記事タイトル:自然法則から倫理道徳を導けるか 



お名前: 観ちゃん    URL
★てんとうむしさんへ

はい。私のほうも疲れ気味で、気が向いたときにしか書いていないので・・・(^^ゞ
[1999年8月18日 23時2分58秒]

お名前: てんとうむし   
観ちゃんさんへ

続き書きたいのですが、いま、きーまさんのところへの書き込みなどで
停滞しています。また、そのうち書き込みますので、よろしくお願いします。
[1999年8月18日 10時42分31秒]

お名前: 観ちゃん    URL
>「八正道(格律)をつうじて、それが普遍的法則となることを君が同時に
>意志できるようなそういう八正道(正しい行為)のみ行為せよ」
>とみてみると面白くありませんか?

ソクラテスが国家での裁きに従った理由の1つも、そのような理由からだったような
気がします。
八正道(8つの聖なる道)と格律との関係はピンとイメージがわかないので
何とも言えませんです。(^^ゞ

>かれは、道徳法則と自然法則を分けているのは、自然科学がまだ、発達して
>きていない時代であり、同じ「法則」ということで自然法則から導けるのでは、
>ないかと思ったりするのですが、・・・よくわかりません。
>どう思われますか?

自然法則からそのまま導くことができるかどうかは、私にもわかりません。
ヒントにはなるようですね。
高橋信次さんは、物理法則(自然界の法則)から道徳的な法則を導いているみたいですね。

>でも、彼が「実践理性批判」でしめくくった
>「繰り返し時間をかけて考えれば考えるほど、いつも新たに、
>ますます、強い感嘆と畏敬で心を満たすもの二つある。
>わが上なる星空と、わが内なる道徳法則」
>を読むと自然法則(星空)と道徳法則との意識は、
>すばらしいものがあるな・・・と思うのですけども。

私も眼が良かったころは・・・(^^;
[1999年8月12日 2時9分1秒]

お名前: てんとうむし   
観ちゃんさん
概念分けいいですね、分かりやすくなります。
また、ちょっと考えてみます。

カント、好きな人なんですね。
私も最近、すこし興味を持ちはじめています。
彼の内容は、むずかしいというのが定評のようですが、だれかの
本でそれは、理性、悟性などと、日本人の翻訳者がむずかしく
したせいだという方がいて、本来は、分かりやすくなっているという
ので、そうかもしれないなんで思っています。
原本に当たらなくとも入門書でもいいんじゃないかと思って
バッハやモーツアルトもその当時のいろいろな入門書を読んで
新しい知識を吸収し、楽想などを練っていたみたいですが
そういう気分でとにかく、カントを自分のレベルで
勉強してみています。

八正道を行うことは、カントのいう道徳法則に従うことになるのかとか、
ブッタさまの八正道と比較して考えていくと、面白いのではないかと
思っています。

「実践理性批判」でいっている内容が八正道にかなうことが大事だと
同じに見えるところがあります。

定言命法の内容は、
「格律(行為を規定する主観的原理)を通じて、その格律が普遍的法則
となることを君が同時に意志できるような、そういう格律に従って
のみ行為せよ」
ということらしいですが、
「八正道(格律)をつうじて、それが普遍的法則となることを君が同時に
意志できるようなそういう八正道(正しい行為)のみ行為せよ」
とみてみると面白くありませんか?

かれは、道徳法則と自然法則を分けているのは、自然科学がまだ、発達して
きていない時代であり、同じ「法則」ということで自然法則から導けるのでは、
ないかと思ったりするのですが、・・・よくわかりません。
どう思われますか?

でも、彼が「実践理性批判」でしめくくった
「繰り返し時間をかけて考えれば考えるほど、いつも新たに、
ますます、強い感嘆と畏敬で心を満たすもの二つある。
わが上なる星空と、わが内なる道徳法則」
を読むと自然法則(星空)と道徳法則との意識は、
すばらしいものがあるな・・・と思うのですけども。

>JUBILOSOさん
まだ、興味のあること書いてみますのでいろいろ教えて下さい。 
[1999年8月9日 9時39分15秒]

お名前: 観ちゃん    URL
あちらのページではJIについてのことを含んでいて、なんとなく書きにくかったので、
私も(も?)強引にこっちに書きました。(^^;

