読   書   日   記

-------------2004年12月10日---------------

観念論ってなに? オックスフォードより愛を込めて・富田恭彦・講談社現代新書


第一章 記号としての世界
ジョージ・バークリー 1685年3月12日 アイルランド生まれ
1709年:視覚に関する新たな理論に向けての試論・視覚新論
1710年:人間の知識の諸原理についての論考・原理
1713年:ハイラスとフィローナスの三つの対話・対話
バークリーの「記号としての世界」と言う考え方。神の存在証明
****存在証明の考え方:****
 無限遡行を避けると言う理論です。自然界に見いだされる動くモノは、全て他のモノに動かされる事によって、動いている。この原因としての動かすモノが動くためには、更にそれを動かす別のモノを必要であるとすれば、限りなく別の動かすモノが必要となるが、これを無限に遡るのは不可能である。だから、この因果系列には、第一原因として、それ自身は他のモノに動かされる事なく、他のモノを動かすもの、つまり「不動の動者」たる神が存在しなければならない、と言う説明なのです。
 アンセルムの説明:神を「神よりも大きいものが考えられないモノ」と定義して、もし神が、考えられるだけで現実に存在しないとすれば、「それよりも大いなるものが考えられない」と言う定義と矛盾する事になり、だから神は存在するのです。

人間はその髪の毛の色や背丈と言う感覚知覚で捉えられる存在と同時に、何かを考えたり、感じたり、何かをしたりする者なのです。バークリーは、これを「魂」と言ってみたり、広い意味で「考える者」と言う言い方をするのです。その考える者は、直接には知覚されないのです。
何故他者が、モノを考えたり、感じたり、何かをしようとしていたりするのが分かるのだろうか。それは他者の表面に現れる行動や表情や発言を通してですね。
人間にとって魂はこの身体の内部にあり、身体の変化を表情といい、内部の魂により身体の表情が成立してくるのです。この魂と言う内部に対して変化する身体が外部と言う事になる。問題は内部と外部は、例えば家の内、外とは、家という建物の壁や屋根や床と言う面が境界となり、内外が区別されるのです。身体の内外を考える時、胃とか心臓を内蔵と言い、爪を外部と規定するのは、この身体の皮膚を境界としているからです。しかしその境界たる皮膚も、その厚さから、内部があり、皮膚の表面は境界であると同時に外部であると言う事なのです。皮膚の表面が外部と内部の境界であっても、境界には特定の大きさが有るわけではない。外部たる空気に接触している面が境界であるとすれば、表面積と言う広さはあっても、面という厚さの無い所が境界となるのです。魂にとっての外部は、やはり皮膚であり、その魂が内部から、皮膚で包む身体の活動の変化を指示していて、魂は頭脳細胞−−身体の内部と言う意味を持ちながら−−の活動として、その身体の活動を導いているのです。魂は脳細胞の働きと切り放せないから、脳細胞が頭蓋骨の中に有ることを考えれば、頭蓋骨の中にある脳細胞に対して、魂も内部にと言う事になるが、ただ脳細胞自身が魂とは言えないのであるから、内部と言う意味に特性がある事になる。外部としては、この身体の活動として表されていると考えるのです。
直接知覚されるのは、魂が働いた結果とととしての、身体のある在り方である。その結果の推論によって直接知覚される事のない、原因の存在を知るわけである。感覚では知覚出来ないモノの存在を、直接知覚されるモノから推論する事が出来るのです。「結果」として直接知覚されるものから、「原因」としての、直接知覚されないものが知られると言う訳である。この場合、直接知覚されるものは、直接知覚されないものの「しるし」なのです。例えば、黄色いリボンが<しるし>となって、愛する人が自分の帰りを待っている事をしるのです。
彼女が彼をまだ待っているなら、家の屋根に黄色いハンカチを掲げていて欲しいと言う二人の間の約束に対して、今屋根の上に黄色いハンケチが掲げられているのを確認したら、その確認により、約束が実行されている事を知る事になるのです。現に彼の目に見えているのは、直接に知覚されているのは、屋根の上に掲げられている黄色いハンカチであるが、その掲げられている黄色いハンカチは、特定の「しるし」としてあると言う事です。赤ではなく、黒でもなく、ピンクでもなくと言う次元では、黄色が選択されているが、特に黄色いハンカチであることに、二人の趣味とかの理由が在るにすぎないのです。問題はそれが屋根に掲げられていると言う事であり、掲げているか、掲げていないかの二者選択であって、その選択をするのに、人間の意志が関わっていると言う事なのです。隣の家の屋根には黄色いハンカチが掲げられていないと言う否定で語られるモノではないのです。祝日の日に日の丸の旗が掲げられると言う約束が社会的に出来ていれば、日の丸の旗が掲げられていないと言う事が言えるのです。今の場合には、彼と彼女との二人の間の約束であって、隣家人はその約束に無関係であるから、掲げられているとか掲げられていないと言う事には、全く無関係なのです。しかし事実として隣家には黄色いハンカチが掲げられていないのではないかと反論するなら、無限の事実をどうして取り上げるのかを示さなければならないのです。何故なら隣家の入り口には花が飾ってないと言う事も事実でと言う事になり、一々その事実を取り上げる理由が見あたらないのです。それに対して彼女の家の場合には、その理由があり、その理由に照らし合わせて、肯定も否定もされる言説が成立するのです。
黄色いハンカチは、タンスの中に在っても良いし、洗濯機の中に在っても良いのであり、その場所はハンケチの日常のあり方によって規定されているにすぎないのです。それに対して、そのハンカチの使い方について二人の間で特定の使い方を約束したのであり、それが彼をまだ持ち続けているなら、黄色いハンカチを屋根に掲げていてくれと言う約束なのです。とすると、屋根に黄色いハンカチが掲げてあれば、それは彼女が彼をまだ待ち続けているよと言う意志の表示であると言う事なのです。
掲げられた黄色いハンカチが、<しるし>であると言いたいのなら、二人の間の約束と言う意志の実現としての掲げであり、その約束を抜きに掲げられている黄色いハンカチを、しるしと言う訳には行かないのです。単に洗濯をしたので太陽に照らして乾かす為に掲げていると言う事で済んでしまうかもしれないのです。この場合掲げられた黄色いハンカチに対して、太陽に照らして乾燥させると言うしるしを表すと言う事であるなら、単に自然現象の一連の流れでしか無いと言う事です。掲げられたハンカチは、この場所を含むもっと広い空間の中の出来事であり、それが太陽の照らしている暖かな日溜まりと言う中の出来事と言う事なのです。これはあえて<しるし>と言う程のことも無いのです。
塀の向こう側に二本の角が見えたとすれば、その見えている事は、一頭の牛がいる事の<しるし>を見ている事なのだと言う言い方がある。角と言う一部分から、その身体全体を推量するのは、もともと身体全体を見ている中で、角も顔も足も尻尾もその特徴として見ている事ほ前提に、今は角だけ見ていても、その見えている角の特徴からいつも見ている牛を思い出しているのです。見えている角が、牛全体の<しるし>であると言うのは、その見えている角の特徴から、山羊でもなく、サイでもなく、いつも見ている牛が思い出されると言う事で、その思い出した牛が、そこを歩いていると結論出来ているのです。角と言う事で、馬ではなく、狐でもなく、角をもった動物で、さらに牛と言う動物であると言う事なのです。
