虚業教団・第3章

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50 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2002/02/03(日) 16:15
「虚業教団」50 (第3章−1) 
 第3章 「裸の王様」への道
 ○ 「真つ黒な雲が覆いかぶさつてくる」

 大川隆法の結婚前に、中原幸枝が1人の老婆を講演会に連れてきた。人のよさそ
うな、田舎弁丸出しのおばあさんだったが、中原によると、なかなかの霊感の持ち
主であるという。
 その老婆は、講演会が終わってから感に堪えないようすでこう言った。
「お話は難しくてよくわからなかったが、あの先生(大川)からは金色の後光が射
しとった。いいところへ連れてきてもらって、ほんとにありがたい」
 霊感とか霊能力には比較的冷淡な私も、こんなふうに自分の参加する会が褒めら
れるのは悪い気がしなかった。
 大川が結婚してから、老婆が再び講演会に顔を出したことがある。このときも中
原が連れてきたのか、自分から会場へ来たのか、そのあたりの私の記憶は曖昧であ
る。
 しかし大 ・ノついて、次のように語ったのが強烈な印象となって残っている。
「前に聴かせてもらったときは、金色の光が見えたにねぇ。今日はどうも違う。先
生の後ろに魔女がいて、まっ黒い雲を吐き出している。それが、わしらのほうへか
ぶさってきて、えらく気味悪かったよ」
 いま考えると、不吉な言葉である。しかしそのときは、深くも考えなかった。日
によって変わる“老婆のたわ言”ぐらいに受け止めていたと思う。


51 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2002/02/03(日) 16:16
「虚業教団」51 (第3章−2)
 老婆が見たという“魔女”に、現在の私は思い当たる1人の女性がいる。
彼女の中高の鼻は、西洋の魔女のわしっ鼻と似ていなくもない。その女性が魔女な
のだと言うつもりは、私には毛頭ない。主宰先生のように、「あの人には悪霊がつ
いている」とか「彼は悪魔だ」などと言う趣味を私は持ち合わせていないからだ。
 しょせんは老婆のたわ言である。しかし、あのおばあさんは大川に、あるいは会
に、何か良からぬ変化が起きて 「るのを直観的に感じとったのではなかったか。
それを、たまたま魔女というイメージであらわしたのではないだろうか。
問題は、彼女が魔女かどうかではない。老婆の言った“魔女”という言葉に、私が
その女性を思い浮かべるようになったという、その事実である。それには、もちろ
ん理由がある。その理由は、〈幸福の科学〉を神理探究の場から、会員獲得を第一
義とする宗教団体へと変質させてしまった、その原因の一つと重なっている。
 大川の結婚を境にして、〈幸福の科学〉は急速に変質していったのである。


52 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2002/02/03(日) 16:18
「虚業教団」52 (第3章−3)
 ○ 「大川夫人の登場と会の変質」

 最初に申しあげておきたいと思うが、私は個人攻撃をするつもりはない。教団と
いうものが、いかに人を本源の神から遠ざけてしまうか。そのことを、
〈幸福の科学〉という一つの集団を例として、また〈幸福の科学〉に人生を懸けた
愚かな男の悩み、苦しみを通して、一人でも多くの人 ノわかってほしいという願い
から、こうして筆をとっているにすぎない。
 私が大川主宰や、そのまわりの人に批判の目を向けるとしても、それは会の行き
方を検証したいがためである。というのは、彼らもまた私たちと同様、宗教団体と
いう魔力の犠牲者である。本源の神から人を遠ざけてしまうものを検証するには、
彼らにも裸になってもらわなければならない。
 あの童話の幼児のように、「王様は裸だ!」と、誰かが叫ばなければならない。
 話は、大川の結婚式の半年前にさかのぼる。

