虚業教団・第5章

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94 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2002/02/03(日) 17:43
「虚業教団」94  第5章「さらば、〈幸福の科学〉よ」
 ○ 「紀尾井町ビルヘの入居契約が最後の奉公」

 阿南事件のあった88年から89年にかけての冬は、寒く長いものに思われた。
 その年の1月、昭和天皇の崩御があった。2月には政界、財界、官界を巻き込ん
だリクルート疑惑で、リクルート元会長が逮捕されている。また、新聞やテレビの
ニュースでは埼玉県で頻発していた幼女誘拐殺人のことが連日報じられていた。
 バブル経済の真っ最中だったが、暗いニュースがつづいた。物質的に豊かにはな
ったが、人の心はますます荒廃の度を深めていくようだった。その荒廃から立ち上
がるべく、新しい価値を求めた私たちの運動。そこに、私はもう希望を見い出せな
くなっていた。心が重く沈む。春はなかなか来ないように思われた。
 しかしバブルが膨らみつづけていたように、〈幸福の科学〉も着実に大きくなっ
ていった。3度目の拠点となっていた西荻窪の地下の事務所もすでに手狭になって
いる。さて次の事務所はどうしよう、という話がチラホラ出ていた。またまた私の
出番である。
 駅前の7階建てビルが空くと聞いて当たってみたが、宗教団体はお断りとアッサ
リ振られてしまった。
 西荻窪にしっかり根をおろし、ここを神理伝道の拠点にするというのが、〈幸福
の科学〉の最初の決意だった。
 「場所など問題ではない。素晴らしい教えさえ説きさえすれば、地球の裏側から
でもここへ尋ねてくるようになる。だから、この西荻窪が聖地なのだ。天理教がで
きて天理市になったように、〈幸福の科学〉がこの町の名前を変える日がきっとく
る」 はじめの頃、西荻窪への大川の入れ込みようは大変なものだった。
 しかし主宰先生の言うことは、すっかり変わってしまった。
 「こんな田舎に何でいなければならないんだ。政治家とのコンタクトも、これか
らは必要になる。中央へ出たい。高級霊からの通信も、それがいいと言っている」


95 名前:名無しさん@お いっぱい。 投稿日:2002/02/03(日) 17:44
「虚業教団」95 (第5章−2)
 大川に何か野心があるなら、便利屋程度にしか見られていない私が、何を言って
も耳を傾けはしないだろう。「高級霊からの通信」という切り札があるかぎり、ど
んな正論も通じない。高級霊の指示だからと、その野心を達成しようとするだろう。
 “どうせなら、何でもしてやろうじゃないか”そんな気持ちになっていた。
 新宿三丁目に手頃な貸しビルがあった。宗教団体を表に出さず、出版社として下
交渉すると間もなくOKが得られた。そこを第一の候補として、次にもっと思い切
りすごいところを狙ってみた。それが「紀尾井町ビル」である。
 干代田区紀尾井町に建設が進んでいた地上26階建てのこのビルは、当時ビジネ
スマンの話題の中心であり、あこがれの的だった。東京の一等地ではもはや入手不
可能な広いフロア、皇居や永田町にも近い地の利。賃貸料も月何千万円という単位
である。そこに入居することは、トップ企業の証明であるかのように思われていた。
“一つ、あそこを狙ってやろうか”
  V宿のビルの下交渉で親しくなった不動産業者に相談すると、たちまち目を輝か
せた。契約成立となれば、手数料だけで2000万円を越えるのである。しかし金
を出せば誰でも入れる、というわけではなかった。権威という付加価値をつけたい
ビル側(大京)の内容審査は厳しく、やっと名が売れ始めたばかりの宗教団体に簡
単に貸してくれるとは思えなかった。
 とりあえず本部に相談すると、大川は身を乗り出してきた。ダメでもともとでは
ないか、とりあえず挑戦してみよう。その気になって、大いに私を励ましてくれた。
中小企業が、一気に一流企業の仲間入りをするのである。会の礎として献身してき
た私にも、それは愉快なことである。
 大京の事務所へ行くと態度こそ丁寧だったが、こちらを軽く見ているらしいこと
は、私にも推察できた。〈幸福の科学〉などという名前は聞いたこともないのだろ
うから、それもしかたあるまい。この敵をどう攻略してやろうか。私はいつの間に
か、“紀尾井町ビル入居”をゲーム感覚で楽しみ始めていた。


