読   書   日   記

-------------2004年12月31日---------------

バカの壁・養老孟司・新潮新書

第四章 万物流転、情緒不変
意識が自己同一性なり共通性なりを求めるものである事の代表例が言葉であると言う事です。この問題は特にギリシャ哲学の昔から考えられています。この問題が、「定冠詞・The」と「不定冠詞・a」の違いに現れているのです。この問題に行く前に、言葉を脳がどう処理しているかを考えて見ましょう。
「リンゴ」と言う文字言葉を、書かせると全員が違う字をかきます。コンピューターでの文字は、明朝、ゴシックだと言う書体があります。どの書体でも、すべて「リンゴ」と言う文字なのです。
この「リンゴ」と言う文字は、<OSAKA>と言う書体によって表示されているのであり、上の説明が、文字についての説明であるにしても、その説明も現実としての文字である<OSAKA>と言う書体で表示されているのです。書き文字についての一般論であっても、個々の具体的書体でしか表せないと言う事なのです。私の視覚は、そのOSAKA書体の文字を読むのだが、理解は文字としての書体についての一般論であり、だから一般論としての理解をしながら、その一般論を表している表現は、個々の具体的書体としての、OSAKA書体であると言う理解をするのです。しかし現実の書体であるOSAKA書体は、現に視知覚しているそこに見た通りにあるのだから、視知覚している事が、OSAKA書体を認知しているのであり、読みづらい、見づらい書体と言うレベルでの感想をもたらすと言うレベルなのです。各書体の違いは、そこで述べられている<書体についての一般論>について、関わっているのではないのです。文字についての一般論としては、表現される文字には、多数の書体があると言っているだけであり、その一般論を述べる文字としての表現では、多数の書体の内の一つであるOSAJKA書体と言う個別的具体的書体で表している。その文字で一般論を述べようと具体論を述べようと、表現としては、いつも個別的具体的であるのです。
私の知る限り、この問題を最初に議論したのは、プラトンなのです。リンゴと言う言葉が包括している全てのリンゴの性質を備えた完全無欠なリンゴがある。それをリンゴの「イデア」と呼ぶのだと。そして具体的な個々のリンゴは、その「イデア」が不完全にこの世に実現したものだと言ったのです。「一個一個皆違うのに、しかしどれも皆リンゴと呼ぶのは、一個一個の、その全てを包括するモノとしての、イデアとしリンゴがあるのです。」我々がリンゴと言う言葉を文字に書いても、音声にしても、全部違うのに、それを同じリンゴだと言っているのは、何故なのか。それはまさに、全てを同一のモノだと認識する事が出来る故に起こる現象なのです。本来なら、外の世界は感覚で吟味する限り、全てのものが違う。あらゆるリンゴは全部違っている。では、意識は、それらの違いを無視して、「同じ」リンゴだ、と認識する機能を持たなくてはいけないのか。脳が、それぞれの情報の同一性を認めない事になると、世界はバラバラになってしまうからです。
我々の感覚は、世界をバラバラのモノとして認知しているが、しかし世界はつながりがあるから、単にばらばらと言う認識ですまされないのであり、その感覚の認識の中で、バラバラのモノに同一性を認める意識を持つ様になっていると言う事です。
<イデアとしてのリンゴ>と<現実の個々のリンゴ>との関係は、イデアとしてのリンゴが、この世界に現れ出て来た時の個々のリンゴになったと言う事です。イデアとしてのリンゴの有り場所は、さしあたって分からないとしても、<イデアのリンゴ>の現れ出た個々のリンゴは私達が住んでいるこの世界にあり、私達が目のしている個々のリンゴだと言う事なのです。私達が日々接している個々のリンゴと呼ばれている食べ物であるモノは、たぶん人間の頭の中で形成されたイデアとしてのリンゴと日々経験している食べ物としてのリンゴとの関係であり、常識的な考えとしては、現実の個々のリンゴと呼ばれているモノに対して、それらの個別であるモノ達にある属性が、同一の属性として共通性として知覚されて、頭の中に出来ていると言う事です。この考え方で行けば、「イデアとしてのリンゴが、この世界に入って個々のリンゴになった」とは、個々のリンゴにある属性が、同一の属性としてあり、それが共通性として認識されて頭の中に出来たモノが<イデアとしてのリンゴ>と言う事なのです。
 多数の集まりとして個々のリンゴがあり、それがそれぞれ持っている属性の内、皆同一であると知覚される時、私達の五感は個々のリンゴに向かっていながら、頭の中に<イデア>としてのリンゴが成立すると言うのです。ただし、ここで語られている<多数の集まりとしてのリンゴがあり>と言う言葉は、言葉になった結果としてのモノが語られているのであり、語られる以前には、<多数の集まりのモノ>だけであり、その集まっているモノに対して、<イデア活動としてのリンゴ活動>が作動して、初めてその言葉が成立したと言う事なのです。目の前にある事実に対して、<イデア活動>がなされ、その目の前の事実に対して、言葉活動として<多数の集まりとしてのリンゴ>が成立したのです。とすると、私達にとっての言語活動がなされる時、そこには事実活動があり、その身体活動の中で、それについて頭の中に<イデア活動>が出来て更に言語活動がなされると言う事なのです。そして今は、言語活動であり、それが<多数の集まりとしてのリンゴ>と言う言葉になっているのです。これを記している私には、その前後が分かっているが、この文章を読む者には、この言葉が始まりであるから、<多数の集まりとしてのリンゴ>と言う言葉により、事実としての集まりを考える事になるのです。この言葉の讀み解きにより、頭の中に成立したモノは、<イデア活動>と同じであり、そのイデアの中で、イデアの生まれ出てくる所に帰るのだが−−いつも生まれ出てくる所で生きているのであり、その中でイデアが生まれていると言う事です−−しかし、いつでもイデアの世界で有り続けてしまうのです。
 <多数の集まりとしての個々のりんご>と言う言葉である限り、それは<事実に対する言葉>なのだと言う事です。つまり、<事実>と<事実に対する言葉>と言う事も言葉であり、ここでの言葉の世界から抜け出す事が出来るのは、書く事を中断してコーヒーでも飲めばいいのだと記しても、やはり言葉になってしまうのであり、・・・・・・・。

