宗教の心理操作について考えたこと-(1) 投稿者:riku 投稿日:03月04日(土)20時16分57秒 宗教経験の前後における 精神的・心的な劇的変化と苦痛は・・・ 絶望と断罪と懺悔・・ 無価値感 恐怖・・常に教祖に見られている感じ・・ 数限りない 教祖の教え 戒律、道徳、 法、命令・・ 守らなければ地獄、という恐怖 人生の目的の全ては 魂修行・・そんな感覚の毎日・・ 宗教を経験した後の 意識の変化は大きなものでした。 初めて書籍を読んだ時は その書籍に 人生の疑問の答えが 全て書いてあるようで、そのときは 興奮し感動しました。 教祖は 絶対的に 何もかも知っていて 人生の答えの全てを知っていると 教祖自身が言っていたわけで・・自分を信じろと命じてる・・ 彼は 著書の中で 人類の過去を何十億年もさかのぼって 歴史書を書いていて、未来のことも書いています。 最近の予言は 当たりませんでしたけれど・・ でも、つまり 自分は 何もかも知っているし、誰も知らない事を 知っていて それを教えようというのだから 自分に従いなさい。 と 言ってる・・・。 信ぜよ 信ぜよ と命じて 信じられない者は 霊の格が低いのだ ということでしたし、誹謗中傷したら もう 人として生まれ変われないのだ・・と 経のなかには書いてあります。毎日それを読んで・・ でも、何かが違ってる・・気がしたのです。 教祖の 独断だけが 信じられたら 専制政治になってしまう。 独裁国家と同じ・・。 やめた後 いつまでも続いた 奇妙な恐怖心。強烈な無価値感・・ 断罪と絶望と懺悔の意識・・ そんなものをどうして 人の脳に送り込む必要があるのか・・?? 宗教によって生まれた変化ー主に心的・意識的なーは、 ひとえに システムによるものであって、個人個人の 力で それを解除する事は とても 難しいしくみになっていると思います。 誰も 自分の心で何かを決定することや判断する権利を 何かの操作によって 奪われるべきではないと思います。 教団の本を読んで 経を読んで 一番変わった事は いつのまにか 自分の心のなかの最高司令官の椅子には、 自分でなく教祖が座っていたということです。 教団というのは、しくみとしては、絶対的な独裁教祖王国なんだと 思います。 誰も、教祖を罷免できないし、非難できません。もちろん 民主主義のように リコール制度とか、弾劾裁判制度とかもありません。 教祖は、絶対的に完全に偉い 最高霊格の魂であって、 地球人類の誰よりも 一番 魂の格(存在価値のようなもの)が、高いのだと・・ 教祖自身が、そう言っていて、みんな信じているのですから・・。 霊界の世界とは、信者にとっては想像の世界です。 教祖は見てきたと言っているけど、他の人はそれを信じるしかないわけです。 教祖は 信者の脳の中の空想の世界(おとぎの国)を 教祖中心の世界観にして それ以外を信じるものは霊格が低いとか、魂が目覚めていないとか 言います。 裸の王様の市民のように誰も自分がばかだとは いわれたくありません。 絶対的な 善悪の決定者 (だとみんなが信じてる人に・・)に ばかにされるのは 怖いのです。 霊界つまり おとぎの世界で一番偉いのはいつも 教祖です。 その下に天才達、偉人達、魂の修行者たち、そして、善人、一般人です。 ピラミッド構造です。一般人よりも教祖はすごくすごく格が高いのです。 みんな 少なくとも教祖より、ずっとずっと、偉くないのです。 ほとんどの人の格は 教祖の半分くらいしかありません。 しかも 半分以上 心が悪だと その下の地獄に 落ちてしまいます。 そちらの世界が本当だと教祖は言います。誰も見る事ができませんし、 信じられないものは、格が低いといわれますから、みんな信じてます。 信者は 毎日 「霊こそ全ての全てにして・・この世は仮のせかいなり」 と、声をそろえて 唱えます。そのうちに その通りだと思い込みます。 「おとぎの国こそ 実在」と唱えているのと同じですから・・。 そして、「仏法僧への中傷は極悪非道の所業なり」 「もはや 人間として生まれるはこれが最後と悟るべし」 「地上の悪魔は撃退せん」「地下の悪魔は粉砕せん」 「如来の法を妨ぐる悪はこの世に許すまじ」 「降魔の剣を振り下ろし 最後の悪を打ち砕かん」 というのも 毎日唱えます。唱えてる時はただの歌のように感じてます。 「おとぎの国の王様の悪口を言ったら人として生まれ変われないのだ」 「悪魔はどこにいても 撃退して粉砕しなさい」(教団員全体への命令) 「最後まで 剣を振り下ろして 打ち砕きなさい」 悪魔とは教祖の教えに従わなかったり 信じない人の事です。本人の心の中も含まれ ます。仏法僧とは 教祖と教祖の本と教団の人です。教団員は悪魔を見つけ出して 撃退して粉砕して 打ち砕け・・・という意味ですよね。これは、教祖の命令です。 これを歌のように唱えてる。毎日毎日・・ |