96 名前:名無し ウん@お腹いっぱい。 投稿日:2002/02/03(日) 17:45
「虚業教団」96 (第5章−3) 
 次の折衝のときは、建設中のビルヘ案内された。まだ骨組みしかなかったが、鳥
カゴのようなエレベータで21階まで昇った。物凄い恐怖と、春とはいえ、寒々と
した曇り空だったことをよく覚えている。東京を睥睨するような、素晴らしい見晴
らしだった。
 あんな高みから見おろしたら、入の心や生活はますます見えにくくなるだろう。
 今にしてそんなふうに思う。しかしあのときの私は、そんなことを感じるゆとり
はなかった。高所恐怖症者のように、自分の高さが怖くてしかたなかった。
 事務所に帰った私は、見てきたことをさっそく大川や幹部連中に話した。私自身
いくらか興奮していたかもしれない。当初は夢物語でしかなかった。それが次第に、
大きな期待となって膨らんでいった。
 ついに高級霊からの指示があった。
 「高級霊から指示が下り、九次元霊全員が新宿ではなく紀尾井町ビルに移れと言
っている」ある朝、そんな神示が大川から披露された。
 ご存じない方のために言 チておくと、九次元というのは人の霊としては最も進化
した人々のいる世界で、仏陀、キリスト、アラー(高橋信次)、モーゼ、孔子、
ニュートンなどが九次元霊である。その霊たちがこぞって、「紀尾井町ビルに移れ」
と言っているという。私にとっては、いよいよ話が面白くなってきた。
 例の業者と作戦を練った。まず、新宿のビルのほうで内諾をとり、その信用で大
京側を落とそうというものだった。
 じきに大京から、もう少し具体的に調査したいと言ってきた。
 今度は細田局長をともなって大京を訪れた。質問は以前と同じだったが、私には
ピンとくるものがあった。私たちは、事務所としては最高の場所にある18階を希
望してその日の交渉を終えた。


97 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2002/02/03(日) 17:46
虚業教団」97 (第5章−4) 
外に出ると、細田が言った。
「ウチのスケールでは、ちょっと無理じゃないかね」
「いや、これはOKですよ。間違いない。ただね、18階は貸せないが、3階か
4階ならいい ニ必ず言ってきますよ」
 まだ小寒い陽射しの中を、私たちは西荻窪の小さな事務所へと急いだ。
 後目連絡があって、私の予感通り4階のフロアーを借り切ることになった。
 これが、〈幸福の科学〉における私の最後のご奉公になった。しかしそれを今、
複雑な気持ちで思い出す。この紀尾井町ビルが、会の拡大路線に火をつけてしまっ
たのではないだろうか。4月になると、高級霊から大川に「伝道の許可」が与えら
れ、会員獲得へ盛んに檄が飛ぶようになった。


98 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2002/02/03(日) 17:47
「虚業教団」98 (第5章−5)
 ○「『光の天使』から『光の戦士』への変質」

 1989年(平成元年)は、学習団体から伝道団体へと〈幸福の科学〉がその性
格をハッキリと転換した記念すべき年である。
 人材の用い方にも、拡大路線がはっきり現れてきた。
 中原や阿南がいなくなり、かわって大川が耳を傾けるようになったのは、営業や
組織づくりのベテランの声だった。○○生命営業本部長の黒 リ文雄、熊本で不動産
業者として成功していた坂本頼男、創価学会で会員集めに活躍した大沢敏夫などが、
会を動かし始めていた。
 大沢敏夫の登場についても、私は内心忸怩たるものがある。
 会の発足記念座談会で、大沢が「リュウホウ先生、リュウホウ先生」と発言した
ことはすでにお話しした。その後も大沢からは、「リュウホウ先生の下で活動した
い」というようなアプローチが何度かあった。しかし申し出は、やんわりと拒絶さ
れている。彼の辣腕に会をかきまわされるのを、大川は心配したのである。
 会の基礎が固まり、拡大がテーマになって、大川が思い出したのが大沢だった。
 あれほど敬遠していた大沢に連絡をとり、職員になる気があるかどうか確かめよ
という指示があった。その交渉役がまた私にまわってきだ。
 すでに私は、異を唱える気力も失っていた。会全体にも、ワンマン社長というよ
り神として、その言葉には絶対服従であるという暗黙の了解ができつつあった。
 大沢との話はうまくまとまり、まずは相談役という立場で〈幸福の科学〉を応援
してもらうことになった

