オウムと同じ ?

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 ◆「Yahoo!掲示板」より転載 (幸福の科学の教えについて)

86 件目 funaba_tufsさんへ double_rl (25歳/男性/東京都江東区) 1999年8月20日 15時2分  
私は、信仰を捨てることがイコール、法に反して生きるということではないと思います。私は辞めたあと、生き方に問題が生じることはありませんでした。落ちていったとはまったく思いません。毎日幸せな日々を送っています。 法に感銘を受けないのは、自分の心のほうに問題があるのではないか、というのは、いかにも幸福の科学的な主張だと思いますが、この考え方に私は賛成できません。たとえば、funaba_tufsさんは、自分がオウムの本を読んで何も感じなかったからといって、「私は素直さが足りないのではないだろうか」などと自らに問うたりはしないでしょう。大川さんの本に対してだけそのようなことを考えるのは、教えではなく、人を信じているからではないでしょうか。「この人は偉大な人であり、この人の説くことは、いままでもこれからも素晴らしいものであるはずだ」という思い込みの大前提があるからこそ、その教えに感動しない場合に、教えではなく、自分のほうを疑わなくてはいけなくなります。三宝帰依の性質上、それは仕方のないことですが、三宝帰依なるものが持つ危険性は理解したほうがいいかもしれません(続く)。


87 件目 funaba_tufsさんへA double_rl (25歳/男性/東京都江東区) 1999年8月20日 15時4分  
オウムの事件がどうして起こったのか、という点について、「教えに問題があったからだ」などという意見を述べる人もいますが、違うと思います。殺人命令に対して、実行犯の中には「わたしは間違ったことをしようとしているのではないか」と自らに問う人もいましたが、彼は「いや、尊師が間違ったことを言うはずがない。教えに感動した当初を思い出せ」と素直に℃vいなおして、命令を実行してしまいました。これはどんな宗教であれ可能性のある、ごく普通の「信仰」がおこした事件でした。おおげさな例ですが、三宝帰依は同じ危険性を有していると思います。師や教えを絶対視し、それらを疑う事柄が出てきても、その疑う心境のほうを否定しなくてはいけない、という点で、オウムとまったく同じですから。 だから、生前に高橋信次さんが「わたしの言うことであっても疑いなさい。わたしとて、いつ間違うかわかりません。何が神理であり、心に響くかは、あなたがたの善我なる心が知っていますよ」といったことは、盲信の危険性を見抜いた、本当に立派な言葉であったと思います。別に信次さんフリークではありませんが(続く)。


1347 件目 もっとも恐ろしいこと。 ELRANTY 1999年12月12日 22時45分
>9次元霊の気持ち理解できるほど「我々の認識が高いかのか」という点もエルランティさんには考えていただきたいポイントです。

そうやって、クリスチャンたちは旧約にあるヤハ Eェの神の残酷性を、「神の真意を人間心で計ることはできない」として肯定してきたし、オウム信者も、ポアの思想を素直に否定せず、「自分が考えられる範囲を越える考え方もあるだろう」と“柔軟に”考えてしまった結果、あの悲劇的事件を起こしてしまったのです。理解できないものを理解できないとして素直に拒否する心。これが、宗教に接するときのもっとも大切な考え方といえるでしょう。


1372 件目 オウム真理教と幸福の科学 ELRANTY 1999年12月13日 17時53分
>さてエルランティさんの、この表現は私に飛躍し過ぎているように感じます。(中略)
>それは幸福の科学とは何ら関係のない話題です。

幸福の科学とも充分に関係がある話題であり、決して飛躍ではありません。構造的には幸福の科学とオウムとは、宗教団体として何も変わらない、ということです。オウムがサリン事件を犯してしまったのは、教義にポアの思想があるためではありません。それだけでは決してあれらの事件は起こり得なかったのです。信者である人たちが、己の心の声を最優先させたならば、教祖だけが取り残され、事件は起こらなかった。けれども、納得のいかなかったその思想を、己の判断よりも優先させてしまった結果、地下鉄サリン事件を始めとした一連の事件が起こったのです。


