진주성(晋州城)
三国時代から続く晋州の歴史と文化・・・・

   진주시(晋州市)は、경상남도(慶尚南道)の西に位置する都市である。
서울(ソウル)からは、高速バスで4時間弱、부산(釜山)からは高速バスで、1時間半の所要である。
時間的にも距離的にも、부산(釜山)から行くのが便利である。
부산(釜山)の地下鉄사상역(沙上駅)を下りると、目の前が、市街バスターミナルである。진주(晋州)へは、ここから、10分間隔で、高速バスが運行されている。所要時間は、1.5時間・・・。
釜山市内の中心部から、사상역(沙上駅)までは、地下鉄の乗り換えも含めて、30分くらい見なければならないから、全部で、2時間あれば、진주(晋州)の中心部に降り立つことができる。
진주(晋州)の市外バスターミナルから、진주성(晋州城)までは、市内バスで10分足らずであるが、面倒なら、タクシーを利用するのがよい。

진주성(晋州城)には、出入り門がいくつかあるが、촉석문(轟石門)(写真 右)から入るのがよい、と思う。

촉석문(轟石門)の入口で入場のチケットを買い、併設されている観光案内所で、案内パンフレットをもらう。日本語の説明書もある。簡単な説明書だから、事前によく、調査して見学するのがよい。

진주성(晋州城)は、外敵からの侵略を防ぐために、삼국시대(三国時代)に作られた城である。
高麗末の우왕(禹王)5年(1379年)、진주목사(晋州牧使)であった김중광(金仲光)が、日本の侵略に備えて、この城を土城から石城に改修した。
更に、임진왜랑(壬辰倭乱)(文禄・慶長の役)の直後には、城の中央に、南北につながる内城が築かれた。

선조(宣祖)25年(1592年)10月、2万の豊臣軍が攻め入り、これに対して、김시민장군(金時敏将軍)率いる3800人の軍人と城民とが戦い、豊臣軍は大敗を喫した。
これが、俗に、임진왜랑(壬辰倭乱)の三大大捷(たいしょう)と言われる「진주대첩」(晋州大捷)である。
だが翌年6月、豊臣軍は10万を率いて再び侵略し、7万の民・官・軍が迎え撃ったが、結局全員が殉国した悲運の場所である。

最近になって、1972年に촉석문(轟石門)を復元したのを皮切りに、破壊された内部を順次改修整備し、2002年の공북문(拱北門)復元工事を最後に、現在の形に復元した。

この城の城郭は、総延長1,760m、高さ5〜8mで、内部には、各種多数の施設が復元されている。
ゆっくりと見学して、晋州の歴史と文化に触れることができるところである。

촉석문(轟石門)を入ると、ちょっとした広場があり、その先に、勇壮な촉석루が姿を見せてくれる( 写真 左)。
韓半島には「3대 누각(三大楼閣)」と呼ばれている三つのすばらしい楼閣がある。
「3대 누각(三大楼閣)」とは、一つは、韓国 밀양시(密陽市)にある  밀양 영남루(密陽 嶺南楼)、 二つ目は、やはり韓国の 진주시(晋州市)にある ここ진주 촉석루(晋州 轟石楼)、そして三つ目が、現在では北朝鮮の平城にある 부벽루(浮碧楼)である。

촉석루(晋州 轟石楼)は、高麗고종(高宗)28年(1241年)に創建されたものであるが、その後幾度か重建・重修が繰り返されてきた。そして、임진왜랑(壬辰倭乱)で焼失したものを、광해군(光海君)10年(1618年)に、より勇壮な楼閣に重建し国宝に指定された。しかし、1950年、6. 25동란(朝鮮戦争)で再び焼失してしまった。

1960年、진주고적보존회(晋州古跡保存会)が、市民から募金を集め、現在の楼閣が誕生したものである(写真 右右)。
正面5間、側面4間の建物である。
2階に上ると、남강(南江)の眺めがすばらしく、「嶺南第一形勝」(一番美しいという意)という扁額が掲げられている(写真 右左)。

촉석루(晋州 轟石楼)をぐるりと回って、남강(南江)に下りて行くと、의기사(義妓祠)に辿る。
지수문(指水門)(写真 左)は、その의기사(義妓祠)への入口の門である。
임진왜랑(壬辰倭乱)当時の1593年、논개(論介)という妓生が、日本の武将を抱きかえて、この下にある의암(義岩)から、남강(南江)に身を投げ、殉難した、と伝えられている。


この小さな지수문(指水門)を潜ると、すぐに의기사(義妓祠)がある(写真 右)。
むろん、논개(論介)の魂を称えるために作られた祠である。
この祠は、영조(英祖)16年(1740年)に、경상우병사(慶尚右兵使)・남덕하(南徳夏)により、はじめて創建されたものである。



しかし現在の建物は、その後、의기창렬회(義妓彰烈会)が市民の募金を募り、それにより再建されたものである。
小さな의기사(義妓祠)の中心には、논개(論介)の影像が掲げられている(写真 左)。
この前に佇むと、狭い小さな祠堂が、何か哀れで、涙を誘うものがある・・・・

