「奇跡のようだ」

 桜がいやに美しく寂しく見える……、朗読の教室の方たちとの稽古のあと、私は生まれて初めて、そんなふうに感じていました。
 文京区本郷は、私が朗読をしている樋口一葉とのかかわりの深い場所ですが、そこはまた、学生時代にともに早稲田の劇研で 舞台をやって以来、いつもサポートしていただいている池田一臣さんの現代劇センター「真夏座」があるところです。
 その本郷の劇団から、朗読の四谷の教室に移動する前、生徒たちと上野まで行きました。なぜか、無性に桜の花が見たくなった のです。私の「一葉のゆうべ」の第一回は、上野の本牧亭でした。そして、不忍池のほとりの桜に囲まれたとき、つぎつぎに亡く なられた先生方のお顔が、桜に重なって浮かんできました。
 尾崎宏次先生、中村真一郎先生、辻邦生先生、倉橋健先生、そして山本安英先生……。本当に、続けて逝ってしまわれました。
 今でこそブームになっている舞台朗読ですが、私が30年前に始めたころは、芸術祭に参加したくても、朗読という分野がなく、 賞をいただくのにも、「幸田さんの朗読は大衆芸能ではなく高尚すぎる。お能の分野にでも入ったらいい」なんていう審査員すら、 いらっしゃいました。
 そんなたった独りの孤独な作業を、最初からずっと支えてくださった先生たち、そしてお客さま方。そうした方々のあたたかい目と 励ましがあったからこそ、私は今日まで、朗読という地味な仕事を続けてこられたのです。そんな先生たちが亡くなられたことは、 私にとってはたんに悲しいというよつ、あたかも自分もなくなったような、寂しさの極みでもありました。
 美しい桜を見て、四谷から外苑を通って帰途につきました。
 自宅に帰ったとたん、頭の中がぐるぐると回るような気がしました。これはおかしい、普通ではない。
 私はすぐ、家族に救急車を呼ぶように頼みました。「よい脳外科の先生のところへ連れていって」と言ったあとは、もう意識を 失っています。
 最初に運び込まれたのは、練馬区富士見台の救急病院。CTを撮り、ここでは手に負えないと、板橋の日大病院に連絡をとって くださいました。そして、再び救急車で日大病院へ。
 検査をし、即手術です。すべて終わって気がついたのは、ベットの中。「無事に手術は成功しました。2週問の絶対安静です」と、 執刀してくださった加納恒男先生の声が聞こえます。そのときは痛くも痒くもなく、そんなたいへんなことが自分の身にふりかかった のだとは、まったく認識しておりませんでした。
 最初に思ったのは、神作学長と舞台の打ち合わせまでした、明後日の東洋大学での『源氏物語』、でもその朗読はできない、 ということでした。
 その後も続々と仕事が続くのに、いったい頭のほうはどうなっているのだろう。ためしに、一葉の『たけくらべ」の出だしを口ずさん でみます。
 「廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お歯ぐろ溝に灯火うつる三階の騒ぎも手に取る如く……」
 最後まで続けられる、別に変化はない、大丈夫。
 でも、廊下でも病室でも機械がピーピーなっていて、私の体にも、さまざまな管が取り付けてあります。頭上には数種類の点滴が セットされ、私の血管を通して栄養やら水分やら(脳の手術のあとにおきやすい血液凝固をふせぐため)を送り込んでいます。音 の変化で、すぐに看護婦さんがとんできます。
 そして手術の間、徹夜で病院にいて、手術の成功を聞き、いったん家に帰ってパジャマなどを持ってきた家族から聞くと、先生 から「クモ膜下出血」と診断され、脳のレントゲンを見せられたとのこと。
 説明を受けて、手術の同意書にサインをしたそうです。しかし私にショックを与えないように、何も話さなかったので、私はすぐにも 家に帰れるような気がしていたのです。
 2時間おきに来る看護婦さんは、「お名前は? お住まいは? ここはどこですか?」などと質問します。そして、「お年は?」。
 年齢のことなど、考えたこともなかった。エッ、私は、そんな年だったのか、なんていうことかしら!