1373 件目 オウム真理教と幸福の科学2 ELRANTY 1999年12月13日 17時54分
善悪の基準を、自分の心という「内側」ではなく、教祖や教義という「外側」に持つ、そのオウム信者の思考パターンは、幸福の科学の会員とてまったく同じです。幸福の科学の会員たちにとって、あらゆる善悪を判断する基準が先に己の中にあって、その基準に従って、大川さんの主張や指令をも裁く、ということはありえません。大川さんへの信仰が先にあって、大川さんの主張や指令が善悪の基準となるのです。だから、「大川さんが殺人の指令を出したらどうするか」との問い(以下のリンク)に、 http://messages.yahoo.co.jp/bbs?action=m&board=yahoo.ab.02.835217&topicid=482m01&msgid=7r0g3h$f9o$3@m00.yahoo.co.jp
Nishida77さんが、
>「不殺生戒」に反するので、実行は オません。
>その時は、総裁を疑うでしょう。(本物?) とお答えになられたのに、funaba_tufsさんはそのことに疑問を呈するのです。
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?action=m&board=yahoo.ab.02.835217&topicid=482m01&msgid=7r4vkc$9te$1@m00.yahoo.co.jp


1374 件目 オウム真理教と幸福の科学3 ELRANTY 1999年12月13日 17時55分
しかし、funaba_tufsさんを責めることなど決してできるものではありません。なぜなら『仏陀再誕』にこんな言葉があるからです。探求心とは、猜疑心ではなく、疑念の心でもない。そのような心が起きた時、もはや修業の途上にはないと言わざるを得ない。そのような時、その者はもはや修行者とは言われない。・・・・決して、何も批判を口にしてはならない。(以上、『仏陀再誕』より引用)100%の信仰を持つべく努めるfunaba_tufsさんとしては当然の発言でした。


1375 件目 オウム真理教と幸福の科学4 ELRANTY 1999年12月13日 17時56分
自分の判断より大川さんの主張を優先する思考パターンを持たせている幸福の科学に、麻原氏の命令を優先させてサリン事件を起こした信者を批判することは絶対にできません。講談社への非人道的抗議行動をみればわかります。自分の心の声に耳を傾けず、「仏陀様の指令」に盲目的に従ってしまった結果が、あの愚かしい抗議事件です。教団の指示に基づいて、信者たちが起こした組織的抗議行動だったのですから、オウム真理教の地下鉄サリン事件と、なんら本質的に変わるものではありません。(しかも麻原氏が己の関与を否定して、「弟子が勝手にやった」と主張していますが、大川さんも「有志がやったことであって、組織としては指令は出しておりません」という嘘をついていたのですから、なにからなにまでまったく同じではないですか)両者の違いは、「この世の法律における罪の軽重の違い」にしか過ぎません。両者に共通するのは、己の判断よりも教祖の指示を優先させる思考パターンです。


1377 件目 オウム真理教と幸福の科学5 ELRANTY 1999年12月13日 17時57分
自分たちがオウムと同じ過ちを犯し得るような信仰形態を持っている、ということに無自覚であることほど恐ろしいことはありません。GLAの信次さんがご生前に、「わたしの言葉であっても疑いなさい。最終的な善悪は己の真我に問いなさい」と主張されたことは、宗教の危険性を見抜いたまったくすばらしいものでした。幸福の科学も最初はそのくらいのことは言えていました。いつからかその健全な信仰形態がいまのように変わっていったのです。それが一番悲しいところです。


1382 件目 オウム真理教と幸福の科学6 ELRANTY 1999年12月13日 18時10分
わたしが主張をしているのは、幸福の科学もいずれはオウムのように凶悪な殺人を犯すだろう、という確信ではありません。たぶんそんなことはしないでしょう。(ただ、何の書籍かセミナーか忘れましたが、「罪を犯させないようにすることも大事だ」というような言葉があったことを思い出すと、なかなかに怖いものがありますが)わたしの言いたいことはひとつだけです。外に価値基準を求めるのはやめなさい、 ニいうことです。心を清ませば、何が正しくて何が間違っているかわかるはずですから。「神仏の光求めて幾星霜 悟れば 仏わが心に在り 高橋信次」


