アンケートで寄せられた声 比丘尼さん<1>

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日付 : 1 Jan 2001
[名前] 比丘尼


[幸福の科学に関する意見]
いったんこの地上に生まれますと、たとえ高級霊でありましょうとも、ゼロからのスタートであり、反省という心の浄化を通し、自らの偉大な使命にぶち当たるのでございます。
残念ながら、先生ご自身は完全主義者であり、自らを飾るプライドや自己顕示欲をもっておられます。
総ての方の霊言を降ろせることを自らの聖なる使命とし、常に神の御前に謙虚であれば問題はなかったのですが、自らの優秀さを自負し、人を見下す尊大な態度をおもちであり(これは一貫しており)、霊人に注意を受けたりなさったはずでございます。
しかしながら、この世の欲に惑わされ、自らを省みることなく、いつしか、教団の拡大と、自らを「生き神さま」となさって参られました。本来の道を大きくはずれております。
六大神通力は持っておられませぬ。
たとえ持っておられましても、今世、花開いてはおられませぬ。
総ては霊人の力をお借りして、霊言も成すことができたわけでございます。
ですから、心曇ればご協力を得られないのは当然のこと、一目瞭然であります。
我らはすべからく、このような状況下にありまして成行きを見守っておりましたが、会の内部にある純粋な会員さんを、これ以上迷える子羊とはしたくありませぬ。

先生は、必ずや反省を余儀なくさせられます。
もう一度、原点に立ち返り、ゼロからスタートしていただきたいというのが、我ら一同の願いでもあるのです。これ以上、神の名のもとに、恥ずべき行為をしていただきたくありませぬ。
会の要に立つ方の心が、会の中に反映され、間違っている場合は、内部の腐敗・混乱を招き、会を分裂へと招いてしまいます。
仰っていることがいくら正しくとも、<<思いと行動>>を自らもまたそれを実践せずばならぬことは、一会員でありましょうとも指導者でありましょうとも、同じでございます。
指導者であれば尚さらのこと、それ以上のものが要求されて参ります。
慢心の心あれば、そのような心に波長同通でくるものがいかなるものであるか、お察しいただけるはずでございます。


日付 : 2 Jan 2001
[名前] 比丘尼


[幸福の科学に関する意見]
先生のお役目は<<法の集大成>>を書籍として著わし、広く世に知らしめること、高橋先生のお役目は、本来の神の子としての、丸く豊かな心に立ち返るための、心の教えを説き、<<過去世の証明としての現象>>を行なうこと。

「現象」の前提には、反省により調和された心の存在意義があり、悟りの前提に反省は必要不可欠でございます。

師はあって無きがごとく、師の不在(現在の会)に心揺れ動くことなかれ。
法に帰依して、自らの潜在意識をひもとく努力をなさってゆかれませ。
師の代わりとなる方を他に求めても、決して自らの心を癒す方は出て参られませぬ。
自らの心を癒すのは、自らの努力と、神を信じ、時に心を委ねること以外にはありませぬ。


日付 : 5 Jan 2001
[名前] 比丘尼


[幸福の科学に関する意見]
これよりのち、上層部の方々が真実を覆い隠してきた事柄の一つひとつが、暴露されて参ります。
関谷さまのおやめになられた後の、まだ知られざる真実はございます。それらは、表面化させないように、幹部の方々により隠し通されて参りましたが、総ては、心ある会員さんの前に、白日のもとに曝されます。
それは「幸福の科学」を分裂させるためではなく、原点にもう一度戻るための、会を再結成するゼロからのスタート、とお捉え下さいませ。天上界からの働きかけでございます。
会の内部に在る方へ、「心ある方ならば一時期、退かれよ」と申し上げとうございます。
水が高きより低きへと流れるように、サンガーの現状は総て元から発されてきたというのが本当でございます。水の上流が泥や砂で濁っておりますれば、下流へはどのような水が流れて参るか、ご想像はつくと思います。
「法」そのものが、たとえ如何に素晴らしきものでありましょうとも、地上にある人間の心に曇りあらば、それを慎重に丁寧に、心の曇りを取り払った状態で扱わねば、汚れものとなってしまいます。
役職に携わっておられる方も、現役から遠ざかっておられる方も、(上部にあって)「秘密厳守・口外してはならない」と、その場にて言わせた方々は、自らの思いと行ないの(神様のお心とは違った行為の)反省を、深くしていただきとうございます。
会員を騙すことはできたつもりでも、総て神の知るところであります。(神様の世界には、自己保身の心も、本音・建前も総ては通用いたしませぬ)
かなりの方々が、反省を余儀なくさせられます。

先生に関しましては、もちろんのことでございます。
これは神の法則であり、理であります。
神から流れてくる水は、清らかなる「法」でございます。この「法」を受け止める方の手に、ドロがついていてはならないのです。自らの心の汚れを落とし、恭しくおし頂き、その清らかなる「法」の水を流していかなくてはなりませぬ。


