記事タイトル:八正道について 


お名前: JUBILOSO   
てんとうむしさん、こんばんは。
確かに高校時代の先生には恵まれていたようです。
今にして思い返しますとユニークな先生が多かったですね。
まるできらめき高校に行ってたみたいな感じです。(((((((((((((^_^;
まぁ、ロボットとか地方の設定の話はフィクションですが、背後にあるものは結構自分の
過去が反映されてたりしてますね。吹奏楽部の学生指揮者とか。
さて、「ソクラテスの弁明」ですが、この本は短編でしたので高校の夏休み中に一気に読
んだという記憶があります。
[1999年11月22日 1時6分7秒]

お名前: てんとうむし   
JUBILOSOさんの高校時代の先生は、いい先生だったんですね。
私の場合は、倫理の先生は、ソクラテスについて詳しく教えてくれましたが、確か、
教科書よりも「ソクラテスの弁明」をテキストにして読んでいって、なんだか
大学の各論の授業みたいでバランスよく東西の思想家たちについて教えてもらわな
かったですね。
バンからの先生でこんな教え方でいいのかと思ったものです。
倫理の大切さより、あの先生は、哲学の方に興味があったんだと思う。
倫理と哲学は、思想家たちを紹介するので同じように見えるが微妙に違っていて、
各思想家たちの考えが客観的にとらえられるいわゆる原理的価値ですか、
そういうものを共通にとらえて、人の規範を教えてくれるのが倫理だと思うのですが
私が教わった先生は、その認識があまかったと思います。
JUBILOSOさんの高校時代の先生は、ここのところがちゃんと
わかっていたんでしょうね。そんな気がします。
[1999年11月21日 2時8分49秒]

お名前: JUBILOSO    URL
てんとうむしさん、こんばんは。
「四諦の教え」は私も高校で習いましたが、当時の高校の先生が「仏教は日本では葬式仏教
だの拝めば救われる式の教えになってしまっているが、釈尊はそのようなことは語っておら
ず、むしろ人生を生きる上での悟りへのプロセスや人生観、深遠な哲学を語っていた。」と
いう授業をされてたのが昨日のことのように思い返せます。
今思えば本当に恵まれてましたね。高校の授業なんて殆ど頭に残ってないんですが、釈尊の
ことは妙に頭にこびりついてます。
[1999年11月20日 21時15分47秒]

お名前: てんとうむし   
JUBILOSOさん

>八正道について正しく伝えた書との出会いと実践が実際問題として困難になっ
ているというのは誠に憂うべきことです。
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そうですね。
日本が仏教の国でもあるなら、八正道は、ある程度しっていてほしいと思います。
高校で倫理の教科書をみれば、基本的なところは、書いてあるんですが、
これが自分の生活にどうむすびつくか、むすびつけるかまでいかないんですよね。

「四諦の教え」として、苦諦・集諦・滅諦・道諦と説明され、
この道諦のなかに「八聖道」とあり、正見、正思、正語、正業、正命、正進、
正念、正定を説明していますが、
「四諦の教え」は、実践的に書かれているとあっても、今の人には、わからない
でしょうね・・・
まとめて、「中庸」くらいがわかるていどなんではないでしょうか。
[1999年11月20日 1時35分8秒]

お名前: JUBILOSO    URL
てんとうむしさん、こんばんは。
八正道のお話が当掲示板に載るのって本当に久しぶりです。
そう言えばオウムの麻原彰晃は八正道をまるで超能力の獲得法であるかのように説き、
幸福の科学の大川隆法氏は八正道の説明、順番自体を誤った解説にした書を出してしま
ったりしてますね。
ワールドメイトの深見東州氏に至っては(最近知りましたが、その著書において)なん
と八正道の否定と「共産主義は悪ではない。」という発言に見られる通りのミスリード
ぶりです。(あきれてもう開いた口がふさがりません。自分は天上界とつながっていな
いということを自ら告白しているようなものです。)

新宗教の関係者で八正道をまともに語れるお方ってどの位いらっしゃるのか、考えただ
けで寒気がしてきます。
八正道について正しく伝えた書との出会いと実践が実際問題として困難になっていると
いうのは誠に憂うべきことです。
まさに悪貨が良貨を駆逐するといった悲しい構図です。
[1999年11月17日 23時19分39秒]

お名前: てんとうむし   
最近また、八正道について考えてみています。
オウム、ライフスペースもそうですが、それぞれの個人が苦行や、修行をやり
悟ろうとしますが、それは、ブッダ様がせっかく人生をかけ探り出した
八正道を軽視するものだと思えてなりません。
私たちは、八正道から、出発して倫理、人間のあり方を考えていくべき
ではないでしょうか・・・

八正道は、日々の生活で見失う、自己をかえりみるためのチェックリスト
のように使うべきで、思想として、体系づけて、宗教思想の基として
使うようなものでは、ないと思います。

西洋、東洋の文化で現代まで残されてきている倫理などの良識的規範
をみるときに共通して見えてくるもの、そういうものと同じではないでしょうか。

「天国の扉」にある解説は、読むたびに、すばらしいと思います。
易しく書かれていて、じつにポイントをおさえています。

正見での「表面だけでなく隠された真意」をみるという見方。
正思での思うことがその人の心を「明るくするか暗くするか」決めるという
事。
正語での愛と慈悲の「語調」で語るという示唆。
正定は、七つの正道を振り返るという慎重さ。


など、所々、読み返すと、簡単な表現で通り過ぎて納得しているつもりに
なっているところがあるということに気がつきます。

仏教系の解説では、こんなに生き生きと表現されていません。
扉の八正道は、なんども機会あるごとに読み返し、それぞれの内容を理解し、
覚えるべきだと思います。
友人と八正道の話になっても全部を思い出すことができない、ことが
多かったんですが、最近では、半分くらい、覚えて、内容を話すことが
できるようになってきています。暗記もいいですが、よく理解しながら
自然と覚えるべきものと考えていて私の場合は、無理しないでいます。
[1999年11月17日 2時17分16秒]


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