まず現代の文法学では、英語の主語の説明の様に、その主語の扱いと違うらしい事が分かっているから、<が>が扱う<おばあさん、おじいさん>を、この文章の題目として取り上げられる為に使われ、その題目としての<おばあさん、おじいさん>が、つぎにどの様にしたのかを<は>で示していると言うのです。
・・・相手との会話では、題目には、相手の知っているモノを選び、相手にとって未知なるものは
後の説明に部分に置くのが望ましい。
題目とは、会話する者同志の間で共通として理解されているモノであり、両者には自分の祖父母と言う特定の年寄りがいても、その共通の理解は、あくまでも年寄りの女の人と男の人と言うレベルの理解であると言う事なのです。自分の祖父は頭がはげているが、かれの祖父は白髪であると言う事であって、二人がその言葉で想い浮かべるイメージは、はげている頭であり、白髪の頭であると言うことだが、しかしあくまでも共通は年寄りであると言うレベルなのです。
言葉として表現する事で、内的な想いが表に現れる。想いがその姿を変えるなり、あるいはそのままで、人々の耳に音として現れでてくるか、白紙の上にインクの跡として現れでてくるのかと言う事です。インクの跡は、白紙の上に定着する特定の性質をなす液体であるが、頭の中の想いが、そのままか、あるいは姿を変えて、液体になったと言う理解なのでする。しかしこれはどうもおかしいのです。身体から汗が外に出て来る様に、想いが外に出て来るわけではないはずです。それもさらに出てきて、インクの液体に姿を変えたと言う様な訳ではないのです。想いが、言葉として表されると言う場合、頭の中の想いは、そのまま頭の中に存在し続けるのであり、その頭の中の想いと物質としての音声振動やインク溶液とを対応させるのです。音声は、音韻と言う相互の区別を付けながら、区別された音韻どうしの組み合わせで出てくる、一つ一つの言葉に、分析された想いを、対応づけるのです。音は、音韻として音声表象の姿で頭の中にあり、また頭の中にある思考と対応づけるのです。あるいはインクの跡の場合インクが作る線や形による相互の区別から、文字と言う線と形の組み合わせの単位に、分析された想いを対応づけるのです。
内部に出来てくる想いを、その対応関係にあるインクの跡がつくる単語の組み合わせとして、つくるのです。この単語の組み合わせにより、個々の想いが対応した単語の成立が、想いの表現となるのです。問題は、最初の<想い−−インクの跡による線と形の組み合わせ>が、どの様にして成立するのかと言う事なのです。つまり、私達が単語を覚えていく事の構造が問われるのです。
目の前のモノを指し示して、<リンゴ>や<apple>と言う言葉を書くのです。<・−−リンゴ>と言う指示関係を理解する事であり、<リンゴ>と言う文字が、リンゴの名前である事を理解するのです。
この言い方には、二つの言葉が使われている。<指示>と<名前>と言う事です。指示の場合、私の目の前にある<このもの>を指示すると言う様に、例えば手で持ち上げて見せることができたりするのです。つまり個別として把握出来る物なのです。このリンゴも、こちらのリンゴも、そちらのリンゴにも、指示として<リンゴ>と言う言葉が成立する事になる。このそれぞれに対して皆<リンゴ>と言う言葉を指示として使えるのは、このそれぞれの別々の物に同一の共通のモノが有るからだと考えるのです。さしあたって指示で行けば、それは<リンゴ>と言う言葉が皆同じであると言う事が言えるが、その前に別々の個別に対して、言葉が指示関係を持つと言う事なのです。多数の個別の中から、このものを選択し、それに<リンゴ>と言う言葉を「これと言う指示関係」として使うのです。その隣にリンゴがあつてもその向こうにリンゴがあっても、今はこのリンゴに対して<リンゴ>と言う言葉が使われているのです。このレベルでは、このリンゴに対して成立している指示関係は<リンゴ>と言う言葉が、何かリンゴの共通なモノを表すと考える所まで行っていないのです。それは音韻としての区別であり、<ミカン>でなく、<西瓜>でないと言うレベルです。