日付 : 6 Jan 2001
[名前] 比丘尼


[幸福の科学に関する意見]
今の会の現状は、心の教えはどこへやら霞んでしまい、浄財を集めることだけを中心に据えております。神の名を騙り、純粋な会員の皆様を迷わしめるようなことをしてはなりませぬ。神々は、金銭を要求なさったりは致しませぬ。行事やセミナーは、会の運営や、金銭欲にほかなりませぬ。(度を過ぎれば、横道へそれてしまうということでございます)
皆様方は真実の心の眼を開き、よく見極めて正しい判断をしてゆかなくてはなりませぬ。
神の名を汚しめてはなりませぬ。その判断もつかぬ愚かな心では、神理を学ぶ意味がありませぬ。ものごとの本質を見抜く力こそ、培われなくてはなりませぬ。
素直に会の方針に従うことが信仰ではない、ということを、、、。
それらはすべて、自らの真我なる心に問うてゆくことこそ筋であります。人に問うのではなく、判断に迷ったらまず「自らの善なる心にこそ問え」と申し上げとうございます。

ここで一言申し上げておきたいことは、<幸福の科学>に入会していないと幸福が約束されないわけでは決してなく、また、脱会する方が不幸になるわけでも決してありませぬ。神の心にかなった、主体的な生き方が大切であります。会の現状を見るにつけ、人間とはいかに恥ずべき存在か、この世の欲や地位や名誉・肩書・学歴・プライド、、、本当にこのようなものが、どれほど心を曇らしていることかをお分かりいただきとうございます。

多くの方々は脱会を考えておられますが、汚れたる会の中で沈黙と忍耐で生きるか、心を自由に解き放ち会を離れ、もう一度、今度は「法」をよりどころとして、いずれの宗教団体にも属さず、神のお心を心として生きるかの岐路に立って思案なさっておられます。

自らの内なる心をこそ深く掘り進んでいくことが、神へと通ずる道でありますことは真実であります。たとえ、どの宗教団体に属しておられる方でありましょうとも、この一点が看破できなければ、悟りへの過程を歩むことは不可能とも申せます。

また、会を離れ、他の団体へ、心の穴をうめるためには、師ともいうべき存在を捜し求めて行かれる方もありましょうが、どこへ行かれても、心の安らぎ、真なる安らぎを得ることは不可能と申せます。師を求めてさ迷い歩くのではなく、自らの奥に眠る<<神への道>>を、この泉を掘り当てることにこそ、全力を注ぐべきであります。

会からの離反は、指導者に対する沈黙の抗議と捉えてよいと思います。なぜならば、誰一人として喜んでこの会を離れるわけではないのですから、自らの心に良心の呵責を感じるからこそ、(たとえブッダの率いるサンガーでありましても)誤てる方針には従ってゆくことができないのでございます。
人間は、自らの良心にウソをつくことはできないように創られているのです。
あなた様ご自身も、会の動きが伝道に走りはじめた頃から、間違った方向にきているとお気づきになられ、しかし、いつかきっと理想の団体になると願ってこられましたが、心ある会員さんは離れてゆかれ、(一方、会は)植福を強要するような悲惨なる状況となって参りました。
もう、ここまできますれば、元を正さない限り、かなり難しいものがあります。

真実の 神を求めて 行く先は
内なる心に 深くうがちて 


日付 : 8 Jan 2001
[名前] 比丘尼


[幸福の科学に関する意見]
ものごとには、総て両面がございます。
会を辞めるということに関しては、良い面と悪い面と両面もち合わせております。
沈黙の抗議として辞めることにより「長」に立つ方に反省を促すという意味と、反面、心ある会員が減ると、下の者に操られている(あるいは、目隠しの)方々が残りますので、会の混乱分裂を喜ぶ魔界のものが跳梁跋扈しやすくなります。ですから、総てがベストではない、ということもお含みおきください。
しかしながら、内部に留まりて中から修正してゆくのは、もはや今となっては難しいと申せます。

仏陀さまは、五十年「法」を説くとおっしゃったのでございます。
あなた様の心中、お察し申し上げますが、あなた様は、愛するわが子が健康な時だけ愛して、病気になったからといって見捨ててしまいますか。そんなことはないと思います。病気の時こそ、その身を案じて一生懸命、看病をするのではないでしょうか。
ならば、偉大なる法を預かり降ろす方を尊敬し敬っておられるのならば、師の良好な時だけ誉めたたえ、師が心病んだ時は手厳しく批判をなさいますか?
いいえ、そうではないはずです。このような時こそ、心から回復を祈るのが真の仏弟子ではないでしょうか。このスタート点の心の在り方が間違っていたら、会を正しく修正していただきたいという思いは、真に心から湧き上がってこないし、単なる非難、批判で終わってしまうものと思われます。
一時期、会を離れるのは、心ある方にとりまして致し方のないことでございます。