見えているモノと見えていないモノの区別があり、前者が同時に<しるし>であると言う事は、しるしから見えていないモノを頭の中で像として組み立てる事が、つまり推量する事が出来ると言う事なのです。これは、しるしと呼ばれている現に見えているモノに対して、その特徴から現に見えていないモノを思い出す事が出来ると言う事なのです。角と言う存在が、ある一定の動物の特徴であり、さらに角のそれぞれの特徴がそれぞれの動物を区別していると言う事なのです。
あえて<しるし>と言わなければならないのは、見えている<角>と見えている<黄色いハンカチ>とを見えていないモノとの関連で理屈づけようとしているからです。前者は自然としての特徴であるのに対して後者は、ハンカチと言う身だし並のものが、掲げられると言う私達人間の行為により、行為との関連を持つと言う事なのです。後者の場合、黄色いハンカチには、何処にもその布の性質にも作り方にも、屋根に掲げられると言う性質など無いのであり、それをあえて掲げると言う行為をするのは、その様な行為を作り出す人間の意志に関わると言う事であり、その意志と掲げられたハンカチとをつなげるモノとして、ハンカチにしるしと言う働きをかぶせたのです。黄色いハンカチを眺めても、何処にも<しるし>がないが、それが屋根に掲げられていると言う選択がなされている事が<しるし>と言う事なのです。黄色と言う色が心理学的に人間の意識に注意を向けさせると言う事で、黄色に特徴があっても、それは色彩のそれぞれの色の特徴と言う事であり、それをあえて例えば信号に採用しても、しかし黄色が進行を注意し、赤が進行停止し、青が進行許可とするのは、どんなに色を眺めても出てこないのであり、それは三つの選択を振り分けている私達の意志の問題なのです。つまり単に約束事であり、赤信号に<しるし>があるとすれば、それは私達の約束事に対応していると言う事なのです。まず約束があり、その約束の現実化として、各約束を各色の信号に対応させているのであり、そこから信号の変化で各色を知覚すると、停車したり進行したり注意進行したりするのです。その人間の動きを見ていると、信号の色の変化を視知覚すると人間が動き出すのであるから、信号の色に何か人間を動かす<モノ>があるのだと考えてしまうのです。
出来上がった信号機を神の視点から俯瞰すると信号機に人間を動かす何物かがあり、その何物かを持っている各色ほ視知覚すると、視知覚を介してその何物かが人間の頭の中にはいり、人間は停止したり進行したり注意へ進行したりするのだと言う事なのです。ここで考え無ければならないのは、視知覚を介して何物かが人間の頭の中に入ってくると言う考えなのです。信号機の赤や青や黄色の変化に付随して何物かがあるのだと言う考え方が問われるのです。確かに何物かがあるのです。それは私達人間の運動の選択する意志と赤青黄色とに対応関係を規定するのです。つまり信号にはその関係が形成されていて、赤の点灯を視知覚すれば<赤−停止>と言う関係の認識を介して実際に足を止めるのであり、視知覚が青の点灯を確認すると<青−進行>と言う関係の認識を介して歩き始めるのです。その関係を約束事としてあれば、その関係を何物かだと言っても良いのです。しかしそれは信号機の青や赤や黄色の電灯に付着しているごみの様なモノではないのです。関係概念として在るモノなのです。赤の消灯から点灯への変化が、進行から停止と言う運動との連関があり、現に今その信号の約束を守らないと交通事故に遭いかねないから、約束の履行をするのです。

直接知覚出来ない他人の魂(他人の心)が取り上げられる。そしてその存在は、身体のあり方と言う「記号」を介して知られると言う事が、確認されるわけです。神自身は、僕達には見る事が出来ないわけです。その見えない神の存在を、僕たちは、在る記号を通して知る。つまり、この場合には、この世界に存在する様々な物が持つ驚くべき構造や働きが、それを知らせる記号として働く訳です。他人の心が存在する事の確たる証拠となるのは、その人が自分に話しかける事、つまり、言葉を使用する事なのです。神は特定の言葉を発している。その言葉とは、単なる音声の様なものではなくて、表示すべきものとはにてもいないし、必然的な結びつきを持っているのでもない様な、感覚可能な記号の任意の使用のする事です。
向こうの丘に上の城が見える時、城はここからはるか遠くの距離にあると言える。所がその距離って言うのは、その城から私の目に至る直線であって、私には点にしか見えない物なのだ。一本の長い紐が在るように見えている訳ではないのです。距離そのものは目に見えていない。見ている自分から城までの距離そのものは、視覚によって直接知覚できるものではなさそうです。
私達が視覚で見ると言う事が、例えば私から200メートル距離にある城を、この目で見ることであるなら、それと同じ様に、私と城との間の距離を見るとは言えない。前者を直接見ると言うなら、後者はその直接見ている事から推量されて理解されるモノだと言う事なのです。真っ暗な闇の中にスポットライトに照らし出された木だけが見える時、木と私の間の距離は闇の中に沈んでしまい距離を推量する事が出来ないのです。それは木を見ている時、同時に周りの風景をも見ているのであり、前の説明のように城と見ている私の存在だけがあるかの様に考えてはならないのです。日常には城にはそれを囲む多様なものがあり、それらの距離の違いが、城までの距離として理解されるのです。つまり、私と城との間が距離として理解されるのは、城に対する直接の知覚である城とこの自分の存在であるが、そこからはすぐに距離が推量される訳ではない。周りの空間が他の物体の知覚が出来る光りが満ちている事が前提であり、だからスポットライトに照らされた一本の木だけでは、周りの空間に光りが無いために距離の知覚が成立しないと言う事なのです。
私達には、見ただけで遠い近いが何故分かるのか。距離は、有る別のものの媒介によって知覚されるのだと言う事です。遠くのものは、小さく見えたり、ぼんやり見えたり、する事を経験している。その様な見え方を介して私達は距離を知覚している。遠くのモノが小さく見えたりしても、その様に見える事と、そのものが遠くにあると言う事には、類似性とか必然的的結ぶつきが有るわけではない。<小さく見える>とか言った事が、距離を表す「言葉」として、「記号」として十分な資格を持っていると考えるのです。
現に<小さく見える>と言う視覚的事実が、そこにある私と城との間の距離を示唆するのです。言葉ってその意味を教わらなければ、何を表現しているか、分からないのです。それと同じ様に、距離を示唆する「小ささ」とか「かすんでいる」とか言った記号も、経験によって距離との結ぶつきを教わらないと、それを知覚したからと言って距離が分かる訳ではないと、バークリーは言うのです。バークリーによれば、知覚の本来の対象は、光と色だけだが、それが言語、記号として機能すると言うのが、バークリーの見解なのです。様々な色合いの光と色彩は、無限の多様性と組み合わせによって、言語を形成している。この言語は私達に距離や形、位置や大きさなど、触覚の対象の様々な性質を示唆する。任意の関係づけによって示唆されるのです。

