記事タイトル:事実判断と価値判断について考えよう 



お名前: てんとうむし   
ターボ(マリン)さんへ

私の下記にある文で気を悪くしないでくださいね。
神の概念やその後に書かれたものを(別欄で)さっと拝見すると
いまの受け身的なニューエイジの内容に近いと思ったので・・・
でも、まだ、じっくり読んではいないのです。
これから、読んで、ターボ(マリン)さんのほうで
「対話」するのに差し支えなければ、思うところ書き込んでみたいですね。
[1999年8月16日 12時43分16秒]

お名前: てんとうむし   
ロジュさん
コメントありがとう。

ところで、別項で、元神奈川の集い協力会員の方が投稿してきていますが
ロジュさんなりになにか言いたいことあるんじゃない?
その方の読んでると大分、捉え方がちがっています、なんだか、
ちょっと捉え方がちがうんですねー。
ニューエイジに近くなっている・・・
でも、せっかくJUBILOSOさんがお話されているのに
ロジュさんけしかけると迷惑をかけてしまうかな・・・
[1999年8月13日 4時5分42秒]

お名前: ロジュ   
てんとうむしさんへ

了解いたしました。
実は、これまでの内容で目的は果たせました。

私の下記の投稿で、一部言いすぎてる点がありましたことを、
お詫び致します。

また、この希望ある当掲示板が、「天への背反者の集い」にならぬよう
関係者の皆さん方のご努力を期待したいと思います。

失礼いたしました。
重大な問題がない限り、もう出てきませんのでご安心ください。
[1999年8月12日 19時29分3秒]

お名前: てんとうむし   
ロジュさん

ここらで一区切りにしましょう。
ロジュさんのお気持ちは、充分わかりました。

私が裁かれるとしても死んだときですから、そのときに
私の考え方、正法の伝え方がまずかったことは、わかるでしょうから
それでいいのです。

ロジュさんがロジュさんなりに正法を説くように
私には、私のやり方があります。
千乃先生に対するとらえかたもはっきりしています。

しかし、ロジュさんが意見がちがっても色々書いてくれたので
ここへきて読んで頂いた方は、
事実判断と価値判断のちがいなど意識され、色々考える
きっかけになったかもしれませんね。
私の知り合いも、登場は、しませんが、やはり、正法を学んだかたで
大分考えたということでした。
その人は、事実判断の気を付けなければならない点を指摘してくれて
それは、なかなかうかがっていて参考になりました。

事実判断と価値判断は倫理を勉強していて、自分には、
インスピレーションがきたので書いてみたわけです。そして、
他の方は、どう思っているか、また、他の方の参考になるかもしれないという
ことで書いてもみたわけです。
[1999年8月12日 1時21分47秒]

お名前: ロジュ   
てんとうむしさんへ

下記投稿の補足を致します。

『信者にありもしない「スカラー波攻撃妄想」を植え付け誤導することが、
社会の迷惑になっているという認識くらいはもってほしいと思います。』
↑
これは、正法に疑問を感じて正法の集いから離脱し、それでも、
千乃様を崇拝しているすべての方々に向けた発言だとお考えください。
千乃様はご病気なので、責任は問えないと私は考えています。

『千乃様は信者にだまされるほど感のにぶいかたではありませんよ。』
      ↑これは、「勘のにぶいかたではありませんよ」の誤りですね。(^_^;)

てんとうむしさんへ

別に支持はしてないのですが、「セントラルサン」の霊?メッセージを少し
引用してみます。(今、見つけたばかりの文です)

『皆さん方の価値観でいえば、人のために尽くし、相手が喜んでくれたら
自分は良い仕事をし、相手が喜んでくれなかったら自分は良い仕事をしなかった。
そう思っている人がたくさんいます。でも大元の方からすれば、そんな価値観は
まったく当てはまりません。実際には地球が望んでいること、宇宙が望んでいること
にいかに合っているかどうか。まずはこれが大きな判断基準になります。
いかに相手が不満を覚え、不快感を感じたとしても、地球が必要と思っている場合、
日本を解放させるために終身雇用や年功序列を壊そうとした場合、
これは一人ひとり演じている人はつらいと思うかもしれませんが、
地球はそこから大きな喜びを感じていきます。
大元の方は常に地球という観点、宇宙という観点から物事を考え、
一人ひとりをそこに導いていきます。でも皆さん方はあくまでもそこで演じている
人間であるために、人間的な観点から判断をしていきます。・・・』

セントラルサンのメッセージは、方便が多く使われたり、正法からズレる内容も
かなり含まれるため全面的に受け入れたりはしませんが、私を啓蒙してくれる部分が多い
のも事実で、いつも参考にさせて頂いております。

さて、てんとうむしさん、この引用の内容、これこそが、
私がてんとうむしさんに答えて欲しかったことなのです。

このメッセージを書いた、自称”宇宙からきた生命体”は、
正法の心を知っている優れた存在だと思います。敬意を表さずにはいられません。
この善霊は、私が求める通りの答をお出しになっています。

神の意志、宇宙の意志、すなわち、「理性が要求するもの」を的確に感じることから、
正確な判断基準が確立されるのです。
そこから個々を導かねばならないのです。

ご参考になれば、幸いです。
[1999年8月12日 1時0分26秒]

お名前: ロジュ   
てんとうむしさんへ

再度コメントします。

>申し上げておきますが、「正しい判断基準」はもっていますよ。

では、どういうものか、言葉でご説明できますか。
説明できなければ、客観的な基準をもっているとは言えません。
正しいとは、小学生のいう「正しさ」ではなく、「正法的な正しさ」のことです。

>ねぇ、ロジュさん、もっと、優しく書いていただけませんか。

千乃様がサヨクに暖かい言葉で説得するしょうか?
これと同じです。
私はてんとうむしさんが「過去の正法者」を名乗っている以上、
発言には一般人以上の責任があると考えます。

「正法を歪めることが天においては最高レベルの罪になる」これを思い出してください。
今のてんとうむしさんは、千乃正法を歪める発言をしています。
てんとうむしさんが「千乃正法を支持しない」という立場を明確にして、
意見を言う分には、問題はないのです。それなら、なにも言いません。

てんとうむしさんが、千乃様を支持しつつ非正法的意見を述べると
天のこれまでのお働きに泥をぬることになります。

私は、これに、大きな義憤を覚えるのです。
千乃様も、てんとうむしさんのことを知れば、喜ばれないばかりか、
必ず私と同じ義憤をもつことでしょう。
それがわかりませんか?

正法と無関係なもの、あるいは発言に影響力のない者が、
「価値判断は危険だ」といっても、それは許されます。
私も暖かい言葉をかけることができます。

でも、てんとうむしさんのように、まっとうなことをいっているよう
な印象を与えつつ、正法でないものを正法であるかのように錯覚させる
行動は、大変、千乃正法にとっては危険なものなのです。

今のてんとうむしさんは、事実上、天の教えに背反しているのと
同じです。正法の教えを歪め、読者を天から引き離しています。

であれば、わたしは、千乃様が背反者に接したように、
てんとうむしさんに接しなければなりません。

ここで、千乃正法の伝授者の名のもと、あるいは、それに準じたものとして、
なされた発言は、大きな責任を伴うことを再確認してください。
場合によっては裁きを受けることもあるという気持ちで書き込んで
ほしいのです。

>私への落胆ではなく、千乃先生のことであらゆる手だてをうっていただけないで
>しょうか。本当は、これがまず第一にやることです。
>HPとか、私のようなどうでもいい人をなんだかんだいっているのでなく・・・
>私は、それができず、自分の弱さ、もどかしさを感じながら、
>ここへ参加しています。

てんとうむしさんは、私に「千乃様に力を集中し、ネット上にでてくるな」
といっていますが、これこそ、悪霊やサヨクの喜ぶことですね。
こういうところが許せないのです。

私のHPには、「新しい教科書をつくる会」などから、いまでも賛同の声が
届いています。決して、収穫がゼロではなかったと思っています。

千乃様を助けられないと分かっていながら、人に「助けに行け」とはなんて
無責任な言い方でしょう。
どうして、そういう無責任なことがいえるのでしょう。
わたしにはそんなひどいことは言えません。