神は、人々の心の過ちをその方が気付くまで、永い永い時をずっと待ってこられました。
それは、子を思う親の愛です。その中には、寛容と許し以外の何物もありません。
師の、一日も早い心の回復を願い、ただいたずらに騒ぐのではなく、未来に希望と夢をもってゆくことが大切です。
いずれ必ずや、お気づきになられる日がやって参ります。
肉体をもって修行させられているのですから、必ずその中に学びというものが含まれており、一般の方であろうと天使であろうと、その学びを掴みとれなければ、それまでです。

神を信じ、正しい心で生きてゆかれませ。我らがしっかりとお守り致します。
人の言葉、念に縛られませぬようにご注意なさりませ。
この世界は、一歩間違えば危ない世界でございます。くれぐれも、良識ある判断をなさってゆかれませ。

神々は、ただ黙されて 語らねど
救いの手をば 常にさしのべ


日付 : 14 Jan 2001
[名前] 比丘尼


[幸福の科学に関する意見]
まるで、漕ぎ手を失った船のように、サンガーは一人歩きを始めてしまいました。
会が間違った時は必ず軌道修正が入るように、万が一の時を考えて計画は綿密になされており、この救世の聖なる偉業がいかに失敗の許されないものかを、お分かりいただきたいと思います。
本来、神より流れくる法とは、崇高なるもの。たとえ神近き高級霊でありましょうとも、この法を神より預かり降ろす際に、汚れたる心であってはならないのでございます。
決して、手垢のついたものとしてはならないのであります。それほど清き、尊きものでございます。純粋な心で謹んでいただくことこそ、礼儀というものでありましょう。
地上人の汚れたる心で法をいただくことこそ、神の子としての在り方を問われるといっても過言ではありませぬ。


日付 : 19 Jan 2001
[名前] 比丘尼


[幸福の科学に関する意見]
肩を落として(会の在り方に)離反してゆく方あり、かたや、喜びと共に入会してくる方ありでございます。
辞めてゆかれる方の大半は、そこに集う会員の皆様方の言動をごらんになり、そしてまた、会の打ち出される方針や、植福の強要や御本尊やペンダントの強要を遺憾に思っております。すばらしい教えとは裏腹に、会の内部が他の宗教と変わりなく、「幸福の科学」も地に落ちたと思っておられる方が大半であります。
会の、内部に関する反省はない現状です。

偉大な覚者であるならば、人に言われてはじめて会の状況が分かるなど、あり得ないことです。自らの意識をそこに集中すれば、会員一人一人の心の在り方、やめてゆこうとしている方の心など、読み取れぬはずがございません。「会から脱落していっている」と見るか、「愛想をつかせて会を離れたがっている」と見るのか、その見方の違いでも、大きくものごとの判断は変わって参りましょう。

何かが、何処かですり替わっているこの真実をこそ、見抜くことができなくば、真に仏弟子とは申せませぬ。学びが真に深まれば深まるほどに、ものごとの真実を正しく見極めることができるのでございます。どのような事柄に対しましても、常に問題意識をもって取り組むことが大切でございます。
心ある会員の皆様の離反を真剣に捉え、先生をはじめとします上層部の皆々様が心から反省し、法を伝える者としての心の在り方を正さぬかぎり、いくら形を取り繕ったところで、離反してゆく方は出て参りましょう。

この問題に関しましては、どのような軌道修正がなされ、長たる方や上に立つ方々の、心の内部の点検・修正をも答えとして出さなければ、それは、まことの答えとはならないのであります。
「長」をはじめとする内部上層部にある方々すべてにとりまして、厳しい試練の時となりましょう。この答え如何によって、神々は新たな手を打たれることになります。
総て心はガラス張りであり、地上人の心は騙せても神々はお見通しであるということでございます。誠心誠意をもって、反省を願うばかりでございます。


日付 : 19 Jan 2001
[名前] 比丘尼


[幸福の科学に関する意見]
『虚業教団』は、当会内部で、悪魔(サタン)の本だから読んではいけないと流した上層部の方もございますが、本音は当会の真実を知られては困る内容だから、そう申すのでございます。たとえ神様でありましても、人間の心の創造性・主体性・その思い・行動に対し、束縛することはできないことになっております(これは、してはいけないことなのでございます)。たとえ何びとに対しても、その心を縛り、がんじがらめにするようなことは、神であっても、許されない行為なのです。
それが当会の中では、「軍隊」のようで、はなはだ遺憾と申せます。
「当会に関する異論、非難はまかりならぬ。中央の指示には絶対服従」と、なぜこのような言葉がまかり通るのでしょうか。火のないところに煙は立たぬという言葉通り、やましき故に、包み隠そうとしている行為とも申せます。このようなことが、いつまでも続く訳がございませぬ。神の目は、総てお見通しであります。
恥を知りなされ、と申し上げとうございます。
「神の目をも恐れぬ行為を何といたすか」──この問いに答えることのできる上層部の方は一人もおりますまい。