それがこのリンゴにも、そのリンゴにも、あのリンゴにも、みな<リンゴ>と言う音韻を指示として対応させると、それらのそれぞれ違う、リンゴが、みな同一の<リンゴ>と言う言葉を共通にして、指示関係を形成していると言う理解になるのです。そこではじめて別々のリンゴに対して、そこにある何を共通にして、共通の<リンゴ>と言う文字による指示関係にするのかと言う事になるのです。さし当たりその形と色と大きさと言う視知覚認知されたモノが共通になると考えるのです。そういう目に見えている色や形や肌触りのモノを<リンゴ>と言う言葉で指示するのだと言う事なのです。さらにその様に五感知覚されるモノが、同時に食べ物であると言う規定として概念化される時、どれでもその様に概念化されるモノは、<リンゴ>と呼ばれる事になるのです。絵に描かれたモノは、リンゴにおける形や色という側面を、絵の具で白紙に像化したのです。その絵に対しても<リンゴ>の絵という様に、先頭に<リンゴ>と付けるのは、リンゴという言葉が指示する感性的知覚の側面の同一性によると言うことです。描かれたモノは、決して食べられるモノではないのだが、リンゴの感性的側面が同一で有るので、同一性で<リンゴ>と呼ばれ、さらに一方は食べ物であるが、他方は描かれたモノと言う事で、<リンゴ>の<絵>と言う事なのです。
さてもう一つの<名前>と言う事では、これと指示される私の目の前のリンゴに対して、<リンゴ>と言う言葉が名前であると言う事です。選択されたこのリンゴに対して、<リンゴ>と言う文字のあり方を「名前」と規定しているのです。それは<ミカン>も<モモ>も名前であると言う事です。あくまでも指示関係を前提にしているのであり、このリンゴに対して<リンゴ−−リンゴ>と言う指示関係から見た<リンゴ>と言う文字が名前であり、リンゴが名指されるモノと言う事です。指示としてのこのリンゴでは、他のモノでは無く、このリンゴが選択されているのであり、その選択を<リンゴ>と言う文字によって印を付けている、名前を付けていると言う事です。
この選択と言う意思は、私達の意識としてあり、視線を向けるとか、それを思うと言う内的なモノとしてしかない。その内的な意思を、外的な物体にたくして表す事が、名前と言うインクの跡や音声などの言葉なのです。<リンゴ>が名前であると言うのは、私達の意思活動によって選択し、その選択されているモノが、このリンゴである事を断定づけるモノとして、このリンゴに名前と言う印を付けておくのです。この名前と言う印が、刃物で印としての傷を付けて置く事違うのは、後者であったら傷は、このリンゴに対してのみでしかないのに対して、名前は、このリンゴに対する印であると共に、このリンゴが持つ<形や色や材質と食べ物であると言う側面>を認知して表している印であると言う事なのです。刃物の傷の場合、刃物の刃先の形がただリンゴについていると言う事でしかないが、名前としての<リンゴ>は<形や色や材質と食べ物であると言う側面>を表している文字として、このリンゴに紙に貼られているのです。刃先による傷と同じなのは、それがインク溶液と言うレベルであり、その溶液が作る跡が線や形としてある事で、想いに対応させているのが、刃先の作り出す傷と全く違う点であると言う事です。
刃物の先の作り出す柱の傷が、子供の背丈の高さを表す場合、マジックでは消えてしまう方が多いが、刃先による傷では、柱の材質に傷を付ける為に木が有る限りそのままになっているのです。傷か特定の位置に付いている事が重要であって、その特定の位置を表すのが、刃先による傷と言う事なのです。床の位置から傷の位置の間の距離が問題であり、その距離を表すモノの一つが刃先の作り出す傷と言う事です。<刃先が作り出す傷が表す>と言う言い方をしているが、傷だけでは、刃先の鋭さが、木の表面を傷つけたと言う事でしかなのであり、床と傷の位置との間の距離が重要で、その距離を作り出すモノとして傷があると言う事を<傷が表す>と言うのです。<傷が表す>と言う時、その言葉が生まれる前提は、高さの原点としての床の位置であり、その床を原点として、特定の高さに傷を付けていると言う事なのです。子供と言う存在に対して、その背丈と言う側面を抽出した<高さ>を、子供とは別の存在である柱と言う存在に、床からの高さとして傷を付けているのであり、子供と言う存在の背丈と言う側面を、別の存在である柱に床からの高さとして傷を付ける事で、関係づけが行われたのであり、それを傷が背丈の高さを表すと言うのです。