これは、サリンの入った池でおぼれてる赤ちゃんを見て、
「おれはこのスーツを汚したくないからおまえが飛び込んで助けろ!」
といってるのと同様に残酷な言い方です。
てんとうむしさんの裏の一面なのでしょう。

社会からみれば、私が千乃様にかかわるより、
HPで「赤批判」「宗教批判」してほうが、より有用なのです。

私のHPで、朝日的考えが間違いだと気づいた方が、少しではありますが増えました。
私が千乃様にかかわっていたら、それもできなかったでしょう。
ここでも、また、てんとうむしさんは、社会の正常化と逆方向
に進む意見を述べています。

てんとうむしさんの意見が、仮に「神の言葉」というタイトルで
天に権威を借りて発せられた霊言ならば、私は容赦なく
「邪霊によるもの」という判断を下すことになるでしょう。

>先生のことをほっておいたら、それこそ、反省をしらない者、心の汚れたる者です。

千乃様は、今では、新興宗教の教祖状態ですから、私にとっては、
批判すべき対象です。
ただ、かつてのお働きを勘案して、あえて、批判をしないでいるだけなのです。

信者にありもしない「スカラー波攻撃妄想」を植え付け誤導することが、
社会の迷惑になっているという認識くらいはもってほしいと思います。


>先生を騙した者

千乃様は信者にだまされるほど感のにぶいかたではありませんよ。
これは、千乃様の力量に対する侮辱です。
「スカラー攻撃論」「被害妄想」という病気を除けば、
恐ろしいくらい正確な判断の下せるお方です。
この口うるさい私がそう思うのだから、本物でしょう。(^o^)
だますだまされたの問題ではなく、回復不可能な病気なのです。

>ロジュさん、あまり旅ばかり出かけていると男はつらいよの
>虎さんみたいになってしまいますよ。(冗談)
旅にでないと、なんかいつも怒ってる性格異常者だと思われかねません
からね。(^o^) 
掲示板の雰囲気も壊したくありませんし・・・

ある掲示板では怒り、ある掲示板では笑い話を書いて楽しむ・・・
そういう使い分けをしてネット上をさまよっております。(^-^)

では、千乃正法をどうか正しくお伝えください。
どうか、正法を自己流に歪めて、天が悲しむ内容と融合しないでください。
心よりお願い申し上げます。
[1999年8月11日 20時44分5秒]

お名前: てんとうむし   
>「反省をしらない者、心の汚れたる者は、これからの新時代を生きていくことは
できない」とする天上界メッセージを思い出してください。
なぜ、消滅が行われるか、その意義もご再考ください。

>悪人に厳しく接してこそ、悪の悪たる性質が万人に理解でき、
悪が社会から駆逐されていくのです。
----------------------------
先生のことをほっておいたら、それこそ、反省をしらない者、心の汚れたる者
です。ロジュさんは、まず、先生のために行動していただかないと・・・
先生を騙した者、先生の周りで悪を行っている者に厳しくして
いただかないとならないですね。

> 私は、また、旅に出ます。(^-^)
ねがわくば、てんとうむしさんが、正法の理念を正しく体得されますよう
心から願ってやみません。ありがとうございました。
----------------------------
体得しているか、していないかで、接していただくのではなく、
ロジュさんは体得されているのだと思いますが、
互いに何かをつかんだり、お互いにうれしい気持ちになったり、
そういうお互いが成長していけるお話をしたいですね。
私は、まだ、体得していないので、あっち、こっちへ向かいながら
軌道修正していきたいと思います。

ロジュさん、あまり旅ばかり出かけていると
男はつらいよの虎さんみたいになってしまいますよ。(冗談)
[1999年8月11日 12時12分51秒]

お名前: てんとうむし   
ロジュさん

辞書の意味や、他の人の意見を載せるのは、できるだけ
客観的に物事を見たいからです。自分が観念的になるのを注意しているからです。
それに国語事典は、すばらしものだと思っています。
お互いの共通のところの意味を確認できるのですから。
正法は、観念的であってはまずいと思います。それを避けたいのです。
それくらいわかりませんですか。

また、わたしの今までのものでも
人の書いたものを鵜呑みにはしてません。
「神との対話」論争でもその本を鵜呑みには、していませんでしたよ。
倫理の教科書に書いてある事実判断、価値判断も考えている状況を
お伝えしながら論じてるじゃありませんか。

それから、私が正しくて、ロジュさんが正しくないということを
論じてるんじゃないんですよ。
何かを見つけていこうという姿勢なんです。
「帰納的手法によって、演繹すべき「原則=正しい価値観」を見つけていく。」とい
ことだって、賛同したし、また、価値判断のとらえかただって、わかってきた
と申し上げていますよ。もともと全面否定なんて申し上げていなかったですが
ロジュさんがそうだとおっしゃっていろいろ、書いてくれたので、さらに
捉えなおしまたし。

しかし・・・相対的価値=神意だなんて申し上げていませんよ。
わからないですね。こういう書き方は・・・
<とらえるべきもの>と<その方法>をごちゃごちゃにしているとしか
思えないですね、こういう書き方は・・・

申し上げておきますが、「正しい判断基準」はもっていますよ。
そういうことは、すでにお互いにもっていると確認しているところから
論じているんでは、ないんですか・・・
正法の概念でとらえたものです、判断基準は・・・そして、そこから具体的に
しめされた道徳の内容です。
まず、この捉え方があって、いろいろ論じているのです。
そして、つけ加えておきますが、わかっていることでもあえて、疑問を投げかけて
いきます。それは、人間は、いちど理解したからといって身に付くものでは
ないと考えているからです。捉え直しを繰り返していくなかに判断の基準は、
存在していると思っているからです。
ロジュさんは、「最後の審判」ですか?正しい<価値>判断基準は?

ねぇ、ロジュさん、もっと、優しく書いていただけませんか。
なんか、読んでいるとちょっと違うんですよ、書き方が・・・
こちらも、強く書かないといけなくなってくる。
「最後の審判」で開眼し、使命を感じ、この世を憂いておられるなら、
私への落胆ではなく、千乃先生のことであらゆる手だてをうっていただけないで
しょうか。本当は、これがまず第一にやることです。
HPとか、私のようなどうでもいい人をなんだかんだいっているのでなく・・・
私は、それができず、自分の弱さ、もどかしさを感じながら、ここへ参加しています。
[1999年8月11日 11時39分28秒]

お名前: ロジュ   
てんとうむしさんへ

やはり、前回の投稿でも私の真意はつたわらなかったようですね。(T_T)
もう一度だけ、私の見解を述べてみます。

まず、てんとうむしさんの大きな問題点の一つは、辞書で真理を知ろうという態度に
あります。「辞書でこうかいてあるから」「有名人がそう言うから」そういう言葉を
よく耳にします。

しかし、人生上の問題を考える時は、
そういうものを鵜呑みにするのではなく、人は常に
「辞書ではこう書いてあるが本当にそうなのだろうか」
「あの学者はああ言っているが本当にそうなのだろうか」
と疑問を持ち、自分の頭で考えてみる必要があります。

まして、国語辞典に書いてあることを論拠に「人間の生き方」を論じる
とういのは、教祖の言うことを鵜呑みにしてそれに盲目的に従う新興宗教
信者とそう変わりはありません。

あることが正しいか否かは、純粋に、いわゆる「神意」に沿うか否かではんだん
されるべきものであり、「神意」を正しく理解できる度合いこそが、その者の
賢明さの度合いに等しいのです。

「神意」を相対的価値として見下す人間には、到底、あるものの「善」「悪」
はわからないことになります。
そこで、そういう人は、
辞書や著者の肩書き、教祖の超能力度などの表面的な要素から、
判断を下すというくせがついていきます。そして、ふらふらして確固とした
判断のできない人間像がつくられていくのです。
絶対的価値に懐疑的になることは、正法否定・神否定の思想です。