パスカルの言葉にも「人間は考える葦である」とありますように、本に関しましても、一人一人が自らの感じる心で先入観を捨て去り、「人に言われたから読まない」ではなく、自らの悟りを求める心で判断していただきたいものでございます。

関谷さまの本は、読む人の心に、一種の感動を与えます。
なぜでしょうか。私心が無いからであります。『師』と『会』の行方を案ずる無私なる心が、そこにあるからであります。

一人立つ 我をはげます かげありて
内なる声に 心澄ませて


日付 : 25 Jan 2001
[名前] 比丘尼


[幸福の科学に関する意見]
たとえ高級霊といえど、長たる方も肉をもつ身、、、その方の傾向性(考え方の)、行動パターンに間違いは絶対にないか、と申しますと、そうではございませぬ。
いずれの方もすぱらしい方と尊敬の心で接しても、考え方・思い・行動となりますと、各自違って参ります。それは決して、自らと一緒ではない、ということでございます。
協調性・調和は大切ですが、思い・行ないの責任は、判断を下す各自自身に委ねられております。それゆえに、各人の心を思いのままにし、その考えを縛ることなど、たとえ高級霊であっても(神様でありましょうとも)できない理由がそこにあるのでございます。

各人の心の王国には一切介入できない理由をふまえた上でアドバイスなさる時は、その方の器・その方の心境に合わせ理解度に合わせて、お話をなさることが大切となって参ります。アドバイスはあくまでもアドバイス、最終的にはご本人様が選びとるわけですから無理がなく、この鉄則を無視し、自らの考えのみを強く前面に押し出しますと、相手を自らの意のままに動かそうとする念で縛るようなこととなって参ります。
残念ながら「長」は今、そのようなお心の状況で、会員をがんじがらめにしようとなさっております。これを見破らねばなりませぬ。

ことばは言霊でございます。
男性の中にも「正語」の反省をしなくてはならない方もいらっしゃるように、お見受け致します。(「正語」の反省は、何も女性だけの特権ではありませぬ)
霊道を開いているなら尚さらのこと、こころの統御・言葉の調律・思いと行ないの一致(正しき神のお心を基準とした)、そしてその根底には、神からいただく愛と慈悲に対する感謝、そして周りとの調和・思いやり、、、、これなくば、霊道を開いていても神様の役に立つことは難しくなって参ります。

人間であるからこそ傲慢とならないように、植物の生きる姿や太陽が無償で愛の光を投げかける姿を学ばれ、自らを高しとするのでなく謙虚に生きることを、総ての霊道を開いている方に願いたいのでございます。
その能力をひけらかし、他を省みることもなく、ましてや、他の意見を聴く耳ももたず自らの考えを押し通したのでは、神も(ご覧になられ)決してお喜びにはなられますまい。
自らの考えを絶対と過信した時に待ち受けているのは、転落であります。
その方の「徳」をもって人を生かすならば、これこそ神の喜ばれる形であります。

たとえ霊格の高下はありましょうとも、一人一人の中から学び得るものは大きいのです。自分よりすぐれた人物かもしれませぬ。年齢の高い低いも関係ありませぬ。
総てを学びの師とすれば、すばらしい宝石があちこちに輝いているのでございます。
これを発見できなくば、その眼は曇っているとしか申せないわけでございます。


日付 : 25 Jan 2001
[名前] 比丘尼


[幸福の科学に関する意見]
総ての方に申せますことは、自分より上位にある、神近き方でありましょうとも、その考えを絶対だと思ってはなりませぬ。(心の針が善なる方向を向いているならともかく、明らかに違った方向に向いていて、このような状況下で指導しているものが天上界の方とは思えませぬ)
自ら咀嚼し、吟味し、自ら自身、納得し、心から共感し、そのように深い考えに到って、はじめて答えが出せるのです。言われるままに従うことが、信仰ではございませぬ。
当初、神が念いにより人間をお創りになりましたように、各自、念いの自由は、神の子として同じく持っているところの「神の子の証し」でございます。
総て、上位の意見を鵜呑みにすることをベストだと思う方よ、ならば各自「念いの自由は放棄してもよい」ということと同じではありませぬか。

一人一人の心を尊重し、多くの人々の支えにより生かされていると確信するならば、会員の誰一人切り捨てることなく、見捨てることなく、大切に大切に扱ってきましたか、総て幸せにできましたか、とお尋ねしとうございます。
否でございます。

天上界の意志として修正を願う部分を常に大局的見地に立って考える方が、一人でも多く出られんことを祈っております。総ては神のみ手の中、大いなる流れの中におかれておるのでございます。人間心で考えれば、それは決して見えなく、分からなくなって参ります。この計画を担う一員としての自覚を、総ての方にもっていただきとうございます。

