読   書   日   記

私が日々目を通す書物に対して、私の今の視点と、了解できない観点を書き抜き、それをどのように理解すると、私の了解になるかを目的に日記風に綴っていきたいと思います。

−−−−−−−−2005年02月11日−−−−−−−−

日本語文法の謎を解く−「ある」日本語と「する」英語・金谷武洋・ちくの書房


第一章・日本語と英語の発想の違い


<富士山とその富士山に向かって立っている私がいる>絵があります。
日本語では、<富士山が見える>と言うコトバになる。英語では<I see MT.Fuji!.>
英語では、行為者としての私(I)を前提とした行為文である。私が主語、他動詞を挟んで、富士山が直接目的語として表れている<S−V−O>構文です。日本語では、「人間の行為」ではない。富士山の見えると言う状況・属性を表現する状態文なのです。
<見る>と言うコトバは、私達の視知覚の事をいうのであり、当然見られる対象物がある。<私><見る><富士山>を、と言う事になる。その<見る>を視知覚器官から富士山までの過程に視点を変える事で<見る>は、<見える>となるのです。<富士山が、私に見える>となるのです。日本語の<見える>とは、単に私の視知覚を一般的に述べているのではなく、たとえば近視であった目にメガネをかけると今までと違ってハッキリと見えるようになったと言う事であり、霧がはれると目の前の真っ白であった視界が開けて、目の前に富士山がハッキリと見えると言う用に使うのです。つまり、一枚の絵に描かれている富士山と富士山に向かって立っている人の構図に対して、<富士山が見える>と言う文は、その富士山に対してその人の視覚を述べているはずなのだが、しかし<彼が富士山を見ている>ではなく、<彼には、富士山が見える>に近くなるのです。見える為には人々に視知覚の能力が無ければならないが、能力が有っても、視覚を遮るモノが有れば、見えないのです。視知覚はすでに見ている事なのだが、しかしその視知覚の作動に対して、見る器官としての目から対象物たる富士山の間に、見ることを遮断するモノがあれば、視知覚は成立しないのです。眼球を傷つければ、見えないし、瞼を閉じれば見えないし、霧が立ち込めれば、白い霧だけがみえて、霧の向こうにある富士山は見えないのです。
富士山のある特定の状況・属性と言う事で、<見える>と言う人間の視知覚能力が現実に作動する場をも繰り込んでいるのです。富士山の周りに霧が立ちこめていれば、いま見えているのは霧だけであるが、その霧が消えると霧はみえなくなり、富士山が見えるようになるのです。霧が徐々に薄くなって行くのが見えるのであり、その薄くなって行くのが見えると同時に視界には富士山が徐々に見え出すのです。
モノの姿が<見える>のは、私達に視知覚の能力があるからだと言う事になるが、その能力のうち焦点を結ぶ眼球の筋肉の収縮の働きが不足するとモノはボートしか見えないと言う事であったり、白内障や緑内障になると視野が狭まってしか見えないと言う様に、能力量の欠如を引き出すと言う事なのです。それに対して脳の視知覚を司る脳細胞の働きが欠如すると視知覚能力そのものが無いと言う事になるのです。
<見る>とは、その能力の事を言うのであり、<見える>とは、その能力の現実化として<見る器官>から<見る対象>までの過程を考慮しているのです。<見る>行為の主体としての<私>に対して、「恐い場面だったから、私は瞼をとじて見ないようにした」のだし、「映画は継続していても、瞼を閉じれば見えなくなる」のです。両方とも、主体の行為として<瞳を閉じる>のだが、前者は瞳のこちら側を問題にしているが、後者は閉じた瞳の外側を問題にしているのです。ただ意思としての瞳を閉じる事以外に、視知覚器官の病気として角膜の不良や緑内障などの不良により、<見えにくく>なっているのです。<見る>とは主体の行為であるが、<見える>はその行為に主体から目的物までの過程が含まれているのであり対象物が見えている時、見えることを可能にしている条件があるのです。部屋が暗くなれば、光が無くなるので見えないし、瞼をとじれば、光が入ってこないから見えないし、霧が立ちこめれば、霧か見えるだけになるのです。
<見る>と言う主体の行為に対して、その行為の対象物が規定される時、その対象物には<見えるモノ>と言う属性が付加されるのです。つまり、人間が生存する以前にも、富士山はあったのだが、その富士山には<見えるモノ>と言う属性があると言う事にはならない。それは人間が視知覚能力を形成した後、その視知覚の対象物となったときに、視覚の方から付加されたモノだからです。では視覚がモノに付加する属性とは何でしょうか。それは事物に反射する光が、視知覚器官から入る事で、事物の存在を認知されると言う事なのです。その事物の光による反射と言う側面が、事物の<見えるモノ>と言う属性となるのです。当然光は、人間の視知覚に関係なく存在しているが、人間の身体存在の視知覚器官は、その光に働きで形成された細胞から成り立って来たのです。聴知覚器官は空気の振動による鼓膜細胞を成立させているのです。事物の<見えるモノ>と言う属性は、光が反射するモノと言う事であり、その光が人間の視知覚器官に反応すると言う構造なのです。つまり、反射してきた光が視知覚器官に反応する時、頭脳の中では<事物が見えている>と言う判断が成立しているのです。