>「演繹」となるものをあたえられて、それをそのままうけ入れるのでは、
>教祖が絶対だという価値観をもち、

「森羅万象が互いに互いを最も成長させあう状況=善」などの正しい判断基準を
もっていたら、にせ教祖が「ポアは正しい」と言ってもだまされないのです。

てんとうむしさんのように、正しい確固たる価値判断基準がないと、逆に「神との対話」
はよい、「悪魔を愛することも大切だ」といふうにすぐ誤導されてしまい、
天から離れて、誤った人生を送る可能性が高くなります。
故に、
てんとうむしさんの「価値判断はほどほどに」というご意見は、
人を迷妄へいざなう内容であり、天上界への挑戦であると私には写るのです。
なぜ、「正しい判断基準を持とう」という千乃正法が理解できないのでしょうか。
「正しい判断基準を持とう」、これが、すべての出発点であるべきです。

>天に反論するけれど、天がそれに対しておっしゃったら絶対に受け入れない
>ということではないですよ、私の姿勢は・・・そしたら、考えるんです。
>「天だから、正しいだろう」という価値観は、もたないように気を付けながら・・・

「天だから、正しいだろう」は、「辞書だから正しいだろう」「医者が言ってるから
意味がある」と思うのと同じく、望ましいことではありません。
でも、てんとうむしさんは、一体、なにを基準にして、それが正しいか否かを
判断するのですか。(^-^)

>また、金でも、大震災のとき、パンがなくなったときには、金の価値は、
>零になることもある。
森田医師は、私が知る限り、昔は、神経症患者に仕事をさせて意識を別のところにもって
いくという森田療法でしられていました。
それからしばらくしてからですよ、「仏教」「執着」云々と言い出し、
仏教の教えが神経症の治療にも役立つという考えを述べたのは。
森田氏の人生観の根底には、神経症治療というものが深く関与していることは否定
できないのです。表面的には、神経症とにからみのない文章でも、神経症治療の
過程で培ったものが大きい価値観ですね。 

「パン」「金」・・・確かに相対的価値です。
ひとはこの相対的価値を絶対だと誤ることも事実です。
しかし、これだけでは、「絶対価値は重要ではない」を証明できません。
いくら森田医師でも、「仏教や倫理、道徳、相対的なものだから、従う
必要はない」とは言わないでしょう。(^o^)
行間を読めば、森田医師のいう「価値は相対的」という理論は、
俗世間で言われている「価値がある物」に限局した内容だとわかるはずです。

>ここで事実を見ていないのは、
>「正法者をくだらんと思う人はどんなに説得してももう死ぬまで天上界の
>メッセージを賞賛することはない場合がほとんど」の表現のところです。

では、渋谷のチーマー100人を説得して、彼らの何人が、死ぬまでに、
天上界の心に沿った考えを自然にもてるようになるか、実験してみてください。

みずから、正法の集いに集まった者でさえ、正法の根本が分からない者が多かった
のに、どうして「正法?くだらん!」と言っていたチーマーが、ぞくぞくと
「天上界は高尚だ」というのでしょう。
そりゃ、100人に2くらいは、ヒットするでしょう。
可能性は、ゼロではありません。それは認めます。
でも、それは、まれなことなのです。

「もう死ぬまで天上界のメッセージを賞賛することはない場合がほとんど」
が事実であることは、経験より予想がつきます。

てんとうむしさんが、
渋谷のチーマー100人を説得して、20人以上に「天上界の教えは高尚だ」と
言わせることができたら、私の間違いをみとめましょう。

>笹川氏を出してもまともに取り合わない。これは、どうみても
>価値観で判断されているわけです。なるほどと思いました。
>つまりですね、あらゆる問題を、取り上げてもお話ができないということですね。

わたしは、「エホバの証人はすばらしい」とか、「オウムはすばらしい」という話し
は、考える価値はないと思っています。
そういうこととおなじだとお考えください。

>>「言ってもわからない人とは無縁になるのが天の望むところ
>> です」
--------------------------
>これ、ロジュさん、教理のように捉えていませんよね・・・
>天が私たちにそうおっしゃっていて覚醒をうながしているのであって、
>人間側が機械的にそうせよ、ということでは、ないのは、ご承知ですよね?

↑これは、てんとうむしさんの都合のよい解釈です。
「反省をしらない者、心の汚れたる者は、これからの新時代を生きていくことはできない」
とする天上界メッセージを思い出してください。
なぜ、消滅が行われるか、その意義もご再考ください。

>「なんだか、 善人だけの選民意識につながるような気がして、
>ちょっとこわいです。悪人も人間だから罪を罰せずに暖かくみまもろう」
>というところが短絡です。

私は「極端に言えば」と書きました。これは極端な例です。
でも、てんとうむしさんにご自分の誤りに気づいてもらうには、
これくらい短絡しないと無理だと判断してやってることなのです。
人を見て法を説けです。
ここまで、問題を単純化してもまだ分かってもらえないので、
ややがっかりです。

また、これは、一種のたとえ表現ですから、言葉の裏を
感じ取ってほしいわけです。
表面だけ読んで「短絡」とするのではなく、この表現に隠された裏の
真意まで見抜いて欲しいのです。

>刑事がその姿勢を持っていなければ犯罪者をつかまえてそのあと、
>ただもののように裁きますか?犯罪を犯していても色々な犯罪の形が場合が
>あることを判断し、情をかけたりできるのは、広い人間愛が存在しているからでしょう?
で、情状酌量して、釈放したら、また、殺人を犯したというケースもありますね。
正しい価値判断に基づかない「人類愛」ほど、迷惑で、愚かなものはありません。
わたしは、てんとうむしさんにそこを知って欲しいのです。

「情状酌量」百も承知です。でも、それは、反省して、
自己の向上を真剣に考える人だけに与えられる特権です。

てんとうむしさんのおっしゃる「今は反省していなくても
50年後に反省するかもしれないから、ぜんぜん反省していない人でも
見捨ててはいけない」といった考えでは、社会がますます堕落するばかりであり、
多くの人を堕落させることにつながっていく、そう気づいて欲しいのです。

悪人に厳しく接してこそ、悪の悪たる性質が万人に理解でき、
悪が社会から駆逐されていくのです。

私は、また、旅に出ます。(^-^)
ねがわくば、てんとうむしさんが、正法の理念を正しく体得されますよう
心から願ってやみません。ありがとうございました。
[1999年8月10日 19時58分30秒]

お名前: てんとうむし   
ロジュさん
おまたせしました。

すこし、振り返ってみますと・・・
価値判断、事実判断については、倫理の教科書でその及ぶ例として、
価値判断=哲学、事実判断=科学
というのをまず知ったわけですが、教科書では、説明だけですから、どちらが
どうだということは、ないのですが、これを知り、なるほど、宗教や哲学では、
起きている問題の解決が見えなかったりするのはこのためか、つまり、
価値でみているからか、と考えたのです。
それで、現実をみていく事実判断をとりあげました。しかし、価値判断の
とらえかたは、自分が意識していなくてもやっているなということがはっきり
してきました。ですので、おそらく、どちらも大切だが、自分としては、
物事の解決を考えて行くときには、事実判断を主体にしていくのが良い方向だ
ということですね。これは、結局、メッセージにもありますが、正法が科学で
ある理由とおなじ姿勢のようなきがします。


それで、私は、あまり難しく書いていただくとわからないので、おっしゃること
には答えられそうなところだけ考えを入れてみます。

>>宗教と同じになってしまうように思います。
------------------
これは、内容についてということでは、なく人間側の「姿勢」についてお伝え
したかったのです。
「演繹」となるものをあたえられて、それをそのままうけ入れるのでは、
教祖が絶対だという価値観をもち、その教理を守っていこうとするのと同じで
はないだろうかということを考えたので。
「帰納的手法によって、演繹すべき「原則=正しい価値観」を見つけていく。」
この姿勢であれば良いと思うのです。この捉え方は、すばらしいですね。


