記事タイトル:ふりかえってみれば 



お名前: JUBILOSO    URL
観ちゃん、こんばんは。
貨幣経済の世界に生きる限り、お金の欠乏、あまりにも貧乏というのは辛いものがあります。
逆にそれにとらわれて守銭奴になるのも悲惨です。
破綻しないように豊かでありたいですね。

さて、「出家」についてですが、私は例えばオウム真理教のように若年層の人が親子の縁を
切ってまで出家するのには反対だったりします。

10代、20代の方々、いや、ひょっとしたらもっと上の年代の方々もそうかも知れません
が出家するよりも前に、通常の人生経験を積む事の方がよっぽど修行になると思うからです。

それに不謹慎な言い方になるかも知れませんが、よほどの事情がない限り、若年層の人が出
家を意識するというのは不自然な気がするのです。
若いうちはもっと遊びに好奇心を持ち、学び、異性に興味を持つくらいの方が普通だと思う
のです。分別知や感受性が人一倍強いとか、とてつもない悩みを抱えたとかいう場合を除い
て。

しかし、こういう私は人生の荒波にまだ遭っていないから気楽なことを言ってるのかも知れ
ません。私はやはりどこにでもいる凡人なのです。(^^;
[1999年5月19日 0時51分28秒]

お名前: 観ちゃん    URL
「真の幸福とは」従来、私は「地位・名誉・金」とかでは当然違うと思っていました。
今もまだ一応そのつもりなのですが、「本当にそうなのか」白紙の状態から見る必要が
あるような気がする今日この頃なのです。

それは、「真の自由」を考えたときに、「一般的にいう自由」とは別か?という疑問が、
過去を振り返ってみて、あるからです。
確かに一般にいうような自由がなくても心が自由になれるのなら、そういう悟ったような状態
が理想的なのかもしれない。
しかし、実際にそうなれるのか?
自分の過去を見たときに、自分が理想としていた中学の頃には、
自分が追い求める「真の自由」には、「一般的にいわれてる自由」が
もしかすると重要な位置を占めていたのではないのか?
というのがあるんです。

すると「真の幸福」にもそのようなことが、あてはまるのかもしれない・・・
お金も適度にないと生活に困るようになる。
重要なことは、それに振り回されないこと、不要な苦悩をしないことだろうか?
仏教において「出家」というのがあったのは、もしかすると、それを目的にしていたのかも・・・
いずれにしても、「地位だ、名誉だ、金だ」とこだわって振り回されるのは苦痛ですね。
[1999年5月18日 7時22分16秒]

お名前: JUBILOSO    URL
観ちゃん、こんばんは。
私は今、真の幸せって従来フツーの人がイメージしてたものとは違うんじゃないかと思い始
めております。
大金持ちになりたいとか、立身出世して偉人になりたいとか、美味しいものを食い散らかし
たいとかいうのは「ちゃうなー。」という感じなのです。
可愛いあの子とラブラブになって・・・・。というのも違いますしね。
「嘘つけ。」という声がどこかから聞こえてくるような・・・。

やはり、マインドの状態のことでしょうね。鍵になるのは。
[1999年5月18日 2時28分26秒]

お名前: 観ちゃん    URL
>いずれにしましても、同じ正法を志す仲間です。宗教心がめばえた初心の頃にかえって
>今一度、それぞれがみずからの歩いてきた道をふりかえってみられてはいかがでしょう
>か?

>現在の自分はその頃よりも幸せですか?

これは今の私にとって格好の題材だ。うん!
今の自分は いつかよりも 幸せだろうか?


正法を志す・・・
私には「正法」を「志す」という意識はない。

ただ、いつか味わった幸福な感覚を再びとりもどしたい、そう願い続けていただけだった。
ただ、どんどん堕落しつづけていく自分を見ながら。


宗教心が芽生えたころ・・・
私には宗教心が芽生えた記憶はない。

小学校のころは、超能力ブームだったこともあって、
通常の人間には出来ない超能力に惹かれた。
密教念力入門という本を買って、いろいろ試してみたものだった。念力、透視、予知・・・

ノストラダムスの大予言が流行ったころ、小学6年のころだったろうか?
日常がただつらいだけで、生きていて何になるのかと思えた。
死にたいとも思ったが、そんな勇気もなかった。
そんなときに救いとなったのが、ノストラダムスの大予言Vだった。
「あなたは生き残るものの一員か?滅びるものの一員か?」

「善は生き残り、悪は滅びる」と信じて、悪から離れ、善になることをめざした。
そう思って日々を過ごした。そのことで苦しみは軽減していたようだ。
ただただひたすら善をめざし続けた。
そうするうちにどんどん状況が変わっていった。
「流されない」「精神統一」「思いやり」
「よく考えて物事の真相を観る」「悪口を言わない」「正直」
「人の気持ちになってみてみる」「自分を自分から離れて観察する」・・・

中学3年のころ、どうだったろうか?
この頃は、本当の自由を得たような感じがあった。

私の今までの体験で1度だけあった体験もこの頃だった。
胸のあたりから自分ではない声が一瞬聞こえたこと。
日本語でもない、人間が発する言葉ではないことばだった。
それは動物も赤ん坊ももっているはずのことば、
感動を得た人がそれを表現できないでいるときのようなことばだった。
その言葉の内容は・・・(ないしょ(笑))

また、ある人に会う少し前に、その人に会うことがわかるということも、この頃だった。

ところが高校に入ると、変わった。
何が変わったのだろうか?
本当の自由という感覚が消えてしまった。

ノストラダムスの遺言書という本を読んでいたが、
この本に対して疑問が起こったからだったのだろうか?
そういえば、「間違った内容の本からも真理は探求できる」ことを学んだのは
このときだった。
先生がきびしかったからだろうか?
人に強いると逆効果でわるくなることを学んだのは
このときだった。
それとも、年齢的にそういう時期だったのだろうか?