カントについての記述を見ると、「高校の頃勉強したなぁ」と懐かしく感じます。(^^)
「そうそう、そんなことが教科書に書いてあった」と。
当時大好きだった人物です。

倫理学というと・・・
私が倫理を習ったのは、高校の1年のときと大学の教養過程のときなのですが、
(高校3年のとき受験で倫理を受けることに決めたけど、倫理科の先生はいなかった。)
授業中は、先生が独り言のように一人しゃべっていて、学生は眠っている、それから、
先生の話しの内容は、チンプンカンプンで、「本当に先生は知って言っているのだろうか?」と
思ってしまいました。
[1999年8月6日 16時8分59秒]

お名前: JUBILOSO   
てんとうむしさん、観ちゃん、こんばんは。
かなりお話が進んでますね。管理人としてどうお話に入っていこうかな?と考えています。

カントですね。カントは「もし○○の目的を欲するならば、それに相応しい行為をせよ。」
という判断のことを仮言命法と呼び、それは非道徳的な判断だとしたのでしたね。
一方、行為の結果を考慮せず、いかなる場合でも「汝成すべし。」と命じる無条件形式の
ことを定言命法とし、「人間の自由とは定言命法に従うこと、換言すれば道徳的判断に基
づいて行為することをいう。」とされました。
この世界は自然法則で縛られている一方で、人間はそれとは無関係に自由意志を持てると
いう存在でもあります。
現象世界が因果法則に従っている中で、人間は「無条件に○○をせよ。」という道徳的命
令の内なる声を聞くことも出来、これに自由意志をもって従うことが人間の尊厳であると
カントはしたのでしたね。
しかし、これは精神レベルが低ければ低いほど難問になってきますね。

できるだけ簡単に書こうと思ったらこんな文章になっちゃいました。(でも、カントの導
入にはこの位が丁度いいかも知れないです。)((((((^_^;

カントは大陸合理論の理性を重んじつつ、イギリス経験論の要素も世界の認識のためには
不可欠と考えました。
人間の認識はまず経験から始まりますが、その経験を整理しているのは理性と悟性である
とカントは考えたのでした。
また、認識は受動的能力たる感性からもたらされた対象を能動的な悟性の能力によって思
惟することで成立するともしました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
感性によって与えられたものが悟性的思惟のカテゴリーを通じて理解されるということです。

(何だか別スレッド「事実判断と価値判断について考えよう」にリンクしそうなお話です。)
[1999年8月6日 1時1分56秒]

お名前: 観ちゃん    URL
1.肉体維持等のために仕組まれている法則に従う人間。
2.得られた知識や、知恵により「道徳法則」に従う人間。良心の人。
3.事実をよく把握していて、知恵あり、何物にも縛られない人。道徳法則にさえも。

ですね。(^^;
↓強引に書いたから、何言いたいのか、わかりづらいですね。(^^;;
[1999年8月5日 0時47分3秒]

お名前: 観ちゃん    URL
私の勝手な解釈ですが、
いくつかに概念を分けてみます。

1.『自然の法則』
>たとえば王様に「偽りの証言をせよ、さもないと殺す。」といわれた
>例で、「殺されたくない、生きたい」という気持ちは、自然な衝動に
>従うことであり、自然の法則にとらわれている。
>人間は、この衝動から解放されることはできないが、

2.『道徳法則』
>この場合でも、「うそはついては、いけない。真実を語るべきだ」という
>声が心の奥で聞こえてくるだろう。この声を意識する限りにおいて
>自然の必然性を超えている。この「〜すべし」と呼びかける何者かが
>「道徳法則」なのである。

3.『叡智の法則』
>自然法則によって規定された現象の世界、必然の世界とは別に
>「叡智の法則」といえるものが存在し、人間が自然の必然性を超えて
>それに応答できるということ、すなわち、自由であることが
>道徳法則が存在することの証である。

ここでいう「自然の法則」というのは、衝動に従うだけの状態。衝動。
ここでいう「道徳法則」というのは、「こうしたほうがよい」という知恵。良心の声。
ここでいう「叡智の法則」というのは、叡智を持つ存在があり、そこから得られる法則。
得られた「道徳法則」。

