商 品
商品はまず第一に、使用価値である。
<使用価値>についての歴史的思考を考えてみる。
アリストテレス<国家について>:全ての財貨の用途は二重である。一つにはその物自体に固有
の用途他はそうでない用途である。例えば靴については、履き物として役立つ事と、交換に用い
られ事とが、その用途です。この両方とも、靴の使用価値である。と言うのは、靴を自分が不足
しているもの、例えば食物と交換する人も又靴を使用しているからです。だがそれは、その靴本
来の使用法ではない。何故なら靴は交換の為に有るわけではないからです。私達が日常使用している<使用価値>と言う言葉は、靴にしても鉛筆にしても、私達が特定の用途として使用すると言う事であり、その特定の使用に<交換に>と言う事もあるのです。靴は足に履く物と言う事であり、さらに例えば、他者の持つ食べ物と<交換する>為に使用すると言う事もあると言う事なのです。
<交換という行為の為に使用して、履き物として使用する>と言う両方があるが、それが両方とも使用と呼ばれるのは、使用する主体としの私達の活用に関わるからなのです。その使用に対しては、交換の為の靴と、履き物としての靴は、後者が本来的な使用であり、前者が派生的使用と言葉にしているのです。この二つ区別は何でしょうか。それは<靴>の自然的特性である革製で足の形に型どった物が、人間の歩行時の接地の際の足の負担を保護してくれるのであると言う、靴の自然的属性が持つ特性による使用と言う事になります。物の使用価値は、その自然的属性により、私達の生命活動を維持すると言う事であり、単に私達に使用されていると言うレベルではなく、物との関係を含む、その属性により私達の活動に働きかけると言う構造なのです。<私達の活用>だから、使用価値なのではなく、物がその属性による活動の媒介と言う関係なのです。と言う事は<本来的、派生的>と言う言葉は、靴がその自然的属性により私達の履き物となると言う、その自然性の事を示しているのであるが、<派生的>は、その自然性から生まれているが、自然性では無いと言う事を言っているだけで、その正体を明らかにしていないのです。本来的と言う言葉で、その自然性を示しているが、派生的では、その自然性から生まれて来たと言う事だけででは自然性以外の何が、指示されるモノなのかは、明らかにされていないのです。結論的に言えば、社会性と言う事なのだが、しかし今は自然性ではないと言う否定で示され、さらに社会性と言う言葉であると言う事なのです。
本来的と言う言葉で示される<使用価値>だけが、使用価値と呼ばれ、派生的なモノを交換価値と規定し直すのです。アリストテレスの様に<本来的、派生的>と言う言葉を使って示そうとしている<使用価値>と言う言葉の使い方は、使う私達主体の活動にスポットが当てられているだけです。使われる靴とか食べ物とかの性質によって用途が違ってくると言う、主体とモノとの関係にまでスポットライトを当て直しているのです。スポットライトの範囲が広くなる事で、主体の活動は、モノの性質によって形態化、具体化されるのであり、たんに主体の活動と言うレベルでは、具体性が捨象されているのです。具体性は。活動を媒介する物の性質によって成立するのであり、物が度外視されれば、活動と言う抽象になってしまうのです。主体の活動は物に対してその性質によって関わる事で物のもつ具体性をかいして活動の具体性が示されるのです。商品と言われるものが、私達の目の前にラジオ、コンピュータとしてあふれている。それらは、音声を聞き、データを計算しと言うように成立している。其の様な働きをするものに使用価値があるというのである。物が本来持っている働きや機能を指示しているのである。この使用価値は、私達の聞いたり、話したり、走ったり、働いたりと言うと言う内的な欲求に対応しているのです。
<まず第一に>と言う事で、商品と判断されているもの、あるいは、扱っているものが、分析始められているのです。そのものを、商品として買い、家に持って帰り、早速電源をいれて使いはじめます。その使い始められる事を、ラジオに使用価値があるという事の実現なのです。ラジオを買う前に、あれこれの能力を期待していたのに、思った程でも無かったととしても、それで、ラジオに使用価値が無いと言う事では無い。程度の問題であり、電源が入らない状態であれば、初めて使用価値が無いということになる。つまりラジオを作成する際、部品を組み立てていってラジオ電波を受信するとスピーカーから音声が出る事を確認した上で、商品として売り出すのであり、相手からそのラジオを買い私がラジオを聞くことで、はじめてその使用価値を実現した事になるのです。制作し試聴する段階でもラジオの使用価値が実現されているのであり、私はラジオを手に入れて、自分の所有にして使用価値を実現するのです。
私達が使用するから<使用価値>と言うレベルでなく、使用するモノの自然的属性によって、使用の形態が変わっていると言うレベルに成ることで、靴ははじめて使用価値と言う事なのです。靴を「交換に使用すると言う使用価値」の使い方は、新たに交換価値と規定することで、靴は使用価値と交換価値との規定を得るのです。
