Thankyou_El_Cantare さん

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5358 件目  はじめまして   Thankyou_El_Cantare    2000年8月9日 9時16分

>幸福の科学の教えに心を打たれました。

私も、幸福の科学の教えに心を打たれた一人です。

>これはと思う意見がありましたら教えてください。

幸福の科学の教えの中心は、正しき心の探究と、四正道の実践にあります。
日々実践しておりますと、自分の足りない部分と、生かされている自分が見えて来ます。
こんなに足りない自分なのに生かされている、私だけでなく、みんなもそうなんです。
みんな、そうした仲間であることが見えて来たとき、世の中がとてもいとおしく感じられる様になりましたよ。
あなたも一緒に学んでみませんか?
 (これは kyully さんのMsg 1 に対する返信です )


5386 件目  「救われる」という保証がない   Thankyou_El_Cantare    2000年8月10日 12時22分

>これはと思う意見がありましたら教えてください。

ご注意頂きたい点は、入信したからといって「救われる」という保証がない点です。
「この世」での思いと行いが「あの世」でも続くのだと教えられております。
これは、この世での思いが地獄に通じていれば、その人は地獄に行くのだ、ということでもあります。
幸福の科学では、こうした「法則」や「正しき心の原点」を教えているに過ぎません。
また、「仏法真理はあらゆる時代にあらゆる場所で説かれている」とも言われております。
これは、幸福の科学で説く法則に沿ったものであれば、それが「伝統宗教」や一般的な「格言」であっても、ちゃんと実践して「この世」での思いと行いを統御していれば「救われる」とも言うことでもあります。
どちらにせよ、あくまでも自主的に思いと行いを統御していなければ「救い」はないという教えなのです。

「正しき心の探究と、四正道の実践」という基本教義に沿って、自らの心を統御して行くならば、誰であっても救い(悟り)に至ることが可能だと思います。
 (これは kyully さんのMsg 1 に ホする返信です )


5426 件目  「正しき心」とは   Thankyou_El_Cantare    2000年8月11日 10時29分

>これはと思う意見がありましたら教えてください。

「正しき心」と聞いて、何を思い浮かべますでしょうか?
幸福の科学では、「この世」での思いと行いが「あの世」でも続くのだと教えられておりますが、「あの世」の中でも天国、天国の中でも高級霊界と呼ばれる世界に通じる心が「正しき心」とされております。
高級霊界と言えども、単一思考で固まっているかと言えば、そうではなく、様々な思想が混在してバリエーションに富んでいる様相を、霊言集を通してお示し下さいました。
これら思想を大きく7種類に分類し、それぞれを色(黄、白、赤、紫、青、緑、銀)の光線にたとえて、光を放っていると教えられております。
その7色の光は、大元である金色の光が分光したものとされており、金色の光を放つのが、幸福の科学の本尊であります、エル・カンターレ様とされております。
信者は、エル・カンターレ様の説く最高の法を、学びに集っているのです。
 (これは kyully さんのMsg 1 に対する返信です )


5431 件目  7色の光線   Thankyou_El_Cantare    2000年8月11日 13時15分

大きく7種類に分類された思想を、「7色光線」とも呼んでいます。
根本教典である「正心法語」によれば、各色は

黄:教え 法
白:救い 愛
赤:法戦 正義
紫:礼節 秩序
青:思考 理性
緑:調和 自然
銀:進歩 科学

といった分類となっています。
この7色の光線によって、仏の国(実在界)が彩られていると説いています。
これら光線の大元は金色光線とされ、エル・カンターレ様の説く法であるとされています。
事実、霊言集によって示された各霊人の霊言と、エル・カンターレ様の説く法との法力の差は歴然としています。
これを機会に、ぜひ、エル・カンターレ様の説く最高の法を、学んでみて下さい。
 (これは kyully さんのMsg 1 に対する返信です )


5470 件目  「四正道」の「知」の教え   Thankyou_El_Cantare    2000年8月13日 23時8分

幸福の科学の基本教義であります「四正道」の中に「知」の教えがあります。
俗に「素直な人」と呼ばれる人の中には、「知(知識・智慧)」が足りないがために、適切な判断が出来ず、機会を逃したり、損失を被ったり、場合によっては「騙される」こともあります。
たとえば、仏教の基本的な枠組み、行動の枠組みというものが、「ひとりの悟りたる人間が得た智慧を、まわりの人に広げていく。そして、その智慧を得た人がまた、みずからの悩み、苦しみに打ち勝って、清浄なる心を得、心の平安を得る」ということを知っていれば、毒ガスで人を殺したり、麻薬を用いて陶酔したりすることは、悟りとはなんら縁のない行為であることが分かるはずです。
幸福の科学では、「知」を伸ばすに当たっては、当会以外の書籍でも、「良書」と評判が高いものを積極的に読むように勧めています。
 (これは kyully さんのMsg 1 に対する返信です )


5482 件目  実力が上がると見えてくるもの(1)   Thankyou_El_Cantare    2000年8月14日 16時34分

「幸福への方法」より

私は霊界と同通したあとも、5、6年は会社に勤めていましたが、実際、
非常に辛い毎日でした。なぜかというと、霊界と同通することで、普通の人
なら感じなくてもいいものを感じるようになったからです。
 たとえば、悪霊に憑依されている人がそばにいた場合、通常であれば、
「ちょっと変わった人だな」と思う程度ですむのですが、霊界と通じている
と、そうした人を見た瞬間に、どのような霊が憑依しているかが分かるので
す。しかも、2人、3人、4人と、その人に憑いている悪霊の人数まで数え
られます。
そうした人が前や横にいると、その人に憑いている悪霊が、四六時中、私
に話しかけてくるのです。「おまえのような者に会って、嫌だ嫌だ。早く出
ていってほしい」などと一生懸命に言ってきます。
 そこで、私が「おまえはいま間違っているのだよ。 地獄で迷って、その人
に取り憑いている フだよ。 おまえがその人に取り憑いているのは、こうした
理由からなのだよ」ということを心のなかで思っていると、悪霊たちは「こ
いつは何を言っているのだ」とブツブツ言うのです。
 (これは kyully さんのMsg 1 に対する返信です )


5483 件目  実力が上がると見えてくるもの(2)   Thankyou_El_Cantare    2000年8月14日 16時34分

 私はそうした状態を表情に出さないようにして仕事をしていたのですが、
それはまた非常に苦しい毎日になります。とても大変な状況でした。そうし
た修行を私はしてきたのです。
 ときには、「心の窓が開いて、高級霊たちと話ができるようになっている
にもかかわらず、なぜこれほど悪霊たちと対決しなくてはいけないのか」と
思うこともありました。
 幸福の科学で勉強している人も、おそらく普通の人よりもはるかに感受性
が強くなっているだろうと思います。そのため、悪霊の波動などをずいぶん
感じるようになっているでしょう。「どうしてこれ ルど、嫌なことがよく分
かるのかな」と悩むことも、おそらくあるだろうと思います。
 しかし、そうした悩みのときに、あることを私は思いつきました。それは
「腕が上がると、拙いもの、お粗末なものも、よく分かるようになってくる」
ということなのです。
 (これは kyully さんのMsg 1 に対する返信です )


5484 件目  実力が上がると見えてくるもの(3)   Thankyou_El_Cantare    2000年8月14日 16時34分

 絵でもそうです。自分が絵の勉強をして、だんだん上達していくと、初心
者の絵を見れば、どこが悪いかがすぐ分かるのです。自分よりはるかに上手
な人の絵は、どの程度うまいか分かりませんが、初心者のかいた絵であれば、
配色のここが悪い、デッサンのここが悪いといったことが、すぐ分かるよう
になります。それと同じようなものです。
 絵の専門家ではない人ならば、素人がかいた絵を見ても、「まあ、きれい
な絵」ということですみます。ところが、絵を専門に習った画家から見 驍ニ、
「この絵はほんとうにバランスが悪い。この色が悪いし、光の当たり方もお
かしい」などと、悪いところにすぐ気づくのです。
 そして、それをそのままポンポンと言ったならば、絵をかいた本人は顔を
しかめて、「なんて嫌な人だろう」と思うでしょう。また、その素人絵をほ
めていた人も、「世の中には嫌な人がいるものだ。こんなに揚げ足ばかりと
って」と言うでしょう。
 (これは kyully さんのMsg 1 に対する返信です )


5485 件目  実力が上がると見えてくるもの(4)   Thankyou_El_Cantare    2000年8月14日 16時34分

 しかし、絵の欠点が目につくのは、その画家の性格が悪いわけではありま
せん。その人に実力があるから、パッと見ただけで、その絵の悪いところが
ほんとうに分かってしまうのです。
 ただ、それをそのまま口にした場合に、その反応を見て、自分の性格がよ
ほど悪くなったような気がするだけなのです。
 同じように、霊的な眼が開けると、悪霊がたくさん憑い トいる人の悪いと
ころがよく見えるのです。普通の人が見えないものほど、見えたり感じたり
します。そのため、霊的な眼が開けると、「自分はどうして、こんなに悪い
性格になったのだろうか」と悩む時期が、だれにでもあるのです。
 それは音楽でもそうです。ピアノの練習をして上手になった人には、道路
の向かい側から聞こえてくる、他人のピアノの音が聴けないのです。そのピ
アノの音を聴いていると、耳障りでしかたがないでしょう。
 ところが、音楽をよく知らない人が聞くと、「きれいなピアノの音色が聞
こえてくるな」と思って、上機嫌になったりすることがいくらでもあるので
す。
 (これは kyully さんのMsg 1 に対する返信です )


5486 件目  実力が上がると見えてくるもの(5)   Thankyou_El_Cantare    2000年8月14日 16時36分

 私が小学生のころ、次のようなことがありました。
 修学旅行でバスに乗って、どこかのハイウェイを走っていたときに、バス
ガイドさんが歌を歌 「ました。そのバスには音楽の先生も乗っていたのです
が、その先生はその歌を聴いて、ものすごく嫌な顔をしたのです。女性の先
生でしたが、黙って聴いてはいるけれども、ずいぶんと嫌な顔をしていまし
た。
 そして、旅を終えて帰ってきた次の音楽の授業のとき、その先生は「あの
ガイドさんの歌はテンポが速いので、気になってしかたがなかった」と言っ
たのです。
 私たちはただ「きれいな歌だな」と思っていたのですけれども、音楽の先
生から見ると、「本式の声楽からいったら違う」ということなのです。
その先生は、専門が音楽であるがゆえに、楽しい修学旅行なのに、人の歌
が聴けずに不愉快な思いをしていたわけです。
 このようなことは、いくらでもあります。
 したがって、みなさんが仏法真理を勉強して、心の段階が上がれば上がる
ほど、普通の人よりもはるかに、いろいろな人の心の間違いに気がつくよう
になります。
 (これは kyully さんのMsg 1 に対する返信です )


5487 件目  実力が上がると見えてくるもの(6)   Thankyou_El_Cantare    2000年8月14日 16時44分

 また、心の統制がとれていない人と会うと、非常に不愉快な思いをしたり
することもあります。
 ただ、そのときに、迷ったり、自分をあまり疑ったりしてはいけません。
「これはいま自分の実力が上がっているのだ」ということを知らなくてはい
けないのです。
 (これは kyully さんのMsg 1 に対する返信です )


5488 件目  素直で柔軟な心を(1)   Thankyou_El_Cantare    2000年8月14日 16時44分

 自分の実力が上がったときにとるべき態度は何でしょうか。それは、相手
の実力に合わせた話をするように気をつけるということです。
「自分としてはこう思うけれども、この人の現在の心境からいくと、それ
をストレートに言っても、たぶん分からないだろう。だから、この人には、
いまはこのようなことを言っておいたほうがいいだろう」という具合に考え
るわけです。
 たとえば、先ほ ヌの絵の例でいうと、「絵をかきはじめてニカ月にしては、
ずいぶん上手にかけていますね。私がニカ月ぐらいのときには、こんなにい
い絵はかけませんでしたよ。ただ、ここのところは、このように直したほう
が、もっとよく見えるかもしれませんね」というような言い方をすると、相
手も納得するでしょう。
 (これは kyully さんのMsg 1 に対する返信です )


5489 件目  素直で柔軟な心を(2)   Thankyou_El_Cantare    2000年8月14日 16時44分

 ところが、「あなたの絵は、ここと、ここと、ここが悪い」と指摘すると、
相手はがっかりして、あなたの顔を見たくなくなり、以後、交際ができなく
なったりするのです。
 したがって、「自分は心の達人になってきたのだ」ということが分かった
ならば、自分の刀の切れ味をよく知っておかなくてはいけません。普通より
もよく切れる刀を持っているのならば、その使い方に気をつけることです。
 「自分は有段者なのだ。有段者は子供のチャンバラみ スいに刀を振りまわ
してはいけない。刀を慎重に取り扱わなければいけないのだ。自分が刀を抜
いたときには、必殺の剣になってしまう。一撃で相手を倒してしまうほど鋭
い剣になっているのだから、めったに刀は抜くまい。刀を抜かずに話で分か
る相手ならば、ていねいに話をしていこう」と考えていただきたいのです。
 (これは kyully さんのMsg 1 に対する返信です )


5490 件目  素直で柔軟な心を(3)   Thankyou_El_Cantare    2000年8月14日 16時44分

 このように、心の修行が進めば進むほど、あるとき、まったく反対に、世
の中が悪く見えたり、人の心が悪く見えたりします。また、その反射光とし
て、自分自身の心が非常にすさんだり、悪くなったりするように思うことが
あります。
 しかし、そのときには、決して迷わずに、決して退転せずに、「いや、自
分はいま実力が上がっているのだ」ということを知ることです。
 そして、そこで修行をやめてはいけません。「さらにもっと高度な C行を
していこう」と思わなくてはならないのです。
 また、その一方では、「修行ができていない人に対しては、どのような態
度で接したならば、より効果的なのか」ということを、常に考えていく人で
あっていただきたいのです。
 (これは kyully さんのMsg 1 に対する返信です )


5491 件目  素直で柔軟な心を(4)   Thankyou_El_Cantare    2000年8月14日 16時45分

 そのためには、自分がいまどのような段階にいようとも、常に素直で、か
つ柔軟な心を持つことが大事です。
素直な心というと、みなさんはすぐ、「要するに、頭が悪くなればいいの
だろうか」と思いがちですけれども、そうではありません。もちろん、勉強
しすぎると素直でなくなることはよくありますが、そのために、「素直さを
とるか、学問や知識をとるか」ということになってはいけません。
 知識を持つこと、よく知ることによって、柔軟さが出てくればいいのです。
よく知っているからこそ、相手に合わせて、いろい ・ネ話ができたり、態度
を変えたりすることができるのです。
 要するに、知を磨くことによって、知識を求めることによって、より柔軟
で、より高感度の自分になればいいわけであり、それで素直さが失われるよ
うであってはいけないのです。
 (これは kyully さんのMsg 1 に対する返信です )


5492 件目  素直で柔軟な心を(5)   Thankyou_El_Cantare    2000年8月14日 16時54分

 素直な心というものを、どこまでも育てていくことが大事です。
 そして、いろいろな人と接しても、心があちこちに揺れないようにするた
めに、いろいろなことを学んで、柔軟な対応ができるような自分に変えてい
かなければなりません。
 「素直で柔軟な心をつくっていく必要がある。そのためには、高度な修行
を求めていくことが大事である」 これが本章の結論です。
 (これは kyully さんのMsg 1 に対する返信です )


5520 件目  欲の奥にあるもの(1)     投稿者: Thankyou_El_Cantare     2000年8月15日 午後10時30分

 まず、男女の「恋しい」と思う気持ち、これはいったい何なのでしょうか。
これは、昔から仏教でいわれているような「煩悩」――人間の心の迷いにす
ぎないのでしょうか。それとも、もっと違った意味合いがあるのでしょうか。
こうしたことを検討してみましょう。
 異性に対して、それをよきもの、恋しいものと思う気持ち、あるいは異性
から想われたいという気持ち、これはかなり根源的な欲求であるように思い
ます。
 人間としての基本的な欲として、「食欲・性欲・睡眠欲」という3つがあ
るといわれています。人間として生まれた以上、これは当然のものであるよ
うにも感じられます。
 それらがいかなる役割を果たしているかを考えるには、そうしたものがま
ったくない世界を想定してみればいいと思います。この世に男女がありなが
ら、男性は女性に対して、女性は男性に対して、何の愛着も感じない世界と
いうのは、いったいいかなる世界でしょうか。
( これは kyully さんの メッセージ 1 に対する返信です )