53 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2002/02/03(日) 16:19
「虚業教団」53 (第3章−4)
 1987年11月の21日から3日間、茨城県の大洗で研修会が開かれた。いく
つかの意味で、〈幸福の科学〉の今後を決定することになった特筆すべき研修会で
ある。
 3日間の研修だから、当然泊まりがけになる。どんな集団でも、そうした合宿な
どでは特別な雰囲気が生まれる。このときは若い女性グループが妙にはしゃいでい
た。ワーワーキャー Lャー騒ぎながら、まるで人気タレントのように大川をあつか
った。今にして思うと、これが我が師を大いなる覚者から宗教タレントヘ変貌させ
るきっかけであった。
 佐藤真知子という20代半ばの女性会員が、そのグループの中心になっていた。
婦人部講師だった母親をはじめ、一家をあげて熱心に活動していたから、生え抜き
の若手と言っていいかもしれない。大柄な体に相応しく屈託のない、天真爛漫な性
格で、若い女性たちのりーダー的存在だった。もっとも、30も年の違う私から見
れば、そんなところが可愛い娘さんだった。
 この自称アマゾネス軍団の1人が、ボランティアとして会の活動にかかわってい
た東大生の木村恭子である。
 以下に述べるのは、直接私が見聞きしたものではないことを断っておく。しかし
最も身近にいた人間から伝え聞いたものであるから、真実と考えてもらっていいと
思う。


54 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2002/02/03(日) 16:20
「虚業教団」54 (第3章−5)
 大洗の研修会の後、 蜷・フもとへ恭子から熱烈なラブレターが届いた。
 「先生に直に指導していただかなければ、霊道の開けてしまった私は死んでしま
う」手紙にはそんなことが書き連ねてあったという。
「大洗での講義のとき、先生は私を意識していましたね」ともあったらしい。
なかなか可愛いではないか。恋愛経験の少ない、自意識過剰な若い女性なら、
そんなふうに思い込むのは不思議ではない。
 ラブレターをもらったほうも、大川の本を信じるかぎり、デート一つしたことも
ないぐらい恋愛経験に欠けていた。学生時代には、一度しか話したことのない相手
に、ラブレターを小包にして送っていたというから、純情さではひけをとらない。
 そういうカップルにありがちなケースだが、2人の仲は急速に発展した。まず中
原が、大川の指示で恭子にコンタクトをとる。そして、キューピットさながら主宰
先生の逢瀬をとりもった。その場で、すべてが決まってしまった。わずか1カ月後
には吉祥寺の料亭「双葉」において、私に結婚を打ち明けている。
 大川と恭子の婚約発表に、彼女を知る会員たちはさぞかしびっくりしただろ 、。
先日まで職員の手足となって働いていたボランティアが、しばらく顔を見せないと
思ったら、なんと主宰夫人になるという。とりわけ真知子にとっては、青天の霹靂
のはずである。
 結婚の縁というものは、恭子の著作(『愛を与えることの幸福』)によると、「今
世の魂修行の重要課題」にしたがって決まってくるという。としたら、この結婚に
こそ、大川隆法の本質がハッキリと現れていると言ってもいいだろう。
 大川夫人の登場と時を同じくして、〈幸福の科学〉は大きく変質していった。神
理を探究する人々の集まりの場から、会員を集めることに狂奔する、ありふれた新
興宗教の一つへと転落を始めたのである。


55 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2002/02/03(日) 16:23
「虚業教団」55(第3章−6) 
 その変質は、たとえば大川父子の反目という、具体的なかたちをとって現れてき
た。
 〈幸福の科学〉の初期の講演会では、講師は常に大川隆法、善川三朗の2本立て
だった。それが次第に大川1人が講演するよう ノなり、父親である善川のほうは独
自で講演会を催すようになる。同じ〈幸福の科学〉の看板を掲げて開くのだが、何
万人も集める大川にくらべ、父親の講演会は今もってこじんまりしたものらしい。
 あの東京ドームでのハデハデしい“御生誕祭”も、常識人である善川の反対を押
し切っておこなわれたと言われている。
 こうした2人の関係について、世間では大川の“遅れてやってきた反抗期”など
と面白おかしく揶揄しているが、ことはそれほど単純ではないと思う。
 私の知る範囲でも、いくつかの理由がある。一つは、会の運営方針をめぐる対立。
会員獲得を第一義とするような会の拡大路線に、善川は猛反対だった。高橋信次の
GLAや、谷口雅春の生長の家の信者だったこともある善川には、地道に信者の生
活や心の改革に取り組むのでなく、数字的な拡大を図ろうとする大川の方針が危う
いものに思われたに違いない。
 結婚後、急速に拡大路線に転じ始めた会の方針に、夫人の影響を見るのは私の読
みすぎだろうか。
 少なくとも夫人は、義父にあたる善川を忌み嫌っていた。
 義父が四国 ゥらはるばる上京してきても、決して自分たちのところに泊めようと
しなかったのは、当時の幹部のあいだでは有名な話である。すぐ近くに息子の豪邸
があるにもかかわらず、父親はホテルに宿泊していた。そればかりか、息子の若い
嫁は「お義父さんには悪霊が憑いている」などとまわりにもらしていたのである。
「30をすぎて独身では、かわいそうだからなぁ」
 クルマの後部座席でつぶやいていた老父を、私は淋しく思い出す。