99 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2002/02/03(日) 17:50
「虚業教団」99 (第5章−6)
 本部には、草創期の情熱とはまた違った熱気がみなぎっていた。
 そんな雰囲気の中で、あるとき関東地方の青年部の集会が開かれた。そこでは、
私が講演することになっていた。拡大路線をひた走る会の将来を危惧していた私は、
反省についてじっくり語ってみたいと思った。
 ご存じの方も多いと思うが、〈幸福の科学〉では大川の説く「現代の四正道」が
教義の柱になっている。「愛」「知」「反省」「発展」の四つを幸福の原理として、
自らの心を探究していこうという教えである。
 まわりが発展と知ばかりだったから、私一人ぐらいは反省を説かなければという
気持ちだった。反省こそ自己確立の最短コースであると、事あるごとに私は述べて
いた。自分の人生を振り返ることが、一番の修行法であり、また千に一つの間違い
もないということを、私は講演会のたびに繰り返し強調してきた。
 だから、この点にかぎっては私は青年部にひどく受けが悪 ゥった。理由はハッキ
リしている。〈幸福の科学〉の会員、とくに若い会員たちは、反省など大嫌いだっ
たのである。そんな面倒なことは避けて通りたかったのだ。
 性懲りもなく、この日も私は反省の必要を訴えた。
 私の話が終わると、関東地方の世話役だった俳優の北原宏一がマイクの前に立っ
た。彼もまた反省の嫌いの部類だった。
「反省など要らない。〈幸福の科学〉にこんな教えがあるのがおかしいんだ」
何人かの委員がハッとして私のほうを見た。
「おまえたちは若いんだ。反省なんかしているヒマがあったら、外へ出て何でもい
いからやってこい。何でもいいから会のために行動しろ」
 こんなアジテーションが若い会員には受けた。世話役といえども部外者の北原が、
本部講師の講演にイチャモンをつけるなど、本来なら間違ってもあってはならない
ことである。しかし“会のため”と言えば、それも許されてしまう。
そんなところにも、学習団体から伝道団体への会の変質が現れていた。

100 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2002/02/03(日) 17:52
「虚業教団」100 (第5章−7)
 私の記憶では、この北原が〈光の戦士〉という言葉を最初に使ったのではないだ
ろうか。ある集会の席でこう発言したのである。
 「私は〈光の天使〉にはなれないかもしれない。しかし〈光の戦士〉になら、な
れる。喜んで、会のために戦う〈光の戦士〉となりましょう」
 それ以降、〈光の天使〉よりも〈光の戦士〉のほうが、この会のアイデンティテ
ィーを示す言葉として一般的になっていく。
 大川の言う〈光の天使〉とは菩薩であり、利他行の実践者のことである。一方、
〈光の戦士〉は伝道者、ありていに言えば新しい会員を獲得し、たくさんの人を集
める活動家である。
 天使から戦士へ。これほど〈幸福の科学〉の変質を端的に物語るものがほかにあ
るだろうか。後のフライデー事件の際に示された、天使とは思えない攻撃的な姿勢
も、じつはここに始まっていたのである。
 北原の演説に沸き立ち、目を輝かせている若者たちを、私は講演者席から淋しい
思いで見ていた。この会での私の仕事はもう終わったのかもしれない。
 去るべきときを、私は漠然と予感した。


101 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2002/02/03(日) 17:53
「虚業教団」101 (第5章−8)
 ○「必然的だったフライデー事件への道」