プラトンのイデアも、その様な頭の中に成立しているはずだが、しかしプラトンにあっては、頭の中のイデアとしてのリンゴが、現実の世界に流出したモノが個別としてのリンゴであると結論づけられてしまうのです。この様な考え方は何処から生じたのか。それは、頭の中のイデアを、頭の外に音声としての<リンゴ>やインクの跡としての<リンゴ>と言う文字として表す事で、個々のモノを<リンゴ>と言う言葉で呼ぶ様になれると、単なる個々のモノは、はじめて<リンゴ>と言う名前で名指されるようになったと言う事なのです。頭の中にある<イデア>と言うのも、言葉であり、頭の中のモノが、<イデア>と言う言葉になったと言う事なのです。<頭の中のモノ>も<イデア>も言葉であり、その様な言葉になるモノが頭の中にあると言う言葉に表す事で、私が語りたい事を他者に理解させ様としているのであり、他者は私の言葉から、私の認識を理解するのです。しかしあくまでも言葉に向かっての理解であり、他者が私の言葉から理解した所から、彼の行動が形態を変えて継続するのであり、私は他者の言葉から理解した所から、私の行動の形態を変えて、継続するのです。私がここで語り、理解するのは、私の全存在の中の一部であり、その一部の性質についても、了解しながら、めいっぱい言葉を使っているのです。
つまり、語られる言葉でも聞く言葉でも、言葉で有る限り、それらに向かうと言う事は、頭による理解と言うレベルの事であり、理解した後はどうするのかと言う事も一応考えるのだか、それさえも言葉によるりかいと言う世界にいることになるのです。私の身体はコンピューターに向かってキーボードをたたいているのであり、その姿の中で、言葉の理解をしているのです。理解のレベルで成立している事を継続しているのであり、それは頭の中の出来事であるが、頭が身体の上部にある器官であるなら、身体全体は多様な形態をとりながら活動をしているのです。頭の中の理解と身体活動の形態変化とを繋ぐのは意思と言う事なのです。私の意思は、言葉を語る事で、言葉の隣でいつも身体活動の多様な形態が変化している事なのです。

<単なる個々のモノ>も、言葉だと言う事を忘れてはならないのです。この<単なる個々のモノ>と言う言葉以前に、有るモノと言う言葉でイデアとしての活動がなされているのです。今まで無名
  −−ここでも注意が必要で、無名と言う名前が有るのではない。頭の中のイデア活動により、無名と言う言葉が成立したと言う事であり、<モノA−名前>と言う関係のイデアにより、いま知覚されているモノBには、まだ<モノ−名前>と言う名前の関係が無いと認知されているので、そのイデアを言葉にしたモノが、無名と言う言葉なのです。−−−−
であるモノは、名前を持ったモノになったのです。そのリンゴと言う名前をもった個々のモノは、頭の中のイデアが無ければ成立しないのであり、その視点からすれば、頭の中の存在であるイデアは、個々のモノの名前の根元であると言う事なのです。
個々のモノの共通性として認識されて頭の中に成立しているイデアは、あくまでも個々のモノにある属性として存在するモノに対しての五感知覚を介して頭の中に成立した認識としてあるのです。イデアの元は、現実の事物にあり、その現物に対して五感による知覚が成立し、同時に頭の中に認識としてイデアがあると言う事なのです。その頭の中のイデアは、名前と言う形をとって現実の個々の事物に対して、指示として関わるのであり、この名前と言う指示の事を、イデアの現実態であり、頭の中のイデアが外部に現れ出て来たモノと言うのです。

耳から認識した世界と目から認識した世界が、別々ではしょうがない。だから同じだと、脳=意識は言わざるを得ないのです。リンゴと言う言葉を聞いて、又文字を見て、頭の中には「リンゴ活動」とでも言うべき動きが起こるのです。そのリンゴ活動とはどういうモノなのかと言うと、現実のリンゴを見なくても、同じ反応が起こる活動です。それはリンゴの絵を描けと言う要請を受けた時に、視覚野を調べると分かる事です。具体的なリンゴを見ている場合と、リンゴをイメージしろと言った場合で、脳の中の視覚野では、ほとんど同じ活動が起こるのです。つまり、リンゴと言う言葉が意味しているものは、一方は外からのリンゴだけれど、もう一方は脳の中でのリンゴの活動です。リンゴと言う言葉は、その両面を持っている。