>これだけは疑うことができない確固たる正しい価値が基本にある点で、他の宗教
の価値判断とは一線を画しています。
--------------------------
価値判断の性質は、おなじもののようなきがします。
そう、わたしが問題にしているのは、その性質なんです。なにを価値判断するかでは、
なく、その価値でみる姿勢は、どうだろうということでした。
ここもはっきりしてきました。
でも、いま、書きましたように人は、自然に価値判断していると思いますので
それを意識しながらどのような価値をみているかをチェックしながら考えて
いけば、いいのでしょう。


>  私がどういえば、てんとうむしさんの固まってしまった価値観を矯正でき
るでしょうか。
--------------------
固まっていますか。そういうつもりは、ないんですが、考え中で・・・
「天がそう断定しても天に反論します。」というのは、価値観が固まっている
からですか・・・・・?!
人生のいろいろなところで心というのは、磨かれると思うんですが、
老人になってようやく人の気持ちが判るようになる人とか、じっさいに周りの人を
みたらわかると思うのですが?犯罪者が刑務所に入って自分を知るということも
あると思いますし、それが人間模様じゃないでしょうか・・・・
現実に死ぬまで人の心がどうなるかわからないので、天に反論すると申し
上げたのです。
それに価値判断自体は、人間に備わった行為だと、判りました。ですから、
否定しません。
自然な行為だと思いますから、価値観と意識していないでいろいろ判断したり、
考えていたりするのでしょうね。「天に反論」もロジュさんから、みて固まって
いるとおっしゃるなら、気をつけたいですね。天に反論するけれど、天がそれに
対しておっしゃったら絶対に受け入れないということではないですよ、
私の姿勢は・・・そしたら、考えるんです。「天だから、正しいだろう」という
価値観は、もたないように気を付けながら・・・


>「大人になっても天上界のメッセージをくだらんと思う人は、どんなに説得し
てももう死ぬまで天上界のメッセージを賞賛することはない場合がほとんど」
-----------------------------
ここで事実を見ていないのは、
「どんなに説得してももう死ぬまで天上界のメッセージを賞賛することはない
場合がほとんど」の表現のところです。

「ほとんど」の多くの人を見れないし、実際「死ぬまで天上界のメッセージを
賞賛することはない」とどうして決められるのでしょう。こう決めつけるのが
現実的ではないと思います。「大人になっても天上界のメッセージをくだらん」
と言う人がいても「死ぬ」までの間のことを断定はできないというのが現実的と
らえかたではないですか?きわめて常識的なことです。

>ある意味、てんとうむしさんは、事実判断を無視してどこかで得た価値判断を
押し通していると言えますから、新興宗教的な発想をしているともいえなくも
ないでしょう。
------------------------
いくら、今考え中と書いても、こちらも表現も、断定的ですが、真意を探って
くれる姿勢はなく、すぐこのように判断されるのは、ちょっとやりきれない
ですね・・・私も悪いんですが・・・
私からみると、全く逆で、ロジュさんの過激な反応が価値判断主体のみに見えま
すね・・・
なるほど、事実判断と価値判断の違いが私には、理解できつつあるので今までの
ロジュさんの私への対し方が見えてきました。
ほら、私が「神との対話」の色々な部分に疑問をもったり関心したりの分析を
書いていくとその内容よりももう固定して見ていましたでしょう・・・
笹川氏を出してもまともに取り合わない。これは、どうみても価値観で判断され
ているわけです。なるほどと思いました。
つまりですね、あらゆる問題を、取り上げてもお話ができないということですね。
事実をまず見ようという姿勢が欲しいんですがその前に自分の価値観がついて
くるので事実をどうだろうかと客観的にみていくことができないということです。
新興宗教の欠陥は、承知しているので、違うでしょう。


>「言ってもわからない人とは無縁になるのが
       天の望むところです」
--------------------------
これ、ロジュさん、教理のように捉えていませんよね・・・
天が私たちにそうおっしゃっていて覚醒をうながしているのであって、
人間側が機械的にそうせよ、ということでは、ないのは、ご承知ですよね?


>「犯罪者は悪い人だという判断で人と接していくと、どうなりますか? 
判る時期に来ていない人を安易にさばくことになりますし、なんだか、 
善人だけの選民意識につながるような気がして、ちょっとこわいです。
悪人も人間だから罪を罰せずに暖かくみまもろう」と言ってるように 聞こえるのです。
「神との対話」の影響を感じます。
-------------------------
善と悪がでてきましたね。
このようには、申し上げるつもりは、ありませんね。
「なんだか、 善人だけの選民意識につながるような気がして、ちょっと
こわいです。悪人も人間だから罪を罰せずに暖かくみまもろう」
というところが短絡です。

これは、以前、ロジュさんが旅立つまえにもお話ししましたが、つまり、
人類愛、人間愛、地球に住んでいる人間としての容認というかそういう
心の姿勢ですよ。例えば
刑事がその姿勢を持っていなければ犯罪者をつかまえてそのあと、ただもの
のように裁きますか?
犯罪を犯していても色々な犯罪の形が場合があることを判断し、情をかけたりで
きるのは、広い人間愛が存在しているからでしょう?個々の問題にうつれば、
「普通」(自然な)の価値判断をしながら、その犯罪をみていくでしょうね・・・

「悪い人」は、「悪い」にきまっています。
いつもこんがらかるけれども天のおっしゃっている裁く対象である、「どうしょ
うもない人間」がいるということは、心得ていますよ。しかし、安易に天の判断を
自分の価値観にしては、いけないと思っています。
私は、当然の常識から、考えていて、善、悪もふつうにとらえています。善悪の
意識は、希薄ではありません。
ロジュさんの立場が安易ではないとおっしゃるなら、それでいいのです。


>「森羅万象が互いに互いを最も成長させあう状況=善」を絶対的価値として 
問題はあるでしょうか。「理性的で客観的な絶対概念」の存在に気づいてほし
いと思います。
 絶対的価値がすべからく「おもいこみ」につながると考えるのこそ、思い込み
というものです。
-----------------------------------------
絶対的価値ね、考えてみたいですね、森田さんの言葉も紹介したのであって、
一考の価値(!)ありと申し上げたので、断定は、しているつもりは、ない
のですが、「絶対」は、ね、どうも・・・絶対的・価値という表現自体が矛盾し
ていませんか。辞書で調べてみたら・・・。価値は、相対的なものですから・・・

抽象的なことばは、わかりずらい・・・
「理性的で客観的な絶対概念」って事実判断からのものじゃないんですか、
事実判断は多くの人が納得できるものということなのですから・・・
価値判断というのは、それぞれの「基準」があってなされることなんですし、
客観性は、薄くなるし、絶対もおかしいな・・・・
でも、この価値判断の「基準」が絶対ということになると・・・・・とらえて
いるところはおそらく、同じなんですよね・・・わたしは、事実判断から、
よく判らない表現だけれども「理性的で客観的な絶対概念」ですか、
こういうものに気づいていくということでしょうか・・・

>  てんとうむしさんが、
「森羅万象が互いに互いを最も成長させあう状況=悪」と考える人がいても
いいではないか、と言っているように聞こえるのです。
 私がどういう意味で原則的価値というものを捉えているかを分かって
欲しいのです。
-----------------------------------
そうじゃなくて、いては、いけないと私も思います。ただ、「現実」にそういう
人がいることは、あるでしょう? それは、とらえていく、それが大切ですよね。
「原則的価値」、考えてみましょう・・・でも、
むずかしいですよね・・・これも、
「原則」:大部分の場合にあてはまる基本的な法則、本則・・・の価値・・・
普通に使う価値観は、理解していますが・・・
前のほうで、ロジュさん、原則(=正しい価値)とおっしゃっていますが、
「正しい価値的価値」・・・・うーん、むずかしい・・・
「普通に使っている程度の価値観」と同じ事ではないのか・・・でも
「正しい価値」というのであれば、納得します。「大部分の場合にあてはまる
基本的な法則のような価値」ですね、こうなるとしかし、価値といわないで違う
表現のほうがいいんでは、ないのでしょうか・・・?