1388 件目 それは間違いではありませんね。 ELRANTY 1999年12月13日 19時16分
>ここでは信仰の基本の説明が有るわけです。

わたしはどこかでそれを否定しているでしょうか?引用部分に幸福の科学の信仰形態の基本の説明があるのです。それが「批判をするな、疑いを持つな」ということです。そうではない、というなら、信仰の基本が何か、を教えてください。
>高橋信次信仰をお持ちのようですから、どうしても心にフィルターがかかりますね。

大川隆法信仰をおもちですか? 心にフィルターがかかりますね?わたしは高橋信次を信仰しているつもりはありません。なぜなら、高橋信次は生き神信仰を否定したからです。わたしは彼ではなく、彼の教えに賛同するだけです。
>疑いの中で広がるのは悪魔の領域である。

そうやって疑うことを禁じているのだから危険だといっているのです。オ Eム信者がポア思想を疑うことも同じように「悪魔の領域」と言えて、はじめて、この主張は意味を持つものだといえるでしょう。


1457 件目 funaba_tufsさんへ ELRANTY 1999年12月14日 19時23分
funaba_tufsさん、こんにちは。レスをありがとうございます。
>それだけで幸福の科学が「外に価値基準を求める」団体であると考えるのは、
>軽率過ぎますから、そういった判断はお止め下さい。

わたしの根拠は、あなたの発言ではありません。わかりやすく現れていたので、引用させていただきましたが、わたしの根拠は、もっと別のところです。しかし、三宝帰依をそのように解釈している人がいる、ということだけでも、充分な危険性を顕わしているといっていいでしょう。もし他の方からの指摘がなければ、三宝帰依とは現成の仏陀=大川隆法にただひたすら従うことだと考えていたのでしょう。実際に師は師自身への疑いを否定するのですから、あながち間違った解釈ではありません。すべての物ごとの基準は幸福の科学的価値観なのです。自分で判断することを「自 ェ教」と否定するのに、どうして「外に価値基準を持たせる団体ではない」と言えましょうか。


1458 件目 funaba_tufsさんへ2 ELRANTY 1999年12月14日 19時24分
>その精神に於いて、「自分の頭脳を大川氏に預ける」などと言われた佐倉氏の「幸福の科学の信仰観」が【完全なる間違い】だとお分かりだと思います。

残念ながら「お分かりではありません」。高橋信次さんに対する接しかたの豹変から、会員が「自分で考える」ということに如何に慣れていないかが明らかです。『方便の時代は終わった』とされるほんの数か月前の月刊誌で、九次元霊特集を組み、エルランティー「様」と呼び、褒め称えていたのに、高橋信次は裏だと言われるや否や、手の平返して「信次」と呼び捨てです。自分より下の存在とでも思っているのでしょうか。すべては「何次元」などという上下観で霊人を判断してしまい、本人が説いてきたことの本質すら自分で判断することができていない結果です。信次さんが否定されるべきは、霊現象をやりすぎた、というだけのことであり、信次さん本人が主張していた内容は、神理そのものです。それを裏だと言われて、「あー、裏なんだ」と納得する程度の人が、どうして「自分の頭脳を大川さんに預けているのではない」などと言えるでしょうか。


1468 件目 続・オウム真理教と幸福の科学 ELRANTY 1999年12月14日 19時45分
>何故ならこれまで一度たりとも私は大川総裁から、貴方が心配されるような
>ことを言われたり、指示されたことはありませんね。

そういうことではありません。主張の意図を読み違えておられるようです。わたしは大川さんが麻原さんのように殺人を指令するだろうと言うのではありません。自分の判断と、教義や教祖の主張のどちらを優先させるのか、という信仰形態の話をしているのです。オウムは当然、教祖の主張を優先させました。幸福の科学はどうですか。「決して、何も批判を口にしてはならない」とありますね。信仰形態はまったく同じです。幸福の科学にオウムを批判できる点があるとしたら、教祖がポア思想を説いた点のみであり、教祖の指示を自分の判断よりも優先させた弟子を、決 オて批判することなどできません。もしこの「信仰形態は同じである」という意見を「違う」というのならば「幸福の科学では教義や教祖の主張よりも、個人の心を優先するように指示している」ということを示してください。自分教の否定からして、とてもそんなことを認めてくれている教義だとはわたしには思えません。疑問をもてば、返ってくる言葉は「素直に学べ」それだけです。


