アンケートで寄せられた声 比丘尼さん<2>

<1> HOME <3>

Date : 20 Mar 2001
[名前] 比丘尼


[幸福の科学に関する意見]
会のあり方は、今の状態でつっ走ってゆくものと思われます。
反省の色はなく、聞く耳をもたない集団と化してしまいました。
上層部は、長たるご夫妻の指示どおりに動き、真実に対し再び覆い隠そうとし、策略を練り、善良なる会員諸氏を集め、自分達の立場を守らんがため、あらぬことを吹き込んで信じ込ませようとしておりますが、再び、この今の会の現状の醜さが発覚する事件が起こって参りましょう。

神の前に偽りは決して通用せず、自己保身と自己顕示欲はとどまるところを知らず、総てをうまく覆い隠せたように見えたのも束の間、あらゆる方向より真実が白日のもとに曝されましょう。これらは総て、会をもう一度ゼロに戻し、新たにスタートを始めるための序曲でございます。
あくまでもこのような状態で存続するならば、当会は、数多くの宗教の中の、単なる一団体となってしまいましょう。
法がどのようにすばらしくとも、そこに集う方々が狂信・盲信の集団で、自らの考え、自らの善なる心に問うて判断することができない人々の集団であるならば、サンガーの必要性はまずないものと思われます。
上層部・長は「ルシファーが外側から当会に狙いをつけ、揺さぶっている」と言いたいのでありましょうが、そうではなく、上層部・長にそれらが入り、内部からの混乱を引き起こしている、といったほうが正しいでしょう。

関谷様にルシファーが入っているというのは(会員が辞めてゆく真実の理由を知らず)『虚業教団』を読むことにより真実を知り、この本により辞めてゆくという危機感がそうさせております。しかしながら、残念ですが、(会員は)真実を知る方々にとりましては、決して心安らぐ愛の団体ではなかったということでございます。さらに辞めてゆく方々の流出を、くい止めることはできませぬ。
初期の協力者の方々をルシファーの回し者とすればする程、人々はおかしく感じ、本を読む人がふえ、真実を新たに知ることになり、当会に幻滅を感じ辞めてゆく方が出て参りましょう。(歯止めをかける結果とはならず、流出を促す結果となって出て参るでありましょう)
この混乱を治めることは、まず無理でしょう。人々の善なる心を縛ることは、決して出来ないのですから、、、。

このような事態を、天上界の神々が黙っておられようはずがございませぬ。
一人一人の心のあり方を、その行為を見ておられます。善良な会員さんを偽り、隠し通すことはできましても、神の目は決して節穴ではございませぬ。
辞めてゆく方の心も分からず、人の意見に聞く耳をもたない、それでいて上からの命令には忠実に受け止めているような方々も、このままでは済みますまい。
非常に残念でございます。

正しさの 基を知るは 神ひとり
正しく生きる 心に恥なし


Date : 22 Mar 2001
[名前] 比丘尼


[幸福の科学に関する意見]
今、役職にある方々、自らを失った人々よ、心あるならば退かれよ。
当会の今の現状では、救世運動はままなりませぬ。
会の内部でも、一人一人の会員すら救い得ておらぬではありませんか。
心なくして、宗教とも、もはや申せませぬ。

一人一人の心の灯火こそ尊いのです。なのに、霊格の高さだけの上下観で、当会は心なしか人を見下す傾向の方も多いようにお見受けします。
一人一人の尊い心、すばらしい神の子としての心、自らが神の子として目覚め、救世の運動の一端として少しでもお手伝いできたら、と思う心の一つ一つが集まり、大きな仕事をしてゆくのであります。

前回の<<四本柱>>は、先生の案で、「先生に奉納する気持ちで」ということを仰った方がいらしたわけで、まさに何をかいわんやでございます。
<<伝道・献本献金・ビックバンの植福・行事参加>>これが、会員として当然のことならば、お金持ちでない方にとりましては生活のさらなる負担となり、一人やめ、二人やめと、最後に残るのは数少ないお金持ちだけとなってしまいましょう。
強制すること自体が、おかしいことです。残った方々も、最後は力尽きてしまうでしょう。
このようなことでは、救世運動の火種は尽きてしまいます。

当会で学びを深めた方が広く在家で活躍してゆくことが、偉大なる常識人としての道のように思われます。神理を学びそれを生活の中に生かし、各々の人々が自らの使命を自覚し、日々、神と共に生きる生活を続けてゆくことが大切なことでございます。
学校はいずれ卒業してゆくもの(人生の大学院ならばそこにとどまり、心を縛り続けるような軍隊のやり方をもってよしとしてはならぬものを)、次々に神理を学び、卒業し、在家へと散ってこそ、法は広がってゆきましょう。
しかしながら、サンガーという形式が、今それと逆に、止めるような狭まった現状をつくりだしております。残念なことです。


Date : 24 Mar 2001
[名前] 比丘尼


[幸福の科学に関する意見]
補佐のセミナー「信仰の大切さ」という演題とは裏腹に、期待をそがれたお粗末な内容もさることながら、その反響は、会員の脱会、流出という結果を生んでしまい、大慌てに慌てた幹部は、追加セミナー(二千円という)を「魔軍が競い立っているので」ということで行なうとのことですが、まさに愚かしいとしか形容できぬ有様でございます。

何をそのように狼狽えておるのでしょうか。
何ゆえに、関谷さまとその書かれた内容に対し、真実を真実と受け止めず、ボロ隠しに走るのでありましょうか。そしてまた、長たる方は霊言が降りていないのに、何ゆえに魔の仕業と分かるのでありましょうか。
これは異なこと。不思議に思わない人を、不思議に思います。

