アンケートで寄せられた声 比丘尼さん<3>

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Date: 25 Apr 2001
[名前] 比丘尼


[幸福の科学に関する意見]
霊格の高さだけで見ることは、慎まなくてはなりませぬ。
総ての方々に、努力・精進することの大切さを放棄させる結果となるやもしれませぬ。それぞれの人々の持ち場・使命・役割は違うのでありますが、総ては神の御手足としての、いずれなりの役割を果たしております。

知に長ける人間の愚かさを、当会で再現してほしくはありませぬ。
その心の在り方を(他を思いやる心・優しさ・愛の深さ・いたわりの心・共に調和せんと願う心・分け隔てなき心)、その心のありさまをこそ提示しなさい、と申し上げとうございます。

神は分け隔てなく、善人・悪人問わず、愛の光を投げかけておいででございます。その寛容さに気づかずして、何の修行でありましょうか。
ましてや祈りを、神聖なる祈りとせず、病を治すための祈りや、活動していないから出てくるようにと祈る心をこそ、恥じ正しなさいと申し上げます。そのような会員が非常に増えて参りました。奇跡を願わんがための祈りならば、祈る心に異議ありと申し上げとうございます。何かを期待して祈る、駆引きのような祈りは、心を汚します。
「神よ、あの方の心に光を与え給え。気づきを与え給え」と祈るならよいとして、それはあくまでも「神のみ心にかなうならば」が前提であり、結果を求める祈りなど、もはや祈りとは申しませぬ。

当会側から見て退会しそうな方に対して引き留めたり、自分達の思うように動かしたいがため、エルカンターレ・ファイトをしたりするなど、言語道断でございます。
元を正さない限り、このような行為は続くでしょう。

総て神は、人々に<<気づき>>というものを与えて下さっておられますが、受け手が気づかぬ限りは、たとえ人がどう言おうと難しいものがございます。
長たる者が気づきなきため、ブレーキをかけずに当会は暴走しているのでございます。誰も止めることが出来ないもどかしさが、そこにあります。行き当たって壁にぶつからぬ限りは、無理でございましょう。

このままでは、救世運動はままなりませぬ。
静かに、離れたる所より、気づきの時を待たせていただく以外にはないと申せます。

くれぐれも申します。
「念」を恐れてはなりませぬ。ますぐき心で日々生きることです。やめてしまえば、その念も発されなくなって参ります。
一番いけないのは、恐怖心を心に作り出すことでございます。心の世界では、それが実体化して参りますゆえに、神のご加護のもとに生きる人間として、心ある皆様方は何事も恐れず、くじけず、生きていっていただきたいと思います。
心配な方は、守護霊に、ようくお守りいただけるように、お願いなさることであります。神の義の側に立つ者を、どうすることもできませぬ。

神々は 我らをいつも みまもりて
勇気と希望を 常に与えり


Date: 8 May 2001
[名前] 比丘尼


[幸福の科学に関する意見]
満ち足りた一日を過ごすことに専念する人は少なく、とるに足らぬ先の不安を自らの心の中に引き込みて、思いわずろう方々の多きことよ。
まだ何事も起きてはおりませぬのに、自らの内なる不安をスモッグのように広げて、憂えるようなことがあってはならないということでございます。
心の中に思うことは、いずれ形となって現われてしまいます。
ならば、不安な思いを発するよりは、夢と希望に満ちた将来を、笑顔と安らぎの未来を、心の中に思い描くことこそ大切でございます。

もし、不安な思いが(取り越し苦労が)出そうなら、あるいは出たならば、神様にお詫び申し上げ、正しき思いを入れ直すことであります。正しき思いは正しさとなって、誤てる思いは誤った形となって、実を結ぶ真実がございます。

まず、良き思いを出し続けてゆくことから始めていただきたいと、多くの皆様方に望むばかりでございます。

多くの皆々様方に、神仏のご加護ありての人生であることに、もっともっと気づいて頂きたいのでございます。
どのような苦しみ・悲しみの時にも、神仏は常に皆様方の傍らにありて、ご加護下さっております。悲しみ・苦しみの時こそ、その渦に巻き込まれたままではいず、神のお心を感じ取っていただきたいものでございます。


Date: 9 May 2001
[名前] 比丘尼


[幸福の科学に関する意見]
「月刊誌の内容が良くない」と思っておられる方が非常に増えているのですが、自らの心をすり替えて、それで辻褄を合わせようとしている方々はもっと多いと思われます。
「当会の会員として、当会のために何が出来るか、、、」とある職員の方は申しておられるそうですが、初期の頃、感動とともに使命感のもとに集ってこられた方々は、誰一人、当会に何かしていただく、、、などの心は微塵もなく、「髪の毛一本分の働きしか出来ずとも救世運動の為に」と思う方々ばかりでございました。
大いなる神より、魂を肉の身に宿らせ転生輪廻させて頂くことをお許しいただき、この地上に生まれさせて頂きましたことに感謝・報恩の心で集ってこられた魂の真実がございます。大いなる神、神近き高級諸霊の皆々様方が見守る中を、この救世運動というものはスタートを切りました。

<<神>>より<<仏>>の方が上という論理を振りかざして、多くの神近き方々の協力一切を退け、また、人間というものが如何に多くの方々の支えのもとに生かされているか、万物万象の協力のもとに生かしめられているか、この根本を踏み外して救世運動が広がってゆくとは思えませんぬ。
感謝の心もなく「幸福の科学」の集団を唯一とし、自分達以外に人々を救えないという思い上がりは甚だしい、と申せます。<<愛なき知の集団>>が、もうすでに悟ってしまったような気持ちで他を裁いておりますが、当会より離脱なさる方々がいるこの現状を、どう捉えておるのでしょうか。やめてゆく方の心も救えず魂を救済するとは、これは異なこと。
離れる理由は、当会の在り方に問題があり、非常に心を縛られ、考えるゆとりもなく安らぎもなく、突っ走ってきていることに気づいておるからであります。
真に神理を学んでいると申す方よ、他を責めさいなむことは慎まなくてはなりませぬ。一人一人の心の中に住む良心が苦しむからこそ、当会を離れていっているのであります。
当会はそれでは、人の為に、社会の為に、何ができているのですか。
一人一人の魂の救済をしていると仰るならば、離脱していってる方々の魂の救済はでき得ておらぬではありませぬか。この状況を何と致すのか、と申し上げたい。
人それぞれに、霊格に関係なく、一人一人の魂の尊厳と誇りを損なうことがあってはなりませぬ。