どの様に世界が記号として見られているかと言う事なのです。
1:身体活動が記号として働き、他人の心の存在が、その働きによって知られること。
2:視覚的情報自体が、触覚的情報の記号であって、それによって、本来視覚の対象ではない、物の形や距   離、位置関係と言ったモノが知られるってことです。
そしてさらに、視覚の記号的性格が記号となって、神の存在が知られると言う事なのです。僕たちの目にしている世界は、記号に満ちあふれた世界と言う事なのです。有るモノが記号になって、次のモノが引き起こされるという<原因−結果>と言う考え方に触れてくるのです。
一方の物体が他方の物体に接触する事、一方の運動する物体の接触が他方の物体の運動に先行する事、そしてこれまで繰り返し同様の現象が認められて来た事、それだけである。そこでバークリーは因果関係と言うのは、物事を必然的に結ぶ付けている関係ではなく、人間が想定した関係にすぎないと考えるのです。バークリーにとってこの世界には、物同志に関するかぎり、原因・結果の関係なんて無いんだというのです。物の間にはせいぜい、様々な記号関係が認められるにすぎないのです。
モリニュー問題:例えば白い玉は、様々な陰影を持つ白っぽい「円盤」に見えているはずである。所が触覚と視覚との結びつきの経験から、どの様な形のものがどのように見えるかを我々は知っていて、そうした経験的事実が機能する事で、視覚的情報だけで、立体的対象が判断されるのだと主張します。つまり、円盤ではなく球として見るわけです。

第二章 観念論
私が散歩をしている時、偶々見ている建物は、その色や形や大きさ等として見られているのです。私が見ている建物は、様々な性質の集まりだと言えるのです。リンゴは色や形や味や香りなんかの寄せ集め(集合体)であると言う考えです。私達が見たり聞いたり感じたりしている色や形や味や匂い、そう言った知覚の対象の全てを、バークリーは「観念」と呼ぶのです。その観念の集合体であるリンゴも観念と言う事になる。でも普通には、リンゴや木や本は、外の世界に実在していると、普段思っているのです。
何故私達が感覚によって知覚しているものが、心の中にある観念なのか。
  説明1(快苦との同一の議論);例えばこの石畳に触れると、冷たい。普段私達は冷たさとか熱さとかを、物の性質だと思っています。この石畳が、冷たさを、それ自身の性質として持っている事です。その冷たさが極度になれば、痛みを感じるし、夏の暑さの中では、冷たさは心地よさを感じされるのです。
  説明2(相対性からの議論):熱い湯、ぬるま湯、冷たい水を用意し、右手を熱い湯に左手を冷たい水に浸しておく。そして今度はその両手を同時にぬるま湯に浸す。右手は冷たく感じ、左手は熱く感じるのです。
もし私達が感じる熱さ・冷たさがそのまま、物の性質なら、右手と左手が異なる感じを持っていて、片方は熱く、片方は冷たく感じているのだから、同じぬるま湯で、そのお湯にあるぬるいと言う性質が、熱く感じられたり、冷たく感じられたりすると言う事は、お湯にある性質と言う事で解決される事ではないのです。熱さ・冷たさは、物の性質と考えるのではなく、心の中の観念と見るべきなのです。心の中にあって心が知覚するものを、バークリーは、観念と呼ぶのです。
  説明3(因果関係の議論):指をピンでさすと指がいたくなる。痛さは指にあり、ピンにあるのではない。ピンは指の繊維を傷つけるけど、感じられる痛みはピンに有る訳ではなくて、私達の心の中にあるとしか言えないのです。痛みや熱さは結果であり、ピンや火が指の繊維を痛め事を原因としているのです。
ピンの場合には、結果としての痛みは心の中にあると考え、他方火の場合には、結果としての熱さが原因としての火にあると言うのは、考え方として一定していないのです。
ピンと火があり、火にはその性質として熱さがある。痛いと言う感覚と熱いと言う感覚は、両方とも感覚に違いないが、火にある<熱さ>が、皮膚から知覚されて<熱い>と感覚すると言う思考に対して、ピンのとがった先が皮膚を傷つけている時、皮膚のピンが刺さった所が痛むのです。
火の場合を考えると、火の性質としての熱さが触覚で知覚されと、心はこの身体が熱いと感覚するのです。心が感覚している<熱さ>は、火の性質としてある<熱さ>が、身体の皮膚を入力器官として知覚される事で成立しているのです。ピンの場合には、ピンのとがっている先が、皮膚の表面を切ることで、切られた皮膚の神経が反応するのであり、その反応を痛みと言うのであり、ピンは皮膚を切り裂く働きをするだけなのです。火の場合だけには、火自身に性質としての<熱さ>があり、その<熱さ>を知覚して<熱い>と感じるのだと言う事になるのです。問題は、その火自身にある性質としての<熱さ>と言う言い方なのです。確かにいま皮膚が知覚していて、心が感じているものを<熱さ>と言う言葉に表しているのだが、その心が感じている<熱さ>とは、皮膚を入力器官として、心に到達しているもので、この身体を囲む外界の火から出てくるモノが、皮膚を入力して知覚されていると言う事なのです。そしてここで注意しなければならないのです。身体を囲むか外界にある火の性質であるモノが、入力器官から入ってくる時−−当然その入り方は私が扉を開けて入り口から身体ごと入るようではなく、外界からのモノが入力器官を反応させると、器官の作動が次の器官を作動させ、最終的に脳細胞で処理されると言う事で、その過程を、言葉にすると、熱いと感じていると言うのです−−その入って来るモノに対して、入力器官から脳細胞までの反応過程が関係するのであり、火の性質であるモノが、そのまま実体として脳細胞に入り込む訳ではないのです。とすると入ってくるモノに対して、感覚器官から脳細胞までの反応過程が、熱さを体が感じていると言う事であるのだから、入ってくるモノは、そのままが<熱さ>なのではなく、熱いと言う観念を作り出す、つまり感覚器官から脳細胞までの反応過程を作り出すモノなのだと言う事です。そして更に言えば脳細胞の活動が熱いという感じなのではなく、外部の火の性質による、感覚器官から脳細胞までの過程と言う関係にあるとき、初めて脳細胞の働きを感じると言うのです。両者の関係は、外部から諸感覚器官に入るモノが、器官の違いにより各感覚内容の違いとなると言う事なのです。外部のモノが同一のモノでありながら、その諸性質のちがいが、入力器官の違いであり、別々の感覚として有りながら、対象としては一つのモノと言う過程構造を、静止的に説明したモノなのです。