子供と言う身体の存在があり、他方に床からの柱の存在があります。それは人間が家に住んで生活していると言う関係です。その中で、子供の身体存在は、背丈と言う側面が<高さ>として抽出され、背丈の高さを規定する原点としての足のひらと、床の位置の原点の共通性から、抽出された高さを柱の高さで表すと言うのです。身体と言う存在と柱と言う存在は、別々のモノでありながら、足の平を原点にし、柱のたつ床を原点にすることで、原点としての共通性が両者を<高さ>と言うモノを中心にして関係が出来るのです。
発言として<リンゴ>と言う音声が発せられる時、発声する者の頭の中では、リンゴに対する認知とリンゴにある名前としての<リンゴ>と言う事です。ただこのリンゴに対する視知覚としての認知には、単に赤いハート型したものではなく、食べ物であると言う概念認知が含まれているのです。リンゴに対する認知は、それを日々食べ物として使用しているモノだと言う事が含まれているのであり、その食べ物として使用しているリンゴに名前として<リンゴ>が指示されると言うのです。例えば瀬戸物性のリンゴがあれば、当然食べられるモノでない事はあきらかだが、食べ物としてあり、さらにリンゴと言う名前で呼ばれるモノであるリンゴに対して、その形や大きさをだけを同一にしてあると言う理解をするのです。リンゴにたいする認知として、目の前にある通りに有るモノと言う視知覚認知であるが、さらに食べ物であると言う日常の実践的認知は、リンゴにおける特定の種類と言う側面の認知として成立していると言う事です。この種類という側面は、リンゴにある材質が関わっているが、その材質が種類と言う側面なのではなくてその材質のものが食べられると言う事で、はじめてリンゴが食べ物となるのです。つまり、リンゴが木に自生しているのに対して、それを採取し、食べる事でその材質が有益、身体の栄養として有用であることが明らかにされていくのである。リンゴ自体にある自然性質は、化学が解明する物質の構造として有るだけで、その解明された物質の構造が、人間の身体に食べ物として入っていった時、胃の府で吸収されて栄養分となるとき、はじめてその自然的性質に対して、栄養と言う側面があると言う事になるのです。
さらに言えば、リンゴは、果物と言う種類と言う側面は、食べられるモノである材質が区別されるのであり、その区別により野菜であったり、果物であったりするのです。食べられる材質としては同じでありながら、自生している所が木々の場合に、果物と言い、茎による物を野菜と言う、区別として有るのです。
脳の中の<リンゴ活動>とは、リンゴを前にしている時に、<特定の形や色を備えたもので、食べられるモノ>
と言う規定をしていると言う事です。<特定の形や色>は、リンゴに対する、視知覚認知として成立しているのであり、その視知覚認知の内容が、現実に食べられて、舌や口が感じている材質などの認知と現に食べていると言う実践認知とが統一されて、リンゴに対して概念認識が成立するのです。100個のリンゴが有る場合でも少しづつ形や色合いが知がっていたり、酸っぱかったりするのであるが−−それらは形や色や大きさとして知覚されるのです−−それにも関わらずみな<リンゴ>と呼ばれるのは、大まかで有っても、その形や色と言う認知が成立している事に依るのであるが、しかし大きな視点は、どれも同一の形で色であると同時に皆食べられるモノであると言う規定が出来るからなのです。ここで<食べられるモノ>と言う言葉は、現にお腹が空いて物を食べると言う事が指示されているのです。つまり、自然諸物があり、それらが<食べられる物>になるのは、諸物を口にしれて栄養となる事で証明されるのです。フグと言う魚を食べたら、生命に危機がくれば、それは食べられる物でないと言えるのです。科学は、フグの成分を分析して、その成分が身体を構成する細胞や神経の運動に支障を来すと言う事が、分かれば、それは食物になる物から、除外されるのであり、食べてはならない物に分類されるのです。つまり私達の思考は、その様な分類をするのであるが、思考の対象である食べる現場では、間違って食べれば、死ぬ事になるか、生命に危機が訪れるかと言う事です。その現場が、食べ物の否可を絶えず証明しているのです。それは思考による分析を待たずに絶えず繰り返されているのであり、私達の思考はただその繰り返しを統一的に扱っていると言う事で、思考により、未知の物を食べて危機に陥る事を、防ぐ段階であるのです。
