読   書   日   記

-------------2004年03月02日---------------

価値論の射程 山口重克 東京大学出版会

第二部 「資本論」の価値論の諸問題
第一章 冒頭商品の価値の規定について
使用価値は、あらゆる社会に共通に富の素材的な内容、素材的な担い手をなすが、富の形態は社会の形態によって異なるのであり、「資本主義的生産様式が支配的に行われている社会」の富である「商品」の特殊な形態規定性は「交換価値」であると言う事が述べられている。この「交換価値」の考察に移り、そこからさらに「価値」の規定が導き出されると言う説明過程なのです。
交換価値は、<さしあたって>一種類の諸使用価値が他の種類の使用価値と交換される量的関係、すなわち割合として、現れる。
諸生産物が商品として交換の場に出ていく時、20エレのリンネルと一着の上着との交換として成立している。相手の商品リンネルの数量は、自分が欲しいリンネルの数量として有るが、両商品は交換関係においては、数量関係として20対1と言う数量の割合で成立している。その数量関係としての<20対1>と言う割合が、リンネルと上着の持つ交換価値の姿と言う事になります。両者が持つと想定されている交換価値は、両者の数量割合として現れていると言う事に成ります。それぞれ別々にある20エレのリンネルと一着の上着とが、20対1の割合と言う数量関係として形成されているのです。

<商品リンネルや商品上着に交換価値がある>と言う言い方は、一着上着に対して、20エレリンネルが交換されると言う出来事における両者の数量比、上着からみた一着に対する20エレ、リンネルから見たリンネル20エレに対する一着、と言う自身の数量が、他者の数量との交換数量比を形成する事を、交換する以前の上着に内在するモノとして規定したのです。内在するモノとは、現に二つの商品が、交換に置いて数量の割合として成立している事を、実体化したのです。交換以前にある商品上着に内在するモノがあって、それが交換に置いて、自分上着の数量Xに対して相手リンネルが数量Yで交換される<X/YかY/Xかである>と言う数量割合として現れる事になるのです。<一着の上着と20エレのリンネルが交換される>と言う出来事で、私は自分に必要なリンネルを20エレ分手に入れたのであり、その手に入れたリンネルを使って子供のお祭りの服を裁縫する事になるのです。それらの上着とリンネルの交換を、自分の必要に促されて行われた行為ととするなら、単に自分が欲しいのなら、相手から黙って持って来てもいいのであるが、しかし窃盗が許されない社会なら一定の手続きを経る、例えば交換と言う事で手に入れると言う事を行うのであり、その一定の手続きが成立する構造がここでは問われているのです。それがさしあたって、リンネルにも上着にも交換以前から内在するモノが在るのだと言う事なのです。その内在するモノが、交換に置いて一着に対して20エレの数量と言う割合として表れると理解するのです。その内在するモノとは、たぶん私が裁縫する上着は、自分の家族のモノも在るが、それだけではなく他者の為にもあるのだと言う事で有り、その他者の為に裁縫していると言うモノが、裁縫された上着に内在するモノとなっているのです。この内在するモノは、上着の着用による身体の保温と言う使用価値とは別のモノであると言う事なのです。自分が着用する為に裁縫している事と他者が着用する為に他者に手渡す為に裁縫する事の違いなのです。
内在するモノがあるので、交換されるのだが、しかし交換はあくまでも上着一着に対してリンネル20エレと言う割合として成立しているのです。交換の為に生産されたモノには内在するモノがあるが、しかしその内在するモノも、交換では数量割合として、特に変動する割合として表れているのです。交換の為に生産されている上着もリンネルも、生産だけでならその使用価値を生産しているのであるが、しかし交換の為に生産されている生産物には使用価値以外の内在するモノがあり、それが交換において数量割合として表れていると言う事なのです。上着に内在するモノは、自身の一着と言う数量に対して、相手リンネルは20エレと言う数量として交換の場で関係を結んでいるのです。一着とは大人の身体を包む大きさの規定であり、リンネル20エレは、大人の上着として裁縫する布の大きさだと言う事なのです。そのそれぞれの数量が、交換割合としての数量になるとき、上着の一着と言う数量は、交換以前から内在しているモノの数量として姿を表したと言う事なのです。大人の身体を包む大きさとしての一着である数量が、内在するモノの数量一と言う事なのです。使用価値としての一着と言う数量であるが、それが相手との交換に際して上着一着の姿のまま表れていると言う事なのです。上着一着はあくまでも大人が着用する事で実現されるモノであるのに、交換では比率としての一着であると言う事なのです。比率としての一着は、大人の着用としての一着として実現されるのではなく、使用価値の一着ではなく、内在するモノの一着であり、それも相手も内在するモノの20エレとして、相互の割合として表れる一着と20エレと言う事なのです。この割合とは、上着に内在するモノが数量一着で、相手のリンネルに内在するモノが20エレ数量分で等しいと言う事なのです。
リンネルや上着に内在するモノは、太陽の光りに透かして見ても見えるモノでは無いが、交換の場に出てくる事で、見えるとおりのリンネル姿のままの数量と、上着姿のままの数量の割合で両者が等しいモノであるとして表れているのです。この等しさは、上着と言う使用価値とリンネルと言う使用価値における全く別々の違うモノに対して、その違いにも関わらず、同等性があると言う所で成り立っているのです。
身体を保温すると言う支点から、上着について考えるのは、上着の材質である繊維の織りなす形が熱を貯めておく事ができると言う事であるのに対して、その上着に内在するモノと言う支点は突然虚空から舞い降りて来るモノではない。それは交換における両者の数量割合と言う出来事に対して、その割合として表れるモノを、交換以前からリンネルや上着に内在するモノとしてあると考える事で生まれて来たのです。以前から内在するモノが、交換により両者の数量割合として表れたと言う事なのです。使用価値としては別々にあるりんねると上着が、交換に入ることで、一定の数量割合として成立するのであり、その<成立>が、どの様にして成り立つのかと言う問に対する答えとして、使用価値とは別の<内在するモノ>が、数量割合として実現されたと言う答えを出したのです。
リンネルと上着とが交換されるのは、私には上着があるが、新しく上着を作ろうとしてもその材料としてのリンネルが無いので、リンネルの所有者にたいして分けてくれるように申し込むので有り、相手の承諾を得て私の上着一着と相手のリンネル20エレを交換することになったのです。ここでの交換はそれぞれの所有者が自分欲しいと思うモノを持っている相手所有者に対して、自分の所有物と交換しましょうと言う事で成り立つのであり、それぞれの所有者が自分の欲望を実現するための行為なのです。その欲望の実現の一つに窃盗があり、恵みがありと言うことでも在るのです。所有者同志が自分の欲望の実現として交換行為を行うとき、欲望が在るからこそ人は、交換行為を実現するのであるが、問題はその欲望の実現に当たって、交換を成立させる構造を介して交換が成立するのだと言う事なのです。
人が自分にはどうしようもない苦悩に打ちまかされて死を選ぶとき、例えば飛び降り自殺をしようとするとき、彼は物体の落下運動と言う実現しているので有り、彼を含む全ての物体に当てはまる落下の運動がそこに在るからこそ、人は落下運動を選ぶことで、落下による運動エネルギーが身体骨格を破壊する事を知っているからこそ、飛び降り自殺をするのです。単に足を滑らして落下しても、自ら飛び降りても、落下に伴うエネルギーが身体組織を破壊すると言う事なのです。私達が問題にしているのは、交換行為はその主体が持つ欲望を介してなされるのであり、欲望の無くなった人は無気力になるだけなのです。その欲望によってなされる交換が、しかし客観的な構造がありその構造に則って交換がなされると言う事なのです。無重力の世界では、彼に苦悩による死の欲望が在っても、<飛び降り>が成立しないので、他の方法による自殺しかないと言う事なのです。
交換における客観的構造とは、商品上着や商品リンネルに<内在するモノ>が、相互の数量の割合として表れると言う事です。私が欲しいのは相手が所有するリンネルであり、相手が欲しいのは私が所有する上着であると言う様に、それぞれの欲しいモノが在るから交換がなされるので有り、何が交換されかは、まさに所有者の欲求に従うのです。その欲求に従って指定される商品物には、しかしそれに内在するモノがある事で、交換にさいしてはそれぞれの数量の割合として成立するのです。一着の上着と20エレのリンネルが交換されるとは、一着の上着=20エレのリンネル と言う交換式が成立したと言う事なのです。この等式の左右のそれぞれは完結した数量でありながら、他者に関わり無くそれだけの数量でありながら、その数量分でお互いが何らかの点で等しいと言う事なのです。私の一着の上着の所有に対して、交換により今は20エレのリンネルを所有していると言う事であるから、所有としては特定のレベルで−−当然上着とリンネルは使用価値が違うのであるから、所有していれば使用価値の実現である限り、上着は着用する事で身体を保温するのだし、リンネルは新しい上着を作るのに必要になると言う事なのです。そのリンネルと上着を交換する事で、新しくリンネルを所有する事になれば、リンネルの所有は以前の上着の所有と同じになるのです。それはさしあたって交換する為にだけ所有するものと言う事なのです。−−同一であると言う事になるのです。

問題は、別々にあるモノが、数量関係として現れていると言う考え方に対して次のように説明するのです。私達が別々に所有しているリンネルと上着と言う生産物を、交換の場に持ち出して相互に交換する時、交換が<20対1>と言う数量比として成立している、その数量比がどの様にして生じたのかを説明しようとして、別々の生産物に内在するモノとしての交換価値と言う言語化をするのです。リンネルの交換価値は、相手の上着一着に対して、自身が20エレの割合として対応すると言う形態で現れていると言うことなのです。逆に相手のリンネル20エレに対して、上着が一着として対応されることで、上着の交換価値が現れると言う事なのです。<リンネルや上着が交換価値を持つ>と言う言い方は、リンネルや上着が使用価値を持つと言う考え方と同じなのです。上着か着用され身体を保温した時に使用価値が実現したと言うのであり、それと同じにリンネルが、自分以外のモノと交換された時、リンネルにある交換価値が実現したと考えるのです。しかしリンネルも上着も交換においては、それぞれ数量として現れるのであり、一着の上着に対して相手のリンネルは20エレ数量として交換されると言う事なのです。上着は一着の数量に対して、相手のリンネルが20エレで在ることで交換が成立するのであり、
別々にあるモノが、交換の場に持ち出され、相互に交換され、また別々の場所に持って帰られると言う事なのです。交換の場で、<20対1>と言う数量比として関係する時、交換の場に持ち出さなければ、交換価値と言う事を考える必要も無いのだが、交換されたと言う事を前提に、その交換が出来たのは、両者に内在する交換価値があるからだと言う説明になったのです。ここではその<内在するモノ>と<20対1の数量比>との関係なのです。リンネルの20エレと言う数量と上着の一着と言う数量は、20エレでまともに着用できる上着が裁縫できたり、上着一着で、結婚式に着飾って出かけられると言う様に出来ているが、その数量が交換の場では、<20対1>と言う数量関係を形成するモノとなるのです。一着の上着に対してのリンネルの20エレと言う数量を、交換価値の姿と規定するのです。上着を衣服として使用する時、一着と言う数量は一人の人間の衣服として有用であると言う事なのに対して、あるいは上着の使用価値は、一人の人間に対しては、一着と言う数量として実現されるのに対して、上着が交換の場に出ていく時、相手の数量に対して上着は一着と言う数量で交換される事で、上着の交換価値が、<一着対20エレ>と言う割合として現れたと言う事なのです。
<リンネル20対上着1>と言うあり方は、リンネルと上着とが相互に交換される時のお互いの数量の割合です。<20エレのリンネル>とか<一着の上着>とかは、それぞれ私達に使用されるモノとしての数量であり、4着の上着があれば、一家が暖かく今年の冬を過ごせる数量であると言う事なのです。上着としての有用性であり、リンネルの有用性としての数量なのです。その使用に<必要な数量>が交換においては、一着の上着に対する20エレの数量と言う割合として成立すると言う事であり、使用価値リンネルの20エレ分は一着の上着に対する割合として成立するのです。相互の交換に際して、お互いの使用価値としての数量は、私達の欲求による必要数量であるが、それが割合として成立するのです。一着の上着はけっして割合の為に有るのではないが、交換に有っては割合としての<一着の上着>と言う事なのです。何故リンネルが20エレであるのかと言う問は、私にとって上着を裁縫するのに必要であると言う事であるが、問題はその必要な数量同士が割合としてとして成立していると言う事なのです。その割合として成立している事を、交換価値と規定するのです。

交換価値は・・・・量的関係、すなわち割合として現れている。それは時と所とによって絶えず変化する関係であり、それ故交換価値は、偶然的なもの、純粋に相対的なものである様に見え、したがって商品に内的な、内在的な交換価値(内在価値)と言うものは一つの形容矛盾である様にみえる。
個々の商品に内在する内在価値と商品相互の絶えず変化する数量関係としての割合である交換価値との関係であり、後者が絶えず変化するなら、固定された内在価値と言う考え方は正当では無いのでは無いかと言う事です。リンネルは相手によって、20エレであったり、5エレであったり、100エレであったりと絶えず変化する量としてあるのだから、リンネルに内在する価値と言うことは、規定出来ないのではないかと言う結論になるのです。割合として成立しているモノを交換価値と言うなら、交換価値は、それぞれの商品に内在するモノではなく、あくまでも両商品の関係として成立しているのです。それぞれ別々にあるリンネルと上着とが、交換に際して相互の数量割合として出合う、つまり上着一着がリンネル20エレで交換される時、上着は一着で、20エレのリンネルとの交換価値を持つと言うのです。上着は一着で20エレのリンネルと交換されていると言う事に対して、単独である上着に内在するモノは、一着と言う数量であることで、20エレのリンネルとの交換価値を表すと言うのです。単独の時も一着であるから交換価値を持つとは言えないのは、あくまでも20エレのリンネルとの交換により、20エレのリンネルとの交換に見合っていると言う事だからです。相手が紅茶であるなら10ポンドの紅茶との交換に見合った一着の上着であると言う事なのです。上着はその一着と言う数量で、他の色々なモノのそれぞれの数量との交換に見合った交換価値を示すのです。上着は何処までも言っても一着でしかないのに、しかし相手のそれぞれの数量分との交換に見合ったモノとしての交換価値として表れているのです。一着の上着は使用価値としては何処でも同じで在り続けるのに、交換される相手のそれぞれの数量に見合ったモノとして振る舞うのです。一着の上着はその姿のままでありながら、相手の数量に見合った姿に変化しているのです。変化した姿を交換価値というのです。だから一着の上着には全く同一で在り続けるモノがあると考える事と相手の姿に合わせた変化する姿しか持ち合わせていないと言う事は両立しないように見えるのです。
一着の上着は、それ自身の中に同一の交換価値を持つのではなく、交換されるその度の相手の数量に従った姿としての交換価値を表すのです。一着の上着は20エレのリンネルと交換される時には、20エレのリンネルに見合ったモノを表し、10ポンドのコーヒーと交換される時には、10ポンドのコーヒーとの交換に見合った姿を表すのです。どの交換の際にもある一着の上着と言う姿は、交換の相手に関わらない同一のモノではないのかと言う問は、次の様な構造として生まれて来ている。上着が別のズボンになるとか、帽子になるとかと言う変化で無い限り、確かに同一の上着で有り続けるが、しかしその同一の上着が、交換に際しては交換される相手の姿に合わせた交換価値として表れると言う事なのです。交換の場に出る以前の上着にある交換価値とは、交換される場での相手の姿に見合ったモノとしてあると言う事を、交換以前の上着に内在すると規定しているだけなのです。交換の場に出る以前の上着にあるモノは、交換価値ではない。交換の場に出る以前の上着にあるモノが何であるのか規定出来ていないとしても、しかし上着一着は、交換される相手のリンネル20エレとの交換に見合ったモノとして表れているのです。一着の上着は交換の場に入る以前から上着です。しかしそこに使用価値以外として在るモノが、交換に有っては、リンネル20エレとの交換に見合ったモノとして一着の上着として表れているのです。一着の上着は、そのままで、特にその一着と言う数量のままで、20エレのリンネルとの交換に見合ったモノとして表れている。相手の20エレのリンネルを手に入れる為の交換にさいして、その交換に見合ったモノとしての、一着の上着である事で、初めてその一着の上着を相手に手渡す事になるのです。私の手元に有った上着が、相手の手元に移動したと言う事が、上着にある内在するモノの実現と言う事なのです。ただし上着の移動は、逆のリンネルの移動と同時になされるので有り、だから交換としては、両者は特定のレベルで等価と言う事なのです。それぞれの数量の割合で等価と言う事なのです。私が相手のリンネルを40エレ欲しいと思えば、交換に2着の上着を交換に出さなければならないのであり、一着の上着は20エレのリンネルとの交換による所有の移動があって、使用価値としては別のモノを所有する事になっても、何らかの点で同一で有り続けると言う事なのです。所有者の欲望から言えば、全くべつの使用価値をてに入れたと言う事であるが、交換の観点から言えば、同一のレベルが維持されているだけなのです。