 私たちの〈幸福の科学〉では、大川隆法の説く「愛」「知」「反省」「発展」の
四つが幸福の原理とされた。しかし今の会には、「発展」だけが残り、ほかの
三要素はすっかり抜け落ちてしまったという印象が私には強い。
 まず、愛。主宰先生には素晴らしい愛の言葉がある。しかし、愛の実践はどこに
も見つからなかった。実践なき愛に何の意味があるだろう。“与える愛”などとい
う言葉は知らなくても、生活の中で自然にそれを実践している人たちのほうが、
はるかに高次元の魂である。
 自宅前の道を掃くついでに、隣の家の前も掃いている主婦。電車の中でお年寄り
に席を譲る少女。夜遅くまで同僚の残業を手伝ってしまうサラリーマン。
 大川の本を読んで愛の発展段階をおぼえる前に、会員はそういうありふれた愛の
実践をおこなっている セろうか。
 もし、“伝道は与える愛の実践です”(大川きょう子『愛を与えることの幸福』)
などと言うのなら、あまりにも人を喰った話ではないか。
 次に、知。私たちはこれを求めてきた。そのために学習団体をつくった。しかし
大川が導入した試験制度は、彼の神理を一方的に受け入れるだけの“受験勉強”に
学習を変えてしまった。考えるという、本来の学習は必要ではなくなったのだ。
 ・・・宗教法人「幸福の科学」は“人間にとってほんとうの幸福とは何か”とい
うテーマを考えていく人びとの集いです。
 会の出版物にはそう書かれている。しかし自分で考える人間は、阿南のように去
っていかなければならない。〈幸福の科学〉では考えてはいけないのである。
 〈幸福の科学〉の優等生になりたい、試験でいい成績をとって表彰されたい読者
のために、かつての採点者として、受験テクニックをご披露しておこう。回答には、
体験的な含蓄のある話は避けること。霊言集の暗記に精を出し、抽象的な理論を展
開し、できるだけきれいごとで終わらせること。実人生の体験から神理を語るよう
なこ ニは、ゆめゆめしてはならない。どんなに神理に迫っていても高く評価されな
い。


102 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2002/02/03(日) 17:54
「虚業教団」102 (第5章−9) 
 さて、三つ目は反省である。イエスも仏陀も最初に反省を訴えた。ときには、そ
れを厳しく強いてもいる。大川も幸福の原理の一つに反省を挙げた。
 自分の心を見つめる反省こそ最高の修行法である、と説いたのは高橋信次である。
想念帯の曇りを反省によって取り除いていけば、誰でも本源の神に通じることが
できる。それが彼の教えの核であった。大川が反省を挙げるのも、こうした高橋の
教えの影響を強く受けているからだろう。
 しかし〈幸福の科学〉には何の反省行もなかった。そこが大きな問題であると、
私は常々感じていた。最近になって90年2月の『実践反省法講義』のテープを聞
いてみたが、そこにも、世間で言われているような“軽く浅い”説法があるだけだ
った。
 この講話でも大川は、反省が天上界につながる絶対条件であると一応は述べてい
る。高橋信次そのままだから、そんなことは高橋の本を読めば誰にでも言える。し
かし知らない人はここで、「大川隆法はすごい」と思ってしまうのである。大事な
のはそんな理屈ではなく、ほんとうの反省があるかどうかである。


103 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2002/02/03(日) 17:56
「虚業教団」103 (第5章−10)
 では、大川の反省法とはどのようなものか。
 @「小欲知足」を理解しなさい。
 A他のせいにするな、原因はすべて自分にあると理解しなさい。
 B自分の欠点を修正していく努力が大切であると理解しなさい。
 この三つが講義の柱になっている。頭で理解することと反省とは、まるで違うは
ずだが、それは措くとしよう。講義の後に、大川による反省瞑想指導がある。
 「ハイ、足ることを知らないでいた自分について思い出してください」
 そして、15分ほど無言がつづく。そのあいだ参加者は、足ることを知らなかっ
た自分を必死で思い出しているのだろう。
 「過去、他人のせい ノしていたことがなかったかどうか、思い出してみてくださ
い」「ハイ、自分の欠点を直す努力をしたかどうか思い出してください」
 信じられないことに、これが「実践反省法」のすべてだった。なんとつまらない
反省であろう。こんなものでは、そこにいた全員が、もうそれっきり自分からは
二度と反省などしないことは断言できる。反省といっても、〈幸福の科学〉では
この程度なのだ。反省のないところに、正しい発展はあり得ない。
 反省のないところに、正しい発展はあり得ない。
 あのフライデー事件も、反省なき発展の結果ではなかっただろうか。