<The>と<a>の違い。

<机の上にリンゴがあります。>−<There is an apple on the desk.> この時の意識の流れは次の様になります。
「机の上に何かあって、それが視覚情報として脳に入って来た時に、私の脳味噌で言語活動が起こった。リンゴ活動が起きた。視覚情報として入ってきた<赤い丸いモノ>に対して、脳の中で<リンゴ活動>が発生した結果としての<リンゴ>に過ぎないのです。」脳内の過程に過ぎないのです。では次に、その外界のリンゴを本当に手で掴んでかじってみます。もしかするとそれは実際には、蝋細工かもしれもせん。ともかく、この時点でようやく実体としてのリンゴになります。それが英語で<the apple>になります。実体となったから定冠詞がつくのです。大きな概念としてのリンゴではなく、ある特定の私が手にした(場合によっては、実は蝋細工のレブリカだった)リンゴになった。外界のリンゴはそれぞれ別々の特定のリンゴだと言う事です。
外界のリンゴは、それぞれ特定のリンゴ以外ありません。所が、頭の中のリンゴは、プラトンの言うイデアとしてのリンゴです。頭の中のリンゴはと言うのは、不定です。色も形も、大きさも、何も決まっていない。それは<an aplle>になるのです。プラトンに対して、現代の言語学、ソシュールは、その定冠詞不定冠詞の区別を、<シニフィアン・・言葉が意味しているモノ><シニフィエ・・言葉によって意味される>と言う風に説明しているのです。
リンゴと言う言葉が意味しているモノ・・頭の中のリンゴ・・・・・・・・・定冠詞
リンゴと言う言葉が意味されるモノ・・・机の上に有るリンゴ・・・・・・不定冠詞
と考えれば良いのです。
リンゴと言う言葉があり、その言葉が意味するモノと意味されるモノと言う事
リンゴが机の上にある。
と言う文章が意味するモノは、頭の中にある<リンゴ>について語っていると言う事。その頭の中の<リンゴ>が、その文章の意味なら、現実の机の上のリンゴが意味されるものとなる。語られた言葉の意味は、語る主体の頭の中にある<リンゴ>であるが、言葉の意味するモノである<頭の中のリンゴ>について知るのは、現実の<机の上のりんご>を知らなければならないと言う事です。
<現実の机の上のリンゴ>と<頭の中にあるリンゴ>の両者の関係が、その文章に表されているのです。その両者の関係は、
リンゴ<が>机の上にある。・・・(1)
リンゴ<は>机の上にある。・・・(2)
の二つの文章によって違うのであり、その違いが<が>と<は>によって表されていると言う事なのです。その二つの文章を読んだ時、私達は<が>と<は>が違った意味を表している事を理解できているのです。その意味の違いを知るためには、<言葉の意味>が、まず理解されると言う事です。それが<意味するモノと意味されるモノ>と言う区別なのです。とすると<が>と<は>による意味の違いは、意味するモノとしての頭の中のリンゴのあり方の違いと言う事になります。そのあり方は、現実のリンゴとの関係と言う事なのです。ただしこの現実のリンゴと言う場合、ここでの文章における「机やリンゴ」は、いま記しているこの時点で私の目の前にあると言うのではなく、頭の中にある思考を、言葉の理屈を考える時の文章例として表しているのです。

<言葉は、思っている事をインクの跡や音声として表す事である>と<机の上にあるリンゴについて表現している>と言う区別は、両者とも言葉としての表現であると言う点で同一であるのに対して、前者が話し手の思考を言葉にしていると考え流の対して、後者は目の前の事実を言葉にしていると言う事で、理解しようとしたら過ちに走る事になる。何故なら<机の上のりんご>が私達の身の周りの事実なら、<キリスト教会の中を飛ぶ天使>が頭の中の空想の産物であると言う事に対して、前者もその事実に付いての感性的知覚による認識がなされていると言う事なのです。頭の中の認識のあり方が違うだけであり、例えば、明日の天気を考えるのは、今日の時点での出来事であり、ただいまの時点での天気を知覚していながら、明日の天気を予想するのであり、それは頭の中の出来事だと言う事なのです。ただ明日になれば、その予想が実現されたとか、外れたとか言う事が出来るのであり、外れれば、それは頭の中の出来事だけだったと言う事になるし実現されれば、その日の天気を頭の中で予想したと言う事になり、予想は、雨の日の行動に見合う衣服にするなり、傘をもつなりすると言う事なのです。予想が違っていれば、雨に降られて衣服が濡れると言う事なのです。明日の天気について、今日の天気から予想するとき、当然明日の天気は、今存在していないのであるから、まだ無いモノに付いて、頭の中で考えているのです。この頭の中で考えている明日の天気のことは今日の天気を視知覚している今の状態の中で、天気として了解されるモノと同じ概念が、使われているのです。今日の天気は今の自分の住んでいるここで生じている事であり、それについての知覚が出来ているのだが、同時に<天気>と言う概念も、頭の中で使われているのです。その概念を介して明日の天気の具体性を頭の中で組み立てるのであっても、別に明日になれば、具体的天気が現れてくるのである。とすると今日ここで組み立てている<明日の天気の具体性>と言う予想は、今日の天気の状態に対して明日と言う時間の経過を考えている事であり、時間と共に変化する天気の状態から、10時間後の天気の状態の具体性を考える事が出来るのです。もし時間の経過を考えずに、今日の雨の中で晴れた状態の天気を思い浮かべる事は、雨の経験も腫れの経験も曇り、雪、霙等の経験から、腫れの経験で得たイメージを思い浮かべると言う事なのです。しかし思い浮かべられた腫れのイメージは、明日の晴れの天気と言う生の現実を作り出す訳でも、明日の天気を左右する訳でもないのです。私の身体は眠って起きれば、明日の天気の中にいるのです。それに対して明日の天気の予想とは、今日の天気の状態が、大気の気圧配置等によって作られていると言う自然の法則性が有るために、その気圧配置の変化が、明日までの時間の間にどの様に変わるかを考えれば、明日の天気の状態を考える事が出来るのです。その考えられた状態は、幾つモノ経験で得た状態の知識を使い想像するのであり、その想像の裏付けとして気圧配置と言う自然の法則に付いての認識が働いているのです。また夕方の西の空が夕焼けになると、明日の天気は晴れであると言う考えは−−明日と言う時間経過を考えるから予想と言う−−両者の一意的関連を経験しているからだが、さらにその経験を裏付けるのが、西の空の夕焼けの天気を作り出す気圧配置が、明日までの時間経過にともなう配置の変化を考える事のにより、天気の状態を考えるのです。
気圧配置と言う、天気を作り出す大本を考える事が出来る様になった事が、西の空の夕焼けと言う現象がどんな気圧配置から生まれて来ているのかと言う天気の構造を分析出来るのです。私達の夕焼け体験と翌日の晴れの体験の連続性と言う知識は、その夕焼けや晴れの状態を、気圧配置の構造の知識と結合して、経験を含んだ自然法則と言う知識になったのです。夕焼けや晴れの経験は、日々成立しているが、気圧配置と言う概念は、天気を成り立たせている大気の流れと言う、大きな構造を分析しなければ得られないモノなのです。その構造の分析をする道具の発明が、人間の思考力の発達を促していくのです。