上着所有者とリンネル所有者のそれぞれの支点から考える事にする。
上着所有者にとって。自分の上着はその使用価値を自分の為に実現すれば、自分の身体の保温をしていると言う事になります。しかしその上着の使用価値を実現せずに、リンネルにより新しい子供の上着を裁縫しようと言うイメージあり、そのイメージを実現するためには、まず手元に自分のリンネルを持つてこ無ければならないと考え、その考えを実現するために、リンネルを所有している者から手に入れようと考えるのです。そこで相手からリンネルを手に入れるために、自己の所有の上着を提出し交換を実行するのです。私が欲しいリンネルの数量は子供用の上着に裁縫するのに20エレ数量と言う事になる。そこで相手の所有である20エレのリンネルを私の所有にするために、窃盗ではない相手との正当な手続きである交換を実行するのですい。
「私が所有している一着の上着と相手が所有する20エレのリンネルには、交換を成り立たせる同一性がある」と言う考え方は、両所有者を見おろす神の立場から等距離におかれているモノとして、リンネルにも上着にそれぞれあるモノが同じモノであると言う事となのです。それに対して上着の所有者から上着とリンネルを考えると、上着の使用価値につては所有者は実現しないのであり、そこで実現すると普通に上着を着て生活していると言う事なのです。彼が必要としているのは相手の所有のリンネルであり、リンネルの価値を実現したいと思っているのです。上着所有者は、相手のリンネル20エレ分を手に入れるのに、<手に入れるのに見合ったモノ>として自分の<一着の上着>を提出するのです。当然リンネル所有者から見ても、相手の一着の上着を手に入れるのに見合ったモノとして<20エレのリンネル>を提出するのです。この両者は、それぞれ相手のモノを欲しいと思うので有り、その想いが一致した事で交換が成立したのです。もし一致しないなら、交換が成立しないと言う事なのです。ここでは、現に交換が成立していると言う事で、欲求の一致が有ったと言う事なのだが、問題はその一致の事ではなく、一致の時に成立している交換の構造が解き明かされると言う事なのです。<欲求の一致>と言う事は、各所有者が自分のモノと相手のモノとに対して、欲しいモノと言う意識が有り、その欲求の実現として交換があると言う事なのです。二人の間に成立する欲求の一致は、特例だとしても、一致によって成立する二者間の交換の構造を解きあかして行く事で、複数の所有者の間で成立する交換構造が解き明かされると言う事なのです。欲求が一致しないから交換が成立しないのだと言う事を考えるなら、現実には交換が成立しているから<欲求の一致>も成立しているのだと言う事なのではない。私達人間の交換を実行させるモノとして欲求があると言う事と交換の構造が成立していると言う事の区別なのです。その構造が、商品上着、商品リンネルの使用価値と価値の二重性と言う事なのです。ただし構造が明らかにされても、個別的な交換形態を対象に解きほぐつ事なしに構造の流動性はしり得ないのです。つまり、リンネルと上着とが交換されるのは、両者に同一の価値があるからだと言う事では、使用価値と価値の二重性と言うときの<二重性>の意味が示されていないのです。この<二重性>はリンネルと上着を高見から見おろす位置からの神の発言で有り、あくまでも所有者の位置からでは、上着の所有者にとって自分の上着は、相手の所有のリンネルを手に入れる交換物であり、一着の上着は、相手の20エレのリンネルを手に入れるに見合ったモノと言う事なのです。使用価値「一着の上着」は、使用価値リンネル20エレを<手に入れるに見合ったモノ>なのです。手に入れ様としているモノは、あくまでもリンネルであり、その20エレ数量分−−子供の服を一着作れる布の大きさ−−の取得に等しいモノとして、一着の上着を手放すのです。リンネル20エレの数量は子供服が裁縫出来る大きさなのだが、その数量を取得するのに等しいモノとして、一着の上着−−子供の身体を保温するのに最適な大きさ−−を手放すのです。リンネル20エレの取得の為に、その取得に見合ったモノとして、一着の上着があるのです。つまり、一着も20エレの数量も使用価値としては、必要な数量と言う事であるが、交換にあっては相互に交換に<見合った>ものとしての数量だと言う事なのです。この交換関係では、一着の上着が20エレのリンネルとの<交換に見合ったモノ>を表すのです。一着の上着が表すモノを交換価値と言うのです。リンネルの場合には20エレであり、お茶の場合には10ポンドであるように、交換される相手の違いによって表されるモノとしての交換価値も違うと言う事なのです。相手の数量との交換に見合ったモノとして、一着の上着であり、リンネルが40エレになれば、その40エレのリンネルとの交換に見合ったモノとしては、2着の上着が交換価値となるのです。相手の数量によって、自分の数量分がきまり、その相手に規定された自己を交換価値と言うのです。相手に規定された自己であっても、交換関係に入る以前の自己でもあり、それが大人用の一着の上着なのです。その大人用の上着一着が、20エレのリンネルに対して交換価値をなすのです。さらに考えると、交換以前にも一着の上着であり、交換中も一着の上着であるなら、交換価値は最初から上着に内在するのだと考えることになるのです。しかし交換価値とはあくまでも相手の数量との交換に見合ったモノとしてのみ一着の上着に付いて考えるのであり、一着の上着が相手の数量に見合った振る舞いをしている事を交換価値と言うのです。一着の上着が交換と言う現場で、交換される相手の姿に対してのみ振る舞ったモノを交換価値と言うのであり、とすると上着もリンネルも交換以前から使用価値として生き続けているなら両者には、交換に入る事で交換の相手による振る舞いの違いを作り出す何物かが内在していると考える事になるのです。交換以前の一着の上着の<なにものか>が、交換に当たって相手の数量に対するモノとして交換価値として表れていると考える事になるのです。上着一着と言う数量は、交換以前からあり、それが交換で相手の数量との割合としての、数量になるのです。それは何処か隠されていたモノが表に現れたと言う事ではなく、絶えず前面に見えていたモノが、それがあるからこそ使用価値としての上着と言う事なのだが、新たな関係を形成するのです。一着の上着は身体を保温するのに適した大きさでありながら、交換ではその数量が相手の数量との<割合>を形成するのです。ただし問題は、使用価値としての上着と使用価値としてのリンネルの間の数量割合として成立するのには、両者が別々の使用価値でありなが、しかし同時に同一の質として成立する事によるのです。同じ<使用価値>と言う言葉を使用している事が、同一性ではない。両者ともその物質の性質が私達の活動に有用であると言う意味で、使用価値であるが、しかし別々の有用性としての使用価値と言う事なのです。上着は上着としての使用であり、リンネルはリンネルとしての使用でありながら、私達が使用すると言う事で同じであっても、それは使用の形態が違うのです。どの使用価値も皆同じでは無いかと考えたとすれば、それはこの生きている主体が、生きて行く為の媒介物として同じであると言う事なのだが、しかし主体の生きていく為の媒介物と言う一般論レベルに対して、その媒介物に多様な差異性があり、相互に補完する様に出来ているのです。その差異を前提にして、しかし主体の生きていく為の媒介物として同一であると言う事なのです。それにたいして数量の割合として成立する両者は、使用価値とは別のモノによるのです。上着の使用価値は着用される事により身体の保温と言う実現がなされるのです。その使用価値である上着を私が所有していても、それは上着使用価値の実現をする為にではなく。他者の為の使用価値上着の所有なのです。この<他者の為の使用価値>は、私の所有から相手の所有に変更した後に初めて相手が上着を着用する事で、身体を保温する事になるのです。もし私の所有のままなのに相手が私の所有の上着を着用したとすれば、それは窃盗になってしまうのです。<使用価値>で有る限り、着用により身体を保温する事が成立するのであるが、その使用価値上着を着用する事と所有している事とが分かれているので、上着があるからと言ってすぐに着用して着続けて良い事ではないのです。他者が私の所有している上着を着用するには、まず私の所有から相手の所有に変更する事が必要になるのです。この所有の変更を交換と言うのです。自己の為の所有では、そのまま使用価値の実現がなされるのであるが、その自己の為の実現を行わずに所有している場合、その所有物を渡して他者が使用価値の実現をするのです。本来の使用価値はその物質の性質により規定されて来るのだが、他者に渡すためにだけ所有しているのは、上着の別の性質により成立していると言う事なのです。交換する為にだけ所有している上着は、その自然的性質による使用価値とは別の性質による交換価値を持つと言う事になるのです。上着の<別の性質>とは、一着の上着に対する20エレのリンネルと言う数量割合を作り出す、同質の性質と言う事になる。上着の使用価値がその材質としての布の性質により成立している事とその大きさが身体を適度に包むと言う事で成立しているのです。それに対して交換の為の上着の性質は、相互に交換されるモノ同志の数量の割合として成立させる同一の質として成立しているのです。見た目には上着一着とリンネル20エレと言う別々のモノの数量として表れているのだが、しかしその別々の用途の数量が、割合と言う数量同志の関係を形成するのです。しかし別々の用途である上着やリンネルが何か別のモノになってしまったのではない。交換されているのは上着とリンネルなのです。ただ上着の使用価値が所有者によって実現されず、欲しいと思っている他者に交換された後に実現されると言う事なのです。上着の使用価値に対して、何か限定するモノが成立していると言うことなのです。所有と言う事を考えなければ、他者もその上着を着用すれば、身体を保温する事は当然で有り、ただ男性用としての上着であるから、女性の体にはぴったり来ていないと言う事はあり得るのです。どんなに有用な上着でも、たんなる窃盗による持ち出し出ない限り、私の上着を他者が無断で持ち出す事は出来ず、だから当然着用による使用価値の実現はありえないのです。交換というレベルで両者が同等であると言う事で単に所有を変えるので有り、変わった後は普通に使用価値の実現が成立するのです。上着を所有している事も他者がリンネルを所有している事も、所有者が使用価値の実現をする事では、他者は関わらないのであるが、交換にあっては、リンネルと上着と言う別々のモノに同一性の側面が有ることで所有の変更がなされるのです。ただし数量の割合として交換されると言う事なのです。私が欲しいと思っている相手のリンネル20エレに対して、それを手に入れるために交換として私の上着を提出するのであり、それが一着と言う数量なのです。
私が欲しい20エレのリンネルと彼が欲しがっている一着の上着とによって、一着の上着と20エレのリンネルが交換される。この時私が欲しいと思っている20エレのリンネルは、子供の一着の上着を作る量であるのだが、その20エレのリンネルを手に入れようとして、その手に入れるのに値するモノとして、ここでは相手が欲しがる一着と言う数量が提出されるのです。相手から見れば欲しいと思っている上着は一着と言う数量であり、それは相手が決める数量なのです。しかし私の所にある上着の一着と言う数量は、相手が欲しがる数量であったとしても、あくまでもリンネル20エレを手に入れるのに値するモノとしてなのです。
交換を俯瞰する位置から見おろせば、使用価値としては別々である一着の上着と20エレのリンネルとがその所有者を変えたのである。その所有を変えた事に対して、上着を所有していた時もリンネルを所有している時も、変わらずに有るモノを<価値>と名付けるのです。リンネルの<価値>と上着の<価値>とは、交換により両者が所有を変わる時に一緒に変わるのであるが、しかし所有としては変わっていても−−そして所有者にとってこの所有の変更こそが大事なのであり、私は彼のリンネルがほしいと言う事なのです−−その所有物を構成している<価値>は、同じであると言う事なのです。
私達所有者が所有物を相互に交換する。それは相手の所有物を構成している使用価値が有用であると思われるからであり、それを自分の為に使用したいからなのです。交換行為は、所有物の使用価値の実現のために相手の所有物と私の所有物とを交換する事なのです。私達の対象に対する欲求に促された行為と言う事なのです。その欲求に促された交換行為は、当然交換されるモノの交換と言う事であり、交換されるモノにある<価値>により交換され、両者の数量の割合として対峙するのです。つまり、私が欲しいリンネルは20エレ数量であり、彼が欲しい上着は一着分で、交換が成立する事に対して、使用価値の更なる厳密な区別を考えるのです。それが私が所有する上着の使用価値の実現を自身でしてはならないのであり、あくまでも交換の後に相手が実現するモノと言う事<20エレのリンネルを手に入れる> 交換以前には<一着の上着>としてある価値であったモノが、交換後は<20エレのリンネル>としてある価値を持つ事になるのです。裁縫するのに欲しいと思っているモノと身体を保温するのに欲しいと思っているモノに対して、その欲しい想いを実現させるのが交換と言う行為であり、その交換の構造として、使用価値と価値の二重化と言う事が成立しているのです。上着の使用価値と言う事で有れば、それはどんな人が実現しても良いのである。しかし交換では自分の上着の使用価値は、自分が実現してはならないのであり、あくまでも他者が実現しようとするモノとしてあるのです。私が所有している上着の使用価値は、他人に所有が変わった後で実現される使用価値であり、他者の所有のリンネル使用価値との交換を担うもとしてある。リンネルの使用価値が問題になっているのは私が欲しいモノがそのリンネルだからです。そのリンネルの使用価値を実現する事で、子供用の上着を一着作る事が出来るからです。彼の所有しているリンネルに対して、私が欲しいと思っているのは、その使用価値の実現による子供の服の作成が子供を喜ばせると言う想いが有るからで、その様な想いにより交換されるリンネルは使用価値で私を引きつけると言う事なのです。その様なリンネルを手に入れようと交換がなされるのです。上着一着とリンネル20エレの割合で両者が等価である事を表すのであり、ここではリンネルにも上着にも、それぞれを交換させる共通である<価値>があると言う言い方は、交換以前から交換途中と言う過程を成立させる実体としての価値を想定し、その実体が交換比率として両者の割合として表れると捉えるのです。リンネルが私の所に有ろうと彼の所にあろうと20エレと言う数量は、縫製すると子供用の服の大きさとしてあると言う事に対して、目的にかなった数量だと言うのです。その数量を手に入れるのに私の上着の一着と言う数量を交換に出すことで、両者ともに内在する価値があるから交換されると言う一般論を越えて、上着の価値は、20エレのリンネルとの交換に値するモノと言う事になるのです。
箇々の商品に内在する<価値>と商品相互の数量割合である交換価値の関係なのです。個々の商品がありそれが交換による関係を結ぶ事になる。交換においては、二つの商品は数量の割合を形成している。個々の商品を眺め回すと上着であったり、お茶であったり、車であったりと言う様にそれぞれ使用価値として有用性として理解されるのです。その個々の商品の中に<価値>が内在すると言っても上着を切り刻んでも見えるモノではないのです。ただ個々の上着やリンネルが、交換において「一着の上着=20エレのリンネル」と言う様に数量の割合として成立しているのです。「=15エレのリンネル」か「=25エレのリンネル」かと言う事であり、もしどの割合でなければ、それは交換が成立しなかったと言う事なのです。交換が成立している限り、特定の数量の割合として成立しているのです。その割合が問題になっているのです。割合の成立している構造が問われているのです。個々に内在する価値と個々が交換関係で表す数量の割合なのです。両者はそれぞれの数量で単独であるが、その数量が交換に有っては割合として成立するのです。20エレのリンネルを相手から手に入れるのに、その手に入れるのに値するモノとして一着の上着と言う事なのです。ここで身体を保温する一着の上着は、20エレのリンネルを手に入れる為の交換に値する数量となっているのです。前者が使用価値としての上着の数量であり、上着が有用される私達の身体を包むものとしての上着であり、それが一人の身体を包む大きさとして一着と言う事なのです。その一着と言う数量がリンネルの20エレを手に入れる為の交換に値するモノになるのです。リンネル20エレに対する交換価値としての一着の上着と言う事なのです。当然リンネル所有者から見れば、上着一着に対する交換価値としての20エレのリンネルと言う事なのです。両者を俯瞰する神の立場から見れば、お互いが交換価値となり、交換の場に来る以前からも交換価値を持つと言う様に見えるのです。何故なら使用価値としての一着の上着、使用価値としての20エレのリンネルであり、その一着や20エレのリンネルが同時に交換割合としても成立するのです。後者の上着の一着がリンネル20エレとの交換で相手の数量に対する割合を表す交換価値である時、交換によって初めて生まれた数量ではなく、交換以前からのつまり使用価値としての数量、交換の途中でも使用価値であり、交換の後も使用価値である一着の上着なのです。それが交換にあって相互の数量割合としての交換価値になるのです。使用価値としての一着の上着が、交換を担う一着の上着となるのです。コインの両面の様に一つの別々の面と言う比喩は、別々と言う事で切り放せる様に思えても、しかし一つのコインと言う事で、別々で有ってもけっして切り放せない一つのモノであるのです。
一着の上着の使用価値に対してその使用価値を実現せずに保留し続け相手との交換の媒体として規定する事です。使用価値の保留の間に交換をするのであり、その保留の間に上着にあるモノが実現されるのが、<価値>と言う事になる。上着使用価値の実現は身体の保温をしていると言う事であるのに対して、上着価値の実現は、現に相手のモノとの交換があり、相手の数量に対して上着の数量の割合が成立していると言う事なのです。上着の材質や形が人間の身体を包む事で身体の温度を内部に保持し保温する事を使用価値と言うのであり、当然身体に合わせた試行錯誤の中で材質の選択と形の選択がなされ適したモノが選ばれて来たので有り、その様な保温をすると言う成果を踏まえた上着の材質や形の事を使用価値と言うのです。いま生きている私達はその様な成果を踏まえた上での上着を着用しているのであり、私達は上着を着用する事で、上着の使用価値を実現していると言うのです。上着の使用価値を実現する事で、新たな材質の発見と形の選択から新たな面をその使用価値に付け加えるのです。蒸し暑い夏に着る上着は湿気対策を考えた材質や形が選択された使用価値が規定されるのです。単にモノの材質があるからではなく、その材質が人間の活動に働きかけると言う時初めてその材質の有用性を使用価値と言うのです。前の世代の人々の試行錯誤がどんな材質が有用であるのかを明らかにしてきたので有り、明らかにされた材質を持つ物の事を使用価値と言うのです。上着やリンネルの価値は、さいあたって上着やリンネルの価値を形成する材質が明らかにされてはいないが、交換と言う場に表されている事は明らかです。別々に有ったリンネルと上着が、交換の場に出て来るのです。両者が交換の場に出る力としてそれに内在する<交換価値>を想定するのであり、その力によって相互に交換されるのです。リンネルと上着が交換されるのは、それぞれに内在する力たる<交換価値>によるのです。問題はその力によって交換される二つの商品の作る形態と言う事なのです。それがリンネル20エレに対して一着の上着が交換に値すると言う数量の割合と言う事なのです。20エレのリンネルであるならその数量分を裁縫すると子供用の上着が一着作ることが出来ると言う意味での<一着と20エレ>ではないのです。交換の一方が一着であり、他方が20エレであり、その数量が交換の割合として成立するのです。つまり上着一着の所有から20エレのリンネルの所有に変更になったのであり、相手は20エレのリンネルの所有から一着の上着の所有に変更になったのです。私にとって所有の変更は、使用価値の実現をしてはならない上着から使用価値の実現をするリンネルになったのであり、所有した後は20エレのリンネルで子供用の上着を裁縫する事になるのです。
私が所有している上着は、その使用価値を実現してはならないのであり、その交換価値の実現がなされるのです。ただしこの交換価値の実現と言う言い方は、交換が相手との数量の割合となっている事を考えれば20エレのリンネルに対する上着一着がこそが交換価値と言う事をへ無視しているのです。つまり同じ一着の上着でも交換に入る以前と交換の中での20エレのリンネルに対する一着と言う数量の違いであり、20エレに対する一着の場合と50エレのリンネルに対する一着では、後者の方が交換価値は高いと言う事なのです。交換以前から交換価値が有るのではなく、交換による相手の数量に対する上着の数量のことを交換価値と言うのです。いまの交換の場合にはあくまでも20エレのリンネルに対する交換価値と言う事であり、他の50エレのリンネルに対する一着の上着が交換価値と言う事にもなるのです。交換価値は上着に内在するなにモノかではなく、相手の数量に対する自己の数量と言う表に出ている姿そのモノに他ならないのです。使用価値としての一着の上着が、相手のリンネル数量に対する交換の一着になる時、使用価値としての上着の一着は、身体を包む単位であるが、交換では、相手の20エレのリンネルとの交換の一着と言う事なのです。<この交換の一着>と言う事を上着にある<交換価値>と規定すれば、上着の交換価値とは上着自身が持つ、20エレ数量のリンネルに対する−−交換を両者の間の特定の関係とすれば−−モノと言う事なのです。上着の一着分が、交換されるリンネル20エレ分に対して交換価値になるのです。使用価値一着分の上着であるのに、交換の場では相手のリンネル20エレ分に対して交換価値となるのであり、その交換価値は所有の移動で実現されると言う事なのです。その実現により私の所有が上着一着からリンネル20エレに変わったのです。一着の上着の変わりに20エレのリンネルに所有が変わったのであり、使用価値としては別のモノであるリンネル20エレ分になったが、上着の一着分が等価になるモノを有しているリンネルであると言う事なのです。