八方ふさがりの当会は、わけの解らぬ闘いをあちらこちらに仕掛けて、自分達の立場を正当化致しております。世間一般の常識を軽視しておりますが、決してそのような甘いものではございませぬ。世間一般の方々に尊敬され、親しまれるような当会とならずしては、協力者はこれより現われてくることはないでしょう。(もし現われても、内情を知ると魂に深く痛手を負い、離れてゆくことになりましょう)
独立した哲学者の集団が日常生活を軽んじて生きることこそ、慎まなくてはなりませぬ。
神々の目を恐れぬ行為こそ恥じなさい、と申し上げとうございます。


Date: 10 May 2001
[名前] 比丘尼


[幸福の科学に関する意見]
マスコミにより辱めを受けたと、心傷ついたる長は報復に出ましたが、今度はその反作用が関谷さまの本により現われました。
長たる方をマスコミが叩いたように、今度は、当会がマスコミになり代わりましたような行動にて、関谷さまをはじめ、離脱した者たちを叩いております。がその醜さに、愚かさに、気づいておりませぬ。

いよいよもって、わけの解からぬ集団となりつつあります。
つける薬のない、手の施しようのない会となってしまい、人の善意を汲み取ることも出来ず、悪いほうに悪いほうに解釈し、自分達の会を一言でも非難しようものなら攻撃し、相手の弱点を、まるで重箱の隅を爪楊枝で突くようなことばかりしております。
神に代わって、総てを裁くようなことばかりしております。
総てを敵に回して、神経をピリピリと張り巡らし、会の取材内容を一行たりとも見つけると、抗議し怒鳴り込んで有無を言わさぬ、非常にどうしようもない、手の施しようのない呆れた団体となりつつ、相手にしない方がよいというマスコミ側の本音が感じ取られて参ります。社会的信用を失う行動に出ております。
これでマスコミ改革をして、うまくいったと当会は思うのでしょうが、その上に他宗派の批判を致しており、総ての教団を敵に回しております。創価学会も信者集めに走っておりますが、当会は同じ土俵で優劣を競わんとしているようにも見えます。

これより、静かに自らを磨きつつ、遠くから静かに見守る以外に方法はございませぬ。相手が会員であっても、決して相手になさってはなりませぬ。つける薬が、今現在ございません。


Date: 17 May 2001
[名前] 比丘尼


[幸福の科学に関する意見]
人々は宗教の遍歴をして失望だけを学ぶのではなく、自らが何らかの感じを起こして宗教に入った時点で、その中から何らかの学びあるいは教訓を掴んでいるはずなのでございます。そこで満足せず、次々に転々としているだけでは、自らの心を磨くことはできませぬ。
宗教にひかれて自らの心を見つめ、まず<もとなる心>に行き着く方は幸いでございます。すべては心この一つ、よき思いを出すも悪い思いを出すも、自らのこの心をしっかりと統御して治めてゆく、これが原点でございます。
内なる社に住まう神へとつながる守護霊の存在(善なる良心)を確信するに到る方々は、表面的なことにとらわれる方々ではなく、やはり過去、幾転生の間、この心の不思議さ・偉大さに気づいている方々でございます。決して今世だけの反省行で行き当たったわけではなく、魂の素地というものもございます。今世だけのものではない何かが下地としてある、ということでございます。しかしながら、努力する心もまた大切であります。

宗教の遍歴をして転々とし「どこも満足しない、失望ばかりだ」と仰る方々は、まず自らの足元(心)を見つめることを中心とせねばなりませぬ。
入会した所の教義なり何なり、たとえ一時でも自らの中に共感できるものがあったなら、心を深めてゆくキッカケともなります。三次元に住む以上、心の中の思いは現象という形となって現われて参ります。
宗教難民となったればこそ、自らの足で一人立ちする日も間近いと信じ、内なる心を深め、神へと通ずる信仰の道を深めていっていただきたいものでございます。
自らを救い得るものは、法を深く心に落とし、その法を拠りどころとして、感謝・反省・実践しかございません。総て、日々のことでございます。

一宗一派に属せずとも、自らの心をしっかりと治め、他への愛に生きる方は大勢いらっしゃいます。また、自らより優れている方にご指導していただきたいという方々も、沢山いらっしゃいます。が、共に目指す行き着くところは、八正道を中心とした自らの心の統御・語る言葉の調律・思いのコントロールでございます。
一人のすばらしい、神の宿る社としての存在が増え続けてゆく時、この地上はユートピアへと近づいて参ります。

すばらしい夢と希望に満ちた未来がドアを開ければあるというのに、、、、ドアのノブに手をかけガチャッと開けて、新しい世界の新鮮な空気を吸ってゆくことの方が、もっともっと大切なことでございます。
真実の心に目覚めぬ自らに、目覚めのきっかけを与えて下さった観世音菩薩の方便として、神への感謝とともに心澄ませて生きてゆくことこそ、大切なことであります。
高橋信次先生は偉大な方でございます。先生とて「しっかりと自分の心を見つめ、自らの心を治めていきながら、真実を知らない人達に真実の生き方をお伝えし、人々と共に泣き、共に喜びながら、善我なる心と共に生きてゆきなさい」と仰るにちがいありませぬ。

この世には、絶対なるものは何一つありませぬ。
大宇宙をお創りになられた神の存在をおいて、絶対というものは存在いたしませぬ。
相対的な人々の思惑よりも、神々の願われる方向へ進む時、スムーズに物事は流れて参ります。いつもお見守り、陰ながら励まし続ける存在があります。
焦ることなく、頑張ってゆかれませ。