1469 件目 フライデー事件 ELRANTY 1999年12月14日 19時45分
フライデー事件についてはどうお考えなのでしょうか。会員が本当に教祖の主張よりも、自分の真我が語る声を優先できたならば、あの事件は起きることはなかったでしょう。前日、わたしたちは支部に呼ばれました。何事かと思ったら、まずビデオ再生。ビデオには講師向けに話す大川さんが出てきました。諸葛孔明の霊指導だとかで、三国志の挿絵などでよく孔明が持っているウチワ?のようなものを手に持ち、「イエス様も怒っています。信次先生も怒っています」と言って、講談社への抗議行動を、長自らが号令しました。そのあと、支部で ・フ的な説明がありました。翌日の○時○分頃から、音羽の講談社へ抗議デモをしに行く、ということ、「有志が偶然集まった」という形にするため、一般人を装う役目の人も作ること、会の指示があったことは他言無用だということ、デモに参加できない人は、その間、家から電話(無言も可)とファックス攻撃をすることが指示されました。


1470 件目 フライデー事件2 ELRANTY 1999年12月14日 19時46分
小賢しいことをするものです。徳島にいらっしゃった善川顧問がこれを聞きつけ、「お前たち、幸福の科学をつぶす気か!」と急遽上京なさったそうですね。しかし、そんな顧問の警告も無視し、抗議デモと電話・ファクス攻撃がなされました。大川さんの絶対的な指示に、諸会員が良心を見失ってしまった瞬間でした。一回だけ電話をかけた知人が言っておりました。「わたし、無言電話をしたら、『お前ら、良心っていうのがないの?』と怒鳴られて、怖くて切っちゃったよ。怖さのあまり悪魔の声だと思ったけど、よく考えたらあれは神の声だったんだね」と。当たり前のことです。そ cl当たり前のことを見失ってしまうのですから、会員は自分の心よりも、教祖の指示を優先させる信仰形態を持っている、と言われてもいたしかたありません。素晴らしい教えをもった団体だったのに、いつからか変わっていってしまったのですね。もったいないことです。


1471 件目 shihann23さん ELRANTY 1999年12月14日 19時48分
こんにちは。重複すると無駄なので、iroiroarimasuさんとわたしとfreddy99さんなどのやりとりから、お察し頂きたいのですが、ただ誤解をされぬように申し上げておくことがあります。幸福の科学がオウム真理教のように殺人事件を起こしてしまう危険性はきわめて低く、わたしはそれを「危険性が高い」と主張しているのではありません。ですが、信仰形態(すなわち、自分の判断よりも、教祖の判断を優先させる思考パターン)がオウム(のみならぬ、ほとんどの宗教)と同じであることを考えれば、幸福の科学がポア思想を説いた麻原さん自身を批判することはできても、自分の判断より教祖の判断を優先させた信者達を批判することは決してできない、 ニいうことです。信者のほうまで批判をすることができるのは、違う信仰形態を有する団体や教祖のみです。


1472 件目 shihann23さん2 ELRANTY 1999年12月14日 19時49分
また高橋信次信仰とか言われそうですが、高橋信次さんのように、個々人の心に神が宿り、すべての善悪を判断する基準が備わっている、と徹底して説いた人でなければ、オウムを批判することはできません。幸福の科学は信次さんの教えを基本にしていますが、真我ですべてを判断するべき、という教えは徹底されていません。徹底するとは、幸福の科学の教団としての方針や大川さんの指示でさえも、真我で裁くことを肯と言えて、初めて徹底していると言えます。オウム信者がオウム真理教を疑うことを肯定するのに、幸福の科学会員が幸福の科学を疑うと「素直になれ」「批判するな」などと言うのは、「真我」「神性」を都合のよいように使っているに過ぎません。そのような教団に所属する人は、教祖や教団が反社会的な行動を指示したときにも、己の真我に問うということができません。そうしてフライデー事件が起こったのです。