「ある一つの商品小麦は色々違った割合の諸商品と交換される。だから商品小麦は、様々な交換価値を持っているのであって、ただ一つの交換価値を持っているのでは無い。」
一定量の数量Xの小麦は、他の諸商品の色々な数量との割合を形成するのであり、X数量は一定であっても、他の商品の数量により、<X/A><X/B><X/C>と言う様な割合として成立するのです。一定量Xの小麦は、その一定量Xであっても他者の数量だけの割合が成立していて、それぞれの割合としての小麦に交換価値があると言うのです。A量の商品に対してのX量の小麦になる事で、相手の数量によってX量の小麦は割合を変えるのでありそのたびの割合の事を小麦の交換価値と言うのです。<ただ一つの交換価値>と言う考え方は、交換に入る以前のX量の小麦が−−5人分の食料となると言う様に用途が確立している数量が−−交換にあたって相手の数量との割合として成立する、その割合を規定する<一定のX量>の事を交換価値と考える所から生まれているのです。その割合としての小麦のX量を交換価値とすれば、割合である事をはずしてしまえばそこにはX量が残るのであり、X量は一定であるから<ただ一つの交換価値>と言う事なのです。小麦のX量が交換価値なのではない。それが交換により相手の数量との割合となる時、初めて交換価値と言う事になるのです。交換は所有が相互に移動する事なのです。問題は私達が小麦の生産を考える時、単に自分たちの食物としてではなく、他者に販売する為の小麦の生産をする場合には、当然交換を前提されているのであり、その前提を小麦の交換価値と考える事になるのです。
交換価値を支える<割合>と言う事に付いて次の様に考える。
別々の色の液体の内、二つの液体を混ぜるとそこに混ざり有った色が成立する。その混ざり有った色は、別々の色の割合で決まるのです。A液X量として一定にして、他の液体Bの量Yを変化させると、Yの違いが混合された液体の色合いを変える事になるのです。混合さされた液体は一つの容器にはいっており、そこにその様な色合いで成立しているのです。その目の前の液体を対象にして、分析としてA液とB液の混合を考え
   この分析思考は、混合液の生成過程を考えると言う事なのです。対象としては混合された
   一つの液体が有るのだが、その一つの液体の生まれる過程を考える事で、混合の実験をす
   るのであり、それが分析的思考なのです−−
A液の一定X量に対してB液を各量の混合が今目の前の瓶に入っている液体の色合なのだと言う説明をするのです。分析による思考の中で、目の前の瓶の液体<について>の表象が組み立てられるのであり、その表象の組立を思考と言い、その思考に従って一つの瓶に現物の液体をいれて混合すれば、そこに特定の色合いの液体が出来たとき、初めて思考の中で組み立てられた表象が現物に付いての表象であると言えるのです。色の場合には、別々の容器の液体が一つの容器に入る事で成り立つので、一つの容器の中で生じる混合なのです。別々の容器の液体が、一つの容器にX量とY量とが入り混合されると、混合された色合いとなるのです。X量を一定にしてY量を変化させれば、そのY量の変化に合わせて混合液の色合いが変化するのです。このX量に対する変化するY量のあり方は、単に液量であるだけなら<X+Y>と言う量であるが、その色合いは両者の混合割合により決められているのです。単に量の和ではなく、和による液体の色合いはXが一定であれば、X量を基礎としたY量の変化に合わせてあるのです。混合の色合いの違いは、X量とY量の割合によってきまると言う事なのです。今目の前の色は、<X1量+Y2量>と言う混合であり、この<X1+Y2>の量の和を構成するX1、Y2量の関係を割合と言うのです。単独であるX1、Y2にたいしてそれらが混合される時の両者の数量関係を割合と言うのです。元々単独であるX量やY量が、混合による数量関係により、混合の色合いが成立するのです。混合は液体の性質により決まるのであり、単独としてのXもYも、全く孤立してるのではなく、その液体としての性質により、混合されるのです。混合により<X+Y>と言う和になり、色合いとしては和としては同じであってもXYの間の比率が違うのであり、今は一つの比率として、目の前の見た通りの色合いであると言う事なのです。混合は特定の色合いとして一つの液体なのだが、それを分析思考から振り返れば、A液X量とB液Y量の別々の液体が、混合して一つの比率によるX量、Y量としてあると言う事なのです。私達の思考は、一つの容器に混ぜられている液体が別々の容器の液体を一つに混ぜると言う過程を見ているのであり、その過程を見ている思考が、現に一つの容器の中の液体の色合いに対しては、<二つの液体の混合である過程>と言う経験から得られている表象から<A液X量とB液Y量>と言う説明を組み立てるのであり、さらにその説明を<X量とY量の変化>によって色合いの違いを実験していくのです。「別々の液体を混合する」と言う出来事があり、良く混ぜ合わせると目の前に見えるとおりの色合いとなると言うことに対して、その混合すると言う生成過程を思考が表象として組み立てたと言う事なのです。経験は二つの色の液体を混合するとそれらの色の混合された色が目の前に出来上がると言う事なのだが、その経験を前提に色の量の基本A液X量を決め、X量の1倍、2倍、3倍と言う変化に対応して混合液の色合いが違ってくる事を見るのです。当然X量の1/2倍、1/3倍と言う様にどの様にも変化させることが出来るのであり、このA液の基本量を決めるのは経験ではなく、約束事と言う人々の間で作る規範と言う事なのです。問題は数量の割合が混合液の色合いを決めると言う事だけでなく、混合する液の量の基本単位を決めとと言う事であり、そこで初めて混合するそれぞれの量の違いが、基本量の何倍かと言う数量単位による統一として説明出来たのだし、数量の割合に統一が出来たと言う事なのです。

それに対して二つの商品の交換の場合、X量の小麦はその所有を変えるだけであり、X量が増加したり減少したりするのではない。私が欲しい20エレのリンネルに対して、その交換として上着一着が提出され相手も了解すれば、それで交換が終了するのです。相手は自分の所有の20エレのリンネルを交換に出すとき、上着一着が自分の所有物の交換に値すると判断すれば、交換が成立するのです。私達の欲求から見れば私はリンネル20エレを欲しいと想い、相手は上着一着を欲しいと思う時、両者の欲求が重なれば、相互に交換をすると言う事になるのです。この時、一着と20エレとが等価であるのかと言う事は考慮されていない。ただこの様な交換は、相互の欲しいモノが一致すると言う事だけであり、両者の間に等価な構造が有るのかどうかは、特に問われてはいないのです。それに対してX量の小麦を取り立てるのは、単に欲しいモノである使用価値を踏まえた交換価値を考慮にして思考されているのです。しかしここでは、リンネル20エレに対して一着であるからと言って、その半分の10エレに対して1/2一着と言う訳には行かないのは、その上着では使用価値が実現されないからです。あるいは10エレでは上着の背中部分しか作れないのだと言う事なのです。ここでは使用価値の実現の最小単位としての一着であり、一着の上着を裁縫できる単位としての20エレと言う事であり、その様な単位の上着やリンネルが<欲しい>と言う事なのです。

単独としての小麦が、他者の諸商品と交換関係に入る事で、他者の数量との割合を形成するのであり、小麦X量が形成するそのつどの割合を交換価値と言うのです。つまり交換に入る以前の数人分の食料になるX量の小麦が、他者であるリンネルY量との交換関係で、Y量との割合を形成するのです。単独である小麦が数量として、他者の数量と割合を形成する。その他者との数量関係の所にしか交換価値は無いと言う考え方は、単独の所には交換価値は無いと言う事であり、単独の所に無いモノがどの様にして、数量関係として交換価値が生まれるのかと言う問に成るのです。単独のモノがつくるX量と言う数量があり、その数量が交換関係において他者のY量と割合を作るのです。
数量の視点から見れば、単独にある20エレのリンネルと、やはり単独にある一着の上着とが、交換に入ることで、数量相互の割合として成立するのです。割合は、交換関係において成立しているが、交換以前の20エレのリンネルや一着の上着が、そのまま交換価値ではないと言う事は当然であり、別々の数量が、交換において割合をつくり、その割合の事を交換価値であると言う事なのです。問題は、交換における数量関係としての割合が何を表すのかと言う事なのです。その数量関係が何を表しているのかと言う問に対する答えは、交換について再考する事なのです。つまり、私が所有するリンネルと相手の所有する上着とがあり、私が相手の上着が欲しいのであり、相手の一着の上着を手に入れ為に私のリンネルを20エレ数量分提出するのです。この時相手の一着の上着を<手に入れるのに値する>モノとして、私の20エレのリンネルを交換価値と言うのです。
単に<手に入れる>と言う事であるなら、相手に黙って手に入れれば、つまり窃盗すれば、確かに手に入れる事が出来るのです。しかし今は、<手に入れる>のに私の方も相手にリンネルを手渡すと言う交換によって<手にいれる>と言う事なのです。相手の一着の上着を手に入れるのに、その一着の上着との交換に<値するもの>として、私の20エレのリンネルがあると言う事なのです。「20エレのリンネルは、一着の上着を手に入れるのに値するモノである」と言う事を20エレのリンネルは交換価値を持つと言うのです。この交換価値は単独のリンネルに内在しているモノを示しているのではなく、一着分に対する20エレ分の数量の事を示しているのです。
上着とリンネルの数量比、割合が表すモノは以下の様になります。リンネルにとっては、相手の上着数量との交換に値するモノとして20エレの数量であり、その交換の一端にある20エレのリンネルが、他端の上着一着と形成している割合を交換価値と言う言葉で表しているのです。また上着にとっても、相手の20エレのリンネルとの交換に値するものとして一着の上着であり、上着の一着は相手との交換価値を表していると言う事になります。リンネル20エレが上着一着に対する割合とは、相手の一着の上着を手に入れるのに上着との交換に値するモノとしての、自分の20エレのリンネルであり、一着と20エレとは交換の割合と言う事なのです。
リンネルから見れば、リンネルの20エレの数量は、相手の一着の上着との交換に値するものとしてあるのだから、<1対20>と言う割合が交換価値なのではなく、その割合からみた<リンネルの20エレ数量>が交換価値を表していると言う事になるのです。単に有用な数量としての<リンネルの20エレ数量>は、まさにリンネル使用価値の数量であり、20エレ数量が有れば、大人の上着を一着作り得ると言う事であるが、そのリンネルが上着との交換関係を形成する事で、数量20エレとしてのリンネルが、その数量のまま相手の一着の上着との交換価値となるのです。20エレの数量のリンネルが、そのまま使用価値としてだけ有り続けるなら、何かに成ったり、何かを表したりしないが、しかしその数量分が、他の使用価値の数量と交換割合という形態をとる事で、割合関係の一端に成る事で、リンネルの<20エレ数量>を交換価値を表すと規定するのです。単独の数量である20エレが、交換関係における他の使用価値の数量との割合をとる事で、新しい規定を得る事になり、リンネルにある<何か>を、その割合という形態として姿を表すと言うのです。単独の数量20エレ、大人用の一着の上着を作り得る20エレ数量が、上着一着との割合に成っている時のそれぞれの数量を交換価値と規定するのです。<一着と20エレ>の間の割合とは、上着の一着と言う数量単位が、身体を包む形の基本単位であり、リンネル20エレはその様な上着を一着作る布の基本単位と言う事に対して、その別々の単位が交換では交換割合を作ると言う

二つ生産物があり、それが交換関係を形成するとき、二つの生産物に内在するモノが、数量比と言う形態として現れていると言う考え方なのです。一着の上着の一着はあくまでも身体を保温するのに必要と言う数量であるが、交換関係において、相手のリンネルの20エレ数量分に対しての割合としてあるのです。上着の一着という数量は、身体の保温を完遂させる数量であり、リンネル20エレ数量は大人の上着を一着つくれる量と言う事になり、その別々の性質の数量はそこでは数量比を形成する事とは無いが、しかし交換に有っては割合として成立していると言う事なのです。
すこし先の事を考えてみます。さきに<交換に有っては>と言う言葉は、モノによっては交換が成立しない事があり、その場合にはけっして割合が成り立たないと言う事なのです。交換とは、それぞれの生産物にある数量が、割合として実現されると言う事であり、その実現の過程を経た結果を、交換以前の各生産物に当てはめようとして、<内在する何物か>と言う想定をするのです。
20エレのリンネルへと一着の上着が交換されると言う事、交換される両者を子細に見れば、その交換は<20対1>と言う両数量の割合として成立している。交換が割合を作るのではない。交換は、リンネルと上着とが交換されると言う事であり、さらにその交換の細部を調べるとりんねると上着とは、相互に数量として対峙しているのです。使用価値の数量であるモノが、交換の際に割合として成立していると言う事なのです。この時使用価値の数量は上着やリンネルと言う具体物による単位と成るが、交換に際しては別の単位による割合と言う事に成るのです。

「交換に入る時の条件」と「入った後での割合と言う形態」との区別であり、前者は<何モノか>の働きにより交換に入り、後者は交換に入った時の両者の姿であり、裁縫すれば一着の上着に成りうる大きさとしての20エレ数量が、上着の一着分との割合としての20エレになると言う事です。
私は自分のリンネルを所持しながら相手の所有する上着に対して、それを着れば身体を保温するのに大変有用であると思っているので、その思いを現実化するために、まず相手の所有物を私の所有物にする変更をするのです。その変更は例えば、私が相手の同意を無視して所有を変えたら、それは窃盗と言われるのであり、窃盗でも上着が保温するのは明らかです。窃盗と言う形態による所有の変更でも、上着の使用価値の実現には差し障りがないのです。とすると所有の変更の際、私達の社会では、相互に所有を変更するのであり、それは相手の一着の上着に対して、それに<見合ったモノ>としての20エレのリンネルを提出すると言う事なのです。その<見合ったモノ>として上着の一着に対してリンネル20エレが割合として成立するのです。一着の上着を「手にいれる」為に、わたしが自分の所有するリンネルを20エレ分提出するのであり、その一着に対する20エレ数量は、上着との<交換に値するモノ>としての20エレの数量と言う事なのです。ここで初めて、一着の上着を裁縫できる数量としてのリンネル20エレと言う数量が、その数量のまま上着との<交換に値するモノ>を表す数量と言う事になるのです。20エレの数量は、使用価値としての数量であり、裁縫により一着の上着が出来る数量と言う事なのだが、交換関係に合っては、相手の使用価値としての一着の上着を手に入れるのに<見合ったモノ>を表す20エレの数量と言う事なのです。リンネル20エレの数量とは、リンネルを大きさと言う量的な側面から表したのであるが、物としてはそれを裁縫する事で大人用の一着の上着になりえると言う事なのです。その20エレの数量は、交換に有っては、交換される相手の一着の上着との<交換に見合ったモノ>を、表す事に成るのです。
私は、相手の上着はととても保温に優れていると思っているので、そして試着させてもらったらとても暖かかったので、その上着を一着手にいれる為に
    −−手に入れるために窃盗するのか、譲渡してもらうか、交換してもらうのかと言う事になる−−交換するのであり、その交換の際、交換に値するモノを表す20エレのリンネルを交換の場に持って来るのです。上着はその使用価値以外に
−−つまり、相手の所有物の使用価値だけであるなら窃盗により相手の所有物を手に入れる事でも
  いいが、私の所有物の使用価値も相手にとって必要であると言う事で、相互に所有物を交換す
  ると言う事なのです。私が自分の為にリンネルの使用価値を実現したら、相手にとって困るの
  であり、逆に相手が上着の使用価値を実現したら私が困るのです。私が相手の上着の使用価値
  を実現する為には、まず所有の変更をしなければ成らない。この所有の相互の変更が交換と言
  う事であり、その交換にあたって一着に対してリンネルを何エレ出すのかと言事が、相互に使
  用価値である事とは別のモノが働くと言う事なのでしょう。私が一着の上着を要求し、相手が
  20エレのリンネルを要求する事で、それぞれの数量が規定される。私が、相手の一着の上着
  に対して提出する数量は、あくまでも相手が欲求する20エレ数量と言う事になる。所有者の
  相手のモノを欲する意志は、リンネルや上着が<20エレ、一着>と言う数量分で有用性にな
  ると言う事から生じているのであるが、しかし有用性、使用価値では、両数量には関係が成立
  しない。両者の間の欲求の一致による20エレと一着の上着と言う数量の限定は、それはそれ
  で別に問題無いが、その一致を越えてそこに成立するモノが有ると言う事です。それが一着の
  上着に対して20エレのリンネルと言う数量同志の割合と言う事なのです。割合の20エレと
  一着とが、欲求の二重の一致によって成立していても、その数量同志が割合としてあると言う
  事が問われるのです。私のリンネル20エレ数量分は、相手が使用価値の実現として必要な数
  量であるのだが、相手の一着の上着との交換に提出された20エレ数量であるのです。私にと
  って相手の一着の上着は、あくまでも私が欲しいモノであり、相手は私の20エレのリンネル
  が欲しいと言う事です。そこにはそれぞれの欲求の対象として、そしてその使用価値の実現で
  出来る保温とか、裁縫とかで確立されるモノだが、20エレのリンネルがあり、一着の上着が
  有るのです。それらの欲求を実現するのに、まず手に入れなければ成らず、その手にいれるの
  にちょうどいい相手が目の前にいたと言うのが、今回の事に成ります。今回の例が希なケース
  であっても、しかしそこで成り立つ構造は普遍的な事なのです。つまりリンネルと上着とが、
  それぞれの数量分で<交換された>と言う事なのです。交換された後の所有を変更した両者、
  リンネルはその数量でリンネルとしての使用価値を実現し、上着もその数量で上着として使用
  される。両者を交換しようとする所有者の意志により交換の場に入って来る時、リンネル20
  エレと言う数量と上着一着と言う数量は、その数量が所有した後に有用であろうと言う欲求に
  答えられるモノであるが−−時々体に合わない上着で有る事もあるが−−交換における一着と
  20エレと言う数量比として成立すると言う事です。所有者の欲求は、その上着使用価値を実
  現した時のイメージによって頭の中に成立し、そのイメージが現実化された時、思っても見な
  いモノが見つかることで、新たなイメージの作成とイメージを作る時のイメージ作成能力の開
  発となるのです。その欲求に対応したリンネルや上着の数量は、あくまでもリンネル使用価値
  上着使用価値の数量であり、使用価値の実現の時に一着の上着になったり、身を整える上着に
  なったりしているのです。それが交換により所有の入れ替えを行うのであり、その交換にあた
  って両者が数量の割合として関係を持つのです。使用価値上着が、交換された後に使用価値の
  実現を行うとすれば、交換される時にはその上着が使用価値と同じように持つ<モノ>が実現
  されたものが、相手との数量の割合として示されているのです。上着の使用価値とは、上着に
  作られているリンネルの材質による身体の形に裁縫されたモノとその形による身体への保温と
  を作り出す事であり、そして今日の天気の日に着たときに実現される事なのです。つまりリン
  ネルの自然的材質とその材質により身体を保温すると言う働きを言うのです。あらゆる材質が
  身体の保温を作り出すのではなく、特定の材質が実際に使用され試されて、上着に適用される
  事で選ばれて来たの出す。それは自然に働きかけ、自然を人間の身体化すると言う事なのです。
−−