机の上のそれを見て、頭の中の<リンゴ活動、当然ツクエ活動、ウエ活動>が作動して<机の上のリンゴ>が頭に出来て、「机の上にリンゴがある」と言う言葉が表現されるのです。私が経験している机は多様であり、学校の机、会社の机、病院の机等多様な、それぞれの机として経験しているのです。そこでは、それらの多様なモノに対して、どれも皆同一の机と言う言葉に表される概念活動が成立していると言う事です。しかし私達の頭の中で成立する概念活動が言葉に表される時、私達はその場にある机に向かって勉強すると言う具体性があるのだから、概念活動がなされる。視知覚から入ったデータは、<机の上のリンゴ>と言う言葉になったとしても、頭の中にはその場の固有性が入っているのです。とすると頭のに入ったデータに対して概念活動がなされても、同時に固有性が有るのだから、その固有性と概念とが言葉に表される時、色々な<固有性と概念の関係>が、言葉に表されるのです。それが定冠詞であり、不定冠詞と言う事です。
現実のリンゴと頭の中のリンゴと言う区別は、<現実と言う認識>と<認識として成立しているモノ>と言う区別です。頭の中に成立する認識が、頭の外の世界についての認識であり、その頭の中の認識にある内容が<現実>と言う内容であったり、空想で有ったりと言う事です。言葉は、その頭の中の認識を、インクの跡や声帯の振動として関係づける事を、表現すると言うのです。さらに頭の中の認識にある内容は、言葉の個々の語彙として現れていると言う事なのです。
(1)も(2)も、頭の中の認識を表している事には変わりがないが、その認識の内容の違いが、<は>であり<が>であると言う事なのです。つまり、認識とその認識における内容と言う構造が問われているのであり、頭の脳細胞の働きとしての認識である事と、その認識にある内容が、言葉の違いとして現れていると言う事です。「バカの壁」では、その認識の内容の違いを、現実のリンゴと頭の中のリンゴと言う区別で示しているが、認識が頭の中の出来事である時、頭の外の出来事Aと、その認識の内容としての<頭の外の出来事B>と言う区別を出来なくしているのです。ここでの文章に有っては、頭の外角世界と頭の中の認識の世界との区別を立てているのだが、前者の<頭の外の世界>と言う言葉が、言葉で有る限り、頭の中のでの認識が表されているのであり、頭の中を通った認識が、言葉として表されているのです。「この<頭の外の世界>があり、それについての認識として頭の中に成立したモノが、言葉として表される」と言う俯瞰的な構造があります。しかしこの生きている私達にとって、まず生きている現実の世界があり、その世界の中でこの様な多様な言葉を作り出しているのであり、それをあえて言葉を形成する認識の世界を軸とした時、頭の外の世界と言う言葉が出てくるのです。認識の世界を軸としなければ、単に現実の世界で生きていると言う事であり、外であるとか中であると言った論理は生じないのです。つまり、ここでの諸言葉は、そしてこの言葉も、現実の世界とそれらについての認識を論理として語っている事なのです。
この説明である言葉の中で、AとBとが、同じ言葉として有ることに注意しなければならないのです。AもBも、同じ言葉であるのは、ここでは言葉での説明が全てであり、言葉に表すことが、全てなのだからです。そして言葉での説明から、言葉でないモノを理解すると言う事なのです。つまりここでの言葉は、私達の頭の中の認識を表しているのであり、言葉に向かいながら、言葉でないモノを言葉にしている事を理解し続けると言う事なのです。<現実の世界!、現実の世界!>と言葉を言ってもその言葉を発している事が現実の世界で有っても、<現実の世界!、現実の世界!>は言葉でしか無いと言う理解なのです。その言葉でしか無い言葉から、言葉に表されている認識の向かっていた現実の世界について知る事なのです。知った後にどうすのかと言う事が、あるいはどうしているのかと言う事が現実の世界あり、その言葉の前で立ち止まって身動きできないのも、言葉を前にしている現実の世界であると言う事です。
その世界を、この様に<現実だ!、現実だ!>と一生懸命に説明している時、身体は白紙の前に向かっていても、すでに心は言葉の世界にいるのであり、認識されて頭の中に繰り広げられている世界を、言葉にしているのです。考え事をしながら歩けば、目は前を見ていても、注意が向かず階段から踏み外す事になるのは頭の中の思考は、語彙や映像を駆使するために、注意はその映像や語彙に向かってしまうからです。その不注意な歩行は、確かに現実の世界での歩行であり、現実には身体が怪我をするかもしれない歩行だと言う事なのです。

