読   書   日   記

-------------2005年01月10日---------------

ソシュールと言語学・コトバは何故通じるか・町田 健・講談社現代新書

1:コトバの本質を求めて 分析対象の設定
初期:比較言語学を研究・言語が違えば同じ意味をあらわす単語でも語形は全然違う。それなのに、言語が違つても語形がにているのであれば、そういうにた語形をしめす複数の言語は、祖先がおなじだったとしか考えられないと言う事です。共通の先祖であるから、子孫は似ているのだと言う事になるのです。
インド・ヨーロッパ祖語:サンスクリット語、ギリシャ語、ラテン語、英語、ドイツ語、ロシア語、アイルランド語
比較言語学が解明する事を目標としていたモノは、祖語で使われていた音が、子孫の言語に至るまでにどの様に変化していったかと言う事なのです。
17世紀の「ポール・ロワイヤル文法」は、コトバの普遍的な性質を探求する為に考察が行われた。全ての言語に共通な普遍的な性質が有ることには、間違いないが、コトバの普遍性から導き出されるはずだと考えられた抽象的な形から、実際に使われている形が出てくるのだと言う様な議論が展開された。実際の言語から、その抽象的な形に見合ったモノを探し出すだけで、考察は息詰まったのです。
ソシュールは比較言語学で身につけた具体的な言語事実を客観的に処理する姿勢を身につけた上で、改めてコトバの普遍性の解明に挑戦しようとした事です。事実から一般的な性質を導き出すと言う確実な方法でコトバの普遍性に迫ったのです。
ソシュールの著作「一般言語学講義」<1907年−−1911年>の間の講義
ソシュールが挑んだコトバの謎:コトバが何故通じるのかと言う問
話し手と聞き手が存在して、お互いに役割を交換する事でコトバによる意味のやりとりが完成するのです。  話し手の頭の中で、ある概念が呼び起こされると、その概念に対して、ある言語の中で決まっている聴覚映像が対応させられます。その聴覚映像は、人間の音声器官(口や舌など)によって具体的な音声として実現され、空気中を音波となって聞き手の耳へと伝わって行きます。
 聞き手の方では、耳に入った音波を元に聴覚映像を作り上げ、その聴覚映像に対応する概念を引き出す事で、話し手が伝えたかった意味を理解する事になります。
この過程が交互に繰り返される事で、二人の人間の間で意味を伝達すると言う行為が実現される事になるわけです。
図説による説明は、基本的であっても、かなり概略的なものです。ただその図説にあっても、とても大切な事が取り上げられているのです。空気中を伝わってくる物理的な波に過ぎない音声を聞いただけで、聞き手がどうして概念つまり、単語の意味を理解する事が出来るのかと言う事なのです。
音声と言う物理的実体と概念と言う決して物理的な実体でないモノとが、私達がコトバを使う時には、その似ても似つかない二つのものを対応させています。しかもその対応のさせ方は、同じ言語を使う人々であれば、全く同じです。もちろんだからこそ、コトバを使って意味の伝達が出来る様になっているのです。コトバが音声と意味とを結びつける仕組みの総体であることは、間違いない事です。
同じ言葉を使う人々が共通に頭の中に持っている、<音声から意味へ><意味から音声へ>と言う対応関係を決定するメカニズムの解明こそが、コトバの本質を見極める事に他ならないと、ソシュールは考えたのです。
音声と概念の対応と言う両者の関係は、本質レベルの事であり、音声は音韻やインクの跡は線や形としてあり、それが概念に対応すると言う事です。しかし、その音声やインクの跡が形成する個別性としての語が事物に対して名指すと言う事により、はじめて事物の種類という側面の認識である概念が、その音声やインクの跡に対応していると言う事なのです。事物の種類と言う側面に対しての認識である概念に対応づけたインクの跡の形を、その事物の指示として、名前として関係づける事で、指示されている事物Aが、名前としてのインクの跡である文字に表されている概念の現実形態と規定されるのです。つまり、言葉による指示を解して事物Aか、その姿のままで種類の実体となるのです。その事物Aにある属性面が種類としてあるはずのモノが、文字による名前と言う指示で、事物A自体が、種類の実体となるのです。その過程により、事物Aにある多様な属性であるなら、どの属性を指示しているのか特定出来ないと言う疑問を解き放つのです。