別のモノを認めざるを得ないのです。リンネルを<交換に値するモノ>とする側面を持つのです。上着には正当な交換と言う手続きを経る事で、初めて成立する側面があると言う事なのです。私に相手の上着が欲しくてたまらないと言う意志があるから、交換をするのであっても、そしてその交換は相手との意志の一致があって初めて成立するのであるが、交換自体が持つ、つまり生産物リンネル、生産物上着の相互性が持つ構造と言う事になります。その構造の現れとして、数量の割合があると言う事なのです。問題は単独のリンネルや上着に対して、両者の交換という相互性の所で、割合としてあるモノが、知覚されるが、では単独のリンネルと上着が、相互性をえる交換に有っては、何故に割合として成立するのかと言う問が出て来るのです。 交換にあって、生まれると言う事では無いはずです。単独のリンネルや上着の<何が>交換にあって割合として成立するのかと言う事なのです。この問は単独のリンネルや上着の<内部>に何かを想定する事ではない。その様に見えるのは、交換におけるリンネルと上着の数量比と言う見える姿に対して、単独のモノは見えない<内部>にあり、それが外部に出て見えるように成ったのだと言う考え方なのです。

20エレのリンネルは、X量の靴墨、Y量の絹、Z量の金と、それぞれの割合で交換されるのだが、割合としては、<20対X><20対Y><20対Z>として成立している。しかしあくまでも<リンネルと靴墨><リンネルと絹><リンネルと金>と言うそれぞれの間の割合なのです。リンネルも靴墨も絹も金も皆別々の使用価値であるが、一つの割合として成立していても、そこから共通するモノが捉えられる為には、新たな過程を経るのでしょう。つまり、そこに20とYと言う数量表示だけがとり立たされているが、リンネルと靴墨と言う別々の使用価値の数量と言う事なのです。牛3頭とリンゴ3個と言う数量が、それぞれ3という数量であるのは、牛とリンゴとが空間を占める個体と言う共通のレベルで認識されているから成立する考え方であるとすると、交換における数量比、割合は、別々の使用価値以外に共通するモノ、第三者のモノが有るからだと言う事になるのです。リンネルが自身以外の多様な商品と交換される事で成立している数量比は、他の商品の数だけの割合があるのだが、しかしそれらを言葉として<交換価値>と規定したから、それだけで共通のモノがあると言う事では無いのです。それは多様な使用価値の違いのモノが、その違いに関わらず皆同一のものであると言う事を示さなければ、成らないのです。数量比と言う事はリンネルと小麦、リンネルと上着、リンネルと金、リンネルとコーヒー、として成り立っていると言う事なのだが、それらの数量比、割合が、二つの商品の間で成り立っていると言う構造としての同一性があっても、ではその二つの間にある共通性としての実対として同一なモノが確定されなければ、単に構造が同一であると言う事で<交換価値>と言う言葉があてはまると言う事ではないのです。

交換関係は等置関係であると言うのは、どういう事なのだろうか。等式の意味が問われる前に、まずこのことの意味が問われなければならない。
「20エレのリンネルと一着の上着とは異なる使用価値であり、この二つの商品が交換されるのはとりあえず、それらが使用価値として異なるものだからです。異なるモノだけでは、それらが等置される関係であるとは捉え事は出来ない。交換関係を等置と考えるのは、すでに異なる使用価値同志に対して第三者が想定されているのであり、それは作業仮説でしかないのです。
交換を等置であると見ると言う事は、その見る事自体双方にそれぞれの異なる使用価値とは別の、両者に共通の第三者が存在すると言う事が含意されているのです。
交換とは、私が所有する20エレのリンネルと彼が所有する一着の上着があり、それを相互に相手の所有物を手に入れようとして自分の所有物を提出する事なのです。私と相手の場合には、相互に欲求が合一した時に交換が成立すると言う事であり、交換が絶えず成立している事は、そこには<欲求の一致>が成立していると言う事であり、もし仮定として「永遠に欲求が一致しなければ、交換など無い」と言う論理を立てれば現実には絶えず交換が成立しているのだから、上の仮定は成り立たないと言う事なのです。あるいは欲求の二重の一致は、直接でなくとも、媒介された一致と言う事になるのです。
欲求の一致と言う欲求のあり方のレベルで交換を考える事は、私達の身体の維持と言う生命活動のレベルで対象を手に入れてそれを食べ物として摂取したり、高い木の枝から実を採る道具として使ったりと言う活動が私達の頭脳の働きとしての欲求から生まれていると言う事を表しているのです。お腹が空いたと言う感性があり、その感性からモノを食べたいのであり、その欲求の実現として<木々に上り><リンゴの実を掴み><採り><食べる>と言う身体活動が出来上がって行くのです。
欲求の一致があるから交換が成立しているのであり、問題は<一致>と言う事ではなくて、その一致で成立する交換の、構造と言う事なのです。私にとって自分の所有物であるリンネルをそのまま裁縫すれば、それはリンネルの使用価値を自分で実現してしまったと言う事であり、相手にリンネルを渡すと言う事は出来なくなるのです。私のリンネルは、相手にとって裁縫するのに<必要なモノ>であるが、私にとっては相手の上着一着を手に入れるのに、その交換として必要なモノと言う事になる。私が所有しているリンネルは使用価値としては、私が使用価値を実現せずに相手が例えば新しい上着を作るのであり、交換価値としては、相手の一着の上着を手に入れるのに交換の手段として実現されるのです。
問題はここから始まる。使用価値としての上着は、私が着用しようと相手が着用しようと人間の身体に即したモノである事から、誰にも適用されるモノなのです。しかし相手が私に無断で自己のモノにとして着用すれば、それとても上着としての着用であり、上着の使用価値の実現なのだが、しかしそれは窃盗になってしまうのです。相手が上着を自分のモノとして着用するには、まず所有を変える事であり、その所有の変更が交換によってなされるのです。と言う事は、私が相手のリンネル20エレを手に入れるのに交換として私の一着の上着を提出する事になるのです。相手のモノに対する<交換として>の一着の上着が20エレのリンネルに対する交換価値となるのです。一着の上着が持つ、交換される相手に対する交換能力は、相手が何であろうと上着に内在する能力と言う事なのだが、しかしその相手が現にリンネルの場合にはその20エレ数量分に対する割合としての一着であることが、上着の交換価値と言う事なのです。上着に内在する交換能力と言っても、何か神の振る舞いと言う事ではなく、上着やリンネルが交換の場に入っていく為の力なのだが、それは所有者同志が自分には無いモノを相手から手に入れる時の相手の所有物に<見合ったモノ>としての自己の所有物と言う事なのです。私達が交換活動を行うのは、相手の所有しているモノの使用価値が、自分にとって必要であるからで、その必要の意志に則って交換をするのです。相手の所有物の使用価値が人々に大変役立つから、私も役立てようとして、それを手に入れようと意志するのです。そしてその意志の実現のために、自分の所有物との交換を行うのです。
私達は、相手の所有であるリンネルの有用性を経験しているのであり−−テレビのコマーシャルとはモノの有用性を歌うのであり、その歌から私達は頭脳の中に有用性の実現のイメージを作り出して、どうしても手に入れたいと言う欲望を作り出すのです−−その有用性を自分でも実現したいと想うのであり、その想いを叶える為には、それを手にしなければならず、手に入れる為に交換を行うのです。現に上着を着用する事で上着のイメージを作り出していき、他者の作った新しい上着が私達に新しいイメージを増幅させる事で、そのイメージを現実化するのにその新しい上着を着たいと想うのであり、着るためにはその上着を自分のモノにしなければならず、自分のモノにするには、相手から手に入れるのであり、手に入れるのに自分のモノと交換するのです。つまり交換と言う活動には、私達の頭の中で成立しているイメージやイメージの実現、相手のモノにたいする欲しいと言う欲求などがあり、それらの意志に媒介されて、私のモノと相手のモノとの交換がなされると言う構造が有るのです。頭の中の意志による交換活動とは、私のモノと相手のモノとの所有の変更であり、頭の中の意志には一連の流れが有るのと同じにモノとモノの間にも交換割合と言う数量関係が成立しているのです。この数量の割合に一定の法則性があるのかどうかと言う事になるのです。
上着もリンネルもその使用価値では個別として実現される。上着は着用する事で、リンネルは裁縫される事で実現されているのです。それに対して両者が交換関係に入るとき、その関係から規定された上着やリンネルを<商品>と言うのです。商品として生産しているキャベツが今年は豊作なために出荷しても赤字になるから、畑でつぶしてしまうのです。キャベツが市場に出ていっても生産にかかった費用を取り戻せないのであり、さらに出荷の費用を新たに出さなければならず、これ以上費用をかける訳には行かないので出荷を見合わせて畑でつぶしてしまうと言う事なのです。キャベツは市場に出荷されても良いのだが、予定している費用を回収出来ないと言う事なのです。商品としてのキャベツは、市場に出ていく事が出来るのだが、ただ費用の回収を考えると、さらなる出費になるから、出荷しないと言う事なのです。それに対して上着とリンネルの交換は、相互に相手のモノを手に入れればとても有用であると判断しているからこそ交換が成立するのだと言う事なのです。消費者はキャベツが欲しいと想っているのだが、ただ安価なら手に入れようと言う事なのです。リンネルやキャベツもそれらを欲しいと想っている事は同じであるが、リンネルは上着との交換で手に入れ、キャベツは貨幣による購入で手にいれると言う事なのです。

私達は他人が使うリンネルの有用性を手に入る相手が、20エレのリンネルである場合には、一着と言う数量として表れているのです。上着の一着と言う数量は、それを着用する人間の身体から規定される単位であり、0.5着と言う数量が成り立たないのは、それでは身体を包む事が出来ないのです。それに対して20エレのリンネルを手に入れるのに交換される上着の一着と言う数量は、あくまでもリンネル20エレに対する交換価値としてと言う事なのです。この交換における上着の<一着>と言う数量は、身体を包む単位としての一着でありながら、交換力の単位と言う事になるのです。使用価値としての一着は、その材質が作り出す身体を包む基本の単位でありそれが同時に交換価値としての基本単位になるのです。後者の場合<上着の一着>が使用価値としてであるのは当然でありながら、それが上着の内実の現象形態、あるいは現実形態としての<一着の上着>と言う事であり、その現象形態である<一着の上着>を交換価値と規定するのです。上着に内在するモノがあり、上着が他者リンネルとの交換関係に入る事で、リンネル20エレに対する<上着一着>と言う姿として現実化するのです。<上着に内在するモノ>と言う言い方は、上着の一着と言う数量とリンネルの20エレと言う数量が作り出す<交換の割合>として表されていると理解するのです。上着の生まれとしての使用価値の一着と言う数量が、やはりリンネルの生まれとしての使用価値の20エレ数量と、所有者同志の交換活動において割合を形成するのです。私も相手も、それぞれの使用価値が欲しいから交換するのであり、私にとって他者のリンネルの使用価値が必要であり、相手は私の上着の使用価値が必要であるからこそ交換が成立するのです。この<他者に取っての使用価値>と言う事こそが問題であり、上着はその材質や形態によってどんな人であっても身体を包み保温すると言う使用価値があるのだが、しかしここでは他者の所有する上着は交換と言う特定の方式に依らなければ、所有を変更出来ないのです。交換を無視すれば窃盗になってしまうのです。所有者以外がその使用価値を実現するのには、まず交換がなされなければならないと言う社会形態にある上着やリンネルのそれぞれの使用価値の実現には<特定の過程>が必要になると言う事なのです。

必要と言う欲求は私達の活動を促す媒介項であり、どんな活動であるかは、モノの性質に依って決まって来るのであり、上着を使用価値として実現するのか、相手のリンネルを手に入れるのに交換として使うかと言う事なのです。上着の使用価値の実現は現に身体に上着をまとい身体の保温と装飾と言う事なのです。身体を保温するとか装飾をすると言う現実の姿は、私達の日々の生活のなかで繰り返されているのであり、夏の保温と冬の保温では、その使用する布の性質が違う事がしめされ、夏用の上着と冬用の上着が作られたのです。上着の使用価値の実現とは、具体的なモノの性質の探求と繋がっているのです。それに対して交換に使用する事で実現される側面は、上のような使用価値ではない事は確かです。交換に使用される上着とは、私が手に入れようとしている20エレのリンネルに対して値するモノとしての一着の上着と言う事なのです。私にとってリンネルと上着とは、それぞれの使用価値としてあっても、私はリンネルの使用価値が目的であり、相手は上着の使用価値が目的であり、その使用価値であるリンネルを手に入れるのに−−そして手に入れた後にリンネル使用価値を裁縫として実現するのだが−−私の使用価値上着を交換に使うのです。この様な交換は上着とリンネルとの役割が違うのであり、そもそも上着の所有とリンネルの所有が分離されていて、その分離の中で、リンネルの裁縫されることで上着が作れると言う点から欲しいと思うのであるが、しかしリンネルは相手の所有であるので、ただ欲しいと思うだけで済むわけではなく、欲しいと思ったら相手に無断で手に入れれば、それは窃等になるが、欲しいと思っているリンネルを、手に入れるのに、私の所有の上着を交換にするのです。この様な交換の中で、上着とリンネルとの交換を両者の間の等置関係と捉える時、リンネルと上着とにそれぞれ内在するモノが、同一の共通性となるのだと言う事なのです。使用価値上着と使用価値リンネルに対して、それぞれに価値があり、それが同じモノ、共通だと言う事なのです。

現に交換されていると言う事が、分析の対象であり、その分析が始まる以前には、相手のモノが欲しいが窃盗するわけにはいかないので、自分のモノと交換する事で、相手のモノを手に入れていると言う事なのです。まず考えられる理由としては、それくらいなのであり、分析的思考は、その様な欲望による交換を前提にしながら、交換される二つのモノに成立している、生産物と言う事実にある構造から解きあかそうと言う事なのです。
交換における数量比と言う現象は、まず上着一着とリンネル20エレと言う別々の単位の数量の割合として成立していると、私達には見えているのです。上着の一着とリンネルの20エレがどの様にして割合となるのかと言うその過程は分からないとしても、それらが互いに相手の所有であっても、使用価値の点では着用できる上着になるのです。その様な上着でしか無いモノが、交換による所有の変化をするのです。相手に渡っても上着は相変わらず上着であり、そこに交換価値があるとしても、それは私の所有の一着の上着の使用価値が相手にとって大変有用であると言う事で、所有が変更になったのだと理解するのです。
別々の単位である一着と20エレとが、交換されるのであり、その様な交換に対して、私達の思考は、一着も20エレも別々の単位としてあっても、それら交換されているなら、同一の数量の単位が成立していると考えるのです。机の上のバスケットにはリンゴ3個とミカン2個があると言う場合、両者は果物と言う同一の単位を考えるのです。体育館には椅子が3脚と5人の人間がいると言う場合、体育館の空間の中に存在するモノと言う単位であり、別々である椅子と人間に対して体育館の空間をしめるモノと言うまとまりを付けているのです。では交換における両者である上着とリンネルは、使用価値としては別々であるが、交換価値としては同一であると言う事なのです。
ここで初めて、理屈が登場するのです。<数量比が現象とするなら、その現象として現れる本質がある>と言う思考と、<その本質が、かかくかく、しかじかのもの>と言う判定なのです。後者の「そのもの」の確定が作業仮説であるなら、前者のような思考に対しても、その思考が果たして正しいのかを明らかにしなければ、作業仮説だからと言う事で、全てが判定出来てしまうのではないのです。リンネル20エレと上着一着の間に割合が成立するのは両者であるリンネルと上着の間に現実に交換が成立している事であり、その交換を量的な側面から捉えたモノが、割合と言う事なのです。交換とは、使用価値としては別々の商品同志が数量の割合を形成する事なのだが、その別々の使用価値と言う規定は、その使用価値とは別の第三者を同一の質として、その同一の質を基準にする事で、20エレのリンネルが同一の質AのX量、一着の上着が同一の質AのY量と言う還元をえるのです。つまり、リンネル20エレと上着一着の間の数量比とは、同一の質AのX量とY量の間の割合と言う事であり、この社会での商品の交換が、多様な使用価値の商品相互を、すべて同一の質の間の量的比率に還元する抽象を実施していると言う事なのです。私達が20エレのリンネルをその使用価値として実現せずに、同一の質のモノ同志の比率として扱っていると言う事なのです。

今扱っているのが20エレのリンネルと言う具体的な使用価値のモノであるが、しかしその使用価値の実現をせずに、単に交換のためにだけ使用されてしまうことで、他者に手渡した後に他者がその使用価値を実現するにしても、私にとっては、相手に手渡すモノとしての20エレのリンネルであり、その手渡す事が、相手の一着の上着との交換と言う具体的活動となっているのであり、交換構造と言う客観的なあり方が成立しているのです。

「共通物」「第三のもの」の存在が交換と言う事態の意味、解釈の問題として述べられ、後段ではこの「第三のもの」への還元可能性が交換と言う共通の場に属する商品の規定性のもんだいとして提示されたとして言ってよい。これを仮説とすれば、何故可能なのか、またどうして必要なのかというと、それは観察者の眼前の交換関係における諸商品の交換比率の変動に一定の基準ないし法則性が存在するからであり、そしてその様な現象を理論的に説明したいと考えられているからです。
交換を使用価値の捨象と規定する事=交換を等置と捉える事であから、交換される二つの商品に共通物がある事が明らかに成るのではない。二つの使用価値に対して、それらの違いを切り捨て、残っているものが共通性となることで、その共通性によって違ったモノが等置されると言う事なのです。
交換されるモノの使用価値が捨象されるのは、共通の使用価値、例えば金との交換に媒介させるなり、あるいは取得費用の様なモノを想定するなりして、共通の第三者を介在させない限り、直接には導出不可能なものであり、その意味で交換を使用価値の捨象とみなす事も、ここではなお仮説をでないものであると見なさなければならない。
交換比率から出発して到達した規定性であると言う事では、これは関係性の内在化として、例えば交換力とでも言うべきものとして理解できる余地のものであったと言って良いようにおもわれるのです。
交換比率は、交換という二つの商品の出会いの所で成り立っているモノです。それはリンネルの20エレ数量が、上着の一着数量に対して作り出す数量関係なのです。私達が自覚しているのは両者を数量として見ている意識であり、その数量もリンネルの20エレと言う大きさなのです。さしあたっては、両者が何を基準にして数量化されて来るのかは分からないにしても、交換にあって価格を介していると言う事が、その数量化の現れと言う事なのです。リンネルが20エレがあると同じ知覚のレベルで20エレのリンネルに2000円と言う価格が付いているからすんなりと交換が成立すると言う事なのです。私達はその価格がなんなのかは、自覚していません。2000円と言う価格が付いているから、1000円紙幣を2枚出して交換するのです。それで20エレのリンネルが私の手に入るのです。何故1000円紙幣を2枚出すと交換出来るのかと言う疑問は成立しないのです。それらの出来事に対して、リンネル20エレに2000円と言う価格が付くこと、そして貨幣と交換できることの構造が明らかにされるのです。貨幣による売買に対して<二つの商品の交換>と言う発想は、一見歴史的な探索に思えるが、それは貨幣による交換の中に成立している単純な出来事を示す為に考えられたものなのです。歴史的には二人のロビンソン・クルーソーによる交換ではなく、共同体と共同体が接する所で成立する物々交換と言う事なのです。ここではその共同体を個人に置き換えて説明しているのであり、個人は現代の貨幣による交換を前提に考えられた主体であるが、主体が問題なのではなくて、あくまでも生産物同志の交換がなされるリンネルや上着の間の客観性が解明されようとしているのです。この解明によって、使用価値、交換価値、価値、価格と言う基本的な概念の定義をしているのです。例えば二つの商品が交換されるとき、両者に交換価値があるから交換されるのであると言う理解の仕方は、両者がその使用価値で有用であるからあいての物が欲しくなってお互いに交換するのであると言う事に対して、価格による交換は相手のモノが欲しいと言う事だけでなく、その価格が付く理屈を説明しなければならず、それが交換価値と言う事なのです。それぞれの交換価値を1000円と価格付けし、他方を1500円と価格付けするのだと言う事なのです。しかし交換価値はその個々の商品に有るのではなく、個々の商品が一着と20エレの割合で交換される、その20エレの数量に対する一着と言う数量の割合である上着の事を交換価値と言うのです。
その考え方は、物理学において成立している考え方を例に出すと理解しやすいのです。物体が一つの場合に、その物体は、等速直線運動を行うのです。その等速直線運動は、現実的には多様な物体の中では相互に働きかけあって円運動や楕円運動のようになってしまうので、成立しないのであり、存在する事が出来ないが、しかしその円運動や楕円運動も、その解明は等速直線運動による運動の概念が確立しないと解明できないのです。つまり、等速直線運動からのずれとして成立するのが円運動や楕円運動であるためにどうしても基準に成るモノの解明がないと次に進めないのです。等速直線運動は、円運動や楕円運動の中に成立している基準の運動であり、だから等速直線運動だけで現実に成立してはいないが、そして全く作業仮説でもなくて、ただ別の形態になって成立しているのであり、その意味でいえばその運動は、現実の運動という事なのです。車が時速20キロで、2時間走ると40キロの距離を進むと言う運動は、一見等速直線運動の様に思えるが日常のそれは静止から徐々に加速して20キロまで速度をあげて、2時間走ると言う平均速度という考えなのです。単独では存在しない等速直線運動も平均速度の表し方と同じであるために、私が隣町までの10キロを早さ2キロメートルで走ると、5時間かかると言う連関、10=2×5 と言う表し方を、等速直線運動と考え違いをしてしまうのです。つまり、物々交換を私と友達の間で行っている事と、歴史的である共同体と共同体の間の交換とが、モノの交換というレベルで同一視されるのです。
この関係性の内在化としての、各商品に内在している同質性としての交換価値、交換力が二様の仕方で労働と関連づけられて規定される事に成っていく。

