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 ◆「映画瓦版」より転載(映画瓦版)

ノストラダムス戦慄の啓示 1994/09/26 丸の内東映宗教団体幸福の科学が製作した人類滅亡と救済の予言映画は生憎つまらない。布教なら布教と割り切って別の作り方があっただろうに。by K. Hattori
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 製作が幸福の科学出版、監修が大川隆法と来れば、宗教のPR映画に決まっている。僕は幸福の科学の信者ではないが、大川氏の著書『太陽の法』は角川文庫で読んだことがある。ある程度予備知識があったわけだが、それでも映画の中で描かれる世界の構造については理解に苦しむところがあった。どのような観客を対象にしているのかは知らないが、前提となる世界観についての説明がいかにも不足してると思う。大川氏の熱心な読者だけを対象にした映画であれば説明は不用なのかもしれない。しかし、僕のように古い著書を数冊きり読んだだけの観客や、幸福の科学の教義にまったく無関心だった観客が観れば、この映画はまるきりちんぷんかんぷんだろう。申し訳ないが、僕は退屈で死にそうだった。 脚本が物語の体裁をなしていない。一応時間軸に沿って物語は進行するが、視点が分散して混乱するばかり。この映画には特に主人公というものはなく、ノストラダムスも語り手のひとりに過ぎない。ノストラダムスは歴史上実在の人物だが、この映画に登場する彼の部屋は霊界に今も存在しているという。これは劇場入口で配布されたリーフレットに書いてあるが、映画中では説明がない。これは 独立した映画作品としては不親切だと思うが、いかがだろう。とにかく全体に説明不足すぎるのだ。 わからない点は、大川氏の著書を読めばわかるようになるのだろう。しかし、もしこの映画が従来の信者や読者以外の人たちをも対象にしているのだとすれば、この説明不足は致命的な欠陥だと思う。 内容を盛り込み過ぎでまとまりがない。世界の光と闇のバランス、光の天使の輪廻転生と地上での魂修業、ノストラダムスの予言とその成就、神々の歴史への介入、宇宙人の来襲、心の荒廃が世界を破滅させる、救世主エル・カンターレの降臨。どれかひとつを掘り下げてドラマを作れば、何十倍も面白くてわかりやすい映画になったはず。例えば生まれ変わりのドームで来世の親子になることを誓った母と息子にエピソードも、それだけをふくらませて物語にすればはるかに感動的なドラマになり、観客の共感を得られたと思う。一般の観客にとって、教義の絵解きだけが連続する映像など退屈なだけだ。もう少しなんとか観られるものにする工夫をすべきではなかったか。 ふんだんに使用されているCGはさすがに大画面の迫力。ハイキー調の霊界や、各国語の上に日本語のナレーションをかぶせるコント ロールセンターの演出なども面白いと思った。監督は栗屋友美子。この映画が失敗だとすれば、責任はほとんど脚本にあると言ってよい。監督名の下に「第一回監督作品」とあるから第二回もあるのだろう。次回はもう少しましな脚本であることを祈らずにはいられない。 ひょっとしたら自主製作映画の会議室に書くのが適当な映画かもしれないが、一応この会議室に書いておく。
http://kawara-ban.plaza.gaiax.com/94/94092603.html


ヘルメス愛は風の如く 1997/03/14 東映第一試写室(試写会)原作は幸福の科学の大川隆法。曰くこれこそギリシャ神話の真実だとか。話はともかくとしてキャラクターの造形が薄っぺらすぎる。by K. Hattori
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 新興宗教団体・幸福の科学(正式には幸福の科学出版)が製作した劇場映画第2弾。前作『ノストラダムス戦慄の啓示』は特撮やCGを駆使した劇映画だったが、今回はアニメーションになっている。登場するのは、ヘルメス、アフロディーテ、ミノス王、ミノタウロス、テセウス、アリアドネなどギリシャ神話風だが、内容はかなり脚色してある。もっとも製作側はこの映画こそが「実話」「歴史」であり、ギリシャ神話はそれに後世の人間の手が加えられた結果だと主張しています。 残された資料も遺跡も存在しない紀元前2300年頃の出来事を、なぜ「これぞ真実」と言い切れるのかは謎ですが、それは宗教ですからあまり詮索しても仕方がない。風俗考証などに疑問を差し挟む余地はあるのかもしれないけれど、僕はその道の専門家ではないのでコメントしません。ちなみに僕の手元の歴史年表によれば、紀元前2300年頃は古代文明の黎明期。エーゲ文明・オリエント・インダス文明・黄河文明など、歴史の教科書で大昔に習ったような名前がずらずら並んでました。 物語はクレタ島の小国シティアの王子ヘルメスを主人公に、ディロス島の王族の娘アフロディーテとの恋物語、クレタ島の圧政者ミノ ス王との対決と勝利、クレタの新しい王となったヘルメスの魂の成長を描いています。2時間弱の映画ですが、ヘルメスがミノス王を破ってギリシャに平和をもたらすまでが1時間。この前半はドラマチックなエピソードが盛りだくさんなのですが、各エピソードが駆け足で食い足りない印象も残ります。特に敵役であるミノス王やミノタウロスのエピソードは弱い。 この映画は善玉と悪玉とがものすごく単純に描かれていて、登場人物(神様や妖精も含む)の造形に立体感が乏しい。主人公ヘルメスの成長は描かれているけれど、その成長は直 ・Iで迷いがない。悩みながら成長する、宮本武蔵的な求道者ではないのです。優等生だよね。この映画の中では、ヘルメスもアフロディーテも1度しか悩まない。皆すごく素直で単純なんだよね。 こういう真っ直ぐな主人公がいると、その対極にいる悪役は屈折した悪の魅力をプンプン漂わせていそうなものですが、ミノス王にはそれがない。彼もまた、迷うことなく悪の道をまっしぐらに突き進む。彼だけじゃありません。この映画に登場する人物はみんな悩まない。勇者テセウスを手引きして自分の父や弟を殺させるアリアドネですら、その行為に疑問を感じ ていない。これじゃ物語り全体が平板になるのは当たり前です。 というわけで物語はいまひとつなんですが、映画ファンとしては有名映画からの引用が頻繁に行われていたことを指摘しておきたい。例えばオープニングとエンディングの羽根は『フォレスト・ガンプ』、戦闘シーンは『ブレイブハート』、終盤には『リトル・マーメイド』風の場面があった。ちゃんと人魚も出てきたのには笑ったぞ。ミュージカル風の場面もあったりして、目指してるのはディズニーアニメだということがわかる。
http://kawara-ban.plaza.gaiax.com/97/97031401.html