この思考は、私達が<秤>と言う道具を使用している所で、現実的に形成されているのです。つまり、物体にある<重さ>と言う属性は、天秤の左側におかれている重さの基準となる<おもり>が、単に鉄製の重さと言う属性で出来ていると考えられるのではなく、<重さ>そのもの、重さの実体としての鉄片となり、天秤の右側に載せられている一袋のコーヒー豆にある属性としての<重さ>は、鉄片5個であると結論するのです。つまり、一個一個と言う鉄片の数量化は、重さ=鉄片と言う事なのです。<秤>は、左右の天秤に載せられたモノ同志が、その属性としての<重さ>を共通にして、関係を持つと言う事であり、その左右のモノは、一方はコーヒーであり、他方は鉄片と言う違いでありながら、それぞれの属性としての<重さ>を、共通性にして、同じであると言う事なのです。天秤が水平の状態に有る時、別々の物が、それぞれにある属性としての<重さ>で、同等と言う事であり、どちらかに傾けば、<重さ>で、多いか少ないと言う事なのです。つまり、天秤の上での<重さ>による関係は、属性としての<重さ>であるが、しかしさらに数量化されると言う事であり、水平も傾きも、その数量化による理解の始まりなのです。
その数量化は、鉄片一個を<重さ>の実体化されたものとして、基準の一として、他の物体が、天秤の上でのみだが、天秤を降りても、その関係は無くならないのだが、その一に関わる事で、自らの<重さ>を、鉄片5個と表現するのです。天秤の上のコーヒー一袋と鉄片五個とは、そのはたす役割が違うのであり、コーヒー一袋の<重さ>を、重さの実体化された鉄片の一片と言う形態で表すのです。コーヒー一袋には、属性として内部に<重さ>があり、掌に載せれば、ずしっと感じるのです。その感性に依って知覚される<重さ>を、鉄片5個で、姿の見える形にしたのです。その感性に依ってしか知覚しえないモノを、見た目にも見える様にしたのです。ただ見えないモノが、その姿のまま外部に流出して鉄片に変身したと言う様な事ではない。秤の上に載るのは、コーヒーも鉄片も、その個体としのモノ自体であり、それぞれ自体が、属性としての<重さ>によって、天秤の水平状態や傾きとして形態を作り出すのです。
手に載せている鉄片には、その材質によりひんやりと感じたり、ずしっと感じたりするのであり、それらの全体として、一つの塊としての個体と把握されている。その個体に対して、感性が知覚しているのは、個体の属性と言う側面であると言う理屈を立てないと、感性が知覚しているそれぞれの内容が、属性であり、個体は、その属性の集合体であると言う方向に向かわないのです。玉葱のイメージを作り、感性が知覚するモノは、諸属性であり、その諸属性は、玉葱の一枚一枚の皮であり、一枚一枚と剥がしていくと、玉葱自体が無くなる様に、その諸属性だけの集まりが、個体としての鉄片であると言う事なのです。その様な属性と言う理屈に支えられ、天秤の上の鉄片もコーヒー一袋も、属性としての<重さ>と数量化で、水平や傾きと言う形態に現れるのです。そこで、<重さ>は、各物質にある属性として知覚されるのだか、数量化が何処から導きだされるのかと言う事なのです。それが天秤の右側の鉄片が、重さの実体化として、左側一袋のコーヒー豆の<重さ>を表す道具となるのです。この鉄片一片の<重さ>を、言葉として表したモノが、1グラムとか1匁、1ポンドと言う言葉なのです。
一袋のコーヒー豆の<重さ>も、鉄片一片の<重さ>も、1キログラムであると言う言い方は、両者が天秤の左右に載る存在で有れば、鉄片が重さの実体化されたモノとして、重さそのものであるのに対して、コーヒー豆の方は、その属性が捉えられているのです。1キログラムと言う表示が、鉄片自体の数量分を言葉に表しているのであり、その鉄片に関係する事で、はじめてコーヒー豆の重さも、言葉で表示されることができているのです。