第一:労働生産物と言う属性が残る。有用性たる具体的労働生産物の捨象として有用的具体的労働も捨象され、そこに残るのは、「抽象的人間労働」と言う事になる。交換関係と言う場を前提した上で仮説されていたと考えられる商品の商品たる規定性としての同質性は、その内容を「労働生産物と言う属性」に求められる事によって、交換関係と言う場で初めて与えられるはずの、商品に特有の関係性を消去されてしまうのです。
リンネルや上着を生産する具体的労働が具体的なのは、リンネルを織る繊維が植物性や動物性と言う内容で有るからで、その繊維の違いが織物と言う労働の具体性になり、織られた布の違いとしても現れているのです。しかしどんなに自然材質の具体性により、リンネルや上着と言う違いがあるとしても、それは生まれたままの自然性なのではなく、その自然性を人間の身体に自然化すると言う事であり、自然を身体化すると言う事を労働が投下されたモノと言う事なのです。当然自然性の違いが、投下する労働の違いと言う事であり、こここそが、リンネルや上着と言う自然材質から出来上がっているモノではない、人間の身体活動としての労働の投下されたモノとしての労働生産物と言う規定なのです。その具体性が捨象されると、そこには具体的労働が、抽象的人間労働となり、リンネルや上着と言う具体的生産物は、どれも同一の人間労働の投下されたモノのとなり、どれも同質になり残る違いは数量と言う側面だけになるのです。問題は、20エレのリンネルや一着の上着と言う具体的生産物にたいして、数量として扱うときには、人間は同一の質を前提にその数量の違いとして扱うと言う思考を具体例として出すことで何もかもが解決されるのではない。具体的なリンネルや上着が、裁縫の対象であったり、織物の対象であると言う所から、単に数量として扱われてしまうと言う事が、どの様にして成立するのかと言う事なのです。それが貨幣による価格表示を介した交換と言う事なのです。
リンネルや上着は、それらが交換関係として成立することで、それぞれ商品と成るのである。そのリンネルや上着が交換関係に入る以前は、それが有用なモノとして使用価値として人間の欲望を充足させる事で、生命活動を維持するのであるが、しかし単に欲求の対象物であるのは、その欲求を実現する為に自然に働きかける活動の対象物でふると言う事なのです。つまり人間の身体活動である労働活動の対象物として有り、その活動の対象物は、そこに人間の労働が労働力として投下されているのです。身体の保温をすると言う事は外気にさらされた身体が受ける寒気に対して、それを不防ぐために火にあたるなりすると言う事が実施されるのであり、その保温の一つとして特定の自然物を身にまとい保温する事で、身体に暖気を感ずる様にするのです。その特定の自然物を加工して身体にまとうのであり、その加工こそを労働と規定しているのです。自然物としての性質による使用価値の成立は、当然それを実現する事で、つまり上着を着ることで保温をするのである。これは私達人間の欲求を充足すると言う事なのだが、しかしその欲求と言う次元は、欲求を充足させる為にそのモノを作らなければ成らないのであり、つくられたモノによってはじめて充足させうる対象物が出来て来るのです。腹が減ったからその欲求を満たすためにモノを食べるのだが、しかしそのモノは突然地中から生まれてきて、口の中に入るわけではなく、例えば木の実なら、木のあるところにいき採取すると言う活動をおこなわなければ成らないのです。それこそがまさに労働と言う事なのです。

<労働生産物と言う属性>は、「使用価値の度外視」と言う操作によって商品体の同質性の規定を与えた事の当然の帰結であると言うべきである。労働生産物に残っているものは抽象的な人間労働力の支出の「凝固物」であり、共通物としてこの様な「社会的実体の結晶」が商品の「価値」であると言う訳である。諸商品の同質的な共通物は、労働の塊の様なものとして、商品体そのものに対象化されて内在するものとして捉えられているのであり、この限りではこの共通物は商品の関係性が内在化、属性化したものと見ることは出来ないであろう。したがって価値をこの様な凝固した労働そのものとして想定する事は、価値概念を、商品の他の商品との関係を規定する関係性の概念としての交換価値から切断して規定するものと言わなければ成らないであろう。
社会的実体と言う言い方に商品を商品たらしめる関係性が直接的に内在していると理解するならば、ここでの労働は商品体そのものに対象化されて凝固している、いわば粒の様なものと理解されているからこの労働の粒事態に商品としての他の商品と関係する性質ないし能力が内在していると考えるほか無い事になろう。この場合には、関係性として仮設されるものではなく、同質なものとしての労働の結晶そのものに商品を商品たらしめる関係力があると仮設される事に成る訳であるが、しかしこの様に抽象的な労働の凝固物そのものに他との関係力があると言う様な事は、仮設としても想定し難いように思われる。
<使用価値の度外視>とは、リンネルや上着におけるその材質による私達にたいする有用性を、保留して考えると言う事です。リンネルや上着の使用価値をその材質が持つ、人間に対する働きかけとする事に特に問題は無い。しかしリンゴは自然の産物として木々に生っているモノであるから、人間に与えら自然の贈り物であると言う事だけなのではない。その自然の産物に対して、人間からの働きかけとしての採取が無ければ手にはいらないモノなのです。他の動物に場合にもそうであるが、自然に対する働きかけにより採取により、食べもを手に入れると言うことであり、人間の場合その働きかけを労働と言う言葉で表すのです。とするとこの労働と言う言葉が表す対象は、生きるために実践している自然に対する働きかけの事であり、人間が生きている限り何処でも成立するモノなのです。社会の状態の違いは、その生きる自然に対する働きかけが、人々の関係によって違った形態になると言う事なのです。
リンネルと言う布と呼ばれているモノが、その自然的材質によって、上着や布団と言うモノに生るモノであるとき、繊維の束として作成されたモノが、さらに織られて布になるのであり、この布は有用な目的物として制作されたモノなのです。この有用性は、その布が私達の生命の維持をする為の特定の側面を媒介するものなのです。私達が身体活動によって繊維に働きかけるのは、その身体活動、つまり労働によって、その繊維に特定の労働力を投入したと言う事なのです。

それを比喩的に語れば次の様になります。私の前に重そうな石があり、それを持ち上げて移動するのは、身体の働きかけにより、力が加わえる事によるのです。この時の私の身体の動きは、持ち上げ様とする石の重さに比例した<力>を作り出しているのです。石に対して<力>を加えると言う事は、その<力>を作り出す私の身体の運動が、接触している手を介して石の運動に関係している事であり、その関係を実体として規定するモノが、<力>と言う事なのです。しかしその<力>は虚空に浮遊している訳ではなく、私の身体の運動が作り出すのであり、さらに石に対する運動として石の重さに対抗して作り出される<力>なのです。

私の身体運動が作り出す<力>は、運動の働きかけられる対象である私の目の前の石に、接触している手から伝達されるのです。石は伝達された<力>によって、運動し続けるのであり、それの理論が等速直線運動と言う事になるのです。この直線運動では、現に運動しているモノが、どうして運動し始めたのかと言う疑問に対して、最初の一撃による<力>を想定するのです。一撃によって加えられて運動主体Aに内在する<力>は、等速直線運動として継続するのだが、それが他の物体Bに接触する事でその物体Bに伝達され、物体Aは静止し、物体Bが運動を始めるのです。運度する物体Aに内在している<力>は、接触により物体Bに伝達され、物体Aと物体Bの自重が同じであれば、<力>を失った物体Aは、静止してしまうのです。物体に内在した<力>を、玉葱の芯の様にイメージしても、それは丸ごとの玉葱が運動していているが、しかし他の物体に伝達されると言う過程があると言う事で、運動する丸ごとの玉葱でありなが、別のものであると言う概念がイメージされたのです。運動する物体に内在するモノでありながら、接触等により伝達され移動するモノとしての<力>は、移動した物体を運動させるのです。物体は運動している限り、内部に<力>を持っているのである。その物体が他の物体との接触の様な関係を形成しないかぎり、内部の<力>は、継続し、継続の間その物体を等速直線運動させるのです。

私の身体運動は、石の運動の原因と言う事です。石にその力が移動した後に、力に見合った運動を継続するのは、石の重さと加えた力の大きさによると言う事なのです。私の存在があり石の存在がある時、私が石に手をかける事で、身体から生み出される<力>が、手をつたわって石に移動する事で、石が移動するのです。この手を介して石に伝わる<力>は、石が移動したと言う事で、示されているのであり、その移動の時間と距離とから、一馬力と言う力の基準が規定されたのです。私が石に対して接触している身体の部分から一生懸命石に力を伝えていても、石に少しの移動も無ければ、私が作り出している<力>は、石の移動を行うだけの大きさでは無いのです。つまり、私達の身体活動が作り出す<力>は、それが身体の各部を介して、接触している物対に伝達されるのだが、石が止まろうとする運動を越えるだけの運動を与えていないのです。その伝達される<力>は、物理的実在であり、接触している他の物体の運動として現れるのです。私の身体活動が作り出す<力>は、身体運動によって成立するのであり、それが他者に伝達去れる事で、他者が運動するのであり、その運動の大きさが、身体活動によって作り出された力の伝達される大きさなのです。実体としての<力>と言う考え方は、多様な形態の物体が運動する時に、その運動の大きさ、つまり量を考える時の、その量の対象として規定されているのです。

単に物体が運動しているよと言う事で有れば、実体としての<力>を考える事は限定されている。等速運動自体が<力>の内在と考えられる。最初の一撃による<力>が単体に入ったので、等速直線運動を行うのです。この運動では運動が始まれは、後は継続し続けるのであり、止まることは無いのです。この運動は等速直線運動であり、他者とのどんな関係もなく、相互に影響がないのです。それが衝突の様に二つの物体が関係する時静止している物体が動き出せば、運動する物体の内部にある実体としての<力>が、静止している物体に伝達され、運動を始めるのです。運動している物体の内部にある<力>は相手の物体の内部にはいり、静止から運動へと言う現れ方をするのです。衝突とか接触と言う関係によって、運動する物体の内部の力は、相手の内部に入り相手の運動として現れ、<力>を失うと、重さが同じなら自分は静止するのです。

その<力>の大きさは、運動の変化を量として表すので、運動の量の確認が出来る事により、その量から伝達された<力>の数量が規定できる事になるのです。単独としての私達の身体活動によって<力>が作り出されると言う考え方は、あくまでも身体と接触している物体の運動して現れていると言う事を思考の対象としている所から生まれているのです。接触している物体同志を抜きに、運動から生み出される<力>を考えるのは、単独同志で有るモノが、接触する事で伝達される力があり、その力によって運動すると言う過程を、一つ一つの過程の積み重ねとして理解しようとするからです。つまり、単独のモノが自らの運動で<力>を作り出すと言う考えは全体の過程を一つ一つ分解して考える所にうまれているのです。石の運動は、石以外の他の物体Aが作り出す<力>が伝達され石の内部に入り運動すると言う事なのです。しかしその物体Aが運動しているのは当然他の物体Bの運動が作り出す力が入ったからと言う事になる。それは無限の連鎖として有るが、この宇宙が一つなら、ビッグバンの時点で宇宙自身の運度から宇宙自身が分裂して個々の物体が運動することになったと言う考え方になるのです。

私達自身、つまり動物はその生命運動の現れとして、他の物体に<力>を加える事が出来るのであるが、自然の物体はその無数の個体の連鎖として<力>が相互に伝達され運動をするのです。私達の宇宙は、その自己運動によって、個々の物体が運動の連鎖を成立させるのであり、運動の連鎖とはまさに<力>を相互に伝達する事なのです。個々の物体に内在する<力>は自身を運動させると同時に、他者に接触して<力>が伝達されその<力>によってその物体も運動をすると言う事なのです。運動を二つの物体の相互関係と考える事に問題が有るのではない。相互関係によつて物体Aも物体Bも運動するのだが、その関係にあっては、物体Aの運動が作り出す<力>が、物体Bに伝達される事がBが運動をしていると言う事です。つまり運動と言う捉え方は、物体AやB自身の個々の運動と言う事であり、個々の物体の中にある<力>を考えるのは運動の原理と言う事なのだが、同時に運動する物体同志が接触による運動の変化を<力>の伝達によって説明しているのです。物体Aが運動によって作り出す<力>が、物体Bに伝達される事で物体Bが運動を開始するのです。
例えば、空間移動としての物体の運動は、物体の早さが時間と距離の比として表されるだけであり、位置変化する物体は、その内部に何か不思議な力を想定する必要がないのです。それに対して早さの変化する加速度運動の場合、時間と距離の比の変動として現れるモノを、加速度と言う数量が運動する物体にあると規定するのです。前者は等速直線運動であり、最初の一撃による力が加わると、後は永遠に等速直線運動を行うだけなのに対して、後者は時間の変化に対して、速度の比率も変化するのであり、それは運動する物体に加速度が加わる為なのです。等速直線運動は、最初の一撃による<力>が内部に有ることで、外部に漏れることなく、等速直線運動をおこなうのです。単体が運動しているのであり、例えば空気中を飛行する場合、その空気が単体に対して抵抗力を与えるものとなり、飛行主体にマイナスの<力>が加わることで、等速を作り出している力が減少していき、速度が落ちるのです。加速度運動は、運動する物体に対してその物体以外の外部から絶えず<力>がへ加わる事で、速度が増加の方向に変化していくのです。最初の一撃がどの様に生じたのかは、差し当たって分からなくとも、その力が加わった物体の運動を、等速直線運動と言うのであり等速である事が、内部に<力>がある事と等価なのです。その最初の一撃による<力>だけであるから、速度は変化せず、等速と言う事なのです。最初の一撃による<力>が加えられたと言う事が言えるだけであり、この宇宙ではビッグバンを考えるのであり、その一撃が宇宙を構成する物体に力を加えるのであり、その力により物体は運動を継続するのです。ただ宇宙では無数の物体が相互に働きかけるから、物体の運動は複雑なモノとなるのです。しかしその複雑さは、単体の等速直線運動からのはずれと言う現象として現れる為に、宇宙には単体などあり得ないのに、無数の個体の相互性であるはずなのに、まず基準としての等速直線運動を把握する事になつたのです。等速直線運動における<力>と<速度>の区別は、そもそもの運動を起こさせるモノとしての単体に加えられる外部からの<力>とその力によって成立している運動と言う区別なのです。それに対して加速度運動では、絶えざる運動の変化は、外部からの絶えざる<力>の挿入と言う事であり、力は、数量的な運動の変化として現れているのです。速度の変化する加速度運動は、一定時間の間に移動する距離に間に一定の増加があり、その増加を考える時、外部からの力を想定しなければ、その一定の増加の説明が出来ないのです。

運動するのは個別のものであり、その相互に運動する個別が、接触によって関係するとき、それぞれの運動として現れている<力>が接触を介して伝達するのです。地面に置かれた50センチ四方の鉄塊を動かそうとして手で押す時、身体運動が作り出す<力>は、接触している手から鉄塊にはいる。鉄塊の自重と地面に接地している事で生まれている抵抗力に打ち勝つとき、鉄塊は地面を動き始めるのです。鉄塊には地球の回転運動として現れている引力による<力>と地面接触による抵抗力Bが内在していて、その力に対して接触している手から押す<力A>が入ることで、力の数量関係が、A>Bとなれば、鉄塊は動き始めるのです。地面に置かれている鉄塊は、その場所に有る事なら、静止している事なのだが、しかし地球の中心に向かって落ち続ける運動をつくる<力>と地面が支える力とか均等に成っている為に、静止として現れているのです。力とは現に運動している物体のその運動の原因であり、運動の継続の原因であり、地面に置かれている鉄塊が、地面に有り続けるのは、鉄塊を引く地球の引力と地面が押し上げる力とが等価になっているからです。