56 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2002/02/03(日) 16:24
「虚業教団」56 (第3章−7)
 もっともこの女性は誰に対しても、「悪霊が憑いている」と言っていた。
「家に帰ると、“今日は何々局長の悪い霊を憑けてきた”と言われるんだ」
 大川が苦笑いしながら、こぼしたことがあった。主宰先生は夫人の尻に敷かれて
いるらしいというのが、二人をよく知る人間の一致した見解だった。現代の釈迦が
妻に頭があがらない。ソクラテスのようでもあり、微笑ましい人間味を感じる。
しかし、それが会のあり方 鴻J右するようなったら、話は別だ。後のことになるが、
フライデー事件の際にも、夫人からの指示がファックスで本部へ送られてきて
いたという。
 阿南浩行と佐藤真知子の神託結婚にも、大川夫人の意見が多分に反映されたと見
ていいだろう。大川一人では、阿南の相手に真知子を思いつくとは到底思えない。
それほどこの二人は性格的にも、実際のつきあいにおいても距離があった。真知子
に意識がいく人間がいるとしたら、かつて彼女の“子分”だった大川夫人以外にな
いと思う。
 もしかしたら昔の“親分”に、自分が手にしたばかりの権力を誇示したかったの
かもしれない。
 こんなことを書くのは、私としても悲しい。品性が疑われるかもしれない。しか
し書かなければならないだろう。いま何百万人の会員がいるか知らないが、決して
少なくない人々が、〈幸福の科学〉の大川主宰や主宰補佐である夫人、また善川顧
問夫婦を、神を仰ぐような目で見つめている。
 しかし彼らも、私たちと同じ人間なのである。権力欲や嫉妬にも駆られるし、嫁
舅の行き違いもある。30をすぎた息子が独身で 「ることを心配したり、妻にやり
込められたことを苦笑いしながらこぼすような、どこにでもいる愛すべき人たちな
のである。
 問題は、そういう人間を絶対視するところから起きてくる

57 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2002/02/03(日) 16:26
「虚業教団」57 (3−8)
 ○ 「大川ファミリー経営の企業=〈幸福の科学〉」

 昨日まで一会員だった木村恭子が、結婚によって、たちまち主宰補佐になったと
きも、会員のほとんどは当然のこととして受け止めた。
 しかし学習団体であったはずの〈幸福の科学〉が、いわば縁故関係から一会員を
主宰補佐という重要な職に任じたとき、会は明らかに変質していた。これは、大川
隆法の出身大学である東大の学長夫人が、副学長になるようなものなのである。
 私立大には理事長という職がある。その奥さんが副理事長になるならわかる。理
事というのは教育に携わるのでなく、経営を担当する役職なのだから。大川夫人が
補佐になったという事実に、主宰や補佐がじつは〈幸福の科学〉の o営者であった
ことに、私たちは思い至るべきだったのではないだろうか。
 そういえば、善川夫人も顧問として特別な立場にいる。さらに主宰、主宰補佐、
顧問にはかなりの額の“役員報酬”が支払われていることも忘れてはならない。
 「でも、大川隆法の莫大な印税の中から支払われているのだから、たいしたこと
ないでしょう。息子が稼いで、親に仕送りするようなものだから」
 と言う人がいるかもしれない。
 多くの人が、〈幸福の科学〉の経費は本の印税で賄われていると思っているよう
だ。確かに、次々にベストセラー入りする本の印税は莫大な額にのぼる。もちろん、
大川の本がベストセラーになるのには仕掛けがある。まず、会員になるには本を
10冊読まなければならない。また、新しい本が出版されるたびに、会員は半ば強
制的に20冊30冊と買うことを要求される。ベストセラーにならないほうがおか
しい。
 その印税は、すべて大川の個人的な収入になるのである。少なくとも、私が脱会
するときまではそうだった。会員に買わせた本の印税が個人の収入になる。これは、
常識的 ノ考えてもおかしいと言わざるをえない。
 