1514 件目 批判するな、素直になれ。 ELRANTY 1999年12月15日 17時29分
こんにちは。
>結構長く支部にも行ってましたが、その様には一度もいわれたことはないんですけど。

きょう子さんの言葉がありましたね。「仏陀の教えを素直に受け取らなくてはいけません」
><批判するな><批判するな><批判するな>も言われたことも無いんですけど。むしろ私は批判しまくってよく話し合ったタイプなんですが。

『仏陀再誕』にこうあります。「絶対に批判を口にしてはならない」。 曲解だと言われるなら、これらの言葉がどのような意味なのかを教えてください。わたしの疑問は、「批判を歓迎し、自分で考えることを奨励するならば、それを否定しているかのような誤解をされる(佐倉さんが“誤解”していますね)これらの言葉を、なぜ師は書いているのか」というものです。ある時期から急に自分で判断することが否定的なニュアンスで言われるようになったのですから、意図を疑うのは当然です。


1519 件目 脱会者の疑 ELRANTY 1999年12月15日 17時34分
94年に多くの脱会者が生まれた理由はなんでしょうか。仰る通り、信次さんに共感していた人が、信次さんの評価の変容にショックを受けたからです。そして疑が芽生えました。しかし、疑=悪では必ずしもない、というのはもうすでに他の方も書いてあります。オウム真理教の信者が麻原氏に疑念を抱くことを「疑」だと誰も批判などしないでしょう。つまり、疑念が正しいものであるか、間違ったものであるか、ただそれだけのことです。では、高橋信次への評価の変容に疑念を抱いた場合の「疑」は、是か非か。それはまさに生前の高橋信次さんへの評価によってなされるべきところなのです。さあ、高橋信次さんはいったいどんな人だったのでしょうか。


1523 件目 自分を偉しとしたかったのは・・・ ELRANTY 1999年12月15日 17時55分
これらのことを考えてみれば、幸福の科学が当初高橋信次さんに与えていた評価が 「かに正しいかが明白です。そして『方便の時代は終わった』以降の高橋信次さんへの評価がいかに滅茶苦茶かがわかります。そして、これらを考えれば以下の、
>『エルカンターレ』より『エルランティー』の方が「偉い!」ってことにしたかったのですね。信次さんは。

という説明がいかに的外れかわかるでしょう。あれほど謙虚で奢り高ぶらない人が、どうして大きな心境の変化が起こらないとされるあの世に帰って、突然自らを「偉し」としたがるわけがありましょうか。逆でしょう。大川さんが、高橋信次さんと比べて、「わたしのほうが偉い!」ということにしたかったのです。指導霊としていたイエスを「わたしに帰依した」と弟子にしたてあげるなど、すさまじい自己顕示欲です。「この心に芽生えた“疑”は正しい疑念である」。これが脱会者たちが出した結論でした。


1992 件目 横レス、マインドコントロール ELRANTY 1999年12月22日 19時31分
>もしあなたがなにも疑わずにマスコミ等の情報を鵜呑みにして批判をなさっているのな
>らあなた自身マスコ ~にマインドコントロールされてるんじゃないかって思いません?

横レスです。驚きました。統一教会の人たちとまったく同じセリフをいうのですね。内部情報と外部情報の両方が必要なのは仰る通りです。ではいったいなぜ両方の情報が必要なのか。それは対立する二つの情報を自分の中で闘わせる必要があるからです。外部が会の内情を暴露したとき、「それは事実ではない」という見解を内部が有して、はじめてこれら両方の情報を闘わせる必要性がでてきます。会がその暴露された情報を否定しないのであれば、外部情報と内部情報は一致するのですから、どちらかひとつで事足ります。この掲示板ではわたしたち元会員が会の内情を書いています。そしてそれらの事実を会員のかたがたが否定しません。したがって、その情報のみで、判断可能です。フライデー事件へと突っ走っていったこと、ノルマを課した勧誘・献金・献本・・・。これを批判するのは、決してマスコミによるマインドコントロールの結果ではありません。


1999 件目 非常識なファックス・電話攻撃 ELRANTY 1999 N12月22日 19時58分
>これは短い時間帯における話ですが幸福の科学の活動は
>そのような短い時間で判断できるものではないしょう。
>10年20年という時間のスケールで判断しないと判断を間違えて
>しまうでしょうね。