104 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2002/02/03(日) 17:57
「虚業教団」104 (第5章−11)
 ○ 「これがフライテー事件の真相だ」

 あのフライデー事件における〈光の戦士〉たちの行動を思い出してみよう。
 フライデー事件の背景となったのは、大川が90年に発表した「サンライズ計
画」、翌年の91年にブチあげた「ミラクル計画」による会の極端な膨張である。
 私が退会した89年には実数で1万数千人の会員がいた。それが90年になると、
わずか1年間で17万に増えている。
 さらに「ミラクル計画」では、91年に100万人、92年に300万人、93
年には会員1000万人を目標に設定した。正常な判断力があれば、この計画その
ものに、すでに異常が潜んでいることに気づくだろう。しかし、仏陀が掲げた目標
である。会員を動員し、出版、新聞、テレビ・ラジオを使った大キャンペーンが打
たれる。その経費が20億円とも言われている。その結果、91年には200万人
を突破し、92年をすぎると、会員のあいだでは500万、700万という数字が
噂されるようになる。
 仏陀の宣言した目標は着実に達成されているのである。
 もし、この数字がほんとうに達成されていると信じる会員がいたら、おめでたい
と言うしかない。私のところへ集まってくる話では、実数はせいぜい100万人。
しかも、そのほとんどは、おつきあいで入った月刊誌だけの誌友会員である。熱心
な会員と呼べるのは10万人程度ではないだろうか。大川の説く神理に実践がとも
なわなかったように、会員の数も実態のともなわない数字でしかない。
 それでも目を見張るような発展ぶりである。86年に開かれた発足記念座談会の
聴衆はわずか70人。それが5年後には、東京ドームを満席にするのである。たい
へんな躍進と言わなければならない。


105 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2002/02/03(日) 17:59
「虚業教団」105 (第5章−12) 
 しかし、出るクイは打たれる。短期間に急成長を遂げ、紀尾井町ビルのワンフロ
アを借り切って、華々しいキャンペーンを繰り広げている新宗教に、マスコミが噛
みつかないはずがない。霊能力者ならずとも予想できることである。
 案の定、〈幸福の科学〉バッシングが始まった。
“御生誕祭”の2ヵ月後、写真週刊誌『フライデー』に批判的な連載記事が掲載さ
れる。「急膨張するバブル教団『幸福の科学』/大川隆法の野望」。記事は悪意と
中傷に満ち満ちちたものだった。すでに自分の生活に戻った中原幸枝のプライベー
トにまで、無遠慮にカメラが向 ッられた。なかでも大川を激怒させたのは、「学生
時代の大川はうつ病で精神科医にかかっていた」という箇所だった。
 名誉棄損罪で出版元の講談社と、フライデー編集長を東京地裁に告訴。講談社に
は300人あまりの会員が抗議デモをかけ、同時に抗議電話が殺到。ファックスも
絶え間なく送られてくる抗議文に占領されて、業務にも支障をきたす事態になった。
 「これは宗教戦争であり、聖戦である」大川はそう宣言している。
 前後の会の動きを、私が知り得たところをもとに再現してみるとこうなる・・・
 まず、会としての対応を検討するために、紀尾井町ビルの本部に課長以上の幹部
40名ほどが招集された。会議は前後2日におよんでいる。最初は、「こんな写真
誌の記事は無視しよう」という穏健な意見が大勢を占めていた。それに対し、大沢
敏夫ら数人の幹部が「そんな意気地のないことでどうするか」「今こそ仏陀様に恩
返しするときである」と強硬に主張して譲らなかった。
 両者の議論は白熱し、会議というよりはケンカに近い様相を呈してきた。
 このとき穏健派を代表していた幹部の一人、前川節が主宰室に呼ばれている。
何事かを大川と話し合い、再び席に戻った前川はすっかり大沢グループに豹変して
いた。これがその場の情勢を一変させる。“正義のための闘い”へ向かって動き出
したのである。