更に言えば、商品の、この使用価値は、商品にとっての自然性なのだか、しかし自然性といっても、原始の森に有り続ける自然性では無くて、人間の技術力が、物の法則性を利用できる事から始めて生まれて来る自然性に他ならないのです。人間が自然の一部であることに対して、その自然に働きかけて、人間の自然に合った形態に変更して取り入れるのであり、採り入れにより、生命を阻害すれば、それは自然を身体と言う自然にとり損ねたと言うことであり、その自然物が人間の自然には有害であるとなるのです。
米は、縄文時代から人間の食欲を満たし、牛車は平安時代の貴族の移動を助け、第二次世界大戦が、原爆の投下でおわり、私は今、Appleが開発したMacをつかってホームページを更新しているのです。欲望も時代と供の変わって来たりするが、欲望を満たす事は、自然性としてあると言う事なのです。
他方において、商品の価値は、さしあたって交換価値として考察されるのです。他者の所有する物との交換に使用されると言う意味の使用価値と表現されているモノを交換価値として再規定されているのです。
私が自分の所有している靴を、他者の所有する大根と交換する時の、靴にある能力としての交換価値により、交換が成立すると言う様に考えられている。しかし何か内在する交換能力として交換価値と言う様にイメージされても交換の場では、 交換価値はまず、諸商品の価格と言うものとしてあり、ラジオ=5000円、大根=1000円という価格に対して、一台のラジオ=5本の大根と言う様に、量的な関係として、両者の間に成立するのです。両者を等置関係に置くのは、さしあたって価格であり違ったもの同志が価格と言う共通語で、等置関係が成立されるのです。
この等置関係を交換と言うのです。各商品が、自分の中にある交換価値と他者の中にある交換価値を共通性とする事で成立する関係を、交換というのである。一台のラジオと5本の大根の所有の変更、つまり交換とは、両者が商品として使用価値と価値として現れると言う事であり、ラジオ使用価値一台数量と大根使用価値5本数量の数量比として現れているモノが交換価値と言う事なのです。交換の場における一台と5本と言う数量比とは、ラジオ一台に対する5本の大根が交換価値であり、逆に5本の大根に対して一台のラジオが交換価値と言う事なのです。
ラジオ一台も、大根5本も<同時に>交換価値なのではない。Aが所有するラジオとBが所有する大根がある。Aは相手Bの大根が欲しいのです。その大根を手に入れる為に、自分のラジオを交換として提出するのであり、相手の大根5本との交換に値する一台のラジオが、交換の等価物となるのです。相手の大根5本は、あくまでも欲求の対象であり、5本有れば一週間の食物として一家4人の家族には十分であるのです。つまり、相手の大根は使用価値として実現されるのであり、その使用価値としての大根5本に対して、その交換に等価なものとして、一台のラジオと言う事になるのです。これはBの方からも言えるのであり、ラジオと大根の交換の場合、<欲求の二重の一致>と言う特定のケースとして成り立っている交換であるが、しかしそれは特別のケースであっても、問題は使用価値と交換価値の構造を明確に擂るケースと言う事なのです。欲求と言う次元では、自分には無い物としての、相手の所有物が欲しいのであり、相互に相手の欲しい物が一致刷れば交換が成立すると言う事なのだか、しかしこれでは交換の客観的構造が示され無いのです。一台と言う数量と5本と言う数量は、あくまでもその数量が相互に必要な物と言うことなのだが、
交換に関係なく大根の数量は、一本2本と数えられるものとして、個体として有るが、交換にあっては、その数量として数えられる5本の数量が、一台のラジオに対して交換における数量関係を形成する時、自身の数量が、相手の数量分に対して交換価値として現れると言う事なのです。5本の大根は、一台のラジオに対して、交換価値となるのです。
各々違っているものとしての商品が−−そして各々が違っているから、交換されるのであるが−−違うと言う面以外の他者との共通性、他者と同じであると言う事、を持つ事を等置関係、あるいは交換というのです。
共通性としての交換価値の、各商品ここに現れるものを、価格というのです。
交換価値は、各商品の価格であらわれている。
使用価値としては別々のものが、等値されていると言う事は、ラジオと大根が等置されると言う事は、異質なものが、共通なものを持つからであるということになる。この共通なものをさしあたって、価格、あるいは交換価値と表現するのです。つまり、二つの使用価値としては違ったものが、共通の交換価値を持つ事で、交換される、あるい等置されるというのです。
異質の二つのものが、それぞれ別々にあって、それらを交換と言う等置関係を形成するのは、異質なもの同志に共通する物が有るからだと言う論理になるのです。
ものにあるのは、まず使用価値なのであり、使用価値は人間の欲望を満たすものとしてあり、ものは欲望−−多様な欲望−−をみたす単なるものなのだが、しかし交換される時、その内部に交換価値を持つ事で、はじめて単なるものは、商品と呼ばれるのです。ここで注意しなければならないのは、ものが使用価値が有ると言う時には、人間の欲望を満たすものとしてあるが、ものが交換価値として有ると言う時、人間の欲望に対するものが、もの相互の等置関係に、交換に入ると言う事であり、単独のものではなく、二つのもの相互の関係にあると言う事であり、其の関係を踏まえた上で初めて、一個一個のものが、商品と言われるのである。
今までには考えられなかったものが、商品になると言う時、人間の欲望を満たす使用価値としては、昔から合ったし、今も有るのだが、使用価値を持ったものが、更に交換価値を持つ時、始めて商品と言われるのです。