神を背に ひるむことなく つき進む
もとなる心 守りぬかねば


Date: 5 Jun 2001
[名前] 比丘尼


[幸福の科学に関する意見]
何度も申しますが、言葉は言霊と申し、聖霊が宿る生き物でございます。
皆々様方は、頭では解っておりましょうが、実際には良く解ってはいないと申せます。
真に心の練れた方は、必ずこの言葉のところにぶつかります。人様とお会いして、外見だけではなく、内からにじみ出るような気品あふれる方と出会うこともございますし、その反対に、非常に粗野で、がさつな方と出会うこともございます。
「心が良ければ口は悪くてもいい」という方もいらっしゃいますが、いいえ、そうではございませぬ。
人様を励まし勇気づける言葉・いたわりや気遣いの言葉・優しく包みこむ言葉、そのような言葉は、口から出た瞬間、神の喜ばれる光のエネルギーとなり、この地上をも含み、人様に対しましても、心安らぐ良きエネルギーとなって参ります。
反対に攻撃的・批判的な言葉・争いの言葉は、人を傷つけ、心に毒の剣として刺さり、この世に暗雲をもち来たらすほどの破壊的なエネルギーとなって参ります。

皆々様方は、表面的にだけ言葉を使おうとするのではなく、内なる心からの良き思いとしての真なる言葉・神様の喜ばれる光満ちた言霊が自らの口より出ずるのを見ることができたならば、「あっ」と驚きの言葉をあげられるに違いありません。
反対に口から出る言葉が、毛虫や蛇やミミズのように、オドロオドロしいものであるのをご覧になったらば、一体どのようにお感じになられることでしょうか。

人様に語る言葉は、見せかけだけではなく、本音・建前のように使いわけるのでなく、真に言葉の調律を行ない、日々心の安定感を常に保てるような方向で、努力して参られませ。その方の人格というものはその方の語る言葉の波動に匹敵する、と申しましても過言ではございませぬ。
丁寧に使えばそれで良いというわけでは決してなく、語る言葉がその方の質を現わす、人となりを現わすということを肝に銘じ、皆々様方は言葉の調律を行なっていっていただきたいものでございます。

皆々様方は、気品あふれるような方を目指したいと思いませぬか。女性として生まれ女性として生き、語る言葉の調律や心が常にザワザワ揺れ動かない、安定感に満ちた人を目指したいとは思いませぬか。
(女性だけに限らず)人間というものは、生まれ・育ちにより卑しくなるのではないのです。魂の生地というものは、自らの体現したいと思うもの、たとえば素直さ・心の優しさ・気高さ・勤勉さ、、、まだまだ他にも沢山ございますが、そういったものが本来の素地なのでございます。

この世に生まれ出で育ちましたところの環境や教育、思想や習慣によりて作りたる一切の汚れを、自らの聖なる尊い魂のまわりに、まるでカラをつけたように付着させて、あたかも、その汚れの付着したままの自分が本来の自分かのように、振る舞って生きておるのでございます。

女性の特質としての優美さ・たおやかさ・気高さ・百合の香のような気品あふれる女神の姿こそ本来のものだと申しましたら、皆々様は驚かれるに違いありません。本来の魂の素地は、汚れなきもの・気高きもの・優しきもの・美しきもの・尊きものでございます。
皆々様は、今、現にある自分が自分であると思っておいでですが、決してそのようなものではない、ということでございます。

悪しき言葉は、神様の創られし世界を汚すだけでなく、自らの心をも汚してしまいます。
黒いススのような塊りを自らの内にも外にもくっつけ、魂の気高さを損なう行為となってしまいます。そのような現実がございます。

清らかな 澄める心に 神宿り
ことばは丸く 愛があふれる


Date: 1 Jul 2001
[名前] 比丘尼


[幸福の科学に関する意見]
主宰はもはや、天上界のインスピレーションは受けておられませぬ。
自らの権力・名声・その地位・立場を守らんが為、必死で砦を死守しております。
いかに偉大な天使でありましょうとも、人間として生きてゆく上での欲望や執着がこれほどまでに他界のものをおびき寄せ、心まで明け渡す結果になるとは、、、。それほどに、三次元は厳しいところでございます。

当会の教えでなくば人々を救えぬなどとは、言語道断でございます。自負心だけで人を救うことはできませぬ。
いかにすばらしい法が降りようとも、その法を庇護し、連綿と後世へと受け継いでゆくには、その法を受け継いでゆく方々、もしくはその団体が、これもやはり法を自らの中に日々の実践へと転化し、どなたがご覧になられましても素晴しき人格者とならなくば、その法はただの飾り物にしかすぎませぬ。

当会の教えは、まさにこの地上に、(先人方・諸聖賢方が残された)その時代・地域に合わせて降ろされた法であり、時代・歴史を超えて連綿と語り継がれてきたものでございます。この教えというものは、当会にある前から(皆々様がこの地上に生命を受くる前より)あったものでございますし、この教えを諸宗教・諸派に分かれて説かれてきたものともまた同じく、等しいものもございます。ですから一概に、当会の教えだけでしか救えないとは申せませぬ。
当会ある前より生きた人々で、天上界に帰られておる方々もいらっしゃいますし、当会に無縁の方々で、天上界に帰っておられる方々もいらっしゃるのでございます。

一番大切なことは、その法を、自らの心がどう捉えどのように生きたか、それ如何によって帰る世界も決まってゆくのでございますから、これとて、心を生涯通して神の方向へ向け続ける、当人様にとりましての努力の部分もいるのでございます。
当会にいて会員であるから、将来が約束されるわけでも、天国へゆけるわけでもございません。そこのところを心得違いしてはならぬ、と申し上げとうございます。そうでなくば、当会の出現する以前の、過去亡くなった方々は全員救われないことになりますし、また、これよりのち、当会に入会しない方々は救われないまま、という判断にもつながって参りましょう。そのようなものではございませぬ。