58 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2002/02/03(日) 16:28
「虚業教団」58 (第3章−9) 
 あるとき、会の運営費が不足したことがある。
 「先生の印税を会に入れてもらえませんか」
 ある局長が何気なく言ったとたん、主宰先生は烈火のごとく怒ったものだ。
 印税のうえに、会の経費から主宰、主宰補佐、顧問夫妻に“役員報酬”が支払わ
れる。
 大川や善川がそれを受け取るのはいいとしよう。しかしどうして、大川夫人や善
川夫人にまで“報酬”が払われるのだろう。これでは、どこにでもある中小企業の
経営体質とほとんど違いはない。
 大川ファミリーが経営する会社。それが〈幸福の科学〉の実態だった。
 直接経理にタッチしたこともある私は、彼らにどの程度の額が支払われていたか
知っているが、それは敢えて言うまい。“役員報酬”の多寡が問題なのではない。
一つの組織として見たとき、そこに見えてくるのは日本的中小企業の姿だと言いた
いのである。
 それは、法を学び、法を広めようとするサンガーとは異質なものではないだろう
か。

59 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2002/02/03(日) 16:30
「虚業教団」59 (第3章−10)
 私がいた89年夏までの〈幸福の科学〉は、それでもまだ、神理を学ぼうとする
人々の熱烈な思いによって成り立っていた。しかし“大躍進の年”とされたその年
を通過すると、会員を集め、金を集めることに熱中する集団ができあがってしまっ
た。
 そんな中から、3000億円の献金を集め、都心の一等地に77階建てのビルを
建設するなどという、破天荒な構想も生まれてくる。
 その寄付の募り方が、さすが元商社マンだけあって独創的である。何十万、何百
万という単位で会員から借り入れる。利子は、会への寄付になる。無利子、無期限
で借金するようなものだろう。一人で何千万も出す人もいれば、何人か集まり10
万、20万をつくる人たちもいる。何千円といった端数は受け付けないところが、
じつにドライだ。仮に返還を求める人がいたら、そ フ分は、ほかの会員からの借入
金で穴埋めする。しかし天上界という担保があるから、返還を求めるような会員は
めったにいない。じつに天才的な“商法”ではないか。
 各支部には、月毎に何億というノルマが課せられる。それがまたちゃんと集まっ
てしまうのである。しかしノルマを与えられる支部長は決してラクではなかっただ
ろう。後になって私はよく思ったものだ。
 「たくさん人を引っかけて、一緒に金儲けしようや」とでも言ってくれたら、
どんなにか気楽だったことだろう。たぶん喜んで一緒にやったに違いない。
けれど、これほど一生懸命になることも、またなかっただろう。
 ちなみに、「こんなことをしたら、どれぐらい引っかかるか」という表現は、私
の在籍中でさえしばしば耳にした。会員には信じられないという人が多いと思う。
しかし残念なことに、これが〈幸福の科学〉の経営陣の姿勢だった。

60 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2002/02/03(日) 16:32
虚業教団」60 (第3章−11)
 ○ 「『生命線』出版ルー gの確保」