現実に<リンゴ>と言う名前で呼ばれているモノは、そのままではしなびて、最後には腐ってしまうモノとして生き物です。だから日々に変化していくのであるが、しかしその変化であっても、別の生き物に変わってしまうわけではないのです。そのリンゴと呼ばれているモノが、生き物として変化していても、別の生き物に変わる訳ではない領域の事を、<イデア>と言うのです。時間の変化に伴って、そのモノの形態が変化していっても、別の実体にならない限り、イデアとしては、無変化と言うのです。
「イデアとしての<リンゴ>」と言う言い方は、<リンゴ>と言うのが言葉として、まずインクの跡であったり声帯の振動であったりする。その言葉として<リンゴ>があります。その言葉が、リンゴに対して、名前としてあるのです。つまり、<リンゴ>とは、言葉としてあり、リンゴの名前と言う事です。とすると「イデアとしての<リンゴ>」と言う言い方は、現実のリンゴの名前として<リンゴ>であり、そのリンゴの特定の側面についての名前として<イデア>と言う事になる。その特定の側面とは、リンゴと言う日々変化していくモノに対してその変化にも関わらず変化しない側面が、<イデア>と言う言葉で名指されているのです。その変化しない側面とは、リンゴが日々変化しても、けつして葡萄と名指されるモノになるわけでも、西瓜と名指されるモノになるわけでもないのです。リンゴには成長の変化があり、色を変わってくるが、決して他の果物になってしまう事では無いのです。そういうレベルで不変の側面があると言う事なのです。
例えば、氷、水、水蒸気と言う三つの形態は、相互に他のモノに変化することが出来て、氷がとけて水になり、水が蒸発して水蒸気になると言うレベルでは、そこには変化するモノしかないが、しかしその私達の周りにある三つのモノが、変化していても、分子としての<H2O>は、変化はしていないのです。変化するのは、その形態であり、変化しない実体が有るのです。<変化する−−変化しない>と言う事ではなく、変化しないとされる分子(H2O)と変化する水や氷や水蒸気の関係なのです。それは分子H2Oの運動量の違いが、水であったり、氷であったり、水蒸気であったりすると言う事なのです。H2Oの運動量の変化が氷から水への変化であり、水から氷への変化と言う事です。分子H2Oを実体とすれば、みず、氷、水蒸気を形態と言うのです。実体の運動の量の違いが形態と言う事なのです。中身は変わらないが、その外見としての形態が変わるのだと言う事です。ただし、中身のH2Oも、電気分解で、水素分子Hと酸素分子O2とに分解されて、H2O自体がなくなってしまうのです。その場合でも、水と言う形態に対して、電気分解がなされるのであり、実体としての分子H2Oは、形態とは別に存在するのではなく、あくまでも分子の運動として、どれかの形態として存在しているのです。さらに電気分解された水は、酸素分子と水素分子として存在するようになるのです。
多数のリンゴにある普遍的な面が同一で有るために、また共通性でもあり、その面が<イデア>と言う言葉の指示対象となるのです。さらに多数のリンゴにある、やはり共通性としの普遍的な側面が、<果物>と言う言葉で呼ばれるのです。果物と言う言葉は、このリンゴがその性質によって食べ物としてあり、自生しているところが皆木々と言われるモノであると言う事なのです。その共通性がこのリンゴにあると言う事が、果物と言う言葉の指示対象と言う事なのです。
<外界のリンゴ>と言う言葉も、私の目の前にあるこのリンゴについて、そのリンゴに付いての頭の中にイメージとしてあるモノではなくて、頭の外の身体を囲む世界にあるまさにこのリンゴの事について語っている言葉なのです。イメージも外界のリンゴも、同じ<リンゴ>と言う言葉で呼ばれるのです。しかしイメージとしては、あくまでも外界のリンゴからの、視覚から入っていった光学的像の、頭脳の細胞への像としての模像であり、前者には実体があるが、後者は、模像であると言う事なのです。
リンゴ<が>机の上にある。・・・(1)
リンゴ<は>机の上にある。・・・(2)