鉄片の重さとは、鉄片を手の平に載せている時に、その鉄片についての手が感じているモノであり、その感じているモノが、鉄片に内在するものとして、属性として規定されているのです。つまり、認知の対象としては、<重さ>は、鉄片と言う個体の属性と言う規定にならざるを得ないのです。しかし天秤は、単にモノにある属性であり、手により知覚されるモノとしての<重さ>が支点になって、左右に載せられたコーヒー豆と鉄片が関係するのであるが、しかしこの関係思考は、あくまでも両者が<重さ>を共通にして関係していると言う事であり、それがわざわざ天秤の上に載せられると言う事が、問題にされていないのです。人間の身体の両手は、天秤の左右の働きににているが、ただ感性は、<重さ>を感知するだけであり、右側の鉄片が、重さそのものとなるのは、<重さ>の数量化されたモノとしての鉄片自体が、数量の基準になり、その鉄片の2個分とか5個分として、コーヒーの<重さ>が、鉄片の姿として表されるのです。天秤の上に載るのは、両者に<重さ>と言う言葉に表される知覚されるモノがあるからだが、それでは、ただ載せられると言う所で終わってしまうものです。載せられたモノが水平状態とか傾きと言う形態を考慮にいれれば、重さを数量化した所で考えなければならないのです。確かに両手に載せれば、左右のモノの重さは、載せられているモノの個体のあり方により、左が重かったり、右が重かったりしているのだ、それだけでは、数量化には行き着かないのです。
コトバの単純な原理を解明するためには、分析する対象を決めておかなければ、ならない。その分析の対象を決めるモノとして、コトバが何より意味を伝達する為の手段ですから、意味の伝達とは基本的に無関係な要素を取り除く事が必要である。ただし伝達される意味とは何かと言う事が明確に分かっていなければ、どの要素が意味と無関係なのかを決める事は出来ません。ソシュールは、その意味の確定に、任意の話し手と聞き手にとって「同じ」だと判断される単語の内容の事を、概念すなわち意味だと考えていたようです。
単語の意味:私達を取り巻く世界を構成する事物(様々のモノや事柄)を何らかの基準で切り分けた結果の部分。例−−「ネコ」と言う単語は、現実の世界や私達が想像出来る世界に存在する無数の事物の一部であるモノを意味している。そしてこの単語が意味する事が出来るモノは、一つ(一匹)だけでなく、ネコであればどれでも構いません。つまり、「ネコ」と言う単語が意味するのは、世界を構成する事物全体の一部だと言う事です。
「神」と言う単語は、現実の世界や私達が想像出来る世界に存在する無数の事物の一部であるモノを意味している。そしてこの単語が意味する事が出来るモノは、一つ(一匹)だけでなく、カミであればどれでも構いません。つまり、「カミ」と言う単語が意味するのは、世界を構成する事物全体の一部だと言う事です。と言う説明に対して、ネコにはその説明ができるが、神にはどうもおかしな説明になると言う事です。神は多神教では世界の中にあるが、一神教では、この世界を超越していると言う事です。神と世界を包み込むモノを想像する以外にはないのです。
「ネコ」と言う単語がネコであるモノの集合を表すとします。この時、その集合の性質を知っていれば、有るモノを見てそれがネコなのか、それともそうでないのかを正しく判断する事が出来ます。事物の集合の性質だと見なす事で、捉え所がなさそうに見える抽象的なモノを、もっと具体的に実感出来る様になる利点があります。この性質を単語の意味であると言う支点から、コトバの意味を説明する立場をとる。
<ネコであるモノ>の集合と言う時、ネコと呼ばれる多数の個体が考えられているが、しかしその個体には性質と言う側面があり、<にゃーとなく><ネズミをとる><全身毛で覆われている>と言うそれぞれが特徴として取り上げられるのです。多数の個体があり、それらに共通する性質が有るとき、その性質による個体を、ここでは<ネコ>と言うコトバで呼ぶ事になる。その性質がネコと呼ばれるのではなく、その性質をもった個体がネコとよばれると言う事です。

コトバが人間にとって役立つ伝達の道具として働くのは、話し手が表そうとした意味と聞き手が理解する意味が同じで無ければならない。「私はお腹が空いた」と言うコトバが、本来の意味とは別の意味として理解される事で、集合を解散すると言う意味を持つことも有る。
