2005.06.17

科学の国のアリス・入門ニュートン物理学・福江純・大和書房

第一章 虹の国・ハートは何色


虹の彼方には何があるか


こんにち、虹は大気中に浮かんだ微小な水滴の中で太陽の光が屈折されて生ずる現象だと言う事は、知られているのです。私達は様々な状況で色々な虹を見る事が出来る。その様々な虹に、共通性がある事がわかる。まず虹が生ずる為には、水、それも細かい水滴状の水が必要だと言う事です。飛行機から虹を見ると円形だと言う事です。そして虹の色は、外側から赤・橙・黄・緑・青・藍・紫(せき・とう・おう・りょく・せい・らん・し)と並んでいる。
自然界のものごとや出来事を観察して、そこに一定の振る舞いや共通した性質を見つける事は、現象の背後に隠されたルールへ近づく為には必要不可欠な条件だろう。
17世紀、虹の示す共通の性質はすでに知られていただろう。その一歩を踏み出したのは、ニュートンである。

白色の光線は七色の光から出来ている−−プリズムの実験をしてみる


スリットを通した一筋の白光をプリズムに当ててみると、きれいな虹色に分かれるのです。プリズムに入射した一筋の光は、プリズムの内部で曲げられて、外部に出て行く時、プリズムから離れたスクリーンに七色の色彩が現れるのです。しかし逆に七色の光をプリズムを通すと一筋の白色の光が出てくるのです。
プリズムで光が分かれると言う現象は、プリズムの作用によって白が、変化したものだと思われた。プリズムのガラスの作用の程度により、赤から紫までの変化に生るのです。

スペクトルは幻であり、光線に色はない?−−面白くて不思議な色彩論


光の三色(赤・青・緑)を合わせたものも白色の光に生る。
僕達が「黄色」の光を見た時、もちろん黄色として認識するのです。しかし一方では、光の三原色のうちから、「赤+緑」を合わせた光を見た時にも黄色として認識するに違いない。
透明な光が、プリズムで七色に分けられると言う事に対して、その七色の一つである黄色の色を知覚する時、黄色の光が目から入るのではない。入ってくるのは、赤と緑のそれぞれが同時に入り、網膜の視細胞の赤に反応する所と緑に反応す所で、黄色と判断されるのです。透明な光がプリズムから入り中で屈折して外部に出て行く時、外部のスクリーンに虹の七色が現れる現象は、外部から赤の光と緑の光が目に入ってくる時、人間には黄色として判断されるのだと言う事との関連なのです。
不思議な国のアリスの様に、アリスの見ている「赤」とハートの女王の見ている「赤」が同じでと言う保証はないのです。
<アリスの見ている<赤>とハートの女王の見ている<赤>とが同じである保証はない>と言う言い方は、その<赤>と言う言葉の同一性で、二人が見ている<色>と言う属性が、同じであるといっているのです。同じ赤と言う言葉を使っても、アリスは明るい赤を見ていて、ハートの女王は暗い赤を見ていると言う場合、二つのリンゴを比べる事で、アリスもハートの女王も、二つの色の違いを認知出来るのです。二人が自分の目で見ているのであっても、見られるリンゴが同じモノであるから、その色の属性としては、同じモノなのだと言う判断なのです。つまり見られているモノが共通物である事と皆自分の目で見て頭の中で判断していることの区別なのです。見られているモノを人々の前に提出する事と頭の中の判断内容を提出する事とは、違うのだと言う事なのです。
信号機の三つに並ぶ色を左から、<青・黄・赤>である場合、左と右との区別が出来なくて、信吾の変化に対して人々の乗る車の動きに合わせないと事故になってしまうのです。右と左の別が、単に濃淡の違いしか分からな井野であれば、今見ている色は、<赤>と言う言葉で表す内容を持つのか、<青>と言う言葉で表す内容を持つのか、判断できないのです。
この部屋にいる三人の者が、机の上のリンゴを見ています。その色を自分の目で知覚しています。皆見た通りに見ているのです。そのリンゴの色は、天井のライトのあたり具合により差異があり、その差異を私達の立つ位置により知覚出来ます。見える色の違いは、立つ位置を変えるたびに視知覚される内容を記憶しているので、先ほど見た色と少し違うと言う事に気づくのです。<私にもAさんにもBさんにも、机の上のリンゴが見えている>と言う言い方は私が現に見ている事は成立しているが、Aさんが見ていると言う事については、彼がリンゴの視線を向けていると言う事を私が見ている事から判断しているのです。皆自分自身の目で見ていると言う事であり、自分の頭の中で視知覚判断をするのです。どんな判断内容かは、正に自身が知覚しているのです。それらの自身の知覚内容について、三人のそれぞれを机の上に並べて比較すると言う事は出来ないのです。比較出来ないとすると、同じであるとか違っていると言う判断は出てこないのです。一個のリンゴを見せて、そのもの自体にある<色>や<おおきさ><食べ物>という属性を知りながら、色としては赤と言う言葉を使う事で、目の前にある通りに知覚されているモノの色と言う染めんが赤と呼ばれていると理解するのです。当然目の前のモノは、先ほどのモノと同じだか、色としては青と言う言葉で示されているのです。
目の前のモノに対しては、それぞれ自分の目で見ているのだが、その見えているモノに対して、色と言う言葉で表すモノを赤と言う言葉で表すと言う説明を立てるのです。つまり、視覚に問題がなければ、現に視知覚してる内容とその内容が<色>と言う言葉で表される属性であると言う構造である事の理解なのです。我が家の猫もリンゴを見ているのであるから、赤を見ているのだが、ただ<色>と言う属性でもあると言う判断はないのです。
では、リンゴにある属性としての<色>とは何かと言う事に成ります。現に見えている赤と言う言葉で指示するモノなのだが、この赤と言う言葉で指示するモノが、リンゴの赤である時、そのリンゴは食べ頃であると言う事を表しているのです。つまり、白黒としての明暗だけの認知と色彩の認知は、自然の働きでしかないが、その色彩が物体の特定の状態を表すと、色彩は<色>と言う言葉で表す属性を示す事になるのです。自然科学が規定する色とは、特定の波長の違いが色の違いとして認知されると言う事だけです。

人の目に入って来た光は、眼球の前側の水晶体で屈折し、眼球の後ろ側の網膜上に像を結ぶ。網膜には無数の視細胞が並んでいて、入射して来た光が細胞内の化学物質に光化学作用を及ぼし、その結果、光を捉えたと言う信号が発生して、視神経へと伝えられる。視細胞には、明暗を感じるかん体細胞があり、薄暗い場所でよく働く。錐体細胞は明るい場所で働き、色彩を感じ分ける事が出来る。その錐体細胞には、赤色の光で大きな感度を持つものと、緑色の光で大きな感度を持つものと、青色付近で感度が高いものの三種類に分けられるのです。色を感ずる視細胞が三種類しかない為に、赤光+緑光を分離できない為に黄色光と感じてしまうのです。視細胞で捉えた光の情報は、視神経を通じて脳の視覚野に送られ、そこで形や色の情報として分析・認識されるのです。

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山田和夫
kyamada@nns.ne.jp
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