皮膚と言う感覚器官から脳細胞までの過程は、外部の火なしに存在するように見える。氷の世界には火は存在していないが、しかしいまは氷の寒い世界があり、氷の一つの性質が、皮膚を入力器官として、脳細胞で寒さとして知覚されるのです。身体全体が寒いと感じているのです。この場合でも、心が知覚すると言っても、入力器官としての皮膚は、単なる入り口であり、入ってしまえばおしまいと言うものでは無いのです。皮膚は絶えず氷が発する一つの性質としての、知覚として<寒さ>と感じられるモノに囲まれているのであり、氷が溶ける春まで続くのです。私達は現に氷の世界にいて、氷の発する冷気に囲まれていて、それをさむさとして感ずるのです。氷が作り出す事実であるが、私達の身体はまた感覚器官として有るので、それらを<寒さ>として知覚していると言う事なのです。私達の身体は春の外気の中にいれば、夏の外気、秋の外気、冬の外気の中にいるのであり、その度に身体はある感覚を知覚していて、季節毎の外気の性質を、それぞれ知覚して何らかの感覚を持つ事になるのでする。私達が火や氷にある性質に対して、<熱さ><冷たさ>と規定するのは、現に感覚知覚しているモノから、その規定が始められているからです。私達の知によって対象たる<火や氷の性質>が問われているのであり、知は、例えば動物は、熱さや冷たさを、自分の身体の毛を、生え変わらせる事で対処し、人間は着る衣服の材質を変える事で対処しているのです。現に知覚している熱さや寒さがあり、それらが外気としての氷や火から由来するものとして考える時、思考はその外気たる火や氷の性質であるモノが、実体として知覚入力器官から入って来るとしてしまうので、火の性質として<熱さ>が有ると結論するのです。火の物理的性質が、人間の感覚器官で知覚されると、<熱さ>と言う感覚として成立するのだと言う事なのです。私達は、それを<熱さ>と言う言葉にするけれど、別に言葉にしなくとも、火の側に寄れば身体は感覚するのであり、その感覚をあえて言葉にすれば、<熱さ>と言う事なのです。お湯に手を入れた時に手が知覚するモノを、あえて言葉にすれば<熱さ>となるが、お湯自身のH2O分子の運動量と言う物理的事実が、手に知覚される時、<熱さ>と言う言葉に表されていると言う事なのです。

バークリーの時代、色や音や味や熱さ・冷たさなんかは、本当は物にはないけれど、形や大きさや運動は物が本当に持っていると言う考えがあったのです。
物は形や大きさの様な性質を持っている・・・一次性質
物には、我々の感覚器官に刺激を与えて、色や味や熱さ・冷たさを感じさせる能力があり、物が元々持っていないが色や味や匂いなどを感じさせる能力・・二次性
日常的には物の性質として見なされているけれど、本当は心の中の観念でしかない事を示そうとして取り上げて来た性質は、色や味や匂いや熱さ・冷たさなどです。では形や大きさ・運動は、どの様に扱われるのかと言う事になります。心の中の観念ではなく、外の世界に物の性質として実在するものと言う扱いでする。この花は、見ている時に、見えている。当たり前だけど、そういうことです。味も感じられている時に、感じられている。音も、聞こえている時に、聞こえている。そうしたものは、みんな知覚されている時にだけ知覚されていて、それらが存在する事は、知覚されているって事でしかないのです。
火が私の前で燃えていて、火が作り出すエネルギーにより、木々が燃える所から1Mの所にいる私の身体は、暖かさを感じているのです。そのエネルギーに対して、身体が感じているモノを暖かさと言うのです。木々が燃えていると言う現象があり、その木々が有る場所かに1メートルの所にたたずむ私がいるのです。私の所から1メートルの離れた場所にある木々に対して、火をつけるのであり、木々は燃え始めるのです。その燃え始めた木々の火が、燃える事で作り出すエネルギーが、私の身体の所まで到達し、私の身体を包む事で、私は暖かく感じる事になるのです。この時、私の身体を囲むエネルギーに対して身体全体が知覚器官となり、身体が暖かいという心の判断が成立するのです。身体は感覚器官であり、エネルギーが入力される入り口でありながら、センサーとしての皮膚を含めた身体からの入力を制御しているのは脳細胞であり、その脳細胞が身体が暖かいと判断しているのです。判断するのは頭蓋骨の中の脳細胞であり、外部の火からエネルギーを入力させるのは、皮膚をふくめた身体であり、皮膚はエネルギーの運動をうけて、受動運動をしているのです。その外部からのエネルギーに対する受動運動に対して、認知と言うレベルでは、暖かさを感じていると言う事なのです。その暖かさを感じているのは皮膚を含む身体であるが、<身体で感じている>と言う言葉に表されている認知内容は、頭蓋骨の中の脳細胞の処理と言う事なのです。火からのエネルギーが程度を越えると、皮膚からの入力は、入力器官を損傷するのでアリ、普通私達はそれを火傷と言うのです。損傷はその箇所に痛みを感じるのであり、その感ずると言う処理もまた頭脳の脳細胞でなされているのです。
感覚器官は外部からの何モノかを入力させる入り口であり、その入り口としての器官の知覚を処理するのが脳細胞であり、認知としては、その処理を<器官が感じている>つまり、身体が暖かい、手が冷たい等と言う言葉に表すのです。しかしさらに身体の行動と見る時、今日の寒さの中では、体の動きが鈍り、仕事が出来なくなるので、火にあたり、その火のエネルギーで身体を暖め、身体の行動を行わせる細胞を活性化させ仕事を完遂させると言う事なのです。認知のレベルは、この身体と木々の燃える火からエネルギーとの距離を一定にするのが、身体が暖かいと言う感覚であり、もう少し熱くなりたければ、火との距離を縮めるために身体を火の側に近づける歩行を実行するのです。
私の身体が、火からのエネルギーが届かない距離まで移動すれば、現に外気に対する寒さを身に感ずるだけで、先程までの暖かさは、そこには知覚されていないのです。ただ火が燃えている限り、エネルギーは出続けているのです。別の人がそのエネルギーを身体が知覚する事があれば、彼は身体が暖かいと感ずるのです。これは人間が、つまりこの私も当然に現に感じているから言えるのだが、感覚器官を持ち、身体の外部からの多様なエネルギーに対して、各器官がそれぞれの特性として知覚すると言う自身の人間としての知覚構造を知る事で、他者の身体性と言う普遍性を述べる事なのです。火が燃えている限りそこからエネルギーが出続けているのだが、しかしそのエネルギーが身体に触れ、感知されなければ、脳細胞は<暖かい>と言う処理をしないのです。脳細胞は処理をしているから、現にその火は暖かいと感じているのであり、エネルギーは絶えず身体に届いているのです。火にあるエネルギーが、身体に届いた時、「身体が暖かい」と言う判断を脳細胞が行うのであり、身体に届かない限り、脳細胞は現に届いているモノについての処理を行っているのです。火からのエネルギーが届いていなければ、ただ別の届いて入るモノについての判断を脳細胞が行っていて、その日常処理に対して、「何モノかが無い」と言う否定の言葉は、脳細胞の絶えざる判断処理とは別の、言葉による説明の次元で成り立つモノなのです。
火は私の位置から遠くにあるので、そのエネルギーが私の身体まで届くことが無いので、私は、身震いする思いでいるのです。この時私は、<暖かく>無いと言う否定の言葉を発しないのは、現に感じている事のみを言葉にしているからです。現に感じているのは、身震いする<寒さ>なのです。私は外気を寒さとして感じているのです。私には今、<寒さ>と言う感じがあり、その感じの中で、身震いしながら、火の側で感ずる<暖かさ>の経験から、あの暖かさで体を温めようと考えるのです。あの経験を思い出しながら、今はあの<暖かさ>が無く、ただ寒いだけだと言う事になるのです。今日のこの寒さの中には、<熱さA>は無いと言うのは事実であると言う事なのだが、この事実としての「<熱さA>が無い」と言う場合、今は寒さを感じていると言うだけであり、条件が変われば熱さを感じる様になるのです。とすると<熱さがない>と言う言葉は、今は寒さを感じているが、かって感じていた<熱さ>が、思考の中に蘇り、その蘇った思考の中だけにある<熱さ>が、今私を囲む世界について、その知が成立している思考の中には、無いと言う事なのです。いま世界は寒さとして感じられるものであり、その世界の中で、思考として熱さを探すと、そこには<熱さ>は無いと言う事です。<寒さ>と言う言葉は現に知覚している事であり、今私が佇むこの世界の性質が、皮膚を含む身体に知覚されて、身体が<寒さ>と感じていることなのです。それに対して熱さと言う言葉は、過去に経験した時に、身体が<熱さ>として感じていたモノであり、その感じられていたモノが思考の中で記憶として整理されていて、言葉として表されたのです。