労働生産物に累積している抽象的な人間労働、この労働の粒自体に商品として他の商品と関係する性質ないし能力が内在していると考えるほかない事になろう。この場合には、同等性が関係性として仮設されるのではなく、同質なものとしての労働の結晶そのものに商品を商品たらしめる関係力があると仮設される事になる訳であるが、しかしこの様に抽象的な労働の凝固物そのものに他との関係力があると言う様な事は、仮設としても想定し難い様に思われる。
労働生産物Aは、それに凝固している抽象的人間労働によって、労働生産物Bに凝固している抽象的人間労働を介して労働生産物Bと商品関係を結ぶのである。A生産物はそれに内在する凝固した労働とB生産物に内在する凝固した労働とにより、両者が交換関係を結ぶのです。単独の労働生産物リンネルには織物労働が投下され凝固し、上着には裁縫労働が投下され凝固している。その各労働生産物に投下された具体的労働の凝固体が、抽象的人間労働の投下された凝固体と成ることが、両者に商品の交換関係の成立なのです。二つの生産物が商品としての関係を結ぶとは、両者が交換されると言う事なのです。交換は、生産物を所有している者同志が、自分になはなくて相手が持っているモノを欲しいと思う欲求から始まるのです。相手の所有する上着が手に入れば、自分の身体を保温する事は明らかだから、何とかして手に入れようと言う事で、交換が始まるのです。交換は、自分の欲求を叶える方法です。ただ自分の欲求を叶えるなら相手にだまって上着を失敬すればいいし、相手が宗教心から上着を施してくれればいいのです。欲求を叶える色々な方法が有り、それの一つとして交換があると言う事になります。
私も彼も相手の所有物がとても有用であると考えているので、その有用性を自分の為に叶えたいから、手に入れたいと思うのです。まず生産物上着が自分の身体を暖めるのに有用である事から、その有用を実現する為に、つまり実際に着用する為には、それが自分の身体のそばに無ければ成らないのです。ただそのそばにあると言う事は、自分の目の前のショウウインドーに飾れている上着と言う事ではなく、自分のモノにしたと言う事なのです。自分のモノにする前に試着する事で分かる事は、その商品としての上着が、有用であるかどうかと言う事なのです。ただこの試着が上着の有用性が明らかにされても、つまりとても着心地がいいとしても、そのまま自分のモノでは無いのです。上着の有用性は、その上着の材質が人間の身体にたいしてどのくらいなじんでいるかが考慮されたかどうかであり、それは自然物質と人間の身体との関わりでしかないのです。それに対してその上着が、自分の所有であるか彼の所有であるかと言う事は、社会的な事柄なのです。上着の有用性は、それを着用すれば私の身体を暖めたり、飾ったりする事で表されるのであり、その現実化される有用性があるから、私は上着を着たいと思うのです。しかし私が着たいと思っていても、今その上着が彼の所にしかないので、自分の手にするには、どうしても相手の所有を変更しなければならないのです。それがこうかんと言う事なのです。上着に使用価値がある事とその使用価値の実現の間に、交換と言う過程が成立しているのです。私には上着を着たいと言う欲求が成立し、自分に上着があればそのまま着用する事で、欲求が叶えられるのであるが、私に無ければ、その上着を探さなければならないのです。さがしていた上着を彼が持っていれば、そこで彼からその上着を手に入れたいと言う欲求が成立するのです。手に入れたいと思うのは、その前に着用すれば有用であると言う思いがあるからです。しかし手に入れたいという欲求を実現するにしても、相手に黙ってすれば、窃盗になり、相手が恵んでくれれば、それは施しになるのです。つまり、単に手に入れたいと言う欲求でなら、どんな方法かは区別しないのだが、ここでは特定の方法が規定され、それが交換と言う方法なのです。手に入れるのに使用される方法として<交換>が成立するとき、この手に入れると言う欲求を叶える特定の方法とは、お互いが所有するモノを交換すると言う事であり、相手の所有物に見合ったモノとして自分の所有物を提出すると言う事なのです。
相手の所有物である一着の上着との<交換に見合った>モノとしてのリンネル20エレと言う事なのです。 い一着の上着と20エレのリンネルが交換される事を両者の間に交換と言う商品関係が成立しているのです。ただし、一着の上着と20エレのリンネルが交換されるのは、それぞれの所有者が相手のモノを欲しいと思っていて、その思いを叶える為に自分の所有物との交換がなされると言う事なのです。交換とはまさにこの所有と欲求のレベルの事であるが、交換にある両生産物に内在するモノとしての抽象的人間労働の凝固物と言う規定は、その欲求による交換がなされる舞台装置に他ならないのです。
つまり、上の言い方には注意が必要になります。<甲により、乙になる>と言う言い方は、「乙に成る」のは乙以外の甲の働きかけによると言う言い方です。甲の働きかけが無ければ、その主体は乙には成らなかったのだと言う事なのです。リンネルと上着のそれぞれに内在するモノが有るから、両者は商品関係になると言う言い方です。
<私がその石の塊を手で押したから、石が動いた>と言う言い方がある。それは私の押すと言う運動が石の運動に関わるのです。私の運動が作り出しているモノが、手を通じて石に伝達されると、石の運動が始まり私の運動が止むと言う事です。私の手から石に伝わったモノは、しかし何か得体の知れないモノではなくて二つの運動する物体が衝突したとき、一つの物大が停止し、一つの物体が運動すると言う形態に対して、運動によって形成された私の中のモノが、手から石に伝わり、石の運動に現象した、石の運動が始まったと考えるのです。石がなかなか動かないのは、石をとどめようとする力に対して、私の運動が作り出す手から伝わる力が量として少ないからであり、やっと動いたのは、その力が逆転したからなのです。単に運動を考える事、さらに運動から静止への変化を考える事、この違いとは、運動が作り出す主体に内在する<力>が他の物体に伝達されると、たの物体が運動を始めると言う、運動の変化を明らかにすることなのです。石と言う物体の運動自体が内部に<力>を作りだし、接触によりその<力>が他の物体Cに伝わると、<力>はその物体Cの運動として現れるのです。さらに運動している物体Cが物体Dに接触するとCの運動として現れている<力>が、物体Dに伝達され、Dが運度をはじめると言う事なのです。物体が一つの場合、当然他の物体との影響が無いためにその運動が作り出す力によって等速直線運動を行うのであり、それは停止する事は無いのです。運動している物体がたの物体に衝突などして、その力を移動する事で運動が止むのです。運動は力の現れであり、力が加わった物体は、静止から運動への変化をするのであり、物体同志が衝突するのは、運動として現れている<力>が、衝突により他の物体に伝達され、他の物体の運動として現れる事なのです。
物理学での<力>は、その力を内在している物体の運動として現れる事であるのに対して、交換における各生産物の抽象的人間労働の凝固物の内在は、欲求による所有物の交換が、その内在するモノを持つ各生産物の構造の上で成り立っていると言う事なのです。私の欲しいモノを相手が持っていて、それを手に入れて使用すればとても有用であると言う事なのです。上着は身体を保温するのに有用であり、着飾るのにすてきであると言う事です。この上着についての規定は、上着が作られ身体を保温して来たと言う歴史の中で明らかにされ継続されてきた考えであり、だから今の私達はその考えを受け継ぎ、上着を手に入れようと言う欲求を作り出していくのです。自分で上着を裁縫すれば、そのまま自分の為に使用するのであるが、私は布を織ることが出来るだけであるから、どうしても他者の所有の上着を手にいれる以外ないのです。その使用価値を実現するためにはまず手にいれなければならず、そのために自分のリンネルと交換するのです。彼の裁縫した上着が私に有用であると思われたとして、現に着用すればその使用価値が実現されて了解出来るのです。しかし彼の所有の上着を黙って持って来てしまえば、それは窃盗となってしまうのです。そこで一定の手続きを経た上での所有の変更をするのであり、それが交換と言う事なのです。上着は私にとっても彼にとっても使用価値であるのは、上着が全ての人間の身体の保温をするからです。しかし相手の所有している上着に使用価値があるといっても、まず私のモノにしなければ成らないのです。使用価値が無ければ欲しいとも思わないのであるが、使用価値が有るからといっても、そのままでは私のモノにならないのです。つまり上着に使用価値がなければ、私達の欲求が成立しないが、使用価値があるからと言っても、まず私のモノにしなければ成らないと言う事です。上着やリンネルの使用価値とは、それが私達の、使用する事で実現される色々な成果を得るはずの欲求に答えるかどうかと言うことであり、それを前提にした上で、一着の上着と20エレのリンネルが交換されるのです。上着やリンネルにある使用価値とは別に有るはずのモノを仮に価値と呼ぶとすると、一着の上着が持つ価値に見合ったモノとして20エレのリンネルを交換に出すのであり、その提出された20エレのリンネルを、交換価値というのです。
リンネル(使用価値、価値)、上着(使用価値、価値)と言う規定に対して、一着の上着=20エレのリンネルと言う等式が、両者にある共通なモノとしての価値により成立している。この等式は、リンネルと上着と言う使用価値としては別々のものが、価値としては共通であると言う事を表している。一着の上着=一着の上着 と言う等式は成立しない。等式は、別々のモノが、共通のモノを持ち、その共通のモノが<=>で表されていると言う事です。この等式は、両者を見おろす位置から見られたモノであるが、さらに上着の位置、リンネルの位置から捉える必要が有るのです。それが使用価値を考えると言う事なのです。使用価値である限り、上着の材質の身体に与えるモノ、リンネルの材質の身体に与えるモノにより有用性が決まるのです。その使用価値リンネルを所有している私と使用価値上着を所有している彼がいるのです。私が相手の一着の上着を要望する場合、それに見合ったものとして自分の20エレのリンネルを交換に出すのです。交換に使う20エレのリンネルは、しかし私がそのまま使用価値として実現してしまえば、交換に出す事は出来ないのです。私のリンネルは相手にとっての使用価値の実現であり、相手の上着は私にとっての使用価値の実現なのです。私が自分の所有のモノの使用価値を実現してしまえば、交換の為には使えないのです。つまり、リンネルも上着もその材質により布として服として使用されるのであり、けっして交換に使用されるモノとしてでは無いのです。それが相手の上着を<手に入れる>為に、交換として20エレのリンネルが使われるのです。交換が成立するのは、私が相手のモノを欲しいと思い、相手が私のモノを欲しいと思うと言う欲望の二重の一致であり、だから私と彼との間で成立するのです。お互いが相手の生産物に目を向けるのはそれを使用価値として実現すればとても有用であると思うからです。生産物が使用価値として成立するのはその自然的材質が私達に有用であるからです。ではその生産物が相互の交換として成立するのは、その生産物のどんな性質によるのかと言う事なのです。
それは私が使用できるのは自分の所有物だけであり、彼が使用できるのは彼の所有物だけであると言う人々の社会関係の中で、私が生産し、彼が生産するモノが、裁縫労働の成果と織物労働の成果としてあるからです。その社会関係が、私の裁縫労働や彼の織物労働を介して、その投下された凝固体に性質として現れているのです。つまり、上着もリンネルも交換の為に使用できるのは、それらに現れている私達の社会関係が労働をを介して現れているからです。私と彼との間の社会関係こそが、私や彼の労働の成果である生産物に投下され、凝固した労働として現れているのです。しかしこの考え方は、一つの結論なのです。その結論を導く考え方の過程のそれぞれを明らかにしなければ成らないのです。
さしあたって、相手の所有物に使用価値があるから欲しいと思い、その欲しいモノを手に入れるのに交換により実行するのです。私は自分のリンネルの使用価値を実現せずに、交換に出すのです。この時リンネルは私にとっては使用価値の対象ではなく、交換の為のモノとなるのです。そこでその性質が分からないとしても仮に<価値>と規定します。私が一着の上着を手に入れるのに、上着との交換として20エレのリンネルを使用価値ではなく<価値>として実現するのです。私がリンネルを持っていてもそこに<価値>があると言う事だけであり、<価値>の実現をするかどうかと言う事なのです。<価値>の実現とはまさに交換をしたと言う事なのです。さらにこの交換に有っては、相手の一着の上着を手にいれるのに、一着の上着の<価値>に見合ったものとして、一着の上着の価値に等価なものとして、20エレのリンネルを提出したのです。20エレのリンネルは、価値の実現として成立し、その実現された価値を交換価値と表すのです。
20エレのリンネルの使用価値を実現すれば、成人用の一着の上着を裁縫できるのです。しかし使用価値の実現しない交換に有っては、20エレのリンネルは相手の一着の上着の価値に対するものとして交換価値になるのです。リンネルの20エレ数量分は、自らの価値の実現されたモノと考えられそうだが、あくまでも相手との交換として実現される<価値>の現実態としての交換価値である<一着の上着>と等価なものとしての自己の価値の現実態としての交換価値である<20エレのリンネル>と言う事なのです。リンネルに価値が有ったとしても、それが現実になるには、相手の価値の現実態としての<一着の上着>交換価値に等価である事でしか成立しないのです。上着の使用価値の実現とは、現に着用していると言う事で、体が暖かく成っていると言う事です。それに対してリンネル<価値>、上着<価値>の実現とは、服が着用される様に現に交換されると言う事である。しかし<リンネルと上着が価値であるから、交換される>と考えてはならないのです。交換とは、所有者同志が自分に無いモノを相手から手に入れる時の<手に入れ方>であり、相手のモノを手に入れるのに交換として自分の所有物を提出すると言う事なのです。当然相手も私の所有物を手に入れるのに交換として自分の所有物を提出するのです。そこで初めて相手の一着の上着を手に入れるのに、その一着の上着が持つ価値に見合うモノとして、自分の20エレのリンネルを交換価値として提出するのです。
今回の場合には私と相手とが<欲求の二重の一致>により、交換が出来たのです。この交換が出来ている構造こそが明らかにされるのです。裁縫労働の成果としての上着と織物労働の成果としてのリンネルは、それぞれ使用価値として成立しているのです。しかし私と彼とは所有者としては分離されている。私が相手の上着が使用価値としてはとても有用であると考えて、その使用価値を実現する為に、つまり着用する為に身体の側に置かなければならず、他者の所に所有物としてあるモノを、自分の所有にすることなのです。自分の所有にする為にどうしても手元に置きたいと考えるのです。手に入れる為の動機は、着用すればとても暖かそうと言う私の判断です。しかしとても暖かそうと言う判断は、他人のモノであろうとショーウインドウに飾って有るモノであろうと着用すればすぐ実証出来るのだが、その上着を自分のモノにするには、窃盗と言う訳にはいかないのであり、正当な手続きを経ると言う事なのです。それが自分のリンネルを提出する事で一着の上着を手に入れると言う、交換と言う事なのです。<欲求の二重の一致>とは、私が一着の上着か欲しいと言う事と相手が20エレのリンネルが欲しいと言う事で、私が欲しいモノを持つ手いる彼と彼が欲しいモノを持っている私とが、交換をすると言う事なのです。と言う事は、私が欲しいモノを彼Aが持っていても、彼Aが欲しいモノを私が持っていない場合、私と彼Aとの間には交換が成り立たないのです。しかし私がどうしても彼Aの所有している上着を欲しい場合、私と彼A以外の他者の所有物との交換を介して、最終的に上着を手に入れる事になるのです。私の欲しい上着を、彼Aが所有していても、
交換は、欲しいモノを所有している相手との直接なものか、第三者を介しての媒介なものかと言う事だけであるが、この交換は私にしても彼にしても、上着やへリンネルの使用価値の<実現をしたい為には、それを手にしたい>と言う欲求があるから始まるのです。しかし交換が始まれば、一着の上着と20エレのリンネルが交換されるのです。私が欲しい上着は使用価値として実現する為であるが、そこでは私が実現する使用価値上着を一着手に入れたいと考えているのです。使用価値である一着の上着に対して<手に入れるモノ>としての一着の上着があり、その<手に入れるに値するモノ>として私から<20エレのリンネル>が提出されるのです。一着の上着が着用される事でその保温性が明らかになるのなら、私は現に着用すると言う事であり、着用する上着が無ければ、自作してそれを着ればいいのです。それに対してその上着を彼が所有していれば、それをもらって着用する事が出来るのです。ただそのもらい方として、窃盗でもなく譲渡でもなく恵みでもなければ、一着の上着と交換にモノを相手に渡す事が出来るのです。一着の上着は、私が手にいれるモノであり、窃盗ではそれで終わりだが、交換では、一着の上着を手に入れると同時に20エレのリンネルを手渡すのです。私が彼の所有の上着を手に入れようと思うのは、その上着の使用価値によるのであるが、そしてその思いはまだ思いだけの次元でしかない。その思いをいざ実現する段になると、手に入れるのに値するモノとしての20エレのリンネルが交換の場で対応するのです。使用価値上着とは別なモノの実現として、20エレのリンネルが示されるのです。交換の場においては、20エレのリンネルは、一着の上着の使用価値以外の<価値−−名付ける事とする−−>に値するモノとなるのです。この<値するモノ>を交換価値と名付けるのです。つまり、交換の場にあっては、一着の上着の価値に対して20エレのリンネルは交換価値となるのです。
上着所有者が交換の場に出て来る時、上着はその使用価値−−上着はとても身体の保温に有用であると言う事なのです−−によって他者を引きつけるのであるが、そして引きつけるから他者がその上着に欲求を抱くのです。しかしその欲求は上着の使用価値の実現によって叶えられるものであり、着用すれば<暖かい>と言う気持ちになるのです。いまはその使用価値の実現をおこなう以前であり、一着の上着がもつ価値の実現として、20エレのリンネルが交換価値として対峙するのです。これがリンネル所有者としての私と上着所有者としての彼Aとの交換と言う構造に他ならないのです。私も彼も使用価値の実現と言う欲求に従った交換行為なのです。私達の欲求と言うレベルであれば、上着もリンネルもその使用価値だけでいいのだが、特定の交換行為であれば、リンネルも上着も、自身の使用価値以外の価値を想定せざるを得ないのです。
私達の商品世界では、商品はリンネルと上着と言う生産物を、その所有者が相互交換する事で成立するのです。個体としてのリンネルや上着とは、その一つの形が人間の身体の保温として有用であると言うことなのであり、有用性が働く単位とし成立することで、個体と言う規定をえるのです。その個体であるリンネルと上着が、相互に交換される時、私達は、両者の間に交換関係があるというのです。この「両者の間にある交換関係」を更に分析すると、両者のリンネルと上着のそれぞれに内在する<モノ>が、共通性を持つと言う事であり、単に一つ一つのリンネルと上着のそれぞれに内在するモノがあると言う事ではなく、それが<共通性>を得ると言うことなのです。当然共通性とは、両者の相互関係と言う事なのです。共通性はまさに関係であり、関係が成立するとは、両者のそれぞれに内在するモノに<共通性>が出てきたと言う事なのです。