 ここで、〈幸福の科学〉のいわば生命線であり、会の発展に大きな貢献をした
〈幸福の科学出版〉の設立について述べておきたいと思う。
 ご存じの方も多いと思うが初期の霊言集は、潮文社から出版されていた。
大川の霊言テープあるいは原稿を、善川が持ち込んでの出版だったらしい。
 ところが8冊目か9冊目で、潮文社社長のK氏と大川父子が対立した。
 原稿はできても本にしてくれる出版社がない。困っているところへ助け船を出し
たのが、やはり中原幸枝だった。中原の紹介で、彼女の本を出版したことのある土
屋書店がピンチを救うことになった。また、高橋守人が社長をしていたコスモ印刷
の協力で、幸福の科学出版名で『高橋信次霊訓集1・2・3」や「神霊界入門』を
出している。
 第三の大黒天と言われた高橋守人も、〈幸福の科学〉の草創期からかかわり、苦
い思いを抱いて去っていった仲間の一人だった。
 現在は、会とは独立したかたちで、幸福の科学出版株式会社が出版活動をおこな
っているが、そのもとになった幸福の科学出版は、もともと高橋が大川に提案し ト
つくられたものと記憶している。大川もいずれは本格的な出版社を持つつもりでい
たのだろう。出版社を興したら重責に据える約束で、高橋に全面的な協力を求めた。
前記の4冊などは、出版経費の全額をコスモ印刷で負担している。機関紙の印刷も
原価でおこない、会員への発送も会社で引き受けるという献身ぶりだった。
 しかし幸福の科学出版株式会社が設立されてみると、高橋のポストはどこにもな
かった。彼が憤るのも当然だろう。この事件については、高橋本人が雑誌やテレビ
で告発しているので、ここでは詳しく触れない。
 1987年の12月24日、幸福の科学出版株式会社設立。こうしてあらためて
振り返ってみると、吉祥寺の料亭で大川の婚約を知らされる、わずか2日前である。
発足記念講演会から約1年。大川にしたら得意の絶頂だったに違いない。

61 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2002/02/03(日) 16:34
「虚業教団」61 (第3章−12)
 出版社はできたが、しかし大手取次店である日販も東販も相手にしてくれなかっ
た。〈幸福の科学〉も大川隆法も、一般にはまだ無名に等しい。得体の知れない宗
教団体がつくった出版社など、誰もまともに付き合おうとしなかった。
 印刷することはできるが、書店には並べられないという状態だった。
 出版責任者の細田局長が、半年以上も前から流通ルートの開拓に汗を流していた
が、どうにもメドが立たなかった。
 「関谷さん、顔の広いところで何とか道がつかないだろうか」
 局長会議で大川に言われ、私も困ってしまった。クルマの販売なら「任せておけ」
と胸を張って答えられる。が、畑違いの本ではどうにもならない。ただ、自動車販
売の関係者に、あの人ならあるいはと思う人物がいた。
 東販と直接コネクションのあるA氏である。幸いなことに、A氏の紹介で私が東
販を訪れると、話はウソのようにトントン拍子に運んだ。東販の出版コードがとれ
たとわかると、日販もスンナリと受け入れてくれた。人の繋がりとは、まことにあ
りがたいものである。
 この時点での会員数は、まだ2000人ほどだった。本が全国ヘ一斉に流れてこ
そ、今の〈幸福の科学〉がある アとを思えば、A氏の尽力を得て、まさに私が〈幸
福の科学〉の基礎造りをしたことになったわけだ。
 会は大川主宰一人が大きくしたのではない。出版部門一つとっても、潮文社のK
氏からはじまって、さまざまな人間の助力があった。どの人が欠けても、今日のよ
うな発展はなかっただろう。その中には、大川から“石もて追われた”ような高橋
守人ももちろん含まれている。
 しかし中小企業の社長によくあるタイプだが、大川は徹底したワンマンだった。
 人材登用の仕方がすこぶるうまい。同時に切り捨てるときは容赦なく、どんな古
参の幹部でも遠慮なく左遷し、同じ人間は決して長くまわりに置かなかった。この
“恐怖政治”は、幹部や職員のあいだに大川のイエスマンでなければならないとい
う空気をつくっていった。


62 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2002/02/03(日) 16:36
「虚業教団」62 (第3章−13)
 ○ 「『ワンマン社長』としての大川隆法の力量」