日本語の定冠詞

ではこういう重要な違いと言うのが日本語に存在しないかと言うと、そんな事はない。脳が共通性を求めるのに、日本人だけが言語を脳の中で別処理している、なんて事になってしまうのです。
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   むかしむかし、おじいさんとおばあさん<が>おりました。おじいさん<は>、山へ芝刈りに
   おばあさん<は>、川へ洗濯にいきました。
この<は>と<が>と言う助詞の違いの説明をしないといけないのです。
最初の<が>がつく、<おじいさんとおばあさん>と言う時には、子供におまえの頭の中に爺さんのイメージとお婆さんのイメージを浮かべろ、と言っている。特定のお爺さん、お婆さんを浮かべろと。浮かんだら今度はそのお爺さんが物語の中で動き出します。その特定のお爺さんについて<お爺さんは、山へ芝刈りに>と言う動きを始めるわけです。
文法学者は、英語の場合の<the、an>と言う冠詞について、名詞の前に着くと言う形態をそのまま日本語に当てはめてしまうから、その冠詞の働きが、日本語にも存在している事を、ついに理解出来なかったのです。
プラトンにしてもソシュールにしても、自己同一性に絡んだ、言葉の世界と、あるいは別の言い方をすれば情報の世界と、システムの世界についての思想を表しているのです。

まず現代の文法学では、英語の主語の説明の様に、その主語の扱いと違うらしい事が分かっているから、<が>が扱う<おばあさん、おじいさん>を、この文章の題目として取り上げられる為に使われ、その題目としての<おばあさん、おじいさん>が、つぎにどの様にしたのかを<は>で示していると言うのです。
・・・相手との会話では、題目には、相手の知っているモノを選び、相手にとって未知なるものは
   後の説明に部分に置くのが望ましい。
題目とは、会話する者同志の間で共通として理解されているモノであり、両者には自分の祖父母と言う特定の年寄りがいても、その共通の理解は、あくまでも年寄りの女の人と男の人と言うレベルの理解であると言う事なのです。自分の祖父は頭がはげているが、かれの祖父は白髪であると言う事であって、二人がその言葉で想い浮かべるイメージは、はげている頭であり、白髪の頭であると言うことだが、しかしあくまでも共通は年寄りであると言うレベルなのです。
言葉として表現する事で、内的な想いが表に現れる。想いがその姿を変えるなり、あるいはそのままで、人々の耳に音として現れでてくるか、白紙の上にインクの跡として現れでてくるのかと言う事です。インクの跡は、白紙の上に定着する特定の性質をなす液体であるが、頭の中の想いが、そのままか、あるいは姿を変えて、液体になったと言う理解なのでする。しかしこれはどうもおかしいのです。身体から汗が外に出て来る様に、想いが外に出て来るわけではないはずです。それもさらに出てきて、インクの液体に姿を変えたと言う様な訳ではないのです。想いが、言葉として表されると言う場合、頭の中の想いは、そのまま頭の中に存在し続けるのであり、その頭の中の想いと物質としての音声振動やインク溶液とを対応させるのです。音声は、音韻と言う相互の区別を付けながら、区別された音韻どうしの組み合わせで出てくる、一つ一つの言葉に、分析された想いを、対応づけるのです。音は、音韻として音声表象の姿で頭の中にあり、また頭の中にある思考と対応づけるのです。あるいはインクの跡の場合インクが作る線や形による相互の区別から、文字と言う線と形の組み合わせの単位に、分析された想いを対応づけるのです。
内部に出来てくる想いを、その対応関係にあるインクの跡がつくる単語の組み合わせとして、つくるのです。この単語の組み合わせにより、個々の想いが対応した単語の成立が、想いの表現となるのです。問題は、最初の<想い−−インクの跡による線と形の組み合わせ>が、どの様にして成立するのかと言う事なのです。つまり、私達が単語を覚えていく事の構造が問われるのです。
目の前のモノを指し示して、<リンゴ>や<apple>と言う言葉を書くのです。<・−−リンゴ>と言う指示関係を理解する事であり、<リンゴ>と言う文字が、リンゴの名前である事を理解するのです。
この言い方には、二つの言葉が使われている。<指示>と<名前>と言う事です。指示の場合、私の目の前にある<このもの>を指示すると言う様に、例えば手で持ち上げて見せることができたりするのです。つまり個別として把握出来る物なのです。このリンゴも、こちらのリンゴも、そちらのリンゴにも、指示として<リンゴ>と言う言葉が成立する事になる。このそれぞれに対して皆<リンゴ>と言う言葉を指示として使えるのは、このそれぞれの別々の物に同一の共通のモノが有るからだと考えるのです。さしあたって指示で行けば、それは<リンゴ>と言う言葉が皆同じであると言う事が言えるが、その前に別々の個別に対して、言葉が指示関係を持つと言う事なのです。多数の個別の中から、このものを選択し、それに<リンゴ>と言う言葉を「これと言う指示関係」として使うのです。その隣にリンゴがあつてもその向こうにリンゴがあっても、今はこのリンゴに対して<リンゴ>と言う言葉が使われているのです。このレベルでは、このリンゴに対して成立している指示関係は<リンゴ>と言う言葉が、何かリンゴの共通なモノを表すと考える所まで行っていないのです。それは音韻としての区別であり、<ミカン>でなく、<西瓜>でないと言うレベルです。
それがこのリンゴにも、そのリンゴにも、あのリンゴにも、みな<リンゴ>と言う音韻を指示として対応させると、それらのそれぞれ違う、リンゴが、みな同一の<リンゴ>と言う言葉を共通にして、指示関係を形成していると言う理解になるのです。そこではじめて別々のリンゴに対して、そこにある何を共通にして、共通の<リンゴ>と言う文字による指示関係にするのかと言う事になるのです。さし当たりその形と色と大きさと言う視知覚認知されたモノが共通になると考えるのです。そういう目に見えている色や形や肌触りのモノを<リンゴ>と言う言葉で指示するのだと言う事なのです。さらにその様に五感知覚されるモノが、同時に食べ物であると言う規定として概念化される時、どれでもその様に概念化されるモノは、<リンゴ>と呼ばれる事になるのです。絵に描かれたモノは、リンゴにおける形や色という側面を、絵の具で白紙に像化したのです。その絵に対しても<リンゴ>の絵という様に、先頭に<リンゴ>と付けるのは、リンゴという言葉が指示する感性的知覚の側面の同一性によると言うことです。描かれたモノは、決して食べられるモノではないのだが、リンゴの感性的側面が同一で有るので、同一性で<リンゴ>と呼ばれ、さらに一方は食べ物であるが、他方は描かれたモノと言う事で、<リンゴ>の<絵>と言う事なのです。
さてもう一つの<名前>と言う事では、これと指示される私の目の前のリンゴに対して、<リンゴ>と言う言葉が名前であると言う事です。選択されたこのリンゴに対して、<リンゴ>と言う文字のあり方を「名前」と規定しているのです。それは<ミカン>も<モモ>も名前であると言う事です。あくまでも指示関係を前提にしているのであり、このリンゴに対して<リンゴ−−リンゴ>と言う指示関係から見た<リンゴ>と言う文字が名前であり、リンゴが名指されるモノと言う事です。指示としてのこのリンゴでは、他のモノでは無く、このリンゴが選択されているのであり、その選択を<リンゴ>と言う文字によって印を付けている、名前を付けていると言う事です。
 この選択と言う意思は、私達の意識としてあり、視線を向けるとか、それを思うと言う内的なモノとしてしかない。その内的な意思を、外的な物体にたくして表す事が、名前と言うインクの跡や音声などの言葉なのです。<リンゴ>が名前であると言うのは、私達の意思活動によって選択し、その選択されているモノが、このリンゴである事を断定づけるモノとして、このリンゴに名前と言う印を付けておくのです。この名前と言う印が、刃物で印としての傷を付けて置く事違うのは、後者であったら傷は、このリンゴに対してのみでしかないのに対して、名前は、このリンゴに対する印であると共に、このリンゴが持つ<形や色や材質と食べ物であると言う側面>を認知して表している印であると言う事なのです。刃物の傷の場合、刃物の刃先の形がただリンゴについていると言う事でしかないが、名前としての<リンゴ>は<形や色や材質と食べ物であると言う側面>を表している文字として、このリンゴに紙に貼られているのです。刃先による傷と同じなのは、それがインク溶液と言うレベルであり、その溶液が作る跡が線や形としてある事で、想いに対応させているのが、刃先の作り出す傷と全く違う点であると言う事です。