今度は、読者が富士山を見ようと言う明確な意思を元にたの山を登って来ていたのだとしよう。そして富士山が現れた。
英語:<I see it!>と変わる。
日本語:<見えた!>と述語だけのコトバになり、<それが 見えた!>とは言わないのです。
英語では、<S−V−O>構文は代名詞を使っても変わらないが、日本語では述語一つになっていまうのです。
日本語:ドイツ語が分かる。
英語:I understand German.
ここでも、英語には行為者としての主語「I」が不可欠だが、日本語の方は、中心となっているのは「ドイツ語」のほうであり、その「ドイツ語」について「分かる」と言う状態を述べた文なのです。この文はもともと「ドイツ語が wak(と言う状態でそこに)−ARU」なのです。
一番重要な事は、英語(などの多くの西洋語)には「人称代名詞がないと正しい文が作れない」と言う辛い「お家の事情」があるのに対して、日本語(や朝鮮語)にはそんな事情が全くない事だ。

第二章・日本語と英語の「主語」


英語の例文はことごとく他動詞を使った積極的行為文(する文)である。「I」は「主語」であり、様々な行為の動作主(する人間)として表現されている。日本語では大抵のばあい「私は/私には」と、主題(トピック)で現れるに過ぎない。<Topic>は「場所」と言う意味のギリシャ語が語源だ。英語の「行為者」(主語)は日本語では「場所」(主題)となるのです。日本語の主題は、その場面(舞台)を表現するのであり、その舞台設定の主役が助詞の「は」であると言う事なのです。
現代英語には主語が不可欠な理由
(い):基本文には必ず必要
(ろ):動詞に活用を起こさせる
(は):いつも主格で現れる

日本語の文法研究における紛らわしさ。
「主語・主題・主格」と全て「主」ではじまる三つの単語がある。これらの区別が曖昧な為に、どれだけ混乱が生じているか知れないのです。三上文法はこの三つを明確に区別したのです。
「は」は、主題を表す。格助詞「が」は主格を表すが、しかし補語であり、無くても言い場合が多いのです。
英語などは「主述関係」と言うモノがある。つまり、文は主語と述語に二つに分けられて、主語が述語全体と独占的に対応している。日本語の「名詞+が」は単なる主格補語であって、必要がなければ無くてもよく、主従関係はないと主張した。その代わりに「題術(Topic)関係」なのです。主題は述部の言い切りと呼応して一文を完成する。文を閉じるのです。
盆栽型:
  太 郎  家  パ ン
   が   で   を
    焼いている。
ツリー型:
  George
   is baking
  bread  at home

<主体とその動作行為>と言うコトバは、実際の活動を分析してるのであり、英語でも日本語でもその構造には変わりがないのです。<焼く>と言う行為の主体は、いまは<私>であり、焼くモノはパンであり焼く場所は、家であり、朝から焼くのであり、友達と共同で焼き、両親へのプレゼントとしてのパンを焼くのです。日本語で問題なのは<焼く>と言う行為とその主体としての<私>とのある特定の関係が、<が>で表されていると言う事なのです。それは個別化された、他の人々の中の一人としての<私>であり各一人一人は、<焼く>行為の主体としての均一性であり、<焼く>行為に関わらない人々との、二つの集合体の一つの集合体のなかの要素として有るのです。例えば私が太郎の家に遊びに行った時、彼の家の中に入っていって気づいた事は、<太郎がパンを焼いていた>と言うコトバになるのです。それは山田一家の中で、一家の人々を前提にしてその一人としての太郎と言う捉え方なのです。一家5人のうち<太郎がパンを焼き><花子さんが裁縫をし><つぼみちゃんが、ベビーベッドで眠っていて><祖父母が外出している>のです。これは5人のそれぞれの行動を述べているのです。中心は行動であり、<パンを焼く>と言う行動をする者、寝ている者、外出している者の具体的人物について明らかにするのです。
<パンを焼く>と言う行為をする者の規定を受けているのは誰かを問うのです。私が山田家を訪れた時にみな仕事をちゃんとしているのかと考えながら尋ねているのであり、その問の中で<太郎が、パンを焼いている>のであり、<花子さんが、裁縫をしている>のだと認知するのです。
それに対して、やはり彼の家に入っていって気づいた事は、<太郎は、パンを焼いていた>と言うコトバになったが、それは山田一家の家族の5人のそれぞれの行動を確認しようとして、太郎自身はどうであるのかを表しているのです。一家の要素としては5人であっても、一人一人のその特性が問われているのです。<花子さんは、裁縫をしていた><つぼみちゃんは、ベビーベッドで眠っていた><祖父、祖母は外出していた>と言う事なのです。そこで<花子>さんや<太郎>さんに<は>がつくことで、それぞれの特性が問われていると言う事は、一家の5人の人間−−世帯主の太郎、奥さんの花子、赤ちゃんのつぼみ祖父母の5人家族です−−について知っていて、その知っている人々の今日の行動を、明らかにしようと言う事なのです。家の中に入って行って初めて分かる事は、彼等5人の具体的な行動であり、その行動が<パンを焼いている>事や<朝から外出している>事、<眠っている>事になるのです。それぞれの5人の人間の行動を問うのです。私が山田一家を訪れる時に、5人と言う人間の存在についての認知が前面に出ていて、その5人の行動が問われているのです。