サンガーは渦巻の中をぐるぐる回り、抜け出せずにおります。
この収拾のつかない状況からも、大いなる混乱に見舞われておると申しましても過言ではございませぬ。どこまで、隠し通せるおつもりでございましょうか。神の目は決してごまかせませぬ。純粋な会員の魂を束縛し、自らの意のままにしようとしております。
天上界の神々のお嘆きは如何ほどばかりか、思い知らされましょう。
そのお心も、はかり知ろうとはしない方々の多きことか。
会員は減ってゆくばかりであります。
思い上がった人々の行なうことは、支離滅裂であり、矛盾だらけであります。
大騒ぎにしているのも、自分達であります。
静かに、心穏やかな修行者の態度でサラリと受け流せば、誰も気づかず行き過ぎたでありましょうが、もう「すでに遅し」の状況で、この混乱は尾を引くこととなりましょう。
騒げば騒ぐ程に、冷静に受け止めようと、真実を見極めようとする方が増えて参りましょう。
しばらく、成行きをソッと見守ることがベストであります。


Date: 4 Apr 2001
[名前] 比丘尼


[幸福の科学に関する意見]
一人一人の皆様方に申し上げたいことは、自らの心を深め、人間として恥じない常識人となっていただきたい、ということでございます。
神理を学ぶことにより(愛が深まれば深まるほど)その結果、人を単に知だけで判断・判定するような方とはなりませぬ。
サタンを相手の中に見る者は、自らがそのような心があるということでございます。

法がたとえすばらしくとも、法それ自体は、何らの働きは致しませぬ。
法は、それを学び自らの心をより良き方向へと、さらに素晴しい人格者へと変えてゆかなければ、法それ自体では何らの働きをもなし得ないのであります。

法を神より預かり下ろす方とて、同じことでございます。
徳ある方であるならば、誰一人離れず従ってついてゆきましょう。が肉体をもちますと、人間は誰一人とて過ちを犯さないものはおりませぬ。ただ望みは、その過ちに気づき、速やかに自己の心に修正を入れられるかどうか。これが、唯一の望みであります。
自らを神と同じく宣言すること自体が、奢り高ぶり高慢であります。
さらなる神、根源の神をも恐れぬ慢心の心であります。

神は光であります。
総てを温かく包み込む光であり、魂の上下観にいっさい関係なく、平等に愛と慈悲の光を投げかけておられる存在でございます。
悪霊・善霊と区別し、遠ざけ退けるところに、人類の救済などありませぬ。
悪霊といっても、いずれ改心する時が参りますし、神は永い時を耐えて見守り続けておられます。

総ては心であります。
このあり方の間違いが善悪を分けるものであり、神のお心とかけ離れた生き方をする者と神のお心にかなった生き方をする者の差は、この心の違い一つであります。
当会は、総ての方の心を救済するために出現したのですから、救わず自分の意に反する者にはサタンとなじり、退けるばかりでは、人類救済とは名ばかりになってしまいます。

うつせみの 世をはかなみて 神々の
ひかりとどけと うれふこそすれ


Date: 9 Apr 2001
[名前] 比丘尼


[幸福の科学に関する意見]
最後の一パーセントでも望みがあれば、決して諦めることなく、頑張って努力を続けられますように。
今、会は、手の施しようのない要塞のようになってしまいました。
人材・資金面では豊富なようですが、実質は会員数の減少で、これを如何に食い止めるかが、今、会の課題となっており、幹部連は頭を痛めております。
槍や刀で身を固めたようなその心を鎧で覆い、何ら人の意見を寄せ付けず、天下の「幸福の科学」に挑むとは良い度胸とばかり、迎え撃つ態勢であります。
しかしながら、この会の脆い面は、「心の教え」があってなきが如しで、絵にかいた餅のような状態ですので、<<文証>>として書籍には記されていますが、一番大切な「愛や慈悲」のところが欠如致しております。ゆえに、目覚めた会員の流出を止めることもできなくば、その心境を読み取ることもできず、常に「なぜ、どうして」の答えが出てこないのであります。
我らは、闘うことをもって良しとは致しませぬ。
神は光であり、愛であります。
全国に散らばる心ある皆様方は、これよりさらに信頼の絆を深め、しっかりと友の手を握りあい、心を一つにしてください。
法が残れば、心ある方々はまた一人、二人と仲間が集って、その法のもとに何らかの集団が出来てきますゆえに。

皆様方は、どなたかが突然動いて、自分達を、心病む人々を救ってくれると思ってはなりませぬ。動くのは、心ある皆様方一人一人なのですから、、、。黙って見ていることが良い結果になるのなら、どなたも本を出されますまい。
よい結果は出なくとも、その一人一人の神への信仰ゆえに、一人、また一人と立ち上がる方をこそ、神は望まれておりましょう。

入会なさる方を止めるのは至難のワザです。
目の前にある石を全部取り払ったところで、その方の修行とはなりませぬ(涙をのんで、その部分をおわかり下さいますように)。そうした方も、いずれ真実を知った時、傷つき出てこられます。
神は決して、一人一人を見捨てたりはなさいませぬ。心ある者どうし手を取り合って、その輪を広げてゆくことが、大きな力を成して参るのでございます。その輪に対し、いかなる悪霊も突き崩すことはできませぬ。
信頼の絆を深め、愛で満たしてゆかれませ。
自分にできる歩みを、一歩ずつ進めてゆかれますように。
愛に抗える魔などいないのです。
数の大小ではありませぬ。金額の大小でもありませぬ。
神を信じ、人様を信じ、調和と思いやり、労りの心で接してゆかれませ。