一個一個のものに対して
使用価値としては、人間の欲望を満たすものであり、私達が使用する事で実現
されるのである。使用価値は、使用または消費においてのみ実現される。使用
価値は、富の社会的形態がどのようなものであろうと、富の素材内容をなして
いる。ものが、人間の欲望の対象になる時、<もの−−欲望>と言う関係から
ものを規定する事で成立する<ものの有用性>を、使用価値というのです。
つまり、そこには人間の欲望との関係が成立していて、関係に規定されたもの
である時、はじめて使用価値というのです。その関係は、例えば口に入れて消
化される事で、食物として現実となるのです。
価値あるいは交換価値としては、交換関係にあるのであり、ものが、他のもの
との共通のものとして成立している。ものにそれぞれ交換価値があるから、交
換されるのであり、交換されることで、交換価値が有る事が解ると言うことに
なります。だから、一個一個のものを商品と言う事は、なにか当たり前の事な
のだが、しかしそこには交換と言う関係が成立しているのであり、其の関係を
抜きにして一個一個のものを、単独なものとして考えるのは、あくまでも使用
価値のレベルで納得するにすぎないのです。
ここでは、価値あるいは交換価値と言う規定としてしか成立せず、交換価値と
言うレベルでの理解に止まっている。
そこで、一個一個が交換関係に入る時に、それぞれにある共通性としての価値(交換価値)とは何でしょうか。それは使用価値としては人間の欲望を満たすものであるが、その欲望を満たす前提として、ものを作ったり、採取したり、捕獲したりしなければならないと言う事であり、つまり労働によって生産するのです。−−−そして人間のこの労働のことを、人間観として持つ事を、唯物論と規定するのです。−−−つまり、私達は<ものは労働の生産物である>と言う共通性を把握するのです。
そこで、労働の生産物であると言う観点から見直すと、使用価値としてのものは、具体的な農業とか漁業の結果としてあるのに対して、交換価値としてのものは、先ほどの具体的労働では無いと言う意味で、抽象的労働と規定するのです。しかしこの時点での抽象的労働とは、思考としての抽象であり、たんに具体的労働、つまり有用物を作る労働とは違っているのだと言う事になります。具体的労働は絶えず目の前にあるが、その具体では無いという否定としての抽象的と言う事になります。否定の思考によってへ考えられた抽象的と言う規定は、あくまでも思考としてあるが、しかし具体的な労働が、どんな構造として現れるかにより、単に思考上の問題ではなく、具体的なモノが、抽象として扱われる社会的構造と言うレベルになるのです。つまり現実の社会にあって、具体的労働であるモノが、その具体性を無視され、抽象的に扱われると言うことが、思考の上で抽象として反映されていると言う事なのです。
具体的な労働生産物が、交換という等置関係にある事にたいして、その関係を成立させるのは、関係の両端にある具体に対して、具体では無いもの、つまり、抽象的なものが共通性としてあるのだと言う事になります。
そこでもう一度、労働の生産物の観点から考えてみます。
物の使用価値は、具体的労働によって、物に対象化、あるいは投下さされる事で、成立し投下された労働として、実体化されたものが、物の中に入り込むことで、ものは使用価値として成立するのです。つまり、絶えず作り出す労働、生きた労働とその労働によって物に投下された、実体としての労働とを区別するのです。ものは、使用価値としては人間の欲望を満たすのであるが、その欲望を満たす為には、ものは労働の生産物として成立しなければならないのである。そして労働の生産物と言う事は、日々生きて行
く労働によって、ものに実体化された労働として成立することなのである。
ものに実体化された、凝固した労働が、人間の欲望を満たす時、人間のその欲望と凝固した労働との関係を、実体化した労働から捕らえた時の凝固した労働を使用価値と言うことになります。つまり、労働生産物と言うものは人間の欲望を満たすと言う時、その欲望が関係するものとして、箇々の労働生産物の中にあるものとして、使用価値が想定されるのですが、しかしその使用価値の内実は、食べ物を作る労働が凝固したものであったり、家を作る労働の凝固したものいった、具体的労働の凝固体なのです。
この実体化された労働とは、荷物をのせた車を引っ張る時の、馬の働きが、綱に依って車に伝導される事を、一馬力、力が加えられたと言う様に、物理的なものなのである。
ものをどう眺めまわしても、私達の視覚にはものがみえるだけだが、木の上にあるものを手許にとるとか、釣り竿をたらして魚を釣る様に、労働の力がそこに加えられているのです。そしてこの加えられると言う事を、労働が投下されたとか、労働がものに凝固されたと規定するのです。物理的な力の移行が成立するのです。
具体的なものの交換関係にたいして、具体的なもの同志が、それぞれお互いに違うのに−−この違いが、人間の欲望の無限性を示していて、新しく買ったコンピュータが、10日もしたら、新しい機能を得て出てくると、どうしても欲しくなるのだが−−どうして交換されるのかと言う問い。違ったもの同志が交換と言う等置関係を形成するのは、違ったものに同志に共通するものがあるからだと言う事になる。