 〈幸福の科学〉における大川隆法の管理術は、もし ゥすると中小企業の経営者に
はいい参考になるかもしれない。それは冗談とするにしても、そう思わせるほど鮮
やかな手腕を彼は振るった。
 一つは、優秀な才能を発見し、どんどん抜擢していく人材の登用法である。
 この会では、すべてがランク付けされる。この世界そのものが、十次元とか十三
次元にもおよぶピラミッド型の世界なのだ。私たちの魂は、その次元を一つでも上
へ昇るために修行している。その修行というのは、大川の、あるいは大川を通して
現れた霊の説く神理を学習することである。
 学習さえすれば、高次元へ行くことができる。〈幸福の科学〉では、実践は必要
なかった。愛を実践するのでなく、愛とは何かを学ぶことでより高い次元へ進む。
その学習成果を、試験・レポートというかたちで絶えずチェックされるのである。
この試験・レポートが、優秀な才能の発掘に役立った。
 頭のキレる者、営業センスのありそうな者、人脈の豊かな者はどんどん登用して
いく。同時に、会員の獲得で好成績をあげた人間も次つぎに重く用いられた。
 私も、大きな顔で批判する立場ではない。私 フ退会時にいた100人ほどの本部
職員はほとんど私が直接面接し、採用を決めた人たちだったのだから。会を退めた
ことも、こんな文章を書くことも、彼らへの裏切りになるとは重々承知している。
その罪も自覚している。だが真実を書かずに済ますほうが、さらに大きな裏切りで
はないか・・・。
 人材登用もさることながら、切り捨てや左遷、格下げのほうに、主宰先生はいっ
そう鮮やかな手並みを見せた。
 何かの方針を実行に移す場合、大川自身は決して表舞台に立たないことはすでに
述べた。必ず幹部の1人を通して指示を出す。もし失敗しても幹部の責任となり、
大川はむしろ同情される立場になる。
 こういう自己保身を図るのも、教団トップとしては止むを得ないことかもしれな
い。絶対である教祖に、間違いは許されないのである。


63 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2002/02/03(日) 16:38
「虚業教団」63 (第3章−14)
 そのいい例が、フライデー事件だろう。
 写真週刊誌フライデーに、大川にうつ病の病 cFあると載ったとき、対抗策を練
るために幹部に招集がかかった。紀尾井町のビルに40人ほどが集まり、会議が開
かれた。講談社断固許すまじという武闘派と、たかが写真誌の根も葉もない中傷な
ど放っておけという穏健派に分かれ、カンカンガクガクの議論がおこなわれた。
 議論は白熱するばかりで、なかなか決着に至らない。
 詳細は後に譲るが、その時大川が打った手も1人のキーマンを通じて全体を動
かすという方法だった。
 すでに2年前に退会していた私は、その場にいない。これは、そこに参加してい
た複数の人から聞いたものであるとお断りしておかなければならない。しかし話を
聞きながら、私にはその光景が見えるような気がした。相変わらずである。以前と
まったく同じ自己保身のテクニックが使われている。
 講談社に対する挑戦が、世間の顰蹙を買うかたちで挫折した今、その幹部は詰め
腹を切らせれるように、○○支部にまわされている。また、テレビの討論番組にも
出演して大いに気を吐いた大沢敏夫も謹慎を命じられているという。


64 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2002/02/03(日) 16:41
「虚業教団」64(第3章−15) 
 私のいた頃から、大川は幹部職員の酋を頻繁にすげ替えた。何かあると、すぐに
地方の支部へ飛ばされる。そこで会員獲得に功績があれば、また本部へ呼び戻す。
ひどいときは、3ヵ月も置かずに配置替えになる。1人の人間を長く身近に置くこ
とに、何かの恐れを抱いているかのようであった。
 もし、私があのまま会に留まっていたら、この第一の大黒天も、どこかの支部へ
飛ばされていたに違いない。
 支部長と本部の最高幹部では、天と地ほどの違いがある。一方は、会員集めや寄
付集めに奔走しなければならない。しかし他方私たちは、本部の大先生である。地
方へ講師として行けば、下にも置かない歓迎を受ける。女性にとりまかれ、握手や
サインまで求められる。3日やったらやめられない、というところだろうか。
 しかし、信じ切れない宗教団体の幹部でいることが、私には苦しくてならなかっ
た。たとえどんなに給料をもらおうと(89年当時、「来年は年収1000万にし
てやるぞ」と主宰先生はおっしゃっていた)、本部の大先生といかに崇められても、
自分が信じ切れないものを信ぜよと説く。これ以上の拷問はないのである。



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