「私はお腹が空いた」と言うコトバは、話の主体のお腹が空いていると言う感性があり、その感性をコトバに表している。しかし実際にその感性が成立していなくとも、そのコトバをきっかけに集合を解散すると言う約束をたてれば、その約束をコトバとして表したと言う事です。しかし<集まりを解散しよう>と言うコトバと違って、実際の意味する事が、話されているわけではない。そのコトバ「私はお腹が空いた」と言う表現される事が、<集合を解散すると言う意思>を表すと言う約束−−話者Aと聞き手Bとの間の約束−−の実行であると言う事なのです。第三者は、そのコトバを聞いても、社会的約束としてのコトバとして理解していないと言う事なのです。フランス人が、話者の音声を聞いても、コトバとして理解もしないのは、その日本語の約束事を理解していないからなのです。当然私もフランス人の音声を耳にしても、全くチンプンカンプンと言う事なのです。それが実際の事をあらわしているか、別の意味を表しているのかと言う事以前の問題なのです。二人の間で約束した事は、「<私はお腹がすいた>と言うコトバを発したら、この集まりを解散する」と言う事なのです。そのコトバは、もともと私に生じた身体的な状態についての認識をコトバにしているのであり、その状態を体験しているから、お腹が空いたと言うコトバの意味が理解できているのです。しかし、その様な経験からえられたコトバで有りながら、今は、自分の身体経験をコトバにしているのでなく、単に音としての<私はお腹が空いた>と言う音声であると言う事なのです。それは集まりを解散しようとする時は、富士山の絵を掲げようと言う約束と同じであり、壁に掲げられている絵画に対して、それをはずして、手に持ち掲げると言う行為により、約束を実現しようと言う意思を表すと言う事なのです。そのコトバが特定の意味を表しているのに、今はその意味が表されているのでなく、二人の間だけの約束事を表していると言う事なのです。誤解されているのは、二人の間の約束事は、そのまま<集まりを解散しよう>と言うコトバに表さずに、二人だけに了解されるだけで良いのであるが、<私はお腹がすいた>と言うコトバのもつ日本語の社会性による意味が、まず前にでるので、コトバ通りにしか理解されていない、コトバ通りに理解されていると言う事なのです。<富士山の絵画を両手に掲げる>と言う事は、コトバの様に特に社会的な約束が出来ている訳ではなく、だから急に富士山の絵画が両手に掲げられれは、何を今日にしでかすのかといぶかるだけであり、それから二人の間の約束事を読みとる事など出来ないと言う事なのです。私は先ほど食べ物をたらふく食べたのに、その私がすぐに<私はお腹が空いた>と言えば、食べた事を知っている人であるなら、いぶかる事は確かなのです。つまり、私がそのコトバを発する意味を理解できないと言う事になるのです。そのコトバの意味は分かるのだが、そのコトバが今の私の身体の状態を表しているとは思わないと言う事なのです。
私の身体状態があり、私のお腹はグうーグうーなっていて、お腹が空いたと感じているのです。その感覚をコトバに表したのが、<私はお腹が空いた>と言うコトバなのです。その<お腹が空いた>と言うコトバは私の身体の特定の状態に由来しているが、その状態に付いての認識を表していると言うコトバに対して、今ここでは、身体の状態がなくとも、別に<私はお腹が空いた>と言うコトバは発声できるのであり、コトバが私に生じた経験から由来している事を知っているからこそ、そのコトバに意味を読みとるのです。フランス語でしゃべられても、全く意味が分からないのは、単に音としてしか聞こえていないからです。

人間がコトバを使う時に現れて来る様々の現象のうちで、同じ意味が伝達される過程に本質的に関わって来る要素こそが重要なのであって、ソシュールはこれを「ラング」と名付けました。人間のコトバ一般を表すのだと言う事です。個別的な言語を「言語」抽象的にコトバ一般を「コトバ」と規定する。個別言語を作っている要素のうち、同じ意味の伝達に関係して来ない要素については、これを「パロール」と呼びます。
「パロール(意味の伝達に関与しないモノ)」+「ラング(意味の伝達に関与する)」=ランガージュ
後者のラングは、同じ意味を話し手から聞き手へと伝える事を保証する仕組みです。意味を伝達する単位としての単語は、音と意味が結びついている。しかし両者の間には何の関係も有りません。
単語の意味にしても、それが事物の集合を指し示すものだとすると、どんな事物をまとめて一つの集合にするかは、全ての人にとって全く同じだと言う訳では有りません。事物の集合を設定するやり方も、誰にとっても同じだと言う訳にはいかないと言う事です。