5521 件目  欲の奥にあるもの(2)     投稿者: Thankyou_El_Cantare     2000年8月15日 午後10時31分

 そうした世界では、なぜ男女があるのかが、よく分からなくなってくると
思います。男女を特に分ける必要はなく、人間という1種類の生き物がいれ
ばいいという気がします。
 したがって、男性が女性を見て、「美しい」「かわいい」と思う気持ちや、
女性が男性を見て、「すばらしい」「たくましい」と憧れる気持ち自体は、単
に善悪の悪、あるいは執着として、捨て去られるだけのものではありませ
ん。そうした本能のなかに、実は大きなメッセージが入っているのです。
 男女という2種類の生き物が創られたのは、「男女がともに協調しながら、
ともに手を携えながら、すばらしいものをつくっていきなさい」という、仏
のはからいなのです。
 社会的に進出が目覚ましい女性の側からは、最近、男性による嫌がらせ、
セクシュアル・ハラスメントの問題がよく出ています。これには確かに嫌な
面があります。
( これは kyully さんの メッセージ 1 に対する返信です )


5522 件目  欲の奥にあるもの(3)     投稿者: Thankyou_El_Cantare     2000年8月15日 午後10時31分

 ただ、その反面、もし男性が女性に対してまったく関心がなかったならば、
どのような世の中になるかというと、非常に悲惨な世の中になってしまうで
しょう。
 男女がお互いに、ある程度ひかれ合いながら、どこかで一定のルールのも
とに抑制をかけているというのが、社会の健全な営みになっているのではな
いでしょうか。
 もし異性を想う気持ちがすべて悪だとするならば、人類は死滅してしまう
はずです。子孫を残そうとする人が、だれもいなくなってしまうのですから、
当然そうした結果になります。
 それがほんとうに仏神の心に適ったことかといえば、そうではありません。
背景には、やはり、子々孫々の繁栄を願っている心があるのです。
 こうしてみると、仏教的には、単なる欲望として、否定、排斥したくなる
もののなかに、実は根本的に否定すべきものではなく、その調整、あるいは
適度な規制や自制が要求されているのだ、と解釈したほうがいいものが多い
ように思うのです。
( これは kyully さんの メッセージ 1 に対する返信です )


5523 件目  欲の奥にあるもの(4)     投稿者: Thankyou_El_Cantare     2000年8月15日 午後10時31分

 食欲をとってみても、もし食欲がなかったならば、幸福感というものは、
ずいぶん減ってくるでしょう。
 毎日、朝起きると食欲がない人もいます。仕事が積み重なってくると、疲
労感がかなりあって、朝食がおいしくなくなるということが一般的な現象と
してあります。
 朝食がおいしい人と、そうでない人とを比べてみると、前者のほうが幸福
感は高いのではないでしょうか。両者の表情を想像してみても、朝食がおい
しい人のほうが、おそらくはニコニコしているでしょうし、おいしくないと
いう人は眉間にたてじわが寄っているかもしれません。
 そうしてみると、古くから欲望という言葉でいわれていたものが、一定の
範囲で、ある意味での幸福感につながっていることも事実です。
 それを欲望という言葉で呼ぶと、非常に響きが悪いのですが、生命への欲
求、あるいは、生きていこうとする意欲ととらえた場合には、非常に大事な
面があるように思います。
( これは kyully さんの メッセージ 1 に対する返信です )


5524 件目  欲の奥にあるもの(5)     投稿者: Thankyou_El_Cantare     2000年8月15日 午後10時31分

 睡眠欲についても同じことがいえます。確かに、睡眠などとらなくてもい
い身体であるならば、どれほどよく働けるか、どれほどよく勉強できるかと
思います。しかし、人間も動物も、一定の周期で睡眠を欲するようになって
います。
 「睡眠は、身体と魂を休め、生きる活力を生み出そうとしている営みだ」
と考えると、一見、無駄なように見える睡眠が、実は、活力ある人生を毎日
生きていくために、どうしても必要な営みであることが分かるのです。
 弦楽器の弦は、いつもピンと張っていると切れやすいのですが、ときどき、
その弦を緩めてやることで、切れにくくなり、さらに弾きやすくなるのです。
同様に、適度に緩める機能があるということ自体が、人間の幸福を増進させ
ているように思います。
 犬や猫などの動物が、冬の暖かい日に、日ざしを浴びながら、のんびりと
昼寝をしているのを見ると、何ともいえず天国的なものを感じます。そうし
た素朴な営みのなかにも幸福がある、ということを感じるのです。
( これは kyully さんの メッセージ 1 に対する返信です )


5525 件目  煩悩即菩提(1)     投稿者: Thankyou_El_Cantare     2000年8月15日 午後10時42分

 以上、人間の基本的な欲である、食欲・性欲・睡眠欲の3つについて、そ
れ自体は必ずしも悪ではないということを述べました。
これは ・オて新しい話ではありません。大乗経典のなかに『理趣経』と
いうお経があって、そのなかには「煩悩即菩提」に関する教えがずいぶん入
っています。
 そのお経では、「人間は、この世に生きているあいだ、さまざまな欲望に
とらわれるが、その欲望を単に排斥するのではなく、そこにあるものをほん
とうに抱きしめたとき、光を放つのだ」ということが説かれているのです。
 これは理解の仕方によっては、比丘、比丘尼たちの従来の生活を破壊する
教えであるがために、非常に難しいお経であるともいわれていましたが、そ
れをいま現代語で考えてみると、よく分かる気がします。
( これは kyully さんの メッセージ 1 に対する返信です )


5526 件目  煩悩即菩提(2)     投稿者: Thankyou_El_Cantare     2000年8月15日 午後10時42分

 もし異性を恋しいと思う心がなかったならば、人類はとっくの昔に滅びて
いたでしょう。あるいは、子孫を残すことは重税を納めるのと同じように苦
しい義務であって、女性の顔を見るのも苦しいというのが男性の本能である
ならば、ユートピアにはほど遠い世の中でもあるでしょう。
 適度に恋をし、バレンタインデーのチョコレートが欲しくなるような気持
ちが適度にあるということが、人間の幸福につながっている面もあると思う
のです。
 こうしてみると、現代においていちばん失われているものは、幸福の科学
が説いている中道の姿勢だと思います。
 欲望というものが人間に根源的に付随するものならば、欲望自体を否定す
る生活は、人類全体に要請されているものではないでしょう。欲望は人間が
生きていくために必要な機能として与えられているものだと思います。
( これは kyully さんの メッセージ 1 に対する返信です )


5527 件目  煩悩即菩提(3)     投稿者: Thankyou_El_Cantare     2000年8月15日 午後10時42分

 それを、いかにして人間生活にとってプラスの方向に生かしていくか、と
いうことが大切なのです。
 男女の性的な cみも、健全な夫婦生活のなかでなされたならば、それは家
庭の幸福を意味するものですし、生まれてくる子供たちを育てるという聖な
る義務が伴っているときは、いかがわしさ、嫌らしさといったものが完全に
消えていきます。
 そうした大きな義務や責任を伴っていれば、もっと高次なる幸福をもたら
すことになって、それは聖なる光を放つものだと思います。
 ところが、男女のそうした結びつきが無軌道に走ったときには、教えられ
て知るわけではないのに、地獄的なるものを感じるようになってきます。
現在、共産主義という、平等を中心とした社会が崩れつつあります。一方
では、自由主義体制も行き詰まっているように思います。
( これは kyully さんの メッセージ 1 に対する返信です )


5528 件目  煩悩即菩提(4)     投稿者: Thankyou_El_Cantare     2000年8月15日 午後10時42分

 自由を突き詰めた先進国に、エイズという病気が蔓延して、百万、二百万
という数の人が苦しんでいます。今という時代に、この病気がなぜ流行って
いるのかを考えてみると、そこに私は天意を感じざるをえないのです。
 男性が女性を想い、女性が男性を想う、そうした心は、決して悪いもので
はありません。ただ、それは人びとを幸福にすると同時に、その統制を忘れ
たときには不幸を呼ぶものであって、その自由が、家庭をないがしろにする
方向で発揮されたときには、天からの警告がくるということを示しているよ
うに思うのです。
 そうした病気が現に流行っているということは、そこに人類への警告を見
なければならないのではないでしょうか。家庭の幸福というものを抜きにし
た男女の欲望は、無前提に許容されるものではないということが、天意とし
て、はっきり表わされているのです。
( これは kyully さんの メッセージ 1 に対する返信です )


5529 件目  煩悩即菩提(5)     投稿者: Thankyou_El_Cantare     2000年8月15日 午後10時42分

 結婚していない若い男女の率が、日本でも 嘱档m上がってきています。こ
れなども、実は性の解放と関係があるのです。結婚しなくても一定の欲望を
果たせるということが、結婚しない男女を、かなりの割合でつくっているの
だと思います。また、家庭を営み、子供を育てるという面倒くさいことに、
若い人がとらわれたくなくなってきているのだと思うのです。
 ただ、これに対して、自然は必ず一定のかたちで反作用をもたらすものな
のです。社会が乱れてくるか、あるいは、人口が減少していき、社会の活力
が衰えて停滞を招くか、このどちらかになると思います。
 おそらく日本も、子供をつくらない男女がこのまま多くなっていった場合
は、社会的な衰退を招くだろうと私は考えています。
 結局、何千年、何万年、何十万年ものあいだ、連綿として続いてきたもの
には、それなりの意味があるということを考えていただきたいのです。
( これは kyully さんの メッセージ 1 に対する返信です )


5530 件目  煩悩即菩提(6)     投稿者: Thankyou_El_Cantare     2000年8月15日 午後10時53分

 自由を自分流に解釈してはなりません。真なる自由は、全体の幸福に奉仕
するかたちで、自分を律していくことができる自由のなかにこそ、求められ
るべきなのです。
 自我我欲の自由ではなくて、「多くの人の幸福、全体の幸福のためになる
ように、自分の位置づけをよくよく認識し、その枠のなかで自分を完全にコ
ントロールできる自由こそが、ほんとうの意味で幸福な自由である」という
ことを知らなくてはならないのです。

「幸福への方法」より
( これは kyully さんの メッセージ 1 に対する返信です )


5544 件目  霊界の階層性と地獄霊(1)     投稿者: Thankyou_El_Cantare     2000年8月16日 午後 4時38分

 この世を去った世界には、大きくいって天国と地獄の二つがあります。そ
して、この天国と地獄という世界も、心の段階に心じて、非常に細かな段階
に分かれています。
 地獄界は、あの世の四次元世界のなかにあります。四次元にはそれ以外に
も、地獄より少し上ぐらいの、地上人とあまり変わらない意識を持った人た
ちが住んでいる世界があります。
 この四次元世界の上段階に住んでいる人たちのなかには、自分が霊的存在
であることをまだ充分に理解していない人も数多く見受けられます。この世
の延長で生活しているように感じている人や、はっきりとした霊的な自覚が
ない人が多いのです。
 もちろん、地獄の世界へ行っている人のなかにも、この世の延長をやって
いるつもりでいる人が数多くいます。
( これは kyully さんの メッセージ 1 に対する返信です )


5545 件目  霊界の階層性と地獄霊(2)     投稿者: Thankyou_El_Cantare     2000年8月16日 午後 4時39分

 このように、四次元世界は地上に非常に近いため、三次元世界にたいへん
よく似た波動を持っています。そして、三次元世界にいたときと似たような
体験をくり返している人が数多くいるのです。
 この四次元の上に、五次元、六次元、七次元……と、高い階層が広がって
いて、それぞれの階層がまた何重にも分かれています。
 そして、各階層には、まるで透明な幕のように、ひとつの光の壁、空間の
壁のようなものがあって、その人の悟りがその段階を超えられないと、上の
世界に上がることが、どうしてもできないのです。
 ちょうど、みなさんが、建物の天井をつき抜けて空に上がることができな
いのと同じように、その段階の悟りを超えることができないと、上の世界に
はどうしても入れなくて、戻されてしまいます。そして、そこが自分にとっ
て生きやすい世界であるということになるのです。
( これは kyully さんの メッセージ 1 に対する返信です )


5546 件目  霊界の階層性と地獄霊(3)     投稿者: Thankyou_El_Cantare     2000年8月16日 午後 4時39分

 このように見てくると、地上に生きている人に霊的なメッセージを送りや
すい霊人たちは、理論的に考えて、どの辺の人たちかというと、ずばり言っ
て四次元世界の人たちです。この人たちは、この世に非常に近いところにい
るうえに、この世に関心を持っているので、地上の人にメッセージを送りや
すいのです。
 四次元世界にいる住人たちのなかには地獄霊もいます。彼らは地上への執
着を非常に持っています。肉体が失われて、悔しくてしかたがないので、
「何とか地上に戻りたい。そして、もう一度、欲望の人生を送りたい」と考
えている人たちが数多くいるのです。
 そうした霊人たちと、地上の人の心の波長が同通すると、彼らがスーッと
寄ってきて、そのまま居すわることになります。
 地上の人の「心の針」がよく動いているうちは、そうした霊も、いつもい
ることはできません。
( これは kyully さんの メッセージ 1 に対する返信です )


5547 件目  霊界の階層性と地獄霊(4)     投稿者: Thankyou_El_Cantare     2000年8月16日 午後 4時39分

 しかし、心の針が一点に止まって、地獄霊たちと同じ波長が続くようにな
ったときには、彼らにそのまま五年も十年もニ十年も居すわられることにな
ります。それが、いわゆる憑依されているという状態です。憑依霊が憑いた
わけです。
 憑依霊が憑くと、霊能者でなくても身体が重く感じてきます。首や肩が凝
ったり、背中や腰が重くなったり、何となく重い感じがするのです。
 そして、そうした生活をしていると不機嫌になってくるので、どうしても
人間関係がうまくいかなくなり、悪の循環が始まります。
 憑依霊が1体だけなら、まだましなのですが、このように悪い人格ができ
てくると、2体目、3体目と、次のものがやってくるのです。
( これは kyully さんの メッセージ 1 に対する返信です )


5548 件目  霊界の階層性と地獄霊(5)     投稿者: Thankyou_El_Cantare     2000年8月16日 午後 4時39分

 私は、4、5体の悪霊が憑いている状態の人と、近くで少し話をするだけ
で、空気が汚染されてくるのを感じます。そうした人の近くは空間が歪んで
いるのです。1、2体ぐらいであれば、まだ呼吸ができますが、どのような
顔の人なのかが分からなくなるほど、いろいろなものが憑いている人だと、
地獄臭がして、空気まで毒されて感じられるのです。
 ただ、ある変な宗教団体が言っているように、「何百体も何千体も悪霊が
憑く」ということは、ありえません。これまでに最も多いと思ったのは十体
ぐらいです。そのくらいが限度です。
 人間の身体は小さいので、それほど数多くは憑けません。何体も憑くと、
憑依霊どうしがケンカをしてしまい、負けたほうは憑いていられなくなるの
で、それほどたくさんは無理なのです。
 かなり重症の人は、4、5体ぐらいまでは持っていることがありますが、
普通は、”おなじみさん”が1体か2体いることが多いということです。
( これは kyully さんの メッセージ 1 に対する返信です )


5549 件目  霊界の階層性と地獄霊(6)     投稿者: Thankyou_El_Cantare     2000年8月16日 午後 4時50分

 このように、地獄界の悪い波動を受けた生活をしていると、地獄霊が居す
わってきます。その状態が続くと、心が暗くなり、対人関係も非常に悪くな
ってきます。そうすると、また恨みつらみが溜まってきて、その地獄霊その
ものの心になってくるのです。
 心の調子が悪くなると、そのうちに健康生活もできなくなってきます。夜
眠れなくなったり、お酒を浴びるように飲んだりするようになります。そう
した無茶をしはじめ、心と身体のバランスが崩れてきます。
 その結果、病気になることがあります。病気になると、さらに状態が悪く
なります。こうしたことがくり返されるようになるのです。
( これは kyully さんの メッセージ 1 に対する返信です )


