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アイコン秦野市今昔
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秦野市は、周囲三方を小丘陵に囲まれて、一般的には秦野盆地と呼ばれている。始まりは935年野洲で京都朝廷に乱を起こした平の親王平将門がその前ここにいたという伝説がある。囲まれた丘陵が京都東山に似ていること、水が清麗のことなどから京都にそっくりというのである。今でも河原町や賀茂神社にその名残を残している。しかし、蓑毛に在る臨済宗宝連寺所蔵の古文書によると、居たのは将門ではなく弟の将文であることがわかっている。
仁徳天皇の時代に、この地方の人々が機織りの業に従ったとき波多野の庄と呼ぶようになったと言われている。
平安期中期以降は鎌倉の源家直轄となり波多野氏が施政を代行した。それから徳川時代には小田原藩が直轄して明治維新に至っている。
宝栄4年の富士山の大爆発により、この地方にも大降灰があり耕地が滅して不毛になったため枯れ地にて適する秦野葉が奨励され、戦後までたばこ葉の大産地となった。秦野、二宮間には戦後までたばこの搬送のため軽便鉄道も引かれていた。しかし都市化の流れでたばこの栽培は昭和59年終焉を迎えることになる。
今日の秦野があるのはたばこのお陰とたばこに感謝する恒例のたばこ祭りは今でも9月に行われ、毎年30万人の見物客がでる県内有数の祭りである。次ページ以降に秦野の四季、行事を逐次追加する予定である。

弘法山からの秦野盆地、
富士山の眺望

弘法山からの表尾根

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第2の故郷秦野

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秦野市は、神奈川県央の西部に位置し東西約13.6km南北約12.8km、県内19市中4位の広さを持つ。
東京からは約60km、横浜からは約37kmの距離にあり、北方には丹沢山塊が連なり、南方には渋沢丘陵が東西に走り県下で唯一の盆地を形成している。人工は約17万人、所帯数6万5千である。
現在の秦野市は、農業、工業、サービス業のバランスの取れた都市で横浜、東京へ通勤するサラリーマンも多い。

秦野の四季
爛漫の秦野
秦野みのげ文化の会