106 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2002/02/03(日) 18:00
「虚業教団」106 (第5章−13)
 この会議の最中、大川家から2度ほどファックスが送られてきた。
 「大衆受けするよう整然とした隊列をつくること。目立つように盛大におこなう
こと」といった内容が記されていた。講談社への抗議デモの具体的やり方を、主宰
夫人が指示してきたのだ。おそらく抗議デモの一件は、大川夫妻と大沢のあいだで、
あらかじめ決定されていたのだろう。
 会議の参加者は、そのまま中野にあるオリンピックビルの研修場へ移動した。そ
こにはすでに、関東支部の会員300人ほどが動員されていた。彼らを前に、大沢、
そして大川が拳を振り上げながら熱烈なアジテーションをおこなっている。
 「我われは、魔に対して断固として闘う。キリストをはじめ、天上界の天使たち
もそうせよと言っている」と、天狗の団扇を正面に突き出して宣言したのだ。
 右の頬を叩かれたら左の頬を出せと説くキリストが、まさかそんなことを言うと
も思えないが、霊言とはまことに便利なものではある。かくして、講談社へのイヤ
ガラセ部隊の出陣となった。
 しかし、この滑稽劇にはまだ続きがあった。デモ終了後、会員たちは再び研修場
へ戻り、講談社への抗議文を書かされた。ほとんどの参加者はそのとき渡されたコ
ピーで、はじめて記事を読んだ。主宰先生の結婚式の写真なども載っていたから、
大川の私生活についてぱ何も知らされていない会員たちは、大喜びで読みふけった
という証言もある。デモで疲れているのに、さらに「抗議文」を書けという。被害
を受けた感じもしないので何を書いていいかわからず、戸感った参加者も少なくな
かったらしい。
 こうした会の対応が世間の批判を浴びると、景山民夫らが中心となって「講談社
=フライデー被害者の会』を結成し、市民運動を装いながら抗議を法廷へ持ち込ん
だ。
 もちろん市民運動でも何でもない。言うまでもなく、〈幸福の科学〉本部の指示
でつくられ、命令にしたがって動いている。また、抗議電話や抗議ファックス
に関しても、「止むに止まれぬ気持ちから会員が自発的におこなったもの」と会は
釈明したが、たとえ止むに止まれぬ気持ちからでも、本部からの指令に基づいてい
たであろうことは断言してもいい。会の体質からして、大川の指示がなければ何一
つできないのである。


107 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2002/02/03(日) 18:01
「虚業教団」107 (第5章−14)
 阿南事件で残った古い会員も、フライデー事件をきっかけに多くが会を去ってい
る。拡大拡大できた会員の獲得もかげりが現れ、資金面で行き詰まっていると聞く。
フライデーは、まさに〈幸福の科学〉のつまづきの石になった。景山民夫や小川知
子らが、もうしばらくの間は続けるであろう熱唱にもかかわらず。
 そこで思い出すのが、昭和31年に起きた立正佼成会の読売事件のことだ。
 昭和31年1月から、読売新聞は大々的な反・ ァ正佼成会のキャンペーンを張っ
た。発端となった土地買い占めは、会そのものとは無関係だったことが間もなく判
明するが、キャンペーンは教団幹部への個人攻撃や教義内容の批判へ発展し、およ
そ3ヵ月間にもわたってつづいた。36万の信者世帯をわずか1年で30万に激減
させたというから、その激しさを想像できる。
 これに対し立正佼成会は、関係機関に内部調査の結果を配った以外は、完全に沈
黙を守った。「読売の記事がウソなら佼成会は告訴すべきではないか」という声に
も、報復は宗教団体のとるべき道ではないとして動こうとしなかった。
 攻撃の止んだ4月になって、次のような文章が『佼成新聞』に発表されている。
「われわれは批判に対してなんら躊躇する必要はないし、むしろ私どもに足りない
所があるなら、もっともっと新聞に書いて、諌めていただきたいくらいです。衷心
から感謝申し上げると同時に、私どもはいつでも多くのかたの批判をありがたく頂
戴し、自分に至らないところがあれば、即座に直すだけの寛容さがなければなりま
せん」そして、自分たちを高めてくれる師として、”読売菩薩”と呼んだのである。
 このようなものを反省と言うのではないだろうか。