小さな案内板に従って、논개(論介)が日本の武将を抱えて身を投じたと言われる남강(南江)の의암(義岩)に下りていく。


川辺には、小さな碑閣が建っている。의기논개지문(義妓論介之門)という扁額が見える。内部には、石碑が建てられている。この碑は、의암사적비(義岩事蹟碑)として、慶尚南道の文化財資料第353号に指定されている(写真 右)。
もちろん、논개(論介)の殉節という事蹟の記録に基づくものである。
논개(論介)の愛国の魂を末永く広く知らしめようと、晋州の士民たちが정식(鄭拭)の碑文を刻んだ石碑を建て、경상우병사(慶尚右兵使)・남덕하(南徳夏)(1688−1742年)が碑閣を造り、의기논개지문(義妓論介之門)という扁額を掲げたものである。

의기논개지문(義妓論介之門)の真正面にあるのが、의암(義岩)である(写真 左)。
朝鮮時代、선조(宣祖)26年(1593年)、第二次임진왜랑(壬辰倭乱)で晋州城が陥落し、晋州の7万の民・官。軍は殉難してしまった。
当時19才だった美貌の논개(論介)は、촉석루(轟石楼)で美酒に酔う日本の将軍を連れ出し、 この岩の上から、お互いに離れないように10指をからめたまま、남강(南江)に身を投げたのである。
岩の大きさは3.5mx3.3m、当時は、남강(南江)の水も豊かで流れが速く、二人は、二度と上がることができなかったという。

촉석루(轟石楼)のすぐ横に、쌍충사적비(双忠事蹟碑)が建つ小さな碑閣がある(写真 右)。
碑の高さは1.4m、幅1mほどのものであり、慶尚南道の有形文化財第3号に指定されている。
この碑は、임진왜랑(壬辰倭乱)のとき、大きな戦功を立てた성주목사(星州牧使)제말장군(諸沫将軍)と、이순신(李舜臣)を援け大きな功績をあげた제홍록장군(諸弘緑将軍)の忠義を記録した事蹟碑である。


遠い歴史の1ページに残る논개(論介)の悲しみを知るや知らぬや、남강(南江)は今、悠然とした流れで包み込んでいる。
川面に浮かぶこの模型の船は、何を見ていることだろう・・・・・(写真 左)






촉석루(轟石楼)を出て、남강(南江)を背に石段を上っていくと、広場に出る。

広場に出てから、左に続く石段を更に上ると、そこには、真新しい壇がある。
임진대첩계사순의단(壬辰大捷癸巳殉義壇)という(写真 右)。
これは、진주대첩(晋州大捷)を高く崇め、계사년(癸巳年)(1593年)に殉難した7万の民・官・軍の忠魂を慰霊するために、1987年、国乱克服の象徴として建設された壇である。


壇を後にして、再び石段を下りて、広場に戻る。
広場の左手奥の方に、二つの小さな碑閣が並んで見える。

同じような碑閣でわかりにくいが、左側が、김시민장군전공비(金時敏将軍戦功碑)(写真 左左)であり、임진왜랑(壬辰倭乱)のとき、6日間にわたった진주성(晋州城)の戦いで日本軍を撃退、殉難した충무공(忠武公)・김시민장군(金時敏将軍)の戦功が刻まれた碑閣である。慶尚南道有形文化財第1号に指定されている。

右側の碑閣は、촉석정충단비(矗石旌忠檀碑)である(写真 左右)。
임진왜랑(壬辰倭乱)のとき、第二次晋州城の戦いで殉難した삼장사(三壯士)、김천일(金千鎰)、황진(黄進)、최경회(崔慶会)の3人と、7万の民・官・軍の忠義を刻んだ碑であり、朝鮮숙종(楽宗)12年(1686年)に建てられたものである。 慶尚南道有形文化財第2号に指定されている。

広場のずっと右の方には、梵鐘が見える。
호국의 종(護国の鐘)と呼ばれるものである(写真  右)。
歴史的に진주성(晋州城)とは関係のないものだが、護国の精神を称えるため、晋州市が文化財政基金によって、1980年に制作した梵鐘である。





広場を出て、城内を西に向かって歩いていく。しばらく進むと、右手北側に大きな門が見えてくる。
これが공북문(拱北門)である(写真 左)。
大きな門で、17世紀以降描かれた진주성(晋州城)の正門である。
「공(拱)」は、手を合わせて胸まで上げて恭敬する、という意味で、「북(北)」は、王がいる北側である北斗を意味する。
2002年5月に復元されたものである。

공북문(拱北門)を入るとすぐに、右手に、大きな김시민장군 동장(金時敏将軍銅像)がある(写真 右)。
銅像は、高さ7m、面積225uという大きさである。
충문공(忠武公)・김시민장군(金時敏将軍)の護国忠節の精神を継承するために、2000年1月に建設された晋州城守護像である。




김시민장군동장(金時敏将軍銅像)のすぐ左手に、すばらしい楼閣が見えてくる。
これは、영남포정사문루(嶺南布政司門楼)あるいは、망미루(望美楼)と呼ばれる楼閣である。