しみじみと 人の情けが しみわたる
つなぎゆく手の 広がりにつれ


Date: 10 Apr 2001
[名前] 比丘尼


[幸福の科学に関する意見]
神は決して、人に宿りて生まれては参られませぬ。
人は、その肉に宿る心を正しく統御し得た時、内なる聖霊の真実の声を聞くことができるのでございます。肉体は、魂を納める社でございます。
どのように偉大な神近き高級霊の(イエスさまをはじめとする)方々でありましょうとも、神からご覧になれば、幼き愛し子でございます。
当会で言うところの次元別のランクづけは、魂の波調の清妙さの段階によりて分かるる、そのようなものにしかすぎませぬ。段階ごとにランクづけしてみる見方をいけないとは申しませんが、自らがどのような波調を発し、どのような心で生きているか、自らの心に問えば、帰る世界は(現時点での)言わずとも知れたものでございます。
「今」という与えられた時間の中に、どれほど神の愛を感ずることができるか否か、神を信じ、自らの足でしっかりと立ち、大地を踏みしめる生き方を、多くの会員さんに望むばかりでございます。
たとえ過去世が光輝く天使であっても、今世の生き方に間違いあらば、すんなりと元いた所に帰ることは不可能でございます。
ランクづけはあくまでも、過去世の時点までの評価にしかすぎませぬ。

一番大切なことは、「現在をどう生きるか」ということでございます。
過去の出来事は、現時点で気づけば、反省によって浄化できます。しかし「今」という時間は、過去および現在、そして未来の総てを含む貴重な時間であります。
未来に起こる出来事も、「今」という時間を通過点として起こるのでありますし、総てを、この「今」という中に含むのでございます。
今現在、心傷つく人が数多く出ているということは、過去の出来事の中に誤りがあったからで、今、何ら反省もなくこのようなことを続けておれば、さらに悲惨な未来が待ち受けております。
魂の救済と言いつつ魂を縛り、心に深い痛手を負わせる現状をなんと致すか、と申し上げとうございます。

魂の尊厳と誇りを失い、阿修羅霊を引き込み、闘争と破壊に明け暮れる職員の方々よ、その愚かなる心にまだ目覚めぬのか、と申し上げとうございます。


Date: 10 Apr 2001
[名前] 比丘尼


[幸福の科学に関する意見]
長たる方は<違ったもの>の指導を受けておられます。
モーゼ様・ミカエル様を謹慎中といい、エルランティ様を否定し、当会の信次先生のご本を絶版になさるとの発言をなさいました。
自らを神とし、それ以外を徹底的に排斥しております。
人の讃美を総て自分に集めたいがため、自分以外の方々を否定なさっておられ、もはや、尋常の沙汰ではございません。

天上界の一連の動きは、間違いは間違いで、正す動きとなっているのをお感じになっていると思います。神の基準は、人間においてはなりませぬ。
一瞬一瞬の思いこそ(今現在の在り方こそ)正してゆくことが積み重なって、不動のものとしていくのであります。一瞬一瞬を、神のお心を心として生きる方であれば、会を正しく導いてゆけましょう。
過去の実績も大切かもしれませんが、今現在、神のお心を維持しておられなくば、過去をいくら引合いに出したところで、何ら意味はございませぬ。
会(一人一人の会員)を正しく導いてゆくことができ得ていない現状が、今現在の「長」の心のあり方を示しているということであります。

ものごとは、いかように隠し通してきましても、必ずや姿形となり、目に見える形となって出て参ります。
仰っておられる言葉に愛はなく、内容に関しましても一貫性がなく、二転、三転と矛盾したことを仰っておられます。非常に危険な心の状況であります。
間違っている現在、従いついてゆくことは非常に危険であります。

職員よ、目覚めよ。そして退かれよ、と申し上げとうございます。

ご本人の口から、真実を暴露なさってしまわれました。本性を露骨に現わしておられます。
今現在、間違っている状況から見ましても、指導者として立ってはなりませぬ。
しかしながら、誰も引き留めることもできず、野放しの状態であり、非常に危険であります。それでも職員として、役員としてある方よ、あなた方には、心は、良心はないのですか、と申し上げます。
何の為に神理を学んでこられたのでしょう。
目覚めよ。そして、自分の内なる良心の声に従うことです。間違った状態で、善良な魂を導くことは悪でございます。
善悪の区別なき職員よ、役員よ、その心をこそ正しなさい。
間違いに加担してはなりませぬ。


Date: 10 Apr 2001
[名前] 比丘尼


[幸福の科学に関する意見]
ルシファーは名誉・地位欲・金銭欲深く、心の中は常に高慢で自らを高しとし、人に対する不信感・猜疑心・嫉妬・妬みの心強く、語る言葉に愛はなく、人を人とも思わぬ行為を平気でやってのけ、悪知恵に才長けておりまする。
悪霊のつきたる方々の特徴は、その語る言葉に一貫性がなく、二転、三転はザラであります。人を中傷・批判・非難し、自己責任ではなく他に責任転嫁する傾向が強く、愚痴・不平・不満に心の中は満ち、心に安らぎはなく、絶えず闘争破壊の繰り返しで、心が常にザワザワしており、人を信ずる気持ちなど毛頭ありませぬ。