5550 件目  悪霊の憑依を見抜く(1)     投稿者: Thankyou_El_Cantare     2000年8月16日 午後 4時50分

 悪霊に憑依された場合の典型的な感覚は、自分でもチェックすることが可
能です。それは、他人でも身内でもいいのですが、そうした人たちが自分に
はどう見えるか、ということで判断できます。
 たとえば主婦であれば、毎日毎日、朝から晩まで、自分の夫の悪いところ
ばかりが見えてしかたがなく、振り返ってみれば、「結婚当時からずっと、
あれもこれも悪かった。そもそも、結婚そのものが間違っていたのではない
か」と思えるような場合には、99パーセント、悪霊がいると思って間違い
ありません。
 実際に夫のほうが悪い場合も一部あるので、そうした見方が完全に間違っ
ているとはいえません。そのとおりであることも、たまにはあります。しか
し、何もかもが悪く見えてくるような場合は、たいてい悪霊の支配を受けて
いることが多いのです。
 悪霊が入ってくると、価値観がガラッと変わり、すべてが悲観的、否定的
に見え、悪く見えてくるのです。
( これは kyully さんの メッセージ 1 に対する返信です )


5551 件目  悪霊の憑依を見抜く(2)     投稿者: Thankyou_El_Cantare     2000年8月16日 午後 4時50分

 そして、人に対して、きつい言葉、悪い言葉、辛辣な言葉、中傷する言葉
が、次から次へと出てきます。そうすると、相手もそれで毒を食らうので、
相手からも応酬が来ます。
 それがくり返されると、だんだん家庭のなかが荒れてくるのです。
 夫婦ゲンカが絶えないと、当然、子供にも影響が出てきます。子供が、ケ
ガや病気をしたり、非行に走ったり、犯罪行為をしたりするようなことにな
ります。
 家庭のなかに悪霊が入ると、そうした状態になってくるのです。
 もちろん、夫のほうに悪霊が取り憑くこともあります。
 現代は仕事が非常に忙しく、夜遅くまで仕事をして、土日もないというこ
とも多いので、なかなか身体が休まりません。それから、夜のつき合いでお
酒を飲んだりすることが多いと、どうしても精神統一ができません。
( これは kyully さんの メッセージ 1 に対する返信です )


5552 件目  悪霊の憑依を見抜く(3)     投稿者: Thankyou_El_Cantare     2000年8月16日 午後 4時50分

 こうした状態が続くと、次第しだいに心がむしばまれていって、霊障の状
態になることがあります。
 そうすると、妻のやることなすこと全部が気に食わなくなります。言葉の
使い方、表情から、はしの上げ下ろしまでが気になるようになってきます。
こうなると、霊障になっていることが多いと見て間違いありません。
 したがって、過去を振り返ってみて、それまでいいと思っていたものが、
突如、嫌いになって、悪いことばかりが見えてくるようになったならば、霊
的なものが影響しているのです。
 そのときには、「これは自分自身の考えなのか、それとも自分に憑いてい
るものの考えなのか」を、踏みとどまって考えてみる必要があります。
( これは kyully さんの メッセージ 1 に対する返信です )


5553 件目  悪霊の憑依を見抜く(4)     投稿者: Thankyou_El_Cantare     2000年8月16日 午後 4時50分

 「これは、自分自身のほんとうの考えではないのではないか。自分に憑い
ている何ものかが、自分を不幸にしようとして、破滅させようとして、こう
したことを言わせているのではないか。その言葉のままに動いていると、自
分が不幸になるしかないのではないか」と思えるのであれば、そこでブレー
キを踏まなくてはいけません。
 そのブレーキとは何かというと、「反省」ということなのです。
 反省については、当会では八正道というものも教えていますが、そうした
難しいことを考えなくても、「これは自分を破滅に到らせようとする考え方、
生き方ではないのか」と思ったならば、そこで踏みとどまってみてください。
 いったんブレーキを踏んで、「これには、自分ではないものの考え方が入
っているのではないか。霊的なものが影響してはいないか。悪霊がささや
いてはいないか」ということを考えるべきです。それだけでも大きな第一歩
なのです。
( これは kyully さんの メッセージ 1 に対する返信です )


5554 件目  地獄の心の始まりとは(1)     投稿者: Thankyou_El_Cantare     2000年8月16日 午後 5時01分

 この世を去った世界には、執着のかたまりの人がほんとうに数多くいます。
彼らはこの世で、もっともっと生きたかったのです。肉体を持って自由自在
に生きて、もっと欲望を実現したかったのです。
 しかし、先ほども述べたように、2万数千日もすれば、人間はこの世を必
ず去らなくてはいけないのです。そこまでいかないうちに、交通事故や病気
などで亡くなったりもします。完全な自己実現がなかなかできないまま、こ
の世を去るのです。
 そして、地獄霊たちは、この世に舞い戻ってきたくても、生まれ変わるこ
とができません。その不調和な波長では、母親のお腹に入れないのです。心
が精妙になってこないと、母親のお腹に入れません。
 そのため、地上の人に取り憑くしかないのです。他人の身体を支配するこ
とによって、自分の第二の人生を送ろうとするわけです。
 そして、より破壊的な活動をします。人の人生を破壊して喜ぶのです。
( これは kyully さんの メッセージ 1 に対する返信です )


5555 件目  地獄の心の始まりとは(2)     投稿者: Thankyou_El_Cantare     2000年8月16日 午後 5時01分

 こうした心は、みなさんの心のなかにも、多少はあるのではないでしょう
か。自分自身が幸福になるのをあきらめた場合、せめて人が不幸になれば、
その分だけは喜べるという気持ちが、かすかにあるはずです。
 自分が幸福になれないのであれば、自分の知っている人がだれか失敗する
と、「ああ、すっきりした。よかった」と喜ぶような気持ちが、どこかにあ
るでしょう。それが地獄の心の始まりなのです。
 一人ひとりが幸福になっていくのを喜ぶことが、いちばんよいことなので
すが、人の不幸を喜ぶ心、人の人生を破滅させて喜ぶような心を持つように
なると、これが地獄に通じているのです。
 地獄霊はこの世に舞い戻ってきて、そうした悪さをし、一人の人間の人生
を破滅させます。破滅させられた人が死ぬと、その人もまた不成仏霊という
ことになります。そして、2人でいっしょに次の人をねらったりします。
 こうしたかたちで、地獄霊はいつも他の人を地獄の世界に引きずり込もう
としているのです。これでは、取り憑かれている人は生きながらの地獄です。
( これは kyully さんの メッセージ 1 に対する返信です )


5556 件目  地獄の心の始まりとは(2)     投稿者: Thankyou_El_Cantare     2000年8月16日 午後 5時04分

 こうした心は、みなさんの心のなかにも、多少はあるのではないでしょう
か。自分自身が幸福になるのをあきらめた場合、せめて人が不幸になれば、
その分だけは喜べるという気持ちが、かすかにあるはずです。
 自分が幸福になれないのであれば、自分の知っている人がだれか失敗する
と、「ああ、すっきりした。よかった」と喜ぶような気持ちが、どこかにあ
るでしょう。それが地獄の心の始まりなのです。
 一人ひとりが幸福になっていくのを喜ぶことが、いちばんよいことなので
すが、人の不 Kを喜ぶ心、人の人生を破滅させて喜ぶような心を持つように
なると、これが地獄に通じているのです。
 地獄霊はこの世に舞い戻ってきて、そうした悪さをし、一人の人間の人生
を破滅させます。破滅させられた人が死ぬと、その人もまた不成仏霊という
ことになります。そして、2人でいっしょに次の人をねらったりします。
 こうしたかたちで、地獄霊はいつも他の人を地獄の世界に引きずり込もう
としているのです。これでは、取り憑かれている人は生きながらの地獄です。
( これは kyully さんの メッセージ 1 に対する返信です )


5568 件目  憑依霊に憑かれた人(1)     投稿者: Thankyou_El_Cantare     2000年8月16日 午後 7時24分

 自分の後頭部から後光が出ていることを見るという体験をすることもあれ
ば、職場で働いている他の人びとの後頭部に、何か違ったものが憑いているよ
うに見えることもあります。
 何やら、うすらぼんやりとした小さな雲のように、頭の上や、肩の辺りに、
ぼんやりとしたものが憑いているように見えるのです。うっすらとした靄のよ
うなものです。これが、いわゆる憑依というものなのです。迷っている霊たち
が生きている人間にとり憑いて、彼らと共に生活している姿です。
 そうした憑依霊に憑かれている人の姿は、あるときふっと見ると、その人自
身の顔ではなく、他の姿に見えることがあります。憑依しているものが、その
ままストレートに2重写しになって見えるようなこともありました。
( これは kyully さんの メッセージ 1 に対する返信です )


5569 件目  憑依霊に憑かれた人(2)     投稿者: Thankyou_El_Cantare     2000年8月16日 午後 7時24分

 しかし、憑依されているかどうかということも、その人自身が鏡を見ればよ
くわかると思います。霊体としての白い靄のようなものはおそらく見えないで
しょうが、自分自身の顔を見て、「さあ、この顔は天使が微笑んでいる顔だろう
か、そうではないのだろうか」と問いかけたときに、はっきりとわかってくる
ものがあります。ですから、常に笑顔を絶やさず、常に優しい言葉を絶やさな
いという心掛けが、非常に大事なのではないかと思います。
 ささやかな霊体験について述べました。この話を聞いただけでも、「現代人の
日常感覚とはずいぶんと違うな」と思われる方もいるでしょう。「信仰というの
は、なかなか難しいことだな」と思われる方も数多いことでしょう。「信ずると
いうことは、こんなに難しいことなのか」と思われるかもしれません。「体験し
なければ、わからないことだな」とも思われることでしょう。
( これは kyully さんの メッセージ 1 に対する返信です )


5570 件目  憑依霊に憑かれた人(3)     投稿者: Thankyou_El_Cantare     2000年8月16日 午後 7時24分

 そのような「わからない」「納得がいかない」「信じられない」という気持ち
を、生きているうちにさまざまなかたちで表現するのは自由だと思いますが、
それはまた、常に信仰の道に入ろうとする他の人の妨げになっていることも事
実です。
 信仰の道に入ろうとしている人は、自分自身との闘いよりも、周りの人から
のそうした不信感、疑い、妨害の思いとの闘いにつまずき、苦しむことがずい
ぶん多いように思うのです。

「宗教の挑戦」より
( これは kyully さんの メッセージ 1 に対する返信です )


5572 件目  仏の理想を実践していこうとする心(1)     投稿者: Thankyou_El_Cantare     2000年8月16日 午後 8時07分

 結局、この世に生命を持っている一切の衆生――環境問題が盛んな今日であれ
ば植物もそうでしょう――すべての生き物は、それぞれが自分の幸福を求めてい
るとともに、その生命を他の多くのものの幸福のために費やさねばならないとい
う要素を持っているのです。その2つが矛盾するときには、それを一致させるた
めの努力をしなければいけないのです。
 実は、それが「仏の理想」であって、その仏の理想を価値あるものとして、素
晴らしいものとして、それを肯定する心、それが、実は「仏性」というものなの
です。仏の理想に呼応して生きていこうとする心、意欲、これが仏性なのです。
 それを捨てた人、要するに、仏の理想というものを悪しざまに罵り、それを足
蹴にして、逆方向に生きていこうとする人が、「悪魔に魂を売った人間」と言われ
るわけです。これも、もともと仏性がない人間ではなくて、仏性に反するような
ことをしているということは、目に鱗がかかって見えないでいる、惑わしを受け
ている、それだけのことであるわけです。
( これは kyully さんの メッセージ 1 に対する返信です )


5573 件目  仏の理想を実践していこうとする心(2)     投稿者: Thankyou_El_Cantare     2000年8月16日 午後 8時07分

 ですから、仏性は全員に備わっています。その仏性とは何であるかというと、
仏の理想を自ら実践していこうとする心のことをいうのです。そして、その理想
とは何であるかというと、結局は、一人ひとりが自分の生命を最高度に輝かせな
がら、社会の理想と一致させていこう、それを前進させていこうとする心なので
す。
一般的な話とかみ合わせて、かなり大きく、「仏性とは何か」ということについ
て述べてみました。本章が悟りのための手引きになれば幸いです。

「心の挑戦」より
( これは kyully さんの メッセージ 1 に対する返信です )


5575 件目  降魔即悟り・悟り即伝道     投稿者: Thankyou_El_Cantare     2000年8月16日 午後 8時31分

真実の世界を知ったならば、世間の常識や浅薄な道徳に打ち負けるようであっ
てはいけないのです。悪魔もそれを使ってくるということを、どうか知ってくだ
さい。
悪魔の言うことは、一理はあるのです。「小さなもので大きなものを取る」とい
うのが彼らの狙いです。彼らは「海老で鯛を釣る」ということを、いつも考えて
います。ですから、部分的には正しいことを言うのです。この世的に幾分かの真
理があるところを衛いてきます。家族や親戚の問題、金銭的問題など、この世的
な諸問題に対して、部分的には正しいところを衝いてきますが、それと引き換え
に、大きなものを取ろうとして狙ってきているのです。これを見抜くのが智慧で
す。

「仏陀の証明」より
( これは kyully さんの メッセージ 1 に対する返信です )


5576 件目  「仏陀の証明」あとがきより     投稿者: Thankyou_El_Cantare     2000年8月16日 午後 8時31分

 現代には、仏教を称する教団の中にも、間違ったものや、狂ったものも多数存
在する。宗教が人の心を救うためではなく、人生を狂わせたり、踏み外させたり
する迷路となることに、深い悲しみを感じる。
 邪教の擬しのテクニックや虚飾を見破るためには、正確な悟りの知識と、研ぎ
澄まされた人生観が必要である。
 善悪を見極め、正邪を判別することが、智慧の始まりであることを知らなけれ
ばならない。ていねいに日々精進し、学び続けることが大切だ。正気から狂気に
到ることを「解脱」と勘違いしてはならない。悟りには「世間解」という立場の
あることを忘れてはならない。世の中の真実の流れや真相を見誤ってはならない。
( これは kyully さんの メッセージ 1 に対する返信です )


5587 件目  最初の霊示(1)     投稿者: Thankyou_El_Cantare     2000年8月17日 午前10時18分

 私は、1981年の2月に霊道を開き、高級霊からの通信を受け
始めてから、85年夏にこの本が出版されるまでに、約4年半をか
けました。この間、私たちがいったい何をしていたのかということ
は、この本の行間からある程度読み取ることができると思います。
 最近刊行されている私たちの書物は、一冊一冊はっきりしたテー
マを決めてつくってありますが、あの当時の本というのは、そうと
うな分量の霊言のなかから選んで編集した本なのです。ですからい
ろいろな内容が集まっていると感じられた方もいるでしょう。日蓮
聖人との対話は、4 N分ぐらいのストックがあり、そのなかから編
集してこの本ができあがりました。
 ですから、この本に書かれていない対話もそうとうあったわけで
す。それは個人的な問題の相談がほとんどでした。やはり最初に霊
的現象に出会ったときには、衝撃の連続でありました。理解できな
いことばかりでしたし、霊的世界について書かれたテキストもなけ
れば、師もいないという情況で、まったく帰納的方法といいますか、
実際に体験したり、学んだことのなかから理論を構築していくとい
うステップでありました。
 最近の理論書を何冊か読まれたあとで、初めてこういう本を読ま
れる方は、あるいは、「幼稚だな」と思われるかもしれません。しか
し、ここに私たちの人間としての格闘があったわけです。その格闘
は、実に大変なものでありました。それは私にとっては、やはり人
生の針路を大きく変えてしまう内容であったわけです。しかしそれ
から8年もの歳月が流れてしまい、今、多くの方々が幸福の科学の
考えに賛同されていますが、この最初のころがいちばん難しかった
わけです。
 何しろ当初は、この私自 gが賛同していなかったのです。私にこ
ういう現象が起きなければならない理由はない、と思っていまし
た。私はもともと考え深いほうではありましたが、どう考えてみて
も、そんなはずはないと思われたのです。宗教家になりたいと願っ
たことは過去一度もなく、宗教家としての資質があるとも思えなか
ったし、自己実現の方法としても考えてもいなかったことでした。
最初に日蓮聖人が出て来て話をされ、それだけでなく同じころ、イ
エス・キリストをはじめとするさまざまな霊人が出て来ておりまし
たが、とても信じられないというのが私の正直な気持ちでした。
 霊的世界について書かれた書物をいくつか読んでみましたが、そ
こに共通して書かれていたのは「波長同通の法則」ということでし
た。霊界通信の原理として、同じ波長でなければ通じないという法
則があり、そうすると、こうした高級霊から霊示を受けられるとい
うことは、私もそういう波長を持っていなければならないというこ
とになるのです。
( これは kyully さんの メッセージ 1 に対する返信です )