衝動に従うだけの混沌とした状態では、混乱・荒廃します。
その混乱・荒廃を回避する知識・知恵があり、私たちには良心として起こります。
その知恵・知識は、聖書などによって、キリストの知恵として入手でき、
また、国家・社会から社会秩序を守る法律として入手でき、
人々や自分の経験から経験則として入手できます。

その法則に従うとき、
大抵は、その因果として、「自由」を得られることになります。
ただ、現実を超えて事実を無視して妄信的ににその知識にこだわりすぎたりする時、
その因果として「自由」を失うことになります。

私の今思う人間の姿は、
1.知識、知恵により「道徳法則」に従う人間。良心の人。
2.事実をよく把握していて、知恵あり、何物にも縛られない人。道徳法則にさえも。
です。(私って偽善者だなぁ。(^^;)
[1999年8月5日 0時22分52秒]

お名前: てんとうむし   
高橋信次氏は、ブッタさまの転生でした、カントもそうです。
ですので、「人間の心と行いの法則」というのは、
同じ事をいっているのかもしれないと考えてみるのも面白いかもしれません。
[1999年8月2日 10時59分0秒]

お名前: てんとうむし   
やはり、わたしとしては、パヌエル様がおっしゃっている

「・・・その美しく、整えられた宇宙の秩序と法則を破壊するものからは
すべて手を引き、お互いにに戒めあうくらいの良心がなければなりません。」

この良心は、やはり、「道徳法則」としてとらえてみたいです。
自然法則を捉えていくことで自分が共存共栄していくことが
必然であるという確信がでてくると・・・
[1999年8月2日 2時37分31秒]

お名前: てんとうむし   
観ちゃんさんの「道徳的法則」というのが気になっていまして、
少しカントの「道徳法則」について勉強してみています・・・

カントは、自然法則と道徳法則はべつにあることをどうも述べているようですね。
どなたか、カントについて詳しい方いらっしゃいますか?

たとえば王様に「偽りの証言をせよ、さもないと殺す。」といわれた
例で、「殺されたくない、生きたい」という気持ちは、自然な衝動に
従うことであり、自然の法則にとらわれている。
人間は、この衝動から解放されることはできないが、
この場合でも、「うそはついては、いけない。真実を語るべきだ」という
声が心の奥で聞こえてくるだろう。この声を意識する限りにおいて
自然の必然性を超えている。この「〜すべし」と呼びかける何者かが
「道徳法則」なのである。
自然法則によって規定された現象の世界、必然の世界とは別に
「叡智の法則」といえるものが存在し、人間が自然の必然性を超えて
それに応答できるということ、すなわち、自由であることが
道徳法則が存在することの証である。

----と、いうことらしいのですが・・・
わたしは、この「人間が自然の必然性を超えてそれに応答できるということ」
これが、<人間>の自然の姿だと思いたいのですが・・・
そうすると・・・、カントの自然の概念をもう少し広げればいいのかも・・
どうなんでしょうか・・・いまだ、考え中ですが・・・

なにか書いて下さる方おられたら、お願いします。
[1999年8月2日 2時23分21秒]

お名前: てんとうむし   
「科学者は宇宙の構造、仕組みの精緻であること、その神秘なまでの秩序に
触れて何ら感動を呼び覚まされることはないのでしょうか。心を打たれる
ところはないのでしょうか。その感動が生き生きと波打っているならば、
その美しく、整えられた宇宙の秩序と法則を破壊するものからは
すべて手を引き、お互いにに戒めあうくらいの良心がなければなりません。」

パヌエル様のこの発言は、自然法則を捉えていく段階で、出てこなければ
ならない倫理観を示唆していると思います。
[1999年7月20日 1時19分41秒]

お名前: てんとうむし   
私も、じつは、高橋信次氏の
「大自然の法則と人間の心と行いの法則が調和された道をいう」
という捉え方は、正しいと思います。

私の場合、高橋氏から、正法を学び、天上シリーズにであったわけですが、
高橋氏の頃から、正法の概念は、変わっていません。
天上シリーズで、再び学んでも同じ解釈と読みとれました。
種々の情報は、変わっても正法の概念は、同じでした。