<行動と主体>の関係で有るが、その特定の行動Aをしている者は、誰なのかと言う意識が、<主体甲が行動Aをしている>と言うコトバに現れ、主体甲について、どんな行動をしているかを問われているのが<太郎は、パンを焼く>と言うコトバなのです。後者は、主体甲を主題(トピック)として取り上げると言う事なのです。主体と行動の関係を問う時、現実的には一体となっているモノに対して、分析的思惟は<主体と行動>と分けるのであり、私が主体で、焼くが行動で、パンが目的物となるのです。しかし私達は、分析した思惟が<主体と行動>と分けているモノに対して、主体を中心にするか、行動を中心にするかで、認識が変化し、コトバが別々の語彙として表すのです。
行動が中心である時、例えばパン焼きをする者と言う事であり、主体が中心である時、主体たる<太郎>になり、たまたま彼のパン焼きが取り上げられるのです。
「パンを焼いている」のは、太郎です。・・(1)
「パンを焼いている」のが、太郎です。・・(2)
(2)は、パン焼きの行動をしている者、ガスに火を付けている者、と言う様に別々の行動をしている者がいて、そのうちのひとつであるパン焼きの行動をしている者について、名前が<太郎>であると言っているのです。それに対して(1)は、パン焼き行動がその中の一つとして取り上げられているのではなくて、単的に<パン焼き行動>のみが取り上げられて、その主体として<太郎>と言う人物が規定されたと言う事です。つまり、<パンを焼いている>事には変わりがないが、他の行動の中での一つである<パン焼き>と単独の<パン焼き>と言う違いなのです。他の行動の一つである<パン焼き>で有りながら、しかし今はその一つだけにスポットライトが当たり、<パン焼き>だけが取り上げられているのです。と言う事は、そこに繰り広げられている諸行動が把握されていて、舞台の上に登っている事で個別として認知されているのであるが、それを前提にして、その一つにスポットライトが当たる事で、トピック(話題)として取り上げられるのです。認知の世界から他の行動が消えてしまったと言う事ではなく、(1)は、その一つにスポットライトが当たっている事の表現と言う事です。舞台の上のみんなにライトが当たっていて、その一つだけが取り上げられているのが(2)と言う事なのです。

「は/が」比較は、ボタンの掛け違い


日本語では、長い間、文中の「は」のついた名詞は、主語と呼ばれて来た。広く信じられている事の一つに「は」は、既知の(旧情報)で、「が」は未知(新情報)を表すと言う事がある。しかしこれでは言語事実の一部しか伝えられない。「が」以外の格助詞だって、基本的には新情報のはずです。
<自転車を譲治に貸しています。>
において、「自転車」「譲治」も新情報でありうるはずです。
後ろからトントンと肩を叩かれて振り返ると、親切そうな女性が立っていて、こういう二通りのやり取りがあったとする。
<あの、落ちましたよ><えっ、何が?><はい、この財布>
<あの、落としましたよ><えっ、何を?><はい、この財布>
この二つの文は、自動詞と他動詞の差があって、それを格助詞が使い分けているだけだ。
財布が棚にあり、棚が傾いた為に<財布が、棚から落ちた>と言う事になる。それに対して私が手に持っていた財布があり、手の握りを緩めると<財布がおちた>になり、わざと手握りを緩めれば、財布が落ちる。主体の意図をふくんだ行為として規定する時、<財布を落とした>になり、目的物自体と行為で見た場合、<財布が落ちた>になるのです。つまり客観的には、神の位置からの俯瞰から見ていて理解できるのは、彼のポッケットにはいっている財布に対して、財布の軌道を見ていれば、<財布が落ちた>になり財布を所持している人間中心にすると、<彼が財布をおとした>になるのです。
財布の落下は、あくまでも財布と地球の引力との関係であり、棚の上に乗っている時には、落ちようとする財布を棚が落ちない様にしているだけなのです。その棚が傾けば、<落ちないようにする働き>がなくなり、<財布があるいは財布は、落ちるのです>。落下していくのは財布であり、地球の引力により、地球の中心に絶えず落下し続けているのです。支えるモノが無くなれば、財布は落ちるのであるが、私が自分の身体に所持しようとしている財布が落ちた場合、<私が、財布をおとした>となるのです。テーブルの上にあった財布を、ネコが移動するときに落としたのであり、私の服のポケットに穴が開いていて、知らぬ間に落ちたのだが、私が持っていたモノだから、落としたのです。
財布に力が加わり、その結果落ちたと言う事を表すコトバとして<ネコが落とした>がある。財布自体だけを考えれば、<落ちる>のであり、財布に対する他者が関わる時、他者からみれば<落とす>になるのです。テーブルの上の花瓶に体がふれたから、<花瓶が落ちた>のだが、その<ふれかた>に意図がふくまれれば、意図して<力>を加えたのであるから<落とした>になり、意図していなくとも、<力>が加わるばあいでも、<落とした>になるのです。つまり、意図するにしてもしないにしても、財布に対する第三者が関係することで、<落とす>になるのです。
<わざと落とした。>と<知らぬ間に落とした。>との様に違いが有るのに、<落とす>には、意図してと言うニアンスが有るように見えてしまうのは、私達の身体に保持されていた財布の様に、私の身体と財布の両者を前提にするのであり、<財布の身体からの落下>を、私の方から見れば、<落とす>のであり財布だけの視点からすれば、<財布が落ちる>のです。