関谷さまを、現代のユダだとか、一千万で講談社に売ったとか、汚い言葉が乱れ飛んでおりますが、真実、「軌道修正への提唱」ということが分かる方は非常に少なく、嘆かわしい限りでございます。このようなことを言っているようでは、反省の心も気づきもないように感じとれます。
「長」をはじめ、上層部の良識なき方々は、謙虚に反省し自らを省みることなくば、どのような反作用が待ち受けているか、知る由もございませぬ。哀れなことであります。(ご本人が気づかなければ、いくら人に言われたところで、反省というものは出来るものではないのです)
反省なくして魂の浄化なく、心磨かれることもないのです。ましてや、関谷さまに対し、サタンの本などと「そのような言葉が出る自らをこそ省みなさい」と申し上げとうございます。

天上界の神々の目はごまかせませぬ。
上層部の反省なくば、さらに新たな手が打たれ、世間の良識ある方々に訴え出ることもありえます。神の心を指針として生きることが大事なのに、分かっておりません。
生き神様ではなく、見えざる神の眼をこそ、恐れていただきたいものでございます。


日付 : 8 Feb 2001
[名前] 比丘尼


[幸福の科学に関する意見]
神は、皆様方、一人一人の心の内に宿っているのであって、物に宿っているわけではありませぬ。ペンダントや御本尊で、人は救われるわけではございませぬ。
この心の在り方・思いの在り方・言葉・行動、、、総て(その心の思いに端を発するのでございますが)、その「心の姿」こそ、神はご覧になっておられます。
日々の、正しい、神のお心にかなった生き方の積み重ねこそ大切であり、自ら自身の心の浄化が、第一番目に為すべきことであります。
(書籍を読んで、頭でっかちの<<知>>になるのでなく)日々の生き方の中に、その心の点検の材料としての、書籍があるのでございます。
心の内を省みることなく生きれば、チリやアカをつけたまま、平気な顔で外を歩いているのと同じでございます。
人々の幸せを願い、出会う方々に「心の法則・幸福になる法則」をお伝えすることは大切です。しかし、まず自らの心をこそ、幸福にしてから為すべきでございます。

会の内部のあり方は、早々には変わらないものと思えます。
なぜならば、会の運営の資金は総て、ペンダント・御本尊・植福貸付で賄っており、印税は総て「長」のところへ入っております。会の本部が紀尾井町にある間は、長に立つ方の心は完全に変わってはいないと見るべきでございます。(経営難でビルから出る場合もありますが)
心の教えを隈なく述べ伝えることが本来の使命であり、その他、教団の維持は、枝葉の部分でございます。この枝葉の部分に力を入れ過ぎるゆえに問題が生じ、会員さんの離れる原因をつくっているのでございます。

王様に庶民の生活の水準は分からないように、このカルマを脱しない限り、「平等知の愛」を真に説くことはできないと思われます。
いくら<<知>>でわかっていても、書籍で説いても、観念の遊戯・机上の空論で(確かな心の手応えはなく)空回りするのみでございましょう。
差別知で人を見るからこそ、そこに自らの過去世にこだわり、自らを高しとし、慢心の心やプライドが出、<<生き神様>>として多くの人に崇拝されたい部分も出てくるということでございます。

<<平等知>>と<<差別知>>には、必ず接点がございます。この接点に向けて自らを限りなく近づけてゆくことが、真に大悟されるカギとなりましょう。我らも、それを願っておるのでございます。


Date : 8 Feb 2001
[名前] 比丘尼


[幸福の科学に関する意見]
今世の五十年間、法を説かれるという計画の中で、今現在、「霊言」が降りていない、ましてや反作用としての病が出ているこの状況からみて、ご本人様が自らの傾向性に深く気づき行き当たらねば、回復に時間がかかるものと思われます。
そして同時並行して、幹部の教育をやり直す必要があります。
自らが気づき、反省の試練を乗り越えることができなくば、幹部に反省を促すことも、その傾向性の修正も、真に修行者としての「謙虚で徳ある・愛深い人格者へ」と多くの人をいざなうことも、不可能となって参ります。

弟子(一番近い)で、飛ぶ鳥を落とす活躍をなさっている方の言動をみれば、師のあり方・現状・心のあり方が分かると言っても過言ではありませぬ。
皆々様は、講演会でしか「長」をご存じないように、普段の生活や幹部と接する姿・言動をご覧になっておられませぬ故に、真実がよく分からないのでございます。表面的な話し言葉でその人格を判断するのは、難しいと思います。
理想化してしまう思い込みだけは、避けなくてはなりませぬ。

心からの反省できずば、核心に行き当たらねば、「長」の回復は非常に時間のかかるものとなって参りますが、それはそれとして、たとえ師、病に伏すとも、この心の法則やあの世の世界の真実は、縁ある方々にお伝えしなくてはなりません。
それは、多くの人々に<<人間の意味・生きていることの意義・帰る世界>>を教えなくば、総ての人々が盲目のままに違った世界へと赴くことを意味します。
これをくいとめる必要があり、神々もそれを願っております。