今回の主宰による「高橋信次霊の正体」というセミナーも、結局は、自らを唯一神とし、自分達にとって邪魔なもの、教義に矛盾するものを次々に絶版とし、辻褄を合わせんが為、都合のいいように話をねじ曲げております。
汚れたる手で神々の名を辱め、自分達にとって教義と矛盾するものを塗りかえ、まことに恥ずべき行為をなしております。
人というものは、総て多くの方々の支えによりて生かされている存在でありますように、神々の世界もまた、調和・愛・思いやり・協力し合う心(たとえ違いはありても)、互いに認め合う心が中心となっております。
「幸福の科学」の中は、猜疑心・虚栄心・名声・地位欲・偶像崇拝・差別知で人をはかる心・冷たく愛なき世界であります。
当会は「文証」のみで、「現象」が得意だった高橋先生を逆に貶める行為をしております。各々に役割の違いがあるのです。
「正法の定義」として<<文証・理証・現証>>がございますが、高橋先生のGLAはご生前の頃はこの三つが揃っておりました。
当会は「文証」のみで、これは意味があってこの役割があるのですが、いつしか教団拡大に心奪われ、今日に到って参りました。自らに出来ぬ「現象」にやっかみが入り、批判・非難しております。現象=仙人界ということではございませぬ。
今現在、第一に、ものごとを深く洞察しえていない主宰は、霊言降りぬ事実を、天上界の動きを止めたような言い方で誤魔化しております。うまく辻褄を合わせ、純粋な会員を騙し通せても、神の目は節穴ではございませぬ。

神をも恐れぬこの振る舞い、このままでは済まされません。
自らが及ぼしたマイナスの要因は、同価値の反作用となって跳ね返ってまいりましょう。


Date: 10 Apr 2001
[名前] 比丘尼


[幸福の科学に関する意見]
心に恥じぬ生き方をしている方は幸いであります。言われたままに従う方は愚かであります。内なる良心の声がありながら、それを否定し続け生きることは、愚かとしか言いようがありません。
また、自らの間違いを素直に認めぬ心に、反省などできようはずがありませぬ。

現に、心に深く傷を負った会員さんはいるのですし、今の混乱は、原因あってこの結果が出ておるのです。この途中を、対岸の火事と自らの手を汚さず、冷やかに見るのは構いませぬが、現実をもう少し見定めて、端で参加せずに観戦するような、軽い気持ちもどうかと思います。そのような会員さんが現にいる、ということでございます。

前回も申しましたように、自分達の教団にとって現在の教義(行事・祈願祭・供養祭を含む)に矛盾したことが書かれておる書籍などは、絶版としてゆくでしょう。(見られては困るわけですから、、、)
「日蓮の霊言」は、すでに絶版となりました。「大天使ミカエルの降臨」には、現在の当会にとり、会員諸氏に見られては困る内容が書かれております。また、高橋信次先生の「心の原点」「心の発見」にも当会の現状にピッタリのことが(まるで言い当てられたようなことが)書かれております。これを心ある会員さんに読まれては、目覚めて離脱してゆかれる恐れがあるため、読んではいけないなどと、言いくるめております。
当会は、これからもボロ隠しに専念してゆくことでしょう。

一日も早く目覚めていただきたいものですが、今はまだ無理でございます。
いずれ、この異例な事態に、辞めてゆかれる方は続出するやもしれませぬ。それは心ある方のみであり、全員というわけではありませぬ。残る方々の中には「篩にかけられる」とか、「信仰のためし」とか言う者がおりましょう。しかしながら、彼らは真実を知らずにそのように申しております。
これからも、当会の醜さが浮き彫りにされて参ります。
我らは、このような不測の事態に対処すべく、要所要所に人材を配置致しております。いざという時の為に、各々が使命をもって出ております。総ては、この救世の偉業を成功させんがためでございます。
今起こっている問題も、長い時の中の一過程にしかすぎません。

退会する方がいても、止むをえませぬ。先生が気づかれ、やり直しをきちんと正しくなさる時はまた、集っていただきとうございます。
わだかまりを捨て、寛容な心で集っていただけることを願うのみでございます。


Date: 14 Apr 2001
[名前] 比丘尼


[幸福の科学に関する意見]
皆々様が幾転生する前よりありましたところの不変不滅のこの「法」は、当初より変わることなく、歴史とともに生き続けております。
当会で当初説かれたところの、神々より降ろされたところの「法」は、真実のものでございます。

人間というものは浅はかで、恐れを知らぬ者ばかりで、嘆かわしい限りでございます。
神のみ前に謙虚でなくば、生命あっても無意味となります。真実の神は、根源の神をおいて他にありませぬ。
プライドや見栄や体裁というものは、人間だけがもつものでございます。
野の花をご覧くださりませ。彼らは何の欲心もなく、自らをよく見せようとか、よく思われたいという心などもっておりませぬ。神への感謝を、自らの一生懸命咲くその使命で、姿として、形として表わしております。けなげでございます。もの言わぬ草花の一生懸命咲かんとするその心は、見るものに一種の感動を与えております。

当会は、さらに醜さを見せつける言動を致すでしょう。
本来の使命とはかけ離れた状態であります。邪魔をする者は、槍と蜜で檻に閉じ込め脅す行為を平気で致し、醜い心を(汚れなき法を楯にとり)覆い隠し平然としております。
各地で開かれる講習会やセミナーも講師や上層部が致しておりますが、知識を頭に詰め込み飾りたて、心とは裏腹に美しい様相で集まる人々を酔わせる感を呈しておりますが、何も知らない方々は神理にめぐり会えた感激で舞い上がっておりますので、気づくことができませぬ。心ある方々は、その本質をこそ見極めねばなりませぬ。

当会が経営のための費用を捻出せんがため、行事やペンダント・御本尊に手をつけたあたりから、大きな間違いを犯し始めました。
総てに無理を重ねるゆえに、倒れる人が続出いたしました。しかしながら、当会の多くの方々は、倒れる人に対し「自己責任」と言い、自分達に協力(金銭的な面、、、etc)しない人々を、「三宝帰依に反する」と言い、なじり、相矛盾したことをしております。
モーゼ様やミカエル様が謹慎処分ということも、何故、何ゆえにか答えてはおりませんし、第一、霊言が降りず、高級霊とコンタクトがとれず、また、自らの父親を幽閉同然にしておりまする。そんな状況で高級霊と会話ができるとは、これは異なことでございます。
「モーゼ様はきょう子先生のセミナーで御指導下さった」と言ってみたり、「関谷(氏の裏切り)に対し怒っている」とか、、、。つい最近では、ミカエル様・高橋信次先生とともに端に寄せて、言いたいことを言い、貶めております。
ルシファーが一番嫌っているのは、七大天使の長・ミカエル様であり、ルシファーにしてみれば宿敵であり、高橋信次先生・モーゼ様は目の上のタンコブ以上に邪魔な存在でありましょう。


