double_rl さん

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 ◆「Yahoo!掲示板」より転載 (幸福の科学の教えについて)

80 件目  辞めました。   double_rl    (24歳/男性/東京都江東区) 1999年8月19日 23時0分

10年前に入会して、その4年後にやめました。
どんな教えであれ矛盾はあるだろうし、
去っていった人もいるということは知っておいてもいいかも、ですね。
私は、教えの中に矛盾を感じました。今となっては思い出せませんが。
会員勧誘や書籍購入のノルマなども課せられたし、
職員には給料が支払われていないという話も聞き、
団体に対する疑問も持っていました。
教えがすばらしくても、団体はそのとおりにはならない、
ということ、理解しておくことは大事です。
団体にとらわれ ク、教えをよく理解して実践したらいいと思います。
がんばってください。
 (これは kyully さんのMsg 1 に対する返信です )


81 件目  あ、そうそう   double_rl    (25歳/男性/東京都江東区) 1999年8月19日 23時21分

チョット前に、会員である親戚に『幸福の革命』と『繁栄の法』(でしたっけ?)を借りました。
文字の大きさ、行間の幅などについてはともかくとして、内容にビックリです。
その親戚から大川さんは病気だと聞いたので、誰か他の人が書いているのかな、と思ったくらい。
矛盾を感じて辞めたとはいえ、すばらしい内容のことをたくさん書けた人なのに、レベルダウンしすぎて・・・・。
あれ、本当に大川さんが書いているんでしょうか。
初期の頃からいる幹部の人とかは、あれ読んでどんな気持ちなのだろう、ととても不思議に思いました。感想でした。
 (これは double_rl さんのMsg 80 に対する返信です )


86 件目  funaba_tufsさんへ   double_rl    (25歳/男性/東京都江東区) 1999年8月20日 15時2分

 私は、信仰を捨てることがイコール、法に反して生きるということではないと思います。私は辞めたあと、生き方に問題が生じることはありませんでした。落ちていったとはまったく思いません。毎日幸せな日々を送っています。
 法に感銘を受けないのは、自分の心のほうに問題があるのではないか、というのは、いかにも幸福の科学的な主張だと思いますが、この考え方に私は賛成できません。たとえば、funaba_tufsさんは、自分がオウムの本を読んで何も感じなかったからといって、「私は素直さが足りないのではないだろうか」などと自らに問うたりはしないでしょう。大川さんの本に対してだけそのようなことを考えるのは、教えではなく、人を信じているからではないでしょうか。「この人は偉大な人であり、この人の説くことは、いままでもこれからも素晴らしいものであるはずだ」という思い込みの大前提があるからこそ、その教えに感動しない場合に、教えではなく、自分のほうを疑わなくてはいけなくなります。三宝帰依の性質上、それは仕方のないことですが、三宝帰 ヒなるものが持つ危険性は理解したほうがいいかもしれません(続く)。
 (これは funaba_tufs さんのMsg 82 に対する返信です )


87 件目  funaba_tufsさんへA   double_rl    (25歳/男性/東京都江東区) 1999年8月20日 15時4分

 オウムの事件がどうして起こったのか、という点について、「教えに問題があったからだ」などという意見を述べる人もいますが、違うと思います。殺人命令に対して、実行犯の中には「わたしは間違ったことをしようとしているのではないか」と自らに問う人もいましたが、彼は「いや、尊師が間違ったことを言うはずがない。教えに感動した当初を思い出せ」と素直に℃vいなおして、命令を実行してしまいました。これはどんな宗教であれ可能性のある、ごく普通の「信仰」がおこした事件でした。おおげさな例ですが、三宝帰依は同じ危険性を有していると思います。師や教えを絶対視し、それらを疑う事柄が出てきても、その疑う心境のほうを否定しなくてはいけない、という点で、オウムとまったく同じですから。
 だから、生前 ノ高橋信次さんが「わたしの言うことであっても疑いなさい。わたしとて、いつ間違うかわかりません。何が神理であり、心に響くかは、あなたがたの善我なる心が知っていますよ」といったことは、盲信の危険性を見抜いた、本当に立派な言葉であったと思います。別に信次さんフリークではありませんが(続く)。
 (これは funaba_tufs さんのMsg 82 に対する返信です )