現に知覚している外気の性質が、寒さとして知覚されていて、その知覚内容を言葉として表しているのです。それに対して今の寒さの中で使う<熱さ>と言う言葉は、かってあった外気の性質に感じられていたモノを記憶として整理しておいて、今外気の中には無い対象ではあるが、記憶として有るモノを蘇らせているのです。整理された<熱さ>とは、現に感じている寒さと同じ、知覚されているモノでありながら、その知覚されているモノを、<外気とその性質>と言う構造で整理した事で生まれているのです。とすると、現に感じているモノを<寒さ>と言う言葉で表す事と、現に寒さに震えている事とは別の次元であり、寒さを感じている場合には、暖かくする工夫をしようとするのであり、そのままでいれば凍え死ぬかもしない方向に身体が進むのです。そして、「現に知覚している」と言う言葉は、別に寒さを現に知覚している中で書かれているわけではなく、ストーブの暖かい部屋で過ごしていると言う事なのです。言葉は、その内容が発声される現場に存在していなくとも、表されてくるのだが、それは言葉が、認識として成立しているモノを、外部に現す事であるからだ。ただその認識には対象があり、対象に対しての認識活動の結果として、私達の頭の中に成立している特定の思惟を、言葉として表すと言う事なのです。物質の存在にたいして、それを対象に認識が頭脳の中に成立、その成立した認識が言葉として表されると言う事なのです。

抽象観念説批判
ロック:私達の心の働きとして「抽象」を認める。様々な白い物を見た時、その様々な物−−−ミルク、雪雲、紙−−から、共通の白さだけを取り出すと言う働きです。それらに共通の白い色だけを、白さの観念だけを、それ以外の物から分離して取り出せると言う事です。
バークリーの批判:色はその形と切り放せないのであり、白い様々な形の物から、その形を切り放し、白さだけを取り出すと言う事は出来ないのだと言う批判。可感的な物、私達が知覚している物や性質は、それが知覚されている事で初めて存在する。
物やその性質が、「私達の知覚から独立して存在する」と<言える>為には、まずそれらが知覚される事で知覚の対象として存在しなければならないと言う事である。<知覚から独立してそれ自身で存在する>と言う言葉は、物や性質が知覚の対象にならない限り、言葉として出てこないのです。つまり、現に知覚の対象にしながら、知覚から独立しているのだと言う事は、例えばいま私の目の前に赤いバラがあるのを見ている時、目を塞いだ場合、いま見ていた赤いバラはどうなるのかと言う事です。視知覚の対象でないことは、目をふさいでしまっていて、赤いバラを対象にしようとする目の働きが無くなるからです。目を開けて赤いバラを目の前に見ている事があり、その後に目を塞いだとしても、先ほどの視知覚経験が、塞いでいる間にも赤いバラはそこに有るだろうと、私の意思に予想させるのです。そして目をあければ、すぐに赤いバラがあるのが見えるのです。しかしここでの論考では、目を塞いでいれば<赤いバラ>は存在しないと言う事なのです。私達の視知覚が<赤いバラの存在>を捉えているのであり、<赤いバラが有る>のは、視知覚の対象であるからだと言う事で、対象でない、<赤いバラの存在>と言う事は成立しないのです。
可感的な物は観念であって、観念は心の中にある。心の中にある観念を、心の外にある物質が自分の性質として持っていると言うのは、おかしいのです。観念は心によって知覚される事で、存在する訳です。だったら観念が存在するには、心が有れば十分であって、物質なものが性質を持つと言う事は必要ではないのです。<私達が知覚する観念に似たものが、物質として存在する>と言う物質肯定論に対して、バークリーは観念に似たものはやはり、観念であると言うのです。
例えば、日差しが見える所に体を移動させると、体が温まる。こういう事を何度か経験すると、光の観念が暖かさの観念の記号として働くようになる。
日差しは、視知覚による観念であり、体が温まるのは、触知覚による観念であり、両方の観念を知覚するのはこの私自身であり、私の中で、両者の観念を連結すると言う事です。この連結は、日差しが体の温まる原因と言う考え方を拒否するのです。日差しと温感とは、別々の観念であるが、私の中で連関しているだけであるが、ただ私の中の連関を介して、私が体毎日差しに中に出ていけば、体が温まると言う事を予想するのです。日差しの観念は、次の温感を予想させると言う意味で、記号として働くのです。 通常私達が物の間の因果関係と考えているものは、観念の間の記号関係として捉え直された。そしてこの記号関係によって我々は、生きていく為の様々な便宜を得るのです。

ロックの物質肯定論:物そのものと言うのは、一次性質だけを持つのです。つまり、形や大きさ、固性、数運動もしくは、静止と言った性質だけを持ち、小さいため単独では感覚で捉えることが出来ない粒子が、この世界を作っていると考える。一次性質だけを持つ粒子の一つ、あるいはそれが、沢山集まって出来ている粗大な物が、ロックが実在すると考えている「物そのもの」なのです。物そのものが、それ自身で他の物との関係なく持っている性質を形や大きさと言うのです。当時の最先端科学者達は、考えていたのです。この様な考えを「粒子仮設」といったのです。この様な一次性質を持つ粒子からなる物その物が心の外に実在するとしたら、観念と言うのは、それとどう関わるのだろうか。

窓の外に、木の葉が見えます。そこに太陽の光が当たっています。粒子仮設で考えるのであの木の葉は、本当は、形や大きさなど、一次性質しか持っていません。だからあの木の葉自体が、緑色をしている訳では有りません。あの木の葉には、色は無く、ひたすら、そうした一次性質を持っているだけなのです。所がその一次性質だけを持つあの木の葉に、太陽の光が当たります。この太陽の光をロックは一次性質だけを持つ微少な粒子と考えています。その粒子が木の葉の表面に当たるのです。一次性質で出来ている組織に、光の粒子がぶつかるのです。そして飛び跳ねる訳ですが、その時、光の粒子は、木のはの表面の組織のあり方に応じて、ある運動を獲得しのす。その運動する粒子が人間の網膜に衝撃を与え、脳まで伝達されるのです。それに応じて、元々の木のはが持っていない色が、心の知覚するところとなるのです。心のなかに、緑色の観念が生み出されるのです。木のはは、それ自身としては一次性質しか持っていないのに、我々の感覚器官に作用して、結果的に、緑の観念を我々の心のなかに無生み出す「能力」を持つことになるのです。この能力の事をロックは「二次性質」と言うのです。
木の葉が緑色に見えるのは、電磁波である光が、木の葉の表面に反射したとき、特定の周波数の電磁波だけが反射して、その反射された光が、目から入り網膜で細胞を反応させると、特定の細胞が緑色として処理するのです。
