主内容が労働量による価値規定及びそれを前提にした商品の等労働量交換という点に有ることは否定されない。
「等労働量に基づく価値どうりの交換」と「生産価格での交換」の関連であり、この関連を説明する一つの仕方として次のモノがある。
(1)エンゲルス:価値法則を「生産価」格規定の出現しない前期資本性的法則として考える仕方
資本論の商品規定論
商品の二要因−−使用価値と価値
資本制的生産様式が支配的に行われる諸社会の富は一つの「膨大な商品集積」として現象し、個々の商品はこの様な富の原基形態として現象している。だから我々の資本制的生産様式の研究は、商品の分析をもってはじまる
膨大な商品集積としてある個々の商品の、膨大な集積を研究する前に、まず個々の商品の関係として研究するのです。個々の商品の研究で得られたモノから、次に沢山の集まりとしての商品の相互関係が、単に数学的和として成立するか、数学的積となるが、積分として成立するのかと言う事になるのです。
資本制的生産を直接的に規定しているのは、単に商品ではなく資本そのものであり、商品の性格が分析されないでは資本の本質も明らかとはならない。
資本を知るためには、まず貨幣を知らなければならず、その貨幣を知るためには、その前に商品を知らなければならないと言う事なのです。
商品の分析が使用価値で始められている訳
超歴史的な物それ自体に固有な「使用価値」説いた上で、次に「価値」を明らかにすると言う順序になっているのです。しかし「商品」を他の財貨一般と区別するポイントは「商品」の物質としてのその「実体的」内容にあるのでない。そうではなく、同一の財貨がある場面では「商品」となり他の場面では「商品」とはならないと言う事態が生ずる以上、その財貨に「商品」としての特性を付与するのは、その財貨がいかなる関係の中にあるかと言う、まさに「形態的」関連に他ならないと言ってよい。その点で「商品」と財貨一般とをその共通性にもとづいて把握する事につながる「使用価値」先行説は疑問である。
<財貨がいかなる関係のなかに>と言う事で、交換関係にある財貨を商品と言うのであっても、この関係にある各財貨が関係を形成している事は、各財貨にあるモノが、共通性を得る事によるのです。そこでその共通性であるモノの追究がはじまるのであり、だから始めから<価値>などと言うモノが想定されてはいないのです。交換において使用価値リンネル20エレと使用価値上着一着とが、それぞれの数量で交換されるのであり、両者は20エレと一着と言う交換価値として表れているのです。使用価値リンネルと使用価値上着とにある共通性なるモノとは何かと問う時、さしあたって知られている使用価値を表にだし、それらの使用価値ではないモノと言う一つのステップを得るのです。
商品価値の実体規定に展開する
(1)使用価値の異なる商品間の交換比率として現象する交換価値を引き出す。
(2)交換価値に入るこの様な商品の間には、その具体的な使用価値とは異なる共通の第三者が無    ければならない、とする。そして交換価値はこの共通の属性の現象形態にすぎないとする。 (3)この共通性の属性が探られて行くが、その場合この内的属性は相互の使用価値とは関わりが    無い事から使用価値は捨象されて、労働生産物と言う性格しか残されていない事がわかる。    この労働も、使用価値を生産する労働ではない、抽象てき人間労働の対象化と言う属性にま    で還元される事となる。
商品の価値を、その形態的規定と切り放してただちに「価値実体、価値の大きさ」として抽象して行くこの様な方法は、形態論的商品規定とは大きくその質を異にする実体論敵商品規定をなしている。
商品の二要因の説明方法
商品をまず「使用価値」の面から示す事になると、商品形態の特殊歴史的規定性が消極化されると言う問題がある。商品の使用価値が、社会の形態規定性に関わらない一つの外的対象である限り商品の歴史的規定性をそもそも示すモノではあり得ないのに対して、資本制的生産における特殊な生産関係としての人間の関係が、商品相互間の物の関係として表れたものに他ならない価値の関係こそ、商品の歴史的規定性を表現するものであり、したがって商品に資本制的生産の原基形態たる性格を与えるのは、価値の面だと言わなければならない。