宗教の心理操作について考えたこと-(2) 投稿者:riku 投稿日:03月04日(土)21時21分54秒 毎日唱えていると・・あとで自分が教祖を信じなくなったとき、 なぜか、自分で自分の事を悪魔だと自分の意識は 勝手に思い込む ようなんです。 自分で自分を傷つけたくなったり・・事故に遭うような 変な恐怖・・教祖に見られ ていて逃げられないような 恐怖・・何をしてても 怖さから 逃れられない 奇妙な 恐怖心・・。唱えてる時は そんなことになるとはつゆ知りませんから 熱心に 一心に 信じて繰り返し 唱えてしまってる。 言葉は 意識の深いところにいつまでも忘れずに存在してまるで水路のようになって いて その水路の中しか 考えが流れない感じなのです。 それ以外の回路で考えたり感じたりしようとすると 地獄に落ちるように感じて それ以外は 考えてはいけないと感じて・・ 罪悪感や自己嫌悪や 無価値感に 襲われる・・人としてもう生まれ変われないのではないか・・では 何の価値もない・・ などと感じるんです。暗示にかかっているのです。どうしょうもなく 怖くて 価値が ないように感じる。事故も起きやすくなる・・。そんなことが おきました。 でも 最初から そういう仕組みになっているんだと思います。 プログラムのようです。コンピューターにプログラムを インストールされたように 毎日唱えていたこととは、よく覚えているのです。 心の中というのは、言ってみれば、誰だっておとぎの国のようなものです。 だから、信じた事が現実・・完全にバーチャルリアリティという世界。 話は変わりますが ロンドンブーツというコメディアンが 女性の家に押し入って 何かを暴いては 断罪しますよね。嬉々として・・・。まるで 手柄であるかの ように嬉しそうに・・でも あの 断罪のしかたは・・・まるで・・ 無慈悲な絶対者に対してへつらっているかのような善の行使・・ 絶対的な断罪・・情け容赦を感じない・・冷徹で勝手な善の暴力とは気が付いた時 には暴走を止められないところまで行ってしまう。 神の国をつくるという”神聖な目的”のために 植民地支配はおこったの でしたよね。魔女狩りも帝国主義も・・ 正しければ 何をしても許されるとでも 思っているのでしょか? 善の側にたちさえすれば やりたい放題なのか?どちらが人権侵害なのか。 一体誰のための善なのか・・・ 正しければ、誰もが絶対警察のような権限を持ってるとでも・・? 相手に対して愛情もないのに 善をかさに着て 嬉々として・・ あれが、立派だとでも・・?? もしも おとぎの国に たった一人の一番偉い 絶対的な善の決定者がいると 多くの人が認識してしまって そしてその決定者一人の善悪の基準やその権威が めちゃくちゃ高いものだと・・存在価値そのものが高いものだとほとんどの人が 認識してしまって その絶対権威によって 人の価値の上下が計られてるなどと いった認識を ほとんどの人が 許してしまったら・・・ 絶対的な権力者の教えに、そぐわなければ、 撃退し粉砕し打ち砕けと毎日 毎日唱えて 絶対命令だと思い込んでしまったら・・。 全ての人の自由と全ての人の平等と全ての人の人権は 等しく守られなければ ならないという概念は 消し飛んでしまうでしょう。 善の側に立って、絶対者の意志を遂行するために上から人を裁く時、 断罪とは 残酷で、情け容赦のないものになるのだと思います。 誰もみんな同じように尊いと認識している時 人を裁く事は やっぱり 苦しい事であるのですよね。もしも 意識を操作されず 自分の意志で考え 自分の感情で 感じているならば・・相手にとって苦しいことは 自分にとっても苦しいことであるのが 自然なのですよね。 |
つづき (3) (以上) 投稿者:riku 投稿日:03月04日(土)21時31分28秒 自分で判断し自分で感じず自分で善悪を考えず 感じる事をしないから 裁く事を 手柄のように機械的に行えるのですよね。それは ロボットのすること だと思います。ロボットの善は 王への忠誠のみ・・現実に目の前にいる 相手の現実も 事情も事実も感情も 一切 関係なく 教義の命令どうりに 行動してしまう。 誰も彼も 皆同じように尊いと認識してたら おこらない事なのに・・。 集団が暴走するときとは、そうして 一人一人の脳の最高司令官が それぞれの人 でなくなったときおこるのだと思いました。 教祖以外の人の脳は その 本来の支配者ではなくて 教祖になっている・・。 魔女狩りや異教徒の人権侵害、アフリカの奴隷貿易の根底にあった異教徒への 敵意。アジア、インド、アメリカでおこった悲劇、神の民であるから そうでない者を 裁いてよいのか? みんな違ってみんな価値があるから 自然も地球も 驚くほどバラエティに富んで美しいはずで・・ 本来の魂に 価値の高低や 格の高低など・・ あると認識して いったい 何の よい事があるのか・・?と思います。 個性があっても 違いがあっても みんな違ってみんな尊いのだ・・と・・ その認識はものすごく大切だと思うんです。人の意識から 消してはいけない認識だと思うんです。 たった一人の教祖の出現で簡単に消されてしまう・・・なんてことは 魂の格の差と、従わなかったら地獄だという教えの 2点を 教義に導入した 点によって、教祖の中心にあるものは愛ではなく欲だったのだと 私には感じ られたのです。書籍でときどき 言い訳しても それは意識の深層に 入り込むもの ではありません。 破壊的カルト教団というものの問題性は 犯罪を犯したり、 教祖の素行が悪かったりする事のみだとはどうしても思えないのです。 問題は もっと 心理操作のしくみそのもの、人の心を実権を奪い その人の人格を 消去し それによって人生そのものを破壊してしまう工作ができうるからこそ問題 なのではないのでしょうか? 人格を消してしまわれたら 何人いても 誰も その 横暴を止められないからです。 見方はさまざまでしょう。以上の事は体験して実感として感じたことで、私見です。 でも どうしても 伝えたかったのです。 |