一次性質だけを持つ新たな物と日常考えられている経験的物との関係で言えば、経験的対象は、物そのものが我々の感覚器官を刺激した結果として、心の中で知覚されるものとなったのです。新たな一次性質だけを持つ物としての物が規定されると、従来経験的に存在すると考えていた物、色や匂いと言う性質を持つ物は、心の内なるモノへとその地位が変更されて、心の内なる観念、痛みや喜びや悲しみと言った同じように心の内にあるモノとして扱われる事になったのです。ロック的考えでは、物そのもの、観念、心と言う三つの項からなる枠組みの中で、いわゆる認識論的な考察がなされる訳です。その三項関係的に枠組の中では、心が直接知覚出来るのは、物そのものではなく、観念なのです。ロックにとって観念は、心と物そのものとの間を隔てるベールではなく、観念は元々日常親しんでいる物とかその性質だとかだった訳です。観念にまつわる様々な現象を旨く説明しようとして、新たな<物そのもの>が、その慣れ親しんだ物や性質の観察を土台として、いわばその向こう側に考え出されたのです。そして、新たな物そのものが、この様にして考え出されるのに応じて、これまで物とされてきたモノが、観念と言う心の中に有るモノとして扱われる様になったのです。
粒子を仮設的に導入する際の土台となったのは、経験的対象が示す様々な現象であったのです。その現象を説明する為に、経験的対象とは異なるものを、新たに<物そのもの>として仮定しようとするのです。観念=経験的物 と言う事は、新たな<物そのもの>を考える為の土台として機能しているのです。
<物そのもの>と<経験的な物>との関係として考える事になり、単に経験している事で了解されていた物であった従来から、経験が成立する過程を考える様になったのです。例えば冬の日差しの中で、体が温まるのを感じていたが、日が陰り出すと体も冷え出して、寒さを感ずるようになったとすれば、その時点時点でただ暖かかったり、寒かったりするだけだが、暖かさから寒さへの移行が、外気の温度に関わっている事が理解されると、暖かい時の外気と寒い時の外気との関連が追及されるのです。つまり現に感じている寒さや暖かさや熱さに対して、一旦感じているものを保留して、感じている主体としての私自身を包む外気のあり方を考察するのです。
ロックに対するバークリーは、ロックの物そのものを取り外し、観念と心だけで考えるのです。バークリーは、観念論を主張するにあたり、心の中と外の区別を使いながら、最後に心の中だけにしてしまう。
ロックの観念:白さの観念の様に、目に見える白い色、白色の感覚、あるいはそれを思い起こした時に心の中に浮かベル事ができる、白さの心象の事です。

観察とは、<として見る>と言うことである。私が目の前のそれを<テーブルとして>みるのです。見えているのは感覚的感覚なんだけど、その感覚をただ受動的に受け入れている訳ではなくて、それに対して感覚的ではない、なんらかの「理論」「考え」「概念」と言って良いようなものを、適用している訳です。単に感覚しているとかじゃなくて、概念的にそれを「存在するもの」として捉えるとか「一つのもの」として捉えるとか言った事を、心は同時に行っているのです。
ロックが新たな<物そのもの>、つまり一次性質だけを知覚不可能な粒子の一つもしくはその集合体を、当時の粒子仮設に従って導入するのです。彼は、そういう<物そのもの>の観念を形成したって事です。ではロックは何を材料に、そうした観念を形成したのか。我々の観念の起源は、経験(感覚と反省)であり、経験から単純観念が得られ、他の一切のの観念は、経験から得られる単純観念を寄せ集めたり、比較したりして作られる。
−−−>経験から得られる観念が全て感覚とか心像であったら、それを寄せ集めて出来る観念も、感覚とか心像になります。<物そのもの>って、知覚不可能なものであるのだから、当然感覚とか心像であることが出来ないのです。粒子仮設は<物そのもの>を扱うのだが、一次性質の微少な粒子をあたかもボールの様に想像するが、しかしこの想像は、現実の野球のボールをイメージとして使用しているのであり、それで<物そのもの>を考えた事になっているのです。
物そのものと観念との対比で、物そのものからの刺激によって得られる観念を考えた時には、感覚や心像が観念とされていたのですが、ロックは最初から概念的で有るような観念の存在をも認めていた事になるのです。物体の固性の観念は、ある触覚的感覚として−−ボールを手の平で握った時に、これ以上握りつぶせないボールの抵抗力と言うものがしめされ、それを手に感じることで、ボールの固性が与えられている−−与えられているけれど、我々の心は、それに対して概念的把握を行う。「二つの物体が互いの方に向かって動く時、それらの接近を妨げるもの」と言う概念規定として表現されている。そしてこうした概念規定を、心は保持すると考えられる訳です。
固性の観念が持つ二つの面:(1)−>感覚的面で、触覚によってある種の感覚を得ること。(2)−>その感覚的観念には、概念規定が与えられ、両者が密説な関係を保ちながら、記憶に止められると言う事なのです。
<物そのもの>からの刺激が、視覚、触覚、聴覚、味覚、臭覚と言う五つの特徴で区別される時、刺激を受ける人間の方は、視覚−目−光、触覚−皮膚−材質、聴覚−耳−音、味覚−舌−味、臭覚−鼻−匂いと言う関係を形成しているのです。五つの感覚知覚で、それぞれの刺激として処理されるのであり、五つは重なることがないのです。物体が大気の中にあり物体の運動がその大気を振動させると、その振動として人間の耳に入って来て、脳細胞で処理されているものを<音>と言うのです。その脳細胞での処理されているものをバークリーに従って<観念>と規定すると、脳の外部の物体とその物体の運動が作り出す大気の振動と耳の鼓膜を振動させる所までが、物としての人間のありかたであり、鼓膜の振動が鼓膜に接触している器官の電気的化学的変化を作り出し、最後に脳細胞の運動を作り出すのです。観念の正体は、その化学的電気的運動であるが、ただ運動の主体たる物体と言う一つのものから生まれてきた振動や光や匂いが、五感から入り脳細胞で処理され、その処理を媒介して、人間身体が、物体に働きかけると言う過程が有ることで、<脳細胞の処理>を、はじめて観念と呼ぶ事になるのです。人間の身体的存在を、単に認識主体としてしか見なければ、人間は五感をする者であり、さらにその五感を統一する思考である悟性や理性と言う思考のそんざいでしかないのです。人間身体は五感センサーにより対象を知覚するのであるが、しかしそのセンサーによる知覚は、対象を色や匂いや味や音や材質として捉えるだけであり、問題は捉えてどうするのかと言う事なのです。それこそが人間身体が、単に五感センサーではなく、運動する身体と言う事であり、五感センサーが知覚している対象を身体運動に巻き込む事で、身体の運動を継続出来るのです。センサーとしては、五つの別々の知覚内容であっても、対象は身体運動の働きかけられるものとしては、一つのものと言う事になり、その身体運動で関わるものが、センサーによる五つの分裂を統一すると言う事になるのです。感性的認識である限り、五つの別々の分裂したものであるが、その感性的認識をする身体運動においてはじめて、物体と言う一つの物が規定される事になるのです。それは分裂している物が、一つに統一されたと言う様な事ではない。身体としての存在である人間は、物体と言う一つの物に働きかけているのであるのに、ただ知覚としては五感と言う別々の形態のために、その別々の知覚をまとめると言う判断がなされたのであり、五感を統一する働きとして悟性と言うレベルを想定したのです。逆に物体としては一つのはずなのに、五感として五つに分裂しているものを解決しようとして、悟性や理性と言う統一する思考の力を考え出したのです。