Date: 14 Apr 2001
[名前] 比丘尼


[幸福の科学に関する意見]
今は、先生であって先生ではないのです。
皆様方、霊的に目が開けていれば、その目に映るもののその姿が何であるか、気づくのでありましょうが、見えないがために自分の心をすり替え、コロコロ変わる方針にも合わせて付いていっているのでございます。自らが混乱を招くような行為・言動をしておりながら、他へと責任転嫁していることも、見破らねばなりませぬ。

ルシファーが抜ければ、元の先生に戻られることは必然ですが、現時点では、難しい状況であります。致し方ありませぬ。蒔いた種は自らが刈り取り、収支をつけなくてはなりませぬゆえに。手足の如く動く幹部は、完全に自らの心を騙し、真実の心を明け渡してしまっている状態であります。皮肉なことに、魔に入られているのに気づかず、逆らう者に魔が入っていると思っているのであります。
互いに紙一重の危険な世界であります。

真実を知るは、神のみでございます。
神々は決して他を陥れたり、裏工作や辻褄を合わせたりは決してなさいませぬ。

当会は、今は猜疑心の塊であり、人の言葉に素直に耳を傾けられぬ状態ですから、何を言っても無駄でございますが、、、。

これより後、多くの方が会を去ることにより、残された活動会員さんは負担が強いられ、不平・不満も積もり積もってきましょう。しかし、このような状況下でも「自らの修行」と苦しみを受け止めてついてゆくでしょう。ついてゆかれる方々は、自らが狂信・盲信になっていても分かりません。ご本人たちは、後になって気づくことになるでしょう。


Date: 14 Apr 2001
[名前] 比丘尼


[幸福の科学に関する意見]
十七日は急遽、内容を変更し「仏陀とは何か」「信仰論」「ご本尊論」「信仰に排した部分の地獄・堕地獄」「エルカンターレの位置づけと三宝帰依」というセミナーをなさるとのこと。全国放送でなさるのですから、これで現状に気づき、さらに会を離れる人が出て参りましょう。
ご自分を「神」と証明し、逆らう者は堕地獄と、脅しのセミナーとなりましょう。言葉巧みに、優しく仰られようとも、結果としては、そのような内容でございます。
人を恐怖で支配するのは、地下のものをおいて、おりませぬ。辻褄を合わせようとすればするほど、混乱を抑えようとすればするほど、裏目に出て参りましょう。

幽閉する人を解き放ち、心から神に詫び、自らの今までの行ないを、言動を正さぬ限り、まず収拾することはできませぬ。

自らが監視されていると思う方々は「その縛りを自らの内なる勇気で解き放てよ」と申し上げとうございます。いずれ、元通りになられる日がこようとも、今は違うのですから、黙って言いなりになることこそ恥ずべき心であります。情に溺れていては、身動きもとれますまい。
当会がよく言う「迷える小羊一匹は、羊の皮を被った狼だ」と、「だから破門にした」という言い方は「救う必要がない、危険な反省できない悪」と認めたことになりますが、ならば、一念三千、心に忍び込んだ魔界のものは、先生には絶対入らないという保証がありましょうか。人間である以上は、たとえ聖人
君子であろうと、答えはノーでございます。
天子の衣を着た悪魔が、もっともらしく法を楯に弁明したと仮定したら、どうなりますか?
先生であって先生ではないとしたら、どうしますか。
その判断は、自らの良心に委ねる以外ないことになります。


Date: 16 Apr 2001
[名前] 比丘尼


[幸福の科学に関する意見]
聖人は、人を正す前に、自らをまず正します。
当会は、完全に魔に支配されてしまいました。自らを正すことよりも、何かに、物の怪につかれたような振舞いをしております。傍若無人のその振舞いは、はるかに常軌を逸しております。
正義の戦いは、天上界にてないわけではありませぬが、無闇やたらにあっちこっちと、つつくような知恵なき戦いは致しませぬ。しかしながら、当会は今現に内部混乱のパニック状態にありながら、真実を知る者を名指しでつるし上げ、リーダー達の前で仏敵と知らしめてしまいました。そして、会員が激減する中で、正気とは思えぬ八二五万信者突破記念とかたり、はったりで創価学会に戦いを挑もうとしております。

何故、このようなことをするのか。
魔の世界は上下観・力の強弱の世界であるがゆえ、一番になりたい、トップに立ちたいという野望が常に渦巻き、人を平気で切って捨てるのは序の口で、(向こう見ずにも)自らの兵力が不足しているにも拘らず、破滅・破壊の道を歩んでおります。そしてまた、信仰心を中心とした他力、自我力的祈りが(自力)他力にフタをしたと、、、もはや尋常とは申せぬ訳のわからぬ理論を振りかざしております。
ついに、正体を現わしてしまいました。この煽動に乗ってはなりませぬ。

タイトルにしても、「信仰・伝道・戦い」とは普通じゃありません。これで壊滅的な打撃(会員離れ)を受けるのは、当会の方でございます。
五月号「方便の時代は終った・補佐、邪教GLAを斬る」とは(兵もおりませぬのに)あちこちに戦いを挑み、自滅する当会の沈んでゆく姿が目に映って参ります。
何という愚かなことを、ヒステリーの狂信・盲信集団と、世間の物笑いの種となってしまいましょう。