88 件目  funaba_tufsさんへB   double_rl    (25歳/男性/東京都江東区) 1999年8月20日 15時9分

 ところで、いろいろ述べましたが、わたしがレベルダウンといったのは、先の、「感銘を受けるかどうか」という問題とは関係ないと思います。たとえば、小桜姫の霊訓と大川さん自身の言葉とを比べれば、両方に感銘を受けるとしても、どちらがレベルの高い教えかは比べることができるでしょう(それを傲慢だと思っても)。私はどちらにも感銘を受けないかもしれませんが、昔の本と比べれば、レベルが落ちた気がする、と感じたのです。もう少し正直に書くと、わたしは実は、あれらの本を読んで、隆法さんがレベルダウンしたとは思いませんでした。わたしは、文体から、あれはきょう子さんが書いているように感じたのです。顕著にそれを感じたのは、『もののけ姫』について書かれたところでした。そのことを通して、わたしはかつて親戚の知り合いで婦人部長さんか何かをやっていた人からの情報で、隆法さんが病気らしいということを聞いたのを思い出したのです。それならば、あのレベルダウンも、「つじつま」(?)もあう気がしました。もちろん、これはただの空想ですが・・・(続く)。
 (これは funaba_tufs さんのMsg 82 に対する返信です )


89 件目  funaba_tufsさんへC   double_rl    (25歳/男性/東京都江東区) 1999年8月20日 15時14分

 長くなって、どうも済みません。
 結論としては、なにも私は幸福の科学の教えを否定する気はありません。形而上学的事柄などについては、信じていないことも多々ありますが、あの教えで幸せを得る人はたくさんいると思います。私も本を受け入れないのは今の自分の心境としては、素直ですが、そのう ソまた読みたくなる日が来ないとも思いません(来ない気はするんですが)。
 ただ、トピを作ったKyullyさんが、教えに矛盾を感じておらず、また団体に疑問も持っていないようだったので、そうでない人もいますよ、ということを書き込みたくて、そうさせていただきました。絶対視は危険ですから。
 では、お互いにすてきな人生を歩いていけますように。 double_rl
 
 (これは funaba_tufs さんのMsg 82 に対する返信です )


92 件目  お返事 to funaba_tufsさん@ double_rl (25歳/男性/東京都江東区) 1999年8月21日 17時47分

funaba_tufsさん、レスありがとうございます。辞めた人と、今バリバリに信じている人とでは、話がかみ合わないのはしかたがないことかもしれませんね。オウムの例を出したものの、いま実際に幸福の科学の教えが危うい方向に行っているかといえば、おそらくそんなことはないでしょうから、いまだ訪れていない危険に対して、あまり部外者が騒ぐのもおかしいかもしれませんね。まあ、たわごとと思って・・・。
さて、 サもそも自分がどうして大川さんを信じるようになったのか、を思い出せば、誰でも「教えを学んで信じるに至った」というに違いありません。はじめに「仏陀の生まれ変わりですよ」と人に言われて、「ああ、そうなんだ」と完全に信じてから、教えを学ぶようになりました、などという人は、皆無でしょう。つまり師(判断対象)を判断する材料は、その説かれている教えということになります。
 (これは funaba_tufs さんのMsg 91 に対する返信です )


93 件目  お返事 to funaba_tufsさんA double_rl (25歳/男性/東京都江東区) 1999年8月21日 17時48分

ですから、その判断材料である教えが変わったら、師に対する判断のほうも変わることがあるのは当然だと思います。それなのに、教えが変わったあともなお、師という判断対象を、過去の判断材料(過去の教えとかその感動)をもとに判断する、というのは不自然なことの気がします。
また、『法を裁く権利がない』というのは、個人を矮小化して、「頼りにならない」存在として捉えた意見だと思いましたが、ところで、この意見は、どの教えが宇宙の法であるかが自明(ア・プリオリにわかるということ)である場合に限って、正論といえると思います。ところが、実際にはそれは自明ではありません。だからこそ、人はどの教えが宇宙の法であるかを探し、裁き、判断するのです。したがって、我々には「法を裁く権利はない」かもしれませんが、「どの教えが法であるかを裁く権利はある」のではないでしょうか。
 (これは funaba_tufs さんのMsg 91 に対する返信です )