テレビと言う商品が、映像処理と言う技術の成果から生まれてきたのは、この50年ぐらいの間であり、それは特定の歴史的な成果であるといっても、それが明治ではなく現代の商品であると言う事に特別な物が有るわけではない。ラジオが生まれてきて商品になるのもテレビが商品になるのも、<商品>と言うレベルで問題にされているのです。生まれた時代が違うのにどちらも<商品>であると言うレベルで問われるのです。使用価値としては、ラジオを作る技術よりテレビをつくる技術が時代的には後に成立していても、商品としては同じ構造になっている事が問われるのです。商品の二要因と言う事は、商品が使用価値と価値との構造として成立していると言う事であり、テレビが商品となることは、使用価値と価値の構造として成立していると言うことであり、問題は使用価値と価値と言う二つの語彙で言葉にすれば済むと言う事ではなく、両者が相互に相手とどの様に関わっているかを明らかにすることが必要になるのです。
使用価値が最初に取り上げられる事で起こる問題
商品における「使用価値」の特有なあり方が軽視されかねないと言う問題が起こる。
資本制的生産においては、商品はその所有者=売り手にとっては「使用価値」を持たず、ただ非所有者=買い手にとってのみ「使用価値」を持つと言う、たんなる「効用」=「有用性」一般に解消しきれないとところの、使用価値にまつわると特殊な関連が見過ごされかねないのです。価値をその積極的要因とする商品には、無限定に一般的な意味で使用価値がある、と言う事は出来ないのであって、買い手に購買動機を起こさせないかぎり、そもそもそれが交換に求められる事はない、と言う意味を持つ必要があると言う事にすぎない。
もともと<使用価値>とは、例えば上着がその布の保温性により、私達の身体の保温に有効であると言う様に、物の性質が、その物以外に、そして特に私達人間の存在の働きを助けると言う事として成立しているのです。ある物質が、例えば食べる事で身体を危機に陥れない事が、明らかになっていくと、その物は食べ物としての有用性を持つと言う事になるのです。ふぐという魚がそのまま丸ごと食べると毒で、身体の生命の危機に関わる事が分かると、その毒の部分を取り除き、食べ物としての有用性を確立されると言う様になるのです。つまりね物にある性質が、そのまま有用性を備えているのではなく、その性質が私達の身体の生命の維持に関わると言う事で、はじめてその性質が使用価値と呼ばれるのです。物には私達の存在に関わる事無く、物同士の間の性質として有るが、それがそのまま有用性ではない。その性質の制御が出来るようになる事で、はじめて有用であると言う事になるのです。毒もそのままでは、生命にかかわるのであり、誰かを殺したいと思っている人にとっては、その人の生命を抹殺したいときには、有用であるが、しかし生命に維持と言う次元では、全く有用では無いが、その微量の使用は薬にもなると言う意味では、毒の制御が出来れば、有用になると言う事になるのです。
さて「資本制的生産においては、商品はその所有者=売り手にとっては「使用価値」を持たず、ただ非所有者=買い手にとってのみ「使用価値」を持つと言う、たんなる「効用」=「有用性」一般に解消しきれないとところの、使用価値」と言う言い方は、所有者で有ろうと、非所有者であろうと上着は、身体の保温をする有用性として有るのだが、ただ所有者がその使用価値を実現してしまうと、交換のために所持している事の意味が果たせなくなると言う事なのです。つまり、物の性質がそのまま有用性ではなく、物が他の物との関係ではじめて有用性として出現するのであり、特に他の物が人間の存在で有れば、人間にとっての有用性と言う事になるが、しかし人間も自然の存在であるから、他の動物も含む全体に突手の有用性と言うレベルも成立するのです。その様な物の性質による私達の存在に対する有用性は、所有、非所有に関わらないのであるが、しかし現代の社会では、他者が所有している上着があり、それを私が着れば私にとって身体の保温にとても役立つと言う事は分かっていても、それを購入しないかぎり私の手元に来ないのであり、非常手段として窃盗すれば、有用の実現が出来ると言う事なのです。又彼がその上着を自分で着てしまえば、もう交換の場に出て来ることもなく、私の手元に来ることもないのです。有用性、使用価値の存在とその実現と言う区別を立てが無ければ、そこで成立している論理を理解できないと言う事になります。農家が作っているキャベツの量が、自分たちの食用の分をはるかに越えているのは、あくまでも販売の為の量であるが、しかしその量を全部食べれないと言う事と−−食べている間に腐ってしまう為−−キャベツが食用として有用であると言う事とは、別の次元の事なのです。農家にとっても買い手にとっても有用であり、もし自分たちの作るキャベツを、自分たちが食べないからといって食用に耐えない物で有れば、それは他者にとっても有用ではないのです。
資本制的生産の下での商品の有用性は、生産者にとっての有用性ではなく、買い手にとっての有用性であると言う事は、有用性の実現と言う話と物の性質が他者に与える有用性と言うレベルとを一色単にしているのです。その商品の有用性を彼は実現させないが、非所有者は実現すると言う事なのです。