<リンネル・Aと上着・Aとが、そのAを共通する事で、交換関係を結ぶ>と言う言葉は、現に人々の欲求による交換活動がなされている事に対する説明として成立している。交換はあくまでも人々の欲求によるのです。ただその欲求を作り出す人々が私有者として分離されているからこそ、欲求の実現には当然の特定の実現過程があり、その特定の過程が生産物リンネルや上着が作り出す交換関係として理解できるのです。リンネルと上着との交換は、交換されたモノを使用する事で上着やリンネルの使用価値と同時に共通性としての価値の存在を規定するのです。
一着の上着=20エレのリンネル と言う等式は、別々の使用価値としてのリンネルと上着とが、共通性としての価値によって出来上がっていると言う事です。ただしこの等式はその共通である価値によって交換が成立していると言う交換の原因を言おうとしているのではない。交換は所有者同志が所有という事で分離されている人々の相手のモノをほしいと言う欲求によってなされているのであり、その交換の構造が明らかにされようとしていると言う事なのです。私達の欲求によって成立している生産物相互の交換活動を構造として静止的に把握したものなのです。その構造には所有者同志の所有としての分離とその分離が作り出す労働生産物の特性とが表される事になるのです。
そこで問題になるのは、この構造の把握をする事で、私達の得ている構造についての知が、どんな知としての働きをするのかと言う事なのです。つまり、交換関係が使用価値として別々であるリンネルや上着に共通性としての価値があると言う事を知っている事から何が生まれるのかと言う事となのです。単にリンネルにも価値があり、上着にも価値がある<から>等式になる交換が成立すると言う事では無いのです。
つまり、共通性が出てきた<から>関係が形成されたと言う事ではない。二つのモノの存在に対して、両者が関係を形成するとは、その構造として内在するモノ同志が共通性を得ていると言う事なのです。しかしリンネルと上着とが交換されるのは、それぞれの所有者が相手の所有物が有用であると思っているからであり、その有用性を実現する為には、まず相手の所有物を自己の所有物にしなければならず、その為に自己の所有物と交換するのです。これは、所有者同志が私的所有者として分離去れているにも関わらず、相互に働きかけなければ生きていけない存在として有るのが、人間であるからです。人間同士の特定の分離形態、つまり特定の社会形態にあって、その形態の上で、相互の働きかけが、生産物を商品として交換するものとして現れているのです。
私が一人の単独者で有れば、全て自給自足であり、だから交換などと言う事も成立しないのです。この交換の際、相手の一着の上着との交換に見合う数量として、こちらは20エレのリンネルを提供するのです。リンネル所有者にとって相手の上着が欲しいのであり、上着の所有者にとって相手のリンネルが欲しいのです。ここでそのお互いが欲しいと思っているモノが有って交換が成立するのに対して、その交換では更に数量の割合の決め方がとわれるのです。今の例としての「20エレのリンネル=一着の上着」と言う交換は「所有者同志の欲望の二重の一致」によっているので、自分が所有している数量が、相手の欲しい数量となっているので、相手の欲しい数量と自分の提供する数量が一致しているのです。その一致がリンネルにも上着にも当てはまるので、交換が成立するのです。
リンネル所有者にとって、自分が欲しいのは上着所有者の一着の上着であり、上着所有者にとって自分が欲しいのはリンネル所有者の20エレのリンネルであり、その希望を叶えることが、「20エレのリンネル=一着の上着」と言う交換式なのです。一着数量も20エレ数量も、それぞれの数量は、相手の欲求する数量と言う事なのです。欲求する数量は、それが手に入り使用すれば、保温としての価値を実現し、大人用の一着の上着を裁縫する価値を実現する量なのです。各所有者の欲求と言う主観は、主観という根無し草の様に思えても、その欲求による身体実践としては、上着を着用するとか、裁縫すると言う現実的な行為なのです。つまり、欲求は、リンネルや上着と言う対象物の材質が身体を保温するとか、保温する為の上着を裁縫すると言う、対象的な判断なのだが、しかし実際に着用したり、裁縫する事で、その判断が実現されると言う事なのです。対象的なものが、まさに身体に同化されたと言う事なのです。その同化により、さらに身体を保温する材質の探求がなされ、新しい材質のリンネルが作成されると言う事なのです。欲求は私達の意志の問題なのだか、しかし意志は意志による身体活動という過程として成立しているのです。自分が手に入れた上着は、今日の天気であれば保温として有用であるが、もう少し寒くなると、この上着では寒いのです。上着は現にある私の身体を保温し、暖かくしている事で有ると共に、身体が得た知識により、上着を更新し続けるのです。
私は相手の所有物上着を一着欲しいのであり、相手は私の所有物リンネルを20エレ欲しいのです。これで有れば、一着も20エレも欲求に規定された数量である事が分かります。この数量はリンネルや上着がその使用価値を実現するのに必要な量と言う事なのです。しかしその必要な数量であるにも関わらず「20エレのリンネル=一着の上着」と言う交換関係に有っては、各数量は別の規定を得る事になります。それが、相手の一着の上着を手に入れるのに、こちらとしては、その一着の上着に見合ったモノとしての20エレのリンネルであると言う事なのです。「リンネル20エレ」と言う数量は、手に入れようとする<相手の一着の上着>との交換に見合ったモノとしての数量なのです。相手の所有する<一着の上着>は、その使用価値を実現すればとても有用である事が分かるものなのだが、その使用価値の実現のまえに、まず私の所有にしなければならないのです。<一着の上着>の何に対して、交換に見合ったモノ=20エレのリンネル となるのかです。さしあたって、その<何が>は分からないとしても、交換に見合ったモノ=20エレのリンネルを、交換価値と規定するのです。「20エレのリンネル=一着の上着」と言う交換関係にあっては、20エレのリンネルは、相手の一着の上着に対して、交換価値となるのです。交換にはいる以前の20エレのリンネルはその数量で、使用価値を実現する待機領域に入っているのであり、又交換が終わったあとでは、使用価値が実現されるのです。そのリンネルの20エレ数量分が、相手の一着の上着に対する交換価値として現れるのです。どう考えても20エレのリンネルは、そのままでは使用価値であるにすぎないのに、交換においては、その姿のままで<一着の上着>との交換に値するモノ、つまり交換価値となるのです。
私達は自分達の欲求により、リンネルや上着の使用価値を要望するのだが、しかし自分のリンネルの使用価値の実現せずに我慢して、交換に使おうとするのは、相手の要望の対象である<リンネル20エレ>−−両者に欲求があるから、相手のモノを欲しいのであり、欲しいから交換をするのです。使用価値は交換の場で絶えず正面に立っているのであり、ただ交換が終わらない限り、使用価値の実現が成立しないと言う事だけなのです−−が、交換の担い手であるからです。交換の担い手としての<20エレのリンネル>は、一着の上着に対しては<20エレ>であり、10ポンドのコーヒーに対しては<30エレ>が担い手になるのです。 担い手であるかぎり、リンネルが担うモノは、リンネル自身ではないが、リンネルが20エレと言う数量として現れるモノなのです。<担う>とは、例えば以下の様に考えてみます。A地点からB地点に移動するのに汽車を使う時、私達の存在と私達を乗せる汽車の区別であり、移動するのはあくまでも汽車であるが、汽車が担う私の存在は、汽車がB地点に移動する事が同時に私がB地点に移動したと言う事なのです。この場合の<担う>は、汽車と私の身体とが同じレベルにあり、移動する汽車に接地するように私の身体が有るために、つまり移動する事であるかぎり、私の身体は汽車と同じレベルの存在なのです。それに対して、使用価値リンネルが担うモノは使用価値リンネルの社会的存在と言う側面なのです。
使用価値リンネルが有りそれが特定の織物労働の製品であり、裁縫されて上着に加工される事で完結するリンネルは、同時に織物としての数量分が、交換に有っては重要であると言うことなのです。そしてその社会的存在と言う側面は、実現されては成らない使用価値としての<20エレのリンネル>として現れるのです。交換された後の<20エレのリンネル>は、裁縫労働により秋用の一着の上着を作ることが出来ます。
「20エレのリンネルが、<交換に必要なモノを担う材質>として現れる」と言う論理は、裁縫労働により秋用の一着の上着を作る事が出来る存在としてのリンネルが、交換に必要なモノとしての別の存在者を担うと言う事なのです。私達が荷物を背負う時、私の背中に荷物を乗せると言う事であり、私の身体と別の存在である荷物の特定の位置関係があると言う事です。使用価値リンネルが担う交換に必要なモノは、しかし荷物の様な存在物ではないのです。

そこで次のように問うのです。
(1)ではその使用価値リンネルが担う別の、交換に必要なモノとは何でしょうか。
(2)あるいは、使用価値リンネルはどの様にして担うのか。
(3)交換における客観的構造とは
  (2)の場合、リンネルは、20エレのリンネルと言う数量が問題であり、リンネルを10エレでは交換が成立しないと言う事であり、リンネルだから数量ならどれくらいかは、関係ないと言う様には成らないのです。数量分が問題となっているのです。この数量は、20エレのリンネルなら成人用の一着の上着が裁縫出来ると言う事ではない。交換価値の数量と言う事なのです。一着の上着との交換に交換価値のある20エレのリンネルが提供されると言う事なのです。この交換価値は、リンネルの使用価値では無いモノと言う事であるが、しかし<20エレのリンネル>と言う特定の数量の使用価値とは無関係なモノと言う事ではないのです。それは、<20エレのリンネル>が交換価値としても成立すると言う事です。リンネルの一着の上着との交換に有っては、それぞれ交換がすめば、上着として、リンネルとしての使用価値が実現されるのです。リンネルは裁縫されて衣服になったり、上着は身体の保温となるのです。使用価値は実際に使用される事で実現されるのに対して、交換過程にあるリンネルや上着が、相互に数量の割合として示される事でリンネルと上着にある交換される性質が表されたと言う事なのです。リンネルや上着のある特定の性質が<上着一着>と<20エレのリンネル>の割合として表されていると言う事なのです。一着の上着に対するリンネルの20エレと言う数量を、その一着の上着に対して交換価値と規定するのです。交換された後に裁縫される事で一着の上着になりえる数量としての20エレは、しかし交換の過程では、一着の上着に対する交換割合=交換価値として表されていると言う事なのです。一着の上着を作成するのに布としては、リンネル20エレを使用すると言う数量は、子供の服なら18エレ分で十分であると言う事で、その布としての物理的な広さ、大きさの問題なのです。それに対して交換過程にある数量は、広さや大きさとしての20エレのリンネルであるにも関わらず、交換に値するモノとしての数量なのです。
リンネルと小麦とは交換されないとしたら、所有者同志が相手の所有物を欲しいと思わないと言う事であり だから<欲しい=上着を着用すれば、身体が保温されるようだと言う思い>と言う欲求がないから交換行為が行われないと言う事なのです。寒い思いをしているので、身体を暖めるモノとして上着と言う衣服を作りそして着用すると言う事に対して、その思いに裏打ちされて裁縫労働で上着を生産するのです。この様な生産の中で、身体を保温するのに上着が有用であると言う経験とその上着が、私には無いので自分の為に手に入れたいと言う欲求が生じているのです。その様な生産のなかで私達の頭脳に生じた欲求が、交換と言う行為を実行させるのです。そしてこの交換が客観的な構造をしていて、その構造に則って交換がなされるのです。
(3)の構造とは特定の過程を静止的に把握したモノであり、その過程が交換される両者の数量の割合として成立していると言う事なのです。この両者の数量の割合は、使用価値リンネルと使用価値上着の、それぞれの数量として表されているが、使用価値と言う言葉は同じでも、衣服と布の違いであり、全く別々のモノが数量の割合となっているのです。上着も布も、私達の生活の中での、それぞれの位置があり、それぞれの役割を担っているのであり、<担っている>と言う事を使用価値と言う言葉で表すのです。つまり、上着にしてもリンネルにしてもそれぞの材質が、私達の生活を担っているのであり、けっして何か突き放したものなのではなく、人間に有用であると言う事なのです。だから上着もリンネルも使用価値であると言う事はただ私達に有用であると言う事を示しているだけであり、その<有用である>と言う視点と<どんな>有用性かが、リンネルや上着と言う言葉として表されている事を知らなければ成らないのです。とすると、数量の割合として現れている、使用価値リンネルと使用価値上着との共通するモノは、何になるのかと言う事なのです。それは両者とも労働の投下されたモノと言う事です。リンネルも上着も、私達の活動に有用であると言う事では、リンネルや上着と私達のあり方との関係を示しているが、その様な関係のレベルではなく、リンネル自体、上着自体を考える時、それらは私達の生きた労働の投下され凝固したモノと言う事なのです。

相手の一着の上着を、上着として使用する為には、相手に黙って窃盗して自分のモノにすると言う事も成立する。その他に譲渡してもらうと言う事も成立する。この「手に入れる」と言う事は、例えば木々に生っているリンゴの実を手に入れるのに、木に登りもぎ取る事で、手に入れると言う事で有れば−−普通それを採取と言う労働と規定する−−自分の所有物との交換で手に入れると言う事でもあるのです。そこには、一定の手続きがあります。交換の場合、お互いに相手のモノに<見合ったもの>であると言う事なのです。つまり、相手の一着の上着を手に入れるのに、私のリンネルがどうして20エレなのかと言うことなのです。そこで数量の割合が 一着の上着=20エレのリンネル と−−決まり方がどうであろうと−−決まった場合私のリンネルの20エレと言う数量分が、一着の上着との交換に見合った数量と言う事になるのです。この<交換に見合った>と言う規定こそ、一着の上着がもつ価値に等価な価値としての20エレのリンネルと言う事になるのです。20エレのリンネルは、一着の上着との交換に値するものとしてあるのです。使用価値としてのリンネルや上着ではなく、労働の凝固したものとしてのリンネルであり上着と言う事なのです。使用価値リンネルも上着も、それを作り出す材質に規定された労働形態がある。リンネルは織物労働であり、上着は裁縫労働であると言う事なのです。裁縫労働により布を衣服に作りたてるのであり、布と言う特定の材質に投下された労働は、裁縫と言う労働なのです。使用価値としては、特定のモノであり、他の使用価値と相互に区別去れている。裁縫や織物と言う労働が、労働の具体性であり、その具体性は、同時にリンネルや上着と言う具体的労働物としてあると言う事なのです。

ただ個体に内在する凝固した抽象的人間労働が実体として成立する事で、諸個体は関係するのです。リンネルは特定の自然材質を織る事で、布にするのです。布に投下されたモノは、具体的な織物労働の凝固したものです。その具体的労働が、抽象的人間労働になる時、二つのものは商品としての交換関係を形成するのです。具体性が抽象性になるとき、思考で有れば、具体的なモノのなかにあるモノが共通となるとき、その共通のモノが、抽象として捉えられるのです。リンネルにある共通以外のモノは、リンネルに特有なモノとしてリンネルだけのモノになる事で、その特有なモノを排除する事で、抽象がえられるのです。私達の目の前にリンネルがある。例えば別々の使用価値であるリンネルと上着があり、その両者のそれぞれの中に凝固している抽象的人間労働を実体としての共通性を持つ事で、商品となり、交換関係を形成するのです。上着は生まれとしては人間の身体を保温するのであるが、その上着には凝固された抽象的人間労働が有ることで商品となり、やはり抽象的人間労働の凝固したリンネルが商品として、相互に交換関係を形成するのです。リンネルも上着もそこに実体として有る抽象的なモノにより、商品として交換関係を形成する。リンネルと上着との交換関係は、リンネル自体と上着自体の間で成立している。リンネルも上着もそれぞれの材質により使用価値として実現されるのであるがしかし上着もリンネルも商品として交換される時、両者が交換に入る以前があり、その以前のリンネルと上着がその内部の<力>により、交換に入ると言う事です。「その<力>には、交換される能力がある」と言う言い方は、交換されない場合も有るのだから、交換されなかったリンネルにあるはずのその<力>は、どうなってしまったのかと言う事になります。その答えとして、リンネルや上着に内在している<力>が有るにしても、有ることが問題ではなく、そのあるモノが実現すると言う事が重要なのです。交換とはその<力>の実現なのです。その<力>の実現は、リンネルと上着の所有者が、自分には無いモノを相手が持っていて、その相手の持つモノがとても有用であると思っているから、その思いを叶える為に、相手のモノを手に入れる為に交換すると言う事で成立するのです。自分に無いからと言っても、特に必要であると思えないので交換はしないと言う事もありうるのです。交換は両者の欲求によって実現されるのだが、ただ一定の手続きを経た上であり、その一定の手続きがどんな構造の上で成立しているのかが分からなければ、私達の欲求と言う主観だけにしか目がいかない事になるのです。天地の始めから、沢山のロビンソン・クルーソがいて生産物を相互に交換して生きていたと言うことになるのです。

使用価値リンネルや使用価値上着は、その材質により私達の活動に有用であると言う事なのだが、しかしこの有用性は生産の成果としてのリンネルや上着なのです。使用価値と言う側面は、しかし持って生まれた材質なのではなく、私達の活動に関わるモノとして規定されている。例えば鍬や鍬などは、その材質と形態により田を耕すと言う労働を手助けするものであり、鍬としての使用価値を実現しながら、田を耕し農産物を生産するのです。栽培され収穫された大根やキャベツは、その材質により食べ物と言う使用価値を表し、私達は大根やキャベツを食べて、生命活動を継続していく事になるのです。

商品の交換は、例えば20エレのリンネルと一着の上着との間で成立している。その二つは、両者の数量の割合として成立しているのです。一着に対して20エレが関係し、20エレに対して一着が関係すると言う様に、相手に対する自己の数量と言う割合として成立しているのです。両者が交換おいて数量比として関係する時、リンネルの20エレ数量は、その数量のまま、一着の上着に対する割合として現れるのです。20エレの数量は裁縫すると大人用の一着の上着に成るのであるが、しかし交換においては相手の上着の一着との割合として現れているのです。別々の使用価値の数量であるモノに対して、それらの使用価値以外の第三者を共通なモノの割合として現れているのです。「20エレのリンネル」も第三のモノの特定の数量として、「一着の上着」も第三のモノの特定の数量として現れているのです。
交換の場に有るのは20エレのリンネルと一着の上着で有るが、しかし両者は共通する<第三のモノ>の<数量分>の現れとしているのです。後者の数量分とは、20エレが、例えば一時間の労働によって生産される量であれば、その時間による生産力が、20エレの数量として現れていると考えるのです。一方では第三者のX量がリンネルの20エレ数量として現れ、他方第三者のX量が一着の上着として現れているのです。単に一着の上着の生産なら、裁縫するのに時間がかかっても一着は一着です。ただ今度のお祭りの正装に間に合わないと言う事だけであり、お祭りの後に保温として着用すればいいのです。それに対して交換におけるリンネルの20エレ数量は、上着の一着に対する割合として成立しているのです。両者が交換されていると言う事で有れば、お互いに納得して交換されているので有れば、両者はそれぞれ第三者のX量と言う事なのです。交換とは、<リンネル20エレは第三者のX量><上着一着は第三者のX量>と言う事なのです。
そこで、20エレのリンネルと第三者のX量との関係が問われるのです。20エレ数量は、その数量有れば一着の上着がつくれると言う事なのであるが、その前に繊維からリンネル20エレ分を織ったと言う事なのです。その分量を織るのに1週間なのか1カ月なのかは、さしあたって関係ないのであり、どちらにしてもその数量は有限の時間が費やされたと言う事だけです。その20エレの織り時間が問題になるのは、時間の単位による織り数であり、一着の上着としか交換できない20エレ分が、4着の上着との交換量としての80エレが生産出来るようになったと言う事なのです。リンネルはその大きさが数量であり、上着は人に着用される事で一着、二着と言う数量なのです。しかし裁縫技術等の開発による時間当たりの生産力の結果としての20エレのリンネルと一着の上着に成る事で、リンネルも上着もそれぞれの数量が増大するのです。そこには一着の上着が、リンネルとコーヒーとお茶等との交換の出会いが増すのです。
第四章 価値の概念と社会的必要労働
価値と価値の実体と価値の形態の間の基本的な関係についての考え方の問題点を検討し、その事を通して労働価値論の理論的意義を確定し直す事が本稿の目的になる。
<価値><価値の実体><価値の形態>と言う三つの語彙として個別化されているものがあり、それらの間の関係を問うのです。この三つの語彙としてあるものは、それぞれ概念を表しているのです。その三つの語彙の間にある関係は、その語彙に表されている概念を問う事になるのです。三つの概念があると言う事では無い。三つと言う数量はあくまでも語彙としての三つであり、三つの語彙として表されている<認識=概念>があると言う事なのです。語彙の三つから概念の三つと言う事には成らないと言う事です。<価値>と言う言葉に表されている概念を調べ<価値の実体>と言う言葉に表されている概念を調べ、<価値の形態>と言う言葉に表されている概念を調べる事で、その現れを関連づけるのです。
1:価値と価値の実体と価値形態
マルクス労働価値論は、商品の価値の形成実体をその商品に支出された抽象的人間労働であるとする価値の質的規定論と、商品の価値量はその商品の生産に要する労働時間によって規制されるという量的決定論からなりたっている。
「資本論」冒頭の賞品論の叙述によりながら、三概念の連関についての原形的な考え方を確認する事から始める。
<価値の概念とは何か>と言う問いは、「価値」と言う語彙が、概念の表現として在る事を短絡させた所で考えられたモノです。表現レベル−−インクの後としての文字、コンピューターのフォントとしての文字−−として表れる<価値>と言うその語彙と、その語彙に表現にされる認識としての概念の区別なのです。とすると、「価値とは何か」と「価値の概念はなにか」とは違った問と言う事になります。そしてそれは、<価値>と言う言葉が指示する対象は何であり−−対象の特定です−−、その対象についての認識−−言葉に表現されている認識として概念と言う事です−−が何であるかと言う事になります。この<対象−認識−表現>と言う過程に対して、価値という語彙は、まず文字、フォントであり、このレベルで初めて三つの語彙と言う数量になるのです。しかしこの語彙としての数量に対して、認識としての概念を同時に数量として扱う事は出来ないのです。三つの概念があると言う事では無いのです。
価値と価値の実体について
両者の区別:一つの商品の諸交換価値の観察と二つの商品の交換関係の観察とから諸交換価値を一つの共通物に還元しうることを述べ、商品から使用価値を捨象した後に残るものとして労働生産物という規定を取り出すのです。残された労働生産物という規定を更に探求すると、リンネルを作る労働とか上着をつくる裁縫労働と言う規定も捨象されているので、残っているのは、無差別な人間労働の凝固物であるのです。
商品上着、リンネルに対して、その使用価値を捨象するとは、上着としての有用性やリンネルの有用性では無いという事であり、その有用性を考慮に入れないなら後は、リンネルと上着の交換関係において成り立つモノとは、何があるのかという事になるのです。<捨象>という言葉は、今の場合リンネルと上着とが交換関係にある場合、その関係がその使用価値の違いによって形成されているという事ではなく、使用価値はその交換関係に形成に、本質のレベルで関わっていないという事なのです。しかし私が相手の所有している上着を欲しいと思うのは、その保温性によって着れば暖かいだろうとおもっているからです。有用性がなければ、交換したいとは思わないという事で、使用価値を抜かす訳には行かないのです。所有者の交換の動機は、意志は、各商品の使用価値という側面で有ることは間違いない。意志や動機は、私達が交換を実行す際の導きと成る事は確かだが、しかし問題はその意志を介して実行される<交換>という事の構造という事なのです。私達には脳細胞の働きとして意志とか観念が成立するが、その働きはこの身体の活動として、つまり話すには口の働きとして書くには手の働きが必要であり、意志はこの身体全体の働きが関わるのだという事なのです。
そこで交換の構造として、リンネルと上着の使用価値では無いモノとして、使用価値の考慮外においた後に残るモノが、その使用価値以外の第三者が想定されているのです。使用価値というタマネギの皮を剥いていくと後には何も残らないという発想ではないのです。現に私達の所にはリンネルと上着という交換があり、私達はそこで成立している交換の構造を明らかにしようとしているのであり、ここでは研究の対象が有ることから全てが始まっているのです。捨象を、玉葱の皮を一枚一枚剥いていく比喩では語れないという事になります。リンネルも上着もその材質から使用価値があると言えるのであるが、交換を構造として捉えるとき、使用価値は本質ではなく、第三者がそれにあたるという事なのです。