94 件目  お返事 to funaba_tufsさんB double_rl (25歳/男性/東京都江東区) 1999年8月21日 17時49分

ひとたび「この教えは法である」と判断したからといって、どんなに教えが変わっていっても、「これは法なのだ。法を裁く権利はないのだ」と頑なに思うとしたら、それは考え方としては、間違っているといわざるを得ない気がします。なぜなら、そもそも「この教えは法である」と判断したのだって、ほかならぬ「頼りにならない」自分なのですから。
・・・・・
長々と書いてくると、どうしても後悔の念に駆られます。普通に信仰をして、みずからを向上させようという人に、論争めいたものを吹っかけて、その心をざわつかせているとしたら、わたしのしていることは、あまりいいことではないですね。わたしの主張は、funaba_tufsさんの判断が正しいとか間違っているということではなくて、判断すること自体は悪いことではないと思うのですが・・・、ということでした。不愉快だったら、申し訳ありません。皮肉ではなく、funaba_tufsさんが信仰を持ちつづけて、のぞまれるような人生を歩いていかれますように祈っています。いつも長くてスミマセン。
もうここには来ないようにしようか・・・・グスン(反省の涙)。
 (これは funaba_tufs さんのMsg 91 に対する返信です )


95 件目  kyullyさんへ   double_rl    (25歳/男性/東京都江東区) 1999年8月21日 23時0分

kyullyさん、再び、double_rlです。まだ迷っていらっしゃるでしょうか。
他の会員さんも見られるだろうから、不愉快な思いにしてはいけないかと思い、no.80のメッセージでは書かなかったのですが、トピを作ったkyullyさんの目的を思い、書くことにしました。ご存知かもしれませんが、実は、元会員による批判本が1冊出ています。関谷皓元さんという人の書かれた『虚業教団』という本です。設立当初からの幹部のかたで、1989年に退会されました。この本は、会では「読んではならない」とされていた本で、K本(ケーボンと読む)と呼ばれ、本の名前を出すことすら禁じられていました。94年頃の月刊誌上で、幹部による批判がなされていましたので、あわせて読まれたらどうでしょうか。わたしはその本を、自分の退会後に読みました(続く)。
 (これは kyully さんのMsg 1 に対する返信です )


96 件目  kyullyさんへA   double_rl    (25歳/男性/東京都江東区) 1999年8月21日 23時1分

会の幹部による「K本」批判は、憎しみに満ちている気がしました。いっぽう『虚業教団』のほうには会の悪いことばかりが書かれていたものの、憎悪に近い感情はあまり読み取ることができませんでした。むしろ、会を愛し、その教えが広がることを願っていた人の、会の変貌に対する深い悲しみを感じました。これは、私の印象に過ぎません。他の方で、あの本を読んで違う印象を持たれたかたがいらっしゃれば、その意見も聞くべきだと思います。ウソばかり書かれているから、読んではいけない、というご意見もあるかもしれませんが、双方の意見を知りたいと思うのならば、読んだほうがいいですね。どちらに「事実」が書いてあるかは、確かめようもありませんが、どちらに「真実」があるかは判断できます。どちらにも「真実」はあるかもしれませんし。私は関谷さんのほうに真実を感じましたが、押し付ける気はまったくありません。よい信仰を持たれ、幸せな家庭が築けますように。
 (これは kyully さんのMsg 1 に対する返信です )


97 件目  会員さんへ。   double_rl    (25歳/男性/東京都江東区) 1999年8月21日 23時10分

no.95、96の投稿について、なにか問題や間違いがあるようでしたら、訂正をします。たとえば、裁判をして勝訴し、関谷のウソが認められて、我々は名誉毀損による損害賠償をかちとった・・・などなど。
それから、会員さんに読むことは別にお薦めしません。私は幸福の科学を自分に必要のないものと判断したから、あれは、共感できる本でしたが、他の人にはそうでもないと思います。そもそも会は設立当初と今とでは、理念などもまったく違うので、なにも感じないのではないかと思いますし。盲信は危険ですが、いま、なにも疑念がないのならば、師を信じて、修行してください。わたしもわたしなりに、よい人生を歩めるように生きていきたいです。では。
 (これは double_rl さんのMsg 96 に対する返信です )