>しかし、神経症患者でもないかつての千乃正法者が、価値の全面否定を行う
のは、 如何なものでしょうか。
-------------------------------
森田正馬氏は、神経症患者だから、
「絶対的に一定したもののように思い違いしやすい、その考え方から、種々の
思想の誤謬となり、また、強迫観念ともなる」
とおっしゃったのではないのです。

「人生は調和である」というところの相対性という項目で述べている内容です。
「およそ、価値観は、抽象的な観念であるから、「時は金成り」といったにしても、
怠惰の惰眠・熟睡時間と、事業家・学者の霊感刹那の時間と、けっしてこれを
抽象的な観念に当てはめることは、できないのである。また、金でも、大震災の
とき、パンがなくなったときには、金の価値は、零になることもある。
 このように価値は、常に必ず相対的である。これを絶対的に一定したものの
ように思い違いやすいから、その考え方から、種々の思想の誤謬となり、また、
強迫観念ともなるのである。・・・略・・・」
で相対的であるととらえていくことをいっているのです。
彼の考え方がさきにあって、神経精神病の病理を考えているのです。

価値の意味は、「人間の生活において、それを好ましい(有用な)ものとし
てうけいれ、精神的・物質的に充足を感じさせる程度。」というものですね。
価値判断は、「何かの価値について、それぞれの<基準>からなされる判断」
という意味。
ここに相対的なものということが見て取れます。
価値判断自体は、否定すべきものでは、ないということは理解しました。
[1999年8月10日 2時54分4秒]

お名前: ロジュ   
みなさん、こんばんは。(^-^)/

てんとうむしさんへ
>人間が帰納的に天の法へ近づくのが自然の姿だが、

個々の事象から真理を導き出すことも当然必要で、正法の帰納法的側面を完全否定
するわけではないのですが、
「森羅万象が互いに互いを最も成長させあう状況=善」などと捉え、それを原則とし、
その原則(正法=真理)に沿うか否かによって、個々の価値判断を
しようというのが、正法の柱なのです。
「帰納的手法によって、演繹すべき「原則=正しい価値観」を見つけていく。」
という意味において、てんとうむしさんのご意見は正当性をもつことになるでしょう。

>宗教と同じになってしまうように思います。

「新興宗教」は教祖の根拠のないでたらめな価値を信者に多く植え付けるのに対し、
千乃正法は、これだけは疑うことができない確固たる正しい価値であるところの
「森羅万象が互いに互いを最も成長させあう状況=善」を原則的な価値とし、
ここから個々を演繹する(神の心を感じて実行するとはこれをさします)ことを
求めるものです。

これだけは疑うことができない確固たる正しい価値が基本にある点で、
他の宗教の価値判断とは一線を画しています。

>>「大人になっても天上界のメッセージの崇高さがわからない人はどんなに
>>説得してももう死ぬまでわからないままであるケースがほとんどである」
>悪いですけども、わたしは、そうは、思いません。
>たとえ、天がそう断定しても天に反論します。

正法をくだらんと思う人は、価値判断を変える必要があります。
てんとうむしさんもご自分で下記でいってますよ、「価値判断の矯正は、
難しいのではないかと思います・・・」って。(^-^)

価値観の矯正の難しさをたとえで言いますと、
てんとうむしさんに、
「大人になっても天上界のメッセージをくだらんと思う人は、どんなに
説得してももう死ぬまで天上界のメッセージを賞賛することはない場合がほとんど」
という私の説をナットクさせるくらいに難しいのです。
私がどういえば、てんとうむしさんの固まってしまった価値観を矯正できるでしょうか。
もし、その方法があれば、ぜひ、教えてください。(^_^)

また、「大人になっても天上界のメッセージをくだらんと思う人は、どんなに
説得してももう死ぬまで天上界のメッセージを賞賛することはない場合がほとんど」
という私の考えは、てんとうむしさんの好きな事実の描写だと言ってよいでしょう。
これが現実ではありませんか。

ある意味、てんとうむしさんは、事実判断を無視してどこかで得た価値判断を
押し通していると言えますから、新興宗教的な発想をしているとも
いえなくもないでしょう。

>「判らない人は一生わからない」という判断で
>人と接していくと、どうなりますか?

なぜ、過去、天が「言ってもわからない人とは無縁になるのが
天の望むところです」とメッセージしたか、考えてください。
(わからない人とは、いくら努力して訴えてもわからない人のことです。)
(「冷たい心と暖かい心」のメッセージです)

極端な例を出せば、私には、てんとうむしさんが、
「犯罪者は悪い人だという判断で人と接していくと、どうなりますか?
判る時期に来ていない人を安易にさばくことになりますし、なんだか、
善人だけの選民意識につながるような気がして、ちょっとこわいです。
悪人も人間だから罪を罰せずに暖かくみまもろう」と言ってるように
聞こえるのです。
「神との対話」の影響を感じます。

>価値は、絶対的価値などとして、思いこんでしまう欠陥があると思いませんか?
「森羅万象が互いに互いを最も成長させあう状況=善」を絶対的価値として
問題はあるでしょうか。
「理性的で客観的な絶対概念」の存在に気づいてほしいと思います。
絶対的価値がすべからく「おもいこみ」につながると考えるのこそ、
思い込みというものです。

>価値判断は、人に自然にそなわったものであり、
>それを矯正したら自由に考えることができなくなるような
>気がしますので。
わたしには、てんとうむしさんが、
他人の迷惑になる人に、「森羅万象が互いに互いを最も成長させあう状況=善」
だという価値観を押し付けるのがまずいと、言っているように聞こえるのです。
てんとうむしさんが、
「森羅万象が互いに互いを最も成長させあう状況=悪」と考える人がいても
いいではないか、と言っているように聞こえるのです。
私がどういう意味で原則的価値というものを捉えているかを分かって
欲しいのです。

>森田療法の森田正馬さんも「事実唯真」ということをおしゃっていますが、
>彼も価値は、「絶対的に一定したもののように思い違いしやすい、
>その考え方から、種々の思想の誤謬となり、また、強迫観念ともなる」と
>おっしゃっています。これは、臨床医のみた人間の姿ですから、
>一考はあると思います。

「絶対的に一定したもののように思い違いしやすい価値」は、当然、あります。
しかし、神経症患者でもないかつての千乃正法者が、価値の全面否定を行うのは、
如何なものでしょうか。


JUBILOSOさんへ
>「価値判断の背景(バックボーン)に真理がある。」という捉え方です。
これこそ、演繹の神髄ですね。(^-^)

>個々の音のピッチを完全に独立した形でしかも楽器の力を借りずに正確に
>かぎ分ける絶対音感は、絶対的な基準を真理として脳が育まれていった時に
>生まれてくると私は考えています。
私が幼い子供たちの正法教育が急務であるとする理由はここにあります!

>私はその真なるものを消化した上での実践、経験は重要かつ価値あるものと
>思っております。しかし、有用な経験は血肉にはなりますが、それイコール
>真理ではないですね。
おっしゃるとおりです。

>私は「わかっちゃいるけどやめられない。」というのもあると思います。
わたしは、こういうひとを「わかってる人」に分類します。
そうしないと、この世に「分かってる人」が誰もいなくなったりして。。。(^_^;)
「わかっちゃいるけどやめられない人」は、大変有望な部類に入るのでは
ないでしょうか。

>正法を存続・発展させるか、あるいは雲散霧消させてしまうかは事実判断の捉え方に
>的確さあるか否かにかかっています。
>事実判断を他に委ねてしまった場合、私達は後継者問題や現千乃正法が
>かかえている問題の解決など到底出来なくなることでしょう。

前回、私がいいたかったのは、
「JUBILOSOさ〜ん!判断を、JI誌に委ねてしまい、自分の頭で
かんがえることを忘れてはいませんかぁ?
言ってることとやってることが別では???」だったのです。
[1999年8月4日 21時15分41秒]

お名前: てんとうむし   
JUBILOSOさんへ
色々書いていただいてありがとう。
難しそうで、私に理解できるかどうか・・・

>私がここで語っておりますのは、「真理を価値判断で捉える。」というよりも、
「価値判断の背景(バックボーン)に真理がある。」という捉え方です。
-------------------------
そうすると、背景の真理は、事実判断から出てきているものでしょうか?
ここが是非、教えていただきたいところです。事実判断と、価値判断を分けて
とらえることで、自分のなかでは、真理をとらえやすくなったと思っているの
ですが、JUBILOSOさんの場合は、真理は、どういう判断で
とらえていますか?