会員になることを勧める必要はないのです。
この法を隈なく広く伝えることこそ、総ての方々の使命であるのです。
多くの方々の心の浄化をこそ願っております。


Date : 16 Feb 2001
[名前] 比丘尼


[幸福の科学に関する意見]
神のみ心に適った生き方をしている人々にとって、当会内部で行なわれる<<ご祈願>>をせずとも、平和で、安らぎに満ちた日々を送ることができるのです。
総ては、心の内なる思い一つで、ものごとは様々な形となって現われて参るのでございます。神と同じく、ものを創る力が内に秘められているのでございます。
ご祈願は、内部の経営の維持費確保の手段であり、教団が残るか否かを思いわずらうよりも、この神理が広く隈なく伝わり、人々が神のみ心に適った生き方をしてゆけばそれで良いのです。
自らの生活もままならず、ご祈願に走っておる方々を多くお見受け致します。ご祈願のみで、人は決して救われませぬ。

いかに素晴しい法が降ろされましても、実践なくば無意味と申せます。
そこに集う一人一人が、神理に適った生き方をし、心の雄大性に目覚め、真なる証として学び得た知を叡智へと変える、そのためにも自らの心の泉を掘り当てて、神の分け御霊としての証明をしてゆく、
そして善なる神のエネルギーをほとばしらせ日々を生き、身近な方々、接する方々に、良い影響を与えてゆくことができるのであります。
これが本道と申せます。

これらは、決して難しいことではございませぬ。
まず、八正道に則した生き方から入ってゆくことが、修行の第一段階であります。
総ての皆様がこのように生きる時、おのずとユートピアへと変わって参りましょう。

あふれくる 内なる宮の 岩清水
くめども尽きぬ 智慧の泉よ


Date : 24 Feb 2001
[名前] 比丘尼


[幸福の科学に関する意見]
主宰補佐のご講演が、衛星放送であることをお教えいただきました。
この度の関谷さまの本の内容に関し、離反していく会員さんに対して歯止めをかける意味もあるのでしょう。しかしながら、たとえ緊急事態で招集をかけましても(心ある会員の皆様方は)応じない方も多く出ると思われます。

人の道を説く立場にありても(たとえ自らが霊格高くとも)、善川先生に対する孝養を尽くしているとは言えない現状でございます。まず人に道を説くには、自らの誤りを正し、人の道を外さない生き方をしてのちに、説くべきでありましょう。
心ある会員の皆様方が離反していくのを、この原因が分からず、あくまでも今まで通りのやり方を続ける限りは、会員さんは目減りする一方であります。

人というものは、敏感に感じる心をもっておるのであります。この心は、善なる守護霊に通ずる心であり、疑問に感じる心でもありましょう。
「なぜ、どうして」ということに対する納得のいく説明ができなくば、会員さんの中には「自らの善なる心に反した生き方は出来ない」と思う方が出てくるわけであり、ここで苦しみが始まるのであります。
このような不測の事態を読めなかった当会の幹部をはじめ長となる方々は、今、躍起になっておるのでございます。正しいものを正しいままに会の中に反映させておれば、問題はなかったのです。会の外見ばかりを取り繕うことに力を入れすぎ、見せかけの大きさを維持するための経営資金を、行事や御本尊で補おうとしているところに無理がありました。

教義がたとえ正しくとも、経営のための運営費に力を入れ過ぎ、本来の、一人一人の皆様の心を正しく反省へと(心の浄化へと)誘うことができない現実がございます。
理論書では、方法(反省の)が載っておりますが、反省に対する一人一人の気づきがない限りは、当会の総ての書籍を読んだところで決して悟れませんし、師といたしましても、自らが反省について深く理解・体験できぬ限りは、それ以上に人々に反省を、心の浄化を指導し導くことは難しいものと思われます。(実体験として、自らがわかり得たところでしか指導出来ない、もどかしさがございます)
反省を強要することは許されませぬが、反省の大切さはくり返し何度も何度も、ご指導があってよいと思われます。


Date : 24 Feb 2001
[名前] 比丘尼


[幸福の科学に関する意見]
三次元的愛といわれているところの<<愛する愛>>に関しましても、同じことが申せます。
身内に対する愛のところでつまずいておれば<<生かす愛>>も<<許す愛>>もでき得ません。
当会は軍隊でもなければ、魂を縛るところでもありませぬ。そこに集う方々の長となる方々とて修行中の身であり、親や肉親に対しての<<愛する愛>>ができておらず、一足とびに<<生かす愛・許す愛・存在の愛>>などゆけるはずがありませぬ。
ものごとには順序がございます。
ものごとには必ず原因があり、結果があるのでございます。
総ては、急ぎ過ぎた、焦り過ぎたことが、このようなサンガーと成さしめてしまいました。サンガー内部で動いている会員さんは、動かぬ方を裁いたり、(そういった方の心情を察しようともせず)問答無用で自分達の考えのみを正当化してグイグイ押してきたのです。いわんや、威圧的な態度に出たり、会員の人間性を尊重せず、自らを高くし、人の意見に聞く耳を持たずにここまできた、その結果が出て参っておるのでございます。
自分達の我欲と保身・名声にとらわれる心、「知」で頭でっかちのまま人を自らの意のままにしようとしたところに、問題が出て当然でございます。