5588 件目  最初の霊示(2)     投稿者: Thankyou_El_Cantare     2000年8月17日 午前10時19分

 そこで、自分自身の過去24年間の人生についてふり返ってみ
たわけですが、「そんなはずはない、そこまで自惚れてはいない」と
いうのが私の結論でありました。悪いこともしたかもしれないし、
考えたこともあるかもしれないけれども、人間を上・中・下に分け
たら、なんとか平均ぐらいはいっているだろう。しかし、そんなに
偉い人と話すほどではないはずだし、それほどの実績もないと思っ
たわけです。
 しかも、それほど心の修行をしたかと問われたら、した覚えもな
いし、それほど心が澄んでいるかと問われても、それほどでもない。
考えれば考えるほど、やはりありえないという結論に達したわけで
す。
 しかし、「現証」は、徹底的でありました。現在では霊的現象に関
して、私は選択的に応じています。自分に必要がない場合、聞く気
がない場合には、霊人たちが何を話そうとしても私はぜんぜん応じ
ません。しかし、このときにはそうではありませんでした。最初の
1年月はほとんど24時間態勢に近かったのです。いつ、なんど
きでも話しかけてこられる状況でありました。
 まことに不思議ですが、たとえば夜中にパッと起きて、私が何か
質間や疑問を抱くと、すぐに答えが返ってくるという状態でした。
日蓮聖人だったのですが、最初は四六時中そばにいる感じでした。
夜中にフッと目が覚めて、何かについて疑問を待っただけで、答え
がすぐに返ってくるのですから、恐ろしいくらいでした。私が行く
ところには、どこにでもついて来られて、私が考えることに次々と
答えを出してくるのです。こんなことがありえていいのだろうか、
家庭教師とはいっても、少し親切すぎるのではないだろうか、とい
う感じでありました。
 また、たとえば女性を見て、「美しいな」と私が心のなかでフッと
思ったとします。すると、「いや外見にだまされてはいけない。彼女
の悟りはこの程度だ。心がよくないところに通じている。」などと、
すぐに言われるのです。電車に乗っていても、前にいる人には憑依
霊が3体憑いている。それは何と、何と、何であるというように、
四六時中教育されていました。もう洗脳に近いかたちですが、教え
られているうちに、自分も観察をするようになり、これはあれとあ
れが憑いているなと思っていると、「そのとおりだ。」などと言われ
るようになってきました。
( これは kyully さんの メッセージ 1 に対する返信です )


5589 件目  仕事と霊的現象との間で     投稿者: Thankyou_El_Cantare     2000年8月17日 午前10時19分

 当時、私の専門は外国為替でした。ひじようにかっこいい領域で
す。総合商社では新入社員を採ると、比較的優秀な人を、教育のた
めに外国為替のなかの輸出外国為替課に入れるのです。そして、英
語の勉強と、全体の商売の流れを教えます。商社というのはそうと
う取引が大きいものですから、専門のところへ入れられると、全体
が見えにくくなるのです。ですから、まず全体を教えるために、外
国為替のほうに入れて勉強させるのです。
 私はそこに勤務しており、やる気満々でしたが、あの霊がどうの、
あの人に悪霊が憑いているだの、悟りがこの程度だとか、そんなこ
とばかり一日中言われているわけで、たまったものではありません
でした。
 しかし、職場では英語が飛び交い、電話が鳴り続ける。ものすご
い仕事量が要求されます。そして処理の速さが不可欠ですので、ま
さしく瞑想生活とは正反対のことを一日中行なっていたわけです。
ところが勤務時間中でも考えごとをすると、日蓮聖人からの答えが
返ってくるという、まことに厳しい状況だったわけです。
 私は、何とかしてこの霊の世界から逃げよう、そう決心いたしま
した。考えないのが一番だと思って、絶対何も考えまい、考えなけ
れば何も答えはこないはずだ。霊にも関心を持つまい、宗教になど
関心を持つまい、と念じ続けていたのですが、やはり人間には心が
あり、考えてしまうのです。そうすると聞こえてきて困りました。
 そういうわけで、どちらかというと、私はネガティブな考え方を
持っていて、結論をいえば逃げたかったということですが、しかし、
逃がしてはくれなかったのです。そして3か月から4か月ほど一人
で格闘していたわけです。現在、幸福の科学の顧問をしております
善川顧問――私の父親ですが――に話をしたのですが、もちろん信
じてくれるはずはありません。
 当時はまだ顧問のほうも仕事をしていたものですから、東京に出
張で出て来たときに現象を見せました。するとイエス様が出て来た
のです。顧問もそんなことがあるのだろうかと唖然としてぃました
が、ひじょうに研究熱心な方なので、それ以後常時テープレコーダ
ーを持って、いつ何どき何が出ようとすべて収録し、資料蓄積を開
始したのです。私よりも顧問のほうが熱心だったということです。
なんとかしてこれを一つのものにしたいと考えて、研究していまし
た。
 私はまだこの世に未練がそうとう残っていたものですから、でき
たら足を洗いたい、逃げたいという気持ちがありました。私は内容
よりも、現象そのものを見ていただけですが、顧問は、テープレコ
ーダーに収録したものを原稿に起こしたりして、研究を続けていま
した。そして、1年前に言われたこと、2年前に言われたこと、3
年前に言われたことというように、テープや起こした原稿で追跡調
査をしてみると、日蓮といわれる方の言っていることは、つじつま
が合っており、終始一貫していて、あらゆる角度から研究してみて
も、同一人物としか思えないということでした。
 そしてその内容は、とてもおまえの頭脳から出たものとは思えな
いと顧問は言うのです。たしかに私は、その方面の研究や勉強をし
ているわけでもなかったので、言われてみればそうかもしれないと
思いました。私の考えでそんな内容のものが出てくるはずはない。
それが最大の証明となって世の人びとは認めるであろうと顧問は言
っておりました。

「幸福の科学原論@」より
( これは kyully さんの メッセージ 1 に対する返信です )


5592 件目  頭のいい人の問題点     投稿者: Thankyou_El_Cantare     2000年8月17日 午後 9時56分

 心の清らかさと頭のよさと関係かあるか、清さと正しさと関係があるかということでし
ょうか。
 あるかもしれませんね。半分ぐらいあるかもしれないと私も思います。というのは、い
ろいろな人の悩みを手紙などで相談を受けたりして読んでいると、やはり頭のいい人が
多すぎるようです。よくここまで気がつくなと驚くぐらい悩みを見出しているのです。
 ある意味で頭のいい人は不幸です。人が気がつかないようなことも気がついて苦しんで
いて、自縄自縛しているのです。そういう意味では、単純で、素朴で、あまり知恵がまわ
らないのも、これもひじょうにいいことですね。うらやましいというか、そちらのほうへ
いったほうがいいこともあります。
 ですから、悪人が地獄に堕ちるというわけではなくて、頭がよすぎて堕ちる場合もある
のです。たとえば頭のいい人のいちばん典型的な例が、人のアラが目につくということで
す。これはほとんどの人にあてはまると思いますが、胸に手を当てて考えていただきたい
のです。
 人のアラが目につく、人の欠点が目につきやすい人がいますが、これが最初の障害なの
です。これはだれもが通り越さねばならない段階なのですが、よく、僕は人がよく見える、
と自慢している人がいます。その人物がよく見えて、その人がどういう人かというのがよ
くわかる、と自慢している人がいますが、そういう人にかぎって、いわゆるアラ捜しの名
人であることが多いのです。人がよく見えるといっても、どういうふうによく見えるかと
いうと、人の欠点やアラが見えるということなのです。頭のいい人にけっこう多いようで
す。よく気がつくのです。
 そして、自分で勝手に人の悪いところを見つけて、あれも悪人、これも悪人、みんな悪
人というふうに悪人をたくさんつくり出しているわけです。そしてみんなが自分を害そう
としているなどと被害妄想になったりしているのです。「大川隆法先生が俺のほうをにら
んだから、絶対おまえは地獄に堕ちるぞ、という意味でにらんだにちがいない。」と思う人
もいるのです。
 こういう人にくらべたら、単純で、精薄とはいわないまでも、天真爛漫に生きている人
のほうが、はるかに天国に近いかもしれません。そういうことで、心の正しさの探究にも
なりますが、単純になる努力も大事です。頭がいいだけがいいというわけではありません。
迷路をつくるだけの頭のよさであれば、そんな頭のよさは、ないほうがましです。
( これは kyully さんの メッセージ 1 に対する返信です )


5593 件目  真に教養ある人とは     投稿者: Thankyou_El_Cantare     2000年8月17日 午後 9時56分

 私も、そういう切り換えを意図的にやりました。いまから十年ぐらい前になりましょう
か。私もいろいろな本を読んだりするのが好きだったものですから、よく本を読みあさっ
たのです。そうすると、たしかにいろいろな知識が吸収できます。そして、そういうこと
を知らない人と会って話をすると、ばかに見えることがあるのです。
 たとえばその人と話をしていると、「ああ、この人が先週の日曜日に読んだのはこういう
本だな。」というふうに、話を聞いているうちに読んだ本までわかってしまうのです。俺は
もう2ヵ月前に読んでいる本だなあ、などとわかってしまいます。
 こうなると、最初のいわゆる天狗の段階です。自分が勉強してちょっと向上していると
思うと、やたらに人の欠点が目につく段階があるのです。これは必ずあって、みんな通り
越します。これは必ずあります。
 この段階で、自分が偉いと思ったら、もうその人の進歩はぜったいありません。そうで
はないのです。自分と他と比較して、他の人の見劣りしているところを見て安心したり、
他人がいまごろ読んだ本を、自分は昔読んだことを知って安心したりするような気持ちで
あっては、まだまだぜんぜん悟っていないのです。
 本を読むにしても、人よりちょっとだけ多く読んだという程度ではなくて、大碩学とい
いますが、大学者、あるいはものすごく教養のある人になってくると、もうそんなことを
チラつかせたりしません。「ああ、おまえが読んだ本は、自分は1ヵ月前に読んだよ。」な
どとは言いません。
 ほんとうに教養がある人になってくると、もうまわりからにじみ出てきます。そんなこ
とを言わなくても、もう近づいただけでこれはそうとう知ってるな、と感じてしまいます。
そして、こういう人にこういうことを言ったらまずいかもしれないなどと、近づいたほう
から恐縮したりするようになります。
 そういう教養ある人になってくると、今度は逆に人といても争わなくなります。なぜ争
わないかというと、相手が自分より知的に劣っていることを指摘して、自尊心を満足させ
るような、そんな段階にはもういないからです。まだその段階にいる人というのは、すこ
しだけ抜いているぐらいでそう変わらないからそうなるのであって、はるかに抜き去った
場合には、もう問題にならないので、そういうことを気にしなくなるわけです。自分より
知識がないとか、自分より劣っているとか、そんなことは気にならなくなるのです。
 気にならなくなるとどうなるかというと、「あー、この人にはずいぶんこういういいとこ
ろがあるもんだなあ。」と、逆にいいところを見つけられるようになってくるのです。それ
は心の修行がさらに進んだからです。
 したがって、頭がよくなってもいいですが、生半可な頭のよさだと人の欠点ばかりが見
えて、要するに悪魔の数ばかり数えるようになってきます。もっと進んでくると、そんな
ことは気にならなくなって、地上が善人ばかりで満たされているように見えてくる段階が
あるのです。
 他人との競争が目につくような、その心の段階というのは、まだ悟りが遠いということ
を知らねばなりません。もっともっと悟りが進んでいって、自分に自信がついてくると、
人に優しくせざるをえなくなってきます。優しくなるのです。
( これは kyully さんの メッセージ 1 に対する返信です )


5594 件目  慈悲の境地     投稿者: Thankyou_El_Cantare     2000年8月17日 午後 9時56分

 慈悲の慈というのは恵みということです。それから悲というのは悲しみと書いてありま
す。なんで慈悲という言葉に悲しみという字がついているか。ほんとうに悲しいのだろう
か。そういうことではないのです。それは、もちろん仏教のほうから出ていますけれども、
奈良へ行けば東大寺の大仏、鎌倉に行っても大仏があります。ああいう大仏という姿でも
って、神の姿、あるいは仏の姿を表わしているわけなのです。
 たとえば、地上から20メートルもあるような大仏様からこの地上の人間を見たときに、
その悲しみとか、優劣の気持ち、あいつが偉くなったとかならないとか、出世したとか、
いい大 wを出たとか、言い争っている地上の人間の姿はどう見えるかというと、ひじょう
にかわいそうに見えると思うのです。ひじょうにかわいそうな気持ちになって、ああこう
いうことで苦しんでいるのか、と思うでしょう。
 ちょうど私たちが、蟻があっち行き、こっち行き、行きあたりばったりに動いているの
を見て、かわいそうに思うのとおなじです。ああ、彼らはそういう試行錯誤をしないとま
っすぐ進めないんだな、石にぶつかったら右曲がり、左曲がりして、どっちへ行ったらい
いかわからない。私たちから見たら悲しいですね。
 そのように、慈悲というのは大きな、ずっとはるかに高い境地でもって人間を見たとき
の心なのです。愛の心であって、さらに高い愛の心、すなわち、「存在の愛」と私が呼んで
いる段階に達した境地が慈悲の心であります。そういう境地になってくると、人と争う気
持ちがだんだんなくなってくるのです。同じ土俵ではなくなってくるわけです。ですから、
心が清い清くない、あるいは単純でばかで、白痴みたいだったらいいかというけれども、
いい意味でそうなっていけば立派です。まず、みんなアラや欠 _が見える段階は必ず通り
越しますが、勉強したり努力したりするうちに、人の欠点がよく目につく段階を越えてい
ったときに、人間は今度は単純になってくるのです。ひじように単純になってきて、人が
よく見えてくるのです。ものすごく、いい人に見えてくるのですね。それは境地がだいぶ
上がってきているのです。そういう境地までいかなければいけません。
 そうすると、あまりこだわりがなくなってくるのです。たとえば、この人、まだこんな
ことで夫婦げんかしているなあと思うけれども、たしかに自分もそういう経験があるし、
だれそれさんのところもそうだったし、人間というのはそういうことはあるんだな。でも
この原因はこういうところにあるだろう。こういうところに原因があるけれど、まあいま
の段階ではこれは解決できないだろう。1年ぐらいしたらこういうアドバイスをしようか
な――。そういう人は、こんなふうに考えます。
ところが、そういう経験がない人はわからないので、あっちの味方になったり、こっち
の味方になったりして、やいのやいの言って相手を責めるようなことを指導したりするよ
うなことが るのです。
( これは kyully さんの メッセージ 1 に対する返信です )


5595 件目  ほんとうの意味での単純さ・素朴さ     投稿者: Thankyou_El_Cantare     2000年8月17日 午後 9時56分

 こういうことで、ある程度心の段階が進んでくると、複雑な人間から単純に変わってく
るときがあるということです。単純から複雑をすぎると、また単純になってくるのです。
単純になってきて最高に単純になってくるとどうなるかというと、もうその日一日のこと
を思いわずらえばいいという、あのイエス様のような境地です。
 もう彼は神の世界のことを全部知っているし、自分の使命も知っているし、人間がどう
いうふうに生きているか、生きてゆけばいいかを知っています。そうすると何も思いわず
らうこともないのです。きのうはきのうで過ぎ去っていった、明日は明日でわずらうであ
ろう。人間は今日一日のことを考えればいい、だから過ぎ去ったことで取り越し苦労もし
ないし、持ち越し苦労もしない オ、そういうことを考えなくなり、単純になる段階があり
ます。
 そういう意味での、ほんとうの意味での単純さ・素朴さというのは大事にしていただき
たいのです。他人のアラばかりが見えるような、そんな賢さではだめです。それを通り越
したら、すべてを包めるような優しさに変わってきます。ほんとうに自信のある人は、他
人に対して優しくならざるをえないのです。優しくないときは、まだ自分にほんとうの自
信ができていないのです。他人よりちょっと優れたところをもって、相手を批判する気持
ちが心のなかにあるのですね。それでもって相手を裁こうとしているのです。
 ですから、あなたの境地は多少上がっていても、まだ相手との相対観のなかで生きてい
るといえます。もっともっと、あなたの心境を上げなければいけません。もっともっと心
境を上げると、たとえば、あなたの、もうどうしようもないと思われる御主人が、ものす
ごくかわいらしい子供のように見えてくると思います。そこまでいったとき、そういう単
純な気持ちになれたときに、あなたはあなたなりの悟りを開けた、そのようにいうことが
できると思い ワす。