108 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2002/02/03(日) 18:03
「虚業教団」108 (第5章−15) 
これに反し、「反省とは自らを省みるということ。他を責めるという気持ちから、
自らをもう一度振り返ってみる。こういう考えが大事です」(『不動心』)
 こんな一般論を、いくら口先でしゃべってもダメなのだ。
 高橋信次は「反省こそが法なのだ」と繰り返し語っている。「人につかず、組織
につかず、法につけ」は生前の口グセだった。フライデー事件は、人につき、組織
につき、かわりに法をなくしてしまった会の実態を、衆目にさらしたのである。
 仲間と一緒に夢を抱き、命懸けでつくりあげてきた〈幸福の科学〉。こんなもの
をつくるために、私たちは人生をかけたのか・・・。
 それはすでに、私たちがつくろうとしたものとは、まるで違うものだった。
 中原よ・・・。君は「信次先生のご逝去以来、ようやくの思いで心の師となる人
を見つけることができた」と私たちに語った。あのときの輝きに満ちた君の表情を
今も思い出す。しかしその人は、少なくても私たちの心の師ではなかった。それで
は、いったい何が私たちに、あの青年を心の師と思わせてしまったのだろう。
 中原よ。あれほど厳しく自分の心を見つめようとしていた君も、阿南も、私も、
肉体を持つ誰かに神を、生きる指針を、見いだしたかったのだろうか。

109 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2002/02/03(日) 18:05
「虚業教団」109 (第5章−16)
 ○ 「〈幸福の科学〉との決別」
 
 89年の6月15日に、私は「嘆願書」を提出した。
 「私はかねてより、自分の器の小ささを自覚しておりました。したがっていつも、
幸福の科学のスタート時点にささやかなお手伝いぐらいしかできないと決めて頑張
って参りました。今ちようど幸福の科学は最初の走り出しが終わり、これからは発
展がとめどもなく続くという時点にきていると考えます。私の役目もひと区切りつ
いた今、健康上の問題もあり6 肢齡tで、全ての役職、職務を降りて一会員とさせ
ていただきたく嘆願いたします」
 このときは、退会しようというハッキリした気持ちがあったわけではない。役職
についていることが、もう苦痛でたまらなかったのである。ロンドンヘ渡り、医師
にかかりながら、しばらく静養することだけは決めていた。
 大川も「それならしかたない」と1カ月の休暇をくれた。
 7月に入って、大宮で大講演会が催された。会場の入口には長い列ができ、聴衆
は数千人にもふくれあがった。その日は、私が司会者をつとめることになっていた。
 “先生には申しわけない” 大川の講演を聞きながら、そんなことをしきりに思
った。いつものように演壇の隅のイスに座り、聴衆に対していた私の目に映る人々
の顔、顔、顔。そこにいるすべての人が、なぜか愛しくてたまらなかった。
 講演会は大成功だった。無事に終了したとき、いつにも増してホッとした。自分
の役目がすっかり終わりでもしたかのような、快い虚脱感をおぼえた。
 翌日も、その翌日も、私は出勤しなかった。
 そのまま出立の日がきて、私はロンドン w向けて機上の人となった。
 ロンドンでは晴れあがった青空が私を歓迎してくれた。本部の細田事務局長に宛
てて正式な辞表を送ったのは、1ヵ月後のことである。2週間ほどすると、100
人近くいた職員全員からのラブコールが届いた。「早く戻って来て、また一緒にや
りましょうよ」と、趣向を凝らして寄せ書きされた7枚の色紙。それを手にして、
涙が出るほど嬉しかった。しかしそのときは、もう私の心は決まっていた。
 これからは一人で充分だ。一人で修行を重ねていこう・・・。



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