これは、日常の言葉として<同じ、人間がつくったもの、労働の生産物だから、交換される。>と言う時、この言い方は、箇々のもの=生産物と言う 個別=共通性なるものとなり、ものは皆そのものが、生産物であり、交換関係なくして、つまり、違っているもの同志がと言う事がなくて、それらは、皆同じものになつてしまうのです。
しかし、違っているものが、等置去れると言う事であり、違っていると言う側面は必ず前提になっているのであり、その前提の上に立てば、共通なるものは、個別の中に実体としてあり、だから、それぞれの違ったものが、等置関係にあると言う時、違ったものの内部の実体としての共通性がある事なのです。つまり、関係とは、諸個別に、共通性があると言うと言う事の、別の言い方なのです。
交換の等置関係における共通なるものを、さしあたっては、交換価値あるいは価値と規
定する。交換価値があるから、交換されると言う言い方になる。では、その交換価値の内実はとはなんでしようか。それが具体的労働の生産物への凝固した実体としての労働では無いと言う否定で示される。しかしそこから、具体的労働あるいは使用価値では無いからといって、視線を虚空に向けて、絶対精神とか愛をさがしだしたとしたなら、過った方向に歩き始めてしまうのです。なぜなら、その等置関係と共通性を考える時、その共通性を持つ<別々のもの>があり、それらのものが、人間欲望を満たすものとしての具体的な使用価値であることが、始まりだからだ。ここでの否定は、具体的と言う側面の否定であり、否定として抽象的労働の凝固体なのです。ただし、あくまでも否定であって、具体的労働の凝固体とは別に抽象的凝固体が、探し出されていると言う事では無いのです。あるのは具体的労働の凝固体であり、<そのあるもの>では無いと言う事なのです。
そこで、具体的なものの否定としての抽象であるのは、思考として<だけである>と考えてはならない。具体的なものが、ここでは、交換関係にあると言う事だからである。
その関係を成り立たせているものは何なのかと言う事が問われているのであり、その何かがある事は分かっているが、正体が解らないと言うのです。何かあるものの、その正体が、まず否定として規定されると言う事になります。つまり、具体的なものでは無い事はわかり、さしあたって抽象とするのだと言う事であり、別の言葉としては交換価値あるいは価値と表現するのです。商品の現れる形態の分析 (1)商品は自然形態では使用物として現れる。使用価値
(2)商品は交換価値の担い手として現れる。交換価値
私達の目の前には、商品がうずたかく積まれていて、その商品なるものを前にして、それの正体の分析が始められるのです。その分析の結果が、(1)(2)です。
今年の豊作の結果、キャベツの値が暴落した為に、農家は、出荷すればする程、運送等の費用が嵩み赤字になるので、渋々取り入れをせずに、潰してしまう事にした。
これは、キャベツは使用価値としては、人々の手に渡れば、実現されるのは解っていても、キャベツを作る生産の費用が回収できない事から来る解決方法なのです。豊作になってキャベツの量が増えれば増える程、多数の人々の欲求を満たす事ができるのに、キャベツを作り、人々の手に渡す費用が回収できないからなのである。つまり、人々の欲望は衰えていなが、どんなに欲望が合っても、キャベツが自分の手許に来る当てが無い事が問題になる。これが商品に対する日々の経験なのです。そしてこの欲しくとも自分の手許に来ないという経験の中から、商品の価値あるいは交換価値が、実現されない事で、商品である事の特性が現れてくるのです。
とすると、商品の経験から、商品の分析が、価値から始められる事が正しい様に思えるのは、私に欲望があっても、その商品が私の手許に来ない限り、使用価値を実現できないと言う事だけを見ているからだ。しかし、そのような否定の状態ではなく、あくまで商品がすんなり私の手許にきて、キャベツをフライパンで炒めて野菜炒めにしてたべると言う状態を考えれば、まず価値の分析と言う事にはならないのでしよう。
あるものを、商品たらしめる特性が何であるのかと言う問に対して、使用価値と価値とは、二つの対立物−−使用価値と価値が、対立物であると言う事になるが、二つはどのように対立しているのかが、明らかにされるのでしょう。−−の、直接的な統一であると言うマルクスの言葉は、両者を分析する事で、始めて商品の分析になると言う事なのでしよう。両者は、直接的な統一されているのであるから、どちらから分析されてもいいようにおもえる。それは、<使用価値と価値の直接的統一>と記すか<価値と使用価値の直接的統一>と記すかの違いの様な気がするのだが。
しかし、記入方法の違いは、表現のレベルの違いであって、商品の分析の場合には、あくまでも対象の認識の問題であり、今何が解っていて、その分かっているものから、どのようにして解らないものを明らかにして行くのかと言う事になります。それが多分商品の使用価値と言う側面なのでしょう。
<商品の交換価値の担い手としての使用価値である限り、それは単なる使用価値では無くて、商品において価値とともにある使用価値である。>と言う言い方は、価値と共にある使用価値とそれだけである使用価値との区別を明らかにする事で、始めて言える事であり、予兆としてマルクスの<価値と使用価値の直接的統一>と言う言い方に、何か特別な使用価値があるかのような思いを抱くのでしょう。