「真理の発見」より
( これは kyully さんの メッセージ 1 に対する返信です )


5618 件目  地獄の歴史     投稿者: Thankyou_El_Cantare     2000年8月18日 午前11時21分

 地球での人類の歴史からいけば、当初地獄はなかったのです。地獄ができたのは、いまか
ら1億2千万年前、このころからできたのです。
 最初は高級霊界から、地球霊団の創造というのがなされました。地球のまわりに、何重に
も霊層、霊次元ができているのですが、まず高級霊界の九次元あたりから創造が始まって、
順番に8次元、7次元、6次元、5次元というふうに創ってきたのです。
 最初は、地球のまわりにふわふわとした4次元空間がありました。ところが、ここのとこ
ろに、地上に何回も転生輪廻してゆく過程で、不調和、つまり、3次元こそほんとうの世界
だと思って物質的なものをつけた人がいっぱいでてきたのです。そして、その人たちがあの
世に還ったときに行く場所がなくなったのです。もともとは高いところにいたのですが、行
く場所がなくなって4次元の一角に巣を作り始めたわけなのです。
 ようするにこうした人たちは、自分の孝えが、まわりの人たちの意見と合わなくなったわ
けです。幸福の科学でいえば脱会したわけです。脱会したけれど、幸福の科学のなかへ行く
と光か強いものだからどうも困る。核戦争てもシェルターを造りますから、やはりなにかで
遮らなければいけないというので、一生懸命地獄を造ってきたわけです、地獄も手間がかか
っているのです。1億年以上かかっています。
 最初はちょっとした暗いところだったのが、だんだん近代化しまして、現在では地獄には
病院もあります。昔だと鞭打ちの刑とか鋸引きなんかの刑があったのでしょうけれど、現代
の地獄は病院です。病院で、外科医が出て来て、自由自在に体を切ってくれます。ここまで
進んでいるのです。
 あるいは、昔だと弓矢で殺していた阿修羅地獄なんていうのも、現代ではもっとすごいで
す。もう機関銃です。あるいは、戦争なんかやってミサイルが飛んでいます。そういう世界
があるのです。
( これは kyully さんの メッセージ 1 に対する返信です )


5619 件目  地獄の存在理由     投稿者: Thankyou_El_Cantare     2000年8月18日 午前11時21分

 なぜこういうものが出来たかということですが、基本的には、神のお心がひとつあるので
す。それはなにかというと、人間は神に似せて創られたといいますが、神に似せて創られた
第一点、根本は何かというと、創造の自由を与えられたことです。
 ですから、高級霊がいま地獄へ堕ちていきそうな人を説得しても、納得しない人がいるの
です。聞かない人がいる。では、この聞かない人をむりやり拉致してでも悟らせるかどうか
という問題があるわけです。
 地獄など照射して、光をパッと入れて、全部消滅させてしまえばいいのかどうかというこ
とです。どちらがいいか考えたけれど、神様は、彼らがほんとうに悟るのを待つ、という選
択をされたわけです。
 そういうことで、地獄というものは、ある意味で罰は罰なのですが、別の意味においては
病院なのです。これは病院なのです。地獄霊はまさしく病人といっしょです。
 ですから、地獄をなくせばいいという考えは、たとえば病人をなくせばいいというのとい
っしょです。地獄は病院ですから、病院に爆弾を落として粉砕すれば病人がなくなるかどう
かです。病人というのは特別な生き物だから、こんなものは地上においていたらいけないと
考えるかどうかです。
 病人というのは、もともといないのです。もともと健康な人間しかいないけれど、どこか
で不養生したり、なにか事故に遭って病気になっている。しかし、病人であってもやがて治
れば健康人に戻る、本来の実相は健康人である、とこう考えているわけです。
 私だって病気をするかもわからない。そのときすぐ抹殺されたら困るのです。本来は健康
であるのに、病人になったから、「おまえ、病院行きになったから、病院に入った人はもう役に
立たないから、もう殺してしまえ。」と言われたら困りますね。
 ですから、地獄もある意味では罰でもありますが病院でもあるのです。そういう寛容の目
で見てあげる必要があります。あなただって、私だって、地獄へ行く可能性はあるのです。
そのとき、消 ウれたいかどうかをよく考えてみたら、やはり五百年かかっても反省して生き
延びたいでしょう。
 ですから、病人といっしょだと考えてみてください。本来の姿ではないけれど、運動不足
とか、過食とか、仕事のしすぎで病気になることはある。そのときに、その人は神の子では
なくなったから、もう消してしまっていいといえるかどうか。存在が許されないかどうか。
それをどう見るかです。それを見れば、神様というのはそうとう待たれていて、長いこと時
間を待たれていて、慈悲も深い方だということがわかるのです。

「人生の発見」より
( これは kyully さんの メッセージ 1 に対する返信です )


5628 件目  まず自分の過去をふり返ってみる     投稿者: Thankyou_El_Cantare     2000年8月19日 午後 2時02分

 霊道を開くときの感覚というのは、たいていの場合は開いた瞬間は、ショックを受ける方
が多いようです。ひじょうに異常な体験をしたということで、自分はいったいどう ネるんだ
ろうか。まったく不思議な世界に入って、この世では生きていけないのではないか。そうい
うショックのほうが大きいし、それが本物かどうかの限定ができないというのが常人のつね
です。
 この前も、ある人から手紙が来まして、声が聞こえて来るらしいのです。そして、自分の
息子が9次元の霊で、娘が最高の女神であって、といろいろ書いてあるのですね。最後まで
読まなくても、違うだろうということはわかりますが、それでも信じる人はいるわけです。
こうしたときに、ひとつの段階としてはまず、それまでの自分の人生航路というものをふり
返ってみる必要があります。そういう惑わしにあうような境遇にあったか、それとも、そう
ではなくて、高級霊の声が聞こえてくるような、そういう線が見えるかどうかです。もうち
ょっと自分の過去を客観的に考えてみていただきたい。そうしたときに、自分が人びとから
どのように見られていたか、扱われていたか、評価されていたか、ということを、まず考え
てみていただきたいのです。
 私自身も、いまから7年以上も前になりますが、霊道を開きましたが、やはりショック ヘ
ショックでありました。これでもう、もとには戻れないということで、開いたものの、もと
には閉じないので、どうしたものかと考えてみて、よほどいままで悪いことをしてきたかと、
いろいろと反省をしてみました。たしかに悪いこともしたことがあるし、悪い思いも持った
ことがあるし、いろいろ反省すべき点が山のように出てきたのですが、しかし、つくづく考
えてみたら、そんなに徹底的に悪くもないのではないか、他の人のニ十何年間の評価を、い
わゆる客観軸でふり返って見てみたのです。
 この世の人びとが地上を去ったら、だいたいそのままあの世ができると思えばいいわけだ
から、この世でずいぶん嫌われたりすれば、あの世でもそういう世界に行くであろうし、平
均的な生き方ができれば、平均的な世界に行くであろう、ということでじっくり考えてみた
りしました。自分自身悪いところもたくさんあり、それは反省したけれども、悪霊のとりこ
になって苦しまなければいけないほど、悪いことをしたような気もあまりしなかったのです。
ということで、しばらくは私も判断がつきませんでした。それで、判定の基準 ニして2つ、
自分なりに立てたわけです。
( これは kyully さんの メッセージ 1 に対する返信です )


5629 件目  言っている内容のレベルはどうか     投稿者: Thankyou_El_Cantare     2000年8月19日 午後 2時03分

 第1は、その声なるもの、霊なるものの言うことが、はたして筋が通っているかどうか。
高級霊といっても、地上に肉体を待ったことが必ずあるわけですから、あの世に還って高級
霊になるような方であるならば、地上で肉体を持ったときも、それだけの人格があり、それ
だけのことを言うような方であったはずです。そういう人が地上を去っただけであります。
 したがって、高級霊であるならば、彼らが言うことは、この地上の人間が聞いても、高度
な認識力、判断力があって心に響くようなことを言うはずである。また、筋立ったことを言
うはずである。だから、言うことが、つじつまがあっているかどうか。また、言う内容が、
この世の人間が言ったとしてみても、そうとうの程度 フ人が言う内容の水準までいっている
かどうか。これは、私たちでも判断できることです。私は、このことを探究してみたわけで
す。
 たとえば、日蓮という名で語っても、じっさいの日蓮という人かどうかわかりません。し
かし、日蓮というあれだけの名が残った人が、現在、あるいは現代に肉を持って生きている
として言うとするならば、このレベルのことを言うだろうか、どうだろうかということを考
えたときに、ある程度の推定はつくわけです。その内容が町内会の会長さんが話している程
度の内容なら違うはずですが、やはり、現代の人と比べてみて、日蓮さんの霊言を持ってき
て、現代の識者といわれる方、そうとうの哲学者であるとか、政治家でも、宗教家でもいい
ですが、こうした人を連れてきて、見劣りするかしないかを考えてみたときに、これは現代
に生きていても、そうとう傑出した人でないと、これだけのことは言えないだろうという判
断がひとつあるわけです。こういう確認をしていくわけです。
( これは kyully さんの メッセージ 1 に対する返信です )


5630 件目  言うことに矛盾、混乱がないか     投稿者: Thankyou_El_Cantare     2000年8月19日 午後 2時03分

 そして、次は彼らの言うことに、矛盾、混乱かないかどうかを確認していくことです。 悪
霊の特徴はコロコロ、コロコロ変わっていくのです。話をしていても、論理的矛盾が出てく
るのです。彼らは、なぜ悪霊をやっているかというと、感情に翻弄された生活をしていると
いうことが原因なのです。感情に翻弄されて、統制がきかないという状態が、じつは悪霊の
正体なのです。みなさんのなかにも、自分自身の感情に翻弄されて、統制できない人はいら
っしゃると思います。そういう方は悪霊になりますよ。これは、言っておきます。それが悪
霊の発生原因ですよ。もうなにかあると、感情が押さえられず、自分を失ってしまう。たと
えば、自分より美しい女性が通っただけで、ギラギラギラギラと、「ああ悔しい。」という気
持ちが出てきて、悶々とした気持ちが出てき始めたら、悪霊になると思って間違いありませ
ん。
 それから、いつも気がついてみると、「妬ましいな。」と思っているとか、いつもなにか、
「あれさえあれば、あれさえあれば、くやしい、くやしい。」なんて思っているとか。これ
は、だいたい悪霊になる方です。そういうふうに自分の感情の統制ができないのが、悪霊の
特徴であります。よく、自分で考えてみてください、統制がきくかどうか。自分の心の統制
ができる人で、地獄に行く人は一人もいないのです。だからこそ、心のコントロールが大事
だと教えているのです。かんたんなのです。車の運転といっしょで、運転技術さえあれば地
獄など行かないのです。これができないのが悪霊なんです。そういうふうに感情のコントロ
ールができないわけです。
 そうしてみると、感情のコントロールがきかないのが悪霊であるならば、感情のコントロ
ールがきかない人というのは急に変わるということです。上がったり下がったり急に違うこ
とを言い始めたりします。その日によって気分が変わったりします。だから悪霊であるなら
ば、毎日声が聞こえてきたとしても、どこかで急に変なことを言い始めたりします。
このへんの、チェック基準は大事です。内容がこの世の人と比べてみて、人格的に一定レ
ベル以上、そうとうのものがあるかどうか。言っていることが、論理的につじつまが合って
いるかどうか。これを探究することです。
 私たちも霊言を発表するまでに4、5年かかりましたか、日蓮さんという人の個性を検証
するのに3年ないし4年かけました。ずっと霊言を録り続けまして、1冊の本になっていま
すが、あの背後にはテープ50本も百本もの、そうとうの資料があります。たとえば、3年
後に言ったことが、矛盾しないかどうか、同一個性かどうか、思想の高みがいっしょかどう
かじそういったことをずいぶん検証してきたのです。そして、4、5年たっても、ほぼこれ
は間違いないということで、発表にふみきったわけです。こういう検証作業を行ないました。
( これは kyully さんの メッセージ 1 に対する返信です )


5631 件目  悪霊に粒しては相手にしないこと     投稿者: Thankyou_El_Cantare     2000年8月19日 午後 2時03分

 ですから、霊道が開けて、そういう声が聞こえたときには、検証、確認作業というのをや
ってみてください。そして、おかしいと思ったら、いったんはなれるべきです。声が聞こえ
てきたとしても、相手にしない。1年間ぐらい遮断してみてください。相手にすると来るん
です。聞いてくれると思うと来るのです。彼らも発表の機会を求めているのです。発表の機
会をずいぶん求めていて、地Lの人と話したいと思っていてもできないので、出口をさがし
ていて、窓が開いていたら、喜んで出て来るわけです。
 そして、何か言いたい、そして、操ってみたいという気持ちがあるのです。これは、人間
のなかには、だれしも必ずあるものです。自分の自由になる人かいたら、便利ですからね。
そうした支配欲が彼らにもあるということです。ですから、そういうときには、バシッと、
切ることです。なにを言っても動かないで、自分は善良なる市民として、一市民として生き
るという姿勢に徹することが必要です。
( これは kyully さんの メッセージ 1 に対する返信です )


5632 件目  自分自身の人格が向上しているか     投稿者: Thankyou_El_Cantare     2000年8月19日 午後 2時23分

 したがって基準が2つあると言いましたが、1つは彼らの言っている内容に対する検証、
2つ目は自分自身に対する検証です。それ以後、自分の人格がどのように変化したか、これ
の検証作業が大事です。霊道を開いたあと1ヶ月後、半年後、1年後を見てみて、向上して
いるかどうかですね。霊的認識を得て、自分が人間として向上しているかどうか。それとも、
まわりからもう、ほんとうにおかしくなったと言われていないかどうか。もっとも、本物で
ある場合でも、「おかしい。」と言われることはありえます。それは、そういうことが、通常
の人は信じられないからであって、相手を選んで言う必要はあります。せいぜい会員の人を
選んで言っておいたほうが無難だと思います。
 それでも、それを取り去ったときに、霊的能力を取った残りの人格の部分がどう変化した
かを見つめてみる必要があるのです。この部分が前よりも向上しているか堕落しているか、
これが勝負です。私もこれをやってきました。こうした世界に入った以上、危険性はあるわ
けです。 高級霊の声を聞いていたとしても、どこかですりかわるという危険性はあるのです。
その危険はいつも伴っています。多くの宗教者たちがそれでやられてきました。
 そうならないためにはどうするかというと、霊的能力の部分を取り去ったときに、それ以
外の部分で、自分はどうなっているかという自分史を点検することです。私はいつも、普通
の人間として生活できる自分であるかどうか、漏尽通力とまた関係してきますが、これを検
証しています。たいていの場合どこへ行っても、こういう霊言集を出しているとか、教祖様
だとか思われることはありません。どこへ行っても普通の人間として一応認めてくれます。
そして、何年つきあっても気がつかない人は気がつきません。
 会社で仕事をしていても、気がつかない人は、気がつかないです。霊能者だということに
気がつかないのです。だから、そういう点検基準ですね。とくに私は、会社に5、6年勤め
ていましたから、その間自分がおかしくなって、精神異常者になっていたら、明ら ゥにでて
きたはずです。そこのところは自分の自己点検として、どうか霊的世界の知識、認識は別と
して、――それは、他の人は認めてくれないかもしれませんが――、それ以外の部分として、
どう評価されているか、評価が上がるか、下がるか、厳密に自分を試験してみるという気持
ちがありました。 これでいいのだと思います。したがって、あの世の霊人のチェックと自分
自身の人格の変化のチェックですね、この両方をすることが大事です。
( これは kyully さんの メッセージ 1 に対する返信です )