音と意味が無関係であり、意味を設定する方法も人によって一律でないとすると、あるラングを使って同じ意味が伝わる為には、意味と音の関係、意味を設定する方法が誰にとっても共通になるようにあらかじめ決めておかなければ、なりません。どんな単語にどんな意味があてられるのかと言う、一種の規則を決定しておくおく必要がある。この規則のあり方を、社会性と言うのです。
Aと言う音には、A!と言う意味を当て、Bと言う音にはB!と言う意味を当てるのであり、この音と意味の当て方に規則性が成立すると言う事です。問題は、B!と言う意味とは何かと言う事です。その答えとして、Aと言うコトバが指示する対象である甲の<性質>を、意味とすると言う事です。いま私が紙と発言した時、その紙と言うコトバの意味を、机の上にあるモノの性質とするなら、その紙を外に持っていって燃やして灰にしたなら、コトバの指示するモノは、もう無くなってしまったのであるから、紙と言うコトバが意味が成立しなくなると言う事です。しかし私の前の一枚の紙を燃やしてしまったとしても他の紙が無くなってしまったと言う事ではない。紙と言うコトバで呼ばれるモノは、再生産でいつでも作れるのであり、紙がこの世から無くなった訳ではないのです。この一枚の紙がなくなったから、紙と言うコトバの意味がどこかに行ってしまったのではない。個別のモノの集まりとして、その集合体の一つ一つが、紙と呼ばれるのであり、それは個体の持つ特定の性質により、個体が紙と呼ばれるのです。個体の特定の性質は、私達の意識を引きつけるのであるが、しかし意識である限り、他者と同じ特定の性質に引きつけられていると断言出来ないのです。しかしその意識も一旦コトバに表され、集合の一つに対して<紙>と言うコトバでの指示を実行すると、その個体自体が、まさに紙なのだと言う事になるのです。
<実物−−認識−−「紙」と言うコトバ>:この三角関係は、コトバの指示する対象である実物Cが現実としてあるが、ただ今は手元に置いてないので、紙と言うコトバの指示するモノを、ほらこれだよと言えないのです。しかし今は目の前に無くとも、私の認知には存在しているのであり、空想の中で表象して、あるいは記憶の再生産により表象して、それを紙と言うコトバに表しているのです。
天使と言うコトバは、白人の赤子と鳩の羽とが、空想の中で合体して成立した表象を表したものです。日本人が天使と言うコトバを使う時には、日本人の赤子が使われている訳ではない。何故なら天使と言う日本語も、白人が使用していた<エンジェル>と言うコトバを日本語に置き換えているからだが、白人が自分たちの社会の中に生きている自分たちの赤ん坊からイメージしていることと言う<実物−−認識>の過程を、日本人が新たに作りなおしていないからです。日本人にとっても<天使>と言うコトバは、白人が認知している白人の赤ん坊を自分たちもイメージして組み立てるから、天使と言うコトバが、絵画化されると、白人の赤ん坊が描かれると言う事なのです。

意味の伝達に直接関わらないパロール:具体的な発音される音声・個々の音声は、音素と言う集合の一つの要素として捉えられてはじめて意味に結びつく事が出来るのです。音声を発声する場合、まずある意味に対応するする音素が頭の中で選ばれる。複数の音素の組み合わせられる。桜・SAKURA−−ローマ字は一つの音素に一つの文字を当てる文字です−−と書く事から分かる様に、六つの音素の組み合わせになっている。ソシュールは音素に当たる部分を「聴覚映像」と呼ぶ。
生きた人間の生きた音声に対して、その音声を空気の振動として把握すると周波数分析がなされ、コトバを発声しているときの振動には、特定の成分が存在して、日本語の場合には、母音として指示される音に特有の周波数が有ることが分かるのであり、その特有の周波数の振動を発声するように口内の形や舌の位置の形態を作り出して行くのです。つまりコトバを発するとは、肺からでる空気の流れが声帯を振動させ、その振動による空気の流れが口内の形と舌の位置により、特有の周波数の振動となるのです。その周波数の空気を振動が聞く人の耳から入ってくる事で、コトバとして聞くことなるのです。耳の中には口内と舌の位置による特定の波形の振動の空気が入ってくるのであり、その特定性を分析する事で、音声であると認知するのです。フランス語の音声を聞いても、その音声成分にある特有の周波数を分離できないのであり、その分離を日本語に対しては出来、さらに対応する概念を思い浮かべる事ができるので、日本語を聞いて何を行っているのか分かるのです。