農家の人にとって彼が生産したキャベツは、一部は自分達の食用としての使用価値であり、他は商品として使われるのであるが、この他者に譲って利益を得ると言う欲望を実現されるものとして使用価値を考えるとして、しかしこの使用価値を特に交換価値と規定するのです。あえて使用価値とは言わずに、交換価値と言うのでしよう。
キャベツは、一部は食用としての使用価値であり、あとのほとんどは商品としての使用価値であると規定する時、食用としての使用価値とは、キャベツの材質が人間の食欲を満たす事であり、当然私のも、他者の欲望も満たすのであるが、商品としての使用価値とは、私の所有を、彼の所有にすると言う、交換の為のものであり、だからこそ商品に交換価値があると、新たに規定するのです。交換価値を持つキャベツの事を、商品と言うのである。私の所有しているキャベツを、彼が私の許可なく持ち去って、彼の食欲を満たしたとたら、食べてしまったとしたら、彼はキャベツの使用価値を実現したのだが商品としての交換価値を実現したのではないと言う事になるのです。単に窃盗されたのであり、使用価値でのみしか成立せず、交換価値の実現がなされないのです。
労 働 価 値 説
商品は、使用価値である。−−目に見え、触る事が出来、人間の五感に感知され、感性的なもの
商品は、価値である。 −−−幻のような対称性であり、目に見えず、触っても解らず人間の五 感を超えた置様感性的ものである。
だから、価値を分析しようとしても、そして分析が、見たり、触ったりする、五感による知覚である限り、価値が五感による知覚の対象では無いのであるから、価値が何であるのかは解らないの確かだが、だからと言って価値が不可知であるのでは無く、五感以外の知性で把握できるのでしよう。では価値とは何でしようか。それは五感の対象では無いと言う否定として示されるのです。ただ、五感の対象では無いと言う事は、使用価値とは別なものがあると言う事では無い。<使用価値以外の別の存在>と言う言葉は、上着の布の材質が人間の身体の保温を作り出す存在と言う事に対して別の存在と言う事です。布の材質自体が価値ではなく、その材質が身体を保温する形態として表れることを、上着の使用価値と呼ぶのです。布材質と身体の関係にあるとき、その関係からきていされた布材質を使用価値と言うのです。私達の身体を保温する事が、実際に使用されている事で明らかにされるのであり、この身体との関係を抜きに上着の使用価値と言う言葉は成立しないのです。布の材質は、自然の物質と言う事で理解されてしまうかの様に思えるがしかしその自然の物質を、いわゆる労働によって加工しているのであり、その加工によって初めて身体の存在に対して有用である事が示されるのです。使用価値としての上着はその労働にって生産される事で、使用価値として生産されたのです。使用価値としての上着が、捨象される事でそこに残されているのは、労働の生産物であり、それも区具体的労働としての上着ではなく、抽象的人間ろうどうの成果と言う事なのです。それを価値と呼べば、上着やリンネルは、使用価値と価値との存在と言う事になるのです。使用価値は価値の素材的に担い手としてあり、だから価値を把握する時には、使用価値から離れる訳にはいかないのです。捨象と言う概念は、商品リンネルがその使用価値で特性を把握されるのでなく、価値として特性が把握される際、使用価値が使用価値として実現されるのでなく、価値の表現の素材としてのみに成ることで、使用価値として使用されないが、しかし価値の表現の材料としては使用されていると言う事を表す言葉なのです。
石炭や小麦の交換価値は、石炭や小麦の使用価値を素材にして、その素材のXとYと言う量比として現れる。
X量石炭=Y量小麦 と言う交換比率 X、Yで現れている。
石炭と小麦と言う全く異なる使用価値が等置され交換される為には、両者に共通の第三者が存在し、その第三者に自分自身を還元する。その第三者を持つ別々の、お互いに違った物同志が、第三者を介する事を等置関係という。AとBとが、自身とは別のものを自身の中に持ち、それを共通性とする時、AとBとは、等置の関係に有るのです。
AやBとは、別々のものであるのだから、お互いにつながる物はないが、それがCと言う、AでもなくBでもない、第三者を、共通性として持つ時、はじめてABは等置関係と言うのです。
この第三者のことを、交換価値と呼ぶ事にする。ただし、この交換価値は、AやBの中にあるものに対して、それが共通性として規定される事で、始めて交換価値と呼ばれる事になる。AやBは、人間の欲望を満たす物であることが、それらに使用価値があると言う事であるのに対して、ある特定の共通のものをお互いにもつている事が、等置と言うことなのだから、AやBという別々のものにありながら、共通性となる事によつて、始めて、交換価値と呼ばれる事になるのです。AやBに各々あるものであり、さらに共通性−−交換されていると言う事なのです−−であると言う事で、始めて交換価値と言 われるのです。
それを記号で表示してみる。AcとBcとがcと言う第三者を共通性とする事を、AcとBcとが、等置関係にあると言う。商品の場合、Ac、Bc、Dc、Ec、Fcと言う様に、それぞれ使用価値としては、違っているのに、それぞれが持っているcが、自分だけでなく、共通である時、各商品は、等置関係にあると言う。このcの事を交換価値と言うのです。ここでは、まだ使用価値と交換価値が一つの商品の中に別々にあるとと言う次元なのです。