悟性は五感が知覚している各それぞれを、<物そのもの>の諸性質とするのであり、諸性質の集合体が物そのものになると言う事なのです。ただ私達の理性は、諸性質の集合と言う時、各諸性に質集合出来る働きがになければならないと考えるのであり、ただ言葉として<集合する>と言ったから、解決する訳ではない。<物そのもの>から発せられるモノが、耳から刺激を与えた時、音をきくと言うのであり、目から受けると光を知覚すると言うのであるが、しかしこれらの何処にも、他者との集合する要因が無いのです。100枚の白紙を集めてノートにする時、100枚の用紙の一冊のノートとして集めるのは、その用紙に開けられた穴とその穴を通して結束するバインダーの構造にあるのです。集合するのは100枚の用紙であっても、その100枚の用紙だけで解決しているのではなく、集合させる構造としてのバインダーが別にあり、そのバインダーの構造に規定されて用紙に穴が開けられているからなのです。一枚一枚の用紙は、例えばそこに文字を書く事でその存在が成立しているが、その多数の用紙を集めてノートとして置くためには、用紙の存在から現れるのでなく、別の、バインダーと言う集合体を作る構造があるからなのです。用紙に穴を開けるのは、まず穴を開けられる材質であることが始まりだが、同時に一枚一枚の用紙が文字の書かれた後、バラバラになるのを防ぐ事が目的が生まれてきたからなのです。つまり、一枚一枚の用紙は、目的としては文字を記して置く媒体であるが、記し終わった後の用紙は、読むためのものであり、読むのにバラバラでは読む目的に支障をきたすから、ひと所に集めておくと言う事なのです。その目的を現実的に実現する物質的あり方としてバインダーが作られたと言う事なのです。

ロックの場合、物質は、外的な物の世界に存在するものであり、それによって引き起こされる観念は、心の中に位置づけられます。色や形などの心の中の観念が、外に存在する物質の性質だと言う考え方は、そもそもロックには、あり得ないのです。物そのものを概念的に捉えると言う事は、そのあり方である実在的本質−−物の「固性を持つ諸部分(物を構成している粒子の事)の形、大きさ、結合」、つまり、粒子の形、大きさ、結びつきの事−−を、概念的に捉えると言う事でも有るわけです。
「感覚される物は色を持つけど、物そのものには色はない。」と言う言い方。色は人間の視覚内の問題であり、心の中の観念と言えるのだが、光が物に反射する時に、物の表面の材質により、特定の波長の光だけが反射して人間の目に入ってくるのであり、そこで物は赤く見えると言う事になるのです。光が全部の波長の光の場合には、ただ明るいと言う知覚になるのです。物は赤く見えるが、物と私の間の空間は、明るい透明な空間として知覚されるのです。ただ何も反射する物がなければ、空間はただ明るいだけでにいか見えないのです。私達の周りには諸物があり、それらに反射する特定の波長の光が人間の目に入って来る事で、各物がそれぞれの色として見えているのであり、同時に見る主体との間が透明な空間として見えていると言う事なのです。物が無くなったら、後には透明な空間が見えると言う事ではない。物に反射してくる特定の波長の光があり、その特定の波長の光が、目からはいる。その入った後が<物体の色>と言う範疇になるのです。物体の色とは、物体に反射してくる特定の波長の光が私達の目を入り口にして脳細胞で処理をされている過程の内、目から脳細胞の間で成立しているモノAを指示しています。ただこのAは、物体から反射してくる特定の波長の光によって初めて成立するのであり、<物体からの反射した光>が、Aの内容としてあるのです。目の網膜に受光されるまでが、<物体からの特定の波長の光B>の役割であり、網膜以降脳細胞までの過程において、<赤い色の物体がある>という言葉に表される、あるいはその様な判断として成立している事なのです。そのBが、赤い色の物体と言うのではなく、Bが脳細胞で処理されている事が、Bと言う内容をしている観念、認識と言うのです。
この様な言い方は、知覚過程を俯瞰する位置から見ているのであるが、その俯瞰から見おろされている<眼球の網膜から脳細胞>と言う過程は、現に私が目を開けて物体を見ていながら、私自身から離れた神の目で見ている事なのです。現に物を見ている私自身が、その現に見ている事を、外部としての物体から反射してくる特定の波長の光の網膜から脳細胞まで入る過程と言う俯瞰図にして、思考として頭の中に作り出し、ついでに言葉に表しているのです。この言葉の間も、瞼が開かれていれば、物を見ているのです。確かに今の脳科学は、視知覚器官としての眼球から脳までの過程を探求出来ているが、その婆でも探求されている被験者は目を開けていれば、かれは見ているのであり、被験の度に言葉で問いかけられと、自身に起きている事を言葉にするのであり、その言葉を聞いている実験者は、自身の行っている実験の一々と言葉をつなげて、意味を探求していくのです。被験者の言葉に問題があれば、つまり嘘をついているなら、実験者自身が被験者になって、実験を体験すれば良いことなのです。
俯瞰から見おろされた、物体からの反射する特定の波長の光が、視覚器官としての眼球から入り網膜を反応させると伝達路を通じて脳細胞が働くと言う構図は、単に物質の過程を示しているだけです。前段が次段を反応させると言う構図でしかないのです。それが観念として規定されるのは、その過程が成り立つ私達の身体の運動としての脳の働きが、新たに身体運動を作り出すモノとして働くと言う事なのです。その媒介する項としての脳の働きを、感性として意識出来ているのです。10人の人間がいれば、それぞれが自己の運動を意識できているのであり、誰にも成立している物質運動としての、その過程はみな共通として有るが、自己の感性として意識するのです。研究者が被験者に問うのは、その運動に伴う感性意識であり、研究者は運動の一々と意識の現れとしての言葉の一々を対応づけるのです。
 眼球から脳細胞までの過程が、物体の色の知覚であるなら、眼球以前の物体から反射してくる特定の光はその色知覚を形成するモノと言う事なのです。形成するモノであるが、けっしてそれが色と言う事なのです。もし物体から反射してくる光が、色ならば、色が目から入り色として知覚されていると言う事になるのです。これはもっとも納得しやすい説明です。なぜなら、私のいる位置から5メートル先の信号機が今赤に点灯しているのを見ているからです。信号機のそこに赤い色があると言い得るのです。しかしこれはあくまでも信号機に対する視知覚運動が行われていて、私が見ていると言う事なのです。<私が見ている>と言う事は特別に自己と言う事が言われているのではなく、人間の眼球による視知覚運動と言う誰にでも出来る事をいうだけであり、眼球運動による誰にもある活動と言う事です。ただ誰にもあるが、しかし目を有している者だけが視知覚しているのです。100人の人がいて、眼球運動と言う同一の活動を行っているのであるが、ただカメラの様に、写し出された像がモニターと言う同じモノを共有しているのではないのです。、