人格の形成というものは、学問のごとき「知」のみでは成り立たないのでございます。<<学びによる知>>は、あくまでも単なる<<物知りの知>>であって、自らの中にある「智慧」とは比べられませんし、およそ比較の差ではございませぬ。
相和し、調和するサンガーの形態ではなく、お金を集めるための掛け声ばかりでは、人は嫌気がさすのは当然でございます。
根本の原因に気づかない限りは、サンガーは(残念ですが、今のような状況では)総てもう一度スタートからやり直す以外にございませぬ。
このような在り方では、会の運営はおろか、紀尾井町のビルも危ういというものでございます。総ては、個人個人に見合った支出でなく、かなりの犠牲のもとに無理押し・だめ押ししてきましたゆえに、今、結果が出ておるのでございます。
今回は、職員の数をたとえ半分に減らしても、回復は難しいと申せます。


Date : 24 Feb 2001
[名前] 比丘尼


[幸福の科学に関する意見]
総ての人々に見合った心の器があるように、会自体のスタートから今に至るまで、自然の理にかなった発展ではなかったのでございます。
教団自体の器に見合った、地道でコツコツと努力をすれば、七〜八年とたって行く内に必ずや万人に知れるところとなり「堅実でまじめな、すばらしい団体」というイメージが根づいたはずでございます。しかし、残念ながら悪いイメージで、近寄りがたい状態でございます。
見せかけの派手さだけで勝負してきました。
その虚飾を、心ある人は見破ってしまいました。せめて、心ある会員の皆様は、コツコツと自らをつくり、人様の心を深く理解できる方となってゆかれますように。
目先の名声にとらわれ、一番大切なものをなくす方は、非常に多いと申せます。
謙虚さは美徳であります。誠実で心穏やかに、愛深い方となってゆかれることが、総ての守護霊の願いであります。

反省なくして感謝の祈りもなく、真に神の子として立ち帰る行為が「反省」とするならば、日々、反省を行なってこそ、この積み重ねの上に日々の祈りもまたあるのでございます。
他力本願の、祈りのみの世界は間違っております。<ないものねだり>の会員さんばかりでは、自らの内なる気づきにまだまだ遠いと申せます。

愛なくば この世に光 なきものを
愛の支えに 智慧こそ生きる


Date : 5 Mar 2001
[名前] 比丘尼


[幸福の科学に関する意見]
一体、何人の方が、このサンガーの中で苦しみ悩む会員をお救いせねばならぬことに、気づいておられましょうか。
皆様方がここで学んできました知識により、正しくものごとを見る目が培われ(真実と、そうでないものを見)、サンガーの内部でサンガーの行なっていることの過ちに気づく、という皮肉な結果となりました。が、サンガー内部の何も知らない情熱的な会員さんは「伝道」とは神理をお伝えすること、、、これ以外に頭が回らず、サンガー内部の間違いにも気づかず、悩み苦しむ会員さんを救おうともせず、排斥するばかり。窮屈で堅苦しいサンガーとなってしまいました。
上層部をはじめ支部長クラスはもとより、役職にある方々の罪は重い。
純粋な魂を、間違った方向へ引っ張っております。このようなことは、決して許されませぬ。

心ある皆様方の使命は大きいのです。
誰一人、心ある会員・悩む会員さんを捨ててゆくようなことがありませぬように。
神々のご加護を、強く感じとりくださいませ。神々は決して、誰一人、見捨てたりはなさいませぬ。皆様方のように、良識ある方々が全国に一人また一人と増えてまいりましょう。
希望を失うことなく勇気をもって、自らの使命を果たしてゆく皆様方であってください。


Date : 18 Mar 2001
[名前] 比丘尼


[幸福の科学に関する意見]
果たしてどれだけの方が当初、当会が今のような状況となるか、想像できたでしょうか。
当会内部は人の心を拘束し、一人一人の魂は自由ではなく不自由な状態で、危機に陥っております。非常に嘆かわしい限りでございます。

長たる方は、自ら自身に対し、人一倍のプライドをおもちでありますゆえに、「最後の誘惑」(イエスさまの)という映画が封切りと同時に、熱心なキリスト教者の反発・デモを引き起こした事実と照らし合わせ、自らを侮辱したフライデーに対し、憤りを感じられました。が、会員の皆様方が(長は自らを神という思い上がりがあったけれども)まだ長たる方を「神」というところまでは思い至ってなかったゆえに、長自らが火つけ役となり、会員を扇動させる形となってしまいました。