「バカの壁」にあっては、(1)のリンゴが、<が>によって、リンゴと呼ばれるモノであると言うイメージを呼び出しているのに対して、(2)のリンゴか、<は>によって、現実に存在する特定のモノを呼び出していると言うのです。この(1)と(2)の文章は、現実のものであるリンゴに付いてであろうと、イメージとしての像であろうと、文章としては成立すると言う事なのです。現実に今ここの場所には無いモノについて語ることが出来るのです。私の目の前にリンゴが、今無くとも語れると言う事は、別に現実自体が無くともいいと言う事でも、頭の中のイメージだけでいいと言う事でもない。現実の体験の中で経験している事が、頭の中にイメージとして成立するので、言葉は、そのイメージなり考えインクの跡や音声として表すと言う事なのです。つまり、現実のこのリンゴがあり、それについての認知を頭の中につくり、その頭の中のモノをインクの跡や音声として作り出すと言う事なのです。
とすると、現実のこのリンゴがあり、特定の形で赤い色の特定の肌だわりのモノで、食べられる、一個一個のモノと言う認知が頭の中に出来ていて、そのレベルを言葉にするとき、「リンゴ<が>」と言う事になるのです。例えば、<今日スーパーで買ってきた>と言う特別な目的が規定されていても、「そのリンゴが机の上にある」と言う様にリンゴを<が>で表している場合、スーパーで買ってきたと言う特定のリンゴであっても、そのリンゴを個別として扱う、意識するとき、<リンゴが・・・>と言う言葉になるのです。この個別は単に諸物が一個一個と言う個として規定されているだけなのです。リンゴもミカンと呼ばれているモノも、皆違いをもっていても、差し当たって個として認知されていると言う事なのです。
それに対して、(2)の場合、そのリンゴについて<は>で扱うのは、個別として有るリンゴやミカンがその形や色や材質での違いとして区別されていると言う事や、自分で購入して来たとかといった特殊性て規定された、一個一個のリンゴとしての扱いなのです。
腐ったリンゴ<が>机の上にある。・・・(3)
腐ったリンゴ<は>机の上にある。・・・(4)
ここでは、同じ腐ったリンゴでも、(3)の場合机の上を何気なくみたら、色々なモノの中に個として腐ったリンゴがあると言うニアンスを含んでいるのです。それに対して(4)の場合、例えば私が夜に片づけようとしていた腐ったリンゴに対して、ごみ箱の中ではなくて、机の上にあると言う、ごみ箱と机の上と言う区別で規定された<腐ったリンゴ>と言う事なのです。あるいは食べられる状態のリンゴは、棚にあると言う様に、他のモノとの区別を規定した上で考えられているリンゴなのです。
(1)(3)について「バカの壁」では、<が>が付く主語を単にイメージとして呼び出されているモノとして、頭の中の存在にし、(2)(4)では、現実の世界にあるモノで特定の規定を受けているモノである事を<は>て表すとしているのです。しかし言葉は、あくまでも話したり、書いたりする主体の頭の中の思考を表しているのであり、ただその思考が必ず現実の世界から得られたモノを工夫していると言う事なのです。天使は、頭の中の想像の世界のモノだが、それも人間のそれも白人の赤ん坊と鳩の羽とが、頭の中で合成されて、絵画やことばとしての天使に表されているのです。鳩や赤ん坊と同じように、天使もいるのだと言う訳には行かないのです。思考の工夫によって思考の世界に形成されているものだと言う事なのです。
「バカの壁」では、現実の世界とその世界に付いての思考とその思考の表現としての言葉と言う三の区別がなされていないのです。現実の世界は、私達の身体活動に取っては、あるいは生命活動の場にとってはいつも生命として現実であるが、だからといって思考にとっては、多様な現実として有るのは、思考の働きが進んでからなのです。思考力の発達につれて現実の世界が良く見えるようになると言う事であり、単純な区別の認知から複雑な区別の認知に進んでいくと言う事なのです。その認知は、現実の世界に身体活動として関わるときの、かかわる主体の意識を押すのであり、てこの原理をしれば、今まで持ち上げられなかった庭の大石を動かすことが出来るようになったと言う事なのです。
思考の表現としての言葉は、しかし人間自身が身体を動かす事が、意思の働きとして有ることをかんがえれば、全ての表現であり、その一つに過ぎないのだが、ただ表現の手段としての身体自体は、生まれながらの自然の規定を受けているのであり、自然の動きを越えて行くわけではなく、ただ多様な形態を創造していくだけなのです。
現実の世界があり、諸物が多様な構造として有るとき、私達はそれらの世界を認知しながら、私達は相互にコミュニケーションを実践するのです。コミュニケーションにおける認知とは、まさにその認知を相手に伝え相手の認知を受け取る事なのです。