例にだしていただいたものも万人が納得するものですよね、とすると、
事実判断ということですか?
[1999年8月4日 2時51分28秒]

お名前: てんとうむし   
ロジュさんへ
ご意見ありがとうございます

>原則を最初に提示する天のあり方とは異なります。
--------------------
原則を最初に提示しているのは、本来は、人間が帰納的に天の法へ近づくのが
自然の姿だが、政治状況などをみて、地球全体の危機がせまり、
待っていられない、そのために原則を提示しているように思います。
そう考えないと、宗教と同じになってしまうように思います。
教理では、ないですが・・・

>「大人になっても天上界のメッセージの崇高さがわからない人は
どんなに説得してももう死ぬまでわからないままであるケースがほとんどである」
-------------------
悪いですけども、わたしは、そうは、思いません。たとえ、天がそう断定しても
天に反論します。人間は、一生の間のそれぞれの時期で、
内面を深く考え、自分の生きる意味を問いかけることがあると思います。
正法をわかる時間は、死ぬまでの間だと思います。


>では、なぜ、天上界メッセージに背を向ける人がいる多いのでしょうか。
--------------------
できるだけ多くの人がわかるようになっているのが大切なことだと思いませんか。
やさしくても、判らない人は、います。気がつかないということもあるし、
背を向ける人もいるのが現実だとみるべきで、だから、みんなで正法を伝える
必要があるわけでしょう?
「判らない人は一生わからない」という判断で人と接していくと、どうなりますか?
判る時期に来ていない人を安易にさばくことになりますし、なんだか、宗教の
選民意識につながるような気がして、ちょっとこわいです。


>>「事実をきちんと見ていかない」から、正法の本質がわからない人がいるの
であって、
   * *
> なぜ、事実をきちんとみないのでしょう。そこが問題の本質です。
価値判断に問題があるから、みないわけです。
「価値判断を矯正しなければ、事実すら人はみれない」が真相なのであり、
 事実、事実と騒いでも、失望的な結果に終わるばかりではないでしょうか。
 価値判断から変えていく必要があるのです。
------------------------------
事実をきちんとみないのは、価値判断に問題があるからだと私も思います。
でも、そのあとがちがいます。

価値は、絶対的価値などとして、思いこんでしまう欠陥があると思いませんか?
単純に事実、事実と騒ぐわけではないのです。
価値観は、人に備わった捉え方だと思いますが、それを重視せず、事実判断から、
つまり、万人が納得せざるを得ない捉え方から、道徳もですが、真理を見ていく
べきだと思うのです。
価値判断の矯正は、難しいのではないかと思います・・・価値判断は、人に
自然にそなわったものであり、それを矯正したら自由に考えることができ
なくなるような気がしますので。

・・・うまく、お話できていませんが、事実判断をもう少し考えて見たいですね。
森田療法の森田正馬さんも「事実唯真」ということをおしゃっていますが、
彼も価値は、「絶対的に一定したもののように思い違いしやすい、その考え方から、
種々の思想の誤謬となり、また、強迫観念ともなる」とおっしゃっています。
これは、臨床医のみた人間の姿ですから、一考はあると思います。
千乃先生も悪霊に価値観のワナを利用され、はまってしまったといえるのかも・・・
[1999年8月4日 2時31分14秒]

お名前: JUBILOSO   
てんとうむしさん、ロジュさん、こんばんは。

>てんとうむしさん

私がここで語っておりますのは、「真理を価値判断で捉える。」というよりも、「価値判断
の背景(バックボーン)に真理がある。」という捉え方です。
「真理を価値判断で捉える。」はプラグマティズムの姿勢ですね。私はこの立場はとっては
いないのです。実用的なもののみが真理というのではなく、そのものがどの角度、視点で捉
えても誤りのない姿を構築しているのが真理であり、それを価値判断の骨子にするという意
味です。

たとえは良くないかも知れませんが「261.63Hzの12等分平均律の音をC(チェー)
音とし、その音を常にC音と捉え、たとえヘルツ数が近くともずれていればC音とは聞こえな
い音感の持ち主」のことを『絶対音感の持ち主』といいますが、(この場合、A音は440Hz
で固定されて聞こえています。先にこれを言うべきでした。基準ですから。)A音=440Hz
を絶対的な基準にした場合に平均律ではじきだされる音を全て相対的な音高の関係性の意味では
なく、個々の音のピッチを完全に独立した形でしかも楽器の力を借りずに正確にかぎ分ける絶対
音感は、絶対的な基準を真理として脳が育まれていった時に生まれてくると私は考えています。

で、絶対音感を持たず、しかも音痴でもないお方は通常、相対音感という感覚をお持ちです。
これは「ある基準となる音を示された時に、その音との比較で音の高さを判定する能力のこと
です。
仮に絶対音感がなくとも、カラオケのイントロを聴いて正確に出だしを歌えるのはこの相対
音感があるお陰です。ちなみに移調楽器(クラリネット、サックス、ベー管のトランペット等)
は相対音感のみあるお方の方が概して上達が早いようです。ピアノやってて絶対音感が培わ
れた女の子が吹奏楽部に入ってサックス練習してて音が固定して聞こえてしまってかえって
まごついて困ったというお話は結構聞きます。幼い頃ピアノとかせずにサッカーボール蹴っ
てた男の子の方がサックスやペットを吹くには案外いいのかも。
アメリカのジャズプレイヤーも幼少は貧しくてピアノを習ってない子達ばかりです。でも太
鼓やラッパやサッカーボールはありますからリズム感や音の配列に関する感性は育つんでし
ょうね。

「ドレミの歌」をハ長調の正確なヘルツ数で、しかも無伴奏で歌えるお方(簡単そうで出来
るお方は意外に少ないです。大抵変ロ長調やト長調等になったりしてます。)は絶対音感を
お持ちである可能性が大です。
お話が横道にそれちゃったですね。(^_^;

音楽じゃなく、数学における真とか、自然科学における原理とかはどうでしょうかね?
例えばマイナス273.15℃を下回る温度は有り得ないというのは真理ですね。
その物事について、例外なくあてはまり、それ以外には考えられないものが真理です。

>ロジュさん
確かに正法は経験論から出る法ではなく、最初に真なるものの提示があります。私はその
真なるものを消化した上での実践、経験は重要かつ価値あるものと思っております。
しかし、有用な経験は血肉にはなりますが、それイコール真理ではないですね。

>「わからない人は一生わからない」これが正法です。
私は「わかっちゃいるけどやめられない。」というのもあると思います。
天上界メッセージを読解し、感銘を受けたとしても俗世間の価値観と正法の指向性はかなりの
距離があります。
例えば与える愛の尊さを読解しても、実生活においては舌を出すのももったいないというシブ
チンはいます。
嫉妬は醜いと頭で理解してても、可愛い女の子と仲良くしている男性を見ると「損をしたな。」
という顔をしてしまう人もいます。
こういうのは、もう本人の精神の程度によってしまうものなんでしょうね。この意味において
精神レベルの高低は厳然としてあると私は思います。
崇高なものに出会えても猫に小判になる方々です。

さて、私はまだまだ正法者として未熟でありますので(いばっていうことではないです。)
(^^;悪霊の影響につきましては本当に心せねばならない立場です。
こうやってHPで活動してるんですから、なおさらミスリードしてはいけない責任があります。
確かにここ最近、気分がいろんなことに左右され過ぎてました。
もっとしっかり事象を正しく見、心を安易に揺るがすことなくHPを運営しないといけないと
反省しております。
[1999年8月4日 1時0分49秒]

お名前: ロジュ   
てんとうむしさんへ

時間がありませんので、簡潔にレスしたいと思います。

>こうおっしゃっておられますが、これは、帰納的にものごとをとらえてきての
>感動ではないかと思いますが、どうですか・・・?
「天の法」「正法」「自然の法則」「神」に従え!とする原則第一主義である点をもって、
正法あるいは天上界は、演繹的な対処を求めているといえるでしょう。