 そのころ、私は妙に忙しく、立て続けに仕事ばかりしていたのでした。一葉や『源氏』はもちろん、『おくのほそ道』の朗読。そして NHKの「古典を読む」シリーズ。
 また、仲良しの矢崎彦太郎さんの指揮で、オーケストラとの共演。ラヴェルの「マ・メール・ロア」などを楽しく読みました。
 瀬戸内寂聴さんの創作「髪」、同じく『源氏物語』の現代語訳の「浮舟」を、神戸と東京で。大阪では、「源氏とバッハ」を12歳 のチェリスト、マーク・シューマン君と共演。詩人の那珂太郎先生と「ことばの美しさ」を語る、などなど……。
 そして21世紀を迎え、「彩の国さいたま芸術劇場」で『源氏物語』全五十四帖を、9年かけて三田村雅子先生の講義とともに 朗読するという、長丁場のすてきな企画が始まるところでした。
 忙しかったから、病気になったのかしら。でも、これからも仕事がある。いつまでも病気ではいられません。
 私は病室で、生徒たちの発表会後には〈快気祝い〉ということで、みんなでワインで乾杯したらいいのでは? などと娘に話したり していました。娘はそれには答えず、電気ポットを買ってきて、私に「すぐ帰るのに、なぜそんなものを」と怒られていました。
 しかし、脳天気だったのは私だけでした。今でも信じられませんが、手術してくださった名医の加納先生は、開頭できない微妙な 場所なので、大腿部からカテーテルという管を通し、破裂した脳の動脈瘤を縛ったのだそうです。私の血管は細いので、手術も 6時間余りという長い時間をかけ、慎重にていねいに、画像を見ながらやってくださったということです。
 脳の中の出血部が治まっていくまでの2週間は、安心できないとのことでしたが、もう大丈夫だと思ったころ、先生から娘が、 「この2、3日が危ないんですよ」などと言われ、大ショックを受けたということがありました。
 いつも仕事場からなかなか帰ってこない娘が、このたびは本当によく面倒を見てくれるので、珍しいなと思っていたら、なんともう 1力所、破裂していないけれど、けっこうな大きさの危険な動脈瘤があったそうです。
 私はそんなことも知らず、手術が成功したからもう大丈夫、退院したらああしてこうしてと、想像を繰り広げていました。
 何しろ、こんなに自由な時間があるのは、久しぶりでした。目に入るのは、ズラリと並んだお見舞いの美しい花々。仕事関係など で連絡を取ったみなさまから、さまざまなお心づかいのお見舞いが届き、とくに花好きな私は、病室を埋め尽くすほどの花々に 囲まれ、たいへん幸せな思いでした。
 そんななかで不思議に、若くて美しかった母や、叔母が編み物をしてくれたこと、二人の笑う姿、そして戦争で疎開していたこと などが、次から次に色や音、匂いまでも伴って、鮮やかに頭に浮かぶのです。
 疎開先で、小学6年生の私は、慣れない薪でご飯をたき、外の井戸から桶に水を汲んで運んだものでした。1年生の妹の面倒は、 私が見て、二人だけの暮らし。負けず嫌いな私は、田舎の子たちに負けないよう、一生懸命やっていました……。
 もう大丈夫なのに、なぜこんなにいろいろ思い出すんだろう。
 ところが、2週間たってまたカテーテルを通し、すべて検査した上でもうOKということになり、先生も休暇、娘も地方に出張に 行ってしまったときに、〈悲劇〉はおきました。
 大腿部が象の足のように腫れ上がり、41度という高熱、血圧低下。足は固定され、氷で冷やされ、私は苦しくてのたうちまわ りました。大腿部の内出血だったのです。
 危険な状態なのだ。そうかんたんに、生かしてもらえないのだ。
 このとき初めて、本当に自分は病気なんだと認識しました。戻ってきた先生も、たいへん驚き、「こんなヶースは今までありま せんでした」と恐縮されます。
 しかしその傷も、なんとか2週間後には癒えました。そのころ、もう一つの破裂していない動脈瘤のことを聞き、今度は部長の 国際的にも高名な片山容一教授に手術をしていただきました。
 のちに他の先生からうかがったのですが、信じられないほどの見事な手術。そして、その動脈瘤は破裂寸前だったとか。本当に ありがたいことでした。あとから知れば、クモ膜下出血というのは、たいへん恐ろしい病気だそうですね。
 みなさまのお陰で命を永らえさせていただき、「奇跡のようだ」と人に言われて回復した私です が、やはりこれからも朗読をしてお返ししていくしかない、そんなふうに思っています。