旧情報でない「は」もあります。
<(部屋に入って来て)すみません。アイロンはありますか?>
<(私立探偵が写真を見せて)あの、この人はここへ良く来ますか?>
<有りますか>とその所在を聞いているのだから、問う者には、アイロンの場所が知られていないのであり、旧情報ではなく、新情報であると言う考え方です。<有るか、無いのか>が分かっていないから、情報としては成立していないので、新情報であると言う事です。
この<アイロンは>は、<アイロンと言うモノ>と言い方です。そのモノの規定として、洗濯物のしわを伸ばす機械と言う規定である事を知っているのであり、問う者にとって既知のモノと言う事なのです。この既知とは、自分が経験しているモノから得られた認識−−しわを伸ばす道具−−があり、それを<アイロン>と言うコトバで表すのであり、とするとその<アイロン>と言うコトバが使えるのは、頭の中にそれを成立させる認識が成立しているからであり、その認識を抜きにコトバが現れる事はないのです。ただその認識が成立していても、ロシア語でのコトバを知らないのは、対象についての指示としてのコトバの音韻を知らないからだと言う事になります。
 <アイロン「が」、ありますか>と言う場合、アイロンは、家電として家の道具の集合の一つとして有るモノと言う捉え方で、例えば、友人のお母さんのいる部屋に入って行って、それがこの家の中の家電として有るかどうかと言う問うのです。つまり、アイロンがどんなモノか知っている事に変わりがないが、それがこの家の中に実際に有るかどうかは、分からないのです。アイロンの有る事を知っているお母さんに聞く事で、私の疑問を解決する事になる。ここではアイロン自体の情報が既知が未知かと言う事ではなく、その存在が既知が未知かと言う事なのです。

現実には目の前にあるモノが、<アイロン>と言うコトバで指示されていて、その<アイロン>と言うコトバが、目の前のモノについての種類という認識、つまり概念を表していると言う構造なのです。
概念を表している<アイロン>と言う文字が、目の前のモノに指示として関わる事で、個別性としての目の前のモノが、概念の現実態となるのです。この時種類という側面である概念は、種類の側面を持つだけの一個の個体から、一個の個体そのものが、<アイロン>となるのです。つまり、一個の個体にある共通という側面と言う、余分なモノを除いた所にある側面が、<アイロン>と言うコトバに表されていると言うはずであるのに、ことばとして指示に働くことで、指示されている一個の個体そのものが、指示されるそのものになるのです。一個の個体には、余分なモノはなく、一つの側面も無いのです。
これを前提にすると<アイロンが、>と言うコトバは、現実に目の前にある<あれや、これや、それ>の知覚の上で、<アイロン>と言うコトバで指示されるモノのがどれなのかが、問われているのです。諸物の集まりが知覚されていて、それらの中から、<アイロン>と呼ばれるモノが選ばれるのです。
友人のお母さんに問うと言う事は、彼女の認知している諸物の中に、彼女が生活しているこの家の諸物のなかに、<アイロン>と言うコトバが指示するモノがあるのかどうかと言う事なのです。

<アイロンは、・>と言うコトバのうち、<アイロン>と言う語彙は、<洗濯物のしわを伸ばす道具>と言う認識を表している言葉です。<は>は、その<アイロン>と言うコトバに表されている概念の特定なのであり、その特定された概念の現実化としての一個の個体が<有るかどうか>と言う問いなのです。その特定とは、例えば<お母さん愛用の>とか<この家の唯一の>と言った規定として現れるのです。ただし、例えば<お母さん愛用のアイロンが、有りますか>と言うコトバは、<アイロン>が特定のモノだと言う事を表しているが、ここで注意しなければならないのは、詞あるいは客体的表現として示されたものと主体的表現としての示されたモノの違いと言う事です。<は>や<が>の説明として示されたコトバはあくまでも客体的表現として成立してしまったモノであって、その客体的表現から主体的なモノを理解すると言う事でしかないのです。しかし<は>や<が>は、その文章で示されている所で姿をみせているのであり、それが<アイロンが、ありますか>と<アイロンは、有りますか>との違いを端的に理解していると言う事なのです。ただその理解を客体的な表現としてコトバに出そうとしても、よい理屈が考えつかないと言う事なのです。英語でい言えば、<The>と<a>との違いを使い分けているのです。
<お母さん愛用のアイロンが、ありまかす>と言う時、<お母さん愛用の>と言う特定と<が>の関係になります。前提としての<あれや、これや、それや>である集まりには変わりがないが、さらに<お母さんの愛用しているモノ>と言う集まりを考えて、その中に<アイロン>と名指されるモノがあるかどうかと言う事になるのです。つまり、<が>の場合、その前提に集合体が知覚されているのであり、その集合の各要素を前提にして、一つのモノを考える時、<が>が使用されるのです。<お母さんの愛用のアイロンが・・・>で使われている修飾語は、<が>により、集合の中の集合として成立していると言うことを示しているのです。色々なモノが有る事を前提に、その中の一つが<お母さん愛用のアイロン>であると言う事です。
では<お母さんの愛用のアイロンは、有りますか>における<は>は、<あれや、これや、それや>と言う集まりが始まりであっても、認識として背景に隠されてしまい、その中の一つだけが取り上げられると言う事です。
単に一つであるだけでは、他の一つと合わせて二つになるだけで、個として、他の個との集まりの一つになるモノなのです。しかし<は>は、その様な個であるモノに、構造を付けるのであり、そのものの内部に入り込む為に、他のモノが必要にならなくなるのです。