価値実体の論証について
価値の実体を抽象的人間労働に還元する以上、この商品論の次元ですでに商品の生産過程を想定する事になるが、資本が展開されていない所で規定される商品の生産過程となれば、それはいわゆる単純商品生産でも考えざるを得ない。しかし「資本論」第一・第二編は資本制的生産をではなく単純商品生産を対象とする事になって「資本論」本来の課題及び方法論とは整合しない事とになる。さらにこの価値実体の論証をもし単純商品生産にそくして行う事になれば、価値の実体規定を一つの重要な軸とする価値法則は、単純商品生産に適用されうる事は証明されたにしても、資本制的生産については未だ不確定と言う事になり、結局価値法則を資本制的生産の根本として把握すると言う点からも大きな問題を残すといってよい。
単純商品生産から資本制的商品生産への移行があると言う事。価値法則が20エレのリンネルと一着の上着との間の交換を考察した所からえられたものであると言う事は、この交換にある構造が、あらゆる商品にある価格と言う現象にもあると言う事を前提にしているからです。商品相互の交換に、貨幣という媒介項が入り込むことで、価値法則の現象の仕方がちがうのであり、さらに貨幣が資本として現象する事で、そこで成立する現象の仕方の構造が問われると言う事なのです。物理学における等速直線運動が明らかになると、等速円運動が、直線の運動からどの様にずれていくのかを明らかにすることで、等速円運動の構造も明らかにされると言う事なのです。物体が単独であるなどという事がある分けないのだから、等速直線運動などあり得ないと考えないのは、多数の物体のある運動の場合相互の働きかけで、運動が複雑になってしまうために、ます一つの物体の動きを考察するという、現実の運動の抽象を経て、運動を考えるという事なのです。
この論証の中心となっている使用価値の捨象について、それが単なる2商品の交換関係の中で可能か、と言う問題がある。
「諸商品の交換関係をハッキリ特徴づけるものは、まさにそれらの諸使用価値の捨象である」(マルクス)
交換関係にあって、あくまでも両商品は使用価値と価値の二要因を合わせ持つものとしてのみ表れるのであって、交換関係における等置関係がただちに使用価値の捨象に導く訳ではない。
諸商品は、それにある価格によって、貨幣と交換されるのであるが、この商品にある価格と貨幣の関係について探求するのです。諸商品が価格により関連する事は、20エレのリンネル=一着の上着 と言う交換関係と同じ構造を持っているのです。そこでこの交換関係を探求するのです。それぞれの使用価値は、相互に20エレと一着という数量として関係するのであり、この数量として表れている物を交換価値というのです。リンネルが相手の一着の上着と交換されるのは、リンネルが20エレ分によるのです。相手の一着の上着と交換される自分のリンネルは20エレ分によるという事であり、この交換における20エレ分を、リンネルの交換価値というのです。この交換関係に有っては、関係の両端にあるリンネルと上着とが、別々の使用価値として関係しているのであるが、しかしさらに相手に対して、自己は特定の数量としてのリンネルという事になるのです。ただ相手の違いにより、10エレ分での交換価値出合ったり、50エレ分の交換価値として表れるのです。交換価値とは、相手の数量の違いによって、自己の何物かの現れ方という事なのです。その何物かを価値と呼ぶのです。
ここには、二つの方面からの<価値>と呼ばれる対象が得られている。一つは、リンネルと上着の交換に有っては、使用価値としては別々の物がに対して、その第三者にあたるものが存在し、その第三者をそれぞれが共通性として持っているという事、同一のモノを第三者としてそれぞれが持っているという事、二つ目は、両者の交換に有っては、自身の数量は、相手の数量との交換にみあったものとして交換価値と言う事であり、その交換価値は相手の数量の変化によって、代わってくると言う事なのです。つまり、20エレのリンネルは、相手の一着の上着との交換に見合うものとしての20エレという事であり、その20エレのリンネルを相手に対して交換価値というのです。そして相手の違いによって10えれのリンネルが交換価値であつたり、30エレのリンネルが交換価値であったりという事なのです。そこでリンネルが他のモノとの交換にあたって、交換に入る為のなにものかが、交換時に別々の交換価値として表れるという事になるのです。その何物かを価値と呼ぶことにするのです。
リンネルと上着との交換関係を成り立たせるモノとしての、それぞれにあるモノで同時に共通であるという属性をもつモノとして、価値と呼ばれものなのです。