パロールと言う具体的な現象は、音素と言う抽象的な単位として認識されて初めて意味と結びつく事が出来るのです。パロールと言う具体的な現象は、意味に直接的に関わらないが、その現象に対して音素と言う媒介的なレベルになる事ではじめて意味に関わるのです。
ソシュールがパロールを言語学の対象とはしないと主張したのは、言語学が分析すべき対象を無制限に広げ無いようにする為だったと思われます。音波としての音声は、まさに物理的な波動であって、これを測定し分析するのは、物理学や工学の領域に属します。個々の音声が、人間の音声器官を使ってどの様に作り出されるのかと言うのは、生理的な現象です。ラングが、それを使用する全ての人々にとって共通する部分です。ラングが全ての人々にとって共通であると言う基本的性質が、どこから来るのかを解明する事を当面の目標とする事が望ましいと考えます。意味の伝達過程ほ解明する事は、言語学以外のどの分野の対象でもありません。言語学が他の学問分野とは異なった対象の性質を探求する、独立した分野として成立する為にはラングに限定する事が必要になるのです。
ラングの単位としてソシュールが想定していたのは、音素と単語でした。単語は音素列(聴覚映像)と意味(概念)が結びついた単位です。音や図形などの人間が知覚できる表象に意味が結びついたものを「記号」と呼びました。記号とは同じ図形や音などの表象が、誰にとっても同じ意味を表す様に決められたものだと定義できます。同じ表象を知覚する事で誰もが同じ意味を理解しなければならないのです。
記号の意味と表象についての用語:意味をシニフィエ(内容部)、表象をシニフィアン(表示部)と言う。言語を記号と考えるのは、表示部と内容部の関係を常に念頭に置いておく必要がある事になります。コトバを記号の一種として捉える事は、記号としてのコトバが必ず内容部を持つ、つまり意味を表すと言う性質を忘れずに分析を実行できると言う非常に大切な利点があります。記号としては言葉以外にもあり、意味の伝達を考えるのに重要な事なのです。
交通標識と言うコトバが指し示す対象は、道路に掲げられているあれこれのモノをいうが、その一つの標識が、記号として表すモノに対して、私達は、自分達の視知覚を含めた認知により、その標識の所で一旦停止すると言う行為を導くのです。その標識と言うコトバで呼ばれているモノが、表している内容が、<白線の手前で一時停止する>と言う事であり、その内容が私達の頭の中に表象として成立しているから、実際に身体が実行して、実際に一時停止するのです。その標識と呼ばれているモノに対して、<一時停止する>と言う意思を関係づけているのです。その関係付けは私達が社会的にやっていて、私達の頭の中にその関係が表象として出来ているから、いつでも身体行為として現れると言う事なのです。
交通標識があり、その標識が表すモノは、私達がその標識を認知して、身体行為として表すモノなのです。標識が表すモノは、実際に身体が行為する事で実現されるモノなのです。標識は、鉄製の直径50センチの円形の番であり、そこに停止と記して有るのです。その標識の形や大きさや表示内容に、社会的な約束としての観念−一時停止すると言う観念−−をを対応づけるのです。私達がその社会の一員である限り、視知覚により認知される標識盤と<一時停止する>と言う観念との対応関係を、全員が頭の中に記憶するのです。車で走っていて、その標識の前に来て、一時停止するのは、その標識が私達人間の活動を支配する力があるからなのだが、しかし標識のその力とは、その標識の描かれている内容と一時停止と言う観念の関係が頭の中に成立しているからであり、その関係の一端としてある標識の、描かれた内容が、約束事と結びついているからなのです。つまり、標識に力が有るのではない。標識に描かれている内容と頭の中の社会的な約束事が関連していて、標識を視知覚等により認知すると頭の中に一時停止すると言う関連が浮かび上がり−−前持って頭の中に作り上げている約束事であり、観念というのです−−身体が一時停止の行為を実行するのです。もしその標識に<一時停止>と言う文字が記して有れば、日本語を知らない人間には読みとれないにしても、私達は、文字を読んで実際に実行するのです。蒸気機関車が描かれている標識を見て、踏切がある事を読みとるのであり、私達は前もってその絵柄と踏切があると言う認知を関係づけて記憶しているのです。記号にその表示と意味の関連を読みとるとき、物体としての標識に描かれている図柄に対する認知と社会的約束としての<一時停止>と言う約束事とが、頭の中で関連づけられているのです。頭の中の、その関連はその標識に対しての五感による認知が働いた時、実際に身体が一時停止の活動を行った事で、実証されて来るのです。仮にその関連付けを知っても、標識を認知した時に<あ止まらなければ>と考えるだけで、実際に停止しなければ、頭の中のその関連づけは、一つの抽象なのです。身体による実行には、その関連づけについての認知以外に意思が伴うのであり、例えば事故の時の悲惨なイメージとかが重なることで、意思は強固になるのです。