この<その中の一つ>と言う規定は、<が>として表される認識が前提になっているので、どうしても<一つ>と言う言い方をせざるを得ないのです。それは東洋の神が多神教である時、個別の神が数多くいると言う事であるのに対して、西洋の神が、一つの神であるといっても、二神以上の神が消されてしまったと言う事ではないのと同じです。<唯一神>とコトバにあらわされても、<一つ>と言う事ではなく、無数の事物を同時に見おろせると言う事を言うために、無数に対して<一>と言っているに過ぎないのです。現実には、無数のモノが背景に隠れてしまっても残ったのはその一つであり数量としての<一>なのです。それは沢山の日本人がいて、私もその中の一人でしかないのに、私が日本人を代表しているかの様に扱われるのと同じです。つまり、私が沢山の日本人の一人であると言うのはあくまでも数量として集合体を考えるからであり、それに対して<日本人>としてとは、一人一人が<相互の働きかけ>により関係する事で、はじめて一人一人が日本人である事を表すのです。相互の働きかけが、一人一人に現れているからこそ、どの一人も、日本人の代表となるのです。集合の要素としては、一つ一つの集まりであるが、ここではその一つ一つが相互に働きかけるのであり、その相互性は。集合では、要素の中に入っていないと言う事でする。

<アイロンが・・>にしても<アイロンは・・>にしても、文の始まりにあっては、コトバとしては知られているのであり、突然スワヒリ語の単語を言われても、単に音が聞こえるだけで、コトバとしては理解できなければ、文として始まらないのです。例えば、今まで一度も聞いた事のない法律の専門用語に接しても、日本語として理解出来そうなのはその音声が<あいうえお・・>と言う音韻に則って発音されているからです。その音韻としての五つの文字について、<とりくなか「は」、ありますか>と言うコトバになるが、ただ<とりくなか>と言うコトバの指示する対象領域が分からないために、<有りますか>と問われても、<有り、なし>の考えようが無いのです。
<牛>と言うコトバが、自分の知っている馬や羊と同じ<家畜>の一つであると知っていても、今まで見たことが無いために、想像しようがないのだが、ただ家事労働の為の動物として家にいる羊や馬や山羊と同じ種類に属している事が理解されていれば、思考の始まりにはなるのです。それに対して<とりくなか>と言うコトバが、どんな種類に入っているのかも分からなければ、あるいはどんなモノが対象として指示されているのかわからなければ、考えようがないと言う事なのです。
<アイロン>と言うコトバが指示するモノを経験して、それを使用している所も経験していれば、そのコトバの意味が理解できているが、その理解できているコトバを前提にして<アイロンが、有りますか?>と言う文に向かう時、<有るか、無いか>と言う問いに答える為には、<アイロンが・・>と言うコトバの意味が問われる事になるのです。<が>により、<アイロン>と言うコトバが表す認識が、限定されているのです。
(部屋に入って、その家のお母さんに問かけるのです。)<すいません、アイロンは有りますか?>この時の<アイロン>と言うコトバは、その本来の働きとしての、<布のしわをのばす道具>と言う事でありそれに対して、<アイロンが、有りますか>とは、家のなかに<あるモノ>の中に<アイロン>と名付けられているモノがあるかどうかを問うでいるのです。例えば、道具として使用しているお母さんの愛用のモノと言う特徴を持っていても、単に家の中にあるモノと言うレベルで捉えられているのです。

<アイロンは、有りますか>−−><アイロンは、有りません>
電気店の中を探し回った結果として・・<アイロンが、ありません>
  お店の中を見回して、冷蔵庫、テレビ、ラジオ、電子レンジ等を見つけたが、<アイロンが、見つからない>と言う。例えば新婚家庭の生活必需品一式を買い求めに行った時、生活必需品と言う集まりの一つとして考えるから、個別として<アイロンが、・・>になるのです。それに対して、洗濯後のYシャツのしわにいつも悩まされているので、しわとりの為にアイロンが必要になり、電気店に買いに行くのです。−−−この「しわとりの為にアイロンが必要になり」と言う時の「が」は、<しわとりするモノ>と言う大きな範疇のなかで、個部としてアイロンが考えられているからなのです−−−<アイロン>を思い描きながら、お店に行き、店の中を探し回った結果として<アイロンは、なかった>のです。欲しいと思っている<アイロン>で有るから、その思い描いているモノに対して、お店の現物の有無が、<は>で表されている。確かに生活必需品一式を思い描きながらお店に行く時には諸物は生活必需品と言う範疇としてありアイロンとかテレビ等は、必需品の具体的個別だけであるので、<アイロンがない>と言う事なのです。同じ、<アイロン>と言うコトバでも、対象物認知のレベルが、具体的そのものなのか、有る集まりの一つなのかにより、<は>になったり<が>になったりするのです。
凶器のアイロンを部屋の中で探し回った結果として<アイロンは、見つかった>になる。凶器としてあるアイロンと言う具体的なモノは、おなじく凶器としてあるアイスピックのように凶器の集合に属しているのであり、だから<は>となる。さらに<凶器は、見つかった>とは、その殺人現場に残されている遺留品のなかから、腹の傷を作ったものとしての凶器に注意が向けられる事で、<凶器は、・・>となったのです。
凶器を部屋の中で探し回った結果として<血のついたアイロンが、見つかった>のです。具体的には何が凶器になったのかは分かっていないが、凶器になるモノを探した結果として、具体的なモノとして<血のついたアイロンが見つかった>のです。凶器と言う種類の集合体の各要素となる、具体的なモノであり、凶器と言う集合とその要素としての具体的なモノなのです。さらに<凶器が、みつかった>とは、殺人現場の遺留品を探している時に、財布や片方の靴や割れたコップなどと共に、血のついたアイロンがあったのです。単にアイロンであれば、洗濯物のしわとり道具がみつかったで済むが、血がついているからこそ、凶器であると言えるのです。