5633 件目  霊の声の聞こえ方     投稿者: Thankyou_El_Cantare     2000年8月19日 午後 2時23分

 また、声がどのように聞こえるかということですが、 これは通常の外から聞こえてくるよ
うな感じではありません。やはり、テレパシーというものにひじょうに近いと思いますが、
やはり内側から聞こえてくる感じに近いです。声が内側から聞こえてくる。響いてくるとい
う感じが強いです。耳のへんでささやくというのは危ないです。耳元でささやくというのは、
だいたい悪霊です。悪霊というのは、頭にお椀をかぶったみたいにして来ているのが多いで
すから、耳元でいつもささやいて、声が聞こえるというのは、危ないです。そうてはなくて、
内側から響いてくるというのが、普通です。
 それともうひとつは、それをチェックする基準として、おもしろいのですが、あたたかい
気持ちと、寒気というのと両方あります。悪霊が来た場合には、てきめんです。やはり、鳥
肌がたつというけれども、鳥肌がたってまわりの空気の温度が下がって、寒いです。
 一度、温度計で計ってみようと思うのですが、多少温度が下がっているような感じを受け
ますが、霊的感覚かもしれません。そういう寒気のするようなものは、まず違うと思って間
違いありません。霊の声が聞こえてきて、寒気がしたり、時々鳥肌がたったりしたら、これ
は、明らかに違います。単純な場合には、一発でわかります。
 複雑な場合には、悟られないように、むこうが努力している場合があります。これは、難
しいです。その場合には、話をしていても、最初の段階では寒気がしないのですね。それで、
いろいろ話をして、だまされているけれども、見抜いた瞬間に、必ず寒気がします。それを
見抜けないで、高級霊だと思っている間は感じないです。これを見抜くということも大切で
すよ。霊の声と思ったら、点検して、悪霊かどうかという、目は持っておくことです。この
ときにうぬぼれの気持ちがあると、「自分には高級霊しか来るはずがない。」と思っていると
必ずやられます。ですから、一応点検する必要があります。
 もうひとつは、積極的なサタンというものがあります。これは巧妙であります。残念なが
ら、あなたぐらいでは、まだこれは見抜けないです。そうとう、いろんな宗教に入ってきて、
攪乱してきたような、ベテランがいるのです。こうなってくると大変です。そこそこの待機
説法はするので、これを見抜くのは大変ですね。サタンぐらいになってくると、高級霊のま
ねまでします。特徴をまねたりするのです。また用語のなかにも、仏教の言葉をちりばめて
みたり、八正道も言って、堂々と1時間ぐらいしゃべるのです。
 ただ、自分の心を澄まして、良心に忠実に聴いていると、だんだんどこかが違うという、
これは霊的直感で、わかるようになります。このときに「自分は特殊な人間なんだ。自分は
光の天使だ。」と思い込んでいると、見抜けないです。サタンのなかには、みなさんより高度
な法を説く者がありますが、心を謙虚に持って聴いていると、そうしたときに違いがわかり
ます。
( これは kyully さんの メッセージ 1 に対する返信です )


5634 件目  無執着の境地が大切     投稿者: Thankyou_El_Cantare     2000年8月19日 午後 2時24分

 いちばんつけこまれるのは、悩みごとのある人の場合です。自分で、大きな悩みごとをか
かえている場合、それについての解答がほしいわけですね。 そうすると、そういう弱みを持
っていると、助けるふりをして、だんだん居座ってくるのです。「どれどれ、ご相談にあずか
りますよ。」と言いなから貯金通帳を預かられ、印鑑も取られて、だんだん入ってくるので
す。ですから、高級霊と通じる高級霊体質であるためには、悩みを持っていないということ
が、ひじょうに大切です。大きな塊みたいな、執着みたいな、悩みがある場合には、多少無
理があります。難しいと思って間違いないです。高級霊の声ではないと思って間違いないで
す。
 私も、その無執着の境地といいますが、引っかからない境地というのを、この数年そうと
う修行したというか、発展させてきました。昔は、ひじょうにこだわるタイプでありました
が、こだわらなくなってきまして、残らないのです。申しわけないのですが、みなさんの質
疑応答も、なにを聞かれたなんて明日には全部忘れているのです。まあ、これは半分冗談で
すが、気にならないのてす。ですから、トゲが刺さってきても、抜けるのがひじょうに早い
のです。刺さっても、肉がすぐもりあがってきて、すぐトゲがとれていきます。こういう感
じになってきて、引っかからないと、楽ですね。現実に大きな悩みをかかえていると、この
ように高級霊と日々同通するのは、難しくなります。
 ようするに、回復作業、復元作業を早くしていくことです。トカゲのしっぼのように、切
れても、すぐはえていくのを、早めていく必要があると思います。ひじょうに傷つきやすく
て、それで悶々とするタイプ、いろいろなことで悩んで、悩みがどんどん拡大するタイプの
方は、悪霊体質になる可能性があると思ってください。
 ただ、ひとつの可能性としては、使命があって、そういう大きな挫折感や迷いのなかをく
ぐって道が開ける人もいるということは事実です。宗教家のなかにはそういう人も多いです。
ですから、みなさんがそういう方でないという保証はないのです。 そういう方もいらっしゃ
るかもしれません。その場合には、幸福の科学でよく言っているように実績で勝負というこ
とで、考えてみてください。自分が光の天使ならば、それだけの実績が出るはずだ、という
ことです。それだけの説法ができるはずだ、それだけ人を導けるはずだ、実績か出るはずだ、
という自分自身を検証するということを、大事にしていただきたいと思います。
( これは kyully さんの メッセージ 1 に対する返信です )


5635 件目  タイトルを間違えました     投稿者: Thankyou_El_Cantare     2000年8月19日 午後 2時24分

Msg5631>
「悪霊に粒しては相手にしないこと」(誤)
「悪霊に対しては相手にしないこと」(正)

タイトルを間違えました。
kyullyさん、失礼しました。

以上は「人生の発見」からでした。
( これは kyully さんの メッセージ 1 に対する返信です )


5655 件目  病気は心がつくるもの     投稿者: Thankyou_El_Cantare     2000年8月20日 午前10時56分

 神の光を受けていれば、もちろん病気治しもできます。病気でも悪霊が憑いているのが原
因の病気があるのですが、こういう病気は、すぐ治るかどうかは別としても、悪霊を取れば、
よくなるのは事実です。憑依霊が原因で起こっているリューマチというような病気がありま
すが、こういう場合はたいてい足のほうに、蛇などの動物霊が憑依しています。冷え性の方も
そうです。それから肩凝り。 仕事のしすぎで肩が凝る人もいますが、こう 「う場合は別とし
ても、そうてない場合は動物霊が多いです。それから頭痛持ちなども同じです。
 内臓の病気でも、癌系統の病気みたいなものは悪霊による場合もあります。しかし、一見
悪霊によって病気が起きているように見えても、そのほんとうの原因はどこにあるかという
と、悪霊を呼び寄せている本人の心にあるのです。ですから霊的なパワーによって、その悪
霊を取っても、すぐ代わりが来ます。はっきりしています。たとえば講演会場に悪霊をつけ
ている人がいるとして、私がそれを取ったとしても、その方が講演会場の出口を出れば、ま
たほかのがポッと入るのです。
 なぜかというと、自分の心のなかにそういう磁石を持っているから吸い寄せてしまうわけ
です。類は友を呼ぶ、同類は相通ずるという法則があります、ですから、悪霊を外からのパ
ワーによって取っても、根本的には治らないということです。心の芯、これを治して、悪霊
を呼び寄せる磁石のほうを取らないかぎり、根本的には治らないのです。私が悪霊憑きを治
したとしても、1ヶ月ぐらいしたら、また具合が悪くなってくるでしょう。それはほかの悪
霊が来るから ナす。それでまた取っても、またつく。結局きりかないのです。
 ですから、それでは道をそれていく危険性がひじょうに高いので、幸福の科学ではなるべ
く心のほうから治療に入っていきなさいと教えています。時間がかかっても、このほうがま
ちがいが少ないからです。
( これは kyully さんの メッセージ 1 に対する返信です )


5656 件目  からだの病気と心の関係について     投稿者: Thankyou_El_Cantare     2000年8月20日 午前10時56分

 病気と心とはどういう関係があるか、これについては『道元禅師霊示集』のなかの、白隠
禅師という方の霊言にくわしく出ています。白隠さんは、「軟蘇の法」という、一種の精神統
一によって自分の病気を治した人です。永年の不治の病を治したのです。
 その白隠禅師の章に、からだの病気と心の関係について、一応全部書いてあります。頭、
鼻、服、耳、口、それから内臓諸器官のすべてと足。なぜそういう病気になるか、心のどこ
に問題があるのかと 「うことを全部書いてありますから、心のほうから治療したいと思う人
は、この「白隠禅師の霊訓」を読んでほしいと思います。
 白隠禅師は日本には禅僧として出たけれども、じっさいは薬師如来という、如来界の光を
受けた医療系霊団の1人なのです。この医療系団のなかには、アメリカに出たエドガー・ケ
イシーという方がいらっしゃいましたが、こういう光の天使たちもおります。エドガー・ケ
イシーも東洋的にいうと薬師如来の系統で、おもに病気治しを専門に研究しています。この
方が心と病気の関係について書いているので、幸福の科学の会員はそれで各自探究してほし
いと考えます。
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5657 件目  視点をこの世のみに置いてはいけない     投稿者: Thankyou_El_Cantare     2000年8月20日 午前10時56分

 さて、せっばつまった病人への対処のしかたですが、まず、基本的な立場を明らかにして
おきたいと思います。視点、あるいは ァ場が、この世に重点があるのか、あの世に重点があ
るのか、これをはっきりさせておかないといけないと思うのです。
 この世に重点があると、いま、日本中に広まっているご利益宗教の多くがそうですが、も
うみんな生命が惜しいという人ばかりが、なんとかして事故死から逃れたいとか、病死から
逃れたいとか、こういう気持ちで、あっちの団体こっちの団体と回っています。この世で幸
せになる方法ばかりを一生懸命求めているのです。こういうところは、教祖にけっこう、悪
霊が入っている場合が多いのです。あの世があるということを忘れて、この世での肉体の死
についてとか、病気とか、そんなことばかり言っています。ようするに死ぬのがこわいとい
う意識を増幅させるような方向に指導している宗教家には、たいていの場合悪霊が憑いてい
ます。だから危険があるのです。
 そこでひとつ考えていただきたいのは、人間のこの世の生命は有限であるということです。
『太陽の法』のなかにも書いてありますが、もともとは、地上生命は有限ではなかったので
す。どうしても死なないような生命体が、最初は考えられていたのです。 ニころが、どうし
ても死なない肉体だと、五百年も、千年も、一万年も生きるけれども、まったく魂が進化し
ないことがはっきりしたのです。どうやら地上にずっといるだけでは、どんどんどんどん地
上的な、物質的なものに染まっていって、魂としては向上しない。こういうことがはっきり
して、転生輪廻の法則というのをひとつの方法として確立したのです。この世とあの世を循
環することによって、人間が永遠の魂の進化を享受できるような方法を確立したわけです。
 ですから、私もあなたも必ず地上を去るわけですが、現代では老衰で亡くなる方はひじょ
うに少なくなっています。かわりに病気で亡くなる方がひじょうに多くなっています。病気
で亡くなった人が必ずしも不幸であるわけではありませんが、病気で亡くなって不幸な方と
いうのは、ようするに霊の世界、あの世の世界というのを知らず、またこの世で正しい生き
方の基準を知らないで生きてきて、病気のままで死んだ人です。こういう方は大変です。
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5658 件目  真実の自分の姿を知らない人の悲劇     投稿者: Thankyou_El_Cantare     2000年8月20日 午前10時56分

 私も、過去六年間にそういう悪霊をずいぶん体験してきました。説得し、話もしました。
大変です。死んだときのままなのです。胃ガンで死んだ人をからだに入れたら胃が痛くなり
ます。喘息でゴホゴホと咳きながら死んだ人を入れると、ひどい咳が出ます。そのまま医者
に行けば、完全に病気だと診断されるでしょう。胃病で死んだ人が入れば胃の病気、心臓で
亡くなった方が入ると、心臓病と診断されます。しかし、憑依霊を出してしまったら、あと
はもうケロッとして元気になってしまいます。結局、こういう霊は死んだときのままの状態
でいて、自分が死んだことがわからず、五十年も百年も同じ病気をしているのです。
 たとえば呼吸困難であれば、あの世には酸素もないのにどうして呼吸困難に陥るのか、ほ
んとうはおかしいのですが、そうなっているのです。それから心臓もないのに心臓が痛い痛
いと言っているのです。ですからそ 、した病気で亡くなった霊は、肉体がまだあると思って
あの世でも病気をしているということです。
 こういう霊を最初に諭すときに、「あなた、自分が霊か肉体か知っていますか。」と言って
もわかりません。それで「あなた、手があるでしょう。その手を自分の胸に突き刺してごら
んなさい。」と言うと、手は胸をブスッと通ってしまいます。「ほら、通ったでしょう。」と言
うと、「なぜ通るんでしょうね、不思議です。そういえば透きとおっていますね、おかしいで
すね。」と、言います。あるいは、「あなた死んでから何年もたっているけど、食べ物を食べ
ましたか。」ときくと、「言われてみれば、なにも食べていないのに生きている。おかしいな、
胃腸が悪いような気がするんだけどなあー。」などと言います。「では、水を飲んだことあり
ますか。」と言えば、それもない。それなのに、なぜ死ななかったのだろうということに気づ
いて、だんだんわかってくるのです。自分がそういう肉体を持った存在でないということが、
そこまで言われないとわからない人がいっぱいいるのです。
 ですから、いちばん悲劇的なのは、 ルんとうの自分が何者かを知らない人です。こういう
人が病気で死んだら最悪です。交通事故などで、頭を打ち、血を出して亡くなったとすると、
あの世でも、いつまでも倒れたままで、「痛い、痛い。」と言っているのです。
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5659 件目  病人に対する家族の接し方      投稿者: Thankyou_El_Cantare     2000年8月20日 午前11時38分

 ですから家族としては、生命を延ばすことは、もちろん延ばしたいと思うでしょうけれど
も、いちばん大事なことは、その人が調和した姿で旅立てるように心を整えてあげることで
す。寿命の長い短いは、ある程度、予定はあるわけです。たいていの人は百歳までいかない
で死んでしまいます。33で死ぬかも、48で死ぬかもしれません。イエス様は33
で死にました。高橋信次さんは48で死にました。ある教団の人に言わせれば、こういう
のは横変死になるのでしょう。変な死に方をしたわけです。では、死 ciから苦しんでいる
かといえば、そんなことはありません。あの世でピンピンしています。結局、死に方とか、
死ぬ年齢とか、それだけでは決まらないということです。大切なのは、どういう心を持って
死んだかです。
 ほんとうのことを知っている人は、死は怖くないはずです。死ぬ時期はそれぞれの人にあ
るけれども、一瞬一瞬、一日一日が一生だと思って生きていくことです。どこかで終着駅が
来るわけですが、大事なのは一日一日完結した生き方をすることです。そしてまわりの人は、
その方が調和できるように、思い残すことがないかよく考えて、ひっかかりがあるようなら、
そのひっかかりをなくしてあげるようにすることです。
 亡くなっていく人にとっていちばん気がかりなことは、残された者たちのことです。残さ
れた者たちが、たとえば生活はちゃんとしていけるか、仲よくしていけるかどうか。また、
家がちゃんと続いていくかどうか。こうしたことが気にかかります。これが気にかかると、
やはり執着になって、この世に引き止める原因になります。ですから、そうした執着がない
ように、まわりの者たちは 竭ホ大丈夫だ、心配ない、というかたちを作ってあげることです。
 そして亡くなるまでに、できるだけ本人の心が調和するように、あたたかい言葉と笑顔で
もって、そういう波動でもって接してあげること。病人のまわりの人が神理を知って、悟っ
ていくと、光が出てきますから、それで生命を延ばせることもあるし、ないこともあるけれ
ども、すくなくとも亡くなっていく方は心が調和されていきます。それがいちばん大事なの
です。

「運命の発見」より
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5686 件目  宗教家は高度な情報の発信源となれ     投稿者: Thankyou_El_Cantare     2000年8月21日 午前12時22分