刃物の先の作り出す柱の傷が、子供の背丈の高さを表す場合、マジックでは消えてしまう方が多いが、刃先による傷では、柱の材質に傷を付ける為に木が有る限りそのままになっているのです。傷か特定の位置に付いている事が重要であって、その特定の位置を表すのが、刃先による傷と言う事なのです。床の位置から傷の位置の間の距離が問題であり、その距離を表すモノの一つが刃先の作り出す傷と言う事です。<刃先が作り出す傷が表す>と言う言い方をしているが、傷だけでは、刃先の鋭さが、木の表面を傷つけたと言う事でしかなのであり、床と傷の位置との間の距離が重要で、その距離を作り出すモノとして傷があると言う事を<傷が表す>と言うのです。<傷が表す>と言う時、その言葉が生まれる前提は、高さの原点としての床の位置であり、その床を原点として、特定の高さに傷を付けていると言う事なのです。子供と言う存在に対して、その背丈と言う側面を抽出した<高さ>を、子供とは別の存在である柱と言う存在に、床からの高さとして傷を付けているのであり、子供と言う存在の背丈と言う側面を、別の存在である柱に床からの高さとして傷を付ける事で、関係づけが行われたのであり、それを傷が背丈の高さを表すと言うのです。
子供と言う身体の存在があり、他方に床からの柱の存在があります。それは人間が家に住んで生活していると言う関係です。その中で、子供の身体存在は、背丈と言う側面が<高さ>として抽出され、背丈の高さを規定する原点としての足のひらと、床の位置の原点の共通性から、抽出された高さを柱の高さで表すと言うのです。身体と言う存在と柱と言う存在は、別々のモノでありながら、足の平を原点にし、柱のたつ床を原点にすることで、原点としての共通性が両者を<高さ>と言うモノを中心にして関係が出来るのです。