 テレビカメラにう写っているモノは、その一台のカメラの働きであるが、モニターと言う誰にも開かれている所に写っている像が、カメラが捉えているモノを写し出していると言う事に対して、人間には視知覚したモノを写し出す開かれたモニターなど無いのです。人間は、眼球カメラ自身がモニターであり、カメラ自身が知っていれば良いことなのです。モニターはカメラが実際にモノを写し出していることを表している。もしモニターが無ければ、カメラが物を写していると言っても、物から反射してくる特定の波長の光が、カメラの内部の映像素子を電気的に反応させていると言う事だけを言えるのであり、その反応をカメラ外のモニターに像を写し出すのは、カメラ自身の働きであっても、モニターが接続されていなければ、像は現れてはこないのです。つまり、カメラに色々な働きがあつても、現実にモニターのような存在がなければ、働きはその現れの形態を作り出さないのです。
 人間が、物体から反射してくる特定の波長の光を眼球から入れて脳細胞で処理している時、それはカメラの働きと同じ様に見えるが、しかし人間にはそのモニターに当たるものが見あたらないのです。それは眼球を入り口として、脳細胞を含めたこの身体全体が、モニターにあたるのです。人間を単に感性的認識としてのみ考えるのは、モニターに当たる物を全く考慮に入れずに考えていることなのです。眼球から入力される特定の波長の光は、網膜に倒立像を形成し、その像の電気的変化が伝達路を介して脳細胞に入ることになるのです。この時脳細胞の中に像が出来れば、そこがモニターになるのだと言う考え方をするのです。とするとそのモニターを見るのは、本人自身であり、そこには他の観客は誰一人もいない、占有されたモニターと言う事なのです。つまり、脳の中にモニターを見る内部の私自身がいるのです。眼球カメラを備えた身体たる私は、眼球以外の物体に視線を向けると、その物体からの反射した特定の波長の光が、眼球に入ってくるのです。この時の私のあり方は、その物体に視線を向けていると言うことです。普通ここで私達は、物体を見ると言う。しかしモニターの理屈から言えば、眼球は外部からの特定の波長の光をいれる入り口にすぎないのであり、入った後に脳細胞に像が結ばない限り、<見ている>とは言えないと言う事なのです。とすると脳細胞に結ばれた像に対して、内部の自己が対峙していると言う事で、はじめて<見る>と言う事になるのです。
物体に対峙する身体としての自己は、物体に反射する特定の波長の光を眼球を入り口として頭脳の内部に取り入れるのです。光が、そのままの姿で入って行くのは、網膜までであり、網膜に到着した光は、網膜を電気的に変化させるのです。この電位運動が、伝達経路を通じて脳細胞を変化させると言う事なのです。<物体に反射してきた特定の波長の光>は、あくまでも網膜に像を作り出すだけであり、だからその光が色ではなくて、<特定の波長>の光による網膜の像で有ることが、脳において、<赤い色のリンゴ>と処理されるのです。ここでは、その<特定の波長の光>を色として考えてしまいたいのだが、その光は色ではなく、いろと言う認識を作成するモノなのです。
色がそのまま目から入り、脳で色と処理されると言う思考は、色とは、脳の外にあっても、色であり、その色が脳で色と処理されると言う事になってしまうのです。脳の処理されているモノを観念とすれば、脳の外にも観念は、存在していると言う事になるのです。脳での処理を<色を見ている>と言う事に問題が有るのではない。この入り口は、物体からくるモノの性質によって、少なくとも五つあり、別々の入り口から入ったモノは、別々の伝達経路を介して脳細胞の各局所で処理されるのです。脳細胞内部の自己は、五つの入り口とその入り口に連なる伝達経路から入って来て脳細胞の局所に成立する像をモニターしているのであり、この時その像をモニターしている事を、視覚で有れば<見る>のであり、聴覚であれば<聞く>のであり、味覚で有れば<味合う>のであり、触覚で有れば<触れる>のであり、臭覚であれば<嗅ぐ>と言う事なのです。
さて以上は、目とか耳とか鼻と言った器官に対して、認知と言うレベルで思考したときに現れる構造にほか有りません。つまり、認知の主体を脳細胞の内部に想定し、その主体が脳細胞の局所に現れる各像をモニターしていると言う事が認知なのだと言う事です。この身体と言う存在に対して、内部としての脳細胞の所にモニターされる像を規定し、その像に関わっている認知主体があると言う事です。ではこの身体はどの様に規定すれば良いのでしょうか。単に認知活動の為の入力器官ではないはずです。認知活動として捉える限り身体は認知器官になってしまうのです。身体は生命活動の主体と言う事であり、物質はまず生命を維持する為のエネルギー補給物と言う事です。つまり食べ物として有るのです。人間はその物質を食べ物として採取する活動を行うのであり、物質が食べ物になるのかどうかの対象判断をするのであり、曖昧な判断で採取したモノを食べて死亡すれば、その活動自体が他者の為には有益であっても、本人はそこでおしまいになってしまうのです。食べ物としての性質を備えていないと言う判断がなされる事になるのです。
生命活動をする主体としてのこの身体存在は、しかし物質を対象にした認知活動を介する事で、物質の構造事に身体で関わって行く事になるのです。物質の構造についての知は、脳細胞の内部で像として対面し、物質に対して身体の活動を制御する道具となるのです。身体活動を制御する主体としての自己は、対象の知を脳細胞の中で像としてモニターしているのであり、そのモニターされている対象像と身体像とを統一しながら、特定の身体活動を実践していくのです。つまり、目の前の木々を手に取るのは、対象としての木までの位置と方向を五感によって知覚し、身体をむその木の方向に移動させて、手を木の方向にのばし、手に握ると言う身体運動を行うのです。
木を握ると言う身体運動は、木と言う物質に対する大きさや形や方向等の認知活動がなされ、それが五感による対象判断として絶えず繰り返されながら、歩く事で身体と木との間の距離を縮めていくのです。この歩くことは、身体を立ち続けさせる意思と足を交互に一歩一歩前に出すと言う意思によってなされるが、しかしさらに歩く方向や目的の場所に対する五感による認知が加わる事で、成立しているのです。
<見る、聞く、触る、嗅ぐ、味わう>と言う五感にあっては、歩く時の身体が作るバランス感覚に、身体が立つ大地との垂直を知覚する視知覚が加わるのであり、その構造によって歩く事が出来ているのです。私達は、一枚の絵画の構図のなかにも、現実の世界の中にも、奥行きと言うモノを捉えているのです。両者は視知覚の内容として同一の奥行きを示しているが、現実の場合には、その奥行きの所にある諸物に対して、身体からの距離を視知覚し、物に触れながら一歩一歩歩くのです。この一歩が距離を変化させ、見る物の角度が違ったり、形が違って見えたりと言う五感が絶えず変化していくのです。この変化を作り出すモノが、まさに歩くと言う活動なのです。一歩一歩の地点から見られた物は、それぞれが距離によって視知覚により大小として比較され、頭脳の内部で、奥行きとして構図が概念化されるのです。この概念化が出来ると、一枚の絵画でも、そこに描かれている諸物の大小の視知覚は配置としての奥行きを判断する事になるのです。