東側から入ると、영남포정사문루(嶺南布政司門楼)という扁額がかかっており(写真 左左)、西側から入ると、망미루(望美楼)という扁額が掛けられている(写真 左右)。
朝鮮時代광해군(光海君)10年(1618年)の創建で、경상남도관찰사감영(慶尚南道観察舎監栄)の正門であった。また、道庁を移す前までは、道庁の正門であった。
現在は、慶尚南道文化財資料第3号に指定されている。

更に進むと北側に북장대(北将台)が見える(写真 右)。
ここは、晋州城の北側指令所で、진남루(鎮南楼)とも呼ばれた。
광해군(光海君)10年(1618年)、남이홍(南以興)が重建し、朝鮮中期を代表する다락집(高殿式楼閣)として後世の軍事建物のモチーフになった。
内城北側の一番高いところにあり、崖下の城外はもちろんのこと、城内外に布陣する城兵まで指揮できるところである。
慶尚南道文化財資料第4号に指定されている。

북장대(北将台)の反対側に立派な石段に導かれる建物がある。
청계서원(清渓書院)と言う(写真 左)。
ここに、どうして書院があるのか、いささか唐突な感がある。
”開かずの門”と呼ばれるそうであるが、中には、정신열 공(鄭臣烈)と、정천익 공(鄭天益)の位牌が祀られている。
史跡第118号に指定されている。



북장대(北将台)を見て更に進むと、すぐ西側に、포루(砲楼)が残っている(写真 右)。
晋州城を防御するための포루(砲楼)で、선조(宣祖)40年(1607年)には、内外城に12か所に設置されていた。
しかし、1969年に復元の際、この1個だけを象徴として復元したものである。

포루(砲楼)の先、左手に창렬사(彰烈祠)がある。
長い石段を上ると외삼문(外三門)があり、扁額には유중문(有重門)と書かれている(写真 下左)。

ここを潜ると、ほっとする間もなく、また急な石段を上り、내삼문(内三門)に着く(写真 左右)。
내삼문(内三門)には、전파문(傳葩門)という扁額がかかっている。



내삼문(内三門)を入ると、そこには、창렬사(彰烈祠)がある(写真 右)。
임진왜랑(壬辰倭乱)の계사년(癸巳年)(1593年)、第二次晋州城の戦いで殉難した人々の神位を祀るため、선조(宣祖)40年(1607年)に建立された사액사당(賜額祠堂)である。
内には、고종(高宗)5年(1868年)に대원군(大院君)の서원철폐령(書院撤廃令)で撤去された충민사(忠民祠)に崇められていた충무공(忠武公)・심시민장군(金時敏将軍)の神位と삼장사(三将士)を含む39の神位を祀っている。


창렬사(彰烈祠)以外の建物は、左端にある殿閣(写真 上左)、右端にある殿閣(写真 上中)、そして、右殿閣の右奥にある石碑(写真 上右)などである。
창렬사(彰烈祠)は、慶尚南道有形文化財第5号に指定されている。

その先、右手に、ひっそりと建っているのは、서문(西門)である(写真 左)。
切符売り場もないから、おそらく外部とは、つながっていないのだろうと思う。
出入りする人もなく、単に、門がある、あるいは門というより、小さな出入り口がある、という感じである。




その西門の先に見えるのが호국사(護国寺)である。
まず目に入るのは、사천왕문(四天王門)であり、월영산 호국사(月影山護国寺)という扁額が掲げられている(写真 右)。

この寺は、高麗時代に創建されたものであり、当初내성사(内城寺)と呼ばれていた。
その後、임진왜랑(壬辰倭乱)のときには、僧兵の根拠地になった。そのため、第二次晋州城の戦いで殉難した僧兵らの魂を崇めるため、호국사(護国寺)という名前で再建されたものである。

사천왕문(四天王門)のすぐ先には、대웅전(大雄殿)が見える(写真 左)。
写真でわかるように、石段の下には左右に당간지주(幢竿支柱)が見える。
規模は、正面が3間。側面が3間である。
内部には、석가삼존불죄상(釈迦三尊佛坐像)、후불탱(後佛幀)、신중탱(神衆幀)などが奉納されている。



また、대웅전(大雄殿)の横には、명부전(冥府殿)が見える。。。。(写真 右)

この호국사(護国寺)は、伝統寺院第70号に指定されている。





城内西端の一番高い場所に、서장대(西将台)がある(写真 左)。
ここは、西門の指揮所である。
여지도서(輿地圖書)によると、以前は、회룡루(回龍楼)と呼ばれ、規模は小さいが촉석루(轟石楼)と同じ다락집(高殿式楼閣)であった、と記録されている。
現在の서장대(西将台)は、篤志家서상필(徐相弼)氏によって、1934年に重建されたものである。


このあと、国立晋州博物館を経て、城を一周して、再び、촉석루(轟石楼)の前に戻ってくる。

すべてをゆっくりと見学して、2時間半から3時間の行程である。
서장대(西将台)から下を見下ろすと、남강(南江)と共に、음악분수(音楽噴水)が見える。
남강(南江)を右手に見ながら、古を思いつつ、촉석문(轟石門)に向かった。





(2011年4月)

  
 
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