108 件目  お返事(長文)1   double_rl    (25歳/男性/東京都江東区) 1999年8月24日 20時17分

こんにちは。お返事が遅くなって申し訳ありません。別に待ってはいないかもしれませんね。こんなことをいつまでも続ける意義があるのかどうか、わたしとしても疑問なのですが、半端に意見を述べて去るのは失礼かと思いますので、もう少しだけ考えを述べさせていただきたく思います。----『虚業教団』についてですが、まだ書店においてありました。ある宗教団体について、その存続を危ぶませるような批判的な書籍や文章などが公にされた場合に、当該宗教団体がそれについて、(場合によってはウソを作ってでも)批判的に意見を述べることは、当然のことだと思いますので、それがかならずしも根拠のある見解だとは限らないということ、それと逆に、関谷さんが私欲のために会を利用し、追われたことを恨みに思ったので、嘘八百並べ立てた本を書いたのだという会の側の見解が事実に基づいている可能性も同様にありえますので、その点を考慮された上で、実際に自分で本を読み、またあの本について言及した月刊誌を読み(可能であればぜひ)、比べてみればよいのではないかと思いました。
 (これは kyully さんのMsg 1 に対する返信です )


109 件目  お返事(長文)2   double_rl    (25歳/男性/東京都江東区) 1999年8月24日 20時20分

個人的には、わたしが幸福の科学側の見解(私欲のため、幸福の科学つぶしのための本といった)をかならずしも事実に基づかないかもしれないと当時考えたのは、『虚業教団』について、わたしの知人が感想を出版社宛に送ったところ、関谷さんから彼の元に手紙が届いたのを知ってからです。その返事によれば、彼はいま、元会員達と連絡をとりあい、真理が廃れないように、後世に伝えられるようにと勉強をしているとのことでした。その後、元会員の有志によって自費出版された本も送られてきたそうで、友人に借りて読ませてもらった結果、関谷さんが真面目に真理を探求しているのだという印象を持ちました。その探求によって関谷さん自身の至る結果が正しいものか間違っているものかはわかりませんが、彼を含む元会員の集まりが、幸福の科学の教えがもともとどんなに素晴らしいものだったと考えているか、またその教えの流布のために、設立当初のような団体にもどってほしいとどれほど切実に願っているか、ということについて、わたしはそれらの本を通して、知ることができた気がしました。
 (これは funaba_tufs さんのMsg 100 に対する返信です )


110 件目  お返事(長文)3   double_rl    (25歳/男性/東京都江東区) 1999年8月24日 20時21分

そのいっぽうで、「幸福の科学」側は、どんな形であれ会に貢献した人を、「関谷」などと呼び捨てにし、見下した態度と言葉で断罪していました。その姿を見るにつけ、事実はいざ知らず、そこに真実があるようにはわたしにはとても思えませんでした。むろん、これらのわたしの経験や印象によったところで、彼の書いた『虚業教団』という本が完全に事実に基づいているとか、自己顕示欲を一切取り払って書かれたなどと断言することは当然できません。わたしは出版社による目論みのようなものもあったかもしれないと思います(現代書林のかたで、あの本に関わった方が中にいらっしゃれば意見を聞きたいところですが)。ただ、かつて幸福の科学に関わった人達が、辞めたのちにそのような活動をする(被害者の会ではないですよ>kyullyさん)くらい、会は変容したということ、その変容によって失望して会を離れて行った人が少なからずいる、ということは事実であり、参考までにkyullyさんにお知らせしたいと思いました。あくまで辞めた側の意見ですので、会員さんからの意見もきき、入会するかしないか、などを決めてください。
 (これは funaba_tufs さんのMsg 100 に対する返信です )