約束事はあくまでも、頭の中に成立しているのだが、その約束事を<実現する>のに、単に約束事だからと言う以外に強固な意思が必要なのです。つまり、約束事はどんな事を実行するのかと言う事だけの観念であり、いかに実行するのかと言うレベルがなければ、現実に約束事は履行されないのです。
交通標識に対してどんな約束事が関連しているのかは、実際の標識の前で身体活動として実行しながら、コトバで伝達するのだが、その伝達されるコトバによる理解と、実行される事で身体が知った事は、頭の中で具体的なイメージ伴った概念として成立してくるのであり、それがその標識の絵柄と関連づけられる観念と言う事なのです。コトバは、その観念の一面としての概念レベルを表しているだけであり、この様にコトバを多用しても、そこから読みとってもらいたいことが有るだけなのです。

記号の表示部は、知覚できる音や図形の集合であり、内容部は事柄または事物の集合です。その両者の性質が異なるモノ同志を結びつけるのは、社会的約束事−−恣意性と言う−−としてである。
単語が一列に並ぶ性質の事−−線状性
何らかの対象が作る集合で、その要素の特徴(価値)が他の全ての要素との関係で決まってくる性質を持つモノを「体系」と呼びます。体系は集合の一種なのだが、普通の集合と違って要素の価値が自動的に決まるのではなく、他の要素との違いを考慮に入れて初めて明らかになるのです。例えば、自然数の集合は、その要素に<1、2、3、4、5、6・・・>をもち、各要素の価値は、お互いに異なるのです。所がコトバの単語の場合、あらかじめ意味が決まっているのではなく、同じ集合に属する他の単語にどんなモノがあるのか分からなければ、正確な意味は決定出来ないのです。
日本語の<歩く>と言う単語の意味:<走る><這う><動く><移動する>などとともに一つのに体系を作るとすれば、<歩く>には、「足を使ってゆっくり身体の位置を変化させる」の様な意味的側面が抽出されるが、<泳ぐ><飛ぶ>などとともに別の体系を作っているとすれば、それは「地面を移動する」と言う意味的な特徴がでて来ます。さらに<歩く><あゆむ><歩行する>で作る体系を設定すれば、「歩く」が最も現代的で口語風な意味を表すと言う特徴が引き出されるのです。
集合と言うだけでは、その集合の要素を構成する個々のモノが、皆同一の共通な性質を持つと言う事だけであるが、その同一の性質を共通として持ちながら、さらに相互の関係が有るとき、その集合を体系と言うのです。つまり、集合の場合要素としての個々のモノが、どこまで集まるかは、そのモノの性質に共通性があるかどうかであるが、しかし共通の性質を持つ各要素に、さらに相互の性質が有るかにより、集合は、体系としての要素の集合となるのです。集合の要素として、一員である事は同じであるが、自分の性質は相手の性質により、規定され、相手も私の性質により規定されると言う相互性として有るのです。
自然数の集合は、その要素に<1、2、3・・>を持つ時、その内部では、自然数の要素としての共通性がありながら、外面的には相互に違っていると言う面を表しているのです。その内部を外面的に表せば、<1、2=1+1、3=1+1+1、・・>と言う関係であるのです。自然数の集合が、体系であるのは、その要素に、内的に<+>と言う関係が成立しているからなのです。それはたとえば、テーブルの上の篭の中はミカンの集合であると言う場合、要素としてのミカンは、一個一個と言う個体の集まりとイメージされているのです。それに対して自然数の集合の場合<1、2、3・・>と言う要素も、一個一個と言うイメージであるが、さらに一個一個の間に特定の関係があると言う事が重要なのです。その関係が、自然数の集合に体系を形成させるのです。