「“幸福の科学の運動は”10年、20年という時間のスケールで判断しないと、判断を間違えてしまう」という、判断対象を幸福の科学に限定した考えかたは、幸福の科学に対する、きわめてたちの悪い盲信であると言えると思います。それは、オウムの殺人事件を考えてみればわかります。オウムは、この世界での法律や道徳、目の前の“小さな”世間的判断を越え、輪廻という“大きなスケール”で物事を考え、「批判者の命を奪ってあげたほうが、これ以上彼らに罪を犯させないゆえに正しいのだ」という極めて“壮大な”見方で、あれらの事件を起こしたのです。彼らは短いスパンでの善悪判断を退け、長いスパンで見た善悪判断をしたつもりなのです。しかし、世間からは非難されました。単純に社会倫理に反するからです。


2000 件目 非常識なファックス・電話攻撃 2 ELRANTY 1999年12月22日 19時59分
では、幸福の科学はどうでしょうか。91年の講談社フライデー事件を考えてみます。あの非常識な電話・ファックス攻撃を、「もしあれがなかったら、幸福の科学はつぶされていた」ということで正当化をしています。要するに、「長い目で見れば、あれらの非常識な行動も、『幸福の科学』を守るためには仕方がなかったのだ、とされるはずである」というような論理です。幸福の科学はオウムと本質的には何も変わりません。講談社を含む、自分たちの批判者に対する自分たちの攻撃を、「これ以上彼らに罪を犯させてはいけない」という論理で正当化してきたのですから。それを、殺人という方法で行なうか、業務妨害という方法で行なうか、その反社会的行為の“程度の違い”しかありません。幸福の科学のあの方法があちこちで非難され、裁判でも敗訴するのは何故でしょうか。これもオウム同様に、社会の倫理にまったく反するからです。


2005 件目 カルトとは ELRANTY 1999年12月22日 20時9分
>カルト教団は終末思想でまず「恐怖」を植え付け、その恐怖を土台にして
>人々の考え方をある方向に限定させて従わせます。これは幸福の科学とは
>まるで正反対方向であると言えましょう。

『アラーの大警告』、『ノストラダムス戦慄の啓示』という終末思想の予言書籍を前面に出して宣伝し、会員の獲得に奔走していたのはどこのどの団体でしょうか?キーワードは、「この教えが広まるかどうか」でした。この教えが広まらなくては、この恐怖の予言は回避し得ない、というのがこれらの書籍のポイントです。正反対どころか、まるで同じ方向を向いています。幸福の科学は充分カルトです。


2006 件目 「生かしておいていいことではない」 ELRANTY 1999年12月22日 20時10分
『仏陀の証明』第6章の以下の言葉も、恐怖を与えるに十分な、波動の悪い言葉です。「仏法僧(幸福の科学)への誹謗中傷をして、それをつぶそうとするようなことをした場合には、人間として生まれるのはもう最後です。これはその通りです。人間として生まれるのは最後というのはどういうことかというと、悪魔になりますよ、ということです。生きている人間が死後に悪魔になったら、もう地獄から出られません。」「ですから、三宝を誹謗し攻撃してくるということは、もう存在根拠(レーゾンデートル)そのものがなくなることを意味しています。本来生かしておいていいことではないのです。」


2012 件目 「一定の距離を取らせていただく」 ELRANTY 1999年12月22日 20時23分
ついでですから、大川氏を指導する霊がなにものであるかを示す言葉をあげましょう。「当会は毘盧舎那仏、エル・カンターレを中心とした団体である。これに対して帰依しないものは、人間であっても、霊人であっても一定の距離を取らせていただく」「一定の距離を取らせていただく」という表現が、天上界のものでないことなどは、明々白々です。もはや人を救いたいという願いなど無いも同然で、衆生無辺請願度を単なる言葉の遊びにすぎないものにしています。このような波動の悪い言葉を平気で書く人の指導がどちらの世界に住む霊によるものか、幸福の科学できちんと学んだ人々ならば、考えずともわかります。だから脱会者があの時期に多く生まれたのです。


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