自らを神とし、自らを非難する者は堕地獄とし、神の名を汚しめ、神をも恐れぬ愚か者よ、このままでは済みますまいぞ。

人間にとって大切なことは、宗教の中にどっぷり浸ってゆくことではなく、信仰の世界を自らの中に見出し、日々、神と共に生きることであります。神の望まれる人格へと、努力して高めてゆくことであります。誰の評価も受ける必要はなく、他からよく思われようとする必要もなく、ただ淡々と自らを磨き、愛を深め、人と調和し、神と自己との隔たりを埋めてゆくことだけに専念してゆくことが大事なことです。

神について完全に体現できる方は、天使の中にもおられませぬ。
神はそれほど偉大な光であり、愛であるのです。
そのことをふまえ、高慢にならず、ただただ謙虚に、神のお心をおもんばかって日々を送っていただきとうございます。

山波を 朱に染めあげて はじまりぬ
あたらしきけふの はじまりの色


Date: 20 Apr 2001
[名前] 比丘尼


[幸福の科学に関する意見]
これよりのちサンガーは、まさに軍隊のようになって参ります。
エルカンターレへの絶対帰依とは絶対服従を意味し、それに逆らうことは許されず、逆らえば除名・破門を申し渡されます。
エルカンターレは最高の立場にいると断言なさり、三宝帰依で魂を縛り、自由を許さず、和合僧破壊の罪で、脱会したいと思う者を脅す形となって参りましょう。
法を楯に、純粋な魂を自らの思うがままに操る行為は、これより一段と激しくなって参ります。

当会に欠如しているのは<<愛>>と<<慈悲>>でありますし、中道・反省・感謝という言葉は、単なる飾りとなり果ててしまいました。
いくら教えの中にありても、「知」として多くの方は認識してゆくのですが、それは自ら一人一人がその行為を通してこそ、「真の叡智」となってゆくのでございます。
しかしながら、当会の長たる方の今の心は、教団を大きく、自らエルカンターレの名を知らしめたいがためで、真に多くの人の心を救おうというのが第一義ではないということです。魔界のものに意識に巧みに入り込まれ、名誉心・自我我欲・金銭欲の部分を、いいように擽られ操られております。それが歴然とした証拠に、やめてゆく会員は多く、そういった方々の心を真に救い得ておりませぬ。
神でさえも、一人一人の心の自由性を尊重し、当会のように不自由なほどに縛ってはおられぬではありませぬか。(それぞれの良心に委ねておられます)
結局は、一段と高い所から人をランクづけし、見下ろすことばかりで、真の人間としての「魂の尊厳と誇り」「仏性の神性のきらめき」というものは、そのようなランクづけでは決して計り知れないものがあるということに、自らが気付いておられませぬ。
人間として生まれた以上は、決して自ら神と名乗るべきではございませぬ。


Date: 20 Apr 2001
[名前] 比丘尼


[幸福の科学に関する意見]
人生の総決算で<<徳>>というものは測れるものであります。
現段階で、肉体・○○○○の徳を測ることはできませぬ。
真に徳深き方であるならば、平気で人を切り捨てたりは決してなさいませぬ。
今は、若さ故の向う見ずと、神理を楯の恐いもの知らずでしかありませぬ。
理屈をこね回す活動会員が多いことからも、師たる方の今現在の心境がどのようなものか分かります。
「一発叩かれたら三発お返しを」などと申す幹部がいるわけですから、まさに、師のお心イコール弟子の心であります。そこに反省も感謝もなく、攻撃的で負けん気の方ばかりでは、中道の教えも、心の教えも必要ありますまい。世界は自分のために、会員は自分のために絶対服従し、命令に従うのは当然というお考えでありましょう。
それに従うことが「信仰」では決して、決してありませぬ。もし、従うことが「信仰」と仰るのなら、そこに一人一人の幸福はなく、犠牲として生きる生き方しか残されておりませぬ。
宗教が、身も心も神に捧げ尽くすことは、真実を語っておりましょうが、当会のように総ての人が、当会の望むようなそのような生き方をしたら、この世の中は停滞へとつながって参りましょう。当会のいう「身も心も」とは、献金・献本・伝道・行事参加・植福のことであります。愛なき理攻めで人をガチガチに縛り、身も心も不自由にしてゆく先は<<地獄>>であります。
まことの信仰による「身も心も」とは、自己保身のわだかまりやプライドや見栄、、、総てを捨て去り、真我なる心で、無執着の心で神を信じ、神の望まれる生き方をしてゆくことであります。(それぞれ役割が違いますゆえに、家庭の主婦ならば自らの役割使命を、各々が各々の持ち場を固め、そこをまずユートピアにしてゆくこと)
「見も心も投げうって」というのは、財産を捨て職も捨て、家族も捨てて当会のために、というのでは決してありませぬ。曲解や誤解があってはなりませぬ。


Date: 20 Apr 2001
[名前] 比丘尼


[幸福の科学に関する意見]
総ての会員の生活水準に合わせた運営ではなかったがため、ものごとの総てに無理があり、貯金を使い果たし倒れる人が続出しておるのです。この根本が分からずに、また無理を重ねようとするから、今の状態となったのでございます。当然の結果です。
揚げ句の果ては、身動きのとれぬ会員を掴まえて「布施の心がない」とか「勉強熱心ではない、野狐禅だ」と罵るのであります。

当会は<<お金を集めること>>と、<<教団を大きくすること>>と、<<名を売ること>>で、そこに全勢力を集中させております。
心の教えは不在であり、まことにもって嘆かわしいとしか申しようがございません。
相対的な人の目を常に意識し、絶対的な見えざる神の目を恐れぬ輩の集団となっております。

