밀양 영남루(密陽 嶺南楼)
밀양강(密陽江)岸にそそり立つ韓半島三大楼閣の一つ・・・・

   韓半島には、美しく壮大な楼閣が3か所あり、「3대 누각(三大楼閣)」と呼ばれている。
一つは、この韓国 밀양시(密陽市)にある 밀양 영남루(密陽 嶺南楼)、 二つ目は、やはり韓国の 진주시(晋州市)にある  진주 촉석루(晋州 轟石楼)、 そして三つ目が、現在では北朝鮮の平城にある 부벽루(浮碧楼)である。
ここでは、韓国 밀양시(密陽市)にある 밀양 영남루(密陽 嶺南楼)を紹介したいと思う。

밀양시(密陽市)は、경상남도(慶尚南道)の北東部にある小さな市である。
アクセスは、汽車で、경부선(京釜線)밀양역(密陽駅)に下車するのがよい、と思う。ここは、KTXも通っており、日に何本かは、この駅に停車する列車がある。
부산(釜山)からは、KTXで30分あまりの乗車である。
밀양역(密陽駅)は、市のはずれにあり、ひっそりと静かな場所である。駅前に立つと、左手にタクシーの乗り場があり、その横に、観光案内所がある。この観光案内所に立ち寄って、観光案内のパンフレットをもらったり、説明を聞いたりするとよい。日本語のパンフレットはあるが、日本語ができる人はいない。だが、非常に丁寧に親切に対応してくれるので、気持ちよい。

駅前から、영남루(嶺南楼)までは、バスかタクシーを利用する。それほど、遠くはないので、タクシーの利用が便利なのではないかと思う。
15分ほどで、밀양강(密陽江)の橋の向こうに、영남루(嶺南楼)の雄姿が飛び込んでくる(写真 右)。川を渡ると、右手が영남루(嶺南楼)である。

朝鮮時代後期の代表的木造建造物である영남루(嶺南楼)は、もとは신라 경덕왕(新羅 景徳王)(742−765)のとき、영남사(嶺南寺)の付属した楼閣として建築されたものと言われている。
その後、1365年 공민왕(恭愍王)のとき、밀양부사(密陽府使)김주(金湊)によって規模を拡大すべく改修され、更に、1844年、이인재부사(李寅在府使)によって、楼閣部分が現在の姿に改築された。
その美しい建物は、現在、宝物第147号に指定されている。

タクシーを降りると、目の前に、石の階段が続く。この階段を上りつめると、そこが、영남루(嶺南楼)入口の門である(写真 左)。

この門を潜ると、右手に大きな楼閣が姿を見せてくれる。
これが、밀양 영남루(密陽 嶺南楼)の雄姿である(写真 下)。

この楼閣は、いわば3つの建物が一つにつながっており、영남루(嶺南楼)本楼を中心に(写真下 中)、左側に능파각(凌波閣)(写真下 左)があり、右側に침류각(枕流閣)(写真下 右)を、それぞれ両側に従えているのが特徴である。


本楼の二階に上ると、「嶺南第一楼」と書かれた扁額がかけられている(写真下 左)。
広くて大きな楼閣は、たくさんの太い丸柱で支えられて、밀양강(密陽川)の絶壁の上に建てられている。
二階からは(写真下 中)、川辺の展望がすばらしく(写真下 右)、さすがに、韓国一を誇る楼閣に相応しいものである。


영남루(嶺南楼)を下りて、前の広場に出ると、ちょうど反対側に、천진궁(天眞宮)がある。
入口にあたる門が、萬コ門(만덕문)である(写真 右)。
この門をくぐると、その先に、천진궁(天眞宮)の小さな建物が目の前にある。 扁額には、大きく「天眞宮」と書かれている(写真 下左)。

ここには、建物の中央首座に、韓民族の始祖である단군(檀君)の影像と位牌とが祀られており(写真下 中)、その両側、東側と西側に、それぞれ、단군(檀君)からはじまる歴代の王の位牌が、一堂に祀られている(写真下 左および右)。




再び、楼閣前の広場に戻って、ちょうど、楼閣と、天眞宮の間を、まっすぐ歩いていくと、밀양아리랑(密陽アリラン)という石碑がある。
밀양(密陽)は、韓国三大アリランの一つ、밀양아리랑(密陽アリラン)を生んだ土地である。石碑の付近から、その밀양아리랑(密陽アリラン)の歌が流れて、何とも風情のあるひと時であった。