そこでもう一度等置関係を考えてみる。等置関係の両辺が、Ac=Bcと言う等置をを成している事に対して、左辺Acの価値が、右辺Bcの使用価値で表現されるとすると、右辺Bcの使用価値で表されたものを、交換価値と規定する。
右辺にあるとされる交換価値としのcとは、左辺にあるとされる<価値>の、使用価値
での表現されたものを、示しているのです。右辺のある交換価値cとは、右辺の使用価値自身が、左辺の<価値>を表現している事を、使用価値でありながら、表現の素材になっている事を、別の言葉で言っているのです。つまり、右辺の商品は使用価値であり ながら、右辺の商品の価値の、表現素材であるという、表現素材としの使用価値を、交換価値と言う言葉にしているのです。
存在としては、使用価値だけであり、その使用価値とは別に、交換価値が存在するのではなく−−存在としての使用価値とは、そのものが、人間の欲望を満たすものとしてある事−−、使用価値を実現する為にではなく、等置関係にある左辺の商品の価値を表現する素材としてある事を右辺にある商品に、交換価値があると言葉で、表している。
<指にはめる円環条のもの>と言う規定と、金がその素材になつている事の区別と同じなのです。現実に存在するのは、金であり、銅であり、鉄であり、銀であり、珊瑚であると言う様であり、それらの素材物質の存在に対して、素材と指が形成する特別な関係
を、<指にはめる円環条のもの>という規定として、私達は、頭の中に概念化して持つのですから、けっして神の啓示として、虚空から現れて来たと言うのではないのです。
このあたりの論理としては、哲学として内容と形式と言う概念化で語られて来ているのです。
この論理をもう一度、価値の所に戻してみると、商品にある<価値>なるものは、当初は、箇々の商品にが持つ交換価値によって理解され、その交換価値によって、箇々の商品は、交換されていると言う説明がなされたのであり、さらに、箇々の商品の使用価値とは別のものとして、交換価値があると説明されていた。つまり、商品の価値なるものとはと言い始められても、述語としては、交換価値として示される事になります。主語としの<商品の価値>とは、例えば、夕食のさんまの焼き魚に添える大根おろしになる大根が、使用価値としての大根に対して、売買の商品としての大根である事を、価値としての大根と規定するのです。商品として売買されるときに、現前しているものを、価値と言う言葉でしめすのです。価値と言う言葉で示す対象は、商品の売買の過程に現前しているのであり、それを価値と称するのです。ただしその対象を指示できても、では価値とは何であるかと問われても、沈黙してしまう事になるのであり、その沈黙を破る ために、述語としての、分析がなされることで、有言になるのです。その有言の第一段階として−−等置関係の構造から分析されて行く−−箇々の商品にある交換価値なる物が捕らえられたのです。更に分析されると箇々の商品は、使用価値と交換価値があると把握されるのです。それが、前に記した通りのAc、Bc、Dcと言う図式なのです。
さらにその等置関係を再考する事で、新たな視点がえられる。
商品甲(Ac)=商品乙(Bc)と言う等置関係が、分析の対象になる。
(1)甲と乙と言う全く異なる使用価値が等置され交換される為には、両者に共 通な第三者が存在し、いずれの商品も第三者へと還元されねばならない。 A使用価値とB使用価値の違いにも関わらず、等置関係を形成するには、 両者とは違ったものである、第三者がなければならず、それを交換価値と 言うのである。関係の両端は別々のものであるが、その別々のものが、関 係を形成するとは、別々な物が、それらとは違った第三者たる、共通項を を持つ事なのである。決局、関係と言う言葉は、別々な個別の二つのもの が、共通なものを持つと言う事を、違った面での表現なのです。
この違ったもののなかで、共通なものとして、変化せずあるもののことを 実体と言うのです。実体は、個別存在を、関係付けるのです。
個別存在は、いま知覚の対象になつているもので、変化するものとして把 握されるが、その変化のなかで、変化しないものが、個別存在の共通性と して把握されることで、関係と言う概念が得られるのです。
(2)その等置関係は、両項である各商品が、自分の価値を、自分以外の対相手 で表すと理解する。商品乙は、自分の価値を、商品甲の使用価値で表す。 この言い方は、(1)が、関係と言う事で物事を考え、関係の両項を、対 等なものとして扱い、単に使用価値の違いでしかないのに対して、両項の 使用価値が、対相手の価値の表現の素材として扱われる形態論が生まれて 来るのです。等置関係は、右辺=左辺が、入れ代わつても何の差し障りが ない物であるが、両辺の働きの違いを取り上げる事で形態論が成立する。
歴 史 的 出 来 事
マルクスに関する大きな転回は−中期(経済学批判、グルントリ)から後期(資本論)
えかけて生じたもの−−価値形態権の成立が有る事。
サミエル・ベイリーによるリカードの労働価値説に対置いたことである。リカードの考えでは、商品には交換価値が内在し、貨幣はそれを表示するものであり、貨幣は化象にすぎない。この考えに基づいて、リカード左派やプルードンらは、貨幣を廃棄し、労働証票や交換銀行を作る事を構想したのです。そのリカードの考え方に対して、べイリーは、箇々のの商品には、その中に交換価値なるものなどないのであり、あるなどと言うのは幻想でしかないのであり、商品の価値は、他の商品との関係にしかないのです。