111 件目  お返事(長文)4   double_rl    (25歳/男性/東京都江東区) 1999年8月24日 20時25分

わたしは、Kyullyさんが会に入らないからといって、「よかった」とは思いませんし、入ることを決めたからとて「残念」とも思いません。どんな宗教であれ、その教えには人の心を救い、向上させるメッセージが含まれているだろうし、「幸福の科学」も間違いなくそういう団体だと思います。Kyullyさんが、はじめの投稿で、「幸福の科学」が「矛盾ない教えを有する、嫌がらせなどない団体」であるかどうかいうことについて、答えを求めているので、肯定的な意見ばかりではあまり参考にならないかもしれないと思い、わたしは否定的な側に立った意見を述べました。なお、わたしが辞めたときは、電話で「あ、そうですか・・・」ととても残念そうに言われ、わたしが「辞めるのは間違っているのではないか」と不安になるくらいの、「去るものは追わず」のこころよい対応でした。その修行レベルのゆえに、会員によっては罵詈雑言を浴びせられること ヘ大いにありえますが、おそらくどこの団体に行ってもそれは変わらないと思います。わたしの『虚業教団』についての感想は以上です。ありがとうございました。
 (これは funaba_tufs さんのMsg 100 に対する返信です )


129 件目  今日はお休みです。今回を最後に。   double_rl    (25歳/男性/東京都江東区) 1999年8月27日 10時6分

こんにちは。どうしても、辞めた側の意見は否定的なものになりがちで、しかもわたしのように長文で理屈っぽく書くと、いくら言葉の上で中立を強調しても、退会を勧めたり、入会を控えさせるような印象になってしまいます。no.79は、Kyullyさん宛という意味合いが濃かったのですが、あとのものは幸福の科学への批判のための批判という感を否めません。もともと、会員と元会員とではどうしても理解しあえない部分はあり、まして入会時期が違うと、会に対する認識の違いのゆえ、それは決定的になってしまうのに、それをわからずに書き込んだのは安易でした。会員ではない方からの投稿も増えてきて、kyullyさんも参考になることでしょうから、わたしは、今回を最後にします。不特定の会員さん宛ではなく、funaba_tufsさん個人への残りのお返事だけを書かせていただきます。以下8通です。
 (これは funaba_tufs さんのMsg 98 に対する返信です )


130 件目  お返事A   double_rl    (25歳/男性/東京都江東区) 1999年8月27日 10時7分

>大体貴方はその当時の月刊誌をよんだのでしょうか?
この言い方は「読んでいないのではないですか?」という意味にとれますが、そうですか?。わたしの記憶では読みました。たしか94年前半の月刊誌で、幹部のかた3〜4人くらいの対談だったような気がします。「恩を仇で返すとはけしからん」とかそんな内容だったでしょうか。その号のきょう子さんのメッセージも、関谷さんについて書かれていた記憶があります。辞めたあとすぐの時期に親戚に借りて読ませていただきました。

>でもこうやって会員さんに訂正を求めること自体からして真実を知りたいっていう
>願いはあるのですよね?
どちらに真実があるかということ ノついて、わたしは自分なりに結論をすでに出しております。それが正しいか間違っているかについては、お互いに議論が平行線になってしまう部分と思うので、詳しくは述べませんが、いずれにしても、わたしにとっては過去のことで、関谷さんがウソを書いたかどうかということは、わたしにはまったく気になりません。以前にも書いたように、わたしが会を辞めたのは、関谷さんの本とは関係ありませんので。
 (これは funaba_tufs さんのMsg 98 に対する返信です )


131 件目  お返事B   double_rl    (25歳/男性/東京都江東区) 1999年8月27日 10時8分

わたしが「間違いならば、訂正を」と言ったのは、Kyullyさんが私の一方的な見解によって真実を偏って捉えることのないように、という思いからです。わたしの「印象」や「経験」といった曖昧なものではなく、裁判による勝訴・敗訴などの結果を見たほうが、すくなくとも「事実」を知る上では確かであるに違いないと思い、訂正をお願いしました。なお、『虚業教団』は現代書林という出版社から出ていますが、funaba_tufsさんの投稿に、「講談社は敗訴した」ということが書かれていて、それと『虚業教団』がどのような関わりがあるのか、わかりませんでした。関連している会社ですか?。

>何故信仰が必要かを理解しましたし
なぜ必要だと理解されたのでしょうか?それは、あとの

>何故信仰を説かなかったGLA教団が師の他界後に元霊能者の人格異常者が
>沢山生まれたかを理解できました。
という文から導き出されたもの(「信仰が必要なのは人格異常者を生まないため」という結論)でしょうか。
 (これは funaba_tufs さんのMsg 98 に対する返信です )