 発言として<リンゴ>と言う音声が発せられる時、発声する者の頭の中では、リンゴに対する認知とリンゴにある名前としての<リンゴ>と言う事です。ただこのリンゴに対する視知覚としての認知には、単に赤いハート型したものではなく、食べ物であると言う概念認知が含まれているのです。リンゴに対する認知は、それを日々食べ物として使用しているモノだと言う事が含まれているのであり、その食べ物として使用しているリンゴに名前として<リンゴ>が指示されると言うのです。例えば瀬戸物性のリンゴがあれば、当然食べられるモノでない事はあきらかだが、食べ物としてあり、さらにリンゴと言う名前で呼ばれるモノであるリンゴに対して、その形や大きさをだけを同一にしてあると言う理解をするのです。リンゴにたいする認知として、目の前にある通りに有るモノと言う視知覚認知であるが、さらに食べ物であると言う日常の実践的認知は、リンゴにおける特定の種類と言う側面の認知として成立していると言う事です。この種類という側面は、リンゴにある材質が関わっているが、その材質が種類と言う側面なのではなくてその材質のものが食べられると言う事で、はじめてリンゴが食べ物となるのです。つまり、リンゴが木に自生しているのに対して、それを採取し、食べる事でその材質が有益、身体の栄養として有用であることが明らかにされていくのである。リンゴ自体にある自然性質は、化学が解明する物質の構造として有るだけで、その解明された物質の構造が、人間の身体に食べ物として入っていった時、胃の府で吸収されて栄養分となるとき、はじめてその自然的性質に対して、栄養と言う側面があると言う事になるのです。
さらに言えば、リンゴは、果物と言う種類と言う側面は、食べられるモノである材質が区別されるのであり、その区別により野菜であったり、果物であったりするのです。食べられる材質としては同じでありながら、自生している所が木々の場合に、果物と言い、茎による物を野菜と言う、区別として有るのです。
脳の中の<リンゴ活動>とは、リンゴを前にしている時に、<特定の形や色を備えたもので、食べられるモノ> と言う規定をしていると言う事です。<特定の形や色>は、リンゴに対する、視知覚認知として成立しているのであり、その視知覚認知の内容が、現実に食べられて、舌や口が感じている材質などの認知と現に食べていると言う実践認知とが統一されて、リンゴに対して概念認識が成立するのです。100個のリンゴが有る場合でも少しづつ形や色合いが知がっていたり、酸っぱかったりするのであるが−−それらは形や色や大きさとして知覚されるのです−−それにも関わらずみな<リンゴ>と呼ばれるのは、大まかで有っても、その形や色と言う認知が成立している事に依るのであるが、しかし大きな視点は、どれも同一の形で色であると同時に皆食べられるモノであると言う規定が出来るからなのです。ここで<食べられるモノ>と言う言葉は、現にお腹が空いて物を食べると言う事が指示されているのです。つまり、自然諸物があり、それらが<食べられる物>になるのは、諸物を口にしれて栄養となる事で証明されるのです。フグと言う魚を食べたら、生命に危機がくれば、それは食べられる物でないと言えるのです。科学は、フグの成分を分析して、その成分が身体を構成する細胞や神経の運動に支障を来すと言う事が、分かれば、それは食物になる物から、除外されるのであり、食べてはならない物に分類されるのです。つまり私達の思考は、その様な分類をするのであるが、思考の対象である食べる現場では、間違って食べれば、死ぬ事になるか、生命に危機が訪れるかと言う事です。その現場が、食べ物の否可を絶えず証明しているのです。それは思考による分析を待たずに絶えず繰り返されているのであり、私達の思考はただその繰り返しを統一的に扱っていると言う事で、思考により、未知の物を食べて危機に陥る事を、防ぐ段階であるのです。

現実に<リンゴ>と言う名前で呼ばれているモノは、そのままではしなびて、最後には腐ってしまうモノとして生き物です。だから日々に変化していくのであるが、しかしその変化であっても、別の生き物に変わってしまうわけではないのです。そのリンゴと呼ばれているモノが、生き物として変化していても、別の生き物に変わる訳ではない領域の事を、<イデア>と言うのです。時間の変化に伴って、そのモノの形態が変化していっても、別の実体にならない限り、イデアとしては、無変化と言うのです。

「イデアとしての<リンゴ>」と言う言い方は、<リンゴ>と言うのが言葉として、まずインクの跡であったり声帯の振動であったりする。その言葉として<リンゴ>があります。その言葉が、リンゴに対して、名前としてあるのです。つまり、<リンゴ>とは、言葉としてあり、リンゴの名前と言う事です。とすると「イデアとしての<リンゴ>」と言う言い方は、現実のリンゴの名前として<リンゴ>であり、そのリンゴの特定の側面についての名前として<イデア>と言う事になる。その特定の側面とは、リンゴと言う日々変化していくモノに対してその変化にも関わらず変化しない側面が、<イデア>と言う言葉で名指されているのです。その変化しない側面とは、リンゴが日々変化しても、けつして葡萄と名指されるモノになるわけでも、西瓜と名指されるモノになるわけでもないのです。リンゴには成長の変化があり、色を変わってくるが、決して他の果物になってしまう事では無いのです。そういうレベルで不変の側面があると言う事なのです。

例えば、氷、水、水蒸気と言う三つの形態は、相互に他のモノに変化することが出来て、氷がとけて水になり、水が蒸発して水蒸気になると言うレベルでは、そこには変化するモノしかないが、しかしその私達の周りにある三つのモノが、変化していても、分子としての<H2O>は、変化はしていないのです。変化するのは、その形態であり、変化しない実体が有るのです。<変化する−−変化しない>と言う事ではなく、変化しないとされる分子(H2O)と変化する水や氷や水蒸気の関係なのです。それは分子H2Oの運動量の違いが、水であったり、氷であったり、水蒸気であったりすると言う事なのです。H2Oの運動量の変化が氷から水への変化であり、水から氷への変化と言う事です。分子H2Oを実体とすれば、みず、氷、水蒸気を形態と言うのです。実体の運動の量の違いが形態と言う事なのです。中身は変わらないが、その外見としての形態が変わるのだと言う事です。ただし、中身のH2Oも、電気分解で、水素分子Hと酸素分子O2とに分解されて、H2O自体がなくなってしまうのです。その場合でも、水と言う形態に対して、電気分解がなされるのであり、実体としての分子H2Oは、形態とは別に存在するのではなく、あくまでも分子の運動として、どれかの形態として存在しているのです。さらに電気分解された水は、酸素分子と水素分子として存在するようになるのです。