 こうした作業をしたうえで、さらに、宗教がニ十一世紀のトップ・ラン
ナーになるためには、やはり高みがなければいけません。人を動かすのは
いったい何でしょうか。結局、情報をより多く持っている人が、持ってい
ない人に対して、方向性を示すのです。ある 「は仕事であれば、命令を下
せるのです。
 ですから、宗教が二十一世紀のトップ・ランナーになるためには、宗教
界、あるいは宗教家が、他のジャンル(分野)のなかで生きている人たち
よりも、はるかに高度で、豊富で、良質な知識・情報等の発信源でなけれ
ばなりません。
 その意味では、宗教家にとっては、いままでの伝統的宗教や新宗教の修
行以上に厳しい努力を要求される時代が、これから来ると思います。
 そこで、私がまず言いたいのは、二十一世紀以降の宗教家として、トッ
プ・ランナーとなっていくためには、「普通の世界で勤まらないような人
は宗教家にはなれない」ということが前提だということです。
 ところが現在、宗教界には甘えがあって、普通の世界では勤まらないか
ら宗教をやっている人が、たくさんいます。たとえば、「タクシーの運転
手をしていたが、勤めていたタクシー会社が倒産した。しかたがないので、
比叡山にのぼって僧になった。そして、山中を千日間、歩いたという理由
により、大僧正になった」――このような人がいるのです。また、「私は
大病をして、どうにもならなくなっ ス時に、神の声(実は悪霊の声)を聞
いて、悟りが開けた」というようなことで、宗教をやっている人もたくさ
んいるのです。
 このように、この世では通用しない人たちであっても、宗教界ではりー
ダーになったりしていることがあります。現在は、この世では失敗しても、
宗教界だけでは通用していけるのです。
 しかし、この世で普通の職業が勤まらないような人が、他の人の上に立
って指導するなどというのは、おかしいのです。リーダーは、普通の職業
が勤まり、それにプラス・アルファとして、より仏神に近い人でなければ
なりません。来世紀以降は、道徳的にも、精神修養においても、より高み
を持って多くの人たちを指導できるような人が、リーダーにならなければ
いけないのです。
 麻原は、ドロップアウト(脱落)したアウトロー(ならず者)であって、
はっきりいえば、どこであろうと通用しません。自分で薬局をやれば、偽
薬を造って売るような人物が、一万人もの人を指導してはいけないのです。
偽薬を造って売れば、警察に捕まるのはあたり前です。麻原は、ミカンの
皮を漬けて、それを「万病に効く」など ニ言って金儲けをしたり、あるい
は、資格を持っていないのに処方箋を書いて、お金を請求したりしていた
ような人です。このように、個人として経営できないような人が、大勢の
人を指導するなど、間違っているのです。
 来世紀以降においては、宗教家になる人は、この世の世界で、ある程度
まともに通用するということを前提としたうえで、さらにプラス・アルフ
ァとして、この世の世界の学問では求めがたいものを立派に修行して修め
た方が、選ばれていかなければいけません。このような方が宗教家になっ
ていくシステムが必要です。
 そして、もちろん宗教家は、この世にいる人たちに対して指導できる力
を、実際に持っていなければいけません。

「人生成功の秘策」より
( これは kyully さんの メッセージ 1 に対する返信です )


5694 件目  地獄的なるものを遠ざける     投稿者: Thankyou_El_Cantare     2000年8月21日 午前 9時35分

 まず、「地獄的なるものを遠ざける」とはどういうことかについて、考えてみ
ましょう。
 みなさんの心のなかにある地獄的なるものとは何でしょうか。幸福の科学の
数々の書物や講演で、読んだり聴いたりしたことを材料として、自分の心のなか
にある地獄的なるものを見いだすことができるでしょうか。
 みなさんは「自分は非常に複雑な人間である」と思っているかもしれませんが、
心のなかの地獄的なるものを紙に書き出してみると、意外にシンプル(簡単)な
ものになってしまいます。箇条書きにしたとすると、せいぜい十項目か二十項目
のなかに入ってしまうでしょう。 右か左にしか切れない自動車のハンドルのよう
に、人間の考え方や行動というものは一定の性質を持っているものなのです。
 したがって、間違いの多くはわりと簡単なところに原因があるので、そうした
原因をあらかじめ自覚していることによって、間違いを避けることができるよう
になります。
( これは kyully さんの メッセージ 1 に対する返信です )


5695 件目  lを責める思いと地獄霊     投稿者: Thankyou_El_Cantare     2000年8月21日 午前 9時35分

 私は過去に何百何千という数の地獄霊を見てきましたが、地獄霊に共通する特
徴として、最初に思い浮かぶのは、人を責める思いがきわめて強いということで
す。
 人を責める思いをさらに分解してみると、まず、恨みの念が強いということが
あります。恨みに思う心、あるいは被害妄想的な感覚がきわめて強いのです。つ
まり、「自分がいま幸福でないのは、他人に害されたからだ」という考え方です。
 そして、その人が念の強いタイプの場合は、他人に害されたという思いが、積
極的に他人を恨んだり攻撃したりする気持ちになり、一方、念の弱いタイプの場
合は、自己卑下的な方向にいくことになります。 いずれにしても、他人のせいに
する傾向がきわめて強いのです。
 もちろん、他人のせいにする考え方のなかにも、一部には合理的で正当性があ
る場合があります。世の中には明確に間違ったことをする人もいるからです。そ
して悪い結果が現われ、それが自分に影響を与えるだけではなく、まわりの人に
も迷惑をかけることになります。
 その場合、その人に注意を与え、改善を求めること自体は、決して悪ではあり
ません。社会において共同生活をし、一つの目標に向かってみんなが努力してい
るときに、それを阻害するようなことをする人に対して、「是々非々」で臨むこ
と自体が悪いわけではありません。
 ただ、「自分かわいさの観点だけで物事の善悪を見ている場合には、その思い
は悪に転化していく」ということを知らなければなりません。ここがポイントで
す。
 幸福の科学の基本的な教えのなかには、「与える愛」と「奪う愛」という考え
方がありますが、自分かわいさのために人を非難する場合、これは奪う愛の方向
であり、地獄的な思いになっているのです。
 一方、与える愛の気持ちから、他人の間違いを指摘し、その人を善き方向に導
こうとする行為は、決して地獄的なる行為ではありません。天使たちのなかにも、
間違いを厳しく指摘して指導する霊人がいます。それは根底に愛があるから許さ
れ、是とされるのです。
 「世の中の人がすることはすべて善いことだから、野放しにしておいてよい」
というわけでは決してありませんが、「善悪を見る目において、与える愛の側に
立っているか。それとも、奪う愛の側に立っているか」ということを、よく知ら
なければならないのです。
 自分の心のなかを見たとき、奪う愛の側に立っていて、他人を責める気持ちが
非常に強かったならば、地獄に行く可能性がかなり高いと思わなければなりませ
ん。自分が地獄に行くかどうかは、他人から指摘されるまでもなく、自分自身の
心に問うてみれば分かることなのです。
 人を責める思いが非常に強く、1日のあいだに去来する思いのなかで、そうし
た気持ちが占める時間がかなり長いようならば、その心は地獄に通じている可能
性が高いのです。
( これは kyully さんの メッセージ 1 に対する返信です )


5696 件目  粘着型を克服する(1)     投稿者: Thankyou_El_Cantare     2000年8月21日 午前 9時38分

 人を責める思いから逃れるためには、どうすればよいでしょうか。もちろん、
反省 ニいう方法が王道です。
 ただ、物事をしつこく考える粘着型の性格の人は、こだわりすぎるきらいがあ
るので、反省に入る前に、もっとあっさりした性格になる必要があります。
 こうしたタイプの人は、死後数百年たっても、あるいは千年二千年たっても、
同じことを言っています。生前の自分が他人から受けた悪意や危害、不幸などに
ついて、五百年も千年もしつこく言いつづけているのです。
 自分の性格を見て粘着型だと思うならば、そうした世界に行きやすいタイプで
あることを覚えておいてください。しつこくて恨みがましいタイプというのは、
はっきり言えば、”化けて出る” タイプなのです。
 したがって、自分はそうした傾向が強いと思う人は、「もっとあっさりしよう。
さばけた目で見よう」という努力をしてみてください。一年ぐらい努力すると、
わりと簡単に、さばさばとしたものの見方ができるようになります。
 いつも同じことにこだわっている自分に気づいたときには、「これについては
少し考えすぎだ。考える時間が長すぎる。これについて考えるのをいったんやめ
て、暇なときにでもまた考えよう」と vい、こだわっている事柄を少し脇に置い
て、より積極的なことを考える訓練をしてみてください。
 そうすると、しだいにあっさりした性格になっていきます。
 あっさりしたものの考え方ができる人は、たとえ失敗などがあっても、立ち直
りがわりと早いのです。立ち直れば、また歩きはじめることができます。
 道で転んだとき、「痛い痛い」と言って、いつまでも泣いていては、しかたが
ありません。泥を拭って、また歩きはじめるのがいちばんです。いつまでも痛が
っていたり、他人の同情を請うたりしていると、日が暮れてしまいます。やはり、
いち早く元の姿に戻って、また歩きはじめることが大事なのです。
 他人を責める傾向が非常に強い人は、まず、「さっぱりした性格になろう。あ
まりこだわらない性格になろう」と思うことです。これだけでも、地獄に行かず
にすむ可能性がかなり高くなります。
 そして、ある程度、粘着型の性格を克服できたならば、第三者の目で自分を見
て、「自分の悪いところは、こことここだな。したがって、ここはこうしよう」
というように、反省に入ってみてください。
( これは kyully さんの メッセージ 1 に対する返信です )


5697 件目  粘着型を克服する(2)     投稿者: Thankyou_El_Cantare     2000年8月21日 午前 9時38分

 こだわっている時間を短縮していけば、暗い人生を生きなくてもよくなると思
います。自分が間違ったときには、さばさばとした気持ちで、「すみませんでし
た。私の間違いでした。以後、気をつけます。今後はこのようにします」と言っ
てしまえば、ほんの数秒で終わることなのです。
 それができないために、苦しみを1年も2年も引きずり、生きているときだけ
ではなく、あの世に還ってまで苦しむ人がいます。しかも、自分ひとりが苦しん
でいるだけでは納得がいかず、仲間を増やそうとして、自分の考えに賛同する人
を引き込み、さらには、あの世の人だけでは足りずに、この世の人まで引きずり
込みます。こうした人が大勢いるのです。
 みなさんも、自分の心に問うてみれば、こうしたことの痕跡が多少はあるはず
です。
 自 ェが失敗や間違いをしたり、他人から辱められたりして、「このままではプ
ライドが許さない」と思うようなときに、「すみませんでした」と素直に言える
人は、たいしたものです。
 しかし、たいていは、そのひと言が言えずに、「自分は悪くない」と開き直り、
次には、「それは○○さんのせいである」ということを言いはじめるのです。
 そして、それだけではまだ心の傷がいえなくて、仲間を引き込みにかかります。
自分の言い分に賛同する人を引っ張ってきて、徒党を組み、「あの人が悪かった
のだ」「ああしたやり方が悪かったのだ」などと言いはじめます。
 これが悪魔の起源です。自分ひとりだけが傷つくのはいやなので仲間を増やし、
自己を合理化しようとする気持ちは、天国と地獄が分かれ、悪魔たちが出現し、
彼らが徒党を組んで活動しはじめる原因なのです。
 ある意味では、彼らは非常に弱い人たちではあります。しかし、自分ひとりの
責任として受け止めることができずに、それを仏神の責任にし、それだけでは気
がすまないので、仲間を集め大勢で反抗しようとするのは、人間の心のなかにあ
るいちばん卑劣 ネ部分です。
 したがって、自分にも同じような傾向があると思ったならば、そうした習性を
よく注意して見ておくことです。
 悪魔になって徒党を組み、地上を混乱に陥れるか、「申し訳なかった」と謝っ
て、自分のやり方を改めるか、どちらをも選ぶことができます。しかし、どちら
を選んだかによって、結果は大きく異なったものになるのです。
 人間として生きている以上、間違いはつきものですが、いつでも自分の間違い
を正せる人は立派な人です。頭を下げることによって、その人の値打ちが下がる
ことはありません。むしろ、鼻高々で上を向いていると、値打ちが下がることの
ほうが多いのです。
( これは kyully さんの メッセージ 1 に対する返信です )


5698 件目  転落の原因――悪しきプライド     投稿者: Thankyou_El_Cantare     2000年8月21日 午前 9時48分

 地獄的なるものの一番目として、他人を責める傾向について述べましたが、二
番目はプライドの部分です。これは ヌうしても述べておかねばなりません。
 といっても、プライド自体は自尊心から出ているものなので、本来は決して有
害なものではありません。自尊心を持つことは大切なことです。
 自尊心とは、「自分は立派な人間だ」と思いたい気持ちのことであり、そう思
いたいからこそ、向上心もわいてくるのです。自尊心の根本にあるものは、「人
間は仏の子である」という思想であり、「仏に近づきたい」という気持ちだと思
います。したがって、プライド自体が悪いわけではありません。
 ただ、プライドが人間の自然な感情から離れて、自分の顔に張りついた仮面の
ようになってくると、これが1つの独立した存在として仕事をしはじめ、本来の
素直な心から遊離していきます。これが非常に怖いことなのです。イエスが「幼
子のごとくでなければ天国には入れない」(「マタイによる福音書」18・3)と
説いた理由もここにあります。
 人間は数十年の人生を生きてくると、地位や収入、評判などによって、自己確
認をするようになってきます。ところが、名刺に書いてある会社名や役職名が、
しだいに自分そのものになってくる場合 ェあります。
 こうなると怖いのです。自分が自分でなくなってくるからです。ある意味では、
自分というものが、値札をつけて棚に並べられている商品のようになってきてい
るのです。それではいけないわけですが、本人はなかなか気づきません。
 この数十年、私はいろいろな人を見てきましたが、途中で転落していく人は、
ほとんどがプライドのところに原因がありました。単純なこの一点で転落してい
ます。柔軟な心があれば、そうはならないのに、柔軟な心を持ちつづけることが
できないのです。
 いろいろな事態が起こっても、常に自分を変えていくという、柔軟な心を持っ
ていればよいのですが、そうした心がないと、顔に塗ったパックががちがちに固
まって取れなくなったようなものを、「これが自分自身だ」と思うようになって
しまいます。
 素肌というものは弾力性があって柔らかく、変化に富むものですが、これをパ
ックで固めてしまうと、がちがちになってしまいます。そして、それを「自分だ」
と思うようになるのです。しかし、そうであってはいけません。
 すべてのものは変化し、変転していきます。そ フ変化のなかで、竿を巧みに使
って川下りをするからこそ、人生の喜びはあるのです。変化にともなう、そうし
た喜びを知らねばなりません。自分で自分を固めて、それ以外には変化できない
自分をつくってしまってはいけないのです。
 実は、プライドが原因で転落していく人のほとんどは、プライドと能力とのあ
いだに、だんだんギャップ(隔たり)が生じ、それが埋められなくて、そこに魔
が入ってくるという傾向が非常に強いのです。
 会社でも発展期には、「現状維持は即脱落」となりやすいものです。組織の拡
大に応じて役職者の実力も向上していかなくては、必ずギャップができてくるも
のなのです。
 現在の自分の実力と要求されているものとのあいだに、差が開いてきたことが
見えず、自分の地位や役職にこだわっていると、完全に転落への道になります。
過去、そうした姿をいくつか見てきた人もいるでしょうが、「それは自分の将来
の姿かもしれない」ということを、よくよく知っておいてください。
 その意味では、発展には罪なところもあります。しかし、発展を選ぶ以上は、
覚悟しなくてはなりません。
( これは kyully さんの メッセージ 1 に対する返信です )