帰納的方法論とは、「皆さんが事実や経験から得たものから法をつくっていきましょう。
そして、それが、結果的に天の法になります。」というものですから、
原則を最初に提示する天のあり方とは異なります。

「神の御心に反するものは悪、調和するものが善」という、
「神=正法のありかた」から演繹して個々についての判断が求められる、
これが天上界の教えでした。

>>「わからない人は一生わからない」これが正法です。
>では、困るんです。世の中よくなりません。
>扉の高校生の章でミカエル様がやさしく、説明されていますが
>簡単な事なんです。正法というのは・・・

「わからない人は一生わからない」・・・これは、正確には、
「大人になっても天上界のメッセージの崇高さがわからない人は
どんなに説得してももう死ぬまでわからないままであるケースがほとんどである」
という意味です。
子供のうちから仕込んでおけば大丈夫であり、望みはありますよ。
子供のうちから演繹の源である正しい価値観を植え付ければよいでしょう。

>扉の高校生の章でミカエル様がやさしく、説明されていますが簡単な事なんです。

では、なぜ、天上界メッセージに背を向ける人がいる多いのでしょうか。
そんなに簡単なことなら、なぜ、正法流布がうまくいかなかったのでしょう。
正法とは心すなおな者や幼い者たちには簡単ですが、そうでない人には理解できない
しろものなのです。

>「事実をきちんと見ていかない」から、正法の本質がわからない人がいるのであって、

なぜ、事実をきちんとみないのでしょう。そこが問題の本質です。
価値判断に問題があるから、みないわけです。
「価値判断を矯正しなければ、事実すら人はみれない」が真相なのであり、
事実、事実と騒いでも、失望的な結果に終わるばかりではないでしょうか。

価値判断から変えていく必要があるのです。


JUBILOSOさんへ 
「JUBILOSOさんがTさんを後継者と考えている」ような印象を受け、
メッセージでそうなったとき、ここにいる全員がそれを真に受けて
しまうような危険性を感じましたので、急きょでてきました。
スカラー攻撃論を受け継いでいる限り、後継者でなないでしょう。

また、「1年後に地球が滅亡する」といってる霊が、「8月に千乃様がなくなる」
といっても、信頼には値しないのではないでしょうか。

膀胱癌のはなしも、「血尿」からの推測段階であるはずです。
「細胞診」等の検査も、まだ、受けていないはずです。
また、9月になったら、「天上界のエネルギーにより寿命が延びた」と
発表される可能性大です。

今のJIの天の言葉の信頼度は、かなり、低いので、
JI発表に、逐一、一喜一憂しなくてもいいと思います。(^-^)

JUBILOSOさんが一喜一憂する姿をみると、
悪霊に遊ばれているような気がして、私も悲しくなります。
JI誌は、もう、トンデモ本だと思って、
もう少し懐疑的になってみるのもよいかもしれませんよ。
[1999年8月3日 21時29分12秒]

お名前: てんとうむし   
そうですね・・・
事実を判断するのにも具体的に個々を見ていくときに
相対的な価値をみつつ判断していくこともあるし、はっきりわけるべきで
ないのかもしれません。

ただ、倫理の本で、
哲学=価値判断、科学=事実判断と読んだとき
哲学は、宇宙や人生の根本問題を研究する学問であっても、いろいろな基準で
思想を展開し、事実とは、離れて行くような気がするし、宗教はなおさら
そうですし・・・現代になり、科学的な捉え方がでてきているのでそれを
とりいれながら、哲学も研究していかなければ
ならなくなっているから、結局、価値判断は、勿論あるけれども
事実判断と分けてとらえ考える姿勢をもつとより、真実がみえてくる
とはっと思ったんですね。ここは、曖昧になりやすいところだと思ったんです。

とくに事実判断から、真理をみてとれれば、人それぞれの
勝手気ままな論ばかりで実行が伴わないようなことには、ならない気がしたんです。
[1999年8月3日 3時36分55秒]

お名前: てんとうむし   
>JUBILOSOさん

>正しい事実判断の背景には真理を根拠にした価値判断ありです。
それなくして正しい事実判断はありません。

JUBILOSOさんも事実判断の元には、真理をとらえていること
があるとここでおっしゃっていましたね。

真理を根拠にした価値判断というのをもう少し説明してもらえますか?
なにか例でお話していただけると、私のようなものには、わかりやすいので
お願いします。
[1999年8月3日 2時49分23秒]

お名前: てんとうむし   
>JUBILOSOさん

>正しい事実判断の背景には真理を根拠にした価値判断ありです。
それなくして正しい事実判断はありません。

これがまっとうな考えですよね・・・
でも、ちょっと、いろいろ、考えているので、教えて下さい。

価値判断というのは、相対的なものでは、ないかと思うのです。
価値で判断したものには、真は、ないと言えませんか?
事実を判断する基準になるものには、真理があると考えられませんか?
真理は、価値判断でとらえるものでしょうか・・・
どうもここがひっかかるんです。どう思われますか?

例えば、正しい人生(道徳)観というものは、各人が勝手、わがままなもの
ではなく、かならず万人に共通であり、
それは、人の行為の模範になるもので、また、人生向上を導くものだと
思いますが、これは、価値の判断でとらえると、万人共通、人の行為の
模範とは、ならず、それぞれの人の価値基準でちがってきてしまうような
きがします。
事実から真理を見て取ることが大切なことであり、価値の判断を
して真理は、どうもとらえにくいんです。
ロジュさんのおっしゃるように
正しい価値判断はあるようにおもうのですが、正法は、価値判断では、とらえられ
ないような気もする。(まだ、考え中ですが・・・)

先生の状態も価値判断では、事実を間違ってとらえてしまう。
後継者も天上シリーズで書かれているということに価値をおいて
いるとどこか他からでてきたときに受け入れられなくなる。
高橋氏がいい例でした。千乃先生が連絡しても取り合ってくれなかった
はずです。それは、信者なり、高橋氏に価値観ができあがってしまって
いたからではないでしょうか・・・どう思われます?
[1999年8月3日 2時36分31秒]

お名前: てんとうむし   
ロジュさん
お久しぶりです。お元気でしたか?
不快には、私は、思っていませんので、また、いろいろ教えて下さい。
価値判断、事実判断は、いま考えているところなので
色々書いて下さい。意見は、違っていても参考になりますから。

パヌエル様が
「科学者は宇宙の構造、仕組みの精緻であること、その神秘なまでの秩序に
触れて何ら感動を呼び覚まされることはないのでしょうか。心を打たれる
ところはないのでしょうか。その感動が生き生きと波打っているならば、
その美しく、整えられた宇宙の秩序と法則を破壊するものからは
すべて手を引き、お互いにに戒めあうくらいの良心がなければなりません。」

こうおっしゃっておられますが、これは、帰納的にものごとを
とらえてきての感動ではないかと思いますが、どうですか・・・?

それから、
>「わからない人は一生わからない」これが正法です。

では、困るんです。世の中よくなりません。
扉の高校生の章でミカエル様がやさしく、説明されていますが
簡単な事なんです。正法というのは・・・
「事実をきちんと見ていかない」から、正法の本質がわからない
人がいるのであって、事実を素直にみていけばパヌエル様がおっしゃっている
心の状態がでてくるはずだと思います。
[1999年8月3日 2時9分8秒]

お名前: JUBILOSO   
てんとうむしさん、こんばんは。ロジュさん、お久しぶりです。
暑くて寝苦しい日が続いてますが、お元気ですか?