ただ、さらに、ちょっと色々考えています。
本来は、宗教と科学がひとつの出所から出ているとして考えてみますと、
自然法則を考えていく上で当然、自分とその法則との関係がでてくるはずで
そこに倫理的な面の捉え方が発生してくるのでは、ないかと考えています。
(異星人のUFO同乗記などを調べてみても宗教は、存在していないのに
道徳観が養われているのをみてもそう感じます。)

現代の例ですと、地球の上で人間が生活しているのは、
自然法則に従順でなければ生活していけないことがわかります。
地球が廻っていることやそのために起きている気象条件など
また、自然連鎖などにに則して行かねば生活は、成り立ちません。
そうすると、それを研究し、捉えていく時点で、人間としてのどう生きたら
いいのかという問題が個人そして、集団にでてきます。ここに
倫理の発生をみます。

「大自然の法則と人間の心と行いの法則が調和」というのは、
本来は、自然法則から、心と行いの法則が導かれ、自然に調和していく段階を経る
ように思うのです。
ところが、地球のこの文明では、宗教が存在していて、倫理道徳、心の持ち方
を宗教が担当してきました。
(ここには、サタンなどの遠大な策略を感じることがあります。
つまり、心の問題、道徳性を人類に早く身につけさせる方法としては、優れてい
ながら、しかし、操れる両面を持たせた「宗教」という方法として・・・)、

つまり、自然法則から導かれるというより、すでにこころの捉え方のよい規範が
策略であろうが、「宗教の方法」で、でているので「自然法則と倫理道徳」
の調和をとなえる方が、目指すところは、同じでもあり、現状では、人類には、
分かりやすいので、調和を示唆しているのではないかと考えてみています。

今後、たとえ、科学技術研究の細かい研究であっても科学者は、つねにその技術が
何の法則を元にしているのか、発見した法則とさらにニュートンがいっていた
そのさらに先にある深淵な法則をとらえ、倫理道徳まで論じていかなければ科学者
としての資格はないと思います。
[1999年7月16日 2時40分30秒]

お名前: JUBILOSO    URL
てんとうむしさん、観ちゃん、こんばんは。
「自然法則から倫理道徳を導けるか。」ですね。難しい課題に管理人は頭を抱えていますが、
科学上の合理性と精神をもつ存在との螺旋的な発展こそが正法の道を指すように思えてなりま
せん。
自然の法則に沿った形で科学上の合理性を追うことは科学性の発展にとって不可欠です。しか
しそれだけでは我思う精神の存在が置いていかれてしまう恐れがあります。最悪の場合は精神
の存在の否定、破壊の方向性を持つことも有り得ます。
真の科学の発展はそれを行う精神との止揚なくしては実現できません。
高橋信次先生の「大自然の法則と人間の心と行いの法則が調和された道をいう」というご発言
は正しいと思います。
[1999年7月14日 1時53分19秒]

お名前: 観ちゃん    URL
こんにちは。
私には質問の答えがまったくわからず、説明はできないのですが、
あまり関係のない意見だけ書かせてください。(^^;
私は、合わせてというよりも、法則にのっとったものを正法と言うのではないか?
と思います。「正法」とかの言葉の定義にもよるのでしょうが・・(^^;

昔、私は「道理」には「科学的法則」と「道徳的法則」とがあると考えていたのですが、
どうもこれは両方とも「科学的(な)法則」なのではないのかと今は思われるのです。

物理法則や様々な科学的な法則では、「こうなると、こうなる」とあります。
そしてそういった法則に「〜の法則」とか名前が付いていたりします。
さらにそれらの法則を利用して、科学文明というものが発達しているわけです。
人の道にも「こうなると、こうなる」という法則があり、
それにのっとることで、幸せになったり人間的に向上すると言えます。

一方は、科学的な視点で考察して、物質的な部分を扱ったもの、
一方は、科学的な視点で考察して、生き方的な部分を扱ったもの、
といえると思います。
[1999年7月14日 0時48分42秒]

お名前: てんとうむし   
大宇宙・大自然法則と律法をあわせて正法と
天上シリーズでは、説明していますが、合わせてということは、
どういうことでしょうか。
さらに詳しく説明できる方がいらしたら書いてみて下さい。

<参考>
高橋信次氏のときには、
「大自然の法則と人間の心と行いの法則が調和された道をいう」
とありました。
[1999年7月12日 14時42分48秒]


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