箇々の商品の相互の関係が、実体化したものを、箇々の商品に内在する交換価値と考えているにすぎないのです。商品相互の関係とは、商品が交換されていると言う現実の運動であり、その運動を前提にしていながら、その運動の可能性として、各商品の内部にある力として想定された、実体的なものとして交換価値が想定されたのです。だから商品相互の関係の内部にしか、関係を形成している両端の商品の中にしか、価値はないと言うのは、<各商品は単独に価値をもつ>と言う考え方を批判するのです。
食用としてのキャベツが、商品としてのキャベツになるのは、正に交換される市場に入る事によるのであり、<各商品は単独に価値をもつ>ということは、あたかも市場に入らなくとも、商品であるかの様な結論をしているのです。
農家が大量のキャベツを作るのは、自分達の食用以外の、他者に売る為であり、とりもなおさず、商品を作っているのですが、しかし今年は豊作の為に、売れば売る程、儲けがなくなるので、市場にもって行かずに、廃棄する事にした場合、売る事を前提に作るキャベツを、商品と呼んでも、他人に届かなければ、商品として実現しないのです。
農家が作るキャベツは、可能性としての商品であり、その可能性を実現する事で、始めて、キャベツは、商品であると言う事になる。とすると、農家がキャベツを作る時、商品としての可能性を実現する色々な条件を考慮しているとしても、それは可能性を広げるためであって、例えば、自分達の食用の為に作ったキャベツが、食べきれない程に出
来た場合、食べることで、毎日消費されていくのに、決局腐ってしまい、食用に出来なければ、キャベツの有用性、つまり使用価値が実現されなかったという論理構造と同じなのです。腐らない為に冷蔵保存したりするのは、キャベツの有用性、使用価値の実現をいつでも実施する為になされるのでする。いつでも食べられるために、保存期間を延すのです。
市場に持って行って、商品として売る為に、キャベツを作つたとして、市場に入る前のキャベツを可能性だけの商品といっても、それは空虚な言葉としての可能性ではなくてその可能性を実現しなければ、お金が手許に入らず、生きて行く必需品をかえない為に生活が成り立たないと言う現実性に支えられた可能性なのであり、だから市場のなかで形成される交換関係が必ず前提にされていると言うことなのです。
古典経済学の商品に関する学説である、<各商品に労働価値が含まれる>と言う事。
べイリーは次の様に説明する。「そのように言えるのは、諸商品の関係体系が貨幣によって統合され、各々に価格が与えられた後からであって、実際には、商品相互の関係としての価格しか存在しない」とべイリーは言うのです。
このべイリーの説明に対する批判
価格を表す貨幣がなんであるかを問わないのです。
私達の眼の前の商品世界にあっては、確かに貨幣による<価格>表示無しには、商品は市場に並べられてはいないし、売り手が決めている価格が、買い手との交渉で変更されるのであるから、価格の変動を考えに入れれば、商品の中に一定の不変なものがあると結論する事に躊躇する事になるだろう。その躊躇はたぶん、商品に内在する<価値>なるものと、商品の価格との関連を問う事なしには、解答がでてこないのでしょう。
例えば、日本で使用されている<円>について、その単位である<一円>が何を表しているのかと言う疑問がでてきます。つまり、壱cmや壱gと言う単位の考え方と似たものがそこにあるはずだと言う事なのです。<重量関係>で論じた様に、箇々の物体にあり、手に感じたズシッとした<あるもの>を、鉄と言う特定の物体=<重さ>で表現す事で、箇々の物体に内在している<あるもの>−−人々は、手にのせる事で皆、それを感ずる事ができるのであり、右手に載せたものと、左手に載せたものを感じて、右手の方が、重いと言う事を判断できるのです−−を、任意の大きさに決めた鉄片を<1g>とすれば、それがg原器になるのです。このg原器の成立は、単に手による重さを感ずる事とは違った、手に感じているものの、人々の前にさらけだされた、外在化あるいは表現なのです。単に感ずる事だけでなく(この感ずる事が出来るからこそ、秤と言うもが成立の第一条件なのです。)所謂客観的なものの存在となったのです。それがg原器と言う存在なのです。
鉄にも、リンゴにも、人間にも、石にも、ある内在する<重さ>に対して、そしてこの内在する<重さ>等は、哲学史的には、物体の<属性>と言う言葉で語らえているものであり、物体の本体に比べて、その内側にあるものであったり、付属するものであったりと言う事であり、その他の色々な属性と合わさったものなのです。その属性の一つでである<重さ>にを介して、鉄=リンゴ、鉄=石、鉄=人間、鉄=スプーン と言う等置関係を形成すると−−両辺に共通するものとして、<重さ>が規定される−−各右辺にある物体は、自分の<重さ>を、鉄本体で表します。そしてこの鉄本体とは、例えばある特定の大きさにしたものを基準にすると言う様に、形を持ったものと言う事になるのです。この等置関係の内部では、と言うか、<重さ>という共通なものを介する事が箇々の物体に関係を付ける事なのであり、その関係に対して、右辺と左辺の役割を考える事で、右辺=相対的形態、左辺=一般的形態と捕らえ、右辺にある、あらゆる物体がそれぞれ自分の<重さ>を、単なる属性の一つでしかないはずのものを、左辺の鉄本体で表現する事で、鉄自体が、重さそのものと規定されるのです。つまり、鉄自身の属性でしかない<重さ>が、鉄=重さ と言う規定をえるのです。その関係の内部で、<重さ>が実体化したのであり、鉄自体が重さそのものになったのです。