これらのモノが表しているのは、ただその生産に人間労働力が支出されており、人間労働が累積されている事だけである。この様なそれらに共通な社会的実体の結晶として、これらのモノは価値−商品価値である。
裁縫労働という具体的労働の凝固したものとしての上着と、織物労働の凝固したものとしてのリンネルという労働生産物に対して、交換関係にあってはこの具体性が捨象されて抽象的人間労働の凝固したものとなるのです。具体的労働の凝固したものとして、それらは使用価値であり、抽象的人間労働の凝固したモノとして価値という事なのです。布や衣服としての上着もリンネルも、それら労働の凝固したものという事なのです。具体的労働の凝固したものとして使用価値であり、抽象的人間労働の凝固したものとして価値なのです。裁縫労働という具体的労働により繊維物質を加工して、リンネルを作るとき、その裁縫労働と裁縫労働の投下されたものであるリンネルの区別なのです。
価値の実体と言うのは対象化されている労働の凝固物の事ではなく、価値を形成する労働の事である。「諸価値の実体をなしている労働は、同じ人間労働であり、同じ人間労働力の支出なのです。」「流動状態にある人間の労働力、すなわち人間労働は、価値を形成するが、しかし価値ではない。」マルクスは、労働と労働の凝固物を区別し、前者を価値の実体、後者を価値そのものと考えているのです。
流動状態、生きている状態の労働を、なぜ<実体>と呼ぶのかと言えば、その労働によって加工された上着、裁縫労働による上着とは、その生きた労度が、対象化され、凝固されたモノだと言う事なのです。私達の目には、繊維物質により編み上げられた、手触りのある布であるが、しかし労働の凝固物であると言う事が、私達の生命の維持をする為に身体活動を介して働きかけられた物質と言う事を言おうといているのです。その労働生産物として労働の凝固されたモノに対して、生きた労働のとる論理的関係を示すのが、<実体>と言う言葉なのです。
生きた労働と投下された労働の関係は、二つの商品リンネルと上着の交換関係と、関係と言う論理のレベルで考える事ができる。二つの商品の場合、その二つが、使用価値として別々の上着とリンネルのそれぞれに内在するモノを共通性とする事で関係するのであり、使用価値として別々のモノに、共通するモノがある事で、その共通性のモノを介して、個々のリンネルと上着が関係すると言う事なのです。そして別々の使用価値に対して、それらに内在する共通性あるモノを、実体と言うのです。別々である事に対して、同じものとして実体と言う事なのです。
とすると生きた労働と投下された労働とは、生命を維持する活動を行う生き物としての人間が、自然物に働きかける事で、自然物を人間の生命の維持に使おうとする事であり、その自然物が人間の働きかけで、生命の維持に有用に成ることなのです。この有用である自然物は人間の働きかけが投下されたと言う事であり、人間の存在と例えばリンネルと言う布との二つの個体の間に関係が出来ると言う事なのです。二つの個体としての人間とリンネルは、生きた労働と、その労働の投下され凝固した労働と言う事なのです。
リンネルと上着のそれぞれ内在するモノが交換関係を形成するのではなく、内在するモノが共通と成るで、リンネルと上着とが関係するのです。投下された労働

価値の量規定の考察を進める過程で、価値概念に労働の直接的な対象化ないし凝固物という観点とは異質の観点を持ち込む事になっている。
商品の生産に個別的に支出される直接的な労働の量が、その商品の価値量を決めるのではなく、「社会的に必要な労働の量、すなわちその使用価値の生産に社会的必要な労働量」と言う考え方を提起した。
上着の使用価値の生産にあって、裁縫労働による上着の加工により一着の上着が完成したとしても、一着の上着の使用価値は、実際に着ることで明らかになり、身体が保温されれば、それは使用価値が実現されたと言う事になるのです。その時、上着の加工にどれくらいの時間がかかったかは、使用価値には問題がないのです。早く作るために手抜きをして、一二度着たら壊れてしまった、それは見た目に上着らしいと言うことでしか無いのです。使用価値に有っては、投入された労働時間は関わらないのです。しかし価値のレベルに成ると、労働の継続時間が問われるのです。価値はあくまでも、具体的な有用な労働の捨象として、抽象的人間労働の凝固物で有るからです。価値が使用価値の数量比として、つまり交換価値として表れている。生産物の数は、加工時間によって決まるのであるが、ただ上着加工労働としての裁縫労度の具体性ではなく、抽象的人間労働の時間と言う事になる。裁縫労働の具体性は、のろのろした裁縫でも一着は一着であるが、しかし価値量を形成する労働時間は、その様な個々の具体的労働の平均化された時間と言う事になるのです。
商品とは生産物が他の生産物との交換関係と言う一種の社会的な関係のうちにある、生産物として存在するものであるから、商品の分析を生産物の交換関係から出発させたのは当然である。しかし 価値は諸商品の交換関係の中にあらかじめ隠れて実在していた訳ではない。内属性として捉えられた価値対象性の特徴を、それ自体としては「つかまえようがないもの」であると言う言い方で表現し、この様な価値は他の商品との交換関係においてはじめて認識できるもので有る事を、価値は他者によって表現され、他者として現象すると言う言い方で表現して、この他者による価値の表現形態ないし現象形態の事を価値形態ないし交換価値と呼んでいるわけである。
生産物が商品として交換関係に入ることで、生産物に内属する価値が、相手の商品としての生産物の使用価値と関わる事を、内属しているモノから見たとき、現象形態、表現形態と概念化されるのです。リンネルの価値が、相手の一着の上着の使用価値で表現されると言う時、原物である使用価値上着は、保温性のある一着の上着は、その姿のまま、リンネルの内属する価値の、外部に現れた姿と言う事になります。リンネルの価値も上着の価値も、交換関係のうえにあるリンネルと上着に内属するモノであるが、しかしその内属する価値も、20エレのリンネルと一着の上着との数量比として表れているのです。リンネルの価値は、相手の一着の上着の価値に等価である20エレのリンネルとして表れているのです。つまりリンネルは、自らに内属している価値を、相手の一着の上着の価値に等しいモノとしての20エレのリンネルとして表すのです。ではリンネルは自らの価値を相手に関係なく自らの20エレのリンネルとして表す事はできるかと言う問が成立する。この20エレのリンネルは、そのもって生まれた使用価値であるから、自らの価値を自らで表す様に見えるからです。しかしこの20エレのリンネルは、交換相手の一着の上着の価値に等しいモノとして有るのだから、それは生まれたままの20エレのリンネルと言う事では無いのです。相手の価値に等価なモノとしての20エレのリンネルと言う事なのです。相手の一着の上着に等価な形態である20エレのリンネルとなることで、同時に自らの価値を表しているのです。自らの価値を相手の価値に等価な自らの20エレのリンネルで表すとき、20エレのリンネルを交換価値と言うのです。一着の上着の価値に対して、20エレのリンネルを交換価値と言うのです。二着の上着の価値に対して、40エレのリンネルを交換価値と言うのです。つまり、リンネルの価値が内属として有るにしても、その価値が直接20エレのリンネルや40エレのリンネルの交換価値として表れていると言う事ではなく、一着の上着の価値に等価であるモノとしての20エレのリンネルであることで、初めて自らの価値を20エレのリンネルとして表すのです。持って生まれた20エレのリンネルが、一着の上着の価値の等価形態である事で、はじめて自らの価値を、20エレのリンネルとして表すのです。つまり内属する価値を外部に表したモノとして、一着の上着の価値に等価である20エレのリンネルを交換価値と呼ぶのです。

第二部 「資本論」の価値論の諸問題
交換価値はある使用価値と他の使用価値との交換比率として表れるものとして規定される。この交換比率は変動している。交換価値は、商品と商品の関係の概念であり、その関係を抜きにして、個々の商品にいわば絶対的に内在する交換価値と言う言い方は成立しないように見える。
使用価値は、直接的には交換価値が表される質量的土台です。交換価値と言う現象形態を通じて、価値と言う本質を規定するのです。交換価値は、さしあたり、或る種類の使用価値が別の種類の使用価値と交換される量的関係・比率として現れる。
リンネルの交換価値、上着の交換価値と言う事であり、一着の上着に対して、リンネルは20エレ数量が交換価値となり、20エレのリンネルに対して上着は一着数量が交換価値となるのです。つまり相手の数量に対して、自己の数量分が交換価値と成るのです。リンネルの交換価値は、相手の上着の数量に対する自己の数量比として現れている。
20エレのリンネル=一着の上着、X量の小麦=一着の上着、から一着の上着に対して交換価値として20エレのリンネルとX量の小麦が成立している事に対して、リンネルと小麦に<同じ>交換価値があると即断しては成らないのです。一着の上着との交換に対して、交換するモノとして20エレのリンネルとX量の小麦とは使用価値として全く別物で有りながら、20エレのリンネルとX量の小麦とは、交換価値であると言う事なのです。いまここで<交換価値>と言葉にしているがそれはあくまでも20エレのリンネルやX量の小麦が、一着の上着に対しての数量である事をその様に呼ばれているのであり、使用価値の違いであっても、数量の違いだけであると言う点で同じモノとして交換価値と銘々しているだけなのです。
20エレのリンネルはその数量分で大人用の一着の上着を裁縫できるのであるが、交換にあっては相手の一着の上着との交換を可能にする能力が姿を見せているものとして<交換価値>と規定するのです。つまり交換に入る前にリンネルに内在しているモノと言う想定をして、その内在が相手の一着の上着との交換にあたって<20エレのリンネル>が適していると言う意味で交換価値と命名されたのです。この内在するモノと言う想定は、現に成立している交換に対して、その交換の場に入ってくる以前のリンネルのあり方として交換に入る能力を考える所に生まれているのです。
その内在する能力が発揮されて相手の一着の上着に対して、20エレのリンネルと言う姿として対峙したのです。その対峙している20エレのリンネルを交換価値と呼ぶのです。交換される能力と20エレのリンネルと言う姿が交換価値であると言うこの関連は、リンネルは自身のその能力により交換の場にでる能力と現に特定のモノと対置している事の区別であり、相手と20エレのリンネルとして対置している時の20エレのリンネルを交換価値と呼ぶのです。
リンネルに内在するモノと言う考え方は、リンネルが他の例えば上着との交換関係に入る為のリンネル自身にある能力と言う事であるが、しかしその能力も実際に交換されたと言う事後から、事前を考えていることから生まれて来たのです。交換価値としての一着の上着に対するリンネル20エレ数量と言う リンネルに内在する交換される能力とは、リンネルが私的生産物として成立していて、他の私的生産物とは交換を介してしか関わらないと言う事を、個々の生産物の能力として規定されたモノなのです。その能力はリンネルがその材質によって衣服の素材になる能力があると言う思考であり、その素材の能力は、私達の身体を保温すると言う有用性として使用価値であり、使用価値は実際に衣服としての着用で保温されるのであるが、交換の為の能力は、交換に入る事と実際に相手を選んで相互に数量として対置する事で成立しているのです。その実際に相手と対置している時の自ら数量と言う姿を交換価値と言っているのです。使用価値の場合のリンネルの素材がしめす有用性と同一の論理としてリンネルの持つある特定性として交換能力を規定するのであり、その属性は使用価値を形成している属性たる自然材質ではない、労働生産物と言う属性になるのです。この労働生産物と言う属性による交換能力が、相手の一着の上着に対して交換価値20エレのリンネルとなったのです。
20エレのリンネルが一着の上着に対して交換価値であり、X量の小麦が一着の上着に対して交換価値なのです。20エレのリンネルとX量の小麦に使われている<交換価値>と言う言葉は、しかし両者は別々の使用価値として有るのにも関わらず、同一なモノとして交換価値と呼ばれるものがあると言う理解になっています。今の場合<交換価値>と言う言葉は、20エレのリンネル自体やX量の小麦自体が相手の一着の上着との交換関係から規定されている事を対象としているのです。交換関係によって規定されている20エレのリンネルを交換価値と言うのです。リンネルと上着の間に成立しているこの交換関係は、リンネルにも小麦にもある自然属性ではなく、労働生産物と言う属性を同一の共通性とする事で成立している関係なのです。この関係は、所有の交換と言う事であり、私と彼がその所有物を交換すると言う事で、私が上着を所有し、彼がリンネルを所有すると言う事なのです。その私と彼の間に成立している交換活動を、リンネルと上着と言うモノの間の現象として扱うのです。交換活動は、私達の意志活動であり、私が彼の上着を欲しいと思い、彼が私のリンネルを欲しいと思うことで、両者に交換活動が成立するのだが、その意志活動が、リンネルや上着と言う対象物を介して成立する事を、リンネルと上着の客観的構造として明らかにしていくのです。その意志活動とリンネルや上着の間を繋ぐものとして、私達の生命を維持する為の労働活動の対象化されたものとして、リンネルや上着があり、そのあり方を労働生産物と言う言葉で表しているのです。
さて、20エレのリンネル=一着の上着 と言う交換関係にあって、一着の上着との交換として20エレのリンネルを交換価値として提出するのです。今ここでは、交換されるのは何でもいいと言う事ではありません。20エレのリンネル自体が交換価値であり、20エレのリンネルの内部にある何かの<特性あるモノ>によって交換価値なのではないのです。一着の上着との交換関係にあって20エレのリンネルが交換価値となるのです。と言う事は、X量の小麦=一着の上着 と言う交換にあっても、X量の小麦が交換価値なのであり、小麦もリンネルもそれぞれの数量で交換価値であっても、それは概念のレベルでの同一性なのです。

「山田和夫」と言う文字が、名前であり、「山田瑞季」と言う文字も名前である事に対して、それが<名前=A>と言う同一性と個々別々の<名前=B>であると言う事なのです。<名前=A>は、全ての人々が持つ共通性であるのに対して、<名前=B>は、一人一人の個別の人指示しているモノなのです。前者が一般性を表し、後者が個別性を表しているのです。前者の一般性である概念を<名前>と言う言葉で表し、後者の個別性を「山田和夫」と言う言葉で表している。問題は後者の「山田和夫」と言う言葉を、日常の中で名前と言う概念の現実態として使用しているのです。この人に対して<名前として>「山田和夫」を発声するのです。概念のレベルは、概念の現実態と言う形態として現れているのです。私達がこの人には「山田和夫」、あの人には「山田瑞季」と言う事で、名前と言う概念とその概念の現実態を理解しているのです。
<特定の個人>に対する文字<山田和夫>の示す指示関係のうち、<山田和夫>と言う文字を「固有名」と言い、<特定の側面>を介して一個の生の人物が指示されるのです。一個の生の人間には多様な側面があるが、その一つの側面が認識として成立する事、その側面認識と一個の生の人間に対する認識と<山田和夫>と言う文字に対する認識とが統合されることで、名前と言う言葉が成立している。文字<山田和夫>が指示するのは、一個の生の人間の何が対象とされるのかと言う事なのです。それは一個の生の人間の<一個>と言う側面なのです。その「一個と言う特定の側面」が認識として成立し、その認識が<山田和夫>と言う文字に表されている。文字に表されている概念認識の現実形態としての表現なのです。インクの跡としての<山田和夫>と言う文字は、生の人間を指示するのだか、私達は認識として頭の中に<一個>と言う側面が成立しているのです。その認識を媒介にして<生の人間>と<山田和夫>と言う文字が、関係を結んでいるのです。その認識に媒介された<生の人間>と<山田和夫と言う文字>とを、固有名の名指しと言う指示関係と言うのです。<生の人間>と<山田和夫>と言うインクの跡とが、関係を結ぶと言う時、<生の人間>の<一個性>と言う側面についての認識が、その両者の間を指示関係としてつなぐのです。私達の目の前にいる生の人間に対して、文字山田和夫が、生の人間を対象にした<一個性>と言う私達の頭の中に成立する認識を介して関係を結ぶと言う事です。