宗教が真にもつ意味は魂の解放であり、見えざる、よいですか、見えざる神への信仰であります。
見えるものを信じることは、百人が百人、可能であります。しかしながら、見えざる神の息吹を、神の存在を確信することは、大変難しいことであります。
この世は、神の創られた世界が人々の心を通じ、投影されているにしかすぎませぬ。心が、神の思いと同質の思いで満たされておるほど、この世は調和に満ち、愛に満ち、ユートピアへと変わってゆくのであります。

当会はこれより、会員にとりまして、不自由なサンガーへと変貌を遂げてゆくでありましょう。やめてゆく方はさらに出て参ります。会員の首を絞めるようなことばかりなさっておられ、その結果、会員が離れる方向へとつながってゆくからであります。
当会に番号を残しておきたいがため、保留にする方も出てきましょう。そのようなものに、何らの価値も見出せませぬ。

勇気なき 真の正義は なかりけり
神のためにぞ 正邪を分かつ


Date: 20 Apr 2001
[名前] 比丘尼


[幸福の科学に関する意見]
一番大切なことは、教団拡大でもなければ、教団維持の資金繰りでもありませぬ。
神理を縁としてそこに集まってくる方々の心の一つ一つを大切にし、各々がもてる力を発揮し、力を合わせて(心の教えを基とし)この世に還元してゆくのであります。
それが、ひいては大きなユートピアへとなって広がってゆくのであります。
心の教えを、仲間の心を一つとして、この世に広げてゆくことが大切なことで、同時にその根本の心を一人一人が統御し、この世の垢を取り去り、生まれてきた時の清らかな心を取り戻すことでもあるのです。そして愛の心で、寛容の心で、この教えを広めてゆくことです。
そこには強制的に入会を勧めることもなく、素晴しい人格者の集団が広がるのみでございます。神の望まれる世界が、そこに出現して参りましょう。

当会は教団維持の資金繰りに頭を抱えて躍起になっておりますが、会員がさらに減って参りますので(何も気付かずいる方、あるいは耐えていこうとする方も、中には、まま、いらっしゃいましょうが)ほとんどの残された会員の方が、大きな負担を強いられることとなって参ります。
スタート地点で、法の流布にともなう会員の増加は予想されておりましたし、教団維持のための資金は多少必要となって参ったのですが、それもこれも、法の流布が第一義であり、教団維持は二の次、三の次でありました。しかしながら今は、主客が見事に転倒しております。
仏陀の当時は、布施による精舎の寄進はありました。しかし、今(七年目)は名乗りをあげて下さる方がまだいない状況下で、ついに主宰自ら、貸し事務所ではなく、当会所有の事務所がほしいと、本音を洩らされております。
当時は托鉢により日々の糧を得ておりましたが、今では出家者(職員)は会員のお布施や行事などの費用・月刊誌・講習会の費用などで賄うおつもりでしょうが、軌道に乗るということはまずありえませぬ。当会の通った後は、草木もはえぬほど多くの会員が傷つき倒れております。
神のみ前に自らの心を正し、嘘偽りを排除し、あくまでも神の遣わされた自らであることに自覚を深めなくば難しい、というものでございます。

エルカンターレであるとしましても、その名をとり去り、一人の人間・一個人としての○○○○として、どれほどの愛と慈悲に満ちた人となりうるか、「知」だけでは測り知れぬ世界がございます。
差別知で人を見る傾向が、どれほど弟子に、会員に影響を及ぼしているか、その責任が問われることとなって参りましょう。たとえどのように知が優れておりましょうとも、根底に愛なくば、三次元的愛を一足飛びにして<<人を生かす愛>>も<<許す愛>>もなく、ましてや<<存在の愛>>もございませぬ。

愛は、総ての総てであります。
愛なくして、人の存在も生きる価値もなきものを。


Date: 21 Apr 2001
[名前] 比丘尼


[幸福の科学に関する意見]
当会を離れる皆々様方に申し上げたいことは、決して恨みやつらみ、憎しみの心をもつことなく、心静かにして、離れた場所より寛容なる心で「一時期の師の病の時」と、見守っていただきたいものでございます。

今のままの状態であって良いわけはありませんが、たとえ、すぐに修正なされずとも、時間を待っていただきたいものでございます。中にいる方々も、いずれ気づく時が参ります。外から、皆々様は神への祈りを真剣になさっていただきたいのです。
「これ以上、心傷つく会員さんが増えませんように。中にいる皆様方が真に目覚めますように。一日も早く、神の願われるような当会となりますように。一日も早く、先生がお気づきになりますように」と。

今回の一連の騒動にて、会員数は激減いたします。
当会の長や幹部が食い止めようとすればするほどに、会員はさらに流出して参ります。水が高きより低きに流れるように、自然の法則の中で、この流れ(流出)も当然のこととなって参ります。善因善果・悪因悪果と申しますように、結果が出ました。心ある者にとりましては、マイナスの波動の中にいることは無理でございます。無理難題を言えば言うほどに、中にいる会員さんは気づいて参ります。このままの状態が続けば続くほどに、よほど巨大なスポンサーがつかない限り、紀尾井町のビルの資金繰りも大変なものとなってしまいます。

本日の朝刊に大見出しで書籍の案内が出ておりましたが、何十万部突破という数字は偽物で、内なる会員が献本用に強制されて買わされた数字です。一般の方々が書店で、一冊また一冊と手にとって買った数字ではございませぬ。自然な状態で購読者が増えるような、そのような状態では決してありませぬ。残念ながら、宗教書を読む方の数はまだまだ少のうございます。
崇高なる法をこの地上に降ろすには、それだけの使命がおありになる方でございますが、あまりに知恵がおありになるだけに、戦略・戦術ということに長けておいででございます。
一人一人の方々が、自ら本を手にとり読むまでは、時間に対する焦りと闘いながら、根気強く、本を淡々と出してゆかれてもよろしかったのでは、と思う霊人方もいらっしゃるのでございます。