高校のとき、本屋で高橋信次さんの本をふと読んでみて、
「なぜ今までこの本を手にしなかったのだろうか?ずっと目の前にあったのに。」と悔やんだ。
なぜって?(^^;「心」という文字がなんとなく・・・

以後大学の頃まで病み付きになった。
宗教に対する疑問があわられたのもこの時だったが、宗教というものは共通点がある。
いろんな宗教は、勧誘というものを熱心にする。

おふだを首にかけて手をかざす所の熱心な人は、強引にぼくを信者にしようとしたが、
次の日、ぼくを直接勧誘した人も手伝ってくれて、そのおふだを返した。
そのおふだの料金2万円は払っていない。

そういえば、大学のときに入ったサークル「アルタ」は、親鸞会という会に
つながっていたサークルだった。そのことを知ったのは入った後だったが、結局
勉強が忙しかったのと、考えが合わないのとで、数ヶ月後やめた。

広島に来て、カルチャーセンターの人がこのあたり熱心に勧誘に来るのだが、
宗教なのか学習するところなのかよくわからない。
ビデオ見て勉強するには良いのかもしれないけど・・・
ただ勧誘の仕方が宗教っぽい。「アンケートに答えてください」からはじまる。
ビルに連れて行かれると姓名判断をする。
で、入会に拒否するとしつこく理論をこねくりまわしてせまってくる。
相手は女性なのだが、あんまり感情的に熱心にすすまれても・・・(^^;
今度、霊能者を招待するときには、またさそっていただこうかな。(^^)

新約聖書を読むきっかけになったのは、エホバの証人の人が来るようになってからだった。
無料で聖書をくださるということだったけど、自分のお金で買いたいというのと、
エホバの証人というグループの外のものがほしいという気持ちから、
わかりやすそうで薄いものを買った。
聖書を本当に読んだのはこのときだった。高校の図書館で見たときは意味不明だったから。

なんか、話しがはずれているな。(^^;
で、ぼくも人に高橋信次さんの本を薦めたけど、結局だれも読まなかったみたい。
宗教・思想とはこんなものだろうか?

ぼくが熱心に読んだのは数年間で、次第に熱は薄れていった。
代わりに読んだのは原始仏典だったろうか?

高橋信次さんに関する本で、「高橋信次さんの霊は消滅した」というのがあったが、
衝撃を感じた後、「そんなことはないだろう」「まぁわかんないや」ということで、
以後あまり読んでいない。

また、「〜霊言集」というのが書店に並びはじめ、「すごい!!」と思い、読みあさった。
10次元の階層や、いろんなことがズバリと書いてあり、何冊か買った。
そしてついに、高橋信次さんの霊が登場した。
「高橋信次さんはこんな話し方をするのかぁ」と思いながら読んでいたが、ある日、
「これからは八正道をやめて四正道です」といった感じのことが書いてあったのを見て、
えっ?と思った。八正道は苦しみを取り除くためのミクロ的な「方法」である。
なのになぜ、マクロ的な結果を言うのか?これは偽者か?!
それから、持っていた本を古本屋に売った。
その数年後、「大川隆法霊言集」という感じの本を本屋で見た。
その本には、大川隆法さんの霊言集に関する矛盾が多く載っていた。
ぼくが特に興味を持ったのは、ノストラダムスの霊言集に誤訳の予言詩が載っていたという
部分だった。なぜなら引用元と思われるノストラダムスの大予言Vにその訳があることを、
既に自分で訳して知っていたので。

また、修行に熱心な宗教の本もあったが、「〜界の霊が修行の足を引っ張る」という
文章を見て、「〜界ならそれはないはず」と思った。

最近では、本屋で数年前に出版された、著者が未来を予言している本を見たが、
はずれているのになぜ今も堂々と活動しているのか不思議に思った。

また、話しがそれている・・・
さて、本題の、「今の自分は幸せか」ということであるが、
どうだろう?
知恵が増えた分、何でもよくわかるようになったが、
しかし、物事を見る目や、認識・把握は落ちている。
自由になるには、物事を良く把握できていることや、
いらないことを不安に思わないことが必要ではないか?
実際は、いつのまにか不安の種を探し回り、くよくよしている。
見ないでおびえ、ないものにおびえている。(ん〜なんじゃそりゃ)
自分がとりもどしたいと思っているものは何か?それは昔への憧れ・思い込みではないのか?
でも確かに大切なものを持っていた。
[1999年5月17日 23時48分15秒]


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