太陽の法 エル・カンターレへの道 2000/10/06 東映第1試写室 幸福の科学製作の映画3作目にようやく登場した布教映画。過去2作に比べても一番つまらないのは皮肉。by K. Hattori
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 『ノストラダムス戦慄の啓示』『ヘルメス/愛は風の如く』に続く、幸福の科学出版製作の新興宗教映画第3弾。今までは有名予言者の名を借りたり、ギリシャ神話の英雄伝を借りてきたりと、いささか回りくどく“幸福の科学”からのメッセージを伝えてきたが、今回はいよいよ本体、というより御本尊の登場。1千億年前から現在に至る人類の魂の遍歴を、至高の霊存在エル・カンターレの転生と共に描き出す魂の大河ドラマ。原作と製作総指揮は、“幸福の科学”の教祖さま大川隆法。  この映画の公開と同じ時期には、アメリカのカルト宗教サイエントロジーの教祖が原作を書いた『バトルフィールド・アース』も公開されるはず。太平洋をはさんで生まれた東西の新興宗教が、日本の f画興行界を舞台に真っ向から対立するという、かなり世紀末な風景が見られると思う。このふたつの映画は、まったく関係ない場所で作られているが、共通点が3つほどある。第1は新興宗教の教祖が書いた原作を、それぞれの国の得意分野とする手法で映画化していること。つまり日本側はアニメーション映画を作り、アメリカ側はSFX映画にしている。第2はどちらの映画も全国公開されるのに、内容がひどくつまらないこと。たぶんどちらも興行的には惨敗だと思う。第3の共通点は、原作者の名前がどちらも“エル”で始まること。『バトルフィールド・アース』の原作者はL・ロン・ハバード。『太陽の法』の原作者は大川隆法だが、本人は自分をエル・カンターレと称している。名前が“エル”で始まると、なんだか神秘的でありがたい雰囲気が出るんだろうか……。  映画そのものは前記したとおりひどくつまらない。つまらない理由は2つある。ひとつは扱っている時間と空間のスケールが大きすぎて、物語の中に入り込めないこと。第2は物語が絶対者であるエル・カンターレの視点と、それを崇拝する人類の視点に二極分化してしまい、観客が感情移入するポイントが存在しないことだ。第1の点は、輪廻転生して行く人間や神(エル・カンターレ)のどこかにポイントを絞れば解消するだろう。また第2の点を解消するには、海外で何度も作られているイエス・キリストの伝記映画が参考になったと思う。そこでは後に神とされるイエスを悩める人間として描くか、もしくは悩める弱い人間が神であるイエスに出会って強く変貌して行く物語になるか、どちらかの方法が採られているはずだ。『太陽の法』はその点がどうにも曖昧だ。  エル・カンターレを絶対者として描くなら、物語の視点はか弱き人間たちの側になければならない。しかしこの映画の中ではゴータマ・ブッダが悩める青年として描かれており、この点でエル・カンターレというキャラクター(信者にとっては神様)の性格が弱くなってしまっているようにも思う。ブッダが悩んだ末に悟りを開く話は有名だから映画にも取り入れたのだろうが、このくだりは余計だと思う。あとどうせここまでやるのなら、最後は大川隆法本人に登場してほしかった。
http://kawara-ban.plaza.gaiax.com/00/00100601.html

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