遺留品を探している時に沢山のモノが見つかる中で、血のついたアイロンが見つかれば、<凶器のアイロンが見つかった>のであり、頭の傷からすると先がとがった鈍器のようなものを探すことになり、<アイロンが、凶器のようだ>となる。<花瓶は、凶器ではないようだ>となる。<アイロンが・・>の<が>は、「先がとがったモノ」の集まりの一つとしてのアイロンである事をあらわしている。<花瓶は、・・>の<は>は、花瓶が、<先のとがったモノ>の集合にはいっていないのであり、単独に扱われ、その殺人に関わりがあるかどうか調べるのであり、その結果として表されるのです。

そもそも<は>や<が>の問題は、疑似問題として、前提が間違っており、そもそも問う事に意味のない問題となるのです。「は」とは何よりも語用論的、コミニュケーションの為の助詞である。「は」では述語との文法関係が表されない事は周知の事です。一方「が」は単なる格助詞、他にも数ある格助詞の一つにすぎないのです。名詞の述語との文法関係を表すだけである。「は」と「が」の働きのレベルが違う。
それにしても、一体どう言う理由で「は」と「が」とばかり比べられるのだろう。たぶん主語のせいだとおもう。
三上文法における「は」の考え方としてのピリオド越え:
   <吾輩はネコである。名前はまだない。何処で生まれたのか頓と見当がつかぬ。
    何でも薄暗いじめじめした所でにゃーにゃー泣いて居た事は記憶している。>
三上は、冒頭の「吾輩は・」の文はピリオドを三回にわたって越えていると分析する。
     吾輩は・・ネコである。
        ・・名前はまだない。
        ・・何処でうまれたか頓と見当がつかぬ。
        ・・何でも薄暗いにゃーにゃー鳴いて
こう説明すると「は」のスーパー助詞ぶりは明らかである。それぞれの述語との文法関係とは一切無関係のまま、「は」は一つ一つの文に係っては結び、その勢いを次々へと及ぼす事が出来るのです。「は」の働きは文を越えて、少なくとも段落レベル、談話レベルで考察しなくてはいけないのだ。係り結ぶの「ぞ、なむ」もセンテンスの組立ではなく、談話の組立に関わる助詞である。

この本は、タイトルに惹かれた。すぐに呼んだが面白かった。
  この本は、・・タイトルに惹かれる。
       ・・すぐに読んだ
       ・・面白かった。
それぞれの節の述語の意味関係は、それぞれ<このほん「の」タイトルに惹かれた。><この本「を」すぐ読んだ><この本「が」面白かった>であり、文法関係を示す為には格助詞が要る事がわかる。しかし、これらの格助詞の働きはそれぞれ直後の述語の語幹で終わってしまう。文を越えられる「は」は、働きの領域も貫禄も違うのです。
「は」がしめす主題は、文から切り離される。主題が述語との文法関係を示さないとすれば、その分ける理由は、語用論的機能だろう。聞き手に「さて、いいですか。それじゃこれから次の部分で重要な事を言いますよ」とサインを送る機能がそれです。

三つの「は、が」についての論争史
(1)総主論争
東京の都は、面積が広く、人口が多い。・・二重主語
「は」のついたものを「総主」、「が」のついたものを「主語」と呼んだ。
<東京の都は>が、<面積が広い、人口が多い>を述語節にした主語である。<面積が>が主語で、<広い>が述語であるとした。
この様な考え方に対する反論:三上文法を手がかりに。
<象は、花が長い。>
この文には、主語が一つもない。<象は>は主題であり、文はここで切れている。「象について話をしましょう」と聞き手の注意を引いておき、それに続く話し手のコメントが「鼻が長い」となる。「主語」と言う外来の範疇に囚われているから総主「論争」などが出てくるので、これは初めから前提が間違っている「疑似問題」なのです。
(2)ウナギ文論争
1970年代に森有正瓦書いた記事が初出のようです。<さあ これから何かを食べよう>と言う問いかけに対して<僕は、魚だ>と答える。その答えの文は、そのまま一語づつの翻訳は出来ない。
僕は ウナギ だ。
僕は ウナギ がたべたい。
僕は ウナギ を注文する。
僕は ウナギ を釣る。
僕は ウナギ を食べたくない。
最初の文に対する、述語代用がそれ以降のぶんと言う理解です。
僕は ウナギが 食べたい。−−−>僕が 食べたいのは うなぎだ。−−>僕ののは うなぎだ。−−>僕のはウナギだ。−−−僕は うなぎだ。
こういう変形とは一体なんであろうか。
「係り結び」の伝統をつぐ考え方。
「は」の、文を切り、文を結ぶ機能が正しく解釈されている考え方です。映画の比喩でかたる。この文は「僕」と言うショットと「ウナギ」と言うショットをモンタージュし、聞き手に投げ出してものだ。だから文の解釈は様々であって良いのであり、聞き手の判断に任せられているとするのでする。
モンタージュで使用されている<僕>と<ウナギ>の二つのショットは、それが表現されようとしている思想の現れとして考えられているのであり、例えば<食事をする>と言う出来事に対して、<私とウナギ>とが関係づけられるのです。他者に対しては、二つのショット以前に<食事をする>と言う事が伝えられているのであり、それとの関係でウナギがショットされれば、ウナギは食べ物と言う概念の現実体となるのであり、僕とは、それを食べる人と言う事なのです。聞き手の恣意的な判断に任されているのではない。他者も自分の頭で判断するとしても、判断の材料がそこに繰り広げられているので有り、だからこそ私が述べたいことが、他者にも伝達されるのです。