多数のリンゴにある普遍的な面が同一で有るために、また共通性でもあり、その面が<イデア>と言う言葉の指示対象となるのです。さらに多数のリンゴにある、やはり共通性としの普遍的な側面が、<果物>と言う言葉で呼ばれるのです。果物と言う言葉は、このリンゴがその性質によって食べ物としてあり、自生しているところが皆木々と言われるモノであると言う事なのです。その共通性がこのリンゴにあると言う事が、果物と言う言葉の指示対象と言う事なのです。
<外界のリンゴ>と言う言葉も、私の目の前にあるこのリンゴについて、そのリンゴに付いての頭の中にイメージとしてあるモノではなくて、頭の外の身体を囲む世界にあるまさにこのリンゴの事について語っている言葉なのです。イメージも外界のリンゴも、同じ<リンゴ>と言う言葉で呼ばれるのです。しかしイメージとしては、あくまでも外界のリンゴからの、視覚から入っていった光学的像の、頭脳の細胞への像としての模像であり、前者には実体があるが、後者は、模像であると言う事なのです。
リンゴ<が>机の上にある。・・・(1)
リンゴ<は>机の上にある。・・・(2)
「バカの壁」にあっては、(1)のリンゴが、<が>によって、リンゴと呼ばれるモノであると言うイメージを呼び出しているのに対して、(2)のリンゴか、<は>によって、現実に存在する特定のモノを呼び出していると言うのです。この(1)と(2)の文章は、現実のものであるリンゴに付いてであろうと、イメージとしての像であろうと、文章としては成立すると言う事なのです。現実に今ここの場所には無いモノについて語ることが出来るのです。私の目の前にリンゴが、今無くとも語れると言う事は、別に現実自体が無くともいいと言う事でも、頭の中のイメージだけでいいと言う事でもない。現実の体験の中で経験している事が、頭の中にイメージとして成立するので、言葉は、そのイメージなり考えインクの跡や音声として表すと言う事なのです。つまり、現実のこのリンゴがあり、それについての認知を頭の中につくり、その頭の中のモノをインクの跡や音声として作り出すと言う事なのです。
とすると、現実のこのリンゴがあり、特定の形で赤い色の特定の肌だわりのモノで、食べられる、一個一個のモノと言う認知が頭の中に出来ていて、そのレベルを言葉にするとき、「リンゴ<が>」と言う事になるのです。例えば、<今日スーパーで買ってきた>と言う特別な目的が規定されていても、「そのリンゴが机の上にある」と言う様にリンゴを<が>で表している場合、スーパーで買ってきたと言う特定のリンゴであっても、そのリンゴを個別として扱う、意識するとき、<リンゴが・・・>と言う言葉になるのです。この個別は単に諸物が一個一個と言う個として規定されているだけなのです。リンゴもミカンと呼ばれているモノも、皆違いをもっていても、差し当たって個として認知されていると言う事なのです。
それに対して、(2)の場合、そのリンゴについて<は>で扱うのは、個別として有るリンゴやミカンがその形や色や材質での違いとして区別されていると言う事や、自分で購入して来たとかといった特殊性て規定された、一個一個のリンゴとしての扱いなのです。
腐ったリンゴ<が>机の上にある。・・・(3)
腐ったリンゴ<は>机の上にある。・・・(4)
ここでは、同じ腐ったリンゴでも、(3)の場合机の上を何気なくみたら、色々なモノの中に個として腐ったリンゴがあると言うニアンスを含んでいるのです。それに対して(4)の場合、例えば私が夜に片づけようとしていた腐ったリンゴに対して、ごみ箱の中ではなくて、机の上にあると言う、ごみ箱と机の上と言う区別で規定された<腐ったリンゴ>と言う事なのです。あるいは食べられる状態のリンゴは、棚にあると言う様に、他のモノとの区別を規定した上で考えられているリンゴなのです。

(1)(3)について「バカの壁」では、<が>が付く主語を単にイメージとして呼び出されているモノとして、頭の中の存在にし、(2)(4)では、現実の世界にあるモノで特定の規定を受けているモノである事を<は>て表すとしているのです。しかし言葉は、あくまでも話したり、書いたりする主体の頭の中の思考を表しているのであり、ただその思考が必ず現実の世界から得られたモノを工夫していると言う事なのです。天使は、頭の中の想像の世界のモノだが、それも人間のそれも白人の赤ん坊と鳩の羽とが、頭の中で合成されて、絵画やことばとしての天使に表されているのです。鳩や赤ん坊と同じように、天使もいるのだと言う訳には行かないのです。思考の工夫によって思考の世界に形成されているものだと言う事なのです。
「バカの壁」では、現実の世界とその世界に付いての思考とその思考の表現としての言葉と言う三の区別がなされていないのです。現実の世界は、私達の身体活動に取っては、あるいは生命活動の場にとってはいつも生命として現実であるが、だからといって思考にとっては、多様な現実として有るのは、思考の働きが進んでからなのです。思考力の発達につれて現実の世界が良く見えるようになると言う事であり、単純な区別の認知から複雑な区別の認知に進んでいくと言う事なのです。その認知は、現実の世界に身体活動として関わるときの、かかわる主体の意識を押すのであり、てこの原理をしれば、今まで持ち上げられなかった庭の大石を動かすことが出来るようになったと言う事なのです。
思考の表現としての言葉は、しかし人間自身が身体を動かす事が、意思の働きとして有ることをかんがえれば、全ての表現であり、その一つに過ぎないのだが、ただ表現の手段としての身体自体は、生まれながらの自然の規定を受けているのであり、自然の動きを越えて行くわけではなく、ただ多様な形態を創造していくだけなのです。
現実の世界があり、諸物が多様な構造として有るとき、私達はそれらの世界を認知しながら、私達は相互にコミュニケーションを実践するのです。コミュニケーションにおける認知とは、まさにその認知を相手に伝え相手の認知を受け取る事なのです。