132 件目  お返事C   double_rl    (25歳/男性/東京都江東区) 1999年8月27日 10時10分

GLAに師の他界後に元霊能者の人格異常者が生まれた、ということと、信仰を説かなかったこととの因果関係がわたしには先の文章からではよくわからなかったのですが。ここでいう信仰とは何でしょうか?。GLAでは確かに高橋信次さんへの信仰は説かれていなかった気がしますが(GLA フかたがもしいらして、間違いであったら訂正してください)、彼は釈迦の生まれ変わりだと思われていたことから、現実としては、高橋信次さんは幹部や一般会員から「信仰」の対象になっていたのではないかと想像しています。また仏や神への信仰は否定されていなかった気がします。加えて、彼は相当に厳しい人だったようで、霊的現象についても、霊道を開くだけでは危険だから、常に心を見つめるように、と厳しく戒めていたようです(少なくとも著作や、研究者による本を読んだ限りではそう感じます)。そのような状況で人格異常者≠ェ生まれたのならば、信仰を説いたとか説いていないとかいう問題ではない気がしたのですが、どうなのでしょうか。そもそも「人格異常者がたくさん生まれた」などということは、この月刊誌が出るまでほとんどまったく言われたことのないことでした。
 (これは funaba_tufs さんのMsg 98 に対する返信です )


133 件目  お返事D   double_rl    (25歳/男性/東京都江東区) 1999年8月27日 10時11分

それと、わたしは、人格異 ェメ≠ニいう言い方に、すこし疑問を感じています。ほかにも、大川さんの、「GLAの99%の人が人格に破綻をきたした」という文章とか、オウムや統一協会の人を「狂った人」よばわりする文章を読んだことがありますが、同様です。彼らとて、それなりに真理を求めさまよって探求の途上にいる一人の人間だと思いますが、そうした彼らを見下して、頭から「異常者・狂人」と呼ばわり、「人間・神の子」思想などどこふく風といったこの言葉づかいに、わたしの心は穏やかならぬものを感じないではいられませんでした。しかも旧版ではそのような部分が皆無だったことを思うと、なおさらです。

>素直に信じる心が無ければ正しき心の探求はできなくなります。
「正しき心の探求」の、「正しき」という部分に対しての意味合いは、昔と今とでは明らかに違います。以前は「正しさ」の基準は「自己の神性」であると考えられており、教えや師を信じる心とは無関係でした(神性があるという教えを信じてはいますが)。
 (これは funaba_tufs さんのMsg 98 に対する返信です )


134 件目  お返事E   double_rl    (25歳/男性/東京都江東区) 1999年8月27日 10時17分

いっぽうで、今でいう「正しさ」の基準は、「教えそのもの」なので、教えを素直に信じなければ、「正しき」心の探求ができないと主張するのは、論理としては当然だろうと思います。ただ、そこに思考は必要ない気がします。答えをもとに己の心のありようを裁くか許すかだけではないでしょうか。講談社に対する憎悪の心も「邪は邪である」という正義の心≠ニして教えられれば、見つめる必要はなくなります。
およそ、「素直に信ぜよ」という言葉ほど信用のおけないものはなく、「信じられると思ったら、信じてください」という言葉ほど信用のおけるものはない、と誰かが言っていましたが、そんな気がしました。会もはじめは後者でした(『日蓮の霊言』など)。それは、人の神性を信じ、真理のメッセージは友人の言葉の中など、日々の生活に溢れて、幸福の科学に依らずとも、悟りに至る道はそこかしこに転がっているという信念の表れだったように思います。
 (これは funaba_tufs さんのMsg 98 に対する返信です )


135 件目  お返事F   double_rl    (25歳/男性/東京都江東区) 1999年8月27日 10時18分

さらに、たとえば、教えを疑う気持ちが自分の中に出てきても、「教えが基準」なのだから、教え自体に「この教えは絶対正しい」という主張が含まれていれば、それに合わせて自らの疑いのほうを消去することになります。これを「心の探求」だというのかということについて、疑問に思いました。