この解釈の致命的な過ちは、<僕は、ウナギだ。>と言う文を、<A is B。>つまり、「AイコールB」と訳している事だ。
<ぼくは、>で文がきれている。主題「ぼくは」がます聞き手の注目を集めておき、基本文である名詞文「うなぎだ」を添えたものに過ぎない。主題が基本文の外に出て文が切れているから、英語の方では人称代名詞をとらないと文が成立しない。(As)for me、it is an eel.であって<I am an ell。>ではない。
(3)こんにゃく文
<こんにゃくは、太らない。> この文が問題になるのは、「太らない」のが「こんにゃく」ではなく、それを食べる人間様の場合である。<こんにゃくは・・>で文がきれるのであり、こんにゃくに関する事なら何を言っても構わないのです。<こんにゃくが、太らない>と言う文は、動詞「太らない」の補語が「こんにゃくが」でも「こんにゃくで」でもいいからです。
スーパー助詞「は」が文を着る、と言う事実さえ分かっていれば問題となる必要がないのです。

町田健「間違いだらけの日本語文法」についての批判
<主語として選ばれている名詞があらわすモノは、事柄そのものを決めると言う、他のモノとは違った、もっと大切な働きをしているからなのです。><主語は、文でどういう動詞が使われるかを決める働きをしてい。主語と連用修飾語では、文の中での重要性の、それこそ格が違うのだといえます。>
これに対する批判:主語と動詞の関係について、英語の場合には、主語の人称によって動詞の形態が違ってくると言うことです。それに対して日本語の、例えば<太郎と花子の間の本のプレゼント関係について>「太郎」から「花子」であれば、<太郎が、花子に本をあげる>になり、<花子が、本を太郎からもらう>のように、動詞の能動性か受動性の違いとして表されるのです。町田の考え方は、生成文法的発想にたつ構文論である。
 英語の主語の定義:(1)基本文に不可欠の要素(2)一定の格(主格)を持って現れる。(3)動詞に人称変化(つまり活用)を起こさせる。以上の客観的な特徴がある。
抽象的なレベルで「主語」と名前をつけたモノを想定する。「何がどうする」「何がどうした」などの「何」、つまり行為の主体であるが、決まった形はない。「動詞が主語に合致する」と言うのは、実は順序が逆で、動詞「どうする」「どうだ」に当たる「何が」を「主語」として選んでおくわけだ。そうしておいて、今度は言語化されたレベルで動詞の主体に当たるモノを「主語」として「再発見」しているのです。日本語では実際に主語が文に無い事が多いが、それは「省略」されたのだとするのです。
<行為と主体>と<主語と述語>とを直結して考えるから、述語だけの文にも、主語が有るのだが、ただ今は省略されているだけだと考えてしまうのです。日本語の<好きです>と言うコトバも、文であると言う事の理解をどう説明するのかと言う事であり、「そこには省略されているモノがある」と言う説明があるにしても、省略しても文として成り立つ日本語の構造が説明されなければならないのです。