しばらくは会を離れて、静かにこの成行きを見守る以外にありませぬ。多くの会員の皆様方が、ついてゆけない現状でございます。戦略・戦術に何らかの無理や問題点がなかったかどうか、気づかれぬ限りは、倒れる人がこれからも多く出てくることは間違いございませぬ。残念ですが、致し方ありませぬ。


Date: 25 Apr 2001
[名前] 比丘尼


[幸福の科学に関する意見]
『現代のユダを斬る』の新刊が出るとのことでございます。
サブタイトルが「悪魔に翻弄された転落者たち」となっております。
「三宝を冒涜することは、人間にとって最大の罪である。仏敵となった者たちへ猛省を促し、真の救世運動を推し進めるための仏弟子必携の書」とも書かれておりますが、ものごとが正しく見れておらずに、嘘・偽り・中傷で反論した内容が仏弟子必携の書とは、当会のレベルも落ちたものです。
真実、ものごとの真実すら主観を入れずに、正しく公平な立場に立って見えておらぬではありませぬか。このような本が売れるようでは、世も末でございます。
まさに、自ら<<末法>>の証明をしてしまいました。
歴史の中で、光の天使達が宗派を起こして参りましたが、多くの天使は自らこそ正しいとするが故、他を受け入れることができず、天使同士で相争う結果となりました。統合ができぬは、このような問題点が出てくるからであります。
今回の計画の中で<<統合>>ということが強調されておりましたが、長たる方も同じく、統合と言いつつ、統合できぬ様相を見せつけております。今のありさまでは、世界宗教といいつつ個人崇拝宗教の状態でございます。このようなことがあってよいわけがございませぬ。

当会の謳い文句は「寛容さ」ということでございましたが、この言葉は単なる謳い文句となってしまいました。
「自分イコール・エルカンターレに対し、信じないものはすべて仏敵と致す」のでは致し方ありませぬ。心の狭さ以外の何物でもない、ということであります。
男性の魂的資質には闘争本能というものがありますので、女性のもちます調和的魂に欠けている面は否めませぬが、正統派を名乗る何処そこの、本山同士の闘いの二番煎じと似て参ったきらいがございます。


Date: 25 Apr 2001
[名前] 比丘尼


[幸福の科学に関する意見]
心の教えを、生活の中に(日にちの中に)生かしてこその、法のきらめきがございます。
支部に行き、御本尊とやらに手を合わせたり、献本や、上からの決められた数字を消化せんがための伝道や植福に協力することや、行事に参加してその費用を何万も支払うことを、信仰と致してはなりませぬ。それが真なる信仰ならば、法を汚しめることとなり、神を貶めることとなります。
それらは信仰ではなく、教団維持のための資金に関する協力であり、それ以外の何物でもございません。
それを信仰とするならば、この世の宗教者の総てを神と呼ばねばならなくなります。
肉体をもたれた悟りたる方は、あくまでも『覚者としての仏陀』という域を出ることができませぬ。その悟りも日々、一瞬一瞬のものであり、悟り得て、そこで総ての修行もないとするならば、この世に生まれてくる意味などなくなって参ります。総ての人と同じくこの世での修行はあるわけでございますし、使命の大小はありても、そのように申せます。

また、当会を脱会した一部の方々の中には「念が飛んで来て自分の身体を不調にする」と、いたく気にしておる方々がいらっしゃいますが、念の存在は事実でございますが、決して恐れてはなりませぬ。たとえそのようなことが、まま、あったと致しましても、この念の使い方を誤って出された方は、いずれ反省を余儀なくさせられます。
天使が天使に、自らは正しいと、法戦を挑んだ事実が過去ありましたように、神の子が肉体に宿り盲目であるがゆえに、神の子が神の子に対し、その思いや行動を縛り、自らの意のままに願う方向へ動かさんがため、誤てる念を発することは、神のお心に反するものでございます。行き着く先がどのようなものであるか、お分かりになると思います。
自らの心も正しく統御できずにこのような念を発することは、非常に危険なことであります。
どのように気に入らない相手であったとしても、自分達の思い通りにいかないからと非難・批判し、ましてや仏敵と罵ったりで、総ては神が自分たちの側にあるといわんばかりの目に余る無礼、まさしく奢りたる者の証拠でございます。
神は常に公平な立場からものごとを判断なさっておられましょうに、神の子が神の子を「悪魔に入られた」だのとか、また脱落者の印を押し、多くの会員に知らしめる行為など、真の修行者ならば慎まなくてはなりませぬのに、、、。そのような心に、どのような聖霊が宿りたると申すのでしょうか。その心こそ、恥じるべきでございます。

神々の計画の中には、この地上の人々に「神の存在・信仰の本質・人間の使命とその存在について」教えんがため、数多くの光の天使達がこの地上に遣わされ、世界中に散らばっております。
主・エルカンターレ以外に神なし、といわんばかりの当会の様子を見るにつけ、指導する側に立ちたる天上界の神々はとても恥じております。そのようなことを言わせるために計画をしたのではないと、一様に申されております。
世界に散らばりたる(神の御手足としての使命を黙々と果たしておられる)天使たちは、「我は何々の神であり」などと申しておられずに、淡々と人々を愛するがために、その使命を誰に知られようと思わず、活動されております。この世的賞讃にも動じず、光を放っておられます。その行為こそ尊いのであります。


<1> HOME <3>