つまり、<重さ>は、単独の鉄と言う物質としては、その他の物質と同じに、属性に過ぎないが、しかし、その<重さ>を共通とする関係が成立する時、はじめて、その関係の両端である、右辺と左辺の働きのちがいにより、鉄=重さ となり、かく物質が持つ属性である<重さ>を、鉄自体で現すことが、鉄=重さ と言う規定を与える事なのです。
さらに言えば、物体を手にしている時に感ずる<重さ>という言葉で表しているものを追求すると、箇々の物体が、地球の重力で引き付けられる時に、物体におよぼす力を私達は<重さ>と感ずるのです。この力の研究を、物理学が実施しているのです。月の上で、同じものをもっても、1/6の重さになると言う事でしめされます。地球の重力や月の重力の違いによってかわる<重さ>に対して、箇々の物体がもつ固有なものを<質量>というのであり、箇々の物体の<質量>が、地球の重力によって引き付けられる時に現れるものを、私達の手は、<重さ>と言う言葉にするのです。だから、私達が物体にあると考えている<重さ>なるものは、箇々のものと地球との重力関係によって成立しているものであり、箇々のものと月との重力関係も又成立すると言うことなのです。
箇々の生産物が、形成する商品関係は、箇々の生産物に内在する交換価値を現象させるが、箇々の生産物の中にある固有のものが、商品関係に入る事で、交換価値として現象していると言う事になる。箇々生産物にある固有なものを価値とすると、価値が、商品関係に入る事で交換価値として現れる事に対して、この現れとしての交換価値とは、価格のことに他ならない。いや、この交換価値が価格として現れる為には、g原器の鉄の様な物体と同じ位置を占めるものとしての、ある特定の生産物自体が、交換価値の表現形態を取らなければならず、例えば金がその位置を占めるなら、金1gが、交換価値の単位になる事で、キャベツ一個の交換価値が、金2gになる事で、キャベツ一個の価格は、金2gと言う表現をするのです。これが価格の成立です。しかしこの段階では、まだ金は、特有な物体、あるいは貴金属と言う段階であり、ネックレスや指輪になる貴金属との区別はないのです。金貨と金の指輪にある区別が、成り立っていないのです。
交換価値と言う規定から価格と言う規定へ移項するのです。箇々のものの商品関係ではまだ交換価値であるがその商品関係の内部で、ある特定の商品に一般的価値形態の位置が与えられると、始めその一般的価値形態にあるものの、数量的大きさが、価格として表示されるのです。商品関係の内部で、ある特定の商品が、一般的等価形態の地位を与えられる事で、その特定の商品以外の全ての商品が、自分の価値をその特定の商品をかりて現そうとするのであり、その特定の商品の自然な形態を、数量的なものと規定する事で、始めて現実としての貨幣となり、数量的な表現の単位、例えば<円>と言った言語表現になるのです。
リンゴ一個100gと言う事が、秤に載せてはかる事で解る時、その一個100gと言う表現を明らかにしようとして、リンゴを手に載せて、重さを感じても、それだけではあ!重さがあると言う事を感ずるだけであり、リンゴを載せた秤の原理が解らなければ100gと言う表現の構造は解明されないのです。それと同じで、リンゴ一個100円と言う価格表現についても、一円という単位が何を表すのかが解明されなければ、つまり、貨幣の構造が明らかに去れなければ、単に手に感ずる<重さ>の当たりをぐるぐると廻っているだけになってしまうのです。価格の場合の<重さ>に当たるものが、つまり、人間に労働の時間や質と言うことなのです。しかし、<重さ>は、必ずとおらなければならない第一地平だが、重さを持った例えば鉄が、重さの現象形態、あるいは表現形態であると言う論理構造が、リンゴが自分の重さを、鉄自体の自然形態のままで、表すと言う構造が、理解されなければ、ついに正解を得る事はないのです。リンゴを手に持った時のあの<重さ>はある特定の形にした鉄片20個分である時、その特定の形をした鉄片を1gと決める事で、そのリンゴは20gであると言うのです。その特定の形をした鉄片を決めるのが、その社会における約束事であり、その約束事が
<ポンド>、<匁(もんめ)>、<g>、<オンス>、<カラット>、<貫>、<斤> <グレーン>と言う表現として出て来ているのです。
歴史的挿話<イナゴマメは、地中海沿岸からシリアが原産地である。その木は成長す
ると8〜15mの高さになり、これから1年に数百kgの種子がとれる。この
種子が、イナゴマメ(セラトニア・シリクワ)である。イナゴマメは主
に食用とするが、古代からその質量がほぼ均一なため、天秤で質量を計
る際に基準となる分銅として使用されていた。>
(日本計量史学会会長−−岩田重雄)
論理構造のアナロジー:
箇々の物体 箇々の生産物
固有性 質量 価値
大きな関係 重さ 交換価値
箇々のものの関係 重量関係 商品関係
関係からの現れ g原器 円単位の成立
現象形態 リンゴ10g リンゴ一個50円