第一の説明:
無主語文<いい天気ですね>を述語として選んだ主語は何なのか。「黒板に<明日は休み>と書いてあった」の述語「書いて有った」を決定した主語は何だろう。「はて、何だろう」と改めて主語を考える様では、既にそこにある述語を決定したとは思えない。また、いわゆる料理文「最後にチェリーを添えます」などの場合はどうだろう。主語たむと思われる「私達」を加えると「他の人は添えない」と言う意味が加わって、別の文になってしまう。それでは述語「添えます」を決める主語は何か。
料理文<最後にチェリーを添えます>の述語<添える>とは、出来上がった料理の飾られた皿の上に料理と一緒にチェリーが載せられる事です。では誰が載せるのかと言えば、料理を作っている人なのか、助手の人なのか、その現場にいる人でね載っていないのに気づいた人なのかと言う事になります。つまり特定のAさんが載せると言う事ではなくて、出来あがった料理の皿の上にチェリーが載っている事が重要なのです。人間の手で載せられるのであり、その手は誰の手でも良いのだと言う事を念頭にいれれば、日本語としては<最後にチェリーを添えます>と言う文になり、英語では<It>や<There>になるのです。
第二の説明:
主語として選ばれている名詞が二つある文の説明にも困るモノが出てくる。<花子がケーキが好きだ>である。
この述語<好きだ>を決定したのは「花子」だろうか「ケーキ」だろうか。この文は本来存在文であって「<何か・誰か>が、好きだ<と言う状態>で<そこに>ある」が述語の意味だから、その場にいるヒト・モノは全て「が格」で表われ得るのである。映画館から出てきて<ああ楽しかった>と言う文に対して、私が主語だろうか、映画が主語だろうか。
<好き><楽しい><嫌い><欲しい>も、人間の感情であり、例えば<私>の感情として成立している。私が好きなのです。彼が好きであり、彼女がすきで、貴方が好きと言う事です。その好きには、好きになる対象物がある。<私は、大福が好きです。>となるのです。それに対して<私が、大福が好きです。>とは、<好き>と言う行為とその主体としての<私>と行為の対象としての<大福>と言う事なのです。その主体と対象物の両方に<が>がつくのです。この<が>は、主体たる主語につくのであるとしている限り、<大福が好き>の場合にも<好き>と言う行為の主体として大福になるのです。しかし大福を好きなのであって、この<が>は、<を>と同じ構造としてあるのでしょう。
<私が、大福がすきです>・・(1)
<私は、大福がすきです>・・(2)
<私が、大福をすきです>・・(3)
<私は、大福をすきです>・・(4)
(1)と(3)の<私が、>の<が>は、大福の好きな者の一人として<私>がいると言う事です。(2)と(4)の<私は、>の<は>は、私の内的な構造として、例えばおいしいので<私>が選ばれていると言う事です。
(3)と(4)の<大福を>の<を>は、単に好きな対象物であり、他に好きなモノがあっても、好きなモノの集まりの様には把握されてはいないのです。(1)と(2)の<大福が>の<が>は、好きなモノの集まりがあり、その中の個別として<大福>があると言う事です。
この様に<は>や<が>に対するアプローチは、コトバが概念認識の表現としてあり、概念のあり方が<助詞>のあり方として表れていると言う事なのです。概念の実体は、<私>であり、<大福>であり、<好き>と言うモノです。その実体同志の関係が、助詞として表されているのです。<私>と言うコトバは、話者が自身を指示する関係の認識を表していて、その自身が他者との集合体の中で一つとしてある事を<が>で表し、他者に一切関係なく、自身の内的構造によるあり方を<は>で表すのです。好きなモノである<大福>も、好きなモノと言う集まりの中の一つである時、<大福が>になり、他者に関係なく、それ自身の甘いと言うような性質により有るモノを<を>で表すのです。
<私が、好き>と言う場合、<彼が嫌い><彼女が好き>と言う様に、個別的な者の羅列として表れる認識が<が>に表されているのです。例えばクラスの集まりの中の一人としての私が、好きなモノの一つとしての大福に対して、好きだと言う判断をしているのです。

第三の説明:
<財布が落ちましたよ>と<財布を落としましたよ>とを比べてみると、<財布が人間を離れて地面に落下する>と言う、言語以前の状況を、二つの文で区別したい思うのは動詞そのもの(自動詞/他動詞)であって、主語では有るまい。<財布を落としましたよ>と<財布が落ちましたよ>なら、同じ状況下での文だが、「主語」で述語を決定しようとすると、<財布が落ちましたよ>と<貴方が落としましたよ>のペアとなる。これらは、伝えたい状況が大きく違ってくるのではないか。
少なくとも「落としましたよ」と言う落とすと言う動詞を決めたのが「あなた(が)」であって、「財布(を)」ではない、と言う客観的な証拠を提示すべきです。

日本語と違って、英語では話者がいきなり述語を選べない。「話者と述語を結ぶ橋」が主語なのです。何故なら述語の形を決めるのは、主語だからです。「述語を決めるのは主語」は英語にあっても、日本語にはない。日本語は、話者がいきなり述語を決めるのです。

第三章 日本語と英語の空間/人間


俳句:米洗う 前<>蛍が 二つ三つ ・・・・(で・に・を・へ)のどれを入れるか
問題はどれを選んでも文法的には正しいと言う点にある。しかし助詞により、俳句としての優劣が出てくるのです。この俳句は、<ある言語>日本語の空間へのこだわりが示せるのです。この俳句を英語に直訳すると、日本語の助詞はどれも英訳は同じになるのです。仏訳も同じです。英仏語は「する言語」だから役者(行為者)にはこだわるが、舞台(空間)には無頓着なのです。
米洗う 前<で>蛍が 二つ三つ 
米洗う 前<に>蛍が 二つ三つ 
米洗う 前<を>蛍が 二つ三つ 
米洗う 前<へ>蛍が 二つ三つ 
<で>は、単に前方と言う事、<に>は、後方とか横から前にと言う事、<を>は前をとおって横とか後ろとかに移っていくのです。<へ>は、横や後ろから前に移り、そのままになる事。米を洗っているその場面にあって、その場面に対して、<前で>あれば、米を洗っているその前と言う事、<前に>の場合、米を洗っている前に、どこからか表れたと言う事。<前を>の場合、米を洗っている、その前を、通り過ぎるとか、通過すると言う事。<前へ>の場合、米を洗っているその前へ、何処からか現れてきたと言う事。この中で、<米を洗う>と言う事がすぐにでも相対化されるのは、<を>であり、<前を>通過して別の所へ移動してしまったと言う事なのです。

<米洗う前へ>で<へ>を選べば、予想される動詞は<飛んでくる>のです。
<米洗う前に>で<に>を選べば、飛んで来るかも知れないし、そこにいるかもしれない。
<米洗う前で>で<で>を選べば、動詞の可能性が広がる。蛍が、米を洗う作者の前で「何かしている」事が分かるからです。蛍は何をしているのだろう。ただこれでは、選択の領域が広がりすぎるのです。
<米洗う前を>で<を>を選べば、空間をいっぱい使って大きく自由な移動を表現するからです。
ここで比べた<て、に、を、へ>の格助詞は、基本的に全ての空間の概念です。格助詞を取り替えて俳句の優劣を論じたのも、その空間の使われ方の比較であったのです。