当会は素晴しい法を頂いておりながら、その法を人間的浅知恵で枠にはめ、非常に固く、狭まった不自由なものとしております。これ以上、法を汚しめてはなりませぬ。
本来、清きままに流してゆかなくてはならないはずの法が、鬼の首でも取ったように、当会の名にこだわる輩が心得違いをして「自分達のもの」という、まるで持ち物のように致しております。
法とは、目に見える形あるものでもなければ、誰々のものというような、そのような不自由なものの見方・考え方の中にあるようなものではございませぬ。
また、総ての人々を自らの前にかしずかせようという思惑自体、天使の心ではないといえます。
当会の今の現状は、総てを敵に回し、自らのみを正当化し、自分達のみが選ばれたる人々とばかり声を大にして他教団を排撃し、ことあるごとに告訴し、嘘偽りの情報を内部に流しておりまする。
善良な羊のまわりに高い塀を張り巡らし、外にはおいしい空気と青々とした草があるのに「外に行ってはいけない、外にはサタンがいる、外は危ない世界」とばかり、その本来自由である各人の魂を縛り、足かせをし、窮屈なまでに心を縛っております。
宗教は、人の魂を解放し、喜びや心の幸福を与えなくてはならないのに、苦しみあえぎ、傷つく人が出たり、辞めてゆく人々が続出するのは何故でありましょうか。
素直な心になるのは、主宰や補佐や講師陣の幹部クラスでありましょう。もはや、自らの心を見失い、自分達の都合のよい論理で人を従わせようなど、正気の沙汰とは申せませぬ。


Date: 1 Jul 2001
[名前] 比丘尼


[幸福の科学に関する意見]
八正道の「正定」に関しましても「自分達の道場でなければ出来ない」等と申しておりますが、悪魔の声と天使の声、その考えの違いを(正邪を)見極められぬとは、何と愚かしいことよ。監督する方が他界のものに魅いられておりながら、道場をつくり、修法の実践などを致したらどうなると思いますか。会員が、次々と他界のものに意識を操られる結果となり、非常に危険であります。

また、正しい信仰と申しておりますが、何をもって正しい信仰と申されるのか、教義の確立とは何をもって確立と申されるのか。
「生き神信仰」が正しい信仰で、天上界より降りたる「霊言」を、全面的に(今現在の教義と矛盾するものに対しては)次々と抹殺してゆくことが教義の確立ならば、当会は存在する意義がございませぬ。

神より降りたる法を汚しめる、その恥ずべき行為を何と致すかと申し上げたい。
宗教に対する人々の偏見を拡大し、地に貶める行為をこそ反省致し、自らの思い上がりから、神近き方々を誹謗・中傷する恥ずべき心をこそ、悔い改めるべきでございます。自分達の語っている言葉こそ不妄語であり、人類に一条の光を投げかけて生きた諸聖賢方・神近き高級諸霊の皆様方に対する、不遜な態度をこそ戒むるべきでありまする。

人間は、決して神と対等であってはなりませぬ。
謙虚さの微塵も感じられぬ自らに気づきなさい、と申し上げます。
自分達が犯している罪の大きさに気づかなくてはなりませぬ。

たとえ主宰が仏陀の生れ変わりでありましょうとも、自ら仏陀と名乗るべきではないと申せます。偉大な仏陀ならば、人はその徳により周りへと集まってくるのであり、仏陀としての偉業をなしてゆく姿を確信してこそ、周りが「仏陀」と申すのであります。
(昔、合戦の際、「ヤーヤー、我こそは、、、」と名乗りをあげて戦うような、そのようなものとは訳が違いますゆえに)
仏陀ならば、その愛の深さを、慈悲の心を、総ての人々を包み込むその徳ある姿を示しなさい、と申し上げとうございます。愛のカケラもなく人を裁き貶め、自らを正当化する方が、愛と慈悲の塊りである「仏陀」と申せましょうか。

たとえ光の天使でありましょうとも、人間として生まれた以上、相対的な世界の中にありて絶対間違わないと申せましょうか。
「神」以外に<絶対>という存在などありませぬ。絶対ではなき故に、たとえ高級霊でありましょうとも、人間に身をやつして魂修行をするわけでございましょう。それは神へと向かって、無限の向上を望んでいるからに他なりませぬ。
如来には如来の修行がございますように、たとえ神近き高級霊でありましょうとも、それは同じでございます。


Date: 13 Jul 2001
[名前] 比丘尼


[幸福の科学に関する意見]
理想としての「法」を自らの学びの中心に据えても、現実的にはこの世的な常識を大きくはずれ、また法は建前で、本音は、人間としての在り方・生き方が法とはかけ離れた矛盾したものであるが故に、心純粋な方ほどこのことに気付き心苦しみ、決断して会を離れてゆく方が跡を絶たなくなるのでございます。

当会を離れることを躊躇される方は「当会のみが、天上界の法が降りている所」とか、「ここを離れることは神の意志に反する」などと自らを縛っております。固定観念という縄で縛るがゆえに身動きがとれず、魂は苦しみ、しかしながら離れることができない状態となって、、、。この縛りをほどくには、ものごとを正しく見極める力がなくば、無理でございます。
法が素晴しければ、そこに集う方々も心正しく、神の心を心として身を正し、心を正し、真の修行者としての<<思い・言葉・行ない>>を正さなくば、嘘でございます。
これが出来なくば、単に烏合の集団と化してしまいます。
出家して法を学ぶ方ならば、更なる厳しさを要求されるというものでございます。
言葉の統御一つできておらず、いくら法名ありても意味などありませぬ。

神がご覧になられている中で一番大切なのは、その汚れなき真実の良心ともいうべき「心」であります。いつも人の意見や言葉に右往左往して言われた通り、、、、まるでロボットの集団ではありませぬか。
当会の今の会員は感じる心を否定し、長や補佐の言葉に(自分の心で深く考えた答えでもないのに)言われるままに従うことをもって「信仰」として、何ら疑問も感じぬ愚かな心であります。
信仰の世界は、一人一人が(誰に言われたからとか、こうしなくてはいけないからという思いではなく)自らの心に神の見えない息吹きを感じつつ、自主的に参入してゆく世界であり、そこには人間的な思い入れや、駆引きや、この世的な自分の都合というものは、一切、介入できない世界であります。
自らの小さき魂が、大いなる神のみ前で、内なる心を媒介として神と相対座する世界が信仰の世界であり、そこには誰一人、他人の介入(の一切)を許さない世界であります。親なる神のみ前に、子たる分け御霊としての小さき魂がその懐に飛び込むのを許される瞬間でもあります。そこに、この世的な雑事一切(組織やその他諸々の雑事)は入ることが許されない厳しさがございます。