「お前ら、幸福の科学をつぶす気か?」と急遽、上京なさった善川先生を無視し、長の命ずるままに動いてしまいました。
慢心する者に訪れるものは、たとえ光の天使でありましょうとも、転落以外にございませぬ。自らの本来の使命を忘れ、天上界の思いを伝えたる主たる使命、神の下僕としての使命を忘れ、自らを高しとしたところに間違いがありました。

「神」は、この世に生まれる必要はございませぬ。
たとえ、どのように霊格高き方々でありましょうとも、この世に生まれる光の天使は、神の命を受けて出てくるのであります。
「神」は神として、この目には見えぬ存在であり、光そのものであり、太陽のごとく、天空で暖かい光をさんぜんと放っておるその存在にも似て、人々の心にうるおいと安らぎと、総て神のもてる富を与えうる存在であります。
目に見えず存在することそのものが、神の意義としてあります。

もし、長たる者が「神」であるとするならば、当会は愛の波動のまっただ中になくてはなりませぬし、心にうるおい・安らぎにみちた会員が多くいなくては、その証明にはなりませぬ。
会を窮屈に思い、離反する者が出たり、憤りを感じる者、疑問に思う者、裁いたり、非難批判・罵る職員や会員さんが出たりするのは何故でしょうか。
人の心を縛ろうとしているから、魂の窮屈さを感じる方が多く出るわけです。
では、なにゆえに縛ろうとするのか。
それは自分を絶対とし、自分達の方針や(思い通りに人を動かそうとする)人の心を自らの意のままにしたいという願望が、姿形となって、縛りとなって出るのであります。
神はもちろんのこと、天使は、決して人の心を縛ったり思い通りにしようとはなさいませぬ。


Date : 18 Mar 2001
[名前] 比丘尼


[幸福の科学に関する意見]
当会を軍隊という見方をする<長たる方>や<妻たる方>は、そこに自らの過ちが秘められていることに気づいてはおりませぬ。
軍隊は規律・規則で、上官に対し絶対服従の世界であります。判断する方が<白>を<黒>と言った場合、真実の答えがたとえ<白>であっても、長たる方の誤てる判断のもとに動き、その過失は自らの責任として、兵士らはただ単に受け身として存在する世界が、軍隊に似ております。

信仰の世界は、軍隊とは異質な世界であります。
一人一人の魂の尊厳と誇りは、たとえ神でありましょうとも、束縛なさいませぬ。
自らの心が神のお心に反した時は、それを神が裁くのでは決してなく、自らの善なる心が誤りを正さずにはおられないのであります。これは神の法則性のもとに結果となり、出でて参るのであって、神は決して罪や罰を与えたりなさいませぬ。
このような真実の前に、会員や職員が心ある会員を裁くなど、とても正気の沙汰とは思えませぬ。論外であり、もっての他であります。地下のものに魅入られた、としかいえませぬ。

人を非難・批判する方々総てに申し上げたいことは「自らのこの心の歪みをこそ修正せよ」ということでございます。正しく自らの心をコントロールし、正しく判断しているとは申せません。手の打ちようのない状況で、最後に勝利するのは、神の義の側に立つ方々であります。なぜなら、地下のものは、とても性急で、はやる心、焦りの心、安らぎのない心でありますゆえに、粘り強い神の愛には、とても抗うことなどできないのであります。
何事も、忍耐強くあっていただきたいものであります。


Date : 18 Mar 2001
[名前] 比丘尼


[幸福の科学に関する意見]
人間というものは、人のことはよく見えても、意外に自分のことはよく見えないものであります。当会の会員の多くは、他を責める自らの心の歪みには気づかず、他人の欠点やアラを一生懸命見てはとやかく申します。
今回の関谷氏の本の件に関しましても、補佐が仰ったから呼び捨てにするのは当り前とばかり、、、一般の良識ある人間としての分別はもはやそこにはなく、補佐の仰ることは総て正しいといわんばかりの狂信・盲信であります。
八正道を学びとして取り入れているならば、補佐の仰る言葉の一つ一つを八正道のフィルターにかけて通すべきですし、自分達がいったいどれだけ関谷さまの人格がわかっているかを、自己の心に問うていただきたいものです。
善なる心は一様に「そうではない。不確かなことに対し、納得していない状態でよく咀嚼もせず、ただ単に鵜呑みにしているだけだ」と言うはずでございます。

欠如しているのは、まさに常識人としての態度でございましょう。
他を貶め、悪口を言う心は、もはや天使の心ではありませぬ。
そして人間である以上、天使であっても過ちを犯すことはあると、一応頭の中に入れておく必要がございます。完全無欠な人間など、この世に一人とておりませぬ。
不完全な人間が、不完全な人間の欠点をさいなむ中に、幸福はほど遠いというものです。「愛と慈悲と調和」の心こそ、神の願われる世界であります。
当会は、人を信ずることすらできない人々が多くおります。
とても残念でございます。


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