>ここで言う疑いきれないものを信じるとは目に見える現象であったり自分自身の勝手な
>考えであったりします。いわば自分教になってしまうのです。
わたしは、信次さんは現象を最重要視するような発言はしていないと(教えの内容から)想像します。従来この言葉はそのような意味には捉えられていませんでした。「わたしの言葉であっても疑いなさい。何が正しいか間違っているかは、あなたがたの善我なる心が知っています」というような内容であると理解されてきたと思います。
 (これは funaba_tufs さんのMsg 98 に対する返信です )


136 件目  お返事G   double_rl    (25歳/男性/東京都江東区) 1999年8月27日 10時20分

また霊天上界の啓示を受けて一気に書かれたという旧版の『太陽の法』(土屋書店刊)でも、「みなさんにお伝えしている教えが、本物であるかどうかを知る基準は、自らの心がそれに感動するかどうかです」とか、「最後に正しさというものを決定するのは、自分の心の奥底なる神性が納得し、共鳴するかどうかです」といったような内容が書かれていました。これが「自分自身の勝手な考え」ということでしょうか(そうかもしれません。新版では書きかえられていたと記憶していますから。八正道についてのページでした)。
そうだとすると、会は当初「自分教」を薦めていたことになりますが、それも方便でしょうか。方便の時代に死んでしまった人は、「自分教」のままに死んでしまったことになります。「自分教」は孤独地獄に行く、ときょう子さんがいつかの月刊誌で述べておられましたが、これで師の責任は問われないのか、という点について疑問に思うところがありました。
 (これは funaba_tufs さんのMsg 98 に対する返信です )


137 件目  お返事H   double_rl    (25歳/男性/東京都江東区) 1999年8月27日 10時24分

ただ、わたしが思うに、物事を判断する主体というのはもともと自分以外にありえません。会員さんは「大川さんが示したモノサシ」によって生きていくわけだから、「自分教」ではないと言うかもしれませんが、そもそも「大川さんが示したモノサシ」を「自分のモノサシ」として使うことを決めたのは、それまで持っていた別の「自分のモノサシ」だと思います。ですから、「自分教」だと言えると思いますし、集団だから「自分たち教」とだという程度のものではないか、とわたしは思いました。世界には「自分教」しかないのです。
もし仮にそうではなく、神性による判断は「自分教」ではなく、自我による判断が「自分教」なのだと主張するにしても、「まず教えは絶対正しい」という大前提を置いてしまい、@教えを肯定することは「神性による正しき判断」、A教えを否定することは「自分勝手な考え」だと考えさせようとするのは、論理としてはわたしには納得できるもので ヘありませんでした。
 (これは funaba_tufs さんのMsg 98 に対する返信です )


138 件目  最後に・・・。   double_rl    (25歳/男性/東京都江東区) 1999年8月27日 10時25分

『虚業教団』の発刊をきっかけとして、それまで真実を選択するための絶対的な基準として捉えられていた「自分の心に問う」という行為が、それについて書いてある初期の本の廃刊や、その大幅な書き換えを伴って、否定されるように変わっていったことを見ると、それが何かよからぬ目的によってなされたと感じる思いをわたしは止めることができませんでした。

以上、長々と批判的立場にたって書いてまいりました。理屈っぽく書いているので、「法は頭でなく、魂で理解するもの」との批判が来そうですが、わたしが魂で感じたよからぬもの≠理屈で書いたのが、以上の文章です。

ただ、教えの中には、まだ素晴らしいものがたくさん残っていると思うので、多くの人達の心を救い、向上させるような団体でありつづけてくれると信じております。長文の失礼をお許しくだ ウい(すみません、一つ増えてしまいました)。議論が活発化して、Kyullyさんへの参考になりますように。
読んでいただき、ありがとうございました。失礼します。
 (これは funaba_tufs さんのMsg 98 に対する返信です )


139 件目  すみません、訂正を・・・・   double_rl    (25歳/男性/東京都江東区) 1999年8月27日 10時36分

申し訳ありません。最後だといったのに。
no.129で
「no.79は・・・・」という文章、「no.80は・・・・」の間違いです。
no.79は他の人の投稿でした。どうもすみません。

それでは、今度こそ(と信じていますが)失礼します。
 (これは double_rl さんのMsg 129 に対する返信です )


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