この碑の前には、右手に続く下り坂の道があり、更に石段を下ると、아랑(阿娘)の사당(祠堂)へと導いてくれる(写真 右)。

아랑사(阿娘祠)は、朝鮮王朝の명종(明宗)(1545−1567年在位)のとき、死んで純潔を全うした아랑(阿娘)伝説の主人公、아랑(阿娘)の肖像画が祀られているところである。
아랑(阿娘)は、밀양부사(密陽府使)の一人娘・윤 동옥(尹 東玉)あるいは윤 정옥(尹 貞玉)と言われている。
ある夜、彼女が영남루(嶺南楼)へ月見に行ったとき、怪漢に襲われ、死んで純潔を全うしたと伝わる伝説である。
彼女の死後、村人たちが、その死を哀悼し、사당(祠堂)を立てて、魂魄を慰労したのがはじまりである。

1930年、영남루(嶺南楼)の改修に際して、ここに정순아랑지비(貞純阿娘之碑)と비각(碑閣)とを建てて、아랑각(阿娘閣)と称したが、その後1965年、古くなった碑閣を取り壊し、新しく3間の사당(祠堂)と、正面入口の三門とを建造し、現在の아랑사(阿娘祠)となったものである。

石段を下りきって、右手に曲がると、すぐに、今度は、石段を上る。
その先に、정순문(貞純門)と書かれた正面の三門が現れる(写真 左)。


この三門を潜ると、また、短い石段を上り、その先にあるのが、아랑사(阿娘祠)である。(写真 右)
間口が3間の小さな사당(祠堂)であり、両側に、出入口が開いている。

中に入ると、中央に、아랑(阿娘)の영정(影像)と、위판(位牌)とが奉安されている。

아랑(阿娘)の영정(影像)(写真 左)は、이당(以堂)・김은호(金殷鎬)によって描かれたものである。

更に、사당(祠堂)内部の左右の壁には、2枚の絵がかけられている。
左側の壁の一枚は、아랑(阿娘)が、유모(乳母)と共に、영남루(嶺南楼)に月見に出かけて楽しんでいる絵であり(写真 下左)、右側の壁の一枚は、아랑(阿娘)が暴漢に襲われる場面の絵である。(写真 下右)



今でも、毎年、앙랑제(阿娘祭)が行われているとのことである。
この아랑사(阿娘祠)は、慶尚南道 文化財 資料 第26号 に指定されいる。

아랑사(阿娘祠)を見て、再び、来た道をアリラン石碑の前まで戻る。

今度は、石碑の前を、斜め右手に上っていくと、무봉사(舞鳳寺)である。
무봉사(舞鳳寺)は、新羅時代の5大名寺の一つ、영남사(嶺南寺)に付随する庵として、법조(法照)という高僧が創建したという伝えが あると共に、新羅の혜공왕(恵恭王)(765−780)が법조(法照)から深い불은(佛恩)を受けたことから、사람(伽藍)を作り、무봉사(舞鳳寺)とした、という伝えもある。

石段を上っていくと、すぐに、무봉사(舞鳳寺)と書かれた일주문(一柱門)に到達する(写真 左左)。
この第一の門をくぐって、更に上ると、またすぐに第二の門、무량문(無量門)がある(写真 左右)。


무량문(無量門)の先には、すぐに、대웅전(大雄殿)がある(写真 右)。 この대웅전(大雄殿)には、有名な석조여래좌상(石造如来坐像)があって、宝物第493号に指定されている(写真下 左)。
この仏像は、かつて、영남사(嶺南寺)にあったものであり、영남사(嶺南寺)が廃寺となった際、現在の무봉사(舞鳳寺)に移されて、奉安されたものと見られている。

仏像の高さは、97cm、花崗岩で作られた作風から見て、統一新羅時代の作品であるものと推定されている。
すばらしい如来像である。

무봉사(舞鳳寺)を後にして、再び、アリラン石碑の前まで戻る。

この石碑の左手には、階段があり、これを上っていくと、やがて、大きな銅像が姿を現す。
사명대사상(四溟大師像)である(写真 右)。
この銅像は、임진왜랑(壬辰倭乱)(1592〜98)時、僧侶として国難を克服した사명당송운대사(四溟堂松雲大師)(1544〜1610)の高い志を称えるため、 71年4月25日建立したものである。

この先には、博物館があるので、時間があれば、見学するとよい。

영남루(嶺南楼)は、これだけ駆け足で見学しても、2時間以上の時間がかかる。だが、もう少し、時間をかけて、じっくりと見て歩きたいものである。
ここに紹介できなかった部分も、いくつかあるので、また、別の機会に、じっくりと、見学したいと思う。
今回、訪れたのは、晩秋の10月28日の午前中・・・春の영남루(嶺南楼)も、一段とすばらしいとのことである。
帰り際に、もう一度、영남루(嶺南楼)の二階に上り、かつて、古の人々も愛でたであろう楼閣の絶景を焼き付けて、ここを後にした。



(2010年11月)

  
 
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