5699 件目  弾力に富む心を持つ     投稿者: Thankyou_El_Cantare     2000年8月21日 午前 9時48分

 転落しないためには、柔らかい心をいつも持っていることが大切です。柔らか
い心を持っていれば失敗はありません。ただ、弱くてはだめです。柔らかくても
弾力に富んだ心が必要なのです。
 以前、子供のおもちゃに、「スーパーボール」というゴムボールがありました。
そのボールは柔らかいけれども弾力に富み、力いっぱい投げると衝撃力もありま
す。そして、壁や床にぶつかっても、壊れずに跳ね返ってきます。このように、
弾力に富み、柔らかいけれども強い心を持たなければいけません。
 したがって、プライドのところに引っかかって苦しみはじめたならば、「自分
の心は少し固くなっているのではないか」と考えてみてください。瀬戸物のよう
な固い心になってはいないでしよつか。瀬戸物は壁に投げつけられると、粉々に
р黷トしまいます。
 しかし、柔らかくて弾力のあるゴムボールのようなものであれば、壁に思いき
り投げても跳ね返ってきます。いったんはひずみますが、跳ね返って必ずもとど
おりになります。こうした心を持っていれば転落はしません。
 考えてみれば、人間の一生は修行の連続なのですから、たとえどのような場面
が現われてこようとも、「新しい修行課題が与えられたのだ。自分にとって新し
い修行の局面が訪れたのだ」と思っていれば、人生は楽しいことばかりなのです。
 たとえ、勤めていた会社が急発展して、あとから中途入社した人たちが、先に
出世していくようなことがあったとしても、人生修行の観点からは、なんら落胆
には及びません。
 辛抱づよく、「一兵卒として、”ボール拾い” をしたい」というような気持ち
を持っていれば、また出番が回ってくることもあるのです。
 したがって、どうか固い心を持たずに、柔らかく弾力に富む心を持ってくださ
い。簡単なことですが、これは地獄霊にならないための条件なのです。
 瀬戸物のような心を持っていれば、やがてはバリンと割れて地獄行きです。一
方、柔らかい心を持っていれば、地獄に行かずにすみます。それだけのことです。
 しかし、自分が窮地に追い込まれると、心がどんどん固くなり、狭くなってい
く人が多いのです。そうしたときには、どうか柔らかい心を持っていただきたい
のです。
 プライド自体は大切なものですが、そのプライドを瀬戸物のような固いものに
するのではなく、弾力性のあるものに変えてください。どのような壁があっても
避けたりせず、壁にぶつかっても必ず跳ね返って、本来の自分を取り戻すことが
大切です。
 そうしたゴムボールのようなプライドを持っていれば、どこまでも向上してい
くことが可能なのです。
( これは kyully さんの メッセージ 1 に対する返信です )


5700 件目  優れたものを学ぶ     投稿者: Thankyou_El_Cantare     2000年8月21日 午前 9時48分

 幸福の科学においては、自分より優れた人が自分のあとから入ってくることも
たくさんあります。ところが、固い心を持っていると、優れた人があとから入っ
てきても、その人から学ぶことができません。「自分のほうが修行は進んでいる
のだ」と思っていると、相手から絶対に学べないのです。
 その結果、心のなかで目に見えない1つの闘いが起こります。あとから来た優
れた人を認めないか、それとも自分が意気消沈してしまうか――このどちらかに
なり、結局、両方とも不幸になってしまいます。
 そうではなくて、「先輩からも後輩からも、優れたものを学んでいこう」とい
う気持ちが大事なのです。
 また、年齢に関係なく、それぞれの魂の霊格は異なるので、「どのようなとこ
ろに、どのような優れた人がいるか分からない。優れた人が出てきたならば、そ
の人から学ぼう」という気持ちを忘れないでいただきたいのです。
 幸福の科学に集っている仏弟子たちのしベルはかなり高く、大勢が僅差で並ん
でいます。二千数百年前の釈尊の時代に一生懸命に修行をした人たちが、その後、
それぞれ何回か生まれ変わって、さらに腕を磨いていたのです。
 ある人は心を浄化し、ある人は知力を鍛え、さまざまなことをしながら魂を鍛
えて、二千数百年ぶりに、「さあ、腕くらべだ」「今度こそは」と思い、集ってき
ているのですから、かなり高度な切瑳琢磨が展開されていると考えたほうがいい
のです。
 以上、「地獄的なるものを遠ざける」ということについて述べてきましたが、
そのためには、他人を責める傾向と悪しきプライドの二点に、特に気をつけてい
ただきたいと思います。

「ユートピア創造論」より
( これは kyully さんの メッセージ 1 に対する返信です )


5706 件目  >FAMILY_STONE_00さん     投稿者: Thankyou_El_Cantare     2000年8月21日 午前10時52分

>森総理大臣は、言葉狩りにあってしまうので、自分の考えや言葉を話さずに原稿まる読みになってしまいました。同じような構図だなぁ。(^^;あ、良い悪い別にしてね。

過去にも「霊言集は参考書」、「霊言集は幸福の科学の教えではない」と何度も諸先輩方が主張しているにも関わらず、霊言集からの引用を「教祖の言葉」と称して投稿して来る始末。
トピのタイトルが「幸福の科学の ウえについて」であるのに、幸福の科学の教えである「法」に付いての話題を避けている様子からも、「批判の為の批判」に徹しているようです。
諸先輩方のご苦労が忍ばれます。

>幸福の科学の教育論とは、どういったものになるでしょうか。

会員歴が長くないので詳しくはないのですが、教育論に付いては随所に見られますし、月刊誌「リバティー」(一般購入可)などでも随時取り上げられています。
学校教育論もあれば、社会教育論もあります。
基本的には、真理知識と利他が根底になければ虚しい教育になると思います。
込み入ったことは諸先輩方にお尋ねになるか、各支部の方へお尋ねになられた方が正確かと思います。
( これは FAMILY_STONE_00 さんの メッセージ 5693 に対する返信です )


5946件目   呆れた・・・   投稿者:Thankyou_El_Cantare   2000年8月28日 午前 1時54分

>答える義務はないです。真剣に道を求めている人にこそ、手を差し出すべきなのではないでしょうか。

全く、おっしゃる通りです。

>「主宰が、その霊能力を使わない理由は何ですか?」と聞いているのです。

霊能力を使わない理由も理解していないだなんて、法の何を学んでいたのでしょうかね?
(これは kyully さんのメッセージ1に対する返信です)


5957件目   堕ちてみるまでわからない   投稿者:Thankyou_El_Cantare   2000年8月28日 午前11時37分

>>霊能力を使わない理由も理解していないだなんて、法の何を学んでいたのでしょうかね?
>知ってますよ。
>「霊能力信仰に弟子が陥ることを防いだ。」
>ということでしたよね。

案の定、額面通りの理由しか浮かばないのですね。
その程度の知識しかお持ちでない人にとっては、目先の霊能力を使った警告が、全人類の救済というグローバルかつ長期的な視野に立てば、将来どれだけ救世運動の妨げになって行くことになるのかを考えることができないのでしょうね。

総裁先生の大いなる目的は、救世の法を説き、全人類を救済することにあります。
予言や霊道現象を起こしたのは、霊道現象というものがある、ということを示したに過ぎません。
再版した霊言集は、こうしたことを理解できていて、しかも「頂きたい」と願う会員向けのものです。
霊言集の内容は、救世の法とは異なります。
その違いもわからないような人には、「幸福の科学で学びましたが、法に矛盾があるので辞めました」などとは言って頂きたくないものですね。

仏弟子である会員は、救世の法を学び、広める役目を持ちます。
救世の法の重要性も理解できずに、いつまでも霊言集などにこだわり続けていたり、救世の法に背いて犯罪を犯したりするならば、仏弟子の資格を失うのは当然のことだと思います。
会員のほとんどが、救世の法の重要性を理解しているのに、それが理解できないのは、法の責任でも、幸福の科学の責任でも、現役会員の責任でもなく、その人自身の自己責任だと思います。

Msg5697>ある意味では、彼らは非常に弱い人たちではあります。しかし、自分ひとりの責任として受け止めることができずに、それを仏神の責任にし、それだけでは気がすまないので、仲間を集め大勢で反抗しようとするのは、人間の心のなかにあるいちばん卑劣な部分です。

可哀想だとは思いますが、堕ちてみるまでわからないのでしょう。
(これは kyully さんのメッセージ1に対する返信です)


5963件目   勘違いも甚だしい人がおりますね。   投稿者:Thankyou_El_Cantare   2000年8月28日 午後 7時51分

>真正面から反論をしてくれたThankyou_El_Cantare さんに質問させて頂きます。

私は反論はしておりません。正論を述べただけです。

>私が挙げた主宰による説明を、≪案の定、額面通りの理由しか≫と非難するのであれば、

私は非難はしておりません。正論を述べただけです。

>議論の相手を侮辱するような言葉を吐いて

私は誰とも議論はしておりません。
私は侮辱はしておりません。正論を述べただけです。

Msg5940>議論の好きな人は、いつまでも続けるものです。しかし、その人にとっての結論は決まっているわけであって、その考えを変えることは、おそらく不可能ではないでしょうか。

退会者や批判者とは、議論にならないことは先刻承知しております。

Msg5942>ただ、誤った会の情報、誹謗、中傷を公の場で流されてだまっていられなかったのです。

それならば、黙々と正論をお書きになってはいかがでしょう?

相手は、会員や理解者の方がいる他トピにまで押し掛けて議論を吹っかけるといった行為もしています。
これは、純粋に真理を求めているのではなく、徹底的にやり込める腹づもりと見て良いでしょう。
そうした相手とは、真正面から議論を行うだけ時間の無駄だと思います。

Msg5631>相手にすると来るんです。聞いてくれると思うと来るのです。彼らも発表の機会を求めているのです。発表の機会をずいぶん求めていて、地Lの人と話したいと思っていてもできないので、出口をさがしていて、窓が開いていたら、喜んで出て来るわけです。

黙々と正論を書いて、あとはROM者に判断をゆだねれば良いと思っています。
(これは kyully さんのメッセージ1に対する返信です)


5976 叙レ   自分を救えるのは自分だけ   投稿者:Thankyou_El_Cantare   2000年8月28日 午後10時58分

ある意味、「素直に『はあ、なるほど』と聞ける人」でなければ救われないと思います。

Msg5592>こういう人にくらべたら、単純で、精薄とはいわないまでも、天真爛漫に生きている人のほうが、はるかに天国に近いかもしれません。そういうことで、心の正しさの探究にもなりますが、単純になる努力も大事です。頭がいいだけがいいというわけではありません。迷路をつくるだけの頭のよさであれば、そんな頭のよさは、ないほうがましです。
5595>そういう意味での、ほんとうの意味での単純さ・素朴さというのは大事にしていただきたいのです。他人のアラばかりが見えるような、そんな賢さではだめです。それを通り越したら、すべてを包めるような優しさに変わってきます。ほんとうに自信のある人は、他人に対して優しくならざるをえないのです。優しくないときは、まだ自分にほんとうの自信ができていないのです。他人よりちょっと優れたところをもって、相手を批判する気持ちが心のなかにあるのですね。それでもって相手を裁こうとしているのです。

たとえば「ボクは批判者です。」と公言する様な人は、本人自ら進んで地獄へ行くのを望んでいる様にも思えます。
こうして、自ら進んで「地獄へ堕ちたい」と望んでいる様な選択をし、行動する人は、たとえ仏陀であろうとも、救うことは出来ないと思います。
本人の自由意志に介入するならば可能でしょうが、それでは本当の意味での「自由意志」にはなりません。
誰もその人の自由意志に介入できない以上、「自分を救えるのは自分だけ」ということになります。
(これは kyully さんのメッセージ1に対する返信です)


5978件目   『大川隆法霊言全集』第1巻まえがき   投稿者:Thankyou_El_Cantare   2000年8月28日 午後11時20分

『大川隆法霊言全集』刊行に寄せて

ーー霊界の秘儀伝授ーー


 このたび、幸福の科学が宗教法人として活動を開始する以前、並びに活動
初期に収録された、太川隆法霊言を、熱心な信者の教学のために、版を改
め、原稿に一部手を入れ直して、刊行することとした。
 もともとは、霊界の存在証明のために、いろんな霊人の個性を言葉の形で
リアルに再現し、霊言集、霊示集としていくつかの出版社(潮文社、土屋書
店、幸福の科学出版)から刊行したものである。
 霊人の個性の証明のために、互いに矛盾する教えや思想も包容する書籍
群ではあるが、すべての霊言が、私、大川隆法の肉声を通じて語られ、テー
プレコーダーに収録されたものの筆録であることで共通している。
 もとより肉声を通じずとも、私自身は大悟してよりこのかた、念いだけで
この世を去った世界の霊存在と会話できるのであるが、ほとんど同時通訳の
形で、諸霊の言葉を語りおろしたのが、各霊言集なのである。この点、トラ
ンス状態になって、意識を失い、霊が一方的にしゃべる霊媒現象とは異なっ
ている。
 私自身の意識は冷静で、諸霊たちの言葉も客観的に把握している。また、
古代霊や、外国人霊の場合は、私自身の言語中枢から、必要な言葉を選び出
して語っている。現代語が使われたり、私自身が英語が堪能なので、文中に
英語が散見されるのもそういう理由による。また、霊言現象をとりおこなっ
ている最中に、私自身が、一人二役になって、霊人たちと質疑応答すること
も自由自在である。このような霊能力は、高度な悟りを開いた、肉身の光の
大指導霊特有のものである。
 今から二千五百年前、釈迦が、『神々との対話』や『悪魔との対話』をし
たこと、伝道を開始するに際して、『梵天勧請』がなされたことなどが、仏
教上の記録として遺されているが、もし当時に、テープレコーダーがあれ
ば、このような霊言集を編み、経典とすることも可能であったろうと思う。
 幸福の科学が大教団となって、私自身の思想で教義を統一する必要に迫
られ、以後、理論書中心に教えが展開されているが、霊界の存在証明それ自
体は、昔も今も変わらずニーズがあるようだ。
 一般の人々に対して教義の誤解・混乱を招かず、熱心な信者層に限定し
て深い真理学習の糧とするために、新たにこのような形で、霊言全集を刊行
する次第である。悟りの確信と、伝道への意欲につながれば、幸いである。

一九九九年 一月
幸福の科学総裁 大川隆法
(これは kyully さんのメッセージ1に対する返信です)


5979件目   霊言集は   投稿者:Thankyou_El_Cantare   2000年8月28日 午後11時39分

>一般の人々に対して教義の誤解・混乱を招かず、熱心な信者層に限定して深い真理学習の糧とするために、

これが、現時点での幸福の科学の霊言集に対する考え方と取って良いと思います。

要するに、「熱心な信者層」でなければ、「一般の人々に対して教義の誤解・混乱を招く」と言うことです。

「退会者・元会員」は、現時点で「熱心な信者層」とは言えません。
ですから、彼らの解説は、幸福の科学の教えから逸脱し、「一般の人々に対して教義の誤解・混乱を招く」ものであると言うことが出来ましょう。
つまり、「退会者・元会員」による霊言集からの引用は、「幸福の科学の教義」とは言えないのです。

もし、霊言集から引用して「幸福の科学の教義」うんぬん言いたいのであれば、再度入会して「熱心な信者層」に加わることです。
それ以外で、霊言集から引用は、「幸福の科学の教義」とは認めることは出来ません。
(これは kyully さんのメッセージ1に対する返信です)


6002件目   非会員による霊言集からの引用は無意味   投稿者:Thankyou_El_Cantare   2000年8月29日 午前 8時20分

>霊人の個性の証明のために、互いに矛盾する教えや思想も包容する書籍群ではあるが、すべての霊言が、私、大川隆法の肉声を通じて語られ、テープレコーダーに収録されたものの筆録であることで共通している。

霊言集は「矛盾する教えや思想も包容する書籍群」であり、「法」としてのまとまりのないものです。
「退会者・元会員」及び会員であっても「熱心な信者層」とは言えない層では、霊言集の中から「幸福の科学の教義」を峻別することは出来ないものと考えます。

よって、非会員による霊言集からの引用に対して、「これは幸福の科学の教義だ」と主張されても、それは「幸福の科学の教義を峻別出来ない者による誤用」と主張します。

このトピックや2チャンネルでの引用例は、誤用と言うよりは、「悪用」に思います。

会員側が「霊言集は幸福の科学の教え ナはない」と何度繰り返しても、批判者側が理解を示すことは期待薄だと思います。
霊言集が幸福の科学の教えではないとされてしまえば、「教義に矛盾がある」と主張してきたほとんどが「無意味」となってしまうからです。

霊言集の著者(?)であります、大川隆法総裁先生ご自身が、「矛盾する教えや思想も包容する書籍群」と言われているのですから、反論の余地などないはずなのですけどね。
(これは kyully さんのメッセージ1に対する返信です)


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