>てんとうむしさん

>先生のお手伝いをされている方で、これを読まれていたら、事実判断と価値判断の
>違いを考えてみてほしいと思っています。

JI誌でこそまだ話題にはなっていませんが、当HPにはかなりの現ジェイアイの
方々がいらっしゃってるようです。ただ、毎日のアクセス数はさほどではないので
何日かおきにいらっしゃってるといったお方が多いのではないかと思われます。
(毎日じゃ電話代が馬鹿になりませんからね。)(((((((((((^_^;
演繹的姿勢で現千乃正法を見つめる作業は正法者にとって必要な頭脳訓練ですね。

価値判断の背景にあるのは揺るぎない真理であり、従来の宗教、特に新興宗教は
そもそもそこが最初からおかしくなっているから価値判断という以前の問題にな
ってしまっていると言えます。
正しい事実判断の背景には真理を根拠にした価値判断ありです。
それなくして正しい事実判断はありません。
また前のお話と重複しますが、事実判断を他に委ねるのも正法ではありません。
それは「考えることの放棄」であり、新興宗教信者の心的状態です。

>ロジュさん

ロジュさんのお話からいくと、もはや千乃先生には後継者について語られる余力や
資質が残されていないということになります。
私は実はそのことを心配しています。
高橋信次先生も最晩年におかれましてはもはや判断力が正常に保てず、実のお嬢様
を後継者にされましたが、今回も千乃先生のご健康の極限的状況(ガン発症等)か
らいっても、また近年のメッセージの状況からいっても、見通しは厳しいものがあ
ります。
私達一人一人が正法を護持実践、流布し、風化させず、天上界との真の連携を密に
し、いかなる局面を迎えようとも人類の新展開に向けて明るい未来を築きあげてい
く姿勢を忘れぬようにしたいです。
[1999年8月2日 23時19分45秒]

お名前: ロジュ   
みなさん、こんばんは。ごぶさたしてました。

さて、後継者問題がでていますが、
今の天上界メッセージが信頼に値しない内容ならば、
JIで発表される「後継者」も鵜呑みにはできませんよ。(^o^)

「2+3=8」と回答する電卓が、「後継者=xxx」と言った場合、
いったい誰がそれを信じることでしょう。
天が後継者を発表する場は、すでに失われたと考えるのが妥当です。
「スカラー理論」を受け継ぐ後継者があらわれたら、
私は批判活動を展開することになりますね!(^_-)


てんとうむしさんへ
正法は、事実判断ではなく、価値判断が大切にされます。
どういうことおわかりになるでしょうか。
事実から真実を導きだすのは帰納法であり、ある価値に基づいて個々の
価値を求めるのが演繹法ですね。
正法は演繹法です。
原則が分からなければ、絶対に天上界メッセージの崇高さは、わかりません。
事実だけで天上界メッセージの崇高さを論証することはできないのです。
「わからない人は一生わからない」これが正法です。

唯一、理性のある人だけが、天上界メッセージの崇高さに気づくことが
できます。
理性の欠如している人は、演繹することが不可能であり、自己のわかる範囲内
の事実だけで判断をくだそうとし、失敗します。
「理性が要求する正しい価値判断に基づいて、個々の事例を正しく見よう」
というのが正法ではなかったでしょうか。

原則が理解できるからこそ、演繹が可能であるからこそ、
「正法はどこへ行っても答がみつかる」のです。
どんな問題に直面しても適切な価値判断ができるのです。

>攻撃にしても「〜らしい」が「〜の攻撃だ」と判断する、断定する。
>この断定は、価値判断だと思います。
これは、あえて言えば、誤った価値判断ですね。(^_^)
誤った価値判断があるからといって、正しい価値判断まで排斥してよい理由は
ないと考えます。


てんとうむしさんはいい人で個人的に好きですよ。
てんとうむしさんや、ここのみなさんのことを思うがため、あえてレスさせて
いただきました。(^_^)
不快に思われたらすいません。
[1999年8月2日 20時48分15秒]

お名前: てんとうむし   
事実判断、それは、当然のことと思われるかもしれませんが、
天のこと、人のあり方のことを捉えたり、考えたりするとき、安易に、価値判断へ
移行してしまう人が多いと思っています。
他の宗教、思想団体の人もそうです。

以前より、私がお話している、先生のおっしゃること、
攻撃にしても「〜らしい」が「〜の攻撃だ」と判断する、断定する。
この断定は、価値判断だと思います。
「◯◯の攻撃」に価値を見いだしているのです。
あくまで事実をみていった結果の原因では、ないからです。

先生の場合も天よりの役目を与えられ、それを行う段階で
価値判断優位になってしまい、現実の事実をありのままに
とらえ考える姿勢をなくしてしまわれている。
(ご病気なんですが、病気でそれが判らなくなっているか、
判らないまま、病気になったかは、わかりませんが)

こういったことは、正法にであい、それを規範に生きていこう
とする人たちにも多く、見られる問題ではないか、と思っています。

自分が価値判断でものを見ていることが多いと思われたら、
宗教教団の信者と同じになっていることを自覚した方がよいと思うのです。
[1999年8月2日 11時24分59秒]

お名前: てんとうむし   
JUBILOSOさん

まさにおっしゃるとおりだと思います。
先生の所にいらっしゃるかたで、事実判断をできる方がたくさん、でてくると
よいのですが・・・

先生のお手伝いをされている方で、これを読まれていたら、事実判断と価値判断の
違いを考えてみてほしいと思っています。
価値を一定のものと思いやすいので、そうではないこと、相対的なものであることを
しっかり自覚すれば、ただ、先生の言動だけに判断の基準をもとめることは、
なくなってくると思いますから・・・
[1999年8月2日 1時52分55秒]

お名前: JUBILOSO    URL
てんとうむしさん、こんばんは。
事実判断を他に委ねないのは千乃正法が従来の新興宗教と一線を画している点です。
逆に言えば、それを失ったら千乃正法は一介の新興宗教に堕してしまいます。
正法を存続・発展させるか、あるいは雲散霧消させてしまうかは事実判断の捉え方
に的確さあるか否かにかかっています。
事実判断を他に委ねてしまった場合、私達は後継者問題や現千乃正法がかかえてい
る問題の解決など到底出来なくなることでしょう。
[1999年8月1日 22時3分36秒]

お名前: てんとうむし   
今期の天の伝えているものは、形而上の領域を扱っていますが
宗教とは違うものです。

天上シリーズでも宗教との違いを書いてあると思うのですが、
私は、自分に響く捉え方ができていなかったのですが、

科学=事実判断であり、
哲学(宗教)=価値判断である

ということを倫理について書いてあるテクストで読み改めてはっとなりました。

自然法則の下に天も存在しているということは、これは、事実判断に
なると思っています。
現在の科学の及ぶ範囲のなかで天の存在も、天上界の階層の位置も霊体の輪廻の問題も
説明しています。天上シリーズでのこういった発表は、事実判断で
捉えられる範囲になっています。
転生の表にしても、伝記をしらべ、前後の人の思想や、エピソードをみていき
ますと共通点が見えてきます。これは、だれでも判るものです。
事実判断できるものです。
愛と慈悲の倫理道徳の内容も特別なものではなく、歴史を勉強し
イエス、ブッタ、孔子、ソクラテス(敬称略)・・・の考えをきちんと
捉えれば判るものになっています。

宗教というのは、その教理、考えに価値をおき、事実をみていかなくなります。
ここが欠陥のところです。教祖の言うことがまた、全てになります。
価値判断をするわけです。ここには、万人がなっとくする事実判断がありません。
今ここにある現実の事実をしっかり、見なくてはいけないのに、将来についての予言
や教理の表す、楽天的な、寓意のようなものを信じてしまいます。

正法は科学であるということを天は、説明されていますが、
それは、原因とその解決方法を探していくからであるとラファエルさまが
おっしゃっていますが、これは、事実判断をしていくということだと
思います。

事実判断をしっかりとらえその上で価値を考えてみるべきだと思うのですが
どうしても事実判断をするまえに価値を見いだそうとしてしまいます。
事実判断は、多くの人が共通の捉え方のできるものです。

事実判断と価値判断をつねに意識しながら、起きた出来事や
考えをとらえていくと宗教にはまるような危険性を回避できるような
気がしています。

後継者問題にしても先生の状態にしても、まず事実判断をしてみるのは、
どうでしょうか・・・
[1999年8月1日 2時14分7秒]


TOPページに戻る

「過去ログ集へGO!」に戻る