組織は人の手により作られたるもの、法は天上界より降ろされたるもの、仏は天上界の光のパイプ役として使命を受けたるもの。総てこの地上界は、天上界の意志なくして、神の意志なくして、存在は不可能であります。


Date: 13 Jul 2001
[名前] 比丘尼


[幸福の科学に関する意見]
神の法は、この地上の芥に揉まれ生きる人々への正しさの指針であり、正しい人生航路を渡ってゆくための方向指示器でもあります。
汚れなき神の慈悲と愛の現れともいうべき「法」を、この地上に生きる人は何人たりとも、手垢のついたものとして扱ってはならないのであります。たとえ神の任命を受けて、光のパイプ役として生きる光の天使でありましょうとも、この「法」を受け取るに身も心も正しく謹んで預かるべきであり、それに反する行為を致すならば、その反作用はご本人が受けるべくして受けることとなります。

この地上にありては、天使といえども、現象界と実在界の総てを統率することなど不可能であります。実在界からの啓示なくして、(この地上を生きる)自らの意志だけで生くるには、過ち多いものとなります。

法というものは、神の意志そのものであり、神そのものが法であります。
この地上で自らを神として宣言する者が、神そのものの「法」を手にして「自らが神である」など、大それたことを申してはなりませぬ。
天に神が二つあるなど、聞いたことはございませぬ。
「法」そのものが神の意志であり、それを預かる方が自らを「神」と申されることは、太陽を二つ天に昇らせるようなものでございます。
天に太陽は一つでよろしいのです。

神は決して、人間として生まれることなどありませぬ。
神は光の大いなる存在として、常に天上界にありて光を投げ続ける、投げかける存在であります。
人間として生まれて自らの使命に目覚めても、神の存在を忘れ、自らを神とする謙虚さのかけらもない恥ずべき心の在り方を、そして誤てる心で地下のものを引き込み、多くの者を迷わせている現状を、天上界の神々が許したままでいるとお思いでしょうか。決して手をこまねいて見ているわけではない、ということを知らなくてはなりませぬ。

一人でも多くの心ある方々が横に信頼の手をのばし、深い信仰のもとに、神の愛を、慈悲のお心を自らの心で体現して生きてゆかなくては、天上界より法を降ろされた意味はもはやそこにはない、というものでございます。

時をみて 満つる潮の 流れをば
変ゆるは神の おぼしめしなり


Date: 14 Jul 2001
[名前] 比丘尼


[幸福の科学に関する意見]
今、全国に心ある方々が集っている理由に、目覚めなくてはなりませぬ。
皆様方、本来の使命を果たす時が参ったからに他なりませぬ。
会を脱会したからといって、使命もそこで終わりということは決してありませぬ。
辞めて後に、果たすべき使命もあるのでございます。

心の中のくすぶりを、そのままにしていることがベストでは決してありませぬ。
心ある方々がしっかりとお仲間の手を握り、固い信頼の絆のもとに、自らの心に使命の熱い疼きを感じたならば、今こそ決意いたす時でございます。
もてる力をそれぞれが発揮し、力を合わせ、神への深い信仰に生きんとするならば、たとえ一%の可能性であっても、血路を開いてゆくことが出来るのであります。

天上界の神々は、地上の皆様のガラス張りの心をご覧になられております。
そして一人立ち、二人立ち、勇気をもって(神のお心を中心に据え)生きんとする方々に、喜びの声援を送っておられるのでございます。
皆様方とて、自らをお守り下さる守護霊や、魂の兄弟たちの存在や、それにもまして、常に愛と慈悲の光を投げかけて下さる大いなる神の存在や、神近き高級霊の皆々様方のご加護のもとに(天や地や人々の恵み・支えによりて生かされているこの真実のもとに)生かされている自らがあるということを、日々、感謝とともに思い起こさなくてはなりませぬ。
その報恩の行為を、「使命の遂行」と捉えなくてはなりませぬ。

使命とは、この地上人生を生くる際の、魂を磨きつつよりよき(神の願われる)神の子としての向上、人格の形成・徳の形成と同時に、天上界の神々のみ前で誓ってきたところの自らの役割(本来のなさねばならぬ、果たすべき、神よりいただいた、今回の歯車の一つとしての)使命の遂行でございます。
自己を磨きつつ、天より与えられた今回の計画の一つとしての歯車の役割・使命に深く深く目覚め、思い起こしていただきたいと、このように思いまする。

自らの心に深く問うて、その使命を一人一人思い起こしていただき、立ち上がってほしいものでございます。
神の世界においては、不可能なことなど何一つございませぬ。
この地上において皆様方がこうなって欲しいと思うことも、法則に則れば可能であり実現いたすのですが、まだまだ思い弱く、そこまで到っておりませぬ。
どうか、小さな望みと捨てず、大きな希望へとつなげていっていただきたいと思います。

戦うことをもって善しとするのではなく、気づき・目覚めを与えることをもって善しとしていって頂きたいものでございます。

何事も 案ずるおもひ 捨て去りて
希望につなげる 道をつくりし


Date: 16 Jul 2001
[名前] 比丘尼


[幸福の科学に関する意見]
長たる方は、派手やかなことがお好きのようでございます。
見せかけだけの上辺にとらわれますと、ものごとの本質は見えなくなって参ります。
ものごとの本質をこそ見極める力を、皆様方一人ひとり、培っていただきとうございます。
奥なるものの本質こそ見抜けねば、何の修行かと申し上げとうございます。

人間は、ロボットではありませぬ。
総てものごとの判断をするのも自らであり、選択するのも自らであります。神は各々にそれを委ねられており、それを善しとなさっておられるのです。
ただし、その選択の責任もまた各々に委ねられております。誤てる判断の結果、間違った答えを出す者もあり、正しい答えを出す者もあり、しかしどのようにしても、自らが考えて考えて、考えて納得した答えを出すならば、人のせい他人のせいとはせず、総て自らの責任として受け止めることができましょう。
人の言う通りに動いて失敗したら、よく考えずにその言われた通りに動いた自らを省みなさい、と申し上げます。

神より分かれてきたるところの分け御霊は、その霊格の高さに関係なく、一つ一つのキラメキが素晴しいのであります。天空に散らばる星々の輝きを見て、あの星は一番大きいからとか、立派だからとか、きれいとか申しましょうか。
総てが煌きを放っているからこそ、美しいのであります。

それぞれの持ちたる使命もまた同じでございます。
一人一人の使命をもちよりて一つの神の願われる世界へと変えてゆく、ここに意義があるのでございます。
夜空に一つだけの星であっては、あの多くの星々の素晴しい煌きは見られません。
一人一人の魂の煌きが、それぞれ光を放ってこそ、素晴しい世の中へと変えてゆく力となるのであります。

一人一人の魂の尊厳と誇りを決して失わず、尊い使命を神より頂いていることの自覚を、一人一人深めていっていただきたいものでございます。
内なる心をしっかりと、死守していただきとうございます。

それぞれの 魂こそが 尊くて
神はすべてを 我が子とみなし


Date: 22 Jul 2001
[名前] 比丘尼


[幸福の科学に関する意見]
当会の被害を蒙っておられる多くの方々の中で立たれたのは、他ならぬ関谷様お一人でございました。潔さにおいて、この方の右に出る者はどなたもいらっしゃいませぬ。天上界の動きは、正と邪を分かち、物事のケジメをはっきりとつける方向へいっております。
神の理を預かる方は、その心においても一点の汚れなき状態でなくてはなりませぬ。
我らは、戦うことをもってよしとは致しませぬ。そうではなく、汚れなき『法』を汚れなき心で扱わなくてはならぬことの意味を、ましてや人間心で手垢のついたものとは決してしてはならないことを知らしむる意味もあって、正そうとしております。

これ以上、心病む方々を放っておいてはなりませぬ。また、心得違いをしている当会の長や幹部達を黙認していてはなりませぬ。多くの方々に対し(泣き寝入り・知らぬ顔の半兵衛を決め込むのではなく)勇気を奮い起こして立ち上がり、当会をその在り方を正す方向へと促すのも大切なことであります。

醜い争いを望んでいるわけでもなんでもないのです。
法を歪めることを、神々がお許しになろうはずがありませぬ。


Date: 5 Aug 2001
[名前] 比丘尼


[幸福の科学に関する意見]
『新・太陽の法』で感じられるのは、増上慢で謙虚さの微塵も感じられぬ慢心の心、自らを絶対唯一の神といわんばかりの神をも恐れぬ不届きな態度、自画自讃の自己をアピールする文章が至るところに込められており、もう明らかに違う者に支配され、法を汚しめ、多くの者を誤った方向へと意図する、地下の者の操り人形と化してしまいました。
自らの優秀さをひけらかし、自らの力を誇示する、そして自らの配下を引き連れその勢力を伸ばし、悪しき想念波動をこの地上に蔓延(はびこ)らせようとする者が誰であるか、お分かりのことと思います。
エルランティ様を忌み嫌い、ミカエル様やモーゼ様を忌み嫌い、徹底的に排除しようとしておる堕天使の仕業でございます。
明らかに意図するところは、この地上における名声、この地上の富、そして教団の拡大、人心を狂わせ、地下の者たちにその心を支配させ、自らの思うがままに生きんとする、法を恥ずかしめ汚し、神の名を貶める行為を繰り返さんとしております。

自らの率いる団体のみを正しい宗教団体とし、他を排斥せんと、醜い批判非難、他宗排撃をしており、自らの心を悪しき他界の者に操られている証拠であります。
悪魔、サタンの存在を許さじとばかり消滅を願うなど、もはや(神の心を心とする)天使の心ではないということを、見破らなければなりませぬ。


Date: 5 Aug 2001
[名前] 比丘尼


[幸福の科学に関する意見]
法というものはいつの時代も不変のもの、勝手な人間心でその法を書き換えんとする不届きな行為を、神がご覧になって、許すとお思いでしょうか。
地上界で、ルシファーが神の名を汚す行為を繰り返していた時、エルランティ様は天上界から警告を発し、ミカエル様をこの地上に送り込まれました。
神が、悪しき行為を繰り返すのを黙って見ておられるとお思いでしょうか。高橋信次先生とて、「長」に警告を発したことが何度もあったはずです。しかしながら、長は、この地上の総ての時代責任を我が手に委ねられているということを、違った方向へ解釈し、このような結果へと成さしめたのでありましょう。
「ミカエル・モーゼ・高橋信次先生を裏の世界へ封じ込めた」「謹慎処分にした」という言い方は、逆に、自らが邪魔なる存在を貶め、蔑ろにしたことを意味しております。

当会に無私なる心で貢献した方々を「恩知らず」と呼び、「やむなく法を曲げた」などとおっしゃること自体、もはや汚れなき天使の心ではなきことを物語っておりましょう。
「法」はたとえどのようなことがあろうとも、決して曲げてはならぬもの。そのように仰るのならば何故、一人離脱し、団体を捨ててでも(法を曲げるくらいならば)この法を守るために身を捨てなかったか、と申し上げとうございます。ましてや、恩を仇で返すという言い回しは、ギブ・アンド・テイクの世界、損得勘定に生きる恨みつらみの世界でございましょう。神からお預かりしているに過ぎない<<法>>を楯にとり、自分達のものといわんばかり、その自分達に対し反逆するように見える行為は許せないとばかり、そのような心を物語っているからこそ「恩を仇で返す」という言葉が出て参るのでありましょう。

神がそのような心でおられたならば、この地上に住む総ての人間は全員恩知らずで、神に責められましょう。しかしながら神は、どのような人に対しても、寛容なる心で気づきの時をじっと待ち続けておられます。(恨むでもなく、責めるでもなく、ご自分を育てて下さった親である善川先生に対し、恩を感じて、行為に現わしているや否や問うてみたいと思いまする)
神の代理人として立たれる方は、その心において一点の曇りなく、神のお心を心として生きる姿勢を終始貫き通すお覚悟で臨まなければ、多くの者が道に迷ってしまいましょう。

御恩があるから、今「長」が現に間違っていても会を離れることはできない、と思っておられる方もいらっしゃいましょう。しかしながら、為すがまま、やりたい放題にさせておくことは罪である、ということを分からなくてはなりませぬ。(間違った者に入られると、その思考は正常ではなくなり、さらに拍車を加えるように、ものごとは誤った方向へと転回して参り、多くの方々を迷わせる方向へ行ってしまいます)
体当たりしてでも止めなくば野放しの状態となり、手の施しようもなくなれば、悪しき想念はこの地上に蔓延してしまいます。長ご自身は、反省できる状態ではないのです。


Date: 5 Aug 2001
[名前] 比丘尼


[幸福の科学に関する意見]
法の継承は、悟りたる者から悟りたる者へと成されて参りました。バトンタッチされた方が間違った方向へと行っている時は、気づいた者が警告を発する以外にありませぬ。間違っているのを黙認することが、正しさではありませぬ。だからといって、激しくなじったり争ったりせよと申しているのではありませぬ。

汚れなき法を、正しいままに残してゆかなくてはなりませぬ。
法を書き改め手を加えたものを、組織としてのサンガーが後々の世に伝えていったら、どうなるとお思いでしょうか。
後の世の人は、間違ったものを「正しい法」として学んでゆくのです。これは、どのようなことがありましても避けなくてはなりませぬ。良いものは残るからといって何らの努力もせずに、我関せずでいて良いわけがございませぬ。
自らが神に生かされて存在することを許されていることに気づいたならば、「自らの出来ることを、御手足として多少なりとも力になってゆかなくては」という心こそ大切でありましょう。

自己保身の心は、どなたもお持ちでございます。
それぞれがその自己保身の心と闘って、克服していただきたいものでございます。
前向きな心、積極的なプラスの波動こそ、今もっとも必要とされているのでございます。

肉を持つ人間にとりまして、ましてや法を預かり降ろす立場にある方にとりまして、天上界からのインスピレーションなくして、法を説くことは不可能であります。天上界からの直接の啓示を受けて法を説くからこそ、そこに意義があるのです。「長」たる方の使命もそこにあります。
「神」という言葉を総て「仏」に置き換え、金星でのエルミオーレの失敗を大成功に書き換え、神をも恐れぬ不埒な行為を、神がよしとなさるわけがありますまい。
正邪を分かつ方向へ、ものごとは流れて参ります。

押し寄する 濁れし水を 押しとどむ
堰なる務め いだきしゆえに 


Date: 10 Aug 2001
[名前] 比丘尼


[幸福の科学に関する意見]
八月号の月刊誌で、今度は「霊友会」を批判・非難しておるとのこと。明らかに、闘争破壊を好むものの仕業でございます。
他を低く貶める行為は、決して自らの存在を浮き立たせるようなものではございませぬ。かえって当会の社会的な信用を失墜させるのみならず、宗教全般に対して、多くの方々に良くないイメージを植え付けてしまう結果となってしまいます。

地下の者は人心の混乱・撹乱を意図しております。心ある者は、この煽動に決して乗ってはなりませぬ。
批判・非難という行為は自らの霊格を貶めるのみならず、人々の心の湖に大きな波紋を起こし、平静さ、安らぎを失わしめる結果となり、悪想念の拡大へとつながって参ります。このようなことを繰り返している当会の現状を、多くの方々は(心あるならば)よく見極めなくてはなりませぬ。

指導者を、違ったものが指導していると気づいたならば、その行動に賛同することは大きな罪でございます。
当会に反省を促し、軌道修正を望むためにも<離脱>の行為は心ある会員の皆様の沈黙の抗議であります。ゆえに当会の長・幹部の方々は、なぜこのようなことが、、、離脱する者が次から次と出ているこの現状に、自らに心得違いはないか反省をしなくてはなりませぬ。
心というものはとても奥行き深く、自らのチョットした誤てる思いが大きな波紋となります。しかし、心ある会員の皆様の中には、何も知らずにいる方も一部おりましょうし、自らの心をすり替えて従うことが正しいと決心した方もおりましょう。
そのような会員の方々の神性を汚しめ、間違った方向へと引っ張っているのでありますから、この大きなマイナスの反作用を増長させないように心ある方はくい止めなくては、被害が大きくなって参ります。
儀式に力を入れすぎ、肝心の、離脱してゆく者の心・魂の救済などできてはおりませぬ。

前途のある(社会に大きく貢献する使命を担ってきておる)若者たちや、経済界でも、この日本の国を繁栄させ、他の国々にも影響を与える重要な役割・使命を担ってきている方々、未来づくりに貢献する若者たちが大勢生まれてきておるのでございます。
多くの者が出家し、当会という社会とは孤立した中で、知識のみで頭でっかちになってしまうのならば、当会を団体にする必要などなかったのでございます。
我も我もと出家したくなるような、煽るような言葉は控えるべきでございます。
およそ、この世の社会生活の基盤となる職業というものを切り離して、社会が成り立ってゆくということはありませぬ。ものごとは、総てのものが糾える縄のごとく繋がっており、互いに何らかの影響を与え合いながらこの世というものが成り立っておる真実がございます。ゆえに、当会に出家することのみをよしとして全員がそうしていっては、社会危惧にならぬとも限りませぬ。
常に、冷静な目でものごとを判断してゆく皆様方であっていただきたいと思います。


Date: 10 Aug 2001
[名前] 比丘尼


[幸福の科学に関する意見]
見たくないものも、時としては見なくてはなりませぬ。
それは、書籍の内容にしても然りでございます。非難・批判の内容とて、読む人の心を曇らせますが、冷静なる目で見ていった時、その奥には心苦しむ会員・気づき始めた会員、そして当会が誤てる者に指導されている真実と、人心の混乱を意図する地下の者の動きが読み取れるわけでございます。

当会は、他から何か言われる毎に「侮辱だ、名誉を傷つけられた」とばかり、すぐに頭にカーッと血をのぼらせて殴り込んでゆくことばかりしております。他から何か言われたら、自らをすぐさま省みることが大切なことであって、「自らに非はない」とばかり、まるで子供同士のいさかいの中に親が怒鳴り込んでゆくような、恥ずかしいことを致しております。なぜそのようなことをするのか、元々にさかのぼってゆきますと、<<この世的な名誉・プライド・相当な自負心>>で他を見下していることに他なりませぬ。
あまりの思い上がりに他ならない、と申せます。

人の心を自らの意のままにしようとしているからこそ他から意見が出ている、という真実に目を向けていただきたいものでございます。
世論を馬鹿にしてはならない、ということでございます。
自分達の「生き神様」の名誉を守るためならば、幹部連はそれこそ今まで人を人と思わぬほどに利用していたのも忘れ、<殴り込み部隊><脅し部隊>を編成させ、血の気の多い若者を煽動させ、脅し、すかす行為を平気でさせております。
当会内部に跋扈するものも、動物霊の類や、怒り妬み強き阿修羅霊に他なりませぬ。

「心ある者は一時期退かれよ」と申し上げとうございます。「法」を汚しめることを許すことこそ、間違いであります。もう少し真剣に、神の義にかなっているや否やを、会員諸氏は冷静な目で見ていただきたいものでございます。指導しているものが違ったものであるのに、どっぷりと浸かっていては、心は染料で染め上げるように、間違った考えに染まってしまうのでございます。これは、大変なことでございます。

信仰の 扉は厚く 何ものも
恐れぬ勇気 なくば開かざり


Date: 31 Aug 2001
[名前] 比丘尼


[幸福の科学に関する意見]
何物も、恐れるに足りませぬ。
初期の頃の会員さんで活動に携わった方々は、当会の真実を知る方々でもあります。
長たる方は、このような方々を今回は切り捨てようとなさっておられ、多少の犠牲もやむを得ず、という考えです。現在の教義の矛盾ともなる、高橋信次先生・ミカエル様・モーゼ様の本を読まれては困るわけです。真実に目覚めては都合が悪いので、何とか読ませまいと謹慎処分としてしまった事情があります。

もはや、すり替えをなさる心に働きかけるは自己保身・名声・プライドの損失以外になく、自らの心はあくまでも人間としての煩悩に振り回されておりまする。総てこのように、金銭欲・自我我欲(自らに称讃を集めたい為の)・自己保身欲・見栄・プライドのなせるわざでございます。

総て自らの都合の良いように「法」をねじ曲げることは、もはや天使ではなく、悪魔に魂を売り渡す行為であります。人々に対する感謝の心なく、純粋な心で霊言を信じ、身も心も財産も投げ打って尽くした方々に対し、それは当然のことと言わんばかりの、恥知らずの暴言を吐いております。
真に神通力あるならば、そのような一人一人の辞めていった会員さんの、清らかな心が分かるはずでございます。それが分からずに自らを「神」などとは、これは異なこと、、、。
「総ては自らの犠牲のためにある人々」と思う心は、悪しき魔界の者の心でございます。


Date: 31 Aug 2001
[名前] 比丘尼


[幸福の科学に関する意見]
心ある人々よ、良心の声を聞いたならば、このような状況を察知せねば魂の破壊となってしまいます。悪魔に魂を売り渡すようなことを、決してしてはなりませぬ。
悪魔は非常に、やること為すこと、実に巧妙でございます。これを見抜かなくてはなりませぬ。今の長のお考えは、自らを正当化するためには手段を選ばぬ、非常に冷酷無比な愛なき心であります。その言葉は巧みで人々の心を甘くくすぐり、神の子としての考える心を麻痺させてしまいます。

今こそ、自らの心の王国を、自らの手で守らねばなりませぬ。
その勇気なくば、神の子とは申せませぬ。
自らがじっくりと思考することなくば、間違いや、事の真相は見えて参りませぬ。
たとえどのような時も、自らの心の王国を死守せねばなりませぬ。
自らの心をすり替えて、長たる方に従うことが信仰ではありませぬ。
決して、決して、そうではありませぬ。
天上界の神々が、皆々様方をどのように憂えているか、お分かりにはなりますまい。
「自らの心の王国を自らの手で死守せよ」と、一様に申されておるのでございます。

すり替えが起こった時は、静かに一人、神に祈りなされませ。
「高橋先生、ミカエル様、モーゼ様、イエス様、天上界の神々様、我に真実を見極める勇気を、、、。我を正しく導き給え」と。

神というものは、一人一人の心の中に、常に共にあって下さるのでございます。外に神を求める心こそ、非常に危険な心と申せます。

常に魔界のものは、虎視耽々と、皆々様の心に入り込もうと、意識を操らんとして、狙っておるのでございます。今、このような魔が競い立つ時期でありますゆえに、その動きは一層激しくなり、非常に危険な状態でございます。

すり替えを起こそうとする自らの弱き心を真正面に見据え、「分からないものは分からない」と、結論が出ていないならば、答えが出るまでじっくりと考えることが大切でございます。常に神に祈り、真実を見極める自らとなれるよう、お導きを願うことが大切であります。

天使の姿をした魔界のものは、常に一貫性がなく、いつもコロコロ、手の平を返すように、今言ったことが二転、三転するということを覚えておかなくてはなりませぬ。
今は、すでに間違ったものの指導を受けておられる方に従いついてゆく先はいかなる世界であるかを、知らなくてはなりませぬ。
自らを「神」と名乗る天使はいないことにも、気がつかなくてはなりませぬ。ニセモノの神を名乗る者に、気をつけなくてはなりませぬ。
今、我らが、この者を通じて、皆々様方に警告を発していることがどのような状況かを、分からなくてはなりませぬ。
皆々様の魂を、悪魔に売り渡してはなりませぬ。
気づかずに狂信・盲信となっておられる方々へ、これは警告でもあります。

「皆々様の心の内に眠る守護霊よ、今こそ、目を覚ますのです。
大変なことが起きようとしているのです。
誤てる教義を受け入れてしまう自らの安易さをこそ、戒めなくてはなりませぬ。
自らの魂の尊厳を汚すようなことをしてはなりませぬ。
死せる魂となっては、決してなりませぬ。
神よ、哀れなる魂